序
漣国王城。
その最奥に位置する後宮の一房で、二つの影が、灯りの中、密談を交わしていた。
贅を凝らした卓上には、やはり極上の酒。玻璃の杯に注がれた、芳香を放つ紅紫の液体が、灯りを映してきらめき揺れる。
一人が言った。
「あなたという方は……」
「たまにはこういう趣向も面白かろう?」
答えてもう一人が薄く笑う。やれやれ、と首を振る相手に、追い打ちをかけるように更に言った。
「協力してくれるのであろうな?」
瞳にはきらきらと光が宿っている。
(まるで……)
問われた相手は思った。
-- まるで、これからいたずらを仕掛ける子供のようだ。
傍らに座す人物を、溜息混じりに見遣ったが、相手は一向に悪びれるところがない。
(難儀なことよ……)
心の中でそっと呟き、声に出してはこう返した。
「嫌だと申し上げても、聞き入れては下さらぬのでしょう?」
「まあ、そういうことになる」
こうもぬけぬけと言い放たれては、返す言葉がない。
相手が絶句したのを肯定と受け取って、いたずら小僧が朗らかに笑った。
「そういうわけだから、よろしく頼む」
頼まれた方は、もう一度、今度は深い溜息をついて、計画の首謀者を軽くにらんだ。
(やれやれ……こうなっては、この方は引かぬ。まこと、難儀なことよ)
けれど、そうやって相手をにらむ、その同じ自分の瞳にも --
ほんのわずかではあるが --
事態を楽しむ色が浮かんでいることを、『協力者』は知っていた。
たしなめなければいけないのに --
それが自分の役目でもあるのに、それでも頷いてしまうのは……結局、目の前の人物を愛しているから、なのだろう。
いたずらを仕掛けられる、当の被害者と、同じように。
(……お互い、困った方のそばにいますね)
しみじみと噛み締めたその思いを、『協力者』が言葉にすることはしかしないまま……。
-- 二月が、過ぎた。
一
草木も夢を見ると人の言う夜の静けさに、包まれてなお眠ることのない王城にあって、一層の静寂に支配された場所がある。
皇帝の住居である鳳凰宮よりも更に北、広大な中庭を巡る回廊の周囲にいくつもの小宮殿が立ち並ぶ辺りがそれである。
称して曰く、後宮。
皇后はじめ后達の住まうこの一角には、皇帝、そして皇太子や皇子以外の男性が足を踏み入れることは許されない。
禁裏の中の禁裏。それが後宮だった。
許可なく辺りをうろつける者などいるはずもない。まして今は深夜。女性や非力な宦官が迂闊に出歩くとも思えない時刻である。建物の内ならばともかく、外に人影を見ることなどまずないのだが……。
--
その後宮の、しかも回廊の外側を、一人の少女が歩いていた。
いくら灯火の絶えることのない王城とは言え、深夜の後宮、しかも庭ともなれば明るさなどたかが知れている。その暗闇の中を、手燭一つで彷徨う少女の姿は、危なっかしいとしか言いようがなかった。
「冬蘭……冬蘭。どこにいるの……?」
小声で、誰か -- あるいは何か --
の名を呼んでいるところからして、どうやら捜し物をしているらしい。
供も連れず、たった一人で真夜中の庭に出ているのは、後宮に仕える女官だからか、それとも后ではあるが同行を頼める親しい女官がいないからなのか……。
いずれにしろ、心細いことは確かなのだろう。黒目がちの愛らしい目が、不安げに揺れていた。それでも捜索を止めないあたり、『捜し物』は彼女にとって非常に大事なものであるらしかった。
と……。
「冬蘭……」
囁いた彼女の耳に、チリ、と小さな音が響いた。
「冬蘭?」
慌てて手燭を掲げた彼女の呼びかけに重なったのは、しかし「誰だ!」という誰何の声だった。
捜し物に夢中になっていた少女は、全く気付いていなかったのだが、実は彼女はこの時、いつの間にか後宮と呼ばれる区域の境目にまで来てしまっていたのだ。
「きゃっ……」
驚いて手燭を落としそうになったた少女に、声の主が更に厳しい声をかけた。
「何者か? 明かりの下に進み出よ!」
恐ろしさに一瞬足がすくんだが、ここで立ち止まっては相手の不審を一層煽る。
「はい……」小声で答えて歩み出た。
次に驚いたのは、だが、誰何の声をかけた警備兵の方だった。
不審者と思って厳しく問いかけたら、現れたのは清楚な美少女だったのだ。灯りに映える艶やかな黒髪、白い肌、形の良い眉、涼やかな目元。どれを取っても、彼が今までに見たどんな女性より美しかった。
更に、少女の掲げる手燭に描かれた、桐の葉の模様に、目を瞠る。
「その、御印は……。それではあなたは」
桐は鳳凰の憩う木であるという。鳳凰=皇帝の憩う場所 --
つまり、後宮である。
桐の葉は、この漣国においては、後宮の者にのみ使用を許される文様なのだった。
「はい。先日こちらに上がった者です。姓は、花、と……」溜息を付いて少女が名乗る。
怯えのためにか細くはあったが、小さな鈴を振るような愛らしくも稟とした声だった。
「あなたが、花美人……」
兵士の呟きに、少女は苦い笑みを漏らした。
-- 花美人。
それが現在の彼女の呼び名だ。
姓を花、名を芙蓉。未だ十五の少女である。
それでも、後宮の后は下級兵士より身分が上。これで兵士の態度が完全に変わった。
「こんなところで何をなさっておいででした」
穏やかに訪ねられた芙蓉が素直に答える。
「捜し物をしておりました……猫を。昼過ぎから姿が見えず、未だ房に帰りませぬゆえ、心配で……」
なるほど、と、兵士は納得した。
こうして兵士と芙蓉が話していることからも判るように、実は、後宮と王城のそれ以外の場所に、高い塀のような仕切りは存在しない。ただ、さして丈の高くない生け垣が、両者を隔てるのみである。
-- 最大の結界は、人の心の中にこそ在る。
だがそれは、人にしか効力を持たない。無論猫に通じるわけもない。
皇后を頂点として、三夫人、九嬪、二十七世婦と続き、その下に定数のない美人、才人とくるのが漣国の後宮制度である。芙蓉は、『美人』。位の低い后達の住まいは貴人達を護るように外側に配置されるから、猫がいなくなれば、後宮の外に出た可能性もあるわけだ。
「ここまでいらしたと言うことは、後宮の庭では見つけられなかったということですね」
「はい。それで、ついこんな場所まで……」
「しかし、いくらなんでももう夜も遅い。こんな時間に外をお歩きになるのは危険です。それに、ここから先は、あなたには無理でしょう。その猫の特徴をお教えいただければ、わたくしも気を付けてお探しいたしますゆえ、あなたは房にお帰りなされませ」
請け合って、兵士が優しく笑う。
「はい、ありがとうございます。白い、毛足の長い猫で、瞳の色は金でございます。名は、冬蘭と。ただ……」
猫は家につくと言われる。ならば、慣れぬ場所に連れてこられた猫が、元の家を恋しく思って逃げ出すこともあるのでは。
「そうであったなら、家の方が連れて来てくださるでしょう」
安心なさい、と頷いた兵士の言葉で、やっと芙蓉が笑顔を取り戻した。
「そうですね。……あの……」
「まだ何か、心配なことが?」
「いえ……あなたの、お名前を……」
言われて兵士は、自分がまだ名乗っていなかったことに気付いた。相手の名は訊いたのに、だ。
「失礼いたしました。わたくし、姓を高、名を広、字を子裕と申します」
「高、子裕様……。冬蘭のこと、よろしくお願いいたします」
くれぐれも、と頼み込んで自室へと戻って行く芙蓉の華奢な後ろ姿を見送りながら、子裕は、この花美人の『家』が、どこにあるのかを思い出していた。
そして同時に思った。
何故、あの少女は、こんな時刻に、たった一人で、猫を探しに来たのだろうか、と。
その答えに思い至って、子裕は、苦虫を噛み潰す思いで闇に沈む後宮を見つめた。
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