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明 暗(4)
夏目漱石 

九十一

 お延より一つ年上のその妹は、もう二人の子持であった。長男は既に四年前に生れていた。単に母であるという事実が、彼女の自覚を呼び醒ますには充分であった。彼女の心は四年以来何時でも母であった。母でない日はただの一日もなかった。
 彼女の夫は道楽ものであった。そうして道楽ものに能く見受けられる寛大の気性を具えていた。自分が自由に遊び廻る代りに、細君にもむずかしい顔を見せない、と云って無暗に可愛がりもしない。これが彼のお秀に対する態度であった。彼はそれを得意にしていた。道楽の修行を積んで始めてそういう境界に達せられるもののように考えていた。人生観という厳めしい名を付けて然るべきものを、もし彼が有っているとすれば、それは取りも直さず、物事に生温く触れて行く事であった。微笑して過ぎる事であった。何にも執着しない事であった。呑気に、ずぼらに、淡白に、鷹揚(おうよう)に、善良に、世の中を歩いて行く事であった。それが彼の所謂通であった。金に不自由のない彼は、今までそれだけで押し通して来た。又何処へ行っても不足を感じなかった。この好成績が益(ますます)彼を楽天的にした。誰からでも好かれているという自信を有った彼は、無論お秀からも好かれているに違ないと思い込んでいた。そうしてそれは間違でも何でもなかった。実際彼はお秀から嫌われていなかったのである。
 器量望みで貰われたお秀は、堀の所へ片付いてから始めて夫の性質を知った。放蕩の酒で臓腑を洗濯されたような彼の趣も漸く解する事が出来た。こんなに拘泥の少ない男が、また何の必要があって、是非自分を貰いたいなどと、真面目に云い出したものだろうかという不審さえ、すぐ有耶無耶(うやむや)のうちに葬られてしまった。お延ほど根強くない彼女は、その意味を覚る前に、もう妻としての興味を夫から離して、母らしい輝やいた始めての眼を、新らしく生れた子供の上に注がなければならなくなった。
 お秀のお延と違う所はこれだけではなかった。お延の新世帯が夫婦二人ぎりで、家族は双方とも遠い京都に離れているのに反して、堀には母があった。弟も妹も同居していた。親類の厄介者までいた。自然の勢い彼女は夫の事ばかり考えている訳に行かなかった。中でも母には、他の知らない気苦労をしなければならなかった。
 器量望みで貰われただけあって、外側から見たお秀は何時まで経っても若かった。一つ年下のお延に比べて見ても矢っ張り若かった。四歳(よっつ)の子持とはどうしても考えられない位であった。けれどもお延と違った家庭の事情の下に、過去の四五年を費やして来た彼女は、何処かにまたお延と違った心得を有っていた。お延より若く見られないとも限らない彼女は、ある意味から云って、慥(たしか)にお延よりも老けていた。言語態度が老けているというよりも、心が老けていた。いわば、早く世帯染みたのである。
 こういう世帯染みた眼で兄夫婦を眺めなければならないお秀には、常に彼等に対する不満があった。その不満が、何か事さえあると、兎角(とかく)彼女を京都にいる父母の味方にしたがった。彼女はそれでも成るべく兄と衝突する機会を避けるようにしていた。ことに嫂(あによめ)に気不味い事をいうのは、直接兄に当るよりも猶悪いと思って、平生から慎しんでいた。然し腹の中は寧ろ反対であった。何かいう兄よりも何も云わないお延の方に、彼女はいつでも余分の非難を投げ掛けていた。兄がもしあれ程派手好きな女と結婚しなかったならばという気が、始終胸の底にあった。そうしてそれは身贔屓(みびいき)に過ぎない、お延の気の毒な批判であるという事には、かつて思い至らなかった。
 お秀は自分の立場を能く承知している積でいた。兄夫婦から烟たがられないまでも、決して快よく思われていない位の事には、気が付いていた。然し自分の立場を改めようという考は、彼女の頭の何処にも入って来なかった。第一には二人が厭がるから猶改めないのであった。自分の立場を厭がるのが、結局自分を厭がるのと同じ事に帰着してくるので、彼女は其所に反抗の意地を出したくなったのである。第二には正しいという良心が働らいていた。これはいくら厭がられても兄の為だと思えば構わないという主張であった。第三は単に派手好なお延が嫌だという一点に纏められてしまわなければならなかった。お延より余裕のある、又お延より贅沢の出来る彼女にして、その点では自分以下のお延が何故気に喰わないのだろうか。それはお秀にとって何の問題にもならなかった。但しお秀には姑(しゅうと)があった。そうしてお延は夫を除けば全く自分自身の主人公であった。然しお秀はこの問題に関聯(かんれん)してこの相違すら考えなかった。
 お秀がお延から津田の消息を電話で訊かされて、その翌日病院へ見舞に出掛けたのは、お時の行く小一時間前、丁度小林が外套を受取ろうとして、彼の座敷へ上り込んだ時分であった。

九十二

 前の晩能く寐られなかった津田は、その朝看護婦の運んで来て呉れた膳に一寸手を出したぎり、又仰向になって、昨夕の不足を取り返すために、重たい眼を閉(つぶ)っていた。お秀の入って来たのは、丁度彼がうとうとと半睡状態に入り掛けた間際だったので、彼は襖の音ですぐ眼を覚ました。そうして病人に斟酌(しんしゃく)を加える積で、わざとそれを静かに開けたお秀と顔を見合せた。
 こういう場合に彼等は決して愛嬌を売り合わなかった。嬉しそうな表情も見せ合わなかった。彼等からいうと、それは寧ろ陳腐過ぎる社交上の形式に過ぎなかった。それから一種の虚偽に近い努力でもあった。彼等には自分等兄弟でなくては見られない、又自分等以外の他人には通用し悪(にく)い黙契があった。どうせ互いに好く思われよう、好く思われようと意識して、上部(うわべ)の所作だけを人並に尽したところで、今更始まらないんだから、一層下手に騙し合う手数を省いて、良心に背かない顔そのままで、面と向き合おうじゃないかという無言の相談が、多年の間に何時か成立してしまったのである。そうしてその良心に背かない顔というのは、取も直さず、愛嬌のない顔という事に過ぎなかった。
 第一に彼等は普通の兄妹として親しい間柄であった。だから遠慮の要らないという意味で、不愛嬌な挨拶が苦にならなかった。第二に彼等は何処かに調子の合わない所を有っていた。それが災の元で、互の顔を見ると、互に弾き合いたくなった。
 不図首を上げて其所にお秀を見出した津田の眼には、正にこうした二重の意味から来る不精と不関心があった。彼は何物をか待ち受けているように、一旦きっと上げた首を又枕の上に横たえてしまった。お秀は又お秀で、それには一向頓着なく、言葉も掛けずに、そっと室(へや)の内に入って来た。
 彼女は何より先にまず、枕元にある膳を眺めた。膳の上は汚ならしかった。横倒しに引ッ繰り返された牛乳の罎(びん)の下に、鶏卵(たまご)の殻が一つ、その重みで押し潰されている傍に、歯痕(はがた)の付いた焼麺麭(トースト)が食欠(くいかけ)のまま投げ出されてあった。しかも外にまだ一枚手を付けないのが、綺麗に皿の上に載っていた。玉子もまだ一つ残っていた。
「兄さん、こりゃもう済んだの。まだ食べ掛けなの」
 実際津田の片付かたは、何方にでも取れる様な、だらしのないものであった。
「もう済んだんだよ」
 お秀は眉をひそめて、膳を階子段の上り口まで運び出した。看護婦の手が隙かなかったためか、何時までも兄の枕元に取り散らかされている朝食(あさめし)の残骸(なきがら)は、掃除の行き届いた自分の家を今出掛けて来たばかりの彼女に取って、余り見っとも可いものではなかった。
「汚ならしい事」
 彼女は誰に小言を云うともなく、ただ一人こう云って元の座に帰った。然し津田は黙って取り合わなかった。
「どうして己の此所に居る事が知れたんだい」
「電話で知らせて下すったんです」
「お延がかい」
「ええ」
「知らせないでも可いって云ったのに」
 今度はお秀の方が取り合わなかった。
「すぐ来ようと思ったんですけれども、生憎(あいにく)昨日は少し差支えがあって――」
 お秀はそれぎり後を云わなかった。結婚後の彼女には、こういう風に物を半分ぎりしか云わない癖が何時の間にか出て来た。場合によると、それが津田には変に受取れた。「嫁に行った以上、兄さんだってもう他人ですからね」という意味に解釈される事が時々あった。自分達夫婦の間柄を考えて見ても、其所に無理はないのだと思い返せない程理屈の徹らない頭を有った津田では無論なかった。それどころか、彼はこの妹のような態度で、お延が外へ対して振舞って呉れれば好いがと、暗に希望していた位であった。けれども自分がお秀にそうした素振を見せられて見ると決して好い気持はしなかった。そうして自分こそ絶えずお秀に対してそういう素振を見せているのにと反省する暇も何にもなくなってしまった。
 津田は後を訊かずに思う通りを云った。
「なに今日だって、忙がしい所をわざわざ来て呉れるには及ばないんだ。大した病気じゃないんだから」
「だって嫂(ねえ)さんが、もし閑があったら行って上げて下さいって、わざわざ電話で仰しゃったから」
「そうかい」
「それにあたし少し兄さんに話したい用があるんですの」
 津田は漸く頭をお秀の方へ向けた。

九十三

 手術後局部に起る変な感じが彼を襲って来た。それはガーゼを詰め込んだ創口の周囲にある筋肉が一時に収縮するために起る特殊な心持に過ぎなかったけれども、一旦始まったが最後、恰(あたか)も呼吸か脈搏のように、規則正しく進行して已まない種類のものであった。
 彼は一昨日の午後始めて第一の収縮を感じた。芝居へ行く許諾を彼から得たお延が、階子段を下へ降りて行った拍子に起ったこの経験は、彼に取って全然新らしいものではなかった。この前療治を受けた時、既に同じ現象の発見者であった彼は、思わず「又始まったな」と心の中(うち)で叫んだ。すると苦い記憶をわざと彼の為に繰り返して見せるように、収縮が規則正しく進行し出した。最初に肉が縮む、詰め込んだガーゼで荒々しくその肉を擦(こ)すられた気持がする、次にそれが段々緩和されて来る、やがて自然の状態に戻ろうとする、途端に一度引いた浪が又磯へ打ち上げるような勢で、収縮感が猛烈に振り返してくる。すると彼の意志はその局部に対して全く平生(へいぜい)の命令権を失ってしまう。止めさせようと焦慮(あせ)れば焦慮る程、筋肉の方で猶云う事を聞かなくなる。――これが過程であった。
 津田はこの変な感じとお延との間にどんな連絡があるか知らなかった。彼は籠の中の鳥みたように彼女を取扱うのが気の毒になった。何時までも彼女を自分の傍に引き付けて置くのを男らしくないと考えた。それで快よく彼女を自由な空気の中に放して遣った。然し彼女が彼の好意を感謝して、彼の病床を去るや否や、急に自分だけ一人取り残されたような気がし出した。彼は物足りない耳を傾むけて、お延の下へ降りて行く足音を聞いた。彼女が玄関の扉を開ける時、烈しく鳴らした号鈴(ベル)の音さえ彼には余り無遠慮過ぎた。彼が局部から受ける厭な筋肉の感じは丁度この時に再発したのである。彼はそれを一種の刺戟に帰した。そうしてその刺戟は過敏にされた神経のお蔭に外ならないと考えた。ではお延の行為が彼の神経をそれ程過敏にしたのだろうか。お延の所作に対して突然不快を感じ出した彼も、其所までは論断する事が出来なかった。然し全く偶然の暗合でない事も、彼に云わせると、自明の理であった。彼は自分だけの料簡(りょうけん)で、二つの間にある関係を拵(こしら)えた。同時にその関係を後からお延に云って聞かせて遣りたくなった。単に彼女を気の毒がらせるために、病気で寐ている夫を捨てて、一日の歓楽に走った結果の悪かった事を、彼女に後悔させるために。けれども彼はそれを適当に云い現わす言葉を知らなかった。たとい云い現わしても彼女に通じない事は慥(たしか)であった。通じるにしても、自分の思い通りに感じさせる事はむずかしかった。彼は黙って心持を悪くしているより外に仕方がなかった。
 お秀の方を向き直った咄嗟に、又感じ始めた局部の収縮が、すぐ津田にこれだけの[顛]末(てんまつ)を思い起させた。彼は苦い顔をした。
 何にも知らないお秀にそんな細かい意味の分る筈はなかった。彼女はそれを兄が何時でも自分にだけして見せる例の表情に過ぎないと解釈した。
「お厭なら病院をお出になってから後にしましょうか」
 別に同情のある態度も示さなかった彼女は、それでも幾分か斟酌(しんしゃく)しなければならなかった。
「何処か痛いの」
 津田はただ首肯(うなず)いて見せた。お秀はしばらく黙って彼の様子を見ていた。同時に津田の局部で収縮が規則正しく繰り返され始めた。沈黙が二人の間に続いた。その沈黙の続いている間彼は苦い顔を改めなかった。
「そんなに痛くっちゃ困るのね。嫂(ねえ)さんはどうしたんでしょう。昨日の電話じゃ痛みも何にもないようなお話しだったのにね」
「お延は知らないんだ」
「じゃ嫂さんが帰ってから後で痛み始めたの」
「なに本当はお延のお蔭で痛み始めたんだ」とも云えなかった津田は、この時急に自分が自分に駄々っ子らしく見えて来た。上部は兎に角、腹の中が如何にも兄らしくないのが耻ずかしくなった。
「一体お前の用というのは何だい」
「なに、そんなに痛い時に話さなくっても可いのよ。又にしましょう」
 津田は優に自分を偽る事が出来た。しかしその時の彼は偽るのが厭であった。彼はもう局部の感じを忘れていた。収縮は忘れれば已み、已めば忘れるのをその特色にしていた。
「構わないからお話しよ」
「どうせあたしの話だから碌(ろく)な事じゃないのよ。可くって」
 津田にも大よその見当は付いていた。

九十四

「またあの事だろう」
 津田はしばらく間を置いて、仕方なしにこう云った。然しその時の彼はもう例(いつも)の通り聴きたくもないという顔付に返っていた。お秀は心でこの矛盾を腹立たしく感じた。
「だからあたしの方じゃ先刻から用は今度(こんだ)の次にしようかと云ってるんじゃありませんか。それを兄さんがわざわざ催促するように仰しゃるから、ついお話しする気にもなるんですわ」
「だから遠慮なく話したら可いじゃないか。どうせお前はその積で来たんだろう」
「だって、兄さんがそんな厭な顔をなさるんですもの」
 お秀は少くとも兄に対してなら厭な顔位で会釈を加える女ではなかった。従って津田も気の毒になる筈がなかった。却って妹の癖に余計な所で自分を非難する奴だ位に考えた。彼は取り合わずに先へ通り過(こ)した。
「また京都から何か云って来たのかい」
「ええまあそんな所よ」
 津田の所へは父の方から、お秀の許へは母の側から、京都の消息が重に伝えられる事に略(ほぼ)極(きま)っていたので、彼は文通の主を改めて聞く必要を認めなかった。然し目下の境遇から云って、お秀の母から受け取ったという手紙の中味にはまた冷淡であり得る筈がなかった。二度目の請求を京都へ出してから以後の彼は、絶えず送金の有無を心のうちで気遣っていたのである。兄弟の間に「あの事」として通用する事件は、成るべく聴くまいと用心しても、月末の仕払や病院の入費の出所に多大の利害を感じない訳に行かなかった津田は、またこの二つのものが互に困絡(こんがら)かって、離す事の出来ない事情の下にある意味合を、お秀よりも能く承知していた。彼はどうしても積極的に自分から押して出なければならなかった。
「何と云って来たい」
「兄さんの方へもお父さんから何か云って来たでしょう」
「うん云って来た。そりゃ話さないでも大抵お前に解ってるだろう」
 お秀は解っているともいないとも答えなかった。ただ微かに薄笑の影を締りの好い口元に寄せて見せた。それが如何にも兄に打ち勝った得意の色をほのめかすように見えるのが津田には癪だった。平生は単に妹であるという因縁ずくで、少しも自分の眼に付かないお秀の器量が、こう云う時に限って、悪く彼を刺戟した。なまじい容色が十人並以上なので、この女は余計他の感情を害するのではなかろうかと思う疑惑さえ、彼に取っては一度や二度の経験ではなかった。「お前は器量望みで貰われたのを、生涯自慢にする気なんだろう」と云って遣りたい事も[屡](しばしば)あった。
 お秀はやがてきちりと整った目鼻を揃えて兄に向った。
「それで兄さんはどうなすったの」
「どうも仕様がないじゃないか」
「お父さんの方へは何にも云ってお上にならなかったの」
 津田はしばらく黙っていた。それからさも已を得ないといった風に答えた。
「云って遣ったさ」
「そうしたら」
「そうしたら、まだ何とも返事がないんだ。尤も家へはもう来ているかも知れないが、何しろお延が来て見なければ、其所も分らない」
「然しお父さんがどんなお返事をお寄こしになるか、兄さんには見当が付いて」
 津田は何とも答えなかった。お延の拵らえて呉れた褞袍(どてら)の襟を手探りに探って、黒八丈の下から抜き取った小楊枝で、頻りに前歯をほじくり始めた。彼が何時までも黙っているので、お秀は同じ意味の質問を外の言葉で掛け直した。
「兄さんはお父さんが快よく送金をして下さると思っていらっしゃるの」
「知らないよ」
 津田はぶっきら棒に答えた。そうして腹立たしそうに後を付け加えた。
「だからお母さんはお前の所へ何と云って来たかって、先刻から訊いてるじゃないか」
 お秀はわざと眼を反らして縁側の方を見た。それは彼の前でああ、ああと嘆息して見せる所作の代りに過ぎなかった。
「だから云わない事じゃないのよ。あたし始からこうなるだろうと思ってたんですもの」

九十五

 津田は漸くお秀宛で来た母の手紙の中に、どんな事柄が書いてあるかを聞いた。妹の口から伝えられたその内容によると、父の怒りは彼の予期以上に烈しいものであった。月末の不足を自分で才覚するなら格別、もしそれさえ出来ないというなら、これから先の送金も、見せしめのため、当分見合せるかも知れないというのが父の実際の考えらしかった。して見ると、この間彼の所へそう云って来た垣根の繕いだとか家賃の滞りだとかいうのは嘘でなければならなかった。よし嘘でないにした所で、単に口先の云い前と思わなければならなかった。父がまた何で彼に対してそんなしらじらしい他人行儀を云って寄こしたものだろう。叱るならもっと男らしく叱ったら宜さそうなものだのに。
 彼は沈吟して考えた。山羊髯を生やして、万事に勿体を付けたがる父の顔、意味もないのに束髪を嫌って髷にばかり結いたがる母の頭、その位の特色はこの場合を解釈する何の手掛りにもならなかった。
「一体兄さんが約束通りになさらないから悪いのよ」とお秀が云った。事件以後何度となく彼女によって繰り返されるこの言葉ほど、津田の聞きたくないものはなかった。約束通りにしないのが悪い位は、妹に教わらないでも、能く解っていた。彼はただその必要を認めなかっただけなのである。そうしてその立場を他からも認めて貰いたかったのである。
「だってそりゃ無理だわ」とお秀が云った。「いくら親子だって約束は約束ですもの。それにお父さんと兄さんだけの事なら、どうでも可いでしょうけれども」
 お秀には自分の良人(おっと)の堀がそれに関係しているという事が一番重要な問題であった。
「良人(うち)でも困るのよ。あんな手紙をお母さんから寄こされると」
 学校を卒業して、相当の職にありついて、新らしく家庭を構える以上、曲りなりにも親の厄介にならずに、独立した生計を営なんで行かなければならないという父の意見を翻がえさせたものは堀の力であった。津田から頼まれて、また無造作にそれを引き受けた堀は、物価の騰貴、交際の必要、時代の変化、東京と地方との区別、色々都合の好い材料を勝手に並べ立てて、勤倹一方の父を口説き落したのである。その代り盆暮に津田の手に渡る賞与の大部分を割いて、月々の補助を一度に幾分か償却させるという方針を立てたのも彼であった。その案の成立と共に責任の出来た彼は又至極呑気な男であった。約束の履行などという事は、最初から深く考えなかったのみならず、遂行の時期が来た自分には、もうそれを忘れていた。詰責(きっせき)に近い手紙を津田の父から受取った彼は、殆んどこの事件を念頭に置いていなかっただけに、驚ろかされた。然し現金の綺麗に消費されてしまった後で、気が付いた所で、どうする訳にも行かなかった。楽天的な彼はただ申し訳の返事を書いて、それを終了と心得ていた。ところが世間は自分のズボラに適当するように出来上っていないという事を、彼は津田の父から教えられなければならなかった。津田の父は何時まで経っても彼を責任者扱いにした。
 同時に津田の財力には不相応と見える位な立派な指輪がお延の指に輝き始めた。そうして始めにそれを見付け出したものはお秀であった。女同士の好奇心が彼女の神経を鋭敏にした。彼女はお延の指輪を賞(ほ)めた。賞めた序にそれを買った時と所とを突き留めようとした。堀が保証して成立した津田と父との約束をまるで知らなかったお延は、平生の用心にも似ず、その点にかけて、全く無邪気であった。自分がどの位津田に愛されているかを、お秀に示そうとする努力が、凡ての顧慮に打ち勝った。彼女は有のままをお秀に物語った。
 不断から派手過る女としてお延を多少悪く見ていたお秀は、すぐその顛末を京都へ報告した。しかもお延が盆暮の約束を承知している癖に、わざと夫を唆のかして、返される金を返さないようにさせたのだという風な手紙の書方をした。津田が自分の細君に対する虚栄心から、内状をお延に打ち明けなかったのを、お秀はお延自身の虚栄心ででもあるように、頭から極めてかかったのである。そうして自分の誤解をそのまま京都へ伝えてしまったのである。今でも彼女はその誤解から逃れる事が出来なかった。従ってこの事件に関係していうと、彼女の相手は兄の津田よりも寧ろ嫂(あによめ)のお延だと云った方が適切かも知れなかった。
「一体嫂(ねえ)さんはどういう積でいらっしゃるんでしょう。こんだの事に就いて」
「お延に何にも関係なんかありやしないじゃないか。あいつにゃ何にも話しやしないんだもの」
「そう。じゃ嫂さんが一番気楽で可いわね」
 お秀は皮肉な微笑を見せた。津田の頭には、芝居に行く前の晩、これを質にでも入れようかと云って、ぴかぴかする厚い帯を電燈の光に差し突けたお延の姿が、鮮かに見えた。

九十六

「一体どうしたら可いんでしょう」
 お秀の言葉は不謹慎な兄を困らせる意味にも取れるし、又自分の当惑を洩らす表現にもなった。彼女には夫の手前というものがあった。夫よりも猶遠慮勝な姑さえその奥には控えていた。
「そりゃ良人だって兄さんに頼まれて、口は利いたようなものの、其所まで責任を有つ積でもなかったんでしょうからね。と云って、何もあれは無責任だと今更お断りをする気でもないでしょうけれども。兎に角万一の場合にはこう致しますからって証文を入れた訳でもないんだから、そうお父さんの様に、法律ずくめに解釈されたって、あたしが良人に対して困るだけだわ」
 津田は少くとも表面上妹の立場を認めるより外に道がなかった。然し腹の中では彼女に対して気の毒だという料簡が何処にも起らないので、彼の態度は自然お秀に反響して来た。彼女は自分の前に甚だ横着な兄を見た。その兄は自分の便利より外に殆んど何にも考えていなかった。もし考えているとすれば新らしく貰った細君の事だけであった。そうして彼はその細君に甘くなっていた。寧ろ自由にされていた。細君を満足させるために、外部に対しては、前よりは一層手前勝手にならなければならなかった。
 足をこう見ている彼女は、津田に云わせると、最も同情に乏しい妹らしからざる態度を取って兄に向った。それを遠慮のない言葉で云い表わすと、「兄さんの困るのは自業自得だから仕様がないけれども、あたしの方の始末はどう付けて呉れるのですか」というような露骨千万なものになった。
 津田はどうするとも云わなかった。又どうする気もなかった。却って想像に困難なものとして父の料簡を、お秀の前に問題とした。
「一体お父さんこそどういう積なんだろう。突然金を送らないとさえ宣告すれば、由雄は工面するに違ないとでも思っているのか知ら」
「其所なのよ、兄さん」
 お秀は意味ありげに津田の顔を見た。そうして又付け加えた。
「だからあたしが良人に対して困るって云うのよ」
 微かな暗示が津田の頭に閃めいた。秋口に見る稲妻のように、それは遠いものであった、けれども鋭どいものに違なかった。それは父の品性に関係していた。今まで全く気が付かずにいたという意味で遠いという事も云える代りに、一旦気が付いた以上、父の平生から押して、それを是認したくなるという点では、子としての津田に、随分鋭どく切り込んで来る性質のものであった。心のうちで劈頭(へきとう)に「まさか」と叫んだ彼は、次の瞬間に「ことによると」と云い直さなければならなくなった。
 臆断の鏡によって照らし出された、父の心理状態は、下のような順序で、予期通りの結果に到着すべく仕組まれていた。――最初に体よく送金を拒絶する。津田が困る。今までの行掛り上堀に訳を話す。京都に対して責任を感ずべく余儀なくされている堀は、津田の窮を救う事によって、始めて父に対する保証の義務を果す事が出来る。それで否応なしに例月分を立て替えてくれる。父はただ礼を云って澄ましている。
 こう段落を付けて考えて見ると、そこには或種の要心があった。相当な理屈もあった。或程度の手腕は無論認められた。同時に何等の淡白さがそこには存在していなかった。下劣とまで行かないでも、狐臭い狡獪(こうかい)な所も少しはあった。小額の金に対する度外れの執着心が殊更に目立って見えた。要するに凡てが父らしく出来ていた。
 外の点でどう衝突しようとも、父のこうした遣口に感心しないのは、津田とも雖もお秀に譲らなかった。有(あら)ゆる意味で父の同情者でありながら、この一点になると、流石のお秀も津田と同じように眉を顰(ひそ)めなければならなかった。父の品性。それは寧ろ別問題であった。津田はお秀の補助を受ける事を快よく思わなかった。お秀は又兄夫婦に対して好い感情を有っていなかった。その上夫や姑への義理もつらく考えさせられた。二人はまず実際問題をどう片付けて可いかに苦しんだ。その癖口では双方とも底の底まで突き込んで行く勇気がなかった。互いの忖度(そんたく)から成立った父の料簡は、ただ会話の上で黙認し合う程度に発展しただけであった。

九十七

 感情と理屈の縺れ合った所を解(ほ)ごしながら前へ進む事の出来なかった彼等は、何処までもうねうね歩いた。局所に触るような又触らないような双方の態度が、心のうちで双方を焦烈(じれ)ったくした。然し彼等は兄妹であった。二人共ねちねちした性質を共通に具えていた。相手の淡泊(さっぱり)しない所を暗に非難しながらも、自分の方から爆発するような不体裁は演じなかった。ただ津田は兄だけに、又男だけに、話を一点に括(くく)る手際をお秀より余計に有っていた。
「つまりお前は兄さんに対して同情がないと云うんだろう」
「そうじゃないわ」
「でなければお延に同情がないというんだろう。そいつはまあ何方(どっち)にしたって同なじ事だがね」
「あら、嫂さんの事をあたし何とも云ってやしませんわ」
「要するにこの事件に就いて一番悪いものは己だと、結局こうなるんだろう。そりゃ今更説明を伺わなくっても能く兄さんには解ってる。だから好いよ。兄さんは甘んじてその罰を受けるから。今月はお父さんからお金を貰わないで生きて行くよ」
「兄さんにそんな事が出来て」
 お秀の兄を冷笑(あざ)けるような調子が、すぐ津田の次の言葉を喚び起した。
「出来なければ死ぬまでの事さ」
 お秀は遂にきりりと緊った口元を少し緩めて、白い歯を微かに見せた。津田の頭には、電燈の下で光る厚帯を弄くっているお延の姿が、再び現れた。
「いっそ今までの経済事情を残らずお延に打ち明けてしまおうか」
 津田に取ってそれ程容易(たやす)い解決法はなかった。然し行き掛りから云うと、これ程また困難な自白はなかった。彼はお延の虚栄心をよく知り抜いていた。それに出来るだけの満足を与える事が、また取も直さず彼の虚栄心に外ならなかった。お延の自分に対する信用を、女に大切なその一角に於て突き崩すのは、自分で自分に打撲傷を与えるようなものであった。お延に気の毒だからという意味よりも、細君の前で自分の器量を下げなければならないというのが彼の大きな苦痛になった。その位の事をと他から笑われるようなこんな小さな場合ですら、彼はすぐ動く気になれなかった。家には現に金がある、お延に対して自己の体面を保つには有余る程の金がある。のにという勝手な事実の方がどうしても先に立った。
 その上彼はどんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった。己れを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事の出来ない性質に父母から生み付けられていた。
「出来なければ死ぬまでさ」と放り出すように云った後で、彼はまだお秀の様子を窺っていた。腹の中に言葉通りの断乎たる何物も出て来ないのが耻ずかしいとも何とも思えなかった。彼は寧ろ冷やかに胸の天秤を動かし始めた。彼はお延に事情を打ち明ける苦痛と、お秀から補助を受ける不愉快とを商量した。そうして一層(いっそ)二つのうちで後の方を冒したらどんなものだろうかと考えた。それに応ずる力を充分有っていたお秀は、第一兄の心から後悔していないのを慊(あきた)らなく思った。兄の後に脚本尊のお延が澄まして控えているのを悪んだ。夫の堀をこの事件の責任者ででもあるように見傚(みな)して、京都の父が遠廻しに持ち掛けて来るのが如何にも業腹であった。そんなこんなの蟠(わだか)まりから、津田の意志が充分見え透いて来た後でも、彼女は容易に自分の方で積極的な好意を示す事を敢てしなかった。
 同時に、器量望みで比較的裕福な家に嫁に行ったお秀に対する津田の態度も、また一種の自尊心に充ちていた。彼は成上りものに近いある臭味(しゅうみ)を結婚後のこの妹に見出した。或は見出したと思った。何時か兄という厳めしい具足を着けて彼女に対するような気分に支配され始めた。だから彼と雖(いえど)も妄(みだ)りにお秀の前に頭を下げる訳には行かなかった。
 二人はそれで何方からも金の事を云い出さなかった。そうして両方共両方で云い出すのを待っていた。その煮え切らない不徹底な内輪話の最中に、突然下女のお時が飛び込んで来て、二人の拵(こし)らえ掛けていた局面を、一度に崩してしまったのである。

九十八

 然しお時のじかに来る前に、津田へ電話の掛って来た事も慥(たしか)であった。彼は階子段の途中で薬局生の面倒臭そうに取り次ぐ「津田さん電話ですよ」という声を聞いた。彼はお秀との対話を一寸已(や)めて、「何処からです」と訊き返した。薬局生は下りながら、「大方お宅からでしょう」と云った。冷淡なこの挨拶が、つい込み入った話に身を入れ過ぎた津田の心を横着にした。芝居へ行ったぎり、昨日も今日も姿を見せないお延の仕うちを暗に快よく思っていなかった彼を猶不愉快にした。
「電話で釣るんだ」
 彼はすぐこう思った。昨日の朝も掛け、今日の朝も掛け、ことによると明日の朝も電話だけ掛けて置いて、散々人の心を自分の方に惹き着けた後で、ひょっくり本当の顔を出すのが手だろうと鑑定した。お延の彼に対する平生の素振から推して見ると、この類測に満更な無理はなかった。彼は不用意の際に、突然としてしかも静粛(しとやか)に自分を驚ろかしに這入って来るお延の笑顔さえ想像した。その笑顔が又変に彼の心に影響して来る事も彼には能く解っていた。彼女は一刹那(いつせつな)に閃めかすその鋭どい武器の力で、何時でも即座に彼を征服した。今まで持ち応えに持ち応え抜いた心機をひらりと転換させられる彼から云えば、見す見す彼女の術中に落ち込むようなものであった。
 彼はお秀の注意にも拘わらず、電話をそのままにして置いた。
「なにどうせ用じゃないんだ。構わないよ。放って置け」
 この挨拶が又お秀にはまるで意外であった。第一はズボラを忌む兄の性質に釣り合わなかった。第二には何でもお延の云いなり次第になっている兄の態度でなかった。彼女は兄が自分の手前を憚かって、不断の甘い所を押し隠すために、わざと嫂に対して無頓着を粧(よそお)うのだと解釈した。心のうちで多少それを小気味よく感じた彼女も、下から電話の催促をする薬局生の大きな声を聞いた時には、それでも兄の代りに立ち上らない訳に行かなかった。彼女はわざわざ下まで降りて行った。然しそれは何の役にも立たなかった。薬局生が好い加減にあしらって、荒らし抜いた後の受話器はもう不通になっていた。  形式的に義務を済ました彼女が元の座に帰って、再び二人に共通な話題の緒口を取り上げた時、一方では急込(せきこ)んだお時が、とうとう我慢し切れなくなって自動電話を棄てて電車に乗ったのである。それから十五分と経たないうちに、津田は又予想外な彼女の口から予想外な用事を聞かされて驚ろいたのである。
 お時の帰った後の彼の心は容易に元へ戻らなかった。小林の性格は能く知り抜いているという自信はありながら、不意に自分の留守宅に押し掛けて来て、それ程懇意でもないお延を相手に、話し込もうとも思わなかった彼は、驚ろかざるを得ないのみならず、又考えざるを得なかった。それは外套を遣る遣らないの問題ではなかった。問題は、外套とはまるで縁のない、しかし他(ひと)の外套を、平気で能く知りもしない細君の手からじかに貰い受けに行くような彼の性格であった。もしくは彼の境遇が必然的に生み出した彼の第二の性格であった。もう一歩押して行くと、その性格がお延に向ってどう働らき掛けるかが彼の問題であった。其所には突飛があった。自暴(やけ)があった。満足の人間を常に不満足そうに眺める白い眼があった。新らしく結婚した彼等二人は、彼の接触し得る満足した人間のうちで、得意な代表者として彼から選択される恐れがあった。平生から彼を軽蔑する事に於て、何の容赦も加えなかった津田には、又そういう素地(したじ)を作って置いた自覚が充分あった。
「何をいうか分らない」
 津田の心には突然一種の恐怖が湧いた。お秀はまた反対に笑い出した。何時までもその小林という男を何とかかとか批評したがる兄の意味さえ彼女には殆んど通じなかった。
「何を云ったって、構わないじゃありませんか、小林さんなんか。あんな人のいう事なんぞ、誰も本気にするものはありやしないわ」
 お秀も小林の一面を能く知っていた。然しそれは多く彼が藤井の叔父の前で出す一面だけに限られていた。そうしてその一面は酒を呑んだ時などとは、生れ変ったように打って違った穏やかな一面であった。
「そうでないよ、中々」
「近頃そんなに人が悪くなったの。あの人が」
 お秀は矢張信じられないという顔付けをした。
「だって燐寸(マッチ)一本だって、大きな家を焼こうと思えば、焼く事も出来るじゃないか」
「その代り火が移らなければそれまででしょう、幾箱燐寸を抱え込んでいたって。嫂さんはあんなに人に火を付けられるような女じゃありませんよ。それとも……」

九十九

 津田はお秀の口から出た下半句を聞いた時、わざと眼を動かさなかった。余所を向いたまま、凝とその後を待っていた。然し彼の聞こうとするその後は遂に出て来なかった。お秀は彼の気になりそうな事を半分云ったぎりで、すぐ句を改めてしまった。
「何だって兄さんは又今日に限って、そんな詰らない事を心配していらっしゃるの。何か特別な事情でもあるの」
 津田は矢張元の所へ眼を付けていた。それは成可く妹に自分の心を気取(けど)られないためであった。眼の色を彼女に読まれないためであった。そうして現にその不自然な所作から来る影響を受けていた。彼は何となく臆病な感じがした。彼は漸くお秀の方を向いた。
「別に心配もしていないがね」
「ただ気になるの」
 この調子で押して行くと彼はただお秀から冷笑(ひや)かされるようなものであった。彼はすぐ口を閉じた。
 同時に先刻から催おしていた収縮感が又彼の局部に起った。彼は二三度それを不愉快に経験した後で、或は今度も規則正しく一定の時間中繰り返さなければならないのかという掛念に制せられた。
 そんな事に気の付かないお秀は、何故だか同じ問題を何時までも放さなかった。彼女は一旦緒口を失ったその問題を、すぐ別の形で彼の前に現わして来た。
「兄さんは一体嫂さんをどんな人だと思っていらっしゃるの」
「何故改まって今頃そんな質問を掛けるんだい。馬鹿らしい」
「そんなら可いわ、伺わないでも」
「然し何故訊くんだよ。その訳を話したら可いじゃないか」
「一寸必要があったから伺ったんです」
「だからその必要をお云いな」
「必要は兄さんのためよ」
 津田は変な顔をした。お秀はすぐ後を云った。
「だって兄さんが余まり小林さんの事を気になさるからよ。何だか変じゃありませんか」
「そりゃお前にゃ解らない事なんだ」
「どうせ解らないから変なんでしょうよ。じゃ一体小林さんがどんな事をどんな風に嫂さんに持ち掛けるって云うの」
「持ち掛けるとも何とも云っていやしないじゃないか」
「持ち掛ける恐れがあるという意味です。云い直せば」
 津田は答えなかった。お秀は穴の開くようにその顔を見た。
「まるで想像が付かないじゃありませんか。たとえばいくらあの人が人が悪くなったにした所で、何も云いようがないでしょう。一寸考えて見ても」
 津田はまだ答えなかった。お秀はどうしても津田の答える所まで行こうとした。
「よしんば、あの人が何か云うにした所で、嫂さんさえ取り合わなければそれまでじゃありませんか」
「そりゃ聴かないでも解ってるよ」
「だからあたしが伺うんです。兄さんは一体嫂さんをどう思っていらっしゃるかって。兄さんは嫂さんを信用していらっしゃるんですか、いらっしゃらないんですか」
 お秀は急に畳みかけて来た。津田にはその意味が能く解らなかった。然し其所に相手の拍子を抜く必要があったので、彼は判然(はっきり)した返事を避けて、わざと笑い出さなければならなかった。
「大変な権幕だね。まるで詰問でも受けている様じゃないか」
「胡麻化さないで、ちゃんとした所を仰しゃい」
「云えばどうするというんだい」
「私はあなたの妹です」
「それがどうしたというのかね」
「兄さんは淡白でないから駄目よ」
 津田は不思議そうに首を傾けた。
「何だか話が大変むずかしくなって来たようだが、お前少し癇違(かんちがい)をしているんじゃないかい。僕はそんな深い意味で小林の事を云い出したんでも何でもないよ。ただ彼奴(あいつ)は僕の留守にお延に会って何をいうか分らない困った男だというだけなんだよ」
「ただそれだけなの」
「うんそれだけだ」
 お秀は急に的(あて)の外れたような様子をした。けれども黙ってはいなかった。
「だけど兄さん、もし堀のいない留守に誰かあたしの所へ来て何か云うとするでしょう。それを堀が知って心配すると思っていらっしって」
「堀さんの事は僕にゃ分らないよ。お前は心配しないと断言する気かも知れないがね」
「ええ断言します」
「結構だよ。――それで?」
「あたしの方もそれだけよ」
 二人は黙らなければならなかった。


 然し二人はもう因果づけられていた。どうしても或物を或所まで、会話の手段で、互の胸から敲き出さなければ承知が出来なかった。ことに津田には目前の必要があった。当座に逼る金の工面、彼は今その財源を自分の前に控えていた。そうして一度取り逃せば、それは永久彼の手に戻って来そうもなかった。勢い彼はその点だけでもお秀に対する弱者の形勢に陥っていた。彼は失なわれた話頭(わとう)を、どんな風にして取り返したものだろうと考えた。
「お秀病院で飯を食って行かないか」
 時間が丁度こんな愛嬌をいうに適していた。ことに今朝母と子供を連れて横浜の親類へ行ったという堀の家族は留守なので、彼はこの愛嬌に特別な意味を有たせる便宜もあった。
「どうせ家へ帰ったって用はないんだろう」
 お秀は津田のいう通りにした。話は容易く二人の間に復活する事が出来た。然しそれは単に兄妹らしい話に過ぎなかった。そうして単に兄妹らしい話はこの場合彼等に取って些(ちっ)とも腹の足にならなかった。彼等はもっと相手の胸の中へ潜り込もうとして機会を待った。
「兄さん、あたし此所に待っていますよ」
「何を」
「兄さんの入用のものを」
「そうかい」
 津田は殆んど取り合わなかった。その冷淡さは正に彼の自尊心に比例していた。彼は精神的にも形式的にもこの妹に頭を下げたくなかった。然し金は取りたかった。お秀はまた金はどうでも可かった。然し兄に頭を下げさせたかった。勢い兄の欲しがる金を餌(えば)にして、自分の目的を達しなければならなかった。結果はどうしても兄を焦(じ)らす事に帰着した。
「上げましょうか」
「ふん」
「お父さんはどうしたって下さりっこありませんよ」
「ことによると、呉れないかも知れないね」
「だってお母さんが、あたしの所へちゃんとそう云って来ていらっしゃるんですもの。今日その手紙を持って来て、お目に懸けようと思ってて、つい忘れてしまったんですけれども」
「そりゃ知ってるよ。先刻もうお前から聞いたじゃないか」
「だからよ。あたしが持って来たって云うのよ」
「僕を焦らすためにかい、又は僕に呉れるためにかい」
 お秀は打たれた人のように突然黙った。そうして見る見るうちに、美くしい眼の底に涙を一杯溜めた。津田にはそれが口惜涙としか思えなかった。
「どうして兄さんはこの頃そんなに皮肉になったんでしょう。どうして昔のように人の誠を受け入れて下さる事が出来ないんでしょう」
「兄さんは昔とちっとも違ってやしないよ。近頃お前の方が違って来たんだよ」
 今度は呆れた表情がお秀の顔にあらわれた。
「あたしが何時どんな風に変ったと仰しゃるの。云って下さい」
「そんな事は他(ひと)に訊かなくっても、よく考えて御覧、自分で解る事だから」
「いいえ、解りません。だから云って下さい。どうぞ云って聞かして下さい」
 津田は寧ろ冷やかな眼をして、鋭どく切り込んで来るお秀の様子を眺めていた。此所まで来ても、彼には相手の機嫌を取り返した方が得か、又はくしゃりと一度に押し潰した方が得かという利害心が働らいていた。その中間を行こうと決心した彼は徐(おもむ)ろに口を開いた。
「お秀、お前には解らないかも知れないがね、兄さんから見ると、お前は堀さんの所へ行ってっから以来、大分変ったよ」
「そりゃ変る筈ですわ、女が嫁に行って子供が二人も出来れば誰だって変るじゃありませんか」
「だからそれで可いよ」
「けれども兄さんに対して、あたしがどんなに変ったと仰しゃるんです。そこを聞かして下さい」
「そりゃ……」
 津田は全部を答えなかった。けれども答えられないのではないという事を、語勢からお秀に解るようにした。お秀は少し間を置いた。それからすぐ押し返した。
「兄さんのお腹の中には、あたしが京都へ告口をしたという事が始終あるんでしょう」
「そんな事はどうでも可いよ」
「いいえ、それで屹度あたしを眼の敵にしていらっしゃるんです」
「誰が」
 不幸な言葉は二人の間に伏字の如く滞在していたお延という名前に点火したようなものであった。お秀はそれを松明(たいまつ)のように兄の眼先に振り廻した。
「兄さんこそ違ったのです。嫂さんをお貰いになる前の兄さんと、嫂さんをお貰いになった後の兄さんとは、まるで違っています。誰が見たって別の人です」

百一

 津田から見たお秀は彼に対する僻見(へきけん)で武装されていた。ことに最後の攻撃は誤解その物の活動に過ぎなかった。彼には「嫂さん、嫂さん」を繰り返す妹の声が如何にも耳障りであった。寧ろ自己を満足させるための行為を、悉(ことごと)く細君を満足させるために起ったものとして解釈する妹の前に、彼は 尠(すく)なからぬ不快を感じた。
「己(おれ)はお前の考えてるような二本棒じゃないよ」
「そりゃそうかも知れません。嫂さんから電話が掛って来ても、あたしの前じゃわざと冷淡を装って、打っちゃってお置きになる位ですから」
 こういう言葉が所嫌わずお秀の口からひょいひょい続発して来るようになった時、津田は殆んど眼前の利害を忘れるべく余儀なくされた。彼は一二度腹の中で舌打をした。
「だから此奴(こいつ)に電話を掛けるなと、あれだけお延に注意して置いたのに」
 彼は神経の亢奮(こうふん)を紛らす人のように、しきりに短かい口髭を引張った。次第々々に苦い顔をし始めた。そうして段々言葉少なになった。
 津田のこの態度が意外の影響をお秀に与えた。お秀は兄の弱点が自分のために一皮ずつ赤裸(あかはだか)にされて行くので、仕舞に彼は耻じ入って、黙り込むのだとばかり考えたらしく、猶猛烈に進んだ。恰ももう一息で彼を全然自分の前に後悔させる事が出来でもするような勢で。
「嫂さんと一所になる前の兄さんは、もっと正直でした。少なくとももっと淡白でした。私は証拠のない事を云うと思われるのが厭だから、有体(ありてい)に事実を申します。だから兄さんも淡白に私の質問に答えて下さい。兄さんは嫂さんをお貰いになる前、今度のような嘘をお父さんに吐(つ)いた覚がありますか」
 この時津田は始めて弱った。お秀の云う事は明らかな事実であった。然しその事実は決してお秀の考えているような意味から起ったのではなかった。津田に云わせると、ただ偶然の事実に過ぎなかった。
「それでお前はこの事件の責任者はお延だと云うのかい」
 お秀はそうだと答えたい所をわざと外(そら)した。
「いいえ、嫂さんの事なんか、あたし些とも云ってやしません。ただ兄さんが変った証拠にそれだけの事実を主張するんです」
 津田は表向どうしても負けなければならない形勢に陥って来た。
「お前がそんなに変ったと主張したければ、変ったで可いじゃないか」
「可(よ)かないわ。お父さんやお母さんに済まないわ」
 すぐ「そうかい」と答えた津田は冷淡に」そんならそれでも可いよ」と付け足した。
 お秀はこれでもまだ後悔しないのかという顔付をした。
「兄さんの変った証拠はまだあるんです」
 津田は素知らぬ風をした。お秀は遠慮なくその証拠というのを挙げた。
「兄さんは小林さんが兄さんの留守へ来て、嫂さんに何か云やしないかって、先刻(さっき)から心配しているじゃありませんか」
「煩(うる)さいな。心配じゃないって先刻説明したじゃないか」
「でも気になる事は慥なんでしょう」
「どうでも勝手に解釈するが可い」
「ええ。――何方でも、兎に角、それが兄さんの変った証拠じゃありませんか」
「馬鹿を云うな」
「いいえ、証拠よ。慥な証拠よ。兄さんはそれだけ嫂さんを恐れていらっしゃるんです」
 津田は不図眼を転じた。そうして枕に頭を載せたまま、下からお秀の顔を覗き込むようにして見た。それから好い恰好をした鼻柱に冷笑の皺を寄せた。この余裕がお秀には全く突然であった。もう一息で懺悔の深谷(しんこく)へ真ッ逆さまに突き落す積でいた彼女は、まだ兄の後に平坦な地面が残っているのではなかろうかという疑いを始めて起した。然し彼女は行ける所まで行かなければならなかった。
「兄さんはついこの間まで小林さんなんかを、まるで鼻の先であしらっていらっしったじゃありませんか。何を云っても取り合わなかったじゃありませんか。それを今日に限って何故そんなに怖がるんです。高が小林なんかを怖がるようになったのは、その相手が嫂さんだからじゃありませんか」
「そんならそれで可いさ。僕がいくら小林を怖がったって、お父さんやお母さんに対する不義理になる訳でもなかろう」
「だからあたしの口を出す幕じゃないと仰しゃるの」
「まあその見当だろうね」
 お秀は赫(かっ)とした。同時に一筋の稲妻が彼女の頭の中を走った。

百二

「解りました」
 お秀は鋭どい声でこう云い放った。然し彼女の改まった切口上は外面上何の変化も津田の上に持ち来(きた)さなかった。彼はもう彼女の挑戦に応ずる気色を見せなかった。
「解りましたよ、兄さん」
 お秀は津田の肩を揺ぶるような具合に、再び前の言葉を繰返した。津田は仕方なしに又口を開いた。
「何が」
「何故嫂さんに対して兄さんがそんなに気を置いていらっしゃるかという意味がです」
 津田の頭に一種の好奇心が起った。
「云って御覧」
「云う必要はないんです。ただ私にその意味が解ったという事だけを承知して頂けば沢山なんです」
「そんならわざわざ断る必要はないよ。黙って独りで解ったと思っているが可い」
「いいえ可くないんです。兄さんは私を妹と見傚(みな)していらっしゃらない。お父さんやお母さんに関係する事でなければ、私には兄さんの前で何にもいう権利がないものとしていらっしゃる。だから私も云いません。然し云わなくっても、眼はちゃんと付いています。知らないで云わないと思ってお出だと間違いますから、一寸お断り致したのです」
 津田は話を此所いらで切り上げてしまうより外に道はないと考えた。なまじい掛り合えば掛り合う程、事は面倒になるだけだと思った。然し彼には妹に頭を下げる気が些ともなかった。彼女の前に後悔するなどという芝居じみた真似は夢にも思い付けなかった。その位の事を敢てし得る彼は、平生から低く見ている妹にだけは、思いの外高慢であった。そうしてその高慢な所を、他人に対してよりも、比較的遠慮なく外へ出した。従っていくら口先が和解的でも大して役に立たなかった。お秀にはただ彼の中心にある軽蔑が、微温(なまぬる)い表現を通して伝わるだけであった。彼女はもう遣り切れないと云った様子を先刻から見せている津田を毫(ごう)も容赦しなかった。そうして又「兄さん」と云い出した。
 その時津田はそれまでにまだ見出し得なかったお秀の変化に気が付いた。今までの彼女は彼を通して常に鉾先(ほこさき)をお延に向けていた。兄を攻撃するのも嘘ではなかったが、矢面に立つ彼を余所にしても、背後に控えている嫂だけは是非射留めなければならないというのが、彼女の真剣であった。それが何時の間にか変って来た。彼女は勝手に主客の位置を改めた。そうして一直線に兄の方へ向いて進んで来た。
「兄さん、妹は兄の人格に対して口を出す権利がないものでしょうか。よし権利がないにした所で、もしそうした疑を妹が少しでも有っているなら、綺麗にそれを晴らして呉れるのが兄の義務――義務は取り消します、私には不釣合な言葉かも知れませんから。――少なくとも兄の人情でしょう。私は今その人情を有っていらっしゃらない兄さんを眼の前に見る事を妹として悲しみます」
「何を生意気な事を云うんだ。黙っていろ、何にも解りもしない癖に」
 津田の癇癪(かんしゃく)は始めて破裂した。
「お前に人格という言葉の意味が解るか。高(たか)が女学校を卒業した位で、そんな言葉を己(おれ)の前で人並に使うのからして不都合だ」
「私は言葉に重きを置いていやしません。事実を問題にしているのです」
「事実とは何だ。己の頭の中にある事実が、お前のような教養に乏しい女に捕(つら)まえられると思うのか。馬鹿め」
「そう私を軽蔑なさるなら、御注意までに申します。然し可ござんすか」
「可いも悪いも答える必要はない。人の病気の所へ来て何だ、その態度は。それでも妹だという積か」
「あなたが兄さんらしくないからです」
「黙れ」
「黙りません。云うだけの事は云います。兄さんは嫂さんに自由にされています。お父さんや、お母さんや、私などよりも嫂さんを大事にしています」
「妹より妻(さい)を大事にするのは何処の国へ行ったって当り前だ」
「それだけなら可いんです。然し兄さんのはそれだけじゃないんです。嫂さんを大事にしていながら、まだ外にも大事にしている人があるんです」
「何だ」
「それだから兄さんは嫂さんを怖がるのです。しかもその怖がるのは――」
 お秀がこう云いかけた時、病室の襖がすうと開いた。そうして蒼白い顔をしたお延の姿が突然二人の前に現われた。

百三

 彼女が医者の玄関へ掛ったのはその三四分前であった。医者の診察時間は午前と午後に分れていて、午後の方は、役所や会社へ勤める人の便宜を計るため、四時から八時までの規定になっているので、お延は比較的閑静な扉を開けて内へ入る事が出来たのである。
 実際彼女は三四日前に来た時のように、編上だの畳付だのという雑然たる穿物を、一足も沓脱の上に見出さなかった。患者の影は無論の事であった。時間外という考えを少しも頭の中に入れていなかった彼女には、それが如何にも不思議であった位四囲(あたり)は寂寞(ひっそり)していた。
 彼女はその森(しん)とした玄関の沓脱の上に、行儀よく揃えられたただ一足の女下駄を認めた。価段(ねだん)から云っても看護婦などの穿きそうもない新らしいその下駄が突然彼女の心を躍らせた。下駄は正しく若い婦人のものであった。小林から受けた疑念で胸が一杯になっていた彼女は、しばらくそれから眼を放す事が出来なかった。彼女は猛烈にそれを見た。
 右手にある小さい四角な窓から書生が顔を出した。そうして其所に動かないお延の姿を認めた時、誰何(すいか)でもする人のような表情を彼女の上に注いだ。彼女はすぐ津田への来客があるかないかを確かめた。それが若い女であるかないかも訊いた。それからわざと取次を断って、ひとりで階子段(はしごだん)の下まで来た。そうして上を見上げた。
 上では絶えざる話し声が聞こえた。然し普通雑談の時に、言葉が対話者の間を、淀みなく往ったり来たり流れているのとは大分趣を異にしていた。其所には強い感情があった。亢奮があった。しかもそれを抑え付けようとする努力の痕がありありと聞こえた。他聞を憚かるとしか受取れないその談話が、お延の神経を針のように鋭どくした。下駄を見詰めた時より以上の猛烈さが其所に現われた。彼女は一倍猛烈に耳を傾むけた。
 津田の部屋は診察室の真上にあった。家の構造から云うと、階子段を上ってすぐ取付が壁で、その右手が又四畳半の小さい部屋になっているので、この部屋の前を廊下伝いに通り越さなければ、津田の寐ている所へは出られなかった。従がってお延の聴こうとする談話は、聴くに都合の好くない見当、即ち彼女の後の方から洩れて来るのであった。
 彼女はそっと階子段を上った。柔婉(しなやか)な体格(からだ)を有った彼女の足音は猫のように静かであった。そうして猫と同じような成功をもって酬いられた。
 上り口の一方には、落ちない用心に、一間程の手欄(てすり)が拵えてあった。お延はそれに倚って、津田の様子を窺った。すると忽ち鋭どいお秀の声が彼女の耳に入った。ことに嫂さんがという特殊な言葉が際立って鼓膜に響いた。見事に予期の外れた彼女は、又はっと思わせられた。硬い緊張が弛む暇(いとま)なく再び彼女を襲って来た。彼女は津田に向ってお秀の口から抛げ付けられる嫂さんというその言葉が、どんな意味に用いられているかを知らなければならなかった。彼女は耳を澄ました。
 二人の語勢は聴いているうちに急になって来た。二人は明らかに喧嘩をしえいた。その喧嘩の渦中には、知らない間に、自分が引き込まれていた。或は自分がこの喧嘩の主な原因かも分らなかった。
 然し前後の関係を知らない彼女は、ただそれだけで自分の位置を極(き)める訳に行かなかった。それに二人の使う、というよりも寧ろお秀の使う言葉は霰(あられ)のように忙がしかった。後から後から落ちてくる単語の意味を、一粒ずつ拾って吟味している閑などは到底なかった。「人格」、「大事にする」、「当り前」、こんな言葉がそれからそれへと其所に佇立(たたず)んでいる彼女の耳朶(みみたぶ)を叩きに来るだけであった。
 彼女は事件が分明(ぶんみょう)になるまで凝と動かずに立っていようかと考えた。するとその時お秀の口から最後の砲撃のように出た「兄さんは嫂さんより外にもまだ大事にしている人があるのだ」という句が、突然彼女の心を震わせた。際立って明瞭に聞こえたこの一句ほどお延に取って大切なものはなかった。同時にこの一句程彼女にとって不明瞭なものもなかった。後を聞かなければ、それだけで独立した役にはとても立てられなかった。お延はどんな犠牲を払っても、その後を聴かなければ気が済まなかった。然しその後は又どうしても聴いていられなかった。先刻から一言葉毎に一調子ずつ高まって来た二人の遣取(やりとり)は、此所で絶頂に達したものと見傚(みな)すより外に途はなかった。もう一歩も先へ進めない極端まで来ていた。もし強いて先へ出ようとすれば、何方かで手を出さなければならなかった。従ってお延は不体裁を防ぐ緩和剤として、どうしても病室へ入らなければならなかった。
 彼女は兄妹の中を能く知っていた。彼等の不和の原因が自分にある事も彼女には平生から解っていた。其所へ顔を出すには、出すだけの手際が要った。然し彼女にはその自信がないでもなかった。彼女は際どい刹那に覚悟を極めた。そうしてわざと静かに病室の襖を開けた。

百四

 二人は果してぴたりと黙った。然し暴風雨がこれから荒れようとする途中で、急にその進行を止められた時の沈黙は、決して平和の象徴(シンボル)ではなかった。不自然に抑えつけられた無言の瞬間には寧ろ物凄い或物が潜んでいた。
 二人の位置関係から云って、最初にお延を見たものは津田であった。南向の縁側の方を枕にして寐ている彼の眼に、反対の側から入って来たお延の姿が一番早く映るのは順序であった。その刹那に彼は二つのものをお延に握られた。一つは彼の不安であった。一つは彼の安堵であった。困ったという心持と、助かったという心持が、包み蔵(かく)す余裕のないうちに、一度に彼の顔に出た。そうしてそれが突然入って来たお延の予期とぴたりと一致した。彼女はこの時夫の面上に現われた表情の一部分から、或物を疑っても差支ないという証左を、永く心の中(うち)に[掴(つか)]んだ。然しそれは秘密であった。咄嗟の場合、彼女はただ夫の他の半面に応ずるのを、此所へ来た刻下(こくか)の目的としなければならなかった。彼女は蒼白い頬に無理な微笑を湛(たた)えて津田を見た。そうしてそれが丁度お秀の振り返るのと同時に起った所作だったので、お秀にはお延が自分を出し抜いて、津田と黙契を取り換わせているように取れた。薄赤い血潮が覚えずお秀の頬に上った。
「おや」
「今日は」
 軽い挨拶が二人の間に起った。然しそれが済むと話は何時ものように続かなかった。二人とも手持無沙汰に圧迫され始めなければならなかった。滅多な事の云えないお延は、脇に抱えて来た風呂敷包を開けて、岡本の貸して呉れた英語の滑稽本を出して津田に渡した。その指の先には、お秀が始終腹の中で問題にしている例の指輪が光っていた。
 津田は薄い小型な書物を一つ一つ取り上げて、さらさら頁を翻えして見たぎりで、再びそれを枕元へ置いた。彼はその一行さえ読む気にならなかった。批評を加える勇気などは何処からも出て来なかった。彼は黙っていた。お延はその間に又お秀と二言三言ほど口を利いた。それもみんな彼女の方から話し掛けて、必要な返事だけを、云わば相手の咽喉(のど)から圧(お)し出したようなものであった。
 お延は又懐中から一通の手紙を出した。
「今来掛(きがけ)に郵便函の中を見たら入っておりましたから、持って参りました」
 お延の言葉は几帳面に改たまっていた。津田と差向いの時に比べると、まるで別人のように礼儀正しかった。彼女はその形式的な余所々々(よそよそ)しい所を暗に嫌っていた。けれども他人の前、ことにお秀の前では、そうした不自然な言葉遣いを、一種の意味から余儀なくされるようにも思った。
 手紙は夫婦の間に待ち受けられた京都の父からのものであった。これも前便と同じように書留になっていないので、眼前の用を弁ずる中味に乏しいのは、お秀からまだ何にも聞かせられないお延にも略(ほぼ)見当だけは付いていた。
 津田は封筒を切る前に彼女に云った。
「お延駄目だとさ」
「そう、何が」
「お父さんはいくら頼んでももうお金を呉れないんだそうだ」
 津田の云い方は珍らしく真摯の気に充ちていた。お秀に対する反抗心から、彼は何時の間にかお延に対して平たい旦那様になっていた。しかも其所に自分はまるで気が付かずにいた。衒(てら)い気のないその態度がお延には嬉しかった。彼女は慰めるような温味のある調子で答えた。言葉遣いさえ吾知らず、平生(ふだん)の自分に戻ってしまった。
「可いわ、そんなら。此方でどうでもするから」
 津田は黙って封を切った。中から出た父の手紙はさほど長いものではなかった。その上一目見ればすぐ要領を得られる位な大きな字で書いてあった。それでも女二人は滑稽本の場合のように口を利き合わなかった。ひとしく注意の視線を巻紙の上に向けているだけであった。だから津田がそれを読み了って、元通りに封筒の中へ入れたのを、そのまま枕元へ投げ出した時には、二人にも大体の意味はもう呑み込めていた。それでもお秀はわざと訊いた。
「何と書いてありますか、兄さん」
 気のない顔をしていた津田は軽く「ふん」と答えた。お秀は一寸余所を向いた。それから又訊いた。
「あたしの云った通りでしょう」
 手紙には果して彼女の推察する通りの事が書いてあった。然しそれ見た事かといった様な妹の態度が、津田には如何にも気に喰わなかった。それでなくっても先刻からの行掛り上、彼は天然自然の返事をお秀に与えるのが業腹であった。

百五

 お延には夫の気持がありありと読めた。彼女は心の中で再度の衝突を惧(おそ)れた。と共に、夫の本意をも疑った。彼女の見た平生の夫には自制の念が何処へでも付いて廻った。自制ばかりではなかった。腹の奥で相手を下に見る時の冷かさが、それに何時でも付け加わっていた。彼女は夫のこの特色中に、まだ自分の手に余る或物が潜んでいる事をも信じていた。それは未だに彼女に取っての未知数であるにも拘わらず、其所さえ明瞭に抑えれば、苦もなく彼を満足に扱かい得るものとまで彼女は思い込んでいた。然し外部に現われるだけの夫なら一口で評するのもそれ程むずかしい事ではなかった。彼は容易に怒らない人であった。英語で云えば、テンパーを失なわない例にもなろうというその人が、またどうして自分の妹の前にこう破裂し掛るのだろう。もっと、厳密に云えば、彼女が室(へや)に入って来る前に、どうしてあれ程露骨に破裂したのだろう。兎に角彼女は退き掛けた波が再び寄せ返す前に、二人の間に割り込まなければならなかった。彼女は喧嘩の相手を自分に引き受けようとした。
「秀子さんの方へもお父さまから何かお音信(たより)があったんですか」
「いいえ母から」
「そう、矢っ張この事に就いて」
「ええ」
 お秀はそれぎり何にも云わなかった。お延は後を付けた。
「京都でも色々お物費(ものいり)が多いでしょうからね。それに元々此方(こちら)が悪いんですから」
 お秀にはこの時程お延の指にある宝石が光って見えた事はなかった。そうしてお延は又さも無邪気らしくその光る指輪をお秀の前に出していた。お秀は云った。
「そういう訳でもないんでしょうけれどもね。年寄は変なもので、兄さんを信じているんですよ。その位の工面はどうにでも出来る位に考えて」
 お延は微笑した。
「そりゃ、いざとなればどうにかこうにかなりますよ、ねえ貴方」
 こう云って津田の方を見たお延は、「早くなると仰ゃい」という意味を眼で知らせた。然し津田には、彼女のして見せる眼の働らきが解っても、意味は全く通じなかった。彼は何時も繰り返す通りの事を云った。
「ならん事もあるまいがね、己にはどうもお父さんの事が変でならないんだ。垣根を繕ろったの、家賃が滞ったのって、そんな費用は元来些細なものじゃないか」
「そうも行かないでしょう、貴方。これで自分の家(うち)を一軒持ってみると」
「我々だって一軒持ってるじゃないか」
 お延は彼女に特有な微笑を今度はお秀の方に見せた。お秀も同程度の愛嬌を惜まずに答えた。
「兄さんはその底に何か魂胆があるかと思って、疑っていらっしゃるんですよ」
「そりゃ貴方悪いわ、お父さまを疑ぐるなんて。お父さまに魂胆のある筈はないじゃありませんか、ねえ秀子さん」
「いいえ、父や母よりもね、外にまだ魂胆があると思ってるんですのよ」 「外に?」
 お延は意外な顔をした。
「ええ、外にあると思ってるに違ないのよ」
 お延は再び夫の方に向った。
「貴方、そりゃ又どういう訳なの」
「お秀がそう云うんだから、お秀に訊いて御覧よ」
 お延は苦笑した。お秀の口を利く順番が又廻って来た。
「兄さんはあたし達が陰で、京都を突ッ付いたと思ってるんですよ」
「だって――」
 お延はそれより以上云う事が出来なかった。そうしてその云った事は殆んど意味をなさなかった。お秀はすぐその虚を充たした。
「それで先刻から大変御機嫌が悪いのよ。尤もあたしと兄さんと寄ると屹度喧嘩になるんですけれどもね。ことにこの事件のこのかた」
「困るのね」とお延は溜息交りに答えた後で、又津田に訊き掛けた。
「然しそりゃ本当の事なの、貴方。貴方だってまさかそんな男らしくない事を考えていらっしゃるんじゃないでしょう」
「どうだか知らないけれども、お秀にはそう見えるんだろうよ」
「だって秀子さん達がそんな事をなさるとすれば、一体何の役に立つと、貴方思っていらっしゃるの」
「大方見せしめの為だろうよ。己には能く解らないけれども」
「何の見せしめなの? 一体どんな悪い事を貴方なすったの」
「知らないよ」
 津田は蒼蠅(うるさ)そうにこう云った。お延は取り付く島もないといった風にお秀を見た。どうか助けて下さいという表情が彼女の細い眼と眉の間に現われた。

百六

「なに兄さんが強情なんですよ」とお秀が云い出した。嫂に対して何とか説明しなければならない位置に追い詰められた彼女は、こう云いながら腹の中で猶の事その嫂を憎んだ。彼女から見たその時のお延ほど、空々しい又ずうずうしい女はなかった。
「ええ良人(うち)は強情よ」と答えたお延はすぐ夫の方を向いた。
「あなた本当に強情よ。秀子さんの仰しゃる通りよ。その癖だけは是非お已めにならないと不可ませんわ」
「一体何が強情なんだ」
「そりゃあたしにも能く解らないけれども」
「何でもかでもお父さんから金を取ろうとするからかい」
「そうね」
「取ろうとも何とも云っていやしないじゃないか」
「そうね。そんな事仰しゃる筈がないわね。又仰しゃった所で効目がなければ仕方がありませんからね」
「じゃ何処が強情なんだ」
「何処がってお聴きになっても駄目よ。あたしにも能く解らないんですから。だけど、何処かにあるのよ、強情な所が」
「馬鹿」
 馬鹿と云われたお延は却って心持ち好さそうに微笑した。お秀は堪まらなくなった。
「兄さん、あなた何故あたしの持って来たものを素直にお取りにならないんです」
「素直にも義剛(ぎごわ)にも、取るにも取らないにも、お前の方で天(てん)から出さないんじゃないか」
「あなたの方でお取りになると仰しゃらないから、出せないんです」
「此方(こっち)から云えば、お前の方で出さないから取らないんだ」
「然し取るようにして取って下さらなければ、あたしの方だって厭ですもの」
「じゃどうすれば可いんだ」
「解ってるじゃありませんか」
 三人は少時(しばらく)黙っていた。
 突然津田が云い出した。
「お延お前お秀に詫(あや)まったらどうだ」
 お延は呆れたように夫を見た。
「なんで」
「お前さえ詫まったら、持って来たものを出すという積なんだろう。お秀の料簡では」
「あたしが詫まるのは何でもないわ。貴方が詫まれと仰しゃるなら、いくらでも詫まるわ。だけど――」
 お延は此所で訴えの眼をお秀に向けた。お秀はその後を遮った。
「兄さん、あなた何を仰しゃるんです。あたしが何時嫂さんに詫まって貰いたいと云いました。そんな言掛りを捏造(ねつぞう)されては、あたしが嫂さんに対して面目なくなるだけじゃありませんか」
 沈黙が又三人の上に落ちた。津田はわざと口を利かなかった。お延には利く必要がなかった。お秀は利く準備をした。
「兄さん、あたしはこれでもあなた方に対して義務を尽している積です。――」
 お秀がやっとこれだけ云い掛けた時、津田は急に質問を入れた。
「一寸お待ち。義務かい、親切かい、お前の云おうとする言葉の意味は」
「あたしには何方(どっち)だって同なじ事です」
「そうかい。そんなら仕方がない。それで」
「それでじゃありません。だからです。あたしがあなた方の陰へ廻って、お父さんやお母さんを突ッ付いた結果、兄さんや嫂さんに不自由をさせるのだと思われるのが、あたしには如何にも辛いんです。だからその額だけをどうかして上げようと云う好意から、今日わざわざ此所へ持って来たと云うんです。実は昨日嫂さんから電話が掛った時、すぐ来ようと思ったんですけれども、朝のうちは宅に用があったし、午(ひる)からはその用で銀行へ行く必要が出来たものですから、つい来損なっちまったんです。元々僅かな金額ですから、それについて兎や角云う気は些ともありませんけれども、あたしの方の心遣いは、まるで兄さんに通じていないんだから、それがただ残念だと云いたいんです」
 お延は猶黙っている津田の顔を覗き込んだ。
「貴方何とか仰しゃいよ」
「何て」
「何てって、お礼をよ。秀子さんの親切に対してのお礼よ」
「高がこれしきの金を貰うのに、そんなに恩に着せられちゃ厭だよ」
「恩に着せやしないって今云ったじゃありませんか」とお秀が少し癇走(かんばし)った声で弁解した。
 お延は元通りの穏やかな調子を崩さなかった。
「だから強情を張らずに、お礼を仰しゃいと云うのに。もしお金を拝借するのがお厭なら、お金は頂かないで可いから、ただお礼だけを仰しゃいよ」
 お秀は変な顔をした。津田は馬鹿を云うなという態度を示した。

百七

 三人は妙な羽目に陥った。行掛り上一種の関係で因果づけられた彼等は次第に話を余所へ持って行く事が困難になってきた。席を外す事は無論出来なくなった。彼等は其所へ坐ったなり、どうでもこうでも、この問題を解決しなければならなくなった。
 しかも傍(はた)から見たその問題は決して重要なものとは云えなかった。遠くから冷静に彼等の身分と境遇を眺める事の出来る地位に立つ誰の眼にも、小さく映らなければならない程度のものに過ぎなかった。彼等は他から注意を受けるまでもなく能くそれを心得ていた。けれども彼等は争わなければならなかった。彼等の背後(せなか)に脊負(しょ)っている因縁は、他人に解らない過去から複雑な手を延ばして、自由に彼等を操った。
 仕舞に津田とお秀の間に下のような問答が起った。
「始めから黙っていれば、それまでですけれども、一旦云い出して置きながら、持って来た物を渡さずにこのまま帰るのも心持が悪う御座んすから、どうか取って下さいよ。兄さん」
「置いて行きたければ置いといでよ」
「だから取るようにして取って下さいな」
「一体どうすればお前の気に入るんだか、僕には解らないがね、だからその条件をもっと淡泊に云っちまったら可いじゃないか」
「あたし条件なんてそんなむずかしいものを要求してやしません。ただ兄さんが心持よく受取って下されば、それで宜いんです。詰り兄妹らしくして下されば、それで宜いというだけです。それからお父さんに済まなかったと本気に一口仰しゃりさえすれば、何でもないんです」
「お父さんには、とっくの昔にもう済まなかったと云っちまったよ。お前も知ってるじゃないか。しかも一口や二口じゃないやね」
「けれどもあたしの云うのは、そんな形式的のお詫じゃありません。心からの後悔です」
 津田は高がこれしきの事にと考えた。後悔などとは思いも寄らなかった。
「僕の詫様(わびよう)が空々しいとでも云うのかね、なんぼ僕が金を欲しがるったって、これでも一人前の男だよ。そうぺこぺこ頭を下げられるものか、考えても御覧な」
「だけれども、兄さんは実際お金が欲しいんでしょう」
「欲しくないとは云わないさ」
「それでお父さんに謝罪(あやま)ったんでしょう」
「でなければ何も詫る必要はないじゃないか」
「だからお父さんが下さらなくなったんですよ。兄さんは其所に気が付かないんですか」
 津田は口を閉じた。お秀はすぐ乗し掛って行った。
「兄さんがそういう気で居らっしゃる以上、お父さんばかりじゃないわ、あたしだって上げられないわ」
「じゃお止しよ。何も無理に貰おうとは云わないんだから」
「ところが無理にでも貰おうと仰しゃるじゃありませんか」
「何時」
「先刻(さっき)からそう言っていらっしゃるんです」
「言掛りを云うな、馬鹿」
「言掛りじゃありません。先刻から腹の中でそう云い続けに云ってるじゃありませんか。兄さんこそ淡泊でないから、それが口へ出して云えないんです」
 津田は一種嶮しい眼をしてお秀を見た。その中には憎悪が輝やいた。けれども良心に対して耻ずかしいという光は何処にも宿らなかった。そうして彼が口を利いた時には、お延でさえその意外なのに驚ろかされた。彼は彼に支配出来る尤も冷静な調子で、彼女の予期とはまるで反対の事を云った。
「お秀お前の云う通りだ。兄さんは今改めて自白する。兄さんにはお前の持って来た金が絶対に入用だ。兄さんは又改めて公言する。お前は妹らしい情愛の深い女だ。兄さんはお前の親切を感謝する。だからどうぞその金をこの枕元へ置いて行って呉れ」
 お秀の手先が怒りで顫(ふる)えた。両方の頬に血が差した。その血は心の何処からか一度に顔の方へ向けて動いて来るように見えた。色が白いのでそれが一層鮮やかであった。然し彼女の言葉遣いだけはそれ程変らなかった。怒りの中に微笑さえ見せた彼女は、不意に兄を捨てて、輝やいた眼をお延の上に注いだ。
「嫂さんどうしましょう。折角兄さんがああ仰しゃるものですから、置いて行って上げましょうか」
「そうね、そりゃ秀子さんの御随意で可(よ)ござんすわ」
「そう。でも兄さんは絶対に必要だと仰しゃるのね」
「ええ良人(うち)には絶対に必要かも知れませんわ。だけどあたしには必要でも何でもないのよ」
「じゃ兄さんと嫂さんとはまるで別ッこなのね」
「それでいて、些とも別ッこじゃないのよ。これでも夫婦だから、何から何まで一所くたよ」
「だって――」
 お延は皆まで云わせなかった。
「良人に絶対に必要なものは、あたしがちゃんと拵(こしら)えるだけなのよ」
 彼女はこう云いながら、昨日岡本の叔父に貰って来た小切手を帯の間から出した。

百八

 彼女がわざとらしくそれをお秀に見せるように取扱いながら、津田の手に渡した時、彼女には夫に対する一種の注文があった。前後の行掛りと自分の性格から割り出されたその注文というのは外でもなかった。彼女は夫が自分としっくり呼吸を合わせて、それを受け取ってくれれば好いがと心の中で祈ったのである。会心の微笑を洩らしながら首肯ずいて、それを鷹揚に枕元へ放り出すか、でなければ、ごく簡単な、然し細君に対して最も満足したらしい礼をただ一口述べて、再びそれをお延の手に戻すか、何れにしてもこの小切手の出所に就いて、夫婦の間に夫婦らしい気脈が通じているという事実を、お秀に見せればそれで足りたのである。
 不幸にして津田にはお延の所作も小切手もあまりに突然過ぎた。その上こんな場合に遣る彼の戯曲的技巧が、細君とは少し趣を異にしていた。彼は不思議そうに小切手を眺めた。それから緩(ゆっ)くり訊いた。
「こりゃ一体どうしたんだい」
 この冷やかな調子と、等しく冷やかな反問とが、登場の第一歩に於て既にお延の意気込を恨めしく摧(くじ)いた。彼女の予期は外れた。
「どうしもしないわ。ただ要るから拵えただけよ」
 こう云った彼女は、腹の中でひやひやした。彼女は津田が真面目腐ってその後を訊く事を非常に恐れた。それは夫婦の間に何等の気脈が通じていない証拠を、お秀の前に暴露するに過ぎなかった。
「訳なんか病気中に訊かなくっても可いのよ。どうせ後で解る事なんだから」
 これだけ云った後でもまだ不安心でならなかったお延は、津田がまだ何とも答えない先に、すぐその次を付け加えてしまった。
「よし解らなくったって構わないじゃないの。高がこの位のお金なんですもの、拵えようと思えば、何処からでも出て来るわ」
 津田は漸く手に持った小切手を枕元へ投げ出した。彼は金を欲しがる男であった。然し金を珍重する男ではなかった。使うために金の必要を他人より余計痛切に感ずる彼は、その金を軽蔑する点に於て、お延の言葉を心から肯定するような性質を有っていた。それで彼は黙っていた。然しそれだから又お延に一口の礼も云わなかった。
 彼女は物足らなかった。たとい自分に何とも云わないまでも、お秀には溜飲(りゅういん)の下るような事を一口でいいから云って呉れれば可いのにと、腹の中で思った。
 先刻から二人の様子を見ていたそのお秀はこの時急に「兄さん」と呼んだ。そうして懐から綺麗な女物の紙入を出した。
「兄さん、あたし持って来たものを此所へ置いて行きます」
 彼女は紙入の中から白紙で包んだものを抜いて小切手の傍へ置いた。
「こうして置けばそれで可いでしょう」
 津田に話し掛けたお秀は暗にお延の返事を待ち受けるらしかった。お延はすぐ応じた。
「秀子さんそれじゃ済みませんから、どうぞそんな心配はしないで置いて下さい。此方(こっち)で出来ないうちは、兎も角もですけれども、もう間に合ったんですから」
「だけどそれじゃあたしの方が又心持が悪いのよ。こうして折角包んでまで持って来たんですから、どうかそんな事を云わずに受取って置いて下さいよ」
 二人は譲り合った。同じような問答を繰り返し始めた。津田は又辛抱強く何時までもそれを聴いていた。仕舞に二人はとうとう兄に向わなければならなくなった。
「兄さん取っといて下さい」
「貴方頂いてもよくって」
 津田はにやにやと笑った。
「お秀妙だね。先刻はあんなに強硬だったのに、今度は又馬鹿に安っぽく貰わせようとするんだね。一体何方(どっち)が本当なんだい」
 お秀は屹となった。
「何方も本当です」
 この答は津田に突然であった。そうしてその強い調子が。何処までも冷笑的に構えようとする彼の機鋒(きほう)を挫いた。お延には猶更であった。彼女は驚ろいてお秀を見た。その顔は先刻と同じように火熱(ほて)っていた。けれども涼しい彼女の眼に宿る光りは、ただの怒りばかりではなかった。口惜しいとか無念だとかいう敵意の外に、まだ認めなければならない或物が其所に陽炎(かげろ)った。然しそれが何であるかは、彼女の口を通して聴くより外に途がなかった。二人は惹き付けられた。今まで持続して来た心の態度に角度の転換が必要になった。彼等は遮ぎる事なしに、その輝やきの説明を、彼女の言葉から聴こうとした。彼等の予期と同時に、その言葉はお秀の口を衝いて出た。

百九

「実は先刻から云おうか止そうかと思って、考えていたんですけれども、そんな風に兄さんから冷笑かされて見ると、私だって黙って帰るのが厭になります。だから云うだけの事は此所で云ってしまいます。けれども一応お断りして置きますが、これから申し上げる事は今までのとは少し意味が違いますよ。それを今まで通りの態度で聴いていられると、私だって少し迷惑するかも知れません、というのは、ただ私が誤解されるのが厭だという意味でなくって、私の心持があなた方に通じなくなるという訳合(わけあい)からです」
 お秀の説明はこういう言葉で始まった。それが既に自分の態度を改めかかっている二人の予期に一倍の角度を与えた。彼等は黙ってその後を待った。然しお秀はもう一遍念を押した。
「少しゃ真面目に聴いて下さるでしょうね。私の方が真面目になったら」
 こう云ったお秀はその強い眼を津田の上からお延に移した。
「尤も今までが不真面目という訳でもありませんけれどもね。何しろ嫂さんさえ此所にいて下されば、まあ大丈夫でしょう。何時もの兄妹喧嘩になったら、その時に止めて頂けばそれまでですから」
 お延は微笑して見せた。然しお秀は応じなかった。
「私は何時かっから兄さんに云おう云おうと思っていたんです。嫂さんのいらっしゃる前でですよ。だけど、その機会がなかったから、今日まで云わずにいました。それを今改めてあなた方のお揃いになった所で申してしまうのです。それは外でもありません。よござんすか、あなた方お二人は御自分達の事より外に何にも考えていらっしゃらない方だという事だけなんです。自分達さえ可ければ、いくら他が困ろうが迷惑しようが、まるで余所を向いて取り合わずにいられる方だというだけなんです」
 この断案を津田は寧ろ冷静に受ける事が出来た。彼はそれを自分の特色と認める上に、一般人間の特色とも認めて疑わなかったのだから。然しお延には又これ程意外な批評はなかった。彼女はただ呆れるばかりであった。幸か不幸かお秀は彼女の口を開く前にすぐ先へ行った。
「兄さんは自分を可愛がるだけなんです。嫂さんは又兄さんに可愛がられるだけなんです。あなた方の眼には外に何にもないんです。妹などは無論の事、お父さんもお母さんももうないんです」
 此所まで来たお秀は急に後を継ぎ足した。二人の中の一人が自分を遮ぎりはしまいかと恐れでもするような様子を見せて。
「私はただ私の眼に映った通りの事実を云うだけです。それをどうして貰いたいというのではありません。もうその時機は過ぎました。有体にいうと、その時期は今日過ぎたのです。実はたった今過ぎました。あなた方の気の付かないうちに、過ぎました。私は何事も因縁ずくと諦らめるより外に仕方がありません。然しその事実から割り出される結果だけは是非ともあなた方に聴いて頂きたいのです」
 お秀は又津田からお延の方に眼を移した。二人はお秀の所謂結果なるものに就いて、判然(はっきり)した観念がなかった。従ってそれを聴く好奇心があった。だから黙っていた。
「結果は簡単です」とお秀が云った。「結果は一口で云える程簡単です。然し多分あなた方には解らないでしょう。あなた方は決して他の親切を受ける事の出来ない人だという意味に、多分御自分じゃ気が付いていらっしゃらないでしょうから。こう云っても、あなた方にはまだ通じないかも知れないから、もう一遍繰り返します。自分だけの事しか考えられないあなた方は、人間として他の親切に応ずる資格を失なっていらっしゃるというのが私の意味なのです。つまり他の好意に感謝する事の出来ない人間に切り下げられているという事なのです。あなた方はそれで沢山だと思っていらっしゃるかも知れません。何処にも不足はないと考えておいでなのかも分りません。然し私から見ると、それはあなた方自身に取って飛んでもない不幸になるのです。人間らしく嬉しがる能力を天から奪われたと同様に見えるのです。兄さん、あなたは私の出したこのお金は欲しいと仰ゃるのでしょう。然し私のこのお金を出す親切は不用だと仰ゃるのでしょう。私から見ればそれがまるで逆です。人間としてまるで逆なのです。だから大変な不幸なのです。そうして兄さんはその不幸に気が付いていらっしゃらないのです。嫂さんは又私の持って来たこのお金を兄さんが貰わなければ可いと思っていらっしゃるんです。さっきから貰わせまい貰わせまいとしていらっしゃるんです。つまりこのお金を断ることによって、併せて私の親切をも排斥しようとなさるのです。そうしてそれが嫂さんには大変なお得意になるのです。嫂さんも逆です。嫂さんは妹の実意を素直に受けるために感じられる好い心持が、今のお得意よりも何層倍人間として愉快だか、まるで御存じない方なのです」
 お延は黙っていられなくなった。然しお秀はお延より猶黙っていられなかった。彼女を遮ぎろうとするお延の出鼻を抑え付けるような熱した語気で、自分の云いたい事だけ云ってしまわなければ気が済まなかった。

百十

「嫂さん何か仰しゃる事があるなら、後で緩(ゆっ)くり伺いますから、御迷惑でも我慢して私に云うだけ云わせてしまって下さい。なにもう直です。そんなに長く掛りゃしません」
 お秀の断り方は妙に落ち付いていた。先刻津田と衝突した時に比べると、彼女はまるで反対の傾向を帯びて、激昂(げっこう)から沈静の方へ推し移って来た。それがこの場合如何にも案外な現象として二人の眼に映った。
「兄さん」とお秀が云った。「私は何故もっと早くこの包んだ物を兄さんの前に出さなかったのでしょう。そうして今になって又何で極りが悪くもなく、それをあなた方の前に出されたのでしょう。考えて下さい。嫂さんも考えて下さい」
 考えるまでもなく、二人にはそれがお秀の詭弁(きべん)としか受取れなかった。ことにお延にはそう見えた。然しお秀は真面目であった。
「兄さん私はこれであなたを兄さんらしくしたかったのです。高がそれ程の金でかと兄さんはせせら笑うでしょう。然し私から云えば金額(かねだか)は問題じゃありません。少しでも兄さんを兄さんらしく出来る機会があれば、私は何時でもそれを利用する気なのです。私は今日此所で出来るだけの努力をしました。そうして見事に失敗しました。ことに嫂さんがお出になってから以後、私の失敗は急に目立って来ました。私が妹として兄さんに対する執着を永久に放り出さなければならなくなったのはその時です。――嫂さん、後生ですから、もう少し我慢して聴いていて下さい」
 お秀は又こう云って何か云おうとするお延を制した。
「あなた方の態度はよく私に解りました。あなた方から一時間二時間の説明を伺うより、今此所で拝見しただけで、私が勝手に判断する方が、却ってよく解るように思われますから、私はもう何にも伺いません。然し私には自分を説明する必要がまだあります。其所は是非聴いて頂かなければなりません」
 お延は随分手前勝手な女だと思いながら黙っていた。然し初手(しょて)から勝利者の余裕が附着している彼女には、黙っていても大した不足はなかった。
「兄さん」とお秀が云った。「これを見て下さい。ちゃんと紙に包んであります。お秀が宅から用意して持って来たという証拠にはなるでしょう。其所にお秀の意味はあるのです」
 お秀はわざわざ枕元の紙包を取り上げて見せた。
「これが親切というものです。あなた方にはどうしてもその意味がお解りにならないから、仕方なしに私が自分で説明します。そうして兄さんが兄さんらしくして下さらなくっても、私は宅から持って来た親切を此所へ置いて行くより外に途はないのだという事も一所に説明します。兄さん、これは妹の親切ですか義務ですか。兄さんは先刻そういう問を私にお掛けになりました。私は何方も同じだと云いました。兄さんが妹の親切を受けて下さらないのに、妹はまだその親切を尽す気でいたら、その親切は義務と何処が違うんでしょう。私の親切を兄さんの方で義務に変化させてしまうだけじゃありませんか」
「お秀もう解ったよ」と津田が漸く云い出した。彼の頭に妹のいう意味は判然(はっきり)入った。けれども彼女の予期する感情は少しも起らなかった。彼は先刻から蒼蠅(うる)さいのを我慢して彼女の云い草を聴いていた。彼から見た妹は、親切でもなければ、誠実でもなかった。愛嬌もなければ気高くもなかった。ただ厄介なだけであった。
「もう解ったよ。それで可いよ。もう沢山だよ」
 已(すで)に諦らめていたお秀は、別に恨めしそうな顔もしなかった。ただこう云った。
「これは良人が立て替えて上げるお金ではありませんよ、兄さん。良人が京都へ保証して成り立った約束を、兄さんがお破りになったために、良人ではお父さんの方へ義理が出来て、仕方なしに立て替えた事になるとしたら、なんぼ兄さんだって、心持よく受け取る気にはなれないでしょう。私もそんな事で良人を煩わせるのは厭です。だからお断りをして置きますが、これは良人とは関係のないお金です。私のです。だから兄さんも黙ってお取りになれるでしょう。私の親切はお受けにならないでも、お金だけはお取りになれるでしょう。今の私はなまじいお礼を云って頂くより、ただ黙って受取って置いて下さる方が、却って心持が好くなっているのです。問題はもう兄さんの為じゃなくなっているんです。単に私の為です。兄さん、私の為にどうぞそれを受取って下さい」
 お秀はこれだけ云って立ち上った。お延は津田の顔を見た。その顔には何という合図の表情も見えなかった。彼女は仕方なしにお秀を送って階子段を降りた。二人は玄関先で尋常の挨拶を交り換せて別れた。

百十一

 単に病院でお秀に出会うという事は、お延に取って意外でも何でもなかった。けれども出会った結果からいうと、又意外以上の意外に帰着した。自分に対するお秀の態度を平生から心得ていた彼女も、まさかこんな場面でその相手になろうとは思わなかった。相手になった後でも、それが偶然の廻り合せのように解釈されるだけであった。その必然性を認めるために、過去の因果を迹付(あとづ)けて見ようという気さえ起らなかった。この心理状態をもっと砕けた言葉で云い直すと、事件の責任は全く自分にないという事に過ぎなかった。凡てお秀が脊負って立たなければならないという意味であった。従ってお延の心は存外平静であった。少くとも、良心に対して疚ましい点は容易に見出だされなかった。
 この会見からお延の得た収穫は二つあった。一つは事後に起る不愉快さであった。その不愉快さのうちには、お秀を通して今後自分達の上に持ち来(きた)されそうに見える葛藤さえ織り込まれていた。彼女は充分それを切り抜けて行く覚悟を有っていた。但しそれには、津田が飽くまで自分の肩を持って呉れなければ駄目だという条件が附帯していた。其所へ行くと彼女には七分通りの安心と、三分方(さんぶがた)の不安があった。その三分方の不安を、今日の自分が、どの位の程度に減らしているかは、彼女に取って重大な問題であった。少くとも今日の彼女は、夫の愛を買うために、もしくはそれを買い戻すために、出来るだけの実を津田に見せたという意味で、幾分かの自信をその方面に得た積なのである。
 これはお延自身に解っている側の消息中で、最も必要と認めなければならない一端であるが、その外にまだ彼女の一向知らない間に、自然自分の手に入るように仕組れた収穫が出来た。無論それは一時的のものに過ぎなかった。けれども当然自分の上に向けられるべき夫の猜疑(さいぎ)の眼から、彼女は運よく免かれたのである。というのは、お秀という相手を引き受ける前の津田と、それに悩まされ出した後の彼とは、心持から云っても、意識の焦点になるべき対象から見ても、まるで違っていた。だからこの変化の強く起った際どい瞬間に姿を現わして、その変化の波を自然のままに拡げる役を勤めたお延は、吾知らず儲けものをしたのと同じ事になったのである。
 彼女は何故岡本が強いて自分を芝居へ誘ったか、又何故その岡本の宅へ昨日行かなければならなくなったか、そんな内情に関する凡ての自分を津田の前に説明する手数を省く事が出来た。寧ろ自分の方から云い出したい位な小林の言葉に就いてすら、彼女は一口も語る余裕を有たなかった。お秀の帰ったあとの二人は、お秀の事で全く頭を占領されていた。
 二人はそれを二人の顔付から知った。そうして二人の顔を見合せたのは、お秀を送り出したお延が、階子段を上って、又室の入口にそのすらりとした姿を現わした刹那であった。お延は微笑した。すると津田も微笑した。其所には外に何にもなかった。ただ二人がいるだけであった。そうして互の微笑が互の胸の底に沈んだ。少なくともお延は久し振に本来の津田を其所に認めたような気がした。彼女は肉の上に浮び上ったその微笑が何の象徴であるかを殆んど知らなかった。ただ一種の恰好を取って動いた肉その物の形が、彼女には嬉しい記念であった。彼女は大事にそれを心の奥に仕舞い込んだ。
 その時二人の微笑は俄(にわ)かに変った。二人は歯を露わすまでに口を開けて、一度に声を出して笑い合った。
「驚ろいた」
 お延はこう云いながら又津田の枕元へ来て坐った。津田は寧ろ落ち付いて答えた。
「だから彼奴(あいつ)に電話なんか掛けるなって云うんだ」
 二人は自然にお秀を問題にしなければならなかった。
「秀子さんは、まさか基督教じゃないでしょうね」
「何故」
「何故でも――」
「金を置いて行ったからかい」
「そればかりじゃないのよ」
「真面目腐った説法をするからかい」
「ええまあそうよ。あたし始めてだわ。秀子さんのあんなむずかしい事を仰しゃる所を拝見したのは」
「彼奴は理窟屋だよ。つまりああ捏(こ)ね返さなければ気が済まない女なんだ」
「だってあたし始めてよ」
「お前は始めてさ。おれは何度だか分りゃしない。一体何でもないのに高尚がるのが彼奴の癖なんだ。そうして生じい藤井の叔父の感化を受けてるのが毒になるんだ」
「どうして」
「どうしてって、藤井の叔父の傍にいて、あの叔父の議論好きな所を、始終見ていたもんだから、とうとうあんなに口が達者になっちまったのさ」
 津田は馬鹿らしいという風をした。お延も苦笑した。

百十二

 久し振に夫と直に向き合ったような気のしたお延は嬉しかった。二人の間に何時の間にか懸けられた薄い幕を、急に切って落した時の晴々しい心持になった。
 彼を愛する事によって、是非とも自分を愛させなければ已まない。――これが彼女の決心であった。その決心は多大の努力を彼女に促がした。彼女の努力は幸い徒労に終らなかった。彼女は遂に酬いられた。少なくとも今後の見込を立て得る位の程度に於て酬いられた。彼女から見れば不慮の出来事と云わなければならないこの破綻は、取も直さず彼女に取って復活の曙光(しょこう)であった。彼女は遠い地平線の上に、薔薇色の空を、薄明るく眺める事が出来た。そうしてその暖かい希望の中に、この破綻から起る凡ての不愉快を忘れた。小林の残酷に残して行った正体の解らない黒い一点、それはいまだに彼女の胸の上にあった。お秀の口から迸ばしるように出た不審の一句、それも疑惑の星となって、彼女の頭の中に鈍い瞬(まばた)きを見せた。然しそれらはもう遠い距離に退いた。少くともさほど苦にならなかった。耳に入れた刹那に起った昂奮の記憶さえ、再び呼び戻す必要を認めなかった。
「若し万一の事があるにしても、自分の方は大丈夫だ」
 夫に対するこういう自信さえ、その時のお延の腹には出来た。従って、いざという場合に、どうでも臨機の所置を付けて見せるという余裕があった。相手を片付ける位の事なら訳はないという気持も手伝った。 「相手? どんな相手ですか」と訊かれたら、お延は何と答えただろう。それは朧気に薄墨で描かれた相手であった。そうして女であった。そうして津田の愛を自分から奪う人であった。お延はそれ以外に何にも知らなかった。然し何処かにこの相手が潜んでいるとは思えた。お秀と自分等夫婦の間に起った波瀾が、ああまで際どくならずに済んだなら、お延は行掛り上、是非とも津田の腹のなかにいるこの相手を、遠くから探らなければならない順序だったのである。
 お延はそのプログラムを狂わせた自分を顧みて、寧ろ幸福だと思った。気掛りを後へ繰り越すのが辛くて耐らないとは決して考えなかった。それよりもこの機会を緊張出来るだけ緊張させて、親切な今の自分を、強く夫の頭の中に叩き込んで置く方が得策だと思案した。
 こう決心するや否や彼女は嘘を吐いた。それは些細の嘘であった。けれども今の場合に、夫を物質的と精神的の両面に亘って、窮地から救い出したものは、自分が持って来た小切手だという事を、深く信じて疑わなかった彼女には、寧ろ重大な意味を有っていた。
 その時津田は小切手を取り上げて、再びそれを眺めていた。其所に書いてある額は彼の要求するものより却って多かった。然しそれを問題にする前、彼はお延に云った。
「お延有難う。お蔭で助かったよ」
 お延の嘘はこの感謝の後に随いて、すぐ彼女の口を滑って出てしまった。
「昨日岡本へ行ったのは、それを叔父さんから貰うためなのよ」
 津田は案外な顔をした。岡本へ金策をしに行って来いと夫から頼まれた時、それを断然跳ね付けたものは、この小切手を持って来たお延自身であった。一週間と経たないうちに、何処からそんな好意が急に湧いて出たのだろうと思うと、津田は不思議でならなかった。それをお延はこう説明した。
「そりゃ厭なのよ。この上叔父さんにお金の事なんかで迷惑を掛けるのは。けれども仕方がないわ、あなた。いざとなればその位の勇気を出さなくっちゃ、妻としてのあたしの役目が済みませんもの」
「叔父さんに訳を話したのかい」
「ええ、そりゃ随分辛かったの」
 お延は津田へ来る時の支度を大部分岡本に拵えて貰っていた。
「その上お金なんかには、些とも困らない顔を今日までして来たんですもの。だから猶極りが悪いわ」
 自分の性格から割り出して、こういう場合の極りの悪さ加減は、津田にもよく呑み込めた。
「能く出来たね」
「云えば出来るわ、あなた。無いんじゃないんですもの。ただ云い悪いだけよ」
「然し世の中には又お父さんだのお秀だのっていう、むずかしやも揃ってるからな」
 津田は却って自尊心を傷けられたような顔付をした。お延はそれを取り繕ろうように云った。
「なにそう云う意味ばかりで貰って来た訳でもないのよ。叔父さんにはあたしに指輪を買って呉れる約束があるのよ。お嫁に行くとき買って遣らない代りに、今に買って遣るって、此間(こないいだ)からそう云ってたのよ。だからその積で呉れたんでしょう大方。心配しないでも可いいわ」
 津田はお延の指を眺めた。其所には自分の買って遣った宝石がちゃんと光っていた。

百十三

 二人は何時になく融け合った。
 今までお延の前で体面を保つために武装していた津田の心が吾知らず弛んだ。自分の父が鄙吝(ひりん)らしく彼女の眼に映りはしまいかという懸念、或(あるい)は自分の予期以下に彼女が父の財力を見縊(みくび)りはしまいかという恐れ、二つのものが原因になって、成る可く京都の方面に曖昧な幕を張り通そうとした警戒が解けた。そうして彼はそれに気付かずにいた。努力もなく意志も働かせずに、彼は自然の力で其所へ押し流されて来た。用心深い彼をそっと持ち上げて、事件がお延のために彼を其所まで運んで来て呉れたと同じ事であった。お延にはそれが嬉しかった。改めようとする決心なしに、改たまった夫の態度には自然があった。
 同時に津田から見たお延にも、亦それと同様の趣が出た。余事は暫らく問題外に措くとして、結婚後彼等の間には、常に財力に関する妙な暗闘があった。そうしてそれはこう云う因果から来た。普通の人のように富を誇りとしたがる津田は、その点に於て、自分を成る可く高くお延から評価させるために、父の財産を実際より遥か余計な額に見積った所を、彼女に向って吹聴した。それだけならまだ可かった。彼の弱点はもう一歩先へ乗り越す事を忘れなかった。彼のお延に匂わせた自分は、今より大変楽な身分にいる若旦那であった。必要な場合には、幾何(いくら)でも父から補助を仰ぐ事が出来た。たとい仰がないでも、月々の支出に困る憂(うれい)は決してなかた。お延と結婚した時の彼は、もうこれだけの言責(げんせき)を彼女に対して脊負(しょ)って立っていたのと同じ事であった。利巧な彼は、財力に重きを置く点に於て、彼に優るとも劣らないお延の性質を能く承知していた。極端に云えば、黄金の光りから愛その物が生れるとまで信ずる事の出来る彼には、どうかしてお延の手前を取繕わなければならないという不安があった。ことに彼はこの点に於てお延から軽蔑されるのを深く恐れた。堀に依頼して毎月父から助(す)けて貰うようにしたのも、実は必要以外にこんな魂胆が潜んでいたからでもあった。それでさえ彼は何処かに烟(けむ)たい所を有っていた。少くとも彼女に対する内と外には大分の距離があった。眼から鼻へ抜けるようなお延にはまたその距離が手に取る如く分った。必然の勢い彼女は其所に不満を抱かざるを得なかった。然し彼女は夫の虚偽を責めるよりも寧ろ夫の淡白でないのを恨んだ。彼女はただ水臭いと思った。何故男らしく自分の弱点を妻の前に曝(さら)け出して呉れないのかを苦にした。仕舞には、それを敢てしないような隔りのある夫なら、此方にも覚悟があると一人腹の中で極(き)めた。するとその態度がまた木精(こだま)のように津田の胸に反響した。二人は何処まで行っても、直に向き合う訳に行かなかった。しかも遠慮があるので、成るべく其所には触れないように慎しんでいた。ところがお秀との悶着が、偶然にもお延の胸にあるこの扉を一度にがらりと敲(たた)き破った。しかもお延自身毫(ごう)も其所に気が付かなかった。彼女は自分を夫の前に開放しようという努力も決心もなしに、天然自然自分を解放してしまった。だから津田にもまるで別人のように快よく見えた。
 二人はこういう風で、何時になく融け合った。すると二人が融け合った所に妙な現象がすぐ起った。二人は今まで回避していた問題を平気で取り上げた。二人は一所になって、京都に対する善後策を講じ出した。
 二人には同じ予感が働いた。この事件はこれだけで片付くまいという不安が双方の心を引き締めた。屹度お秀が何かするだろう。すれば直接京都へ向って遣るに違いない。そうしてその結果は自然二人の不利益となるに極っている。――此所までは二人の一致する点であった。それから先が肝心の善後策になった。然し其所へ来ると意見が区々(まちまち)で、容易に纏(まと)まらなかった。
 お延は仲裁者として第一に藤井の叔父を指名した。然し津田は首を掉(ふ)った。彼は叔父も叔母もお秀の味方である事を能く承知していた。次に津田の方から岡本はどうだろうと云い出した。けれども岡本は津田の父とそれ程深い交際がないと云う理由で、今度はお延が反対した。彼女は一層簡単に自分が和解の目的で、お秀の所へ行って見ようかという案を立てた。これには津田も大した違存はなかった。たとい今度の事件の為でなくとも、絶交を希望しない以上、何等かの形式のもとに、両家の交際は復活されべき運命を有っていたからである。然しそれはそれとして、彼等はもう少し有効な方法を同時に講じて見たかった。彼等は考えた。
 仕舞に吉川の名が二人の口から同じように出た。彼の地位、父との関係、父から特別の依頼を受けて津田の面倒を見て呉れている目下の事情、――数えれば数える程、彼には有利な条件が具(そなわ)っていた。けれども其所には又一種の困難があった。それ程親しく近付き悪い吉川に口を利いて貰おうとすれば、是非ともその前に彼の細君を口説き落さなければならなかった。ところがその細君はお延に取って大の苦手であった。お延は津田の提議に同意する前に、少し首を傾けた。細君と仲善(なかよし)の津田は又充分成効の見込が其所に見えているので、熱心にそれを主張した。仕舞にお延はとうとう我を折った。
 事件後の二人は打ち解けてこんな相談をした後で心持よく別れた。

百十四

 前夜よく寐られなかった疲労の加わった津田はその晩案外気易く眠る事が出来た。翌日(あくるひ)も亦透き通るような日差を眼に受けて、晴々しい空気を[ハメ]硝子の外に眺めた彼の耳には、隣りの洗濯屋で例の通りごしごし云わす音が、何処となしに秋の情趣を唆(そそ)った。
「……へ行くなら着て行かしゃんせ。シッシッシ」
 洗濯屋の男は、俗歌を唄いながら、区切区切へシッシッシという言葉を入れた。それが如何にも忙がしそうに手を働かせている彼等の姿を津田に想像させた。
 彼等は突然変な穴から白い物を担いで屋根へ出た。それから物干へ上って、その白いものを隙間なく秋の空へ広げた。此所へ来てから、日毎に繰り返される彼等の所作は単調であった。しかし勤勉であった。それが果して何を意味しているか津田には解らなかった。
 彼は今の自分にもっと親切な事を頭の中で考えなければならなかった。彼は吉川夫人の姿を憶い浮べた。彼の未来、それを眼の前に描き出すのは、余りに漠然過ぎた。それを纏めようとすると、何時でも吉川夫人が現われた。平生から自分の未来を代表して呉れるこの焦点にはこの際特別な意味が附着していた。
 一にはこの間訪問した時からの引掛りがあった。その時二人の間に封じ込められたある問題を、ぽたりと彼の頭に点じたのは彼女であった。彼にはその後を聴くまいとする努力があった。又聴こうとする意志も動いた。既に封を切ったものが彼女であるとすれば、中味を披(ひら)く権利は自分にあるようにも思われた。
 二には京都の事が気になった。軽重を別にして考えると、この方が寧ろ急に逼っていた。一日も早く彼女に会うのが得策のようにも見えた。まだ四五日はどうしても動く事の出来ない身体を持ち扱った彼は、昨日お延の帰る前に、彼女を自分の代りに夫人の所へ遣ろうとした位であった。それはお延に断られたので、成立しなかったけれども、彼は今でもその方が適当な遣口だと信じていた。
 お延が何故こういう用向を帯びて夫人を訪ねるのを嫌ったのか、津田は不思議でならなかった。黙っていてもそんな方面へ出入をしたがる女の癖に。と彼はその時考えた。夫人の前へ出られるためにわざと用事を拵らえて貰ったのと同じ事だのにとまで、自分の動議を強調して見た。然しどうしても引き受けたがらないお延を、たって強いる気も亦その場合の彼には起らなかった。それは夫婦打ち解けた気分にも起因していたが、一方から見ると、またお延の辞退しようにも関係していた。彼女は自分が行くと必ず失敗するからと云った。然しその理由を述べる代りに、津田なら屹度成効するに違ないからと云った。成効するにしても、病院を出た後でなければ会う訳に行かないんだから、遅くなる虞(おそ)れがあると津田が注意した時、お延は又意外な返事を彼に与えた。彼女は夫人が屹度病院へ見舞に来るに違ないと断言した。その時機を利用しさえすれば、一番自然に又一番簡単に事が運ぶのだと主張した。
 津田は洗濯屋の干物を眺めながら、昨日の問答をこんな風に、それからそれへと手元へ手繰り寄せて点検した。すると吉川夫人は見舞に来て呉れそうでもあった。又来て呉れそうにもなかった。つまりお延が何故来る方をそう堅く主張したのか解らなくなった。彼は芝居の食堂で晩餐の卓に着いたという大勢を眼先に想像して見た。お延と吉川夫人の間にどんな会話が取り換わされたかを、小説的に組み合せても見た。けれどもその会話の何処からこの予言が出て来たかの点になると、自分に解らないものとして投げてしまうより外に手はなかった。彼は既に幾分の直覚、不幸にして天が彼に与えて呉れなかった幾分の直覚を、お延に許していた。その点で何時でも彼女を少し畏れなければならなかった彼には、杜撰(ずさん)に其所へ触れる勇気がなかった。と同時に、全然その直覚に信頼する事の出来ない彼は、何とかして此方(こっち)から吉川夫人を病院へ呼び寄せる工夫はあるまいかと考えた。彼はすぐ電話を思い付いた。横着も見えず、殊更でもなし、自然に彼女が此所まで出向いて来るような電話の掛け方はなかろうかと苦心した。然しその苦心は水の泡を製造する努力と略(ほぼ)似たものであった。いくら骨を折って拵えても、すぐ後から消えて行くだけであった。根本的に無理な空想を実現させようと巧らんでいるのだから仕方がないと気が付いた時、彼は一人で苦笑して又硝子越に表を眺めた。
 表は何時か風立った。洗濯屋の前にある一本の柳の枝が白い干物と一所になって軽く揺れていた。それを掠(かす)めるように掛け渡された三本の電線も、余所(よそ)と調子を合わせるようにふらふらと動いた。

百十五

 下から上って来た医者には、その時の津田が如何にも退屈そうに見えた。顔を合せるや否や彼は「如何です」と訊いた後で、「もう少しの我慢です」とすぐ慰めるように云った。それから彼は津田のためにガーゼを取り易(か)えて呉れた。
「まだ創口の方はそっとして置かないと、危険ですから」
 彼はこう注意して、じかに局部を抑え付けている個所を少し緩めて見たら、血が煮染み出したという話を用心のためにして聴かせた。
 取り易えられたガーゼは一部分に過ぎなかった。要所を剥がすと、血が迸(ほとば)しるかも知れないという身体では、津田も無理をして宅へ帰る訳に行かなかった。
「矢ッ張予定通りの日数は動かずにいるより外に仕方がないでしょうね」
 医者は気の毒そうな顔をした。
「なに経過次第じゃ、それ程大事を取るにも及ばないんですがね」
 それでも医者は、時間と経済に不足のない、何処から見ても余裕のある患者として、津田を取扱かっているらしかった。
「別に大した用事がお有になる訳でもないんでしょう」
「ええ一週間位は此所で暮らしても可いんです。然し臨時に一寸事件が起ったので……」
「はあ。――然しもう直です。もう少しの辛抱です」
 これより外に云い様のなかった医者は、外来患者の方がまだ込み合わないためか、其所へ坐って二三の雑談をした。中で、彼がまだ助手としてある大きな病院に勤めている頃に起ったという一口話が、思わず津田を笑わせた。看護婦が薬を間違えたために患者が死んだのだという嫌疑(けんぎ)をかけて、是非その看護婦を殴らせろと、医局へ逼った人があったというその話は、津田から見ると如何にも滑稽であった。こういう性質(たち)の人と正反対に生み付けられた彼は、其所に馬鹿らしさ以外の何物をも見出す事が出来なかった。平たく云い直すと、彼は向うの短所ばかりに気を奪(と)られた。そうしてその裏側へ暗に自分の長所を点綴(てんてつ)して喜んだ。だから自分の短所には決して思い及ばなかったと同一の結果に帰着した。
 医者の診察が済んだ後で、彼は下らない病気のために、一週間も一つ所に括(くく)り付けられなければならない現在の自分を悲観したくなった。気の所為(せい)か彼にはその現在が大変貴重に見えた。もう少し治療を後廻しにすれば好かったという後悔さえ腹の中には起った。
 彼は又吉川夫人の事を考え始めた。どうかして彼女を此所へ呼び付ける工夫はあるまいかと思うよりも、どうかして彼女が此所へ来て呉れれば可いがと思う方に、心の調子が段々移って行った。自分を見破られるという意味で、平生からお延の直覚を悪く評価していたにも拘わらず、例外なこの場合だけには、それが中(あた)って欲しいような気も何処かでした。
 彼はお延の置いて行った書物の中から、その一冊を抽(ぬ)いた。岡本の所蔵にかかるだけあるなと首肯ずかせる様な趣が其所此所に見えた。不幸にして彼は諧謔(ヒューモア)を解する事を知らなかった。中に書いてある活字の意味は、頭に通じても胸にはそれ程応えなかった。頭にさえ呑み込めないのも続々出て来た。責任のない彼は、自分に手頃なのを見付けようとして、どしどし飛ばして行った。すると偶然下のようなのが彼の眼に触れた。
「娘の父が青年に向って、あなたは私の娘を愛してお出なのですかと訊いたら、青年は、愛するの愛さないのっていう段じゃありません、お嬢さんの為なら死のうとまで思っているんです。あの懐かしい眼で、優しい眼遣いをただの一度でもして頂く事が出来るなら、僕はもうそれだけで死ぬのです。すぐあの二百尺もあろうという崖の上から、岩の上へ落ちて、滅茶苦茶な血だらけな塊りになって御覧に入れます。と答えた。娘の父は首を掉(ふ)って、実を云うと、私も少し嘘を吐く性分だが、私の家のような小人数な家族に、嘘付が二人出来るのは、少し考えものですからね。と答えた」
 嘘吐(うそつき)という言葉が何時もより皮肉に津田を苦笑させた。彼は腹の中で、嘘吐な自分を肯(うけ)がう男であった。同時に他人の嘘をも根本的に認定する男であった。それでいて少しも厭世的にならない男であった。寧ろその反対に生活する事の出来るために、嘘が必要になるのだ位に考える男であった。彼は、今までこういう漠然とした人生観の下に生きて来ながら、自分ではそれを知らなかった。彼はただ行ったのである。だから少し深く入り込むと、自分で自分の立場が分らなくなるだけであった。
「愛と虚偽」
 自分の読んだ一口噺(ばなし)からこの二字を暗示された彼は、二つのものの関係をどう説明して可いかに迷った。彼は自分に大事なある問題の所有者であった。内心の要求上是非ともそえれを解決しなければならない彼は、実際の機会が彼に与えられない限り、頭の中で徒(いたず)らに考えなければならなかった。哲学者でない彼は、自身に今まで行(おこな)って来た人生観すら、組織正しい形式の下に、わが眼の前に並べて見る事が出来なかったのである。

百十六

 津田は纏まらない事をそれからそれへと考えた。そのうち何時か午過ぎになってしまった。彼の頭は疲れていた。もう一つ事を長く思い続ける勇気がなくなった。然し秋とは云いながら、独り寐ているには日が余りに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。そうして又お延の方に想いを馳(は)せた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に予期していた彼は横着であった。今まで彼女の手前憚からなければならないような事ばかりを、散々考え抜いた揚句、それが厭になると、すぐお延はもう来そうなものだと思って平気でいた。自然頭の中に湧いて出るものに対して、責任は有てないという弁解さえその時の彼にはなかった。彼の見たお延に不可解な点がある代りに、自分もお延の知らない事実を、胸の中に納めているのだ位の料簡は、遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然(はっきり)した言葉になって、彼の頭に現われて来る筈がなかった。
 お延は中々来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は固より姿を見せなかった。津田は面白くなかった。先刻(さっき)から近くで誰かが遣っている、彼の最も嫌(きらい)な謡(うたい)の声が、不快に彼の耳を刺戟した。彼の記憶にある謡曲指南という細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建の家であった。二階が稽古をする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方が無暗に大きく響いた。他が勝手に遣っているものを止(や)めさせる権利を何処にも見出し得ない彼は、彼の不平をどうする事も出来なかった。彼はただ早く退院したいと思うだけであった。
 柳の木の後にある赤い煉瓦造りの倉に、山形の下に一を引いた屋号のような紋が付いていて、その左右に何の為とも解らない、大きな折釘(おれくぎ)に似たものが壁の中から突き出している所を、津田が見るとも見ないとも片の付かない眼で、ぼんやり眺めていた時、遠慮のない足音が急に聞こえて、誰かが階子段(はしごだん)を、どしどし上って来た。津田はおやと思った。この足音の調子から、その主がもう七分通り、彼の頭の中では推定されていた。
 彼の予覚はすぐ事実になった。彼が室の入口に眼を転ずると、殆んどおッつかッつに、小林は貰い立ての外套を着たままつかつか入って来た。
「どうかね」
 彼はすぐ胡座をかいた。津田は寧ろ苦しそうな笑いを挨拶の代りにした。何しに来たんだという心持が、顔を見ると共にもう起っていた。
「これだ」と彼は外套の袖を津田に突き付けるようにして見せた。
「有難う、お蔭でこの冬も生きて行かれるよ」
 小林はお延の前で云ったと同じ言葉を津田の前で繰り返した。然し津田はお延からそれを聴かされていなかったので、別に皮肉とも思わなかった。
「奥さんが来たろう」
 小林は又こう訊いた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
 津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇した。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。それを彼の口から此所で繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。然し何方(どっち)が成功するか其所は咄嗟の際に極める訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。屹度そんな事だろうと、僕も思ってたよ」
 容易に手掛りを得た津田は、すぐそれに縋(すが)り付いた。
「君があんまり苛めるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯(からか)い過ぎたんだ、可哀相に。泣きやしなかったかね」
 津田は少し驚ろいた。
「泣かせる様な事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目さ。つまり奥さんは、岡本さんみたいな上流の家庭で育ったので、天下の僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それで一寸した事まで苦にするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えて置きさえすればそれで可いんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずに遣り返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
 津田は言葉を改めた。
「然し君は一体どんな事を云って、彼奴(あいつ)に調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんから聴いたろう」
「いいや聴かない」
 二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度(そんたく)しようとする試みが、同時に其所に現われた。

百十七

 津田が小林に本音を吹かせようとする所には、ある特別の意味があった。彼はお延の性質をその著るしい断面に於て能く承知していた。お秀と正反対な彼女は、飽くまで素直に、飽くまで閑雅(しとやか)な態度を、絶えず彼の前に示す事を忘れないと共に、どうしても亦彼の自由にならない点を、同様な程度でちゃんと有っていた。彼女の才は一つであった。けれどもその応用は両面に亘っていた。これは夫に知らせてならないと思う事、又は隠して置く方が便宜だと極めた事、そういう場合になると、彼女は全く津田の手に余る細君であった。彼女が柔順であればある程、津田は彼女から何にも堀り出す事が出来なかった。彼女と小林の間に昨日どんな遣り取りが起ったか、それはお秀の騒ぎで委細を訊く暇もないうちに、時間が経ってしまったのだから、事実已を得ないとしても、もしそういう故障のない時に、津田から詳しい有のままを問われたら、お延はおいそれと彼の希望通り、綿密な返事を惜まずに、彼の要求を満足させたろうかと考えると、其所には大きな疑問があった。お延の平生から推して、津田は寧ろ胡麻化されるに違ないと思った。ことに彼がもしやと思っている点を、小林が遠慮なく喋舌ったとすれば、お延は猶の事、それを聴かない振をして、黙って夫の前を通り抜ける女らしく見えた。少くとも津田の観察した彼女にはそれだけの余裕が充分あった。既にお延の方を諦らめなければならないとすると、津田は自分に必要な知識の出所を、小林に向って求めるより外に仕方がなかった。
 小林は何だか其所を承知しているらしかった。
「なに何にも云やしないよ。嘘だと思うなら、もう一遍お延さんに訊いて見給え。尤も僕は帰りがけに悪いと思ったから、詫(あや)まって来たがね。実を云うと、何で詫まったか、僕自身にも解らない位のものさ」
 彼はこう云って嘯(うそぶ)いた。それからいきなり手を延べて、津田の枕元にある読み掛けの書物を取り上げて、一分ばかりそれを黙読した。
「こんなものを読むのかね」と彼はさも軽蔑した口調で津田に訊いた。彼はぞんざいに頁を剥繰(はぐ)りながら、終りの方から逆に始めへ来た。そうして其所に岡本という小さい見留印(みとめいん)を見出した時、彼は「ふん」と云った。
「お延さんが持って来たんだな。道理で妙な本だと思った。――時に君、岡本さんは金持だろうね」
「そんな事は知らないよ」
「知らない筈はあるまい。だってお延さんの里じゃないか」
「僕は岡本の財産を調べた上で、結婚なんかしたんじゃないよ」
「そうか」
 この単純な「そうか」が変に津田の頭に響いた。「岡本の財産を調べないで、君が結婚するものか」という意味にさえ取れた。
「岡本はお延の叔父だぜ、君知らないのか。里でも何でもありやしないよ」
「そうか」
 小林は又同じ言葉を繰り返した。津田は猶不愉快になった。
「そんなに岡本の財産を知りたければ、調べて遣ろうか」
 小林は「えへへ」と云った。「貧乏すると他の財産まで苦になって仕様がない」
 津田は取り合わなかった。それでその問題を切り上げるかと思っていると、小林はすぐ元へ帰って来た。
「然し幾何位あるんだろう、本当の所」
 こう云う態度は正しく彼の特色であった。そうして何時でも二様に解釈する事が出来た。頭から向うを馬鹿だと認定してしまえばそれまでであると共に、一度此方が馬鹿にされているのだと思い出すと、又際限もなく馬鹿にされている訳にもなった。彼に対する津田は実の所半信半疑の真中に立っていた。だから其所に幾分でも自分の弱点が潜在する場合には、馬鹿にされる方の解釈に傾むかざるを得なかった。ただ相手を付け上らせない用心をするより外に仕方がなかった彼は、ただ微笑した。
「少し借りて遣ろうか」
「借りるのは厭だ。貰うなら貰っても可いがね。――いや貰うのも御免だ、どうせ呉れる気遣はないんだから。仕方がなければ、まあ取るんだな」小林はははと笑った。「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取って行くかな」
 津田はすぐ話をその朝鮮へ持って行った。
「時に何時立つんだね」
「まだ確(しっ)かり判らない」
「然し立つ事は立つのかい」
「立つ事は立つ。君が催促しても、しなくっても、立つ日が来ればちゃんと立つ」
「僕は催促をするんじゃない。時間があったら君の為に送別会を開いて遣ろうというのだ」
 今日小林から充分な事が聴けなかったら、その送別会でも利用して遣ろうと思い付いた津田は、こう云って予備としての第二の機会を暗に作り上げた。

百十八

 故意だか偶然だか、津田の持って行こうとする方面へは中々持って行かれない小林に対して、この注意は寧ろ必要かも知れなかった。彼は何時までも津田の問に応ずるような又応じないような態度を取った。そうして執着(しつこ)く自分自身の話題にばかり纏綿(つけまつ)わった。それが又津田の訊こうとする事と、間接ではあるが深い関係があるので、津田は蒼蠅(うるさ)くもあり、焦れったくもあった。何となく遠廻しに痛振られるような気もした。
「君吉川と岡本とは親類かね」と小林が云い出した。
 津田にはこの質問が無邪気とは思えなかった。
「親類じゃない、ただの友達だよ。何時かも君が訊いた時に、そう云って話したじゃないか」
「そうか、あんまり僕に関係の遠い人達の事だもんだから、つい忘れちまった。然し彼等は友達にしても、ただの友達じゃあるまい」
「何を云ってるんだ」
 津田はついその後へ馬鹿野郎と付け足したかった。
「いや、余程の親友なんだろうという意味だ。そんなに怒らなくっても可かろう」
 吉川と岡本とは、小林の想像する通りの間柄に違なかった。単なる事実はただそれだけであった。然しその裏に、津田とお延を貼り付けて、裏表の意味を同時に眺める事は自由に出来た。
「君は仕合せな男だな」と小林が云った。「お延さんさえ大事いしていれば間違はないんだから」
「だから大事にしているよ。君の注意がなくったって、その位の事は心得ているんだ」
「そうか」
 小林は又「そうか」という言葉を使った。この真面目腐った「そうか」が重なるたびに、津田は彼から脅やかされるような気がした。
「然し君は僕などと違って聡明だから可い。他はみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ」
「他とは誰の事だい」
「先生でも奥さんでもさ」
 藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にも略(ほぼ)見当が付いていた。
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――然し僕のような正直者には、迚(とて)も君の真似は出来ない。君は矢ッ張りえらい男だ」
「君が正直で僕が偽物(ぎぶつ)なのか。その偽物が又偉くって正直者は馬鹿なのか。君は何時又そんな哲学を発明したのかい」
「哲学は余程前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ。朝鮮へ行くに就いて」
 津田の頭に妙な暗示が閃めかされた。
「君旅費はもう出来たのか」
「旅費はどうでも出来る積だがね」
「社の方で出して呉れる事に極ったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「些とも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒で堪らないんだ」
 こういう彼は、平気で自分の妹のお金さんを藤井に片付けて貰う男であった。
「いくら僕が耻知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑を懸けては済まないからね」
 津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君何処かに強奪(ゆす)る所はないかね」
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。何処かにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間は兎に角、君だけは何時も景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」
 岡本から貰った小切手も、お秀の置いて行った紙包も、みんなお延に渡してしまった後の彼の財布は空と同じ事であった。よしそれが手元にあったにした所で、彼はこの場合小林のために金銭上の犠牲を払う気は起らなかった。第一事が其所まで切迫して来ない限り、彼は相談に応ずる必要を毫も認めなかった。
 不思議に小林の方でも、それ以上津田を押さなかった。その代り突然妙な所へ話を切り出して彼を驚ろかした。
 その朝藤井へ行った彼は、其所で例(いつ)もするように昼飯の馳走になって、長い時間を原稿の整理で過しているうちに、玄関の格子が開いたので、ひょいと自分で取次に出た。そうして其所に偶然お秀の姿を見出したのである。
 小林の話を其所まで聴いた時、津田は思わず腹の中で「畜生ッ先廻りをしたな」と叫んだ。然しただそれだけでは済まなかった。小林の頭にはまだ津田を驚ろかせる材料が残っていた。

百十九

 然し彼の驚ろかし方には、また彼一流の順序があった。彼は一番始めにこんな事を云って津田に調戯(からか)った。
「兄妹喧嘩をしたんだって云うじゃないか。先生も奥さんも、お秀さんに喋舌(しゃべ)り付けられて弱ってたぜ」
「君はまた傍でそれを聴いていたのか」
 小林は苦笑しながら頭を掻いた。
「なに聴こうと思って聴いた訳でもないがね。まあ天然自然耳へ入ったようなものだ。何しろ喋舌る人がお秀さんで、喋舌らせる人が先生だからな」
 お秀には何処か片意地で一本調子な趣があった。それに一種の刺戟が加わると、平生の落付が全く無くなって、不断と打って変った猛烈さをひょっくり出現させる所に、津田とはまるで違った特色があった。叔父は又叔父で、何でも構わず底の底まで突き留めなければ承知の出来ない男であった。単に言葉の上だけでも可いから、前後一貫して俗にいう辻褄が合う最後まで行きたいというのが、こういう場合相手に対する彼の態度であった。筆の先で思想上の問題を始終取り扱かい付けている癖が、活字を離れた彼の日常生活にも憑(の)り移ってしまった結果は、其所によく現われた。彼は相手に幾何(いくら)でも口を利かせた。その代り又幾何でも質問を掛けた。それが或程度まで行くと、質問という性質を離れて、詰問に変化する事さえ[屡](しばしば)あった。
 津田は心の中で、この叔父と妹の対坐した時の様子を想像した。ことによると其所で又一波瀾起したのではあるまいかという疑さえ出た。然し小林に対する手前もあるので、上部はわざと高く出た。
「大方滅茶苦茶に僕の悪口でも云ったんだろう」
 小林は御挨拶にただ高笑いをした後で、こんな事を言った。
「だが君にも似合わないね、お秀さんと喧嘩をするなんて」
「僕だからしたのさ。彼奴(あいつ)だって堀の前なら、もっと遠慮すらあね」
「成程そうかな。世間じゃよく夫婦喧嘩っていうが、夫婦喧嘩より兄妹喧嘩の方が普通なものかな。僕はまだ女房を持った経験がないから、其方のほうの消息はまるで解らないが、これでも妹はあるから兄妹の味なら能く心得ている積だ。君何だぜ。僕のような兄でも、妹と喧嘩なんかした覚はまだないぜ」
「そりゃ妹次第さ」
「けれども其所は又兄次第だろう」
「いくら兄だって、少しは腹の立つ場合もあるよ」
 小林はにやにや笑っていた。
「だが、いくら君だって、今お秀さんを怒らせるのが得策だとは思ってやしまい」
「そりゃ当り前だよ。好んで誰が喧嘩なんかするもんか。あんな奴と」
 小林は益笑った。彼は笑うたびに一(ひと)調子ずつ余裕を生じて来た。
「蓋(けだ)し已を得なかった訳だろう。然しそれは僕の云う事だ。僕は誰と喧嘩したって構わない男だ。誰と喧嘩したって損をしっこない境遇に沈淪(ちんりん)している人間だ。喧嘩の結果がもし何処かにあるとすれば、それは僕の損にゃならない。何となれば、僕は未だ曾(かつ)て損になるべき何物をも最初から有っていないんだからね。要するに喧嘩から起り得る凡ての変化は、みんな僕の得になるだけなんだから、僕は寧ろ喧嘩を希望しても可い位なものだ。けれども君は違うよ。君の喧嘩は決して得にゃならない。そうして君程又損得利害をよく心得ている男は世間にたんとないんだ。ただ心得てるばかりじゃない、君はそうした心得の下に、朝から晩まで寐たり起きたりしていられる男なんだ。少くともそうしなければならないと始終考えている男なんだ。好いかね。その君にして――」
 津田は面倒臭そうに小林を遮ぎった。
「よし解った。解ったよ。つまり他と衝突するなと注意して呉れるんだろう。ことに君と衝突しちゃ僕の損になるだけだから、成るべく事を穏便にしろという忠告なんだろう、君の主意は」
 小林は惚(とぼ)けた顔をして済まし返った。
「何僕と? 僕はちっとも君と喧嘩をする気はないよ」
「もう解ったというのに」
「解ったらそれで可いがね。誤解のないように注意して置くが、僕は先刻からお秀さんの事を問題にしているんだぜ、君」
「それも解ってるよ」
「解ってるって、そりゃ京都の事だろう。彼方(あっち)が不首尾になるという意味だろう」
「勿論さ」
「ところが君それだけじゃないぜ、まだ外にも響いて来るんだぜ。気を付けないと」
 小林は其所で句を切って、自分の言葉の影響を試験するために、津田の顔を眺めた。津田は果して平気でいる事が出来なかった。

百二十

 小林はここだという時機を捕(つら)まえた。
「お秀さんはね君」と云い出した時の彼は、もう津田を擒(とりこ)にしていた。
「お秀さんはね君、先生の所へ来る前に、もう一軒外へ廻って来たんだぜ。その一軒というのは何処の事だか、君に想像が付くか」
 津田には想像が付かなかった。少なくともこの事件に就いて彼女が足を運びそうな所は、藤井以外にある筈がなかった。
「そんな所は東京にないよ」
「いやあるんだ」
 津田は仕方なしに、頭の中で又あれかこれかと物色して見た。然しいくら考えても、見当らないものは矢ッ張見当らなかった。仕舞に小林が笑いながら、その宅の名を云った時に、津田は果して驚ろいたように大きな声を出した。
「吉川? 吉川さんへ又どうして行ったんだろう。何にも関係がないじゃないか」
 津田は不思議がらざるを得なかった。
 ただ吉川と堀を結び付けるだけの事なら、津田にも容易に出来た。強い空想の援(たすけ)に依る必要も何にもなかった。津田夫婦の結婚するとき、表向媒酌の労を取って呉れた吉川夫婦と、彼の妹にあたるお秀と、その夫の堀とが社交的に関係を有っているのは、誰の眼にも明らかであった。然しその縁故で、この問題を提(ひっ)さげたお秀が、とくに吉川の門に向う理由は何処にも発見出来なかった。
「ただ訪問のために行っただけだろう。単に敬意を払ったんだろう」
「ところがそうでないらしいんだ。お秀さんの話を聴いていると」
 津田は俄(にわ)かにその話が聴きたくなった。小林は彼を満足させる代りに注意した。
「然し君という男は、非常に用意周到なようで何処か抜けてるね。あんまり抜けまい抜けまいとするから、自然手が廻りかねる訳かね。今度の事だって、そうじゃないか。第一お秀さんを怒らせる法はないよ、君の立場として。それから怒らせた以上、吉川の方へ突ッ走らせるのは愚だよ。その上吉川の方へ向いて行く筈がないと思い込んで、初手から高を括っているなんぞは、君の平生にも似合わないじゃないか」
 結果の上から見た津田の隙間を探し出す事は小林にも容易であった。
「一体君のファーザーと吉川とは友達だろう。そうして君の事はファーザーから吉川に万事宜しく願ってあるんだろう。其所へお秀さんが懸け込むのは当り前じゃないか」
 津田は病院へ来る前、社の重役室で吉川から聴かされた「年寄に心配を掛けては不可い。君が東京で何をしているか、ちゃんと此方で解ってるんだから、もし不都合な事があれば、京都へ知らせて遣るだけだ。用心しろ」という意味の言葉を思い出した。それは今から解釈して見ても冗談半分の訓戒に過ぎなかった。然しもしそれを此所で真面目一式な文句に転倒するものがあるとすれば、その作者はお秀であった。
「随分突飛な奴だな」
 突飛という性格が彼の家伝いにないだけ彼の批評には意外という観念が含まれていた。
「一体何を云いやがったろう、吉川さんで。――彼奴(あいつ)の云う事を真向(まとも)に受けていると、可いのは自分だけで、外のものはみんな悪くなっちまうんだから困るよ」
 津田の頭には直接の影響以上に、もっと遠くの方にある大事な結果がちらちらした。吉川に対する自分の信用、吉川と岡本との関係、岡本とお延との縁合、それ等のものがお秀の遣口一つでどう変化して行くか分らなかった。
「女は浅墓なもんだからな」
 この言葉を聴いた小林は急に笑い出した。今まで笑ったうちで一番大きなその笑い方が、津田をはっと思わせた。彼は始めて自分が何を云っているかに気が付いた。
「そりゃどうでも可いが、お秀が吉川へ行ってどんな事を喋舌ったのか、叔父に話していた所を君が聴いたのなら、教えて呉れたまえ」
「何かしきりに云ってたがね。実をいうと、僕は面倒だから碌に聴いちゃいなかったよ」
 こう云った小林は肝心な所へ来て、知らん顔をして圏外へ出てしまった。津田は失望した。その失望を暫く味わった後で、小林は又圏内へ帰って来た。
「しかしもう少し待ってたまえ。否でも応でも聴かされるよ」
 津田はまさかお秀が又来る訳でもなかろうと思った。
「なにお秀さんじゃない。お秀さんは直に来やしない。その代りに吉川の細君が来るんだ。嘘じゃないよ。この耳で慥に聴いて来たんだもの。お秀さんは細君の来る時間まで明言した位だ。大方もう少ししたら来るだろう」
 お延の予言は中(あた)った。津田がどうかして呼び付けたいと思っている吉川夫人は、何時の間にか来る事になっていた。
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