清水が木戸を通り抜け、長屋の戸を
「おばば、今帰ったぞー」
と気前よく開けると、すっかり住み慣れた家の中に、大輪の花が咲いていた。
いや、『花』ではない。れっきとした人間、それも整った顔立ちの美少女だ。
身に纏っている着物と言い、締めている帯と言い、どう見たってかなりな上物だし、透き通るほど色は白いが健康そうな肌やほどよくふくよかな輪郭を見ても、少女が結構裕福な家の人間であることは容易に想像がつく。
稟とした雰囲気は、明らかに武家娘のそれだった。
──目が点になった。
(どこだココは?)
一瞬自分のいる場所が判らなくなった清水である。
いくら家康のジジィが天下を取って江戸に幕府を構えたと言ったって──いや、だからこそ尚更──武士と町人の身分の壁は厚い。
相手が貧乏侍の娘なら……もしくは清水が裕福な商人であるならいざ知らず、おそらくは家柄も羽振りも良い武家の娘が、こんな長屋にいていいはずがない。
うろたえた清水、
「失礼つかまつった!」
と、また戸を開けて外に出てしまった。
突発事態に動転して、開ける戸を間違えたかと思ったのだ。
タンッ!
いっそ小気味よい音を立て、後ろ手に戸を閉めてから、清水はふと我に返って考えた。
(……んなワケ、あるかい)
自分は確かにいつも通りの道筋を辿って、いつも通り長屋の木戸をくぐり抜け、いつもの通りに自分の住まいの戸を開けたのだ。
住み着いて10年にもなろうかという家を、今更間違えるはずがない。
現に、戸を背にした清水の眼前にあるのは、向かいの棒手振り魚屋・梶源の住まいの戸。そして見慣れた長屋の佇まいである。立ち話に興じていた同じ長屋のかみさん連中が
「どうしたんだい、旦那?」
と不思議そうな声をかけるのに
「んあ? ああ、いや何でもない」
と引きつった笑顔で答えると、かみさん連中は「ふうん?」と首を傾げてまた元の話に戻っていった。
ごく当たり前の光景である。
してみれば、アレは一体なんなのだ。
夢か幻か、はたまた妄想か?
昼間っから酒をかっ喰らったワケじゃなし、いくらなんでもそれはない、と自分に言い聞かせながら──あったら、きっぱりはっきり、ヤバい──清水は長屋の戸に再び手をかけ、そろりそろりと引き開けた。
先程のことがあるから、ついつい及び腰になってしまったのは仕方ない。
(消えてると、いいなぁ……)
それはそれで幻覚を見たことになるからあまり喜ばしくはないのだが……でもって、美女が家にいてくれれば嬉しいに決まっているのだが、清水にしてみれば、理由も判らないのにいきなり家の中にうら若い女が現れるよりは、まだ「気のせい」で片付く方がマシだったのだ。
心中の囁きは祈りに近かった。
が、祈りというのは大概通じないモノで。
清水が再び戸を開け、土間から部屋内に視線を移すと、先程と同じ場所に、やはり先程目にしたとおりの大輪の花が咲いていた。
「お邪魔いたしております」
花が喋った。
「……はあ、いや、あばら家で申し訳ない」
とうっかり答えて、やっと認識出来た。
今度こそ、夢ではない。
その証拠に、大輪の花の隣で、ちゃんと枯れ枝──もとい、同居人の翠條が、こちらを見ながらにこにこと笑っている。
笑うだけならまだしも、この翠條、
「お帰りなさいませ。お待ち申し上げておりました」
と呆気にとられる清水に一声かけてから、
「お初どの、こちらが……」
『花』に向かって清水を紹介し始めたのだ。
更に持ってきて、今度は清水に向かい、
「こちらはお旗本、嘉灘家のご息女、初どの。殿に是非一度お会いしたいと仰いますのでおいで頂いた次第でございます」
などとしれっとぬかす。
(……って、ことは……)
いきなり悟った。
ここしばらくナリを潜めていたから油断していた。だから突発事態にうろたえてしまった。コトの次第が判明すれば、なんのことはない。
またぞろ、出たのだ。翠條のビョーキが。
「おばば」
清水が少しばかりドスをきかせて翠條を呼んだ。
だが、敵もさるモノ。一向に気にする風もなく、すっかり清水も聞き慣れてしまった常套句を、初に向かって囁き始める。
「お初どの。この方は、今でこそこんな風に落ちぶれておりますが、元は……」
「おい、よせ」
──その先を、聞きたくない。
「元は一国一城の……」
「おい、おばば!」
履き物を脱ぎ捨て、
ダンッ!
と音を立てて畳に上がると──初を怯えさせてしまったかもしれないのが心苦しい──さすがに翠條も顔を清水に向けた。
だから清水は「効果あったな」と内心ほくそ笑んだのだが、どっこい返った答えは
「なんですか、騒々しい。」
これである。挙げ句
「お客様の前ですよ、失礼ではありませんか」
怒られてしまった。
「う……すまん」
うっかり謝ってしまう自分が情けない。
いまだに清水が、己が乳母のこの翠條に弱いのは、やはり幼い頃から培われた刷り込みのなせる技だろうか。
「いや、違う。だからな」
「だから、何でございます?」
「だから、何でこの……初どのか? が、こんなところにいるのだ」
返る答えの想像がついてはいるが、やはり一応訊いてみる。
「ですから先程申し上げたではありませんか。初どのが、若殿に是非お会いしたいと仰ったんでございますよ」
(ウソをつけ。)
こんな武家の令嬢が、どうして『今の』自分なんぞに会いたいなどと思う。
「大方お前が無理矢理連れ込んだんだろう」
シラけてそっぽを向く清水を前にして、翠條の口は一向に衰えを見せない。
「連れ込んだなどと人聞きの悪い。たまたま知己を得たお初どのに若殿の話をいたしましたら、お会いしたいと初どのが仰ったのです」
「知己、ねぇ?」
おおかた旧来のつてを頼ったか、生活のために師範として雇ってもらった長刀道場のつてを頼ったかしたのだろう。ついでにもってきて、『ないことないこと』喋って拝み倒したに違いないのだ。
そうでなくて、どうして初が、こんなところに来るものか。
翠條の口車に乗って。
──翠條の持ちかけた、見合い話なんぞに。
そうなのだ。
翠條のビョーキ、というか、宿願、とでも言えばいいのか……それは、「一日も早く、若殿に嫁御を!」、なのだった。
清水の見合いに残り少ない(と翠條本人は言う)命をかけている。
翠條の出先に呼びつけられたらそこが見合いの席だったこと、数知れず。「翠條さんがお医師のところに運び込まれたってよー」と同じ長屋の住人に聞いて慌てて駆けつけてみれば、そこの娘が着飾って待っていたこともあった。今回のようにいきなり相手の女性が清水の長屋に来ることも、珍しくはあったが、よくよく数え上げれば五本の指で足りない。
それでもここ一、二年は、流石につても尽きたのか、そんなことも少なくなっていた。
だから清水も油断したのだ。
もう翠條は嫁探しを諦めたのだと。
ところがどうやら違ったらしい。
お陰で、いきなり現れた初にうろたえてしまった。
(あー、情けねぇ……)
溜息をついてふと見やれば、初はイヤな顔ひとつするでもなく、ただ穏やかな笑みを浮かべて茶を飲んでいる。
小首をかしげる仕草も愛らしい美少女だ。いくら翠條に拝み倒されたと言っても、こんな長屋にいていい女性ではない。
(いや、案外……)
知らないのかもしれない、と清水は思った。
案外、初は、翠條の狙いを知らずに、ただ翠條に頼み込まれてここまで彼女を送ってきただけのつもりであるのかも。
脳裏を過ぎった考えは、とても妥当なものであるように、清水には思えた。
(だよなぁ。そうに違ぇねえって)
ならば、尚更。
「おばば。初どのに、帰っていただけ」
水を飲みに立ち上がる振りをして、清水は翠條にそう告げた。
「……若殿?」
「帰っていただけ。こんなところに長居して、初どのに悪い風評でも立っては申し訳ない」
そうして瓶から水を一杯柄杓でくみ出し、一口飲んでから、今度は初に。
「初どの。お帰りなさい。貴女はご存じないのだろうが……翠條は貴女とオレの見合いを企んでいたんです。年寄りの我が儘に貴女が振り回される必要はない。お帰りになられるがよろしかろう」
「清水さま……」
呼ばれて振り返ると、初は真っ直ぐな瞳で清水を見ている。
「企むだなんて、そんな言い方。若殿っ!」
隣で翠條が嘆くふりをした。袖で涙を拭いている──無論、ウソ泣きである。
無視して言った。
「初どの。こんな場所にいてはいけませんよ。翠條に送らせましょう。お帰りなさい。帰って、そして、もう2度とこの長屋へは来ないようになさい。……おばば?」
視線を向けると、「判りました」と溜息をついて翠條が立ち上がり、申し訳なさそうな苦笑いを浮かべて初に言った。
「……初どの。わざわざのおこし、ありがとうございました。お送りいたしますゆえ、さ、参りましょう」
「……はい」
初は、おとなしい娘なのだろう。
こんなところに連れてこられても不機嫌そうな様子を見せないばかりか、清水と翠條に唐突に帰宅を促されても、不満顔をするでもなく、さりとてあからさまに嬉しそうな顔をするでもない。
礼儀正しく、美しく、気だてもよろしい理想の武家娘。それが初だと、清水は思った。
(だったら尚更、オレなんかの嫁にしちゃあいかんだろう)
それどころか、こんな場所にいたと知れただけでも、彼女のためにはよろしくない。
だから清水は、翠條が素直に言うことを聞いてくれたのが心底ありがたかった。
「それでは、行って参ります、若殿」
翠條が、初のために戸を開ける。
「ああ」
鷹揚に頷いく清水に、けれど初は、すれ違いざまに囁いた。
「わたくし、翠條さまに頼まれたから伺ったわけではございません。でも、今はおいとまいたします。清水さま。ご縁があったら、またお会いしましょう」
──縁が、あったら。
「ああ、そうですね」
もしも、縁が、あったなら。
初の言葉に驚きつつ、縁などもうないだろう、と思いながら清水は答えて、去って行く初の後ろ姿を見送る。
そうして、2人が長屋の木戸をくぐって姿が見えなくなったところで……
タンッ!
勢い良く音を立てて戸を閉め、
「はぁ〜〜〜〜〜っ」
盛大な溜息をもらしたのである。
|