華蓉


 

 房に戻った芙蓉は、眠る気にもなれぬまま椅子に座り、灯りを見つめて泣いていた。
 結局、冬蘭は見つからなかった。
 姿が見えなくなったのが昼過ぎのことだから、既にいなくなって半日近い。
「冬蘭……」
 両手を組んで呟いた。
 子裕にはああ言ったが、冬蘭が自ら好んで外に出たのでない、と芙蓉は思っていた。
 賀家にいた頃でも、冬蘭がこんなに長く芙蓉の側を離れたことはあまりなかった。ましてここは後宮。芙蓉と共にやってきたのはほんの一月前のことだ。慣れぬ場所で、また芙蓉が寂しがっているのを知っていて、側を離れる猫ではない。
 それだけに、心配だった。
 とうとう対象が猫に及んだかと。
 芙蓉が後宮に上がって一月にしかならないが、他の妃達の嫌がらせは、彼女の細い神経を参らせるのに十分すぎるほどだった。
 一番多いのが、無視。
 これは、皇后自らが、挨拶に訪れた芙蓉に対して率先してやってのけたものだから、他の妃達も右に倣えで、芙蓉はいまだにどの妃からもまともな挨拶を返してもらったことがなかった。
 次に持ち物の紛失だ。
 芙蓉が後宮に上がるに際して、皇帝は賀家が彼女の後ろ盾につくことを拒んだが、これは資金や衣装、調度の類にまで及んでいた。その代わりに、皇帝は、芙蓉の房内外の装飾を、自ら指示して整えた。
 これでは既存の妃達が気分を害する、と芙蓉は思ったが、皇帝は意に介さなかった。
 結果……案の定、というべきか、芙蓉が後宮入りして以来、毎日のように身の回りの何かが消えた。物だけではない。庭の気に入りの花までが、咲いたと思ったら折り取られた。
 犯人を特定しようにも、芙蓉には決まった侍女がおらず、後宮で手の空いた女官が代わる代わる世話をしに来るものだから、一体誰がやったのか判断することが出来ない。いや、彼女達の全員が、多かれ少なかれ『共犯』なのだ。特定したところで無駄なだけだった。
 それでも、芙蓉や冬蘭の体に危害が及ぶことだけは、一度を除いてなかった。
 たった一度 -- 芙蓉が後宮に上がって二日目、得意の琵琶を皇帝に披露したら、翌日、琵琶の弦に細い刃が仕込まれていた。
 一度ですんだのは、それを知った琴皇后が「後宮で血を流すような無粋で無様な真似は許さぬ」と冷ややかな口調で告げたからだ。芙蓉の不注意を責めたものであったろうが、これで他の后達もすくみあがってしまった。
 だから芙蓉は、その点だけは安心していたのだが……
「わたくしが……」
 甘かったか、と芙蓉は唇を噛んだ。
 まさか猫に危害が及ぶとは思わなかった。敏捷な猫を相手にするくらいなら、自分の方に矛先が向くだろうとも思っていた。
「何故、冬蘭を……」
 狙うならいっそ自分にするがいい。人間相手の方が、余程楽であろうに。
「冬蘭……」
 名を呼んで、窓を開ける。
 本当は、もうひとつ、呼びたい名前があるのだけれど、その名を口にすれば「帰りたい」と言ってしまうから -- それは自分に禁じたことだから、唇を噛んで押し殺した。
 その芙蓉の耳に、回廊を渡ってくる誰かの密やかな足音が届いた。
 ぴくり。
 細い肩が震える。
 この後宮を -- 芙蓉の房を、こんな時刻に供も連れずに訪れる者など、一人しかいない。
 皇帝その人である。
 本来なら、后達の方が呼び出されて皇帝の寝所に赴くのだが、当代の皇帝はそういう決まりごとにあまり重きを置かない。
「芙蓉」
 ひそやかな声が届く。慌てて迎えに走った。国の主を外で待たせてよい理由など(特に後宮には)ないのだ。
 開けた扉の外に、皇帝が立っていた。
「そなたの琵琶を聞きに来た」笑って言う。
「……かしこまりました」
 頷いて、芙蓉は琵琶を手に取った。
 優しい曲を好む皇帝のために故郷を思う古謡を弾きながら、芙蓉は泣きたくなっていた。
 皆は -- 他の后達も、王城で働く人々も、貴族達も……翠條も -- 芙蓉が皇帝の寵を受けているのだと思っている。后達が芙蓉にいやがらせをするのも、他の皆が芙蓉を敬う素振りを見せるのも、そのせいだ。
 だが、実際は、違う。
 芙蓉が後宮に上がって一月が経つが、皇帝が芙蓉を抱いたことは一度もない。それどころか、まともに体に触れたことすらない。ただこうして毎夜のように訪れては、琵琶を弾かせるだけなのだ。
(それなのに……)
 それなのに、どうしてこんな扱いを受けねばならぬのか。
 翠條が後宮に行ってくれと頼んだから、来たのだ。本当は、とても、とても嫌だったけれど、皇帝直々の希望だと聞いたから、断れば翠條の立場が悪くなると思った。
 兄のように慕った翠條だ。いつの間にかそれが恋に変わっていたけれど、身分違いも甚だしい。想いを殺して仕えたが、それも限界に近づいていた。だから、翠條の役に立てるなら後宮でもどこでも行こうと思った。
 納得ずくで来た場所ではあったけれど……。
 けれどこれではあんまりだ。
 寵愛を受けているわけでもないのに、后達からは恨まれる。だが、寵愛を受けていると思われているから、賀家の屋敷に逃げ帰るわけにも行かない。
 翠條のためにもそれはできない。
 帰りたい -- 帰れない。
 自分の行動一つで、万が一にも翠條の立場が悪くなるようなことがあってはならない。
(だからわたくしは、ここにいるしかないのだわ……)
 心の中でそっと呟いた時、
「辛いだろうが、辛抱おし。もう少し時間をくれたら、そなたの泣き顔を笑顔に変えてやるから」
 不思議なことを囁いて、芙蓉の頬をそっと皇帝が撫でた。



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