江戸は実は水の街である。
川の街、水路の街と言ってもいい。
もともと江戸湊と呼ばれるちいさな湊町でしかなかったものを、天下を取った家康が幕府の在所にと選び、湿地を埋め、川を繋いで水路を造り、土地をならして大きくしたのがこの江戸だ。街のそこここに川が流れ水路が走り、大小の橋がいくつもかかる。
そんな水路沿いの道を、家から逃げ出した清水がのほほんと歩いていた。
「あ〜、いい天気だねぇ。なべて世はこともなし、とくりゃ」
逃げてきた相手というのが命を狙う剣客、などという物騒な輩ではなく十歳の子供なのだから、そりゃ平和である。頃は春、新緑の季節。空はおぼろに霞んで柔らかに青く、吹く風も優しい。長閑な長閑な午後だった。
と。
「もし」
水路にかかる橋のたもとに差し掛かった清水に、話しかける者がいる。無視して通り過ぎようとすると、更に大声で清水を呼んだ。
「もし、そこのお武家様。私の話を聞いて下さい」
橋のたもとでいきなりこんな風に話しかけてくる人間と言ったら、大概相場は決まっている。
──辻占い師、と言うヤツだ。
「あん…………?」
胡散臭そうな目つきで振り返ると、そこには清水が予想した通りの人間がいた。
いかにも、な銀鼠色の羽織、同色の頭巾。柳の木の下に置かれた机の上には筮竹、人相図、手相図、方位図などなど、各種占い道具が並んでいる。
ただ、予想と違ったのは、そこに鎮座する占い師当人が、『辻占い師』と聞いて思い浮かべる人物よりも遙かに若いことだった。
(おいおい、子供の遊びかー?)
「何の用だ、坊主。お子さまの遊びに付き合ってやるほどこちとら暇じゃねーぞ」
首だけ向けて清水が言うと、清水を呼び止めることに成功した占い師の少年は、
「遊びだなんてとんでもない。私はちゃんとした占い師ですよ」
と胸を張る。真面目な顔で更に言った。
「旦那、お気をつけなさい。女難の相が出ています」
「女難の相ぉ〜〜?」
思わず鼻で笑ってしまった清水である。
清水くらいの年の男になら、女難の相と言われればひとつやふたつは思い当たることがあるのが普通だ。だから大概の男がひっかかる……と言って聞こえが悪ければ、反応する。占い師が客引きとして声をかけるにはもってこいの話題なのだ。
まあ確かに小桃から逃げてきたばかりではあるし、アレも十歳児とは言え女には違いないのだが……。
見ればやっと十五・六にしかならないだろうに、いっぱしに占い師としての商売の仕方を知っているのが気に入った。可愛らしい、と言っても言い過ぎではない綺麗な顔立ちをしているクセに、清水が凄んで見せてもいっかな怯む様子がないのもいい。
(おもしれぇ。付き合ってやろうじゃねぇか)
にやり。
口の端に笑みを浮かべて、清水はどっかりと占い師の前に置かれた小さな椅子に腰を下ろした。
「立派な占い師だと言ったな、坊主。なら、商売用の名前を持ってんだろ。何てぇんだ?」
「はい。登竜。登る竜と書いてトウリュウと読みます」
「登竜ーー?」
登る竜、とはまた大きく出たモノだ。
「自分で付けたのか?」
「いえ。私の村の庄屋様が。昔からよく先のことを言い当てたり失せものの在処を言い当てたりしていたのですが、私の言うことを参考にしながらその年の作付けや馬の売り時を決めていたら、なんでもえらく巧くいったそうで、それで……私の言うことを参考にするのは、天にのぼる竜の背中に乗るようなものだと仰って下さいまして……」
「で、以後、登竜と名乗るがよい、とでも?」
「はい。その通りでございます」
「何で『昇竜』じゃねえんだ?」
「はあ、それが、天へと『昇る』にはまだまだだとかで」
──天に近い楼閣に登るくらいなものだろう、と、彼の村の庄屋は言ったらしい。
にっこり微笑むその顔は、いかにも気のいい坊ちゃんである。ウソ八百作って姑息に笑う様子などみじんもない。
(てことは、言ってることはホントってことになるのか?)
本当ならなかなかの腕ということになるし、たとえウソでも、ここまでしゃあしゃあと言ってのける口ならそのウソを楽しめる。
どっちでもいいや、と笑うあたりに、百戦錬磨の四十男の余裕があった。
「ほぉお〜。んで、登竜。俺に女難の相があるって?」
「はい。旦那、女性……いや、女の子、と言った方が良いのかな。から逃げてきたでしょう、今? その前には年輩の女性の行動でちょっと辟易していた。違いますか?」
──違わない。
清水は返事も忘れて、目の前に座す少年占い師の顔をまじまじと見つめてしまった。
それを肯定と受け取ったのか──いや、そもそも「違いますか?」はただの確認だったのかも知れない──登竜は先を続ける。
「せっかく逃げてきた女難ですけど……残念ながら、危険度倍増で旦那の身に降りかかってきますよ。それも、今、これから」
手相を見るでもなく、ことさらに清水の顔を検分するでも、筮竹を手に取るわけでも方位図を眺めているのでもないのに、次から次へと登竜は言葉を紡ぐ。しかも紡ぐ言葉に淀みがない。
「登竜、お前……」
──冗談抜きで『本物』なのか。
でなければ、清水が逃げてきた相手の年の頃や、その前に翠條の仕業に辟易していたことまで、言い当てられるはずもない、ような気がする。
だが、ならば何故、それほどの腕の占い師がこんな下町の橋のたもとにぽつんと座っているのだろう? どこぞの武家かそれこそ大名にでも、雇われていておかしくないのに。しかも彼は『天に昇るにはまだまだ』とも言われたらしい。
(──何でだ?)
清水の疑問を知ってか知らずか、登竜はふっと思案気な顔になり、それから
「そう、女難はいままさに旦那の身に降りかかろうとしています。来ます、来ますよ……
あちらから!」
ピッと人差し指を立て、自分の右、清水にとっては左側を、勢い良く指し示した。
同時に。
「殿ちゃんっ!」
他の誰でもない、小桃が、清水の体に体当たりを喰らわせたのだ。
ただし、清水の、右肩に。
思いっきり不意を突かれた清水は、こらえきれずに小桃もろとも椅子から転げ落ちてしまった。
「あれっ? ……あああっ、しまった間違えたーっ! すみません旦那、旦那にとっての右側だったのに、私、ついうっかり自分にとっての右側指しちゃいましたーっ!」
「……登竜〜〜!」
何とか怪我をさせないように守りきった小桃が胸に重い。登竜が『お抱え占い師』になれない理由、『天に昇るにはまだまだ』と言われたそのワケを一瞬で悟った清水であった。
が、しかし。
「旦那、そんな悠長に寝っ転がってる場合じゃありませんてば。起きて下さい早く!」
何やら登竜が焦っている。
そういえばこの少年、確か「危険度倍増で」とかなんとか言わなかったか?
「うん……?」
まともに地面にぶつけた背中をなでさすりながら、ゆっくりと起きあがって……
清水は見た。
たった今小桃が走ってきたその方向から、やけにいきり立った男どもが砂埃を蹴立てながらやはり走ってくるのを。
年の頃は二十歳余りだろうか。四・五人が束になって、口々に叫んでいる。
「いたぞ、あのチビ!」「大人しくそこにいやがれ」「待ってろよ〜」
「うわ〜、来た! 助けて殿ちゃん!」
慌てて清水の背後に回り込むからには、小桃には連中に追いかけられる心当たりがしっかりあるのだろう。
思わず登竜と二人して、小桃の顔をまじまじと見つめてしまった。
「……またナニやったんだ、お前?」
「小桃、悪いことなんてしてないもんっ!」
即座に言い返した小桃を見て、ふいに登竜が呟く。
「ああ、なるほど……確かに。ちょっと小桃ちゃんの言い方やなんかに問題はあったみたいですけど、基本的に小桃ちゃんは悪くないですねぇ」
「なんだそりゃ?」
妙なことを言う──いや、占い師にはよくある言動なのか?──と訝しみながら清水が問い返すと、登竜は直接それには答えずに、またしてもにっこり笑った。
「いえ、まあ、私が答えなくてもすぐに判るでしょう。……ほら、みなさんご到着のようですし」
言われて視線を道に戻せば、既に小桃を追ってきた連中は水路を背にした清水達を半円形に包囲していた。
後からも数人続いていたのだろう。いつの間にか人数が増えている・
(お〜お、なんてお約束なちんぴら顔。って、待てよ、こいつら……)
……どこかで、見た顔だった。
だが、首を傾げる清水などまるで眼中にないように、男どもは小桃に向かって凄んでみせる。
「やい、ちび! 今日という今日は容赦しねぇぞっ!」
「なによっ! 悪いのはそっちじゃないさ! あたしはウソなんて言ってない。あんたたちの魚が古いのはホントだもん!」
負けずに言い返した小桃の台詞を聞いて(大の男五人を相手に怯まないとは大したお子さまである)、清水は事情を理解した。
鮮度が命の魚だが、棒手振りの中にも色々いて、良心的なのもいれば悪どいのも勿論いる。小桃と言い争っているこの連中は、その中でも一番タチの悪い部類に入った。
昼も遅くなって鮮度の落ちた魚を少しばかり細工して新しく見せようとするのは、結構な数の棒手振りがやっていることである。だが、この連中はその更に上を行く。
何しろ、最初から鮮度が落ちていると判っているものを「生節にしたりして売るのさ。売れ残りをこっちで手間かけて売ってやるってんだから、安くしねぇ」と買い叩いておきながら、その実加工など何一つしないまま、ただ見てくれだけを良くして、安くもせずに売りつけるのだ。しかもどう細工したものか、新鮮に見せかける手腕は感心するほどだったりするので、お陰で騙されて腹をこわす町衆が続出していた。
見かねた良心的な棒手振り達が、長年かけて築いた客との信頼関係をぶちこわしにする気か、と顔役を立てて怒鳴り込んだのだが、連中、悪びれることもなく「魚を見る目のないヤツが悪い」と豪語して、相変わらずのやりたい放題。
「あんな奴ら棒手振りの風上にもおけねぇ!」
とは、新鮮で美味い魚をなるべく安くを信条にしている梶源達の怒りの声である。
清水自身、『信用第一派』と『儲かりゃそれでいい』派の火花飛び散る論争を何度か目にしていた。
今目の前にいる男ども、どこかで見た顔だと思ったら、その連中の仲間なのだ。中の一人の右頬の傷と輝く禿頭に、清水は見覚えがあった。確か魚辰とかいうはずだ。人相の悪さを、清水に言わせればうすら嘘臭い愛想の良さで覆い隠して商売をしていた。
とすれば、だ。なるほど小桃は悪くない。
大方連中がまたぞろ古い魚を売りつけようとしたところを、小桃がくちばしを突っ込んで邪魔したのだろう。彼女の選魚眼は父親譲りで、そこらの棒手振りより余程確かなのだ。
「なるほどねぇ」
呟いた清水に、「ね?」と横から登竜、後ろから小桃。登竜などはそれに加えて
「小桃ちゃんが言ったのはホントのことなんですから、怒るのは筋違いでしょ。それに、こんな小さな女の子をそんな大人数で追いかけてくるなんて、大人げないですよあなた方」
なんぞといらぬことを言ってくれる。
それを耳ざとく聞きつけたごろつき棒手振り連中、
「なんだと、てめぇっ!」
案の定いきり立ってしまった。魚辰など、顔の傷と相まってなかなかの迫力である。
その直後、だ。
「じゃ、後はよろしくお願いします」
言い置いて、登竜は小桃を促して清水の後ろにちゃっかり回ってしまった。
敵は十人ほどに増えていて、清水一人の手にはいささか余る。だからといって小桃をこんな連中と喧嘩させるわけにもいかないから、せめて登竜にだけでも手伝わせよう、ともくろんでいた清水は、己が目と耳を疑った。
「おいこら登竜っ! ちょっと待てお前も手伝えーーっ!」
「えー、だって私、剣術も体術も不得手なんですよぉ〜」
「なぁ〜んだとお〜!?」
なら連中を煽るようなことを言うな、と清水は切実に思ったが、そんな文句を今言っている暇はない。何しろ敵さんは目の前で、数の強みもあってだろう、嘲るような、哀れむような、も一つ加えて楽しくて仕方ないとでも言いたげな視線で清水達三人を見ている。彼等の手には、棒手振りの商売道具の、魚を入れたたらいを担ぐ棒がある。
(おいおい、これ全部、俺一人で相手しなきゃいけねぇのかよ……)
冗談じゃない。自分一人ならいざ知らず、背中に小桃と登竜を庇いながら十人を相手にするというのは、いくらなんでも無理がある。
(どっか一カ所、弱そうなヤツのトコ突破して穴開けて、そこからこいつら逃がさにゃー、話にならんな)
国を追われても各地を流れ歩いてもこれだけは手放さなかった腰の刀を鞘ごと構えて、清水が狙い目を探した、その時だった。
「りゃあっ!」
ごろつき同士気が合うのか、ものの見事に呼吸を揃え、ちんぴら棒手振り二人が清水の両側から得物を振り上げて踏み込んで来た。
考える暇もなく、清水は腰の大小を両の手でつかむ。
ガシッ!
鈍い音が響いた。
「へっ?」「あれ?」
有利を確信していたのか、見事に攻撃を阻まれたちんぴら二人が間抜けな声を出す。
相手の得物を弾き返した清水は、間髪おかずに今度は攻勢に回った。
返す刀で先陣二人の手にある棒を叩き落とす。次の瞬間には鋭く踏み込んで、一人の腹に鞘の切っ先を、もう一人には自分の右の爪先を見舞う。更に正面にもう一歩進み出て形勢を逆転しようとしたのだが……
それが災いした。
相手は何しろ十人もいるのだ。一人や二人を片付けたくらいでどうこうできるものではない。そんなことは清水にも判っていたのに、先陣二人があまりにも呆気なく退場したせいで油断した。「いける」と、つい思ってしまったのだ。
「うわあっ!」
登竜の悲鳴を背中で聞いて、振り返った時にはもう、清水と小桃、登竜との間には、数歩分の距離がひらいている。
──そこに、人がいた。
清水達を取り囲む半円の右の端から駆け寄った棒手振りの一人が、小桃に向かって容赦のない一撃を振り下ろそうとしていた。
「小桃!」
慌てて身を翻した清水は、間に合うようにと祈りながら、鞘に入ったままの大刀を横様に薙ぎ払う。
「がっ!」
踏みつぶされた蛙があげるような悲鳴を聞き、なんとか危機はまぬがれたのだと小さく安堵の溜息を漏らした清水に向かって、けれど今度は小桃が叫んだ。
「殿ちゃん危ない、後ろ!」
(ちぃっ!)
振り向いている暇はなかった。刀を構え直す余裕など尚更。避けることも出来ない。今清水が棒手振りの攻撃をかわせば、それはそのまま小桃か登竜に当たってしまう。
「旦那!」「殿ちゃん!」
覚悟を決めた清水の目に、蒼ざめて悲鳴を上げる子供二人の顔が映った。
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