6章
明け方、ジェニアスは、訝しみながら目覚めた。
いつもより、心臓の鼓動がほんの少しだけ大きく、速い。
まるで祭の朝のようだ。
「一体……?」
今日は祭ではない。冬の門の祭は、間近ではあるけれど、今日ではない。人々は冬の支度に忙しくはあるけれど、どきどきするにはまだ早かった。
フォアサイトを去った後、サウル=カダフとジョルジオ=モレスは職務のために都に戻り、カイルもまた、商売をするなら都が便利だと、エンディミラ=オルムにとどまった。ひとり辺境に戻ったジェニアスを、兵達や村の人々が変わらぬ暖かさで「おかえりなさい」と迎えてくれた。
-- 戻って来るのだろうか、彼等がまた、この辺境に?
窓を開け放って見上げる空はまだ暗く、淡く輝く星と月を浮かべている。冬の近付いた辺境の早朝の空気は、澄んで冷たかった。
不思議な胸の鼓動を抱えたまま朝課を終え、夜明けを待って朝露を集めに外に出た。
そして……
「あ……」
目にしたものを、最初ジェニアスは信じられなかった。
立ち止まった銀髪の神官の視線の先、金色の光の中に、2つの人影。
ひとつは、小柄な少女のものだった。
長い銀の髪が、朝日を映して金色に燃えていた。
もうひとつは青年。
黒髪で、遠目にもそれと判るほどの長身で、黒い衣装に身を包んでいた。
会いたくて会いたくてたまらない存在。
「まさか……」
夢だと思った。
会いたいと願う心が見せる、優しく切ない幻影だと。
だからジェニアスは目を閉じた。
夢ならば消えるだろう。甘やかなそれを追い求めて彼等を哀しませるような真似はしたくない。
けれど、再び目を開けた時にも、その優しい蜃気楼は消え去ってはいなかった。
いや、むしろ、前よりももっとジェニアスに近付いていさえした。
今度こそ、ジェニアスは目を瞠った。
「あ……あ」
何か言いたくても言葉が見つからない。
「賢者さま……母上!」
「久しぶりだね、ジェニアス」
「ああ、ジェニアス。そんなに息せききって走らなくても……」
朝露を集める匙と水入れを取り落としたことに気付かぬまま駆け寄った彼に、笑いを含んだ穏やかな声が降り注いだ。
「賢者さま、母上……」
「おや、お祖父さま、と呼んでくれるのではなかったのかね?」
黒髪の青年が微笑う。
それを受けたジェニアスの白い頬が、ほんのりと紅く染まった。
「……お祖父さま。母上。いらしてくださったのですね」
いつまでいてくださるのだろう? 冬が終わるまでか、それともこの先ずっと?
期待に瞳を輝かせて尋ねたジェニアスに、けれど青年と少女は静かに答えた。
「ああ。エルウィングが世界中を旅してみたいと言うのでね。まずどこをおいても訪れたい場所に、最初に来たんだ」
「あなたのいる場所を、見てみたかったのですよ」
初めて訪れる場所なのに、何故か懐かしい気分になりますね、と、銀の髪の少女が微笑った。
「どうやら、王都でもフォアサイトでもなく、いつの間にかこの辺境が、私にとっての故郷になっていたらしい」
牧草地を見渡して、黒髪の救世王が呟いた。
「ここはやはり、再会の地、なのだな」
心の安らぐ場所 --
帰りたい場所。いつも手放しで迎えてくれる場所。
そう言う青年の声は、けれどどこか淋しげだった。
「行ってしまわれるのですか、すぐに?」
兵隊さん達におはようも言わず、お茶の1杯も差し出させてはくれずに?
ジェニアスの声が潤んでいる。
「回る所が多くて、あまりゆっくりもしていられないのでね。兵隊さん達に会ってしまったら、泣き落としで引き止められそうだから」
彼等のあの攻撃は強力だからね。
くすくすと笑いながら、それでも青年はやはり考えを変える気はないようだった。
「また、お会いできますか?」
ジェニアスの問いに、二人は答える。
「ええ、いつか。ジェニアス」
「いつか、きっと」
いつ、とは言わない。どこで、とも、彼等は言わなかった。
それでも -- 。
それでもいいと、ジェニアスは思った。
いつか会えると、彼等が言ってくれるなら。
潤む瞳を無理矢理叱りつけて笑みを作る。
視界がぼやけるのは、きっと朝日が眩しいせいだ。金色に輝く暁の光が。
「元気で、ジェニアス」
「元気でね、愛しい子」
「はい。お二人もどうかお元気で……お祖父さま、母上」
……言葉を交わしたその時、曙光を切り取ったような金色に輝く大きな何かが、ジェニアスの視界を塞いだ。
-- 金鷺。
今はもう数少ないはずの、幻の獣。
眩しさに思わずジェニアスが手を翳し、目を眇め……再び視力を取り戻したとき、祖父と母の姿は、聖なる鳥と共に消えていた。
「……行って、しまわれた……」
また、さよならも言わずに。
けれど、別れを告げないのは『次』があるからなのだと --
また会える日が来ると、ジェニアスは思って。
そうして歩き始めた彼のすみれの瞳に、また違う人影が映った。
「……カイル」
黒髪、青い瞳、肩のヒヨコ、髪飾り。
仏頂面で意地っ張りで、けれど心優しい最後の黒呪術師。
「カイル……カイル! 帰って来てくれたんですね!」
「あーーっ、マスターだ!」
朝の見回りに出てきたらしい兵達も、彼を見つけて声を上げる。
またしても匙と水入れを拾い忘れて駆け寄ったジェニアスに、カイルは相変わらず不機嫌そうにぼそりと答えた。
「商売するには都はいいが、使った薬草を補給するにはあそこは向かん。ここなら美枝森でいくらでも補給できるし、自分で作ればタダだしな」
握手を求めるジェニアスの手を、鬱陶しそうにカイルは振り払うけれど、それがただの照れ隠しに過ぎないのだと、ジェニアスも兵達も知っている。
「ああ、もう。また意地を張って。何でもいいですよ。帰ってきてくれたのなら」
「んだ! 朝御飯にするだよ、マスター」
「庵へはもう行っただか?」
「おらたち、ちゃんと掃除しといただよ」
「ええい、うるさい、お前等! まとわりつくな!」
賑やかなおしゃべりが朝の辺境にこだまする。
と、そこにまたひとつ、遠くから響く声が加わった。
「おーーい、みなさーーん!」
「誰だべ、あれ……?」
「あれ、あの黒髪……」
「アーヴィン! それに後ろにいるのは……隊長さん!」
「隊長……都に戻ったはずじゃぁなかったんだべか?」
「またなにかやらかしたとか……」
「どうせまたどこかの女に手を出したんだろう。自業自得だ」
勝手なことを口々に囁き交わす間にも、アーヴィンとサウル=カダフを乗せた馬は彼等に近付く。呆然と見つめる彼等の目の前で、ぽん、とアーヴィンが身軽に飛び降りた。
「お久しぶりです、みなさん!」
「アーヴィン、隊長さん! どうしたんです、一体また?」
来てくれたのは嬉しい。けれど、それがまた左遷だったら、と少し心配になってジェニアスが問うと、サウルはむっつりと黙り込み、アーヴィンが笑った。
「東部国境で事を上手く収めたご褒美に、軍が長期休暇を隊長に出したんですけどね、ゴンファノン将軍とシルフィンさんが、都においといたらせっかくの武勲も水の泡だからって、ここで休暇を取るように手を回したんですよ。私はその監視役なんです」
「陰謀だっ! くそー、せっかくの休暇を!」
「なるほど……上手い手ですね……」
「知り尽くしてるだな、さすがに隊長を」
「だから言ってる、自業自得だと」
わめくサウルを横目に、周囲は納得している。言いたい放題とはこのことだろう。
「ふん、だ。言って、言って、何とでも」
いじけたサウルに、兵達が声をかけた。
「隊長、また『あれ』編んであげるから」
「それだけじゃ足りんな」
ちろ、と上目遣いで、サウル。
「お酒もあるだよ」
「いっぱい?」
こくん、と兵達が頷く。
「なんなら子馬亭で歓迎パーティーをやりましょうか」
ジェニアスの言葉に、やっとサウルが立ち上がった。
「よし、それいこう! 今夜は子馬亭で酒飲んで遊ぶぞっ! 可愛い子も呼んでっ!」
「隊長、それがいけないんですってば!」
呆れ果てたアーヴィンが、サウルのマントを引っ張った。
「相変わらず、懲りると言うことを知らんヤツだな」
「でも、隊長さんらしいですよ」
ぼそりと呟いたカイルと、それに答えたジェニアスの苦笑混じりの囁きに、
「だべなぁ」
「ですね」
と、兵達とアーヴィンが同意する。
「お許しも出たところで、朝メシにしようぜ」
すたすたと歩き出したサウルを追って、一斉に皆が兵営へと移動を始める。
兵達が、アーヴィンが、カイルが。
そうして -- 最後にジェニアスが。
もう一度だけ、朝日に煌めく牧草地を振り返って、ジェニアスはちいさく囁いた。
「また、お会いしましょう、お祖父さま、母上。私達は、いつでもここにいますから」
冬へと向かうルウムの西の辺境は、確かにど田舎だ。迎える冬も長く厳しいけれど……
けれどルーマカールは、いつでも穏やかで、のどかで、暖かな空気に満ちている。
終
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