二
同じ頃。
王城にほど近い広壮な屋敷の一房で、一人の青年が、古い書物を繙いていた。
……否。繙いて『のみ』いた。
確かに書物は広げてはあるが、目は先程から少しも文字を追いかけていない。青年の心は、目の前の古書の内容よりも
-- 青年にとって -- 遙かに遠い場所へと飛んでいた。
(大丈夫だろうか、あれは……。慣れぬ場所で、淋しい思いをしてはいまいか。まして嫌がらせなど、受けているのではあるまいか)
いくら書物に集中しようとしても、想いは妹同然の娘へと向かってしまう。更にそれがどうしても暗い方向へと向いてしまうのでは、ゆっくり書物を楽しむ気にもなれない。
いつも見ていた明るい笑顔を思い浮かべようとしても、どうにも上手くいかないのだ。代わりに浮かんでくるのは、滅多に見せなかったはずの泣き顔ばかり。これで心配になるなと言う方が無理だろう。
(大体あの方が無茶を仰るから……)
決して口には出せない文句を心の中で呟いて、青年は特大の溜息を漏らした。
この青年、姓は賀、名は志翠、字は翠條。
白晰の、という形容詞がぴったりとあてはまる、怜悧な美貌の持ち主だった。
幼い頃より現国王の話し相手として王城に上がっていた、国王の最も親しい友人である。
と同時に、弱冠二十九才にして漣国宰相を務める重鎮でもある。その容姿に相応しい明晰な頭脳の持ち主で、十代の頃から切れ者で名高く、施政においては多少大雑把なところのある皇帝を、冷静かつ的確に補佐している。
『堅物』とは皇帝が彼をからかって言う台詞。彼にあこがれる娘達は『蒼月の君』と密かに呼んでいた。天にあって冴えて輝く、求めても手の届かぬ存在だというのだ。
「翠條が取り乱したところなど、子供の頃から見たことがない。一度で良いからお前のなりふり構わぬ姿を見てみたい」というのが、翠條と二人でいる時の皇帝の口癖である。
その翠條が、
「やれやれ……困ったものだ」
と愚痴とも自嘲ともつかぬ台詞を溜息と共に吐き出した時。
チリリ、と、閉ざした窓の外で小さく鈴の揺れる音がした。
不審に思って立ち上がった翠條が、窓を細く開ける。と、それを待っていたように、房の中に、何やら白いものが飛び込んできた。
『それ』は、驚きで声も出ない青年の目の前で軽やかに床に降り立ち、甘く一声、ニァオ、と鳴いた。
「……冬蘭」
翠條が口にしたのは、芙蓉の飼い猫と同じ名である。
実はこの賀宰相、後宮の新参者・花美人が先日まで仕えていた主、でもあったのである。
「冬蘭、お前、どうして……?」
馬車に轢かれて死んだ母親の側で鳴いていたのを、芙蓉が見つけて育てた猫である。冬蘭と名付けたのも彼女だ。そのせいか、賀家にあってさえこの猫が芙蓉の側を離れることはあまりなかった。
それが、今、帰ってきた。
己の意志で来たのか、それとも何者かに連れ出されたのか……?
現在の芙蓉の立場と置かれた状況を鑑みれば、答えは考えるまでもなく知れる。たとえ冬蘭が『己の意志で』ここに来たのであっても、そうするようにこの猫を追い立てた『誰か』がいるはずだ、と翠條は思った。
芙蓉が後宮に上がって以来、皇帝は日をおかずに彼女の元に通っていると聞く。皇帝の覚えもめでたい年若い彼女に、他の后達が嫉妬しているであろうことは想像に難くない。
相手が身分の低い芙蓉であれば、彼女達の嫉妬は、『嫌がらせ』という形で容易に表にも出るだろう。芙蓉は、表向きにはただの『市井の娘』でしかないのだから。
芙蓉を翠條の養女として --
つまり賀家を後ろ盾に後宮に上げることを、皇帝は翠條に許さなかった。
翠條にとって、芙蓉が実は『妹分』であることを知る者は、だからほとんどいない。
さしたる後ろ盾もないまま皇帝の寵愛を独占する新参者に、後宮にひしめく美女達が良い感情を抱くはずもなかった。
「お前は、大丈夫なのか、芙蓉……?」
皇帝の寵は、芙蓉には重すぎたか。やはり自分は、皇帝の我が儘を聞き入れるべきでなかったのでは……。
寵、と呟いた瞬間、何とも言いようのない想いが脳裏をかすめた。
心配げに眉をひそめた翠條の顔が、ほんの少し、蒼ざめていた。
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