4章
-- 深夜、と言って良い時刻だった。
太陽の支配下にあってすら賑やかとはほど遠いフォアサイトが、夜の闇に包まれて静まり返っていた。人は勿論、建物も、山までもが眠りについているようだ。
見上げる空には、手を伸ばせば触れることも叶いそうな程、大きく鮮やかに星々が輝いている。
辺りに満ちるのは、風に揺れる木々の葉のざわめきと、夜行性の動物達の微かな気配のみ。
その静かな夜の聖域を、明かりもつけず、ただ星々の光の部屋を照らすにまかせて一人眺める人影があった。
夏とは言え、フォアサイトの夜は冷え込むものを、暖炉の火も熾火に落ちたというのに窓を開け放ち、上着を羽織るでもなく、まるで夜そのものと同化しようとするかのように、その人影はただ黙して立っていた。
見上げる程の長身、闇色の髪、同じ色の服。
-- 彼、だった。
時には厳しい表情も浮かべる端正な顔に、今は穏やかな笑みが浮かんでいた。
その彼の耳に、ドアをそっと押し開ける微かな音が届いた。続いて、今ではすっかり聞き慣れてしまった声が。
「寒くはないのかね、背高さん? いくら長生きしてたって、気温を感じないってことはないだろうに」
「サウル=カダフ……まだ起きていたのか」
「あんただって人のことは言えんでしょうが、賢者さま」
振り向いた『賢者』に、サウルが苦笑混じりに呟く。
その手には、いつの間に見つけ出したのか、ワインのボトルと、グラスが2つ、握られていた。
「山の夜は冷えるよ。どうだね、1杯?」
そのワインもグラスも、本来は黒髪の青年のものなのだが、そんなことは気にも懸けずにさっさと栓を開け、グラスに注ぎ始めるサウルである。
どちらが主人か、これではさっぱり判らないな、などと思いながら、青年は
「そうだな、もらおうか」
と、差し出されたグラスを受け取った。
そのまましばらく、2人は無言で酒を酌み交わし、やがて --
冷え切った体をワインが暖め始めた頃になって、サウルがポツリと呟いた。
「その剣……まだ帯びているんだな」
言われて青年は、既に『そこにある』ことにすっかり馴染んでしまった剣に触れた。
千年前冥王を倒し、今またその暗黒の主を滅ぼした伝説の剣。銀晶球を柄にはめ込んだ、人の手に余る力を秘めた剣だ。
「万が一、ということもあるからね」
剣に選ばれた自分。そして不注意から剣を抜いてしまったエルウィング。共に、剣の運命と結び合わされ、時の流れに取り残された。
そうでなかった精霊の戦士は、剣の怒りに触れて都市と共に滅びた。
冥王が滅び、剣はその役目を終えたけれど --
刃もこぼれ、ただの剣としても使えなくなってはいるけれど、それでも青年には、誰かが迂闊に剣に触れるのを許すことは出来なかった。そうするには、剣の力は大きすぎた。
自分がこの世を去るその時、剣もまた世界に別れを告げるのだろうと、青年は思っている。それまでは、剣の主としての役割を果たし続けようと、千年の間剣と共に在った黒髪の元英雄は心に決めていた。
旧い時代の重荷は、旧い時代の者が運び去るべきなのだと。
そのためにこそ、自分は己の正体を明かすことなくこの千年の間剣と共に生きてきたのだから。
黙り込んだ伝説の英雄をちらっと見やり、また夜空に視線を戻してサウルが囁く。

「迷惑、だったかね?」
何が、とは、サウルは言わなかった。青年も訊かなかった --
その必要はなかった。
だから青年も、夜空を見上げたまま短く答えだけを返した。
「最初は、ね」
最初に門の前で彼等の姿を --
もっと正確に言うならジェニアスの姿を見たときには、余計なことをしてくれたものだと、苦虫を噛み潰す思いがしたものだ。
誰にも、特にジェニアスには何も教えずに、ただ娘と2人黙ってこの世を去る気でいた。それがジェニアスのためでもあると思っていた。それなのに、と……。
けれどそれも一瞬のことだった。
賢者さま、母上、と呼ぶジェニアスの声を聞き、ジェニアス、と息子を呼ぶエルウィングの声を聞いた時、青年は、自分が、そして娘がどれ程ジェニアスに会いたがっていたのかを思い知らされたのだ。
-- 彼等が聖地に来てくれて良かった。
青年は今、心からそう思っていた。
「背高さん」
呼ばれて振り向くと、サウルと目が合った。
いつもは人を食ったような笑みを浮かべるその瞳が、今は少しだけ挑むような色を覗かせていた。
「背高さん。ルーマカールであんたは言ったね。自分の前を軽やかに飛び過ぎるつばめ達には、思い出の他は何一つ残したくはないと。だから何も言わずに去って行くと」
「……そういえばそんなことも言ったな」
イドラグールで再び冥王にまみえる前のことだ。ジェニアスが都からルーマカールに戻って間もない頃で、自分は、この世界を去る予感をまだ漠然としか感じていなかった。
『次』がないことを心の底で感じながら、ジェニアスにさよならを言わないまま西の辺境に別れを告げたのは、それからしばらく後のことだ。
もしもサウルやカイルがジェニアスをここに連れてこなければ、自分は再び孫に会うことはなく、エルウィングは成長した息子の姿をその目で見ることもなく世界に別れを告げていただろう。
それでも良かったのかも知れないが……。
「だがね、背高さん。あんたが忘れてることがある。つばめの訪れを待つ人や木には、あいつらは目の前を通り過ぎる風のようなものかも知れんがね。つばめ達は、あの小さな体と翼で、途方もなく長い時間と距離を旅しながら、自分の愛した土地や木を捜して戻って来るんだよ」
-- つばめにも、心はある。だから、甘く見るな。
そう言っているのだろう、サウルは。
相変わらず痛いところを突いてくる男だと --
けれどサウルの言うことは正しいのだと、苦笑混じりにのっぽの賢者は思った。
「だから、ジェニアスを連れてきたのか、ここに?」
問いかけるとサウルは、
「いんや。神官さんをここに連れて来るって言って聞かなかったのはカイル」
と答えた。
「だが、あんたはそれを止めなかった」
「思惑をひっくり返された時のあんたの顔が見たかっただけだよ」
しれっと言ってのけるサウルである。
「相変わらず、食えない男だな、あんたは」
「お互い様だね」
この手の軽口にも、すっかり馴染んでしまった。
『食えない』2人は、口元に笑みを浮かべながら酒を酌み交わしている。
見上げた窓の外で、まるで彼等の食えない会話に呆れ果てたのだ、とでも言いたげに、星空に軽い羽音を響かせてフクロウが飛び去った。
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