六
芙蓉は微睡みの中にいた。
天もなく、地もなく、ただ辺りを薄闇が包んでいる。
ふと誰かに呼ばれた気がして、意識をそちらに向けた芙蓉は、おかしな光景を目にした。
どういう訳か、翠條の房だった。翠條の寝台に、眠る自分がいた。足下には、うずくまって冬蘭。傍らに翠條がいる
-- 泣いている。
何故、と言いかけて、自分が死んだのだと思い出した。ということは、今いる自分はいわゆる『幽霊』なのだろう。
「芙蓉……芙蓉。何故そなたが死なねばならぬのだ。こんなことになるのなら、いくら陛下のたっての願いであっても聞き入れるのではなかった」
申し訳ない、と芙蓉は思った。
自分のせいで翠條を泣かせてしまった。
同時に、嬉しいとも思った。
自分のために翠條が泣いてくれる。
けれど……
(翠條様、あなたが泣いて下さるのは、わたくしがあなたにとって『妹』だからですか?)
叶うなら、それが別の理由であって欲しい。
けれど、想いは伝わらない。伝えるつもりもない。たとえ伝わっても、実る恋ではない。
宰相とその侍女では、身分違いも甚だしい。
たとえ芙蓉の想いをを翠條が受け入れてくれたとしても --
自分一人を見て欲しいと願うのは身の程を知らぬことだ。判っている。
だが、翠條の『たった一人』になりたいと望んでしまうのも事実だから……それは決して叶わないから。
だから芙蓉は、ただ翠條が泣いてくれただけで十分なのだと、思うことにした。思って、この世に別れを告げようとした。
ところが。
心残りはないのだからあの世へ行こうと思うのだが、行き方が判らない。普通、死んでも、こんなことを考えなくても良いものと思っていたのに、それがそうでもないらしい。
(何故……?)
うろたえた時、それまで静かに芙蓉の髪を撫でていた翠條が、突然懐から短剣を取り出した。
「すまなかった、芙蓉。後宮でそなたがどんな仕打ちを受けているか、私の耳にも届いていたのに、何も出来ずにに辛い思いをさせた。そればかりか、こんなことになって……。そなたには幸せになって欲しかった。それなのに……。詫びの代わりに命をやろう。私を連れて行くが良い」
囁きながら、翠條が短剣を抜く。
冗談ではない。せっかく自分が身代わりになって救った想い人の命だというのに。
(翠條様、やめて下さい! 誰か、止めて!)
必死で叫んだが、応える声はない。
何も出来ない自分が歯がゆかった。体があれば翠條を止めることも叶うだろうが、今の芙蓉にそれは出来ない。
どういう訳か、冬蘭は知らん顔をしている。
(誰か翠條様を止めて! お願い、誰か、誰でも良いから! 私の全てをあげるから!)
声を限りに叫んだ。願いが聞き届けられたのか、息が苦しくなって、視界が暗くなった。意識が徐々に薄れて行く。実体がなくても息は苦しくなるのか、と妙なことを考えた。
最後に、翠條の顔が浮かんで……
そうして、芙蓉の意識は闇に飲まれた。
今度目を開けたらそこは『あの世』だろう、と芙蓉は思っていた。
だが、違った。
目の前に冬蘭がいて、すぐ近くに翠條の背中があった。そしてその向こうに、思わぬ人が立っていた。
皇帝である。顔を隠した従者を二人、連れていた。
この人は昔からこうだった。子供の頃からだ。王城の警備が緩いわけでは絶対にないのに、どうやってかそれをくぐり抜け、こうして翠條の房を訪れることが何度もあった。
その度に、翠條から小言を言われ、怒られて、肩をすくめていたのに……。
その人が、今、翠條を怒鳴りつけていた。
「莫迦か、そなたは!? 一体何を考えているのだ! 芙蓉の後を追うだと? ふざけるのも大概にしろ!」
「ふざけているわけではありません」
答える翠條の声は、細い。
俯いて左の頬を抑えているところを見ると、どうやら皇帝に殴られたらしい。体は動かないが、翠條が手にしていた短剣が房の隅に転がっているのが、視界の隅に映った。
(よかった……)
芙蓉は心の底からほっとした。
皇帝と翠條の口論は続いている。
「それの何処がふざけてないと言うのだ?」
「ですから、芙蓉に詫びを……」
そんなものはいらない、と芙蓉は思った。声に出して言おうともしたが、肝心の声が出ない。
芙蓉の代わりに皇帝が言った。
「芙蓉はそんなことを望んではおらぬ」
その通りだ、と頷こうとしたが、首も動いてくれなかった。だから芙蓉は、やはり自分は死んでいるのか、と思ったのだが。
その時、皇帝の従者が芙蓉に近づいた。
被りものの隙間から、ちら、と白い肌がのぞく。
(あなたは……)
だが、顔を見分けたと思った瞬間、翠條が従者と芙蓉を引き離した。
「翠條」
歩み寄った皇帝をも、翠條は体を使って阻む。
「芙蓉に触れないで頂きたい」
「いい加減にせぬか、翠條」
「出来ませぬ。あなたは、芙蓉が身代わりになっても平然としておられる。それが寵姫に対する態度ですか。そんな薄情な方に、これ以上芙蓉に近づいて欲しくありません」
きらり、と皇帝の瞳が光るのを、芙蓉は確かに見たと思った。
「そなたがそうまで言うとはな。……翠條、そなたにとって、芙蓉は何だ?」
「……妹です」
「嘘を申せ。妹にそこまでするものか」
「ならば……かけがえのない大事な存在です」
「他の者に触れさせたくないと思うほどにか」
「それは……」
「どうなのだ、翠條」
相手が言葉に詰まっても皇帝は容赦しない。
とうとう、苦痛に顔を歪めながら、絞り出すように翠條が言った。
「……そうです」
「何故だ?」
「存じませぬ、そんなことは!」
翠條が叫んだ瞬間、
「やれやれ……」
皇帝がふんわりと微笑った。
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