5
『 -- テ。』
誰かに耳元で呼ばれた気がして目が覚めた。
(誰?)
周りを見ても、誰もいない。
(気のせい?)
夢だろうか、と思ってそして、祐は今自分のいる場所がどこなのかを思い出した。
-- 夜の学校。
そんな場所で眠るような酔狂な趣味は持ち合わせていない。
だったらこの意識の断絶は何だろう?
少年は、自分の記憶を辿る。
夕方自分の見たモノを確かめたくて学校に来た。先に来ていた芙蓉達と会った。夕方と同じ音を聞いて、窓から飛び込んだ。『音』の聞こえる教室の前に来て、入り口の扉を開けて、芙蓉が何か自分に言ったところまでは覚えている。
だが、その次に何が起こったのか --
そしてどうして自分が教室の中にいるのかが、判らなかった。
芙蓉達は教室の外にいる。それも変だ。どうして入ってこないんだろう? 自分はあんなに簡単に入り口を開けることが出来たのに。
芙蓉達は入り口や窓をガンガン叩いているようなのに、音が聞こえないのもおかしい。
考えて出た結論は、やはり「夢かな」だった。試しにほっぺたをつねってみたかったが、何かが腕を押さえつけていて出来なかった。
(何……? なんで、手、動かないの?)
不審に思って自分の体を見下ろして、そして。
「……何だよ、これ……っ!?」
黒いモノが祐の体を取り巻いていた。いや、全身を覆っている、と言った方が良いかも知れない。その、得体の知れない黒いモノが、少年の体を持ち上げていた。
腕が動かないのはそのせいだ。
自分の現状を認識した途端、周囲の音が耳に飛び込んできた。
ヒューー。カタン。キン。コン。ヒィー。
夕方耳にした音だ。ほんのちょっと前に、旧校舎の外で、芙蓉達と一緒に聞いていた音でもある。
それが、自分を取り巻く黒いモノから聞こえる。ならば……
--
それならば、自分は、自分が『お化け』と呼んだあの得体の知れないモノの腕の中にいるのか。
ゾッとした。
「あ……ああ……。何だよ、これ……。やだ、やだよ、お姉ちゃん……。芙蓉お姉ちゃん、助けてっっ!!」
そこだけは拘束を受けていなかった口を使って、外の芙蓉達に向かって叫んで。
「祐くんっ!」
返った芙蓉の声を聞いた。
「ざぁけんじゃないよっ!」
怒鳴っているのは翠だろう。高岡も、アイラも、田坂も、ちゃんといる。ガラスの向こうの彼等は、心底怒っているようだった。
「よかったぁ……ちゃんと届いた……」
呟きながら、祐は、ふと思った。
もう夜も相当遅いのに。旧校舎の中には灯りもないのに。それでも、彼等の姿がやけにはっきり見えるのは何故なのだろう、と。
瞬間、視界が暗くなった。
口と鼻を何かに塞がれた。
-- 息が出来ない。
(お姉ちゃん、助けて……)
声にならない声で助けを求め、視界を遮る黒い『お化け』の隙間からなんとか芙蓉の姿を見ようとした祐の目に映ったモノは、金色に輝く5対の宝石。
(……ボク、死ぬのかな……)
-- こんな綺麗なモノが見えるなんて。
霞む意識の中でぼんやりとそんなことを思う。
その少年の耳に、またしてもあの不思議な『声』が響いた。
『 -- テ』
(え?)
『 -- イテ。ワ……ヲ、……テ』
(何、何だって?)
かすれて良く聞こえない。
ヒューー。カタン。キン。コン。ヒィー。
お化けのたてる音も邪魔だった。
もっとはっきり聞き取りたくて耳を澄ました祐の耳朶を、だが次の瞬間破壊的な騒音が打った。
-- 否。それはまさしく『破壊音』だった。
バキィッ!
音と同時に教室の引き戸が飛んできて、祐と彼を捉えている黒い化け物のすぐ側に落ちる。驚いたのか、怯えたのか、祐の鼻と口を塞ぐ化け物の『手』が緩んだのは幸いだった。
続いて聞こえたのは罵倒である。
「ざぁけんなよっ、コラッ!」
ぽっかり開いた入り口に誰かが立っている。
(コウ、さん……?)
引き戸を2枚併せて蹴り飛ばした人物が誰なのか、悟った瞬間、祐は呆気にとられてしまった。
なるほど、教室の入り口で中指立てて怒鳴っているのは高岡である。片足を上げた『私が蹴りました』体勢のまま立っているところを見ると、やはり引き戸を蹴り飛ばしたのは彼だろう。どこにそんな力を隠し持っていたのか謎ではあるが、それだけならば、まだ「案外力が強いんだな」で済む。だが……。
だが、高岡の瞳は、金色に燃えていた。
人の持つ色ではない。少なくとも人間の目は、こんな風に暗闇で自ら光を放って輝いたりはしない。
そして、同じ輝きを、高岡の後ろに並んで立つ芙蓉達の瞳も、放っていた。
(芙蓉、お姉ちゃん……?)
口を塞がれたままだったから、祐の声は当然芙蓉達の耳には届かなかった。
それで、良かったのかも知れない。口がきけたら、真っ先に呟いたのは芙蓉達の存在に対する疑問の言葉だったろうから。
彼等の瞳の輝きに目を見張る祐には気付かないまま、芙蓉が叫ぶ。
「この……っ! よくも祐くんを!」
同時に芙蓉の手から放たれた何かが、闇に緑色の軌跡を残し、祐の頭のすぐ上と両横にめり込んだ。
幼い体を縛る化け物の拘束が、きつくなる。身をよじってもだえる化け物の『腕』が、再び祐の口をきつく塞いで呼吸を奪った。
(ーーーーーっ!)
ふっ、と意識が遠くなる。
体の力が抜けたからだろうか。自分を縛る化け物の力が緩んで、視界がわずかに開けた。
だが、それで少年が目にしたのは、視界が開けたことを逆に恨みたくなるような光景だった。
祐を抱え込んだ影の一部が別れて、芙蓉へと飛びかかっていた。
-- 芙蓉に避けられるはずがない。
祐は、そう思った。
影の攻撃をまともに喰らって倒れる彼女の姿が、脳裏にありありと浮かぶ。
呼吸困難に陥って意識まで遠くなりかけている自分に、出来ることは何一つない。
(お姉ちゃん……危ない……避けて……)
叫ぶことすら出来ない自分をもどかしく想いながら、少年は意識を手放してしまった。
***
ヒュッ。パン、パンッ
小気味よい音が暗い教室に響いた。
芙蓉が、飛来した影を叩き落としたのだ。彼女の右手には、しなやかな緑色の鞭が握られていた。
相手が幽霊だろうが妖怪だろうが関係ない。化け物が少年の自由と呼吸を奪うのを目にした瞬間、芙蓉達は即座に、妖力を振るう決断を下した。少年の命がかかっている以上、躊躇うことなど出来なかった。
もし祐に見られていたら、夢を見たんだ、でごまかし通せ。そんな強引なことを考えながら、芙蓉は鞭を振るう。
カン、カラン
影は、軽い、けれど硬質の音を発して床に落ちた。
(あれ?)
芙蓉は首を傾げた。その音に聞き覚えがあるような気がしたからだ。
けれど、深く考えている暇はなかった。
先に飛んだ影が芙蓉に叩き落とされるよりも速く、新たな影が今度は5つ
-- そして次から次へと芙蓉達に向かって飛んで来る。
芙蓉に続いて翠も動いた。右手に持った透明な剣で影を断ち切る。
そして、高岡。人狼の彼は持ち前の怪力で、決して逞しいとは言えない両腕に一脚ずつ持った椅子を振り回し、やはり影を弾き返す。
アイラの得物は箒だ。菓子作りを極めたいという執着故に妖怪になった彼女は、攻撃系の力を持たない。地道に一つ一つ影を叩き返している。
田坂だけが一人少し離れた場所に立っている。鴉の翼を持つ彼は、やはり金色に輝く瞳で、隙あらば少年を影から引き離そうと、祐と、彼を縛る影の本体をじっと見つめていた。
「キリがないな……」
じれた田坂がぼそっと呟く。
-- キリがない。
誰もがそう思っていた。叩き返しても影は何度でも飛んでくる。壊して破片にしても、その分だけ増えてやはり攻撃してくるのだ。
影の『分身』の飛んでくる間隙を見計らって本体を攻撃したくても、相手が中心に祐を抱え込んでいる以上、一番効果的な
--
少なくともそうだろうと思われるストライクゾーンへの攻撃が出来ない。自然、枝葉の部分への攻撃になってしまうから、願うほどの効果は望めない。
そして、祐を助けだそうにも、次から次へと『お化け』の分身が飛んでくる今の状況では、相手の腕の中から少年をかっさらう隙も見出せなかった。
「キリが、ありませんね……」
同意した芙蓉の声に、わずかではあったが疲れが滲んでいた。
不毛な消耗戦では、先に体力の尽きた方が負ける。そして、先に疲れるのはどう見ても芙蓉達の方だった。
「相手が痛みも感じねぇんじゃ、なあ」
高岡がぼやく。
「夜明けが来れば消えるでしょうけど」
アイラが呟いたが、夜明けにはまだ数時間ある。そんな悠長なことは言っていられない。
「やっぱ、一気にカタをつけないとだめだね」
翠の台詞にやはり全員が頷いた。問題は、カタをつける手段、そしてタイミングだった。たとえカタをつける方法が見つかっても、祐が囚われている限り使えない。
(早くしないと、祐くんが死んじゃう……)
ひょっとしたら、間に合ってないのかも。
自分の想像にゾッとしたせいで、飛んできた影に対する芙蓉の反応が遅れた。
「芙蓉!」
翠の声で顔を上げたが、鞭で叩き落とすには距離が迫りすぎていた。
「っ!」
得体の知れないモノに触れる嫌悪感をねじ伏せて、素手で影を叩き落としたその時。
『 -- イテ。ワタ……ヲ、……デテ』
一瞬影に触れた手のひらから、芙蓉の心に誰かの想いが流れ込んだ。
「……え?」
自分で叩き落としたそれに視線を向ける。
「ちょっ、芙蓉!? 何やってるんだよ!」
次に芙蓉が取った行動を視界の端で捉えて、翠が慌てて叫んだ。
ヒューー。カタン。キン。コン。ヒィー。
不気味な音は続いている。
影も相変わらずこちらめがけて飛んでくる。
芙蓉めがけて飛んできたそれを、翠が隣で叩き落とした。
芙蓉はそれら全てを意識の外に置いて、自分が床に叩き落とした『影』を拾い上げる。
思念は、今度はかすれることなく芙蓉の心に真っ直ぐ届いた。
『オネガイ、フイテ。ワタシヲ、奏デテ』
-- お願い、吹いて。私を、奏でて。
吹け、と言い、自分を奏でろと言う。
ならば、その影の正体は何なのか。
(確かめたい)
心で念じて芙蓉は水を呼んだ。
彼女は蓮の化身である。長い緑の茎を操り、同時にわずかではあるが水も操る。
招きに応じて、芙蓉の手の上で真夏の湿気が渦を巻き始める。
そうして出来上がった水の玉に、芙蓉は影のかけらをそっと落とした。
水には浄化の力がある。
「何を……?」
『声』を聞かなかった高岡達が、変わらず飛来するかけらを弾き返しながらも芙蓉の手元を見つめている。
やがて。小さな渦が再び空気に溶けた頃。
芙蓉の手の中で、影のかけらが、その本来の姿を取り戻した。
「なんだ、そうか……」
ふんわりと微笑んで、芙蓉は『それ』を口元に運び、そっと息を送り込む。
ピィー。
芙蓉の呼気を受けて、影のかけらが、何とも懐かしい音を響かせた。
「うん、大丈夫みたい」
「リコーダー……」
囁いた翠に、芙蓉は無言のまま笑顔を返す。
-- 影の襲撃が止まっていた。
本体の祐を縛る力までが緩んで、少年の体が床にずり落ちそうになっている。慌てて田坂が翼を広げ、少年を救出に向かう。
田坂の動きを、影は、阻もうとしなかった。
「怪我はないようだ」
薬剤師という職業柄、多少の応急手当は出来る田坂が、少年の体に触れて、怪我がないのを確かめる。
「よかった……」
ほっ、と安堵の溜息をもらした芙蓉に向かって、高岡が訊ねた。
「なあ、芙蓉。かけらがそれってことは、あいつの本体もひょっとして……」
訊かれた芙蓉が答えるより速く、翠が動いた。翠は、生まれ育った沼を宅地開発で失った竜だ。扱える水の量も芙蓉の比ではない。
「水気招来」
翠の声に応えて大きな水球がどこからともなく空中に現れ、影を包み込む。
水球の消えた後には、大きな山。
「あれ、全部、楽器……?」
息を飲んだアイラの声に応えるように、浄化されて尚うごめく山から『声』が響いた。
『ワタシタチヲ、奏デテ……』
浄化されても『想い』は残る。
田坂がぽつりと呟いた。
「……付喪神……」
コクン、と頷いた芙蓉が、手にしたリコーダーにもう一度息を吹き込み、音が出るのを確かめて、今度は巧みに指を動かし始める。
奏でる曲は、『埴生の宿』。
曲が進むにつれ、それまで明らかに意志を持って動いていた『お化け』に変化が起こる。
カラン。キン。カタン。ガシャ。
まるで糸が切れたように『お化け』は崩れて、それぞれの『楽器』へと戻った。転がり落ちながらも、その音がメロディの妨げにならないのは、楽器達の意地だったろうか。
曲が終わる頃、『お化け』は、ただの古ぼけた楽器の山になっていた。
|