再会の地

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1章

 窓から見える空は、張りつめて音がしそうな程に青く澄んでいた。眼前に聳える山々は、雪を戴いて鮮やかに白く輝いていた。平地では見ることの出来ない植物達が彩り豊かな美しい花を咲かせ、その周りを虫や鳥が楽しげに飛び交っている。

 ここは、フォアサイト。

 ルウムの神殿の総本山にして、東の学び舎とも呼ばれる、外界から隔絶された賢人達の聖域である。
 その聖域を構成する塔の一つに、彼はいた。
 フォアサイトでも限られた者しか出入りの出来ない長老達の住まう一画の、更に最奥部に、豪奢ではないが優美な小さな塔がある。
 高さのない塔だったが、一際山頂に近い場所にあるために、そこからはフォアサイト全体を見下ろすことが出来た。


 眼下に広がる景色を、淡い笑みを浮かべながら楽しげに眺めて彼は呟く。
「春、だな」
 平野部の季節で言えば今は夏だ。けれど、ここでは春と夏が一時にやってくるし、気温も、彼の感覚からすれば夏よりは春に近い。
 人を寄せつけない峨峨たる山嶺にもやはり春は来るのだと、彼は今更ながらに思っていた。
 と、背後から涼やかな声がかかった。
「何か珍しいものが見えまして? お父様」
 呼びかけたのは、銀色の髪にすみれ色の瞳の、たおやかに美しい少女である。彼女が父と呼ぶのであれば、相手は少なくとも30代も後半なのであろうが、しかし……
 少女の声に応えて振り向いたのは、黒髪に、黒灰色の眼光の鋭い瞳、黒ずくめの衣装の、驚くほど長身の -- 青年、だった。
 どう見ても、少女に『お父様』と呼ばれる程の年ではない。せいぜい20代後半であろうと思われる青年は、しかし、呼びかけに異論を唱えるでもなく、穏やかに答えた。
「いや、別に何も。ただ、見るもの全てが美しくて、ね」
 もうすぐ別れを告げる世界だから、魂だけになっても忘れないように瞳に焼き付けておきたいと思って。
 青年が歌うように呟くと、「そうですね」と少女も微笑った。
 少女の名を、エルウィングという。
 千年近い時をこのフォアサイトで過ごしてきた、ルウム王家の血を引く娘である。
 そして、黒髪の青年は --
 青年を、どう呼べばよいのだろう。
 最も知られた名は、エルディア救世王。千年前、冥王を滅ぼし、大暗黒時代を終わりに導いた2人の英雄のうちの1人。
 彼こそ、遥かな時を隔てた伝説の主だった。
 本来の名は、ローランド。他にも、エクサイラ、マクロビアン、2代目グランローヴァなど、彼に与えられた呼び名は多い。自身でつけた偽名もいくつかあるけれど……彼自身の気に入りは、2つだ。
 一つは、彼が愛し慈しんだ銀髪の青年が、幼い頃彼に与えた『剣の賢者』という呼び名。もう一つは、遠い西の辺境で心優しい人々が与えてくれた『背高さん』という名。
 そう呼ぶ声を -- そう呼んだ人々を、思い出すだけで心が温かくなる。
「ここが春なら、ルーマカールは夏真っ盛りだな」
 どうしているだろうか、あの穏やかで純朴な、春の日溜まりのような人々は。
「……ジェニアスは、元気でしょうか?」
 彼の想いを読み取ったように、エルウィングが囁いた。
「元気だよ、きっと。女の子を口説いて回るサウル=カダフにめくじらを立てて、きっと元気にサウルを追いかけ回しているよ。ひょっとしたら、昨夜飲み過ぎて二日酔いかもしれないね」
「誰に似たのでしょうね、その、ジェニアスのお酒好きは?」
「さてねぇ……」
 娘と2人クスクスと笑いあいながら、青年は懐かしい場所に想いを馳せる。
 遥かに遠い場所。広がる草原、美枝森。木木の梢では、ツバメ達が囀っているだろう。
「ここには、さすがにツバメは来ないな」
 そうして窓の外をふと見やって……青年は彼等に気付いた。
「おや、珍しい。フォアサイトに自力で辿り着いた者がいるようだよ、エルウィング」
「まあ……本当に珍しいですわね」
 窓に近付いて、エルウィングも呟く。
 決して狭くはないフォアサイトの、各所に点在する学棟のそのまた向こう。いつもは閉ざされている、聖域と俗界とを隔てる門が、今は開いていた。のみならず、その開いた門の前に、豆粒ほどのいくつかの人影が見えた。
 よく見れば、何やら揉めているらしい。
 とても、珍しいことだった。
 見聞を広めるために学び舎を出て世界を旅する者も少なくはないから、門が開かれること自体は取り立てて騒ぐことではない。だが、門の前で揉めごとが起こるのは、まず無いと言ってよかった。
 フォアサイトの者が外へ出るには、何の不都合もありはしない。また、彼等の帰還に際しても、フォアサイトに属する者には独自の印が与えられるし、門を守る『守りの長』は、フォアサイトで学ぶ者の顔をほぼ完璧に把握しているから、問題は起こらない。
 第一、フォアサイトへの道は隠されていて、ある程度の力がないと、たどり着くことはおろか道を見出すことさえも出来ないのだ。
 新たな入門者といっても、ほとんど各地を旅する賢人達が見込んで連れ帰るか、それなりの手続きを踏んで来るから、これもまた、揉め事になどなりようがないのであった。
 ただ、自力で道を見出し辿り着く者を除いては。
 今青年達が目にしているのは、その『例外中の例外』のようである。
「一体、どんな人達なのでしょうね」
「見に行ってみるかい?」
 珍しく興味を示した娘を優しく見やって、黒髪の青年が誘った時、ノックの音が響いた。 「2代目様。申し訳ありませんが、門のところまでおいで頂けますでしょうか?」
 ドア越しに届いた声は、賢人団の一人のものだった。2代目様、と呼ぶのは、王子時代の名で呼ばれるのも、エルディア救世王と呼ばれるのも拒んだ伝説の主に対して、青年の存在を知るフォアサイト賢人団が見出した苦肉の策である。
「門? 何事だ?」
 先程から見ている悶着が、自分と何か関わりがあるのかと青年が訝しむと、やはり少し困惑した声音で長老が言った。
「はぁ。自ら道を見出して学び舎に辿り着いた者達が、あなた様のお名を挙げて、是非会いたいと申しておりまして……」
「私の……? 面白そうだ、行ってみよう。エルウィング、そなたも来るかね?」
 差し延べられた父の手に、エルウィングはふわりと微笑って自らの白い手を重ねた。




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