「疲れた……。あ〜あ、冗談じゃねぇや」
今閉めたばかりの戸に手をかけ、座り込んで、先程までとは打って変わったぞんざいな口調で、清水はまず最初にそう呟いた。
冗談じゃない、と。
そして、本気で思った。
慣れない言葉遣いはするもんじゃない、と。
たとえそれが、昔の自分にとってはごくあたりまえのものだったとしてもだ。
実は──この、清水という男、遊び歩いて帰ってきたただの素浪人でしか今はないが、これでも元は、翠條が初に話した通り、一国一城の主だった。
今を去ること十数年前の話、それも父親の跡目を継いで領主になってからその地位を追われるまでの、ほんの数ヶ月のことではあったけれど。
名を、清水健三郎という。
本当は、羽柴藤吉郎秀吉とか、松平長七郎長頼とか、武家の男子らしい名があるのだろうに、本人は至って軽く
「ケンちゃんって呼んでくんな!」
と笑う。
「いくらなんでもケンちゃんは、なぁ?」と言って、長屋の住人はじめ馴染みの町衆が彼に向かって呼びかけるのが『清水の旦那』。
翠條は『若殿』と彼を呼ぶが、実はそれほど若くない。四十に手が届こうかという、もういい年の男である。
そんな野郎をとっつかまえて『若殿』も何もないもんだ、と、清水自身も思うのだが。
……実はこれにもワケがある。
この清水、その名の通り三男坊だった。
兄が2人いたが、長兄は父よりも先に世を去った。その父も次兄を引き連れてあっけなくあの世へと旅立ったため、一国の主らしく名を変える暇もないまま慌ただしく三男坊の清水健三郎が国の主として立ったのだ。
それほど事態が急を要した、ということだ。
清水はまだ、二十歳そこそこの若造でしかなかった。つまり、自身も周囲もまだまだ『若君』という認識から抜け出せないでいる内に、清水は国を継ぐことになったのだ。
そうして、『若殿』と呼ばれるにも慣れない内に、その『若殿』の地位も追われることに、なってしまった。
すべて、戦のせいである。
天下を分けた関ヶ原、そして大坂を舞台にして時代の趨勢を決した二度の戦、清水の一族は共に豊臣方につき、ために敗れて居城を追われ、国を追われて、今はこんな暮らしをしている。かつての清水の領国は、今は徳川方に与したとある大名が治めていると聞く。
戦って敗れた相手が天下人となったのだ。しかも清水の領国は江戸に近かったから、当然と言えば当然の成り行きだった。居城の周りに敵を住まわせるバカはいない。
元の家臣の多くは、今では他家に仕官の道を求め、幕府に役職を求めて安泰な生活を送っている。当時既に年老いていた数名の家臣だけが、清水と行動を共にした。(清水と近しかった数名の若侍もついてこようとしたのだが、それは清水が止めさせたのだ)
──お家再興を願ってのこと、だった。
翠條もその一人だ。彼女は清水の乳母だった。子供と乳母の関係は、うっかりすると実の親子よりも遙かに濃く、深い。生まれてすぐに母を亡くした清水にとっては、尚更である。当然のように翠條も清水に従った。
領国を追われ、つてを頼って各地を転々、江戸に住み着いて、もう十年。
いまだ長屋住まいの身で、お家再興など夢のまた夢だと清水は思うのだが、昔をよく覚えている翠條はじめ元の家臣の口癖は、「一日も早く、お家の再興を。殿もそれをお望みでいらっしゃいます」なのだった。
この場合の『殿』とは清水の父のことだ。
仕える主を失い、国を失った彼等の気持ちも判らないではない。
だが、
(うざってぇ……)
というのが清水の偽らざる本心だった。
人間、十年も同じ生活を繰り返していれば、昔はどうあれすっかり『今』に馴染むものだ。
清水が、そうだった。
領主の一族なんぞだった頃は思いもよらなかったが、下町暮らしというのは存外面白い。
勿論生活は以前とは比べものにならないほどに貧しいが、清水自身にも寺子屋の雇われ師匠、翠條には長刀の師匠というちょっとした収入の口はあり(実は清水にはもう一つ別口の収入源があるのだが)、おまけに昔の家臣達も金子の工面をしてくれるから、暮らせないなどということはない。余程贅沢をしなければ、酒も書物も手に入る。
昔の家臣達が金子を工面してくれるのは、生活のためというよりお家再興の資金にするためだったりするのだが、それはこの際無視するとして、つまるところ、周りが言うほど、今の状況を不幸と思っていない清水なのだ。
もっと言うなら、
(今更お家再興したところで、家康のジジィが天下取って徳川の世の中になっちまったんだ。戦国大名っつって威張ってた連中だって、今じゃあ見ろ、百万石の大大名ったって所詮はしがない宮仕えじゃねぇかよ。堅っ苦しい。んなことするくらいなら、今の方が百倍も気楽で楽しいぜ)
というコトになる。
翠條達には聞かせられない、それが清水の本音だった──本音の全てでは、なかったけれど。
「は〜。やれやれ……」
ふうっと溜息をまた一つ漏らして、二階へと続く階段をそそくさと清水は登る。
長屋にしては破格に造りの良いこの建物も、石高はそう多くないながら一国の重鎮に取り立てられた元の家臣が、清水達のためにと建ててくれたものだ。さすがにただの素浪人の清水が主になるわけにはいかなかったが(なんてったって維持費というものがかかるのだ。長屋にも)、当の元家臣は清水達から店賃を受け取ることを拒否したから、彼等の持ち家のようなモノである。
店賃を払わなくていいのを嬉しく思ってしまう辺り、既に清水は立派な庶民だろう。
「あ〜あ。翠條もなぁ。いい加減諦めりゃーいいのに」
ポンポン、と肩を叩きながら、トントン、と軽妙な音を立てて階段を上り切ると、そこが清水の自室になっていた。
庭に面した障子に真向かうように置かれた文机が、いわば清水の『仕事場』である──つまり、寺子屋の先生とは別口の。
「よっ……と」
すとん、と腰を下ろし、障子を開けて光を入れる。文机の右に置かれた物入れの抽斗を開けて、何冊も積み重ねられた古今の書物の更に下から取り出したのが、一冊の和綴じの書物。続けて硯と墨と水差しを手に取りかけ、ふとその手を宙に泳がせてから、清水は何故か矢立を取った。
筆と墨汁とを一つにまとめて小さく収納するそれは、本来は携帯用の筆記用具であるのだが……
(ま、直感に従っといて損はねーだろ)
と自分自身と対話して、清水は書物を手に取る。ぱらぱら……と頁を繰って、やがてその手が止まった。
が。
書物を読むのかと思いきや、開いた場所は、白紙である。
そして。
「よし」
呟いた清水はおもむろに筆を執り、なにやら白い紙にさらさらと文章を書き付け始めた。
そう。こんな具合に。
娘は顔を上げて、近づいてくる男を見た。
「や……」
逃げ腰になるのも当たり前だ。なにしろ男の目も口元も、好色ジジィという題で絵を描けばこうなるだろうという見本のように醜く歪んでいたのだから。
「これこれ、何故逃げる? 逃げずとも良いではないか。何も怖いことなどありはせん」
いやらしく笑いながらそんなことを言われて信じる娘がどこにいるか。
「いや……いやです、お許し下さいお代官様」
後ずさった娘は、けれどすぐに退路を壁に阻まれた。それを見越して娘を土蔵に閉じこめたのだから、このジジィも大概悪どい。
こういう場合、実は開き直って相手に向かって行けば、案外相手の不意を突けてあっけなく逃げられたりもするのだが、怯えきった娘にそれを求めるのは酷だろう。
「お許し下さい、お願いでございます」
涙ながらの懇願は、けれど好きモノジジィを刺激するだけの効果しか持たない。
「おお、許してやるとも、そなたの心がけ次第でな。なにしろそなたは借金のかたにワシに売られてきたのだから」
娘の父を、その借金をしなければどうにもならぬように仕組んだのは、誰あろうこの悪代官である。
「ほれ、もそっとこちらへ来い」
「いやぁ……っ!」
この壁に実は隠し扉があったりして、それが運良くぱかんと開いてくれはしないだろうか、と娘は心底思ったが、そもそもそんな場所にこの代官が娘を閉じこめるはずがない。
娘はいよいよ進退窮まってしまった。
「良いではないか、ほれほれ」
ジジィは、相変わらずの、よだれを垂らさんばかりの笑みを浮かべて娘の方ににじり寄ってくる。
「いや……誰か……」
──誰か、助けて。
「良いではないか、良いではないか」
清水の『別口』の収入源。それはつまり、この手の娯楽読み物なのだった。書いている内容が内容だけに、翠條達はおろか顔見知りの誰も──読み本として売っている版元の人間は除いて、だが──このことを知らない。
ばれてはまずいのだ、実は。
長屋の住人はもとより、元の家臣達すら、「こういう低俗なモノは……」とぶつぶつ言いながら、「しかし町衆の風俗を知るのも武士の勤め」とかなんとか理由を付けて、清水の書いたモノを読んでいる。
……勿論、作者が清水だとは知らずに。
お家再興の旗頭であるべき『若殿』がこんなコトをしていると連中が知ったら、ほとんどが『いい年』の彼等のことだ、自分達がその『低俗なモノ』を読んでいる事実はどこぞの棚に放り上げて、激高してそのままぽっくり逝きかねない。さすがにそれはイヤだ。
だから、ちょっとした人気を誇っているにも関わらず、本名も正体も伏せて読み物を書いている。
筆名は、没野法無平時。
一見ふざけたこの筆名に、清水がこめた願いを版元は知らない。読者も知らない。清水にも語るつもりはなかった。
「さて、と、ここで真打ち登場、とくりゃ」
「誰か。誰か助けてぇーーーーーっ!」
誰にも届かぬと半ば諦めながら、それでも一縷の望みを託して娘が叫んだその時……
「その時…………んあ?」
順調に書き進んでいた清水の筆が、そこまで書いて、ふと止まった。
ぱたぱたぱた、と土を蹴る軽い足音が聞こえたような気がしたのだ。
耳を澄ますと、
──ぱたぱたぱた。
今度の足音ははっきり聞こえた。
(うわやべぇ……小桃だ!)
慌てて清水は墨痕いまだ鮮やかな書きかけの読み本に、墨移りしないように懐紙を挟んで、矢立と一緒に元あった場所にそれらを投げ込んだ。急いでいるとは言っても、そこはヒミツの書き物だ。積み重ねた書物の一番下に隠しこむのは忘れない。
ここまでの準備をしてから、清水はそっと立ち上がり、庭に面した障子を開けた。
次の瞬間
タンッ!
清水の住まいの戸を誰かが思いっきり開け放つ、元気に力強い音が階下で響いた。
同時に、良く通る声が
「殿ちゃんっ♪」
(あ〜、やっぱりアイツだ……)
思わず空を見上げる清水だった。
「もうすぐ四十の男をとっつかまえて、殿ちゃんなんて呼ぶな」、と常日頃言って聞かせているにもかかわらず彼をこう呼ぶのはただ一人、向かいの棒手降り魚屋梶源の一人娘、小桃しかいない。
当年とって十歳。育ち盛りのお子さまだ。清水以外には「翠條どの」、百歩譲っても『さん』付けでしか他人には呼ばせない翠條を、「ばばちゃん」とやはりただ一人呼ぶツワモノでもある。
この小桃が、何が気に入ったものか、物心ついた頃から清水の後を何かにつけてついてくるのだ。しかも子供だけあって元気は有り余っている上に加減というモノを知らないから、必然的に疲れるのは清水の方。そこらを散歩する時ならまだいいが、居酒屋や花街に遊びに行く時までついてこようとするのだからたまらない。
お陰ですっかり逃げ癖がついてしまった。
「殿ちゃ〜ん」
小桃が階下で清水を呼んでいる。
「おじさんは疲れてるんだよ、小桃坊」
そっと小声で呟いて、清水は静かに障子の桟に足をかけた。
──何をするつもりかって?
そりゃ勿論、逃げ出すのである。
清水の部屋の外には、良い具合に枝を伸ばした大きな松の木がある。ひょい、と飛び移って、いまだ衰えない機敏さに物を言わせれば、階段を使わず下に降りられる。
すぐにそうしないのは、小桃が階下の障子を開け放って庭を見るかもしれないからだ。
「殿ちゃん、上?」
トントン、と軽い足音が階段を上ってくるのを確認してから、清水は木に飛び移った。
「よいよいよいっと」
最後五尺余りは枝をつたわずそのまま飛び降りて、自室を見上げた清水の耳に、小桃の声が降ってきた。
「あっ、殿ちゃんずるい〜! 遊びに行くなら小桃も連れてってっ!」
「だぁ〜め! お前は大人しく自分ちでおとっつぁんを待ってろ」
一言言い置いて、裏木戸を開けて庭の外に出る。言われて聞く小桃でないことくらいは重々承知だから、そこからは全力疾走だ。
それにしても。
いくら小桃から逃げるためとは言え──そもそもそこから情けないのだが──借金取りに追われているわけでも仇と狙われているわけでもあるまいし、何が哀しゅうてこんなに全力で走らにゃならんのか。
──しかも、十歳児を相手に。
(親父や兄貴達が見たら、泣くなぁ、こりゃ)
……いや、それともあの世とやらで爆笑しているだろうか。
ふと我が身を振り返って、つい苦笑を漏らす清水であった。
|