華蓉


 

「莫迦者が」
 翠條を詰る皇帝の声が、笑いを含んでいた。
「本当に愚かよな、そなたは。一人の女が己にとってかけがえがない、他の誰にも触れさせたくない。そういう想いを何というのか知らぬのか? 呆れてものも言えぬわ」
 隣で従者も笑っている。
 芙蓉には、何が何だか判らない。
 だがこの時、従者の一人が翠條の反対側から芙蓉に近づいた。
(何を……?)
 不審に思ったが、冬蘭は平然としている。だから、心配はいらないのだろう。
 そう信じて、されるがままでいると、従者が芙蓉を抱き起こし、「飲んで下さい。解毒剤ですから」言って芙蓉に何かを飲ませた。
 その時芙蓉は従者の顔をはっきりと見た。
  -- 麗雲。
 名を呼ぼうとしたら、そっと手で口を押さえられた。
 何も言うな、ということだろう。もしくは、皇帝と翠條のやりとりを黙って聞け、か。
「堅物だ、堅物だと思ってはいたが、まさかここまでとはな」
 皇帝の放つ悪口雑言はまだ続いている。
 流石に翠條も、不愉快そうに眉をひそめていた。当然である。あからさまに莫迦にされて、しかもその理由が判らないのだ。
 その様子にまた皇帝が溜息を付き、傍らの従者を振り返った。
「こう鈍くては、苦労の甲斐もないな。どう思う?」
 問いかけられた従者が、被りものを取って笑った。
「他人が言うのも野暮と思うておりましたが……これはもう、教えて差し上げねばらちがあかぬのではありませんか?」
 くすくすと軽い笑いを含んで答えたその人は -- 琴皇后。
 呆気にとられた芙蓉と翠條の前で、漣国の最高位に位置する夫婦は、更に笑って言葉を続ける。
「翠條、そなた、芙蓉が死んだと思った時、どんな気分になった? 背筋が凍らなかったか。目の前が暗くならなかったか?」
「芙蓉の後を追おうとしたのは何故です?」
 麗雲の腕の中で、芙蓉は首を傾げた。
 二人は何が言いたいのだろう?
 目で麗雲に問いかけても、相手はただ笑うばかりだ。
 そして、翠條は -- 皇帝と皇后の言葉をしばらく黙って聴いていた翠條が -- やがて、ぽつりぽつりと囁き始めた。
「凍りましたよ、背筋が、芙蓉が倒れた瞬間に。いいえ、体中の血が凍る気がしました。暗くもなりましたよ、目の前が。床がなくなったかとも思いました。立っていられませんでしたよ」
(翠條様……)
 息を飲む芙蓉の傍らで、翠條の告白が続く。
「芙蓉が自分達の身代わりになったと知った時、冗談ではないと思いました。芙蓉を毒味に使った陛下、あなたを、憎いと思いました。そのくらいなら私の命をくれてやる -- 本気でそう思いましたよ」
「……條様……」芙蓉の口から言葉が漏れた。
 冬蘭が頬をなめた。芙蓉を支えている麗雲が柔らかく笑った。皇帝と皇后も気付いたのだろう、ちらりと芙蓉に視線を投げて、目だけで微笑んで見せた。
 気付かないのは翠條だけだ。
「芙蓉は……あれは幸せにしてやりたかった。それなのにこんな形で死なせてしまった。だから私の命で償いにしようと思ったんです」
 絞り出すように呟いた翠條の声に、二つの声が重なった。
「嘘を言うな!」皇帝と、
「そんなのは嫌です!」芙蓉だった。
 ぴくん。
 反応した翠條が、振り向いて囁いた。
「芙蓉……? 死んだのではなかったのか?」
 何故、と翠條の口が動きかけたが、芙蓉に訊かれても判るわけがない。それに、そんなことは今の芙蓉にはどうでも良かった。
「冗談ではありません、翠條様。あなたのお命などいりません! 翠條様をお救いできるなら、わたくしの命など何度差し出したって結構なんです。それなのに……どうしてあんなことをなさろうとしたんですか!」
 口をついて出たのは盛大な苦言である。
 困った声で翠條が言った。
「だから、そなたがあんなことになって申し訳ないと……だから私の命で……」
「それが嫌だと申し上げているんです。あなたのためなら死んだっていいと思っているのに、どうしてあなたの命を頂いて、わたくしが喜ぶとお思いになるんですか!」
 言いたいだけ言い放って、芙蓉はふと我に返った。
  -- これでは、恋の告白だ。
 しまったと思ったがもう遅い。ぱあっと芙蓉の顔が赤くなった。
「私のためなら、死んでもいい……?」
 翠條は呆気にとられた顔をしている。
 皇帝、皇后、麗雲と、そして冬蘭も、そんな二人を黙って見ていた。
「芙蓉。それは私の言うことだ。そなたのためなら命などいくらでもくれてやると……私はいつもそう思ってきたのに」
「翠條様……」息を飲んだ芙蓉の側で、
「阿呆が」翠條の囁きを一言の元に皇帝が斬って捨てた。
「この期に及んでまだ気付かぬか」
「陛下。翠條殿は、陛下と違って純であられるのですよ」琴皇后がたしなめる。
「莫迦を申すな。二十九にもなって己の心にも気づけぬとは、呆れ果ててものも言えぬわ」
 うんざりしたような皇帝の口調に、今度は皇后も苦笑するばかりだ。
「……気付きましたよ」
 やっと、翠條が微笑った。
 そして、顔を上げて……麗雲に気付いた。
「そなたは、確かあの時芙蓉と共に……」
 翠條の言葉を受けて麗雲が言った。
「賀宰相様。貴家より後宮に上がられた花芙蓉なるお方、この陶麗雲が皇后陛下の命を受け毒殺いたしました」
「なっ!?」
 驚いた芙蓉と翠條に構わず、皇后が続ける。
「この者は、わたくしの放った刺客です。花芙蓉は死にました」
 更に皇帝「良いか、翠條。そなたの『侍女』はもうおらぬ。そこにいるのは、偶然にも同じ名を持つ琴皇后の姪だ」
「この娘、かねてより翠條殿に想いを寄せておりました。琴家も賀家に劣らぬ家柄、わたくしの姪ならば身分も貴殿と釣り合いましょう。娶ってやってはいただけませぬか」
 嫣然と笑った皇后に続けて、苦笑混じりに皇帝がぼやいた。
「本当はここまでしたくはなかったのだ。だから、やりすぎぬように気を付けながら芙蓉を困らせて、そなたに泣きつかせて、そうして翠條をたきつけようと思っていたのに」
 翠條が鈍いお陰で、こんな大がかりなことになってしまった。
「そなたが芙蓉を想っていることくらい、私はずっと以前から気付いていたのだが。自分のことは判らぬというのは本当のことだな」
「申し訳、ありません……」
 赤面した翠條を「謝る相手が違いますよ」と皇后がからかう。
「そうですね。……芙蓉」
 芙蓉の目をまっすぐ見据えて、翠條が言葉を紡いだ。
「芙蓉。そなたを失ったと思った時、心臓が止まるかと思った。今なら判る。命で償おうなどと言ったのは、嘘だ。私は……そなたを失って生きていたくなかったのだ。辛い思いをさせた。すまなかった。もしも許してくれるなら……私の妻になってくれないか」
 一息に言って、翠條は芙蓉の答えを待つ。
「芙蓉……?」
 頼りなげに覗き込む翠條が、何故だか芙蓉には、置き去りにされた子犬のように思えた。
 それがなんだか可愛らしくて、もう少し眺めていたいとも思ったのだけれど。
「わたくしで、よろしければ……」
 結局芙蓉は、小声でそっと囁いて -- その名の通り、花のように、微笑った。

 

 

 二人は四阿から蓮池を見ていた。
 卓上には香り高い茶。蓮の葉の隙間からのぞく水面が、陽の光を映して煌めく。
「本当にあれでよろしかったのですか? 芙蓉のことは、陛下も想っておられたのでは」
「莫迦を申すな。昔から、翠條と芙蓉が互いに想いあっているのを知っていたのだぞ。ずっと歯がゆい思いをしていたのだ。私が芙蓉を想うというなら、それこそ兄か父の心境だ」
 一人の問いに答えて、もう一人が笑った。
「それにしても皇后、そなたが協力してくれて助かった。そうでなければあの二人、いつまでたっても主と侍女のままで、私の苛立ちが募るばかりであったろうよ」
「わたくしははらはらいたしましたよ。陛下のたっての願いゆえ協力いたしましたが、わたくしの目の届かぬところで芙蓉に危害が加えられてはいないかと」
 全く、無茶なことを考える……。
「文句なら翠條に言うが良い。あれがもっと早く自分の想いに気付いていれば、私もこんな計画は企てなかったのだからな」
 琴皇后の苦情を、皇帝は笑ってかわした。
 全ては、両思いの翠條と芙蓉を夫婦にするために皇帝が仕組んだことだった。
 芙蓉を身分低いまま後宮に上げたのは、芙蓉を翠條の養女にしたのでは後々面倒だと思ったからだ。便宜上とはいえ一度『娘』となった者を、『妻』に出来るほど翠條は器用ではない。
 嫌がらせをさせたのは、芙蓉が辛い目にあっていると知れば、翠條が己の心に気付いて何かしら行動に出るだろうと思ったからだ。
 実際には思惑は外れに外れて、結果、麗雲まで引き込んで毒殺騒ぎまで仕組んでしまった。
「一国の主のなさることとも思えませんね」
 軽くにらんだ皇后に、皇帝は微笑みで返す。
「終わりよければ全てよし、ではないか?」
 あれから三ヶ月。
 芙蓉と翠條は夫婦となって幸せに暮らしている。変わったことと言えば、翠條の仏頂面が少しばかり和らいで、『冷血宰相』と呼ばれることがなくなったくらいだ。
 麗雲は、皇后仕えを降りて、今は賀家の女官となっている。芙蓉の良い友人だと、翠條が言っていた。
「そういうことに、なるのでしょうね」
 皇后が笑って木々の緑に視線を向けた。
 夏の風が、王都を吹き抜けていった。



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あとあがき(^^;)

キリ番ゲット記念小説第2弾『華蓉』です。
『モモ!』の時にも言ったような気がしますが・・・・・・疲れました(^^;)。
『モモ!』よりもキャラは少ないのに、でもって枚数も少ないのに、同じだけの時間がかかっています。行ったり来たり、書いては消し、を繰り返してしまいました。
ひとまず、書き終えて、ほっとしているのではありますが・・・。
キャラ設定希望を出して下さったみなさまのご希望に添えたかどうか、そしてこの物語がきちんと『物語』として成立しているかのどうか・・・甚だ不安です。
どうか、ご感想をお聞かせ下さいまし。
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