華蓉


 

 朝儀も終わり、貴族や高官達が自宅へと引き上げたころ -- 身なりを整えた翠條は、再び王城へと向かっていた。
 ゆったりした衣服の胸のあたりには、実は冬蘭を隠している。
 猫がいなくなったことで、芙蓉は寂しがって捜しているに違いなかった。彼女の身に何かあったのでは、と心配でもあった。本当ならば、昨夜の内に彼女の元に猫を届け、ついでに無事を確認もしたかったのだが、まさかそのために、深夜、皇帝の元に参じるわけにもいかない。まして、後宮に直接赴こうなどとは、考えもつかない。
 結局、芙蓉の泣き顔のちらつく浅い眠りを繰り返し、朝儀もそぞろな気分でやりすごして、今になるまで待った。更に、宰相が堂々と猫を抱いて参内するわけにもいかないから、こうやってこそこそ隠しているわけだ。
「やれやれ、まったく……。お前のお陰で眠れなかったぞ、この裏切り者」
 翠條が小声でぶつぶつと文句を言うと、冬蘭は自分のせいではない、と言いたげに「ナァ〜オ」と低く鳴いた。
「まったく。あの方の気まぐれのお陰で、いつも周りが要らぬ気苦労をさせられる……」
 わざわざあんな子供を後宮に上げずとも、後宮には女性はいくらでもいるのに。
 まじめな顔をして、まだぶちぶち言っている。誰かに聞かれたら『冷徹宰相』の威厳も形無しだったろうが、幸いなことに、この時彼の側には人はいなかった。少し離れた場所を、持ち場に向かうらしい警備の兵士が歩いているだけである。
 目の端で見遣って、通り過ぎようとしたその時……いい加減苦しくなったのだろう。冬蘭が、いきなり翠條の胸元から顔を出した。
「あっ、こら!」慌てて押し戻した。

 

 冬蘭に逃げられることもなく、警備兵の不審の目も浴びずに、なんとか皇帝の私室まで辿り着いた翠條を、皇帝は
「おお、翠條。どうだ、何か飲むか」
 とにこやかに迎えた。
 驚いたことに -- そしてどういう訳か、ちゃんと翠條の分まで茶器が揃っている。
 更に、側に仕えた女官の顔を見て、翠條は言葉を失った。
 女官は二人いた。一人は十七・八の娘。そしてもう一人は -- 芙蓉、だった。
「芙……花美人……何故……。いや、お久しゅうございます。丁度良うございました。あなたの猫が昨夜我が家を訪れましたので、こうして連れて参りました」
 芙蓉、と呼びそうになるところを思いとどまって、堅い言葉で語りかける。
「宰相閣下には、わざわざお連れいただきまして、ありがとう存じます」
 答える芙蓉の声も、負けじと冷たい。
 見ていた皇帝が溜息をついて「茶にしよう」と言った。
 熱い茶が注がれ、小さな茶碗から良い香りが立ち上る。
 皇帝が一つを手に取り、芙蓉に渡した。
 毒味をしろ、というのである。
 一瞬翠條の顔が引きつったのを皇帝は見逃さなかったが、素知らぬ振りを装って芙蓉を見つめた。
 芙蓉の細い手が、捧げ持った茶碗をゆっくりと口元に運び、白い喉元が上下して、そして……
 茶碗を卓に戻そうとした芙蓉が、突然よろめいて倒れた。
「芙蓉っ!」
 慌てて駆け寄った翠條が抱き起こしたが、既に芙蓉は虫の息である。
「莫迦な、何故……!?」
「毒だろうな」うろたえた翠條に、冷たい声で皇帝が言い放った。
「何故!?」
「決まっておろうが」
「狙われたのは私かあなたということですか。芙蓉は巻き添えを食ったと? そんな……」
 莫迦な。
 翠條の言葉を芙蓉が遮った。
「翠條様……。ご無事ですね? ……よかった……」蒼ざめた顔で微笑って言う。
「何が良いのだ? 何処がよいのだ!」
「だって、翠條様が、ご無事なのですもの」
「そなたが身代わりになっても、私は嬉しくない!」
「わたくしは、嬉しゅう、ございます……」
 言って芙蓉は小さく微笑い、そして……翠條の腕の中で、静かに瞼を閉じた。
「芙蓉っ!」
 慌てて名を呼んだが芙蓉は答えず、ぴくりとも動かない。
「芙蓉、芙蓉!」
 叫ぶ翠條の肩に手をおいて、皇帝が囁いた。
「無駄だ、翠條。芙蓉はもう……」
 ひどく冷静で、落ち着いた声だった。
 それが翠條を刺激した。
「何故そんなに落ち着いていられるのです、陛下。あなたは芙蓉を寵愛していたのではなかったのですか! 寵姫がこんなことになって、どうしてそんなに冷静なのです!」
「では聞くが、そなたは何故それほど取り乱しているのだ? そなたらしくもない。毒味役が毒に倒れるは当然のことであろう」
 毒味役が死なずに皇帝や宰相が死んだとすれば、その方が余程異常な事態ではないのか。
「それは……」
 冷静な頭で考えるなら、皇帝の言うことが正しい。だがそれは、今の翠條には受け入れ難い言葉であった。
 賀宰相としての理性と、賀翠條の感情の狭間で、翠條の心が揺れ、視線が揺れた。
 腕の中の芙蓉。傍らに立つ皇帝。まだ湯気を立てている茶器。転がった芙蓉の茶碗。
 もう一人の女官の姿は、ない。
 そのことに翠條も気付いてはいたが、虚ろな心は別のことを考えていた。
  -- 芙蓉を、連れて帰らねば。
 彼女の育った、あの家に。

 

 花美人逝去の報は、その日の内に後宮はもとより貴族達の間に広まった。
 後宮という場所は、ことさらに死を忌む。
 故に、芙蓉の身体は、やはりその日の内に -- 正確には逝去の報が公にされる前に -- 賀家に戻ることとなったのである。



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