再会の地

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3章

「さて……。どこから始めよう? やはり最初は、おとぎ話からにしようか……」
 自分達が住まいとしている小さな塔の居間にジェニアス達を招き入れ、手ずから紅茶を淹れると、塔の主は自分も椅子に座ってカップの中を見つめながらそんな風に語り始めた。
  -- よく知られたおとぎ話だった。
 ルウムの国民なら -- この世界の人間なら知らぬ者のない、古い古い伝説だった。
 千年の昔から語り継がれ、今もどこかで誰かが語って聞かせているような、そんな話。
 ただ一つ違うのは、語り手が、おとぎ話の主人公その人だということだ。そして、おとぎ話に、人の知らない続きがあること。
 伝説の主は、遥かな時の彼方の、だが決して色褪せることのない己が記憶を、今はただ静かな声音で淡々と語る。それを、本人の口から初めて聞く者も、また既に聞いたことのある者も、遮ることなく聴いていた。
 そう長い話ではなかった。また、語り手自身も、長々と話すつもりはなかった。
 それでも、ジェニアス達がフォアサイトに着いた頃にはまだ十分明るかった陽の光は、青年が語り終えた時にはいつの間にか淡く金色を帯びていたし、引き込まれるように聞き入っていた聴衆も、聴き終えた時には誰からともなく小さなため息をこぼした。
 山の日没は、夏でも驚くほどに早い。
 金色の陽射しが茜に変わり、鮮やかな鮮紅色に辺りを染め上げるのに、大して時間はかからない。
 見る間に太陽は、険しいラインを描く山々の稜線を朱金の輝きで縁取り、あっと言う間に自ら織りあげた夕景色のタペストリーの向こうへとその姿を隠して、世界を藍色に染め変える。
 小さな塔の客人達は、この荘厳な昼と夜との交替の儀式を、ただ無言のまま見ていた。
 語られた事の意味を -- その重さを、受け入れ、反芻し、改めて心に抱き止めるには、それだけの時が必要だった。
 塔の主2人も、また無言。
 無言のまま、エルウィングは冷めてしまった紅茶を淹れ代え、その父親は、すぐに降りてくる山岳地帯の夜の寒気に備えて開け放たれた窓を閉ざし、暖炉に火を入れた。
 心地よい炎の香りが漂い、薪のはぜる軽やかな音が居間に響く。
 それでもまだ、誰も何も言おうとはしない。
 沈黙の帳を押し開けたのは、ジェニアスだった。
 暖炉に踊る炎を見つめて、彼はそっと呟いた。
「冬の支度……」
 皆の視線が、銀髪の神官に集まる。
「去年は、賢者さまが神殿の冬支度をして下さったんですね……」
「ジェニアス……」
「賢者さまが、次の冬の私達のために」
 今日から明日へと続いてゆく自分達の時間のために、千年の時を生きた伝説の主が。
 全ては言葉にしないまま、祖父である黒髪の青年を見つめるジェニアスの瞳には、ただ、深い尊敬と愛情と感謝と、そしてほんの少しの淋しさが浮かんでいた。
「そのあなたが私のお祖父さまで、伝説のエルディア救世王だとおっしゃるのですね。そして母上は、同じだけの時を生きてきたあなたの娘だと……」
「ええ。その通りです、ジェニアス。…信じられませんか、やはり?」
 エルウィングが問いかける。
 無理もない、と、その父が隣で呟く。
 だがジェニアスは、そんな2人に
「いいえ、信じます」
 と言って晴れやかに微笑った。
「信じます。これが嘘だとしたら、カイルや隊長さんが黙っているわけがない。それに、初めて賢者さまや母上に会う人はどうか判りませんが、私は少なくとも賢者さまを幼い頃から存じ上げています。賢者さま、あなたは、そのころから少しもお変わりになりません。何よりも、あなたは -- あなたは、嘘は決しておつきにならない」
 そうでしょう? と、ジェニアス。
「あなたはおっしゃったではありませんか。真実を語れない時には沈黙を守ると。そのあなたのお言葉を、どうして私が疑うのです? 確かに重い事実ではあるけれど、私は、賢者さま、あなたが真実を語って下さったことを、とても嬉しく思います」
 穏やかな笑みを浮かべて静かに語る孫を見つめながら、祖父は思う。
 靭くなった、と。
 親友を喪った時には、自分の出生に関することなど何も聞きたくないと言った彼が、今はその全てを受け入れてなお、微笑んでいる。
「靭く、なったな、ジェニアス」
「賢者さま……」
 祖父の言葉を受けて、ジェニアスは、ほんの少し照れくさそうに顔を赤らめた。
「そりゃあ、いろいろあったもんなぁ、神官さんにも」
「俺達も巻き込まれてさんざん苦労したんだ、少しくらいは強くなってもらわんと困る」
「たっ、隊長さん……カイル!」
 いきなりつっこまれて、更に顔を赤くするジェニアスである。
 重く沈んでいた部屋の空気が、ふっと和んだ。
 エルウィングは、そんな息子をくすくすと笑いながら愛しそうに見つめて、そして……
 そして、表情を戻して問いかけた。
「訊かないのですか、ジェニアス。わたくし達に、どうしてあなたを手放したのかと」
 答えて息子は言った。
「訊きたくないと言えば嘘になります。けれど、母上や賢者さまは、それが私にとって一番良いことだとお思いになったからそうなさったのでしょう?」
 だから訊く必要はないのだと。
「では……恨んではいませんか、わたくし達を。わたくしは、そうであっても当然のことだと思っています」
 エルウィングは更に続ける。自分の古傷を自分で抉るような言葉を、次から次へと。
 それが、彼女が長年抱き続けてきた息子への贖罪の言葉なのだと、彼女と共に生きてきた父親は思った。それは同時に、彼自身の言葉でもある。
 そのことに、誰もが -- ジェニアスも -- 気付いていた。
 気付いていたから、ジェニアスは、いいえ、と静かに呟いて首を横に振った。
「いいえ、母上。恨むなんてとんでもありません。自分をただの捨て子だと思っていた頃でも、両親を恨んだことはありませんでした。きっと何か事情があったのだろうと、そう思っていました」
 事情は、確かにあった。そして、それを語るならジェニアスの出自、ひいては『剣の賢者』の正体までも語らねばならなかったからこそ、ジェニアスをドル=ドナ大神官に託して、名乗ることなくただ見守るに留めてきた2人だった。
「怖かったのです、わたくし達は。あなたが剣に触れて、お父様やわたくしと同じく時の檻に囚われてしまうのが」
 18のエルウィングが不注意で触れてしまった剣だ。どれほど注意しても、幼いジェニアスが触れない保証などどこにもない。
「だから……だからわたくしたちは……」
 白い手で顔を覆い、細い肩を震わせて、エルウィングはやっとそれだけの言葉を絞り出した。
「辛い選択を、なさったのじゃな」
 それまで黙して語らなかったジョルジオ=モレスが、ポツリと呟いた。
 『客人』の中で、子供を持った経験のあるのは彼だけだ。
 最愛の息子を、愛しているからこそ、手放さねばならない --
 親にとってそれがどれ程辛いことか、判るだけに彼はそれ以上何も言えず、ただいたましげにエルウィングを見つめた。
「母上……どうか泣かないで下さい。お2人のお心は、よく判りましたから。お2人がどれ程私を愛して下さっているのかが判って、私はこれ以上嬉しいことはないのですから」
 ジェニアスは、少女のまま時を止めた母の前にひざまづき、いたわるように語りかける。
「ジェニアス……」
「そう言ってくれるかね、ジェニアス……」
「賢者さま。はい」
「私達の命は、もうすぐ尽きる。それでも?」
「ええ。知らないよりはずっと良いです。何も知らないままお2人を喪うことにならなくて良かったと、ここへ連れてきてくれたカイルや隊長さんに感謝しているくらいです。ただ、お2人にお願いがあるのですが……」
「何だね?」
 言ってごらん、と祖父が視線で促すと、
「賢者さまを、お祖父さまとお呼びしてもいいでしょうか?」
 少し照れたようにジェニアスが笑った。
「もちろんだ」
「ありがとうございます……お祖父さま」
「どういたしまして、孫息子」
「なぁ〜〜にをやってんだかねぇ、まったく」
 くすぐったそうに微笑みあう2人を見つめて、呆れたようにサウルが言った。
 カイルはといえば、苦手な『甘い』展開に、いささか居心地の悪そうな顔をしている。
 だが、当の本人達は、そんな外野を無視して先を続けた。
「それで、ジェニアス。エルウィングへの願いごとは何だね?」
「はい、あの……」
 祖父に向けたときよりも更に照れくさそうな顔で、ジェニアスが母を見つめる。対するエルウィングも、息子を見つめてほんの少し顔を赤らめながら、
「ジェニアス、わたくしも、あなたにお願いがあるのだけれど……」
 と囁いた。
 そのまま、照れているらしい母子は黙り込んでしまう。
 残る4人は次に続く言葉を待ったのだが、とうとう待ちくたびれてしまった。
「2人とも……そんなに言いにくいことなら、せーので一緒に言ってはどうだね?」
 笑いを含んだ声で、もう一人の血縁が提案する。
「けん……お祖父さま。はい……」
「そうですわね。……ジェニアス」
 同じ色の瞳で視線を交わし、深呼吸した母子は、一つ頷いて、吸い込んだ息を言葉と共に送り出した。
「母上、一度で良いから抱きしめては下さいませんか」
「ジェニアス、一度で良いから抱きしめさせてはくれませんか」
 言った本人達も、聞いていた方も、同時に破顔したものである。
「母上」
「ジェニアス」

 長い、長い時を経て、やっと抱き合った美しい母と子を見つめながら、皆が心を暖めているとき……
 突然ポツリとサウルが呟いた。
「い〜な〜、神官さん。あ〜んな美人と抱き合えて」
 ジョルジオ=モレスが呆れ果てた目でサウルを見やる。カイルが、救いようがないな、とでも言いたげは白い目を向けている。そして……
「隊長さん、母上には触らないで下さいね!」
「だから、人の娘に手を出すんじゃないっ!」
 またしても、祖父と孫の声が見事に重なり、静かなフォアサイトの夜に響きわたったのであった。




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