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音楽家 甲斐正人さん インタビュー
(平成25年度 助成金受賞者インタビュー)

 

作曲・編曲家、音楽監督として、映画、テレビ、
ミュージカル、ストレートプレイまで、
幅広い作品を手掛けてこられた甲斐正人さん。

オリジナル・ミュージカルも多数、世に生み出されてきました。
その幅広さはいったいどこからきたのか、様々にお話しを伺いました。

 

音楽家を目指したきっかけから教えてください。



我が家は、父が指揮者で母はソプラノ歌手という環境で、
中学・高校のはじめまではそれなりに反発していたんです。

自分はバンドを組んだり遊んでばかりで勉強もしませんでした。

それが高校生になって将来のことを考えた時、
やっぱり音楽をやるのが自分の道かなと思い定めて、
音楽大学を受験しようと思ったんです。

バンドはやってましたけど遊びの範囲内だったし、
一から音楽の勉強を始めたのが高校二年生の時。

音楽家を目指すなら普通は中学一年生くらいから
本格的に始めないと間に合わない世界で、
ものすごくスロースターターだったんです。

 

スロースタートだと分かっていて、でもやはり音楽だと思ったのはなぜですか。

 

何の根拠もないのに、日本の音楽文化をなんとかしたいと思った、
というのはありますね。

当時のクラシック音楽はすごく閉塞状況にあったというか、
既定の音楽を壊そうという前衛の時代だった。

ピアニストが演奏会でピアノの前にだまって座るだけで、
何も演奏しない曲とか(ジョン・ケージの代表曲「4分33秒」)、
いくところまでいって極まった感じがあって。

そうじゃなくて、もう一度自分たちの手に音楽を取り戻したい、
そのためにはどうしたらいいんだろう?って。

芸大で作曲科を選んだのも、
こういう音楽を作りたいから作曲家になろうではなくて、
もっと茫漠とした想いです。

巷は全共闘の全盛期で、社会にアンチテーゼを投げかけている。そんな時、
自分には何かできるのかと考えて、新しい音楽を創造することだ、と。

当時の時代性もあったと思います。


大学在学中はいかがでしたか。

 

大学に受かった時、恩師の池内友次郎先生から
よくお前勉強したなと言われたんです。

普通は受からないけどいい成績で受かったと。

あとは遊んでいいからといわれて、「はい」って(笑)。

大学に入ってからの担当教授が、
作曲家の村松禎三先生。

映画音楽の大家で、
売れっ子だから忙しくて授業にこない、
生徒もこない(笑)。

で、このままではさすがに卒業に支障があると先生が言いだして、
なんか曲書いて持ってこいと。

それで持っていって見せたら
「面白いな、君は演奏できるものを書くんだな」って(笑)。

つまり、演奏できないくらい複雑なものを作るのが当時の時流だったんです。

「これなら君は作曲家として生きていけるぞ」と。
それでなんとか卒業したわけです。

 

 

一から仕事としての作曲を教わった

 

師匠である広瀬健次郎さんとの出会いは。

 

学生時代に、食事をしながら演奏が聴ける
ライブハウスのようなところで、
アルバイトでドラムを叩いていたんです。

そこの顧問が日劇のプロデューサーで、
自分は劇場音楽に興味があって
勉強して仕事したいんだと相談したら、
広瀬さんを紹介してくれた。

広瀬さんは当時、
東宝映画の「若大将」シリーズ、「駅前」シリーズをはじめ、
日劇、宝塚歌劇、コマーシャル、
雪村いづみさんのジャズのアレンジだとか、
アニメ「オバケのQ太郎」まで、非常に幅広い活動をしていた。

私はその弟子の中の最末弟みたいなものなんですけど、
そういう方に師事したので、
自分自身も幅広くなっちゃったのかもしれません(笑)。

 

修行時代はいかがでしたか。

 

まずは、音符の書き方から勉強し直しです。

僕はそれまでアカデミックな教育を受けてきたから、
音符を一個一個ちゃんと書くので時間かかる。

それで、早く書く方法を教えてもらって。

作曲は、いかに演奏しやすくて
しかもお客さんが満足するものを作れるかがポイントになります。

帝劇で演奏不可能に近い曲を
流すわけにはいかないですからね(笑)。

最初はダメだって全部直されながら、
仕事としての作曲のやり方を徹底的に教えてもらった。

助手をしていたあいだは、
長谷川一夫さんの東宝歌舞伎から
映画音楽の現場まで、
ありとあらゆる現場に行きました。


師匠はすごい人で、
面倒くさがって録音の前日の夜中にならないと作曲をしない。

徹夜で書いて撮影所に行くと、
そこにはオーケストラが待っている。

でもまだ全体の半分くらいしか書いてない。

どうするのかというと、
出来上がった曲をまず自分で指揮して録音する。

それを映像にはめて
監督の意見を聞いているあいだに次の曲を書くんです。

まるでスケッチを描くようにパーッと書いて、
パーンと放り投げる。

今度は私がそれを見てガーッて
オーケストラ用にアレンジしていく。

隣には写譜屋さんが数人いて、
できたものからどんどんパート譜にしていくんです。

師匠は「火事場のクソ力というのがあって、
その時にひらめくんだ」って言うんだけど、
こちらとしては生きた心地がしない(笑)。

もっと大変なことがその後いっぱいあったけれど、
その時の師匠のトレーニングがあったおかげで
乗り越えられたんだなと、今になって思います。

助手を六年くらいやった後、
自分の仕事をしながら三年くらいは手伝いもしていたので、
完全に独立したのは三十過ぎてから。

音楽家としてはすごく遅いですよね。

 

 

・日本初のミュージカルを世界へ

 

独立されてからの転機は。

 

やはり、映画「蒲田行進曲」でしょうね。

独立して色々な仕事をやり始めて、
日劇の仕事もしていたんです。

そのつながりで映画の仕事をやらないかと声をかけてもらった。

「蒲田行進曲」以降、
映像の仕事をたくさんいただくようになりました。

三十代はテレビドラマの仕事が主体でしたね。

当時多かった二時間ドラマや、
帯の連続ドラマもたくさんやりました。

二時間ドラマって作っている時は
いつ放映するか決まってないんです。

ある時、日テレとTBSとテレ朝の同じ時間帯で、
私が担当した二時間ドラマが放映されたことがあって(笑)。

それぐらいテレビドラマばかりやっていた時代でした。

もう三十年くらい続いている西村京太郎シリーズも、
その頃手掛けたドラマの一つです。

 

 

二十代が修行時代なら、三十代が映像音楽の時代とも言えますね。

 

そうですね、そして四十代になって
劇場の仕事に軸足をかえていくんです。

東宝で初めてミュージカルの音楽監督の仕事をしたのが、
大地真央さんが宝塚退団後初めて出演した
『王子と踊り子』(竹邑 類演出)。

その後、『エニシング・ゴーズ』(宮本亜門演出)を手掛け、
それまでの東宝のミュージカルの作り方とは違うやり方を
宮本亜門と二人で提案して、
これまでにないミュージカルのスタイルを作れたという意味で、
エポックになった作品です。

 

 

音楽監督の仕事はどのようなことをするのでしょうか。

 

音楽監督って、ほとんどの人が
どんな仕事をするのかわからないと思うんです。

ミュージカルの”耳”に関する事柄の演出をするのが音楽監督で、
”目”、視覚的なことの演出をするのが演出家、
という役割分担があるんです。

具体的には、音響家と
どういうスピーカーシステムで
このミュージカルをお客さんに届けるのか相談したり、
音楽での狙いを伝えるための
音響システムを作ってほしいと打ち合わせたり。

オーケストラの指導をしたり、
歌い手にこういう歌の解釈をしてほしいと言ったり、
ボイストレーナーにこうやって指導してほしいと伝えたり。

演出家と音楽をどうやって芝居の中に
盛り込んでいくのか打ち合わせをしたり・・・。

とにかく音に関するすべてのディレクションをする。

やろうと思えば仕事は山のようにあるんですよ。

 

 

甲斐先生は、『火の鳥』や『おもいでぽろぽろ』など、
日本独特の背景のある作品の作曲を数多く手掛けていらっしゃいますね。

 


自分がなぜ劇場音楽をやりたかったのかというと、
日本人として誇りに思える作品を日本人の手で作って、
それを世界の人たちに紹介するというのが最終テーマなんです。

ブロードウェイの人たちにもよく言われるんです、
「世界中からいろんな作品がくるのに
なんで日本人はもってこないんだ?」と。


たとえば『ミス・サイゴン』は
完全にキリスト教の世界観ですよね。

それとは違う、東洋の哲学をベースにした作品を
世界に発表していかなければならないんじゃないか。

そういうフィロソフィーを日本から文化として発信していけたら・・・
そんな想いを込めて作ったのが
『火の鳥』であり、『ブッダ』なんです。

願わくば、日本の劇場の方々が注目してくださって、
一緒にやろうよというモチベーションが起きてくれたなら、
多くの作曲家や脚本家の希望にもなるんじゃないか、と。

こうやって評価されるのなら、
自分も新しい作品を作ってみようという人が出てくると思うんです。

それが未来の日本の演劇界の発展にも
繋がっていくのではないかと思っています。

 

 

 

取材・文/高橋涼子
提供/日本演劇興行協会

 

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