四
「おはようございます」
皇帝が帰った後も眠れぬままに一夜を明かし、今また窓を開けて冬蘭を思っていた芙蓉は、朝食を運んできた女官の声で現実に引き戻された。
「お顔の色が優れないようですね。良くお休みになれなかったのですか?」
振り向いて、相手の顔を見て、芙蓉はほっと息を吐き出した。
「……麗雲」か細い声で名前を呼ぶ。
それが震えていることに気付いた女官が、芙蓉の顔を覗き込んだ。
「芙蓉様、何かあったのですか? ……そういえば、冬蘭の姿が見えぬようですが」
言われて、せき止めてあった涙が、芙蓉の瞳から一気にこぼれ落ちた。
「……麗雲! 麗雲、冬蘭が……昨日から、いなくなって……捜したけれど、見つからなくて、私、心配で……」
気丈に振る舞っていても、中身はまだ十六の子供である。
ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼしながら、途切れ途切れに芙蓉が言うと、そっと腕を伸ばした麗雲が、ちいさな体を包み込んだ。
「何てことを……」
囁いた麗雲の声が、怒りで震えていた。
それが芙蓉には嬉しかった。この人がいてくれて良かったと思った。
陶麗雲。芙蓉より3歳年上の、琴皇后付きの女官である。決まった侍女のいない芙蓉を、一番気にかけてくれるのが彼女だった。皇后付きだけあって、芙蓉の後宮入りが皇帝に無理矢理押し切られてのものであることを知っている。また、他の后達の芙蓉への嫌がらせも、全部ではないが、知っている。後宮で唯一の芙蓉の味方と言って良かった。
今朝、彼女が手空きであったことを、芙蓉は心から感謝した。
「麗雲……」
「大丈夫ですよ、芙蓉様。冬蘭は賢い猫ではありませんか。きっと無事に帰ってきます。もしかしたら、危ういところを逃れて、宰相様のところに行ったのかも知れません」
そうだったら、宰相様が連れてきて下さいますよ。
そっと背中を撫でながら、優しい声で麗雲が言うと、ぽつりと芙蓉が呟いた。
「……帰ってこない方が、良いかも知れない」
「え……?」
「帰ってこない方が、冬蘭のためかも知れない」
「芙蓉様……」
「だってそうでしょう? 私の側にいなければ、こんなことにはなっていないはずだもの」
賀家にいさえすれば、こんな風に、芙蓉への嫌がらせに巻き込まれることもない。
芙蓉が言うと、麗雲が真剣な眼差しで問いかけた。
「賀家に、帰りたいですか、芙蓉様?」
問いかけられた芙蓉は、頷こうとして、答えに詰まった。
-- 帰りたい、それは本心である。
だがそれを言葉にすることは出来ない。
いや、麗雲に泣きついているくらいなら良いが、それを皇帝に訴えることは出来ない。帰りたいと願い出れば、必ず理由を聞かれてしまう。
后達のしたことを話せば良いのかも知れないが、皇帝がそれで家に帰してくれるとも限らない。それに、他の后達の気持ちも判るから、嫌がらせの件を皇帝の耳に入れたくない。
何よりも、問いつめられて、帰りたい本当の理由を知られるのが怖かった。
だから、ちいさく首を振って囁いた。
「陛下が、お望みになったことですから……」
その言葉に、芙蓉の想いの全てが込められていた。
皇帝が望んだことだから、芙蓉に選択の余地はない。皇帝が許さなければ、芙蓉がいくら帰りたいと言っても聞き入れてはもらえない。どうしても嫌なら最後の手段で後宮から失踪、もしくは自害、という手もあるのだろうが、それでは皇帝が気分を害して、翠條の立場が悪くなるかもしれない。
-- 自分が我慢すれば良いことだ。
芙蓉が儚げに微笑うのを見て、麗雲がしみじみと言った。
「あなたと、いう方は……」
「心配してくれて、ありがとう、麗雲」
微笑んだ芙蓉に麗雲は
「いいえ。それも、もうすぐ終わりですから。それよりも芙蓉様、陛下がお呼びです」
不思議な笑みを浮かべて、言った。
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