夜の声 闇の歌

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 その噂が流れ始めたのは、夏休みが始まった直後のことである。

 

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 夕日で赤く染まった校庭を、男の子が1人歩いていた。
 少年の名を、山崎祐という。
 小学5年、という年齢を考えれば、いささか小柄な部類に入る少年は、細い腕で、束ねた緑色のホースを抱え、一向に涼しくならない風に向かってぶつぶつ文句を言っていた。
「あ〜、あっつ〜〜! ったく、もう陽も沈むってのに、ちぃいっとも! 涼しくならないじゃないかっ!」
 立秋を過ぎても連日最高気温は30度を超える。最低気温も25度を下らず、ニュースは「これで何日連続の熱帯夜」と嬉しくもないことを教えてくれる。
「ま、これ片づけたら終わりか。帰ったらアイス食〜べよ。それにしてもあいつ……」
 ホースを道具置き場に片づけながら、祐はぼそっと呟いた。
 花壇の水やりは園芸部員2人1組の持ち回りである。だから本当なら、祐の傍らにはもう1人立っているはずなのだが……それがいないのは、祐と組んだ幼なじみが、今日砂浜でころんで足をひねったから、なのだった。
 昨日や今朝の内に判っていれば、誰かに頼んで手伝ってもらうことも出来たのだが、幼なじみが足を痛めて海から帰ってきたのがつい30分前。誰かに助っ人を頼むにも急すぎるし、家から学校までそう遠くないこともあり、1人で水やりに来たのだ。
 下手に誰かに頼んで、相手を待つ間に暗くなられては元も子もない。
 何しろ、今夜は家族で花火をすると決めている。遅くなるワケにはいかなかった。
「あいつ、大丈夫かな、足……?」
 明日になったら見舞いに行こうか。
 思いながら、道具置き場の扉を閉め、振り返った祐の目に、沈んで行く西日の中にひっそり佇む旧校舎の黒々とした姿が映った。
  -- 旧校舎。
 関東大震災も戦時下の空襲も乗り越えて、既に建てられてから100年近い年月を数えるというその木造平屋建ての学舎は、老朽化が進んだために、この夏、建築方法の調査をした後、取り壊されるのだという。
 特別教室棟だったというその建物は、既に授業が行われなくなって久しく、すっかり物置と化していた。祐自身、ここで授業を受けた記憶はない。特別な思い出もほとんどない。
 だから、祐がこの時ふっと旧校舎に足を向けたのはほんの気まぐれである。そうして、手近な窓から校舎の中を覗き込んだのも、気まぐれ以外の何ものでもなかった。
「うあ……暗」
 当然である。人気のない校舎など、夜はもとよりたとえ昼間でも覗いてあまり嬉しいモノではない。夕暮れ時なら尚更だ。ましてここは、毎年学校主催の肝試しに使われる場所である。
 はっきり言って、気味が悪い。
「……さて。帰ろうっと」
 誰に言うともなく呟いた、その時だった。
 ヒュウゥーーーーー……
 何とも言いようのない音が聞こえた。
 思わず振り向いて空を見上げる。
「……風、だよね……」
 だが、音は、それだけではなかった。
 コン、カタン、コン、カタン。
 ヒィーーー……
 続いていくつかの音が祐の耳に届く。
  -- それも、背後から。
『旧校舎でさ……』
 夏休みに入ってすぐの頃、声を潜めて耳打ちしてきた幼なじみの言葉が甦る。
 あの時あいつは何と言った?
『知ってるか? 旧校舎でさ、こないだから夜、女のすすり泣きが聞こえるんだって』
 夏にはよく聞く類の噂である。
 自分は何と答えただろうか。「そんなの風の音だろー」と笑い飛ばしはしなかったか。
 だが、今祐の耳に届くこれは、風の音とは思えなかった。
 実際聞くまでは、隙間から吹き込んだ風がそんな音を立てるのだろうと思っていたが、それにしては音が変だ。何より、そんな音を立てるほどの風など、今この時吹いていないのを、祐自身が身をもって知っている。
「ま、まさか……」
(本物……?)
 さわ、となま暖かい風が祐の首筋を撫でた。
 決して冷たくはないその風に、祐の背中を冷たいモノが滑り落ちる。
 ゴクリ。
 祐が唾を飲み込んだ次の瞬間。
 ゴソ、と、何かが旧校舎を覆う薄闇の中でうごめいた、ような気がした。
「ヒッ!」
 思わず漏らした自分の声で、自分自身が驚いてしまう。
「う、うそだよ。気のせい、だよ……」
 呟くのは、自分に言い聞かせたいからだ。
 だが。
 ゴソリ。ゴトン。ゴソ。
 また、何かがうごめいた。
 覗き込んだ窓の更に内側、廊下の向こうに見える教室の中で、闇が盛り上がったような気がするのは、目の錯覚なのだろうか?
 キン。コトン。ヒュゥウー……
 音は止まない。
 そして、
 ヒィーーーーーーッ!
 一際大きな音が響いて、旧校舎の全ての窓が、ざわめくようにガタガタ鳴った。
「う、うわあぁぁぁーーーーっっ!!」
 叫んだ祐は、いつの間にか自分が全力で走っていることに、気付いてすらいなかった。



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