夜の声 闇の歌

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 水上芙蓉は真剣に悩んでいた。
 原因は、手元に置かれた植物標本……ではない。そちらはあらかた整理を終えて、あとは指導を仰いでいる植物学の教授に提出すればいいだけになっている。
 だから、悩みの種はそれとは別にある。
「う〜ん……」
  -- どうしよう?
「芙蓉ちゃん、どお、決まった?」
「……まだ。」
 答えると、カウンターの内側で、明るい栗色の髪に緑の瞳の女性がふふふと笑った。
 既に彼女は湯を沸かし、芙蓉の頼んだダージリンのアイスティーを作り始めている。
「ごめんね〜、アイラさん」
 メニューから顔を上げて謝ると、アイラと呼ばれた女性(フルネームはアイラ=ブリオーシュという)は
「いいわよ。ゆっくり悩んで♪」
 といつもの笑みを浮かべた。
「芙蓉って、ケーキ決める時は悩むよね〜」
 カウンターの内側に立つもう1人、竜河翠が、さっき出ていった客の使った食器を洗いながら、「早く決めないと後から来たお客に先越されるよ」と呆れた声を出した。
 ちなみに翠は、優しげな容貌のアイラとは対照的な、ショートヘアに青いピアスも涼しげなきりっとした顔の長身の美女である。
「そんなぁ、ミドリさ〜ん。だってぇ〜〜」
 上目遣いで翠を見上げ、芙蓉はささやかな抗議を試みた。
 紅茶の注文は結構その日の気分で即座に出せる芙蓉だが、ケーキは毎回迷ってしまう。
 なんとなれば、この喫茶・十六夜で出されるケーキ類は全て、今芙蓉の目の前でにこやかに微笑むアイラの手作りで、しかも毎日種類が違うのだ。
 かてて加えて、どれも超絶美味ときている。
 何しろアイラは、一口食べればケーキに使われている材料とその分量ををたちどころに判別してしまう特技の持ち主だ。おまけにホイップや飾り付けの技量も並ではない。一流店のケーキも、彼女にかかればあっさり再現されてしまうのである。
 そのアイラの技の結晶が、喫茶十六夜のケーキなのだ。これで、甘いモノ好きに「悩むな」という方が無理だろう。
 手元に置かれたメニューを見つめる芙蓉の瞳は、真剣そのものだった。

 本日のケーキ
  紅茶のシフォンケーキ
  レアチーズケーキ・キウィソース
  イチジクのタルト
  スコーン(プレーン、レーズン)
  クッキー3種

 しばらく悩んで出した結論は
「これにしよっ! イチジクのタルト!」
「はいはい♪」
 沸騰した湯をティーポットに注ぎながらアイラが笑ったところでいきなり、普段はコロロロンと耳に優しいドアベルが、ガラララン、と派手な音を立てた。
「おーい、救急箱貸してくれー!」
 開口一番大声でそう言って店に入ってきたのは、細身で黒髪の青年だった。
 右腕にはなにやら『荷物』を抱えている。
「マスター、救急箱……って、マスターは?」
「いらっしゃい、高岡くん。マスターはちょっと不在なの。お店は私達だけでもなんとか大丈夫だから開けてあるんだけどね。はい。」
 カウンターを覗き込んできょとんと立ちつくした彼に、アイラが笑って答えた。彼女の手には、取りに行った様子もないのに救急箱。
「何だ、そうなのか……。あ、ありがと」
 差し出された箱を空いた左手で受け取って、高岡は『荷物』を手近な椅子に降ろした。
「コウさん……どしたの、一体……?」
「これかー? 拾ったんだ」
「拾った、って、だってそれ……」
「どう見たって、ねぇ……?」
 女性陣が絶句したのも無理はない。
 訊ねた芙蓉にあっさり答えたコウ -- 高岡裕だったが、彼が抱えてきた『それ』は普通拾えるものではなかった。
 高岡が抱えてきた『荷物』は、人 -- それも小学生くらいの男の子、だったのである。
「拾ったってのがぴったりなんだよ。このチビ、何だか知らねーけど全力疾走しててさ。で、化粧タイルのちょっとした出っ張りで蹴躓いて俺の目の前ですっ転んで。それで泣くなり何なりするかと思ったら、そのままぼぉ〜〜っと座り込んでやがんの」
 痛がらない。泣かない。立ち上がらない。人に話しかけられても喋らない。
 まるでゼンマイの切れた自動人形かと思ったね、とは、続けて言った高岡の台詞である。
「で、しょーがねーから俺が拾って来てやったってワケよ。お判り?」
 説明しながらも、コウの手は休むことなく少年の膝の擦り傷を消毒している。両手の平の傷には、うっかり何かに触れて痛まないように大きめの、だが通気性の良いバンドエイドを貼り付ける。なかなかの手際だった。
 一方、治療を受ける側は、というと……
 これがまた、高岡の言葉通りの無反応。
「ほい、チビ。終わったぞ!」
 頭をポン、と軽く叩かれて、やっとゆっくりと顔を上げた、その、目は……
(ちょっと〜、一体どーしたのよこの子?)
 少年の目と真正面から向き合う形になった芙蓉は、一瞬息を飲んだ。
 少年の目は、何も見ていなかった。
 何も見ない、何も映さない、どこに意識があるかも判らない、その瞳。
「……おい……?」
 高岡が肩に手を置いて軽くゆすっても、ただわずかに首を動かすのみ。
 余計な刺激を与えないようにそっと歩み寄り、床に膝をついて、芙蓉は少年を、その目線より低い位置から覗き込んだ。
「ねえ、ボク……?」
 少年はやはり反応を示さない。
「無反応か。う〜ん。困ったわねぇ……」
 アイラが、溜息をつきながら、出来上がったダージリンのアイスティーをカウンターに置いた。
 木のカウンターにグラスがぶつかって、コトン、とかすかな音を立てる。
 と同時に、ピク、と少年の体がこわばった。
「?」
 一瞬、何が原因なのか判らず、全員が顔を見合わせた。
  -- コトン。
 訝しげな顔のまま翠が、一度置いたグラスを手に取り、再びテーブルに戻す。
 ピクン。
 今度の反応は、さっきよりも顕著だった。
 虚ろだった少年の瞳に、わずかずつではあるが、感情が戻り始めている。
 その感情 -- 恐怖。
「ふ〜ん。それじゃ……」
「だ、ダメよぉっ、翠ちゃん!」
 再度翠がグラスを手にした理由を、正確に察知したアイラが慌てて止めた。
 だが、アイラの努力は結局無に帰すこととなる。
 翠の代わりにその役目を担ったのは、芙蓉達と同じ、喫茶十六夜の常連だった。
 カチャ -- ドアの取っ手を軽く押す音。
 ヒュ -- ドアの隙間から流れ込む空気の音。
 コロロロロン -- 軽やかなドアベル。
 少年はそれらの音にいちいち反応する。同時に、能面のようだった顔に、恐怖という名の感情を宿した表情が浮かんでくる。
 そして。
「おや、珍しい客がいるじゃないか」
 新たにやってきた『常連』が、妙な感心をしてヒュウッと口笛を吹いた瞬間。
「あ……あ……わああああーーーっ!!」
「な、何だ何だ、何なんだっ!?」
 入り口で立ちつくした人物の当惑した声を圧して余りある声量で、人形になっていた少年が、店のガラスが割れるかと思うほど高音の悲鳴を響かせたのである。

 

***

 

「……何なんだ、一体?」
 少年の悲鳴を至近距離で浴び、しばし麻痺した一同の聴覚がようやく普段の機能を取り戻した頃、悲鳴の原因を作った(らしい)青年 -- 田坂言成が、縁なし眼鏡を指で押し上げながら溜息混じりに訊ねた。
「さて、ねぇ? それは俺らも知りたいことなんだけど」
 答えたのは、高岡である。
 悲鳴の発信源となった少年はといえば、高岡に横から押さえ込まれ、ついでに口も塞がれた少々情けない姿で椅子に座り込んでいた。
「大丈夫?」
 問いかけたのは芙蓉だ。
 頷いた少年の瞳が恐慌状態を脱していることを確認して、高岡が手を離した。
「あ…………あの……」
 悲鳴の上げすぎだろうか。少年の声はかすれている。
「はい。ゆっくり飲んでね」
 アイラが差し出した水のグラスを受け取って、言いつけ通りにゆっくりと飲み干した少年は、やっと余裕の出てきた表情で、自分を取り囲む5つの顔を見渡した。
「あの……すみませんでした」
「落ち着いたか?」
「……はい」
 高岡に答える声もしっかりしている。
「質問、しても大丈夫、かな?」
 覗き込んだアイラに「はい、どうぞ」と頷いた少年は、きゅ、とジーンズを握りかけて、すりむいた手のひらの痛みに顔をしかめた。
 「大丈夫?」と覗き込んだ芙蓉に「はい」と答えて無理に微笑む少年をけなげだと思いながら、続けて今度は高岡が問いかける。
「それじゃ、チビ。まず……名前は?」
「たすく。やまさきたすく。字は、こう」
 言いながら、グラスについた水滴でテーブルに『山崎祐』と綴る。『やまさき』に力を込めて発音したのは、しょっちゅう『やまざき』と呼ばれるからだろう。
「やまさき、たすくくん、ね?」
 芙蓉が繰り返すと、祐はちょっと嬉しそうに「うん」と笑った。
「で、あの悲鳴の理由は?」
 間髪おかずに翠が切り込む。
「……それは……ごめんなさい、あの、音が、似てたから……」
「何と」
 と、これは田坂。質問を投げる声が不機嫌そうに響くのは、どうやら自分があの金切り声の原因と知ったから、であるらしい。田坂にしてみれば、ごく普通に店に入っただけなのに、ナニユエあんな悲鳴をあげられねばならんのか、といったところだろう。
 元来笑顔を滅多に見せない男だが、お陰で表情が一層凄みを増していた。
「あ、あの……」
「田坂さ〜ん、脅しちゃいけませんよぉ」
 怯えて身をすくめる祐の肩を抱き、芙蓉が非難の視線を投げかける。だが続けて
「で、何の音が何と似てたの?」
 とにこやかに訊くあたり、芙蓉も好奇心には勝てないらしい。それでも女性の笑顔は効果抜群のようで、今度は祐も -- おずおずと、ではあったが -- 質問に答えた。
「あの……グラスがテーブルにあたる音とか、口笛とかが……旧校舎の、お化けの、声に」
「旧校舎のお化け?」
 声を揃えた一同である。
「何だそりゃ。学校の怪談、てヤツか?」
「あー、七不思議、とか?」
 顔を見合わせた高岡と芙蓉の会話に、翠とアイラが割り込んだ。
「七不思議って、あれ? あの、理科室の骨格標本が夜中にタンゴ踊ったり、音楽室の作曲家の絵が宴会やってげらげら笑ってたり」
「あ、あたしも知ってる! 講堂のグランドピアノが走り回ったり、12段のはずの階段を数えながら上ったら13段になって、でもってぱっくり床が割れて人を飲み込んじゃったりするんでしょ?」
「……しねーよ。」
「いくらなんでも、そこまでは……」
 高岡と芙蓉が脱力しても、翠もアイラも平然としたモノである。
「あれ、違った?」「しませんでしたっけ」
 混ぜっ返すつもりで言っているならまだいいが、双方ともにこれで大真面目だから凄い。1人は真顔で、もう1人は笑顔で、それぞれ勝手な『学校の七不思議』を作り上げる。
「…………。」
「すまんな、ボーズ。こんな連中で」
 呆気にとられた祐の頭に、そっと手を置いて田坂が囁くと、
「悪かったね、田坂。『こんな連中』でっ!」
 翠がキロンと田坂を睨んで文句を言い、その横で芙蓉が祐に向き直って
「で、その旧校舎のお化けって、どんなの?」
 『興味津々』としっかり瞳に浮かべ、いきなり話を元に戻した。
「それが……最初は、音、だけしか聞こえなくて、それで……あとからちょこっと姿も、見た、ような気が、したんだけど……。でも、あいつが言ってたのは『女のすすり泣き』なのに、全然女の人には見えなくて……」
 高岡やアイラも、いつの間にか視線を祐に戻している。10の瞳に見つめられ、答える祐は歯切れが悪い。それでも、さして気の長くない田坂や翠までもが黙って少年の言葉を待っているのは、彼等が、少年が噂に引きずられることなく、自分の見たモノをなるたけ正確に言い表そうと言葉を捜していることに気付いたからである。
「で? 祐くんには、どんな風に見えたの?」
「それが……なんて言ったらいいのかな。ん〜と、あのね。え〜と……あっ!」
 芙蓉に促され、それでもさんざん迷った末に、祐はポムッ、と両手を打ち合わせ、「うん、これだ」と頷いてから、やっと見つけた言葉を嬉しそうに音にした。
「おどろみどろのうぎゃぐぎゃ!」
「おどろ」「みどろの」「うぎゃ」「ぐぎゃぁ?」
「…………なんじゃ、そりゃ」
 ぼそっと漏らした高岡の呟きが、芙蓉達の心を代弁していた。
「だって、暗〜いところでいきなりヒューとかカタンとかコンとかヒーとか音がして、でもって何だか判らない、黒くてうぞぉ〜〜ってしたのがもよもよって盛り上がって、それでそいつがうぞのそ〜って動いたような気がしたんだもん!」
 独特すぎる言語感覚である。
 『うぞぉ〜』だの『もよもよ』だの『うぞのそ』だの言われても、普通は判らない。
 呆気にとられた一同を代表して、やはり高岡が正直に告白した。
「……すまん。お前の言葉が判んねぇ……」
「えっ……」
 今度は祐が、自分の言葉を相手が汲み取ってくれないことに困り果てる番だった。
「えっとだから、変な音がしてそれで、黒くてもぞもぞってしたのがうようよって……」
 祐は通じる言葉を選び出そうとしたが、それもどうにも上手くいかない。
 見かねて、何とか大体の見当を付けた芙蓉が助け船 -- と言っていいのかどうか判らないが -- を出した。
「……つまり、何だか知らないけどグラスを置く音とか口笛によく似た、でも変な音がして、それで、やっぱり何だか良く判らない黒いモノが旧校舎の中で動いてたってこと?」
「そうそうっ!」
「う〜ん、なるほど……」「ふぅ〜〜ん……?」
 高岡が腕組みして頷いた。半信半疑である。翠や田坂はあからさまに疑っている。芙蓉とアイラは顔を見合わせて溜息をついた。
「それってさあ、風の音がそう聞こえたとか、猫が入り込んでたとかじゃなくて?」
 カウンターに肘をつき、白けた顔で翠が、至極まっとうなことを言った。
 祐は折れない。
 翠を睨み付けて一息に叫んだ。
「違うもん! 風、そんなに吹いてなかった。それに猫みたいにちっちゃくなかったもん!」
 理詰めで迫られればどうしても弱い。風だとか、猫や犬だとか、誰もが納得しそうな理由はいくらでもつけられる。そうしておいた方が、自分の精神安定上よろしいことも判っている。でも。
 少年は思う。
 でも、誰が何と言ってもあれは風ではなかったし、猫でも犬でもなかった。そんな身近なものでは断じてなかった。
  -- あれは、異質なモノだった。
 勘だ。確かめたのかと訊かれれば、否と答えるしかない。だからこそ、少年には、自分の感じたことを叫ぶしか出来なかった。
「とにかく、あれは猫でも風でもなかったし、もちろん人でもなかったよ! あれは……あれは絶対、お化けなんだっっ!」



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