再会の地

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5章

 ジェニアス達がフォアサイトを後にしたのは、それから数日後のことである。
 学び舎では、短い夏が過ぎれば季節は駆け足で秋から冬へと向かうため、あまり遅くなると冬山の装備のない彼等には下山が危険であるのと、フォアサイトからルーマカールまでの道のりを考えれば、ここでのんびりしていては、西の辺境は神官不在のまま冬の門の祭を迎えるはめになる、というのを理由に、ジェニアス不在の間ルーマカールの神官を勤めた長身の救世王が孫を諭したのだ。
「お祖父さま、母上……私だけでも、もう少しいてはいけませんか?」
 学び舎の門まで見送りに来た祖父を見つめて、名残惜しそうにジェニアスが漏らした。
 母と祖父がこの世を去るときまで、側にいたい。
 それが、声に出さないジェニアスの本心だろう。
 けれど、母も祖父も、決して首を縦には振らなかった。
「わたくしも出来るならあなたともう少し一緒にいたいけれど、そうすると下山がとても危険になってしまうのですよ。ましてやあなた1人でなど……」
 エルウィングが心配げに息子に囁く。
「それに、そなたがあまり長く辺境の神殿を空けると、皆が心配するだろう」
 穏やかに微笑んで、黒髪の賢者が言う。
 2人が言葉にしない、ジェニアス達に下山を薦める本当の理由を、サウルだけは知っている -- そして、ぼんやりながら、他の者も。
『正直なところ、私にも判らないのだ、自分達があとどのくらいこの地にとどまっていられるのか』
 酒を酌み交わしたあの夜、ジェニアスが最期を看取りたいと言い出したらどうするのかと訊かれて、青年はそう答えた。
 ここに残れば、ジェニアスは、たとえ表には出さなくとも毎日怯えて暮らすことになる。いつ肉親の命の火が消えるのか……今日か、明日か -- そんな思いを胸に秘めて。
 そんな彼の顔を見て平静でいる自信は、青年にもエルウィングにもさすがにない。
『それに……どんな風にこの世界に別れを告げることになるのか、見当がつかないのだよ』
 苦笑混じりに言うと、サウルは眉をひそめた。
『見当がつかない、とは?』
『何しろ、生きてきた時間が破格だからね』
 普通の人のようにただ心臓が鼓動を止めるだけで肉体は残るのか、身体も魂も風に融けるように消えるのか、それとも……。
『見栄っ張り』
 切り返したサウルの声は、けれど、青年には『気持ちは判るよ』と言っているように聞こえたものだ。
「さあ、行きなさい、ジェニアス。出発が遅くなれば、それだけ夜と冬に近付いて、下山は危険になるのだから」
 山の天気は変わりやすい。山が微笑んでいるうちに、なるべく距離を稼いだ方が良いに決まっている。
 出来ることなら最期の時まで一緒にいたいと思うのは、何もジェニアスだけではない。エルウィングも、グランローヴァと呼ばれる青年とても同じことだ。けれど、ジェニアスの無事な帰還を願い、最期を見せたくないと思うなら、別れは早い方が良いのだ。
「お祖父さま、母上……」
 ジェニアスは、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「ほらほら、神官さん。そんな顔しなさんなって。何もこれが今生の別れって決まった訳じゃないんだから。単に剣の束縛が消えただけで、ひょっとしたらこのお2人さん、これからまた普通に年取ってくかもしれないぜ?」
 そうなったら、親、子、孫がほとんど同年齢で老けてくことになる。結構笑えるなぁ、と、まんざら冗談でもなさそうな口振りでサウルが笑った。
「そうだな、案外また冬の門の祭で魔王役をやっているかもしれない」
「それは楽しそうですわね。わたくしも一度、ルーマカールへ行ってみたいですわ」
 千年を生きた2人が、それを聞いて微笑む。
「ええ、是非、いらして下さい」
 ジェニアスが潤んだ瞳で微笑う。
「そんな面白いことになったら、是非ともスケッチに行かねばのう!」
 真顔でジョルジオ=モレスが握り拳を作る。
「そうなったら、子馬亭は冬が終わる前に酒を飲み尽くされて大弱りだな」
 相変わらずの仏頂面でカイルが呟いた。

「カ、カイル……そんな、いくら私が酒好きだと言っても……」
 ジェニアスが顔を赤らめる。
 その様子に笑いながら、本当にそうなれば良いと、祈りに近い気持ちで誰もが思っていた。
 ひとしきり笑った後で、ジョルジオ=モレスが突然ポン、と手を叩いた。
「おお、忘れるところじゃった」
 背中に背負った荷物をがさがさと探り、何やら小さな平たいものを取り出す。
「これを、エルウィングさま、あなたに」
 年老いた芸術家の手から白く美しい少女の手へと渡されたそれは、蔦の模様の枠にはめ込まれた小さな肖像画だった。
 描かれているのは、ジェニアスだ。
「あなたがいつもご子息と共にいられるように、と思いましてな」
 こんな絵でも、無いよりはある方が、話しかけるにも良いでしょう、と、『いつも』に少し力を込めながら画家は言った。
「ありがとう……」
 手渡された息子の肖像を、エルウィングがそっと胸に抱きしめる。
 本当に、少女のようなしぐさだった。
 このしぐさを見て、一体誰が思うだろう、彼女が千年の時を生きてきたなどと。
 けれど、
「ありがとう、モレス殿。けれどわたくしには、あなたにお返しできるものが何もありません……」
 そのための時間もないと言外に滲ませて囁く紫水晶の瞳には、少女では持ち得ない静寂と英知が宿っていた。
「あなたに代償を求めるつもりなど毛頭ござらぬよ。ただ……もし許していただけるのなら、あなたのお姿を、春の女神として描きたいのじゃが……」
「わたくしを、絵に……?」
 少女の姿と齢経た樹の静けさを合わせ持つ存在を、画家が描いてみたいと思うのも無理はない。
「お許し下さるかな?」
 その言葉を、画家は少女だけでなく、その父と息子にも向けた。
「娘さえ良ければ」
「母上が、良いとおっしゃるなら」
「わたくし……わたくしで、良ければ」
 2人の言葉を受けて、エルウィングが笑った。
「良ければ、どころではない。あなたを描きたいんじゃ、わしは! さて、そうと決まれば構図を考えねばの。花畑が良いか、芽吹いたばかりの若木を添えるか、雪を割って咲く花が良いか……。燃えてきたぞぉ! じゃがここでは画材が少なすぎる。都に戻って最高の画材を見つけねば。そういうわけで、わしはこれで失礼させていただきますぞ。どうかお2人とも息災での!」
 俄然創作意欲に燃え始めたジョルジオ=モレスは、早速ああでもないこうでもないと構図を考え始め、すたすたと歩いて行く。
 足下もまともに見えていない様子で、見ているほうが危なっかしくてはらはらする。
「ちょっ、こら、じいさん! 待てって」
 年寄りに弱いらしいカイルが、1度振り向いてから、慌ててモレスの後を追いかけた。その肩からヒヨコが飛び立つ。ヒヨコは、エルウィングの手のひらにぱたぱたと舞い降り、ぴぃ、と一声鳴いて、カイルの肩に戻った。
「やれやれ、困ったもんだな、芸術家ってヤツは。のめりこんだらそれしか見えない。しょうがない、追いかけるか。じゃあな、背高さん、エルウィング姫」
 ぶつぶつとぼやきながら、サウルも彼等に続く。
  -- 誰も、『さよなら』とは言わなかった。
 その理由を、残された3人も知っていた。
「……さあ、ジェニアス、そなたももう行きなさい」
 いつまでもいては、別れが辛くなるだけだから。どれだけ名残を惜しんでもいつか別れはやってくるのだから。
 祖父が促す。
「気をつけてね、ジェニアス」
 母が優しく送り出す。
「はい……はい、お祖父さま、母上。お2人も、どうかお体にはお気をつけて」
 そして、ジェニアスも -- 。
 潤んだ瞳のまま涙を微笑みに変えて歩き出したジェニアスを、母と祖父はただ静かに見守っていた。




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