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明 暗(5)
夏目漱石 

百二十一

 津田の頭に二つのものが相継いで閃めいた。一つはこれから此所へ来るその吉川夫人を旨く取扱わなければならないという事前の暗示であった。彼女の方から病院まで足を運んで呉れる事は、予定の計画から見て、彼の最も希望する所には違なかったが、来訪の意味がここに新らしく付け加えられた以上、それに対する彼の応答振も変えなければならなかった。この場合に於(おけ)る夫人の態度を想像に描いて見た彼は、多少の不安を感じた。お秀から偏見を注(つ)ぎ込まれた後の夫人と、まだ反感を煽(あお)られない前の夫人とは、彼の眼に映る所だけでも、大分違っていた。けれども其所には平生の自信も亦伴なっていた。彼には夫人の持ってくる偏見と反感を、一場(いちじょう)の会見で、充分繰り返して見せるという覚悟があった。少くとも此所でそれだけの事をして置かなければ、自分の未来が危なかった。彼は三分の不安と七分の信力をもって、彼女の来訪を待ち受けた。
 残る一つの閃めきが、お延に対する態度を、もう一遍臨時に変更する便宜を彼に教えた。先刻までの彼は退屈の余り彼女の姿を刻々に待ち設けていた。然し今の彼には別途の緊張があった。彼は全然異なった方面の刺戟を予想した。お延はもう不用であった。というよりも、来られては却って迷惑であった。その上彼はただ二人、夫人と差向いで話して見たい特殊な問題も控えていた。彼はお延と夫人が此所で一所に落ち合う事を、是非とも防がなければならないと思い定めた。
 附帯条件として、小林を早く追払う手段も必要になって来た。然るにその小林は今にも吉川夫人が見えるような事を云いながら、自分の帰る気色を何処にも現わさなかった。彼は他の邪魔になる自分を苦にする男ではなかった。時と場合によると、それと知って、わざわざ邪魔までしかねない人間であった。しかも其所まで行って、実際気が付かずに迷惑がらせるのか、又は心得があって故意に困らせるのか、その判断を確(しか)と他に与えずに平気で切り抜けてしまう焦慮(じれ)ったい人物であった。
 津田は欠伸をして見せた。彼の心持と全く釣り合わないこの所作が彼を二つに割った。何処かそわそわしながら、如何(いか)にも所在なさそうに小林と応対する所に、中断された気分の特色が斑になって出た。それでも小林は済ましていた。枕元にある時計を又取り上げた津田は、それを置くと同時に、已(やむ)を得ず質問を掛けた。
「君何か用があるのか」
「ない事もないんだがね。なにそりゃ今に限った訳でもないんだ」
 津田には彼の意味が略解った。然しまだ降参する気にはなれなかった。と云って、すぐ撃退する勇気は猶更なかった。彼は仕方なしに黙っていた。すると小林がこんな事を云い出した。
「僕も吉川の細君に会って行こうかな」
 冗談じゃないと津田は腹の中で思った。
「何か用があるのかい」
「君は能く用々って云うが、何も用があるから人に会うとは限るまい」
「然し知らない人だからさ」
「知らない人だから一寸会って見たいんだ。どんな様子だろうと思ってね。一体僕は金持の家庭へ入った事もないし、又そんな人と交際(つきあ)った例もない男だから、ついこういう機会に、一寸でも可いから、会って置きたくなるのさ」
「見世物じゃあるまいし」
「いや単なる好奇心だ。それに僕は閑だからね」
 津田は呆れた。彼は小林のようなみすぼらしい男を、友達の内に有っているという証拠を、夫人に見せるのが厭でならなかった。あんな人と付合っているのかと軽蔑された日には、自分の未来にまで関係すると考えた。
「君も余程呑気だね。吉川の奥さんが今日此所へ何しに来るんだか、君だって知ってるじゃないか」
「知ってる。――邪魔かね」
 津田は最後の引導を渡すより外に途がなくなった。
「邪魔だよ。だから来ないうちに早く帰って呉れ」
 小林は別に怒った様子もしなかった。
「そうか、じゃ帰っても可い。帰っても可いが、その代り用だけは云って行こう、折角来たものだから」
 面倒になった津田は、とうとう自分の方からその用を云ってしまった。
「金だろう。僕に相当の御用なら承っても可い。然し此所には一文も持っていない。と云って、又外套のように留守へ取りに行かれちゃ困る」
 小林はにやにや笑いながら、じゃどうすれば可いんだという問を顔色で掛けた。まだ小林に聴く事の残っている津田は、出立前(しゅったつぜん)もう一遍彼に会って置く方が便宜であった。けれども彼とお延と落ち合う懸念のある病院では都合が悪かった。津田は送別会という名の下に、彼等の出会うべき日と時と場所とを指定した後で、漸くこの厄介者を退去させた。

百二十二

 津田はすぐ第二の予防策に取り掛った。彼は床の上に置かれた小型の化粧箱を取り除けて、その下から例のレターペーパーと同じラヴェンダー色の封筒を引き抜くや否や、すぐ万年筆を走らせた。今日は少し都合があるから、見舞に来るのを見合せて呉れという意味を、簡単に書き下した手紙は一分掛るか掛らないうちに出来上った。気の急(せ)いた彼には、それを読み直す暇さえ惜かった。彼はすぐ封をしてしまった。そうして中味の不完全なために、お延がどんな疑いを起すかも知れないという事には、少しの顧慮も払わなかった。平生の用心を彼から奪ったこの場合は、彼を怱卒(そそか)しくしたのみならず彼の心を一直線にしなければ已まなかった。彼は手紙を持ったまま、すぐ二階を下りて看護婦を呼んだ。
「一寸急な用事だから、すぐこれを持たせて車夫を宅まで遣って下さい」
 看護婦は「へえ」と云って封書を受け取ったなり、何処に急な用事が出来たのだろうという顔をして、宛名を眺めた。津田は腹の中で往復に費やす車夫の時間さえ考えた。
「電車で行くようにして下さい」
 彼は行き違いになる事を恐れた。手紙を受け取らない前にお延が病院へ来ては折角の努力も無駄になるだけであった。
 二階へ帰って来た後でも、彼はそればかりが苦になった。そう思うと、お延がもう宅を出て、電車へ乗って、此方の方角へ向いて動いて来るような気さえした。自然それと一所に頭の中に纏付(まつわ)るのは小林であった。もし自分の目的が達せられない先に、細君が階子段(はしごだん)の上に、すらりとしたその姿を現わすとすれば、それは全く小林の罪に相違ないと彼は考えた。貴重な時間を無駄に費やさせれた揚句、頼むようにして帰って貰った彼の後姿を見送った津田は、それでももう少しで刻下(こっか)の用を弁ずるために、小林を利用する所であった。「面倒でも帰りに一寸宅へ寄って、今日来てはいけないとお延に注意して呉れ」。こういう言葉がつい口の先へ出掛ったのを、彼は驚ろいて、引ッ込ましてしまったのである。もしこれが小林でなかったなら、この際どんなに都合が可かったろうにとさえ実は思ったのである。
 津田が神経を鋭どくして、今来るか今来るかという細かい予期に支配されながら、吉川夫人を刻々に待ち受けている間に、彼の看護婦に渡したお延への手紙は、また彼のいまだ想い到らない運命に到着すべく余儀なくされた。
 手紙は彼の命令通り時を移さず車夫の手に渡った。車夫は又看護婦の命令通り、それを手に持ったまますぐ電車へ乗った。それから教えられた通りの停留所で下りた。其所を少し行って、大通りを例の細い往来へ切れた彼は、何の苦もなく又名宛の苗字を小奇麗な二階建の一軒の門札に見出した。彼は玄関へ掛った。其所で手に持った手紙を取次に出たお時に渡した。
 此所までは凡ての順序が津田の思い通りに行った。然しその後には、書面を認(したた)める時、まるで彼の頭の中に入っていなかった事実が横わっていた。手紙はすぐお延の手に落ちなかった。
 然し津田の懸念したように、宅にいなかったお延は、彼の懸念したように病院へ出掛けたのではなかった。彼女は別に行先を控えていた。しかもそれは際どい機会を旨く利用しようとする敏捷な彼女の手腕を十分に発揮した結果であった。
 その日のお延は朝から通例のお延であった。彼女は不断のように起きて、不断のように動いた。津田のいる時と万事変りなく働らいた彼女は、それでも夫の留守から必然的に起る、時間の余裕を持て余す程楽な午前を過ごした。午飯(ひるめし)を食べた後で、彼女は銭湯に行った。病院へ顔を出す前一寸綺麗になって置きたい考えのあった彼女は、其所で随分念入に時間を費やした後、晴々(せいせい)した好(い)い心持を湯上りの光沢(つやつや)しい皮膚(はだ)に包みながら帰って来ると、お時から嘘ではないかと思われるような報告を聴いた。
「堀の奥さんが入らしゃいました」
 お延は下女の言葉を信ずる事が出来ない位に驚ろいた。昨日の今日、お秀の方からわざわざ自分を尋ねて来る。そんな意外な訪問があり得べき筈はなかった。彼女は二遍も三遍も下女の口を確かめた。何で来たかをさえ訊かなければ気が済まなかった。何故待たせて置かなかったかも問題になった。然し下女は何にも知らなかった。ただ藤井の帰りに通り路だから一寸寄ったまでだという事だけが、お秀の下女に残して行った言葉で解った。
 お延は既定のプログラムを咄嗟の間に変更した。病院は抜いて、お秀の方へ行先を転換しなければならないという覚悟を極めた。それは津田と自分との間に取り換わされた約束に過ぎなかった。何等の不自然に陥いる痕迹なしにその約束を履行するのは今であった。彼女はお秀の後を追掛けるようにして宅を出た。

百二十三

 堀の家は大略(おおよそ)の見当から云って、病院と同じ方角にあるので、電車を二つばかり手前の停留所で下りて、下りた処から、すぐ右へ切れさえすれば、つい四五町の道を歩くだけで、すぐ門前へ出られた。
 藤井や岡本の住居と違って、郊外に遠い彼の邸には、殆んど庭というものがなかった。車廻し、馬車廻しは無論の事であった。往来に面して建てられたと云っても可いその二階作りと門の間には、ただ三間足らずの余地があるだけであった。しかもそれが石で敷き詰められているので、地面の色は何処にも見えなかった。
 市区改正の結果、余程以前に取り広げられた往来には、比較的余所で見られない幅があった。それでいて商買(しょうばい)をしている店は、町内に殆んど一軒も見当らなかった。弁護士、医者、旅館、そんなものばかりが並んでいるので、四辺(あたり)が繁華な割に、通りは何時も閑静であった。
 その上路(みち)の左右には柳の立木が行儀よく植え付けられていた。従って時候の好い時には、殺風景な市内の風も、両側に揺(うご)く緑りの裡(うち)に一種の趣を見せた。中で一番大きいのが、丁度堀の塀際(へいぎわ)から斜めに門の上へ長い枝を差し出しているので、余所目にはそれが家と調子を取るために、わざと其所へ移されたように体裁が好かった。
 その他の特色を云うと、玄関の前に大きな鉄の天水桶(てんすいおけ)があった。まるで下町の質屋か何かを聯想(れんそう)させるこの長物と、そのすぐ横にある玄関の構とがまた能く釣り合っていた。比較的間口の広いその玄関の入口は悉(ことごと)く細い格子で仕切られているだけで、唐戸だの扉だのの装飾は何処にも見られなかった。
 一口でいうと、ハイカラな仕舞(しも)うた屋と評しさえすれば、それですぐ首肯かれるこの家の職業は、少なくとも系統的に、家の様子を見ただけで外部から判断する事が出来るのに、不思議なのはその主人であった。彼は自分がどんな宅へ入っているか未だ曾て知らなかった。そんな事を苦にする神経を有たない彼は、他から自分の家業柄を何とあげつらわれても一向平気であった。道楽者だが、満更無教育なただの金持とは違って、人柄からいえば、こんな役者向の家に住うのは寧ろ不適当かも知れない位な彼は、極めて我の少ない人であった。悪く云えば自己の欠乏した男であった。何でも世間の習俗通りにして行く上に、わが家庭に特有な習俗も亦改めようとしない気楽ものであった。かくして彼は、彼の父、彼の母に云わせると即ち先代、の建てた土蔵造りのような、そうして何処かに芸人趣味のある家に住んで満足しているのであった。もし彼の美点がそこにもあるとすれば、わざとらしく得意がっていない彼の態度を賞めるより外に仕方がなかった。然し彼は又得意がる筈もなかった。彼の眼に映る彼の住宅は、得意がるにしては、彼に取って余りに陳腐過ぎた。
 お延は堀の家を見るたびに、自分と家との間に存在する不調和を感じた。家へ入いってからもその距離を思い出す事が[屡](しばしば)あった。お延の考えによると、一番そこに落付いてぴたりと坐っていられるものは堀の母だけであった。ところがこの母は、家族中でお延の最も好かない女であった。好かないというよりも、寧ろ応対しにくい女であった。時代が違う、残酷に云えば隔世の感がある、もしそれが当らないとすれば、肌が合わない、出が違う、その他評する言葉は幾何でもあったが、結果は何時でも同じ事に帰着した。
 次には堀その人が問題であった。お延から見たこの主人は、この家に釣り合うようでもあり、又釣り合わないようでもあった。それをもう一歩進めていうと、彼はどんな家へ行っても、釣り合うようでもあり、釣り合わないようでもあるというのと殆んど同じ意味になるので、始めから問題にしないのと、大した変りはなかった。この曖昧な所が又お延の堀に対する好悪の感情をそのまま現わしていた。事実をいうと、彼女は堀を好いているようでもあり、又好いていないようでもあった。
 最後に来るお秀に関しては、ただ要領を一口でいう事が出来た。お延から見ると、彼女はこの家の構造に最も不向に育て上げられていた。この断案にもう少し勿体をつけ加えて、心理的に翻訳すると、彼女とこの家庭の空気とは何時まで行っても一致しっこなかった。堀の母とお秀、お延は頭の中にこの二人を並べて見るたびに一種の矛盾を強いられた。然し矛盾の結果が悲劇であるか喜劇であるかは容易に判断が出来なかった。
 家と人とをこう組み合わせて考えるお延の眼に、不思議と思われる事がただ一つあった。
「一番家と釣り合の取れている堀の母が、最も彼女を手古摺(てこず)らせると同時に、その反対に出来上っているお秀が又別の意味で、最も彼女に苦痛を与えそうな相手である」
 玄関の格子を開けた時、お延の頭に平生からあったこんな考えを一度に蘇えらせるべく号鈴(ベル)がはげしく鳴った。

百二十四

 昨日孫を伴れて横浜の親類へ行ったという堀の母がまだ帰っていなかったのは、座敷へ案内されたお延に取って、意外な機会であった。見方によって、好い都合にもなり、又悪い跋にもなるこの機会は、彼女から話しのしにくい年寄を追い除けて呉れたと同時に、ただ一人面と向き合って、当の敵のお秀と応対しなければならない不利をも与えた。
 お延に知れていないこの情実は、訪問の最初から彼女の勝手を狂わせた。毎時もなら何を置いても小さな髷に結った母が一番先へ出て来て、義理ずくめにちやほやして呉れる所を、今日に限って、劈頭(へきとう)にお秀が顔を出したばかりか、待ち設けた老女はその後からも現われる様子を一向見せないので、お延は何時もの予期から出てくる自然の調子を先ず外させられた。その時彼女はお秀を一目見た眼の中に、当惑の色を示した。然しそれは済まなかったという後悔の記念でも何でもなかった。単に昨日の戦争に勝った得意の反動からくる一種の極り悪さであった。どんな敵を打たれるかも知れないという微かな恐怖であった。この場をどう切り抜けたら可いか知らという思慮の悩乱でもあった。
 お延はこの一瞥(いちべつ)をお秀に与えた瞬間に、もう今日の自分を相手に握られたという気がした。然しそれは自分の有っている技巧のどうする事も出来ない高い源からこの一瞥が突如として閃めいてしまった後であった。自分の手の届かない暗中から不意に来たものを、喰い止める威力を有っていない彼女は、甘んじてその結果を待つより外に仕方がなかった。
 一瞥は果してお秀の上に能く働いた。然しそれに反応してくる彼女の様子は、又如何にも予想外であった。彼女の平生、その平生が破裂した昨日、津田と自分と寄ってたかってその破裂を料理した始末、これ等の段取を、不断から一貫して傍の人の眼に着く彼女の性格に結び付けて考えると、どうしても無事に納まる筈はなかった。大なり小なり次の波瀾が呼び起されずに片が付こうとは、如何に自分の手際に重きを置くお延にも信ぜられなかった。
 だから彼女は驚ろいた。座に着いたお秀が案に相違して何時よりも愛嬌の好い挨拶をした時には、殆んどわれを疑う位に驚ろいた。その疑いをまた少しも後へ繰り越させないように、手抜(てぬか)りなく仕向けて来る相手の態度を眼の前に見た時、お延は寧ろ気味が悪くなった。何という変化だろうという驚ろきの後から、どういう意味だろうという不審が湧いて起った。
 けれども肝心なその意味を、お秀はまた何時までもお延に説明しようとしなかった。そればかりか、昨日病院で起った不幸な行き違に就いても、遂に一言も口を利く様子を見せなかった。
 相手に心得があってわざと際どい問題を避けている以上、お延の方からそれを切り出すのは変なものであった。第一好んで痛い所に触れる必要は何処にもなかった。と云って、何処かで区切を付けて、双方薩張(さっぱり)して置かないと、自分は何のために、今日此所まで足を運んだのか、主意が立たなくなった。然し和解の形式を通過しないうちに、もう和解の実を挙げている以上、それを兎や角表面へ持ち出すのも馬鹿げていた。
 怜悧(りこう)なお延は弱らせられた。会話が滑らかにすべって行けば行く程、一種の物足りなさが彼女の胸の中に頭を擡(もた)げて来た。仕舞に彼女は相手の何処かを突き破って、その内側を覗いて見ようかと思い出した。こんな点にかけると、頗(すこぶ)る冒険的な所のある彼女は、万一遣り損(そく)なった暁に、この場合から起り得る危険を知らないではなかった。けれども其所には自分の腕に対する相当の自信も伴っていた。
 その上もし機会が許すならば、お秀の胸の格別なある一点に、打診を試ろみたいという希望が、お延の方にはあった。其所を敲(たた)かせて貰って局部から自然に出る本音を充分に聴く事は、津田と打ち合せを済ました訪問の主意でも何でもなかったけれども、お延自身からいうと、うまく媾和(こうわ)の役目を遣り終(おお)せて帰るよりも遥かに重大な用向であった。
 津田に隠さなければならないこの用向は、津田がお延に内所にしなければならない事件と、その性質の上に於てよく似通っていた。そうして津田が自分の居ない留守に、小林がお延に何を話したかを気にする如く、お延も亦自分のいない留守に、お秀が津田に何を話したかを確(しか)と突き留めたかったのである。
 何処に引掛りを拵えたものかと思案した末、彼女は仕方なしに、藤井の帰りに寄って呉れたというお秀の訪問をまた問題にした。けれども座に着いた時既に、「先刻入らしって下すったそうですが、生憎お湯に行っていて」という言葉を、会話の口切に使った彼女が、今度は「何か御用でもおありだったの」という質問で、それを復活させに掛った時、お秀はただ簡単に「いいえ」と答えただけで、綺麗にお延を跳ね付けてしまった。

百二十五

 お延は次に藤井から入って行こうとした。今朝この叔父の所を訪ねたというお秀の自白が、話しを其方へ持って行くに都合のいい便利を与えた。けれどもお秀の門構(もんがまえ)は依然としてこの方面にも厳重であった。彼女は必要の起るたびに、わざわざその門の外へ出て来て、愛想よくお延に応対した。お秀がこの叔父の世話で人となった事実は、お延にも能く知れていた。彼女が精神的にその感化を受けた点もお延に解っていた。それでお延は順序として先ずこの叔父の人格やら生活やらに就いて、お秀の気に入りそうな言辞(ことば)を弄(ろう)さなければならなかった。ところがお秀から見ると、それが又一々誇張と虚偽の響きを帯びているので、彼女は真面目に取り合う緒口を何処にも見出す事が出来ないのみならず、長く同じ筋道を辿(たど)って行くうちには、自然気色を悪くした様子を外に現わさなければ済まなくなった。敏捷なお延は、相手を見縊り過ぎていた事に気が付くや否や、すぐ取って返した。するとお秀の方で、今度は岡本の事を蝶々し始めた。お秀対藤井と丁度同じ関係にあるその叔父は、お延に取って大事な人であると共に、お秀からいうと、親しみも何にも感じられない、あかの他人であった。従って彼女の言葉には滑っこい皮膚があるだけで、肝心の中味に血も肉も盛られていなかった。それでもお延はお秀の手料理になるこのお世辞の返礼をさも旨そうに鵜呑にしなければならなかった。
 然し再度自分の番が廻って来た時、お延は二返目の愛嬌を手古盛(てこも)りに盛り返して、悪くお秀に強いる程愚かな女ではなかった。時機を見て器用に切り上げた彼女は、次に吉川夫人から煽って行こうとした。然し前と同じ手段を用いて、ただ賞めそやすだけでは、同じ不成蹟(ふせいせき)に陥いるかも知れないという恐れがあった。そこで彼女は善悪の標準を度外に置いて、ただ夫人の名前だけを二人の間に点出して見た。そうしてその影響次第で後の段取を極めようと覚悟した。
 彼女はお秀が自分の風呂の留守へ藤井の帰りがけに廻って来た事を知っていた。けれども藤井へ行く前に、彼女がもう既に吉川夫人を訪問している事にはまるで想い到らなかった。しかも昨日病院で起った波瀾の結果として、彼女がわざわざ其所まで足を運んでいようとは、夢にも知らなかった。この一点に掛けると、津田と同じ程度に無邪気であった彼女は、津田が小林から驚ろかされたと同じ程度に、又お秀から驚ろかされなければならなかった。然し驚ろかされ方は二人共まるで違っていた。小林のは明らさまな事実の報告であった。お秀のは意味のありそうな無言であった。無言と共に来た薄赤い彼女の顔色であった。
 最初夫人の名前がお延の唇から洩れた時、彼女は二人の間に一滴の霊薬が天から落されたような気がした。彼女はすぐその効果を眼の前に眺めた。然し不幸にしてそれは彼女に取って何の役にも立たない効果に過ぎなかった。少くともどう利用して可いか解らない効果であった。その予想外な性質は彼女をはっと思わせるだけであった。彼女は名前を口へ出すと共に、或はその場ですぐ失言を謝さなければならないかしらとまで考えた。
 すると第二の予想外が継いで起った。お秀が一寸顔を背けた様子を見た時に、お延はどうしても最初に受けた印象を改正しなければならなくなった。血色の変化は決して怒りのためでないという事がその時始めて解った。年来陳腐な位見飽きている単純な極りの悪さだと評するより外に仕方のないこの表情は、お延を更に驚ろかさざるを得なかった。彼女はこの表情の意味をはっきり確かめた。然しその意味の因って来(きた)る所は、お秀の説明を待たなければまた確かめられる筈がなかった。
 お延はどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接いだように、突然話題を変化した。行掛り上全然今までと関係のないその話題は、三度目に又お延を驚ろかせるに充分な位突飛であった。けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。

百二十六

 お秀の口を洩れた意外な文句のうちで、一番初めにお延の耳を打ったのは「愛」という言葉であった。この陳腐な有来(ありきた)りの一語が、如何にお延の前に伏兵のような新らし味をもって起ったかは、前後の連絡を欠いて単独に突発したというのが重な原因に相違なかったが、一つにはまた、そんな言葉がまだ会話の材料として、二人の間に使われていなかったからである。
 お延に比べるとお秀は理屈っぽい女であった。けれどもそういう結論に達するまでには、多少の説明が要った。お延は自分で自分の理屈を行為の上に運んで行く女であった。だから平生彼女の議論をしないのは、出来ないからではなくって、する必要がないからであった。その代り他から注ぎ込まれた知識になると、大した貯蓄も何にもなかった。女学生時代に読み馴れた雑誌さえ近頃は滅多に手にしない位であった。それでいて彼女は未だ曾て自分を貧弱と認めた事がなかった。虚栄心の強い割に、その方面の欲望があまり刺戟されずに済んでいるのは、暇が乏しいからでもなく、競争の話し相手がないからでもなく、全く自分に大した不足を感じないからであった。
 ところがお秀は教育からしてが第一違っていた。読書は彼女を彼女らしくする殆んど凡てであった。少なくとも、凡てでなければならないように考えさせられて来た。書物に緑の深い叔父の藤井に教育された結果は、善悪両様の意味で、彼女の上に妙な結果を生じた。彼女は自分より書物に重きを置くようになった。然しいくら自分を書物より軽く見るにした所で、自分は自分なりに、書物と独立したまんまで、活きて働らいて行かなければならなかった。だから勢い本と自分とは離れ離れになるだけであった。それをもっと適切な言葉で云い現わすと、彼女は折々柄にもない議論を主張するような幣に陥った。然し自分が議論のために議論をしているのだから詰らないと気が付くまでには、彼女の反省力から見て、まだ大分の道程(みちのり)があった。意地の方から行くと、余りに我が強過ぎた。平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体に副ぐわないような理屈を、わざわざ自分の尊敬する書物の中から引張り出して来て、其所に書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。自然弾丸(たま)を込めて打ち出すべき大砲を、九寸五分の代りに、振り廻して見るような滑稽も時々は出て来なければならなかった。
 問題は果して或雑誌から始まった。月の発行にかかるその雑誌に発表された諸家の恋愛観を読んだお秀の質問は、実をいうとお延にとってそれ程興味のあるものでもなかった。然しまだ眼を通していない事実を自白した時に、彼女の好奇心が突然起った。彼女はこの抽象的な問題を、何処かで自分の思い通り活かして遣ろうと決心した。
 彼女は稍(やや)ともすると空論に流れやすい相手の弱点を可成(かなり)能く呑み込んでいた。際どい実際問題にこれから飛び込んで行こうとする彼女に、それ程都合の悪い態度はなかった。ただ議論のために議論をされる位なら、最初から取り合わない方が余っ程増しだった。それで彼女にはどうしても相手を地面の上に縛り付けて置く必要があった。ところが不幸にしてこの場合の相手は、最初からもう地面の上にいなかった。お秀の口にする愛は、津田の愛でも、堀の愛でも、乃至お延、お秀の愛でも何でもなかった。ただ漫然として空裏に飛揚(ひよう)する愛であった。従ってお延の努力は、風船玉のようなお秀の話を、まず下へ引き摺り卸さなければならなかった。
 子供が既に二人もあって、万事自分より世帯染みているお秀が、この意味に於て、遥かに自分より着実でない事を発見した時に、お延は口ではいはい向うのいう通りを首肯(うけが)いながら、腹の中では、焦慮(じれっ)たがった。「そんな言葉の先でなく、裸で入らっしゃい、実力で相撲を取りますから」と云いたくなった彼女は、どうしたらこの議論家を裸にする事が出来るだろうと思案した。
 やがてお延の胸に分別が付いた。分別とは外でもなかった。この問題を活かすためには、お秀を犠牲にするか、又は自分を犠牲にするか、何方(どっち)かにしなければ、到底思う壷に入って来る訳がないという事であった。相手を犠牲にするのに困難はなかった。ただ何処からか向うの弱点を突ッ付きさえすれば、それで事は足りた。その弱点が事実であろうとも仮設的であろうとも、それはお延の意とする所ではなかった。単に自然の反応を目的にして試みる刺戟に対して、真偽の吟味などは、要らざる斟酌(しんしゃく)であった。然し其所には又それ相応の危険もあった。お秀は怒るに違なかった。ところがお秀を怒らせるという事は、お延の目的であって、そうして目的でなかった。だからお延は迷わざるを得なかった。
 最後に彼女はある時機を[掴](つか)んで起(た)った。そうしてその起った時には、もう自分を犠牲にする方に決心していた。

百二十七

「そう云われると、何と云って可いか解らなくなるわね、あたしなんか。津田に愛されているんだか、愛されていないんだか、自分じゃまるで夢中でいるんですもの。秀子さんは仕合せね、そこへ行くと。最初から御自分にちゃんとした保証が付いていらっしゃるんだから」
 お秀の器量望みで貰われた事は、津田と一所にならない前から、お延に知れていた。それは一般の女、ことにお延のような女に取っては、羨やましい事実に違なかった。始めて津田からその話を聴かされた時、お延はお秀を見ない先に、まず彼女に対する軽い嫉妬を感じた。中身の薄っぺらな事実に過ぎなかったという意味があとで解った時には、淡い冷笑のうちに、復讐をしたような快感さえ覚えた。それより以降、愛という問題に就いて、お秀に対するお延の態度は、いつも軽蔑であった。それを表向さも嬉しい消息ででもあるように取扱かって、彼我(ひが)に共通する如くに見せ掛けたのは、無論一片のお世辞に過ぎなかった。もっと悪く云えば、一種の嘲弄(ちょうろう)であった。
 幸いお秀は其所に気が付かなかった。そうして気が付かない訳であった。と云うのは、言葉の上は兎に角、実際に愛を体得する上に於て、お秀はとてもお延の敵でなかった。猛烈に愛した経験も、生一本(きいっぽん)に愛された記憶も有たない彼女は、この能力の最大限がどの位強く大きなものであるかという事をまだ知らずにいる女であった。それでいて夫に満足している細君であった。知らぬが仏という諺が正にこの場合の彼女を能く説明していた。結婚の当時、自分の未来に夫の手で押し付けられた愛の判を、普通の証文のような積で、何時までも胸の中へ仕舞い込んでいた彼女は、お延の言葉を、その胸の中で、真面目に受ける程無邪気だったのである。
 本当に愛の実体を認めた事のないお秀は、彼女のいたずらに使う胡乱(うろん)な言葉を通して、鋭どいお延から能く見透かされたのみではなかった。彼女は津田とお延の関係を、自分達夫婦から割り出して平気でいた。それはお延の言葉を聴いた彼女が実際驚ろいた顔をしたのでも解った。津田がお延を愛しているかいないかが今頃どうして問題になるのだろう。しかもそれが細君自身の口から出るとは何事だろう。况(ま)してそれを夫の妹の前へ出すに至っては、何処にどんな意味があるのだろう。――これがお秀の表情であった。
 実際お秀から見たお延は、現在の津田の愛に満足する事を知らない横着者か、さもなければ、自分が充分津田を手の中へ丸め込んで置きながら、わざと其所に気の付かないような振をする、空々しい女に過ぎなかった。彼女は「あら」と云った。
「まだその上に愛されて見たいの」
 この挨拶は平生のお延の注文通りに来た。然し今の場合に於(おけ)るお延に満足を与える筈はなかった。彼女は又何とか云って、自分の意志を明らかにしなければならなかった。ところがそれを判然(はっきり)表現すると、「津田があたしの外にまだ思っている人が別にあるとするなら、あたしだって到底今のままで満足出来る訳がないじゃありませんか」という露骨な言葉になるより外に途はなかった。思い切って、そう打って出れば、自分で自分の計画をぶち毀(こわ)すのと一般だと感づいた彼女は、「だって」と云い掛けたまま、其所で逡巡(ためら)ったなり動けなくなった。
「まだ何か不足があるの」
 こう云ったお秀は眼を集めてお延の手を見た。其所には例の指環(ゆびわ)が遠慮なく輝やいていた。然しお秀の鋭どい一瞥は何の影響もお延に与える事が出来なかった。指環に対する彼女の無邪気さは昨日と毫も変る所がなかった。お秀は少しもどかしくなった。
「だって延子さんは仕合せじゃありませんか。欲しいものは、何でも買って貰えるし、行きたい所へは、何処へでも連れていって貰えるし――」
「ええ。其所だけはまあ仕合せよ」
 他に向って自分の仕合せと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考え付けて来たお延は、平生から待ち合せの挨拶をついこの場合にも使ってしまった。そうして又行き詰まった。芝居に行った翌日(あくるひ)、岡本へ行って継子(つぎこ)と話をした時用いた言葉を、そのまま繰り返した後で、彼女は相手のお秀であるという事に気が付いた。そのお秀は「そこだけが仕合せなら、それで沢山じゃないか」という顔付をした。
 お延は自分がかりそめにも津田を疑っているという形迹(けいせき)をお秀に示したくなかった。そうかと云って、何事も知らない風を粧って、見す見すお秀から馬鹿にされるのは猶厭だった。従って応対に非常な呼吸が要った。目的地へ漕ぎ付けるまでには中々骨が折れると思った。然し彼女は到底(とても)見込のない無理な努力をしているという事には、ついに気が付かなかった。彼女は又態度を一変した。

百二十八

 彼女は思い切って一足飛びに飛んだ。情実に絡まれた窮屈な云い廻し方を打ち遣って、面と向き合ったままお秀に相見(しょうけん)しようとした。その代り言葉はどうしても抽象的にならなければならなかった。それでも論戦の刺撃で、事実の面影を突き留める方が、まだ増しだと彼女は思った。
「一体一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事が出来るものでしょうか」
 この質問を基点として歩を進めに掛った時、お秀はそれに対してあらかじめ準備された答を一つも有っていなかった。書物と雑誌から受けた彼女の知識は、ただ一般恋愛に関するだけで、豪もこの特殊な場合に利用するに足らなかった。腹に何の貯えもない彼女は、考える風をした。そうして正直に答えた。
「そりゃ一寸解らないわ」
 お延は気の毒になった。「この人は生きた研究の材料として、堀という夫を既に有っているではないか。その夫の婦人に対する態度も、朝夕傍にいて、見ているではないか」。お延がこう思う途端に、第二句がお秀の口から落ちた。
「解らない筈じゃありませんか。此方が女なんですもの」
 お延はこれも愚答だと思った。もしお秀の有のままがこうだとすれば、彼女の心の働らきの鈍さ加減が想い遣られた。しかしお延はすぐこの愚答を活かしに掛った。
「じゃ女の方から見たらどうでしょう。自分の夫が、自分以外の女を愛しているという事が想像できるでしょうか」
「お延さんにはそれが出来ないの?」と云われた時、お延はおやと思った。
「あたしは今そんな事を想像しなければならない地位にいるんでしょうか」
「そりゃ大丈夫よ」とお秀はすぐ受け合った。お延は直ちに相手の言葉を繰り返した。
「大丈夫!?」
 疑問とも間投詞とも片の付かないその語尾は、お延にも何という意味だか解らなかった。
「大丈夫よ」
 お秀も再び同じ言葉を繰り返した。その瞬間にお延は冷笑の影をちらりとお秀の唇のあたりに認めた。然し彼女はすぐそれを切って捨てた。
「そりゃ秀子さんは大丈夫に極ってるわ。もともと堀さんへ入らっしゃる時の条件が条件ですもの」
「じゃ延子さんはどうなの。矢っ張り津田に見込まれたんじゃなかったの」
「嘘よ。そりゃあなたの事よ」
 お秀は急に応じなくなった。お延も獲物のない同じ脈をそれ以上堀る徒労を省いた。
「一体津田は女に関してどんな考えを有っているんでしょう」
「それは妹より奥さんの方が能く知ってる筈だわ」
 お延は叩き付けられた後で、自分もお秀と同じような愚問を掛けた事に気が付いた。
「だけど兄妹としての津田は、あたしより秀子さんの方に能く解ってるでしょう」
「ええ、だけど、いくら解ったって、延子さんの参考にゃならないわ」
「参考に無論なるのよ。然しその事ならあたしだって疾(と)うから知ってるわ」
 お延の鎌は際どい所で投げ掛けられた。お秀は果して掛った。
「けれども大丈夫よ。延子さんなら大丈夫よ」
「大丈夫だけれども危険(あぶな)いのよ。どうしても秀子さんから詳しい話しを聴かして頂かないと」
「あら、あたし何にも知らないわ」
 こういったお秀は急に赧くなった。それが何の羞耻(しゅうち)のために起ったのかは、いくら緊張したお延の神経でも揣摩(しま)できなかった。しかも彼女はこの訪問の最初に、同じ現象から受けた初度の記憶をまだ忘れずにいた。吉川夫人の名前を点じた時に見たその薄赧い顔と、今彼女の面前に再現したこの赤面の間にどんな関係があるのか、それはいくら物の異同を嗅ぎ分ける事に妙を得た彼女にも見当が付かなかった。彼女はこの場合無理にも二つのものを繋いで見たくって堪らなかった。けれどもそれを繋ぎ合わせる綱は、何処をどう探したって、金輪際出て来っこなかった。お延に取って最も不幸な点は、現在の自分の力に余るこの二つのものの間に、屹度或る聯絡(れんらく)が存在しているに相違ないという推測であった。そうしてその聯絡が、今の彼女に取って、頗(すこぶ)る重大な意味を有っているに相違ないという一種の予覚であった。自然彼女は其所をもっと突ッついて見るより外に仕方がなかった。

百二十九

 咄嗟の衝動に支配されたお延は、自分の口を衝いて出る嘘を抑える事が出来なかった。
「吉川の奥さんからも伺った事があるのよ」
 こう云った時、お延は始めて自分の大胆さに気が付いた。彼女は其所へ留まって、冒険の結果を眺めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊き返した。
「あら何を」
「その事よ」
「その事って、どんな事なの」
 お延にはもう後がなかった。お秀には先があった。
「嘘でしょう」
「嘘じゃないのよ。津田の事よ」
 お秀は急に応じなくなった、その代り冷笑の影を締りの好い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻(さっき)より著るしく目立って外へ現われた時、お延は路(みち)を誤まって一歩深田の中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救を求めていたかも知れなかった。お秀は云った。
「変ね。津田の事なんか、吉川の奥さんがお話しになる訳がないのにね。どうしたんでしょう」
「でも本当よ、秀子さん」
 お秀は始めて声を出して笑った。
「そりゃ本当でしょうよ。誰も嘘だと思うものなんかありゃしないわ。だけどどんな事なの、一体」
「津田の事よ」
「だから兄の何よ」
「そりゃ云えないわ。あなたの方から云って下さらなくっちゃ」
「随分無理な御注文ね。云えったって、見当が付かないんですもの」
 お秀は何処からでも入らっしゃいという落付を見せた。お延の腋(わき)の下から膏汗(あぶらあせ)が流れた。彼女は突然飛びかかった。
「秀子さん、あなたは基督教信者じゃありませんか」
 お秀は驚ろいた様子を現わした。
「いいえ」
「でなければ、昨日の様な事を仰しゃる訳がないと思いますわ」
 昨日と今日の二人は、まるで地位を易(か)えたような形勢に陥った。お秀は何処までも優者の余裕を示した。
「そう。じゃそれでも可いわ。延子さんは大方基督教がお嫌いなんでしょう」
「いいえ好きなのよ。だからお願いするのよ。だから昨日のような気高い心持になって、この小さいお延を憐れんで頂きたいのよ。もし昨日のあたしが悪かったら、こうしてあなたの前に手を突いて詫(あや)まるから」
 お延は光る宝石入の指輪を穿(は)めた手を、お秀の前に突いて、口で云った通り、実際に頭を下げた。
「秀子さん、どうぞ隠さずに正直にして下さい。そうしてみんな打ち明けて下さい。お延はこの通り正直にしています。この通り後悔しています」
 持前の癖を見せて、眉を寄せた時、お延の細い眼から涙が膝の上へ落ちた。
「津田はあたしの夫です。あなたは津田の妹です。あなたに津田が大事なように、津田はあたしにも大事です。ただ津田のためです。津田のために、みんな打ち明けて話して下さい。津田はあたしを愛しています。津田が妹としてあなたを愛しているように、妻としてあたしを愛しているのです。だから津田から愛されているあたしは津田のために凡てを知らなければならないのです。津田から愛されているあなたも亦(また)、津田のために万ずをあたしに打ち明けて下さるでしょう。それが妹としてのあなたの親切です。あなたがあたしに対する親切を、この場合お感じにならないでも、あたしは一向恨みとは思いません。けれども兄さんとしての津田には、まだ尽して下さる親切を有(も)っていらっしゃるでしょう。あなたがそれを充分有っていらっしゃるのは、あなたの顔付でよく解ります。あなたはそんな冷刻な人では決してないのです。あなたはあなたが昨日御自分で仰しゃった通り親切な方に違いないのです」
 お延がこれだけ云って、お秀の顔を見た時、彼女は其所に特別な変化を認めた。お秀は赧(あか)くなる代りに少し蒼白くなった。そうして度外れに急き込んだ調子で、お延の言葉を一刻も早く否定しなければならないという意味に取れる言葉遣いをした。
「あたしはまだ何にも悪い事をした覚(おぼえ)はないんです。兄さんに対しても嫂(ねえ)さんに対しても、有っているのは好意だけです。悪意はちっとも有りません。どうぞ誤解のないようにして下さい」

百三十

 お秀の言訳はお延に取って意外であった。又突然であった。その言訳が何処から出て来たのか、また何の為であるかまるで解らなかった。お延はただはっと思った。天恵の如く彼女の前に露出されたこの時のお秀の背後に何が潜んでいるのだろう。お延はすぐその暗闇を衝こうとした。三度目の嘘が安々と彼女の口を滑って出た。
「そりゃ解ってるのよ。あなたのなすった事も、あなたのなすった精神も、あたしにはちゃんと解ってるのよ。だから隠し立をしないで、みんな打ち明けて頂戴な。お厭?」
 こう云った時、お延は出来得る限りの愛嬌をその細い眼に湛(たた)えて、お秀を見た。然し異性に対する場合の効果を予想したこの所作は全く外れた。お秀は驚ろかされた人のように、卒爾(そつじ)な質問を掛けた。
「延子さん、あなた今日此所へお出になる前、病院へ行って入らしったの」
「いいえ」
「じゃ何処か外から廻って入らしったの」
「いいえ。宅(うち)からすぐ上ったの」
 お秀は漸く安心したらしかった。その代り後は何にも云わなかった。お延はまだ縋(すが)り付いた手を放さなかった。
「よう、秀子さんどうぞ話して頂戴よ」
 その時お秀の涼しい眼のうちに残酷な光が射した。
「延子さんは随分勝手な方ね。御自分独り精一杯愛されなくっちゃ気が済まないと見えるのね」
「無論よ。秀子さんはそうでなくっても構わないの」
「良人(うち)を御覧なさい」
 お秀はすぐこう云って退けた。お延は話頭(わとう)からわざと堀を追い除けた。
「堀さんは問題外よ。堀さんはどうでも可いとして、正直の云いっ競(くら)よ。なんぼ秀子さんだって、気の多い人が好きな訳はないでしょう」
「だって自分より外の女は、有れども無きが如しってような素直な夫が世の中にいる筈がないじゃありませんか」
 雑誌や書物からばかり知識の供給を仰いでいたお秀は、この時突然卑近な実際家となってお延の前に現われた。お延はその矛盾を注意する暇さえなかった。
「あるわよ、あなた。なけりゃならない筈じゃありませんか、苟(いやし)くも夫と名が付く以上」
「そう、何処にそんな好い人がいるの」
 お秀はまた冷笑の眼をお延に向けた。お延はどうしても津田という名前を大きな声で叫ぶ勇気がなかった。仕方なしに口の先で答えた。
「それがあたしの理想なの。其所まで行かなくっちゃ承知が出来ないの」
 お秀が実際家になった通り、お延も何時の間にか理論家に変化した。今までの二人の位置は[顛]倒(てんとう)した。そうして二人ともまるで其所に気が付かずに、勢の運ぶがままに前の方へ押し流された。あとの会話は理論とも実際とも片の付かない、出たとこ勝負になった。
「いくら理想だってそりゃ駄目よ。その理想が実現される時は、細君以外の女という女がまるで女の資格を失ってしまわなければならないんですもの」
「然し完全の愛は其所へ行って始めて味わわれるでしょう。其所まで行き尽さなければ、本式の愛情は生涯経ったって、感ずる訳に行かないじゃありませんか」
「そりゃどうだか知らないけれども、あなた以外の女を女と思わないで、あなただけを世の中に存在するたった一人の女だと思うなんて事は、理性に訴えて出来る筈がないでしょう」
 お秀はとうとうあなたという字に点火した。お延は一向構わなかった。
「理性はどうでも、感情の上で、あたしだけをたった一人の女と思っていて呉れれば、それで可いんです」
「あなただけを女と思えと仰しゃるのね。そりゃ解るわ。けれども外の女を女と思っちゃ不可(いけな)いとなるとまるで自殺と同じ事よ。もし外の女を女と思わずにいられる位な夫なら、肝心のあなただって、矢ッ張り女とは思わないでしょう。自分の宅の庭に咲いた花だけが本当の花で、世間にあるのは花じゃない枯草だというのと同じ事ですもの」
「枯草で可いと思いますわ」
「あなたには可いでしょう。けれども男には枯草でないんだから仕方がありませんわ。それよりか好きな女が世の中にいくらでもあるうちで、あなたが一番好かれている方が、嫂さんに取っても却って満足じゃありませんか。それが本当に愛されているという意味なんですもの」
「あたしはどうしても絶対に愛されて見たいの。比較なんか始めから嫌いなんだから」
 お秀の顔に軽蔑の色が現われた。その奥には何という理解力に乏しい女だろうという意味がありありと見透かされた。お延はむらむらとした。
「あたしはどうせ馬鹿だから理屈なんか解らないのよ」
「ただ実例をお見せになるだけなの。その方が結構だわね」
 お秀は冷然として話を切り上げた。お延は胸の奥で地団太を踏んだ。折角の努力はこれ以上何物をも彼女に与える事が出来なかった。留守に彼女を待つ津田の手紙が来ているとも知らない彼女は、そのまま堀の家を出た。

百三十一

 お延とお秀が対坐(たいざ)して戦っている間に、病院では病院なりに、また独立した予定の事件が進行した。
 津田の待ち受けた吉川夫人が其所へ顔を出したのは、お延宛で書いた手紙を持たせて遣った車夫がまだ帰って来ないうちで、時間からいうと、丁度小林の出て行った十分程後であった。
 彼は看護婦の口から夫人の名前を聴いた時、この異人種に近い二人が、狭い室で鉢合せをしずに済んだ好都合を、何より先にまず祝福した。その時の彼はこの都合を付けるために払うべく余儀なくされた物質上の犠牲を殆んど顧みる暇さえなかった。
 彼は夫人の姿を見るや否や、すぐ床の上に起き返ろうとした。夫人は立ちながら、それを止めた。そうして彼女を案内した看護婦の両手に、抱えるようにして持たせた植木鉢を一寸振り返って見て、「何処へ置きましょう」と相談するように訊いた。津田は看護婦の白い胸に映る紅葉の色を美くしく眺めた。小さい鉢の中で、窮屈そうに三本の幹が調子を揃えて並んでいる下に、恰好の好い手頃な石さえあしらったその盆栽が床の間の上に置かれた後で、夫人は始めて席に着いた。
「どうです」
 先刻から彼女の様子を見ていた津田は、この時始めて彼に対する夫人の態度を確かめる事が出来た。もしやと思って、暗に心配していた彼の掛念の半分は、この一語で吹き晴らされたと同じ事であった。夫人は何時(いつ)も程陽気ではなかった。その代り何時も程上(うわ)っ調子でもなかった。要するに彼女は、津田が未だ曾て彼女に於て発見しなかった一種の気分で、彼の室に入って来たらしかった。それは一方で彼女の落付を極度に示していると共に、他方では彼女の鷹揚さを矢張再高度に現わすものらしく見えた。津田は少し驚ろかされた。然し好い意味で驚ろかされただけに、気味も悪くしなければならなかった。たといこの態度が、彼に対する反感を代表していないにせよ、その奥には何があるか解らなかった。今その奥に恐るべき何物がないにしても、これから先話をしているうちに、向うの心持はどう変化して来るか解らなかった。津田は他から機嫌を取られ付けている夫人の常として、手前勝手にいくらでも変って行く、若(もし)くは変って行っても差支ないとい自分で許している、この夫人を、一種の意味で、女性の暴君と奉(たてま)つらなければならない地位にあった。漢語でいうと彼女の一顰一笑(いっぴんいっしょう)が津田には悉く問題になった。この際の彼にはことにそうであった。
「今朝秀子さんが入らしってね」
 お秀の訪問はまず第一の議事の如くに彼女の口から投げ出された。津田は固より相手に応じなければならなかった。そうしてその応じ方は夫人の来ない前からもう考えていた。彼はお秀の夫人を尋ねた事を知って、知らない風をする積であった。誰から聴いたと問われた場合に、小林の名を出すのが厭だったからである。
「へえ、そうですか。平生あんまり御無沙汰をしているので、たまにはお詫(わび)に上らないと悪いとでも思ったのでしょう」
「いえそうじゃないの」
 津田は夫人の言葉を聴いた後で、すぐ次の嘘を出した。
「然しあいつに用のある訳もないでしょう」
「ところがあったんです」
「へええ」
 津田はこう云ったなりその後を待った。
「何の用だか中てて御覧なさい」
 津田は空っ惚けて、考える真似をした。
「そうですね、お秀の用事というと、――さあ何でしょうかしら」
「分りませんか」
「ちょっとどうも。――元来私とお秀とは兄妹でいながら、大分質が違ますから」
 津田は此所で余計な兄妹関係をわざと仄(ほの)めかした。それは事の来る前に、自分を遠くから弁護して置くためであった。それから自分の言葉を、夫人がどう受けて呉れるか、その反響を一寸聴いて見るためであった。
「少し理屈ッぽのね」
 この一語を聞くや否や、津田は得たり賢こしと虚に付け込んだ。
「あいつの理屈と来たら、兄の私でさえ悩まされる位ですもの。誰だって、とても大人しく辛抱して聴いていられたものじゃ御座いません。だから私はあいつと喧嘩をすると、何時でも好い加減にして投げてしまいます。するとあいつは好い気になって、勝った積か何かで、自分の都合の好い事ばかりを方々へ行って触れ散らかすのです」
 夫人は微笑した。津田はそれを確かに自分の方に同情を有った微笑と解釈する事が出来た。すると夫人の言葉が、却って彼の思わくとは逆の見当を向いて出た。
「まさかそうでもないでしょうけれどもね。――然し中々筋の通った好い頭を有った方じゃありませんか。あたしあの方は好よ」
 津田は苦笑した。
「そりゃお宅なんぞへ上って、無暗に地金を出す程の馬鹿でもないでしょうがね」
「いえ正直よ、秀子さんの方が」
 誰よりもお秀が正直なのか、夫人は説明しなかった。

百三十二

 津田の好奇心は動いた。想像も略(ほぼ)付いた。けれども其所へ折れ曲って行く事は彼の主意に背いた。彼はただ夫人対お秀の関係を掘り返せば可かった。病気見舞を兼た夫人の用向も、無論それに就いての懇談に極っていた。けれども彼女にはまた彼女に特有な趣があった。時間に制限のない彼女は、頼まれるまでもなく、機会さえあれば、他の内輪に首を突ッ込んで、なにかと眼下(めした)、ことに自分の気に入った眼下の世話を焼きたがる代りに、到る所で又道楽本位の本性を露わして平気であった。或時の彼女は無暗に急(せ)いて事を纏めようと焦慮(あせ)った。そうかと思うと、ある時の彼女は、又正反対であった。わざわざべんべんと引ッ張る所に、さも興味でもあるらしい様子を見せて済ましていた。鼠を弄(もてあ)そぶ猫のようなこの時の彼女の態度が、たとい傍(はた)から見てどうあろうとも、自分では、閑散な時間に曲折した波瀾を与えるために必要な優者の特権だと解釈しているらしかった。この手に掛った時の相手には、何よりも辛抱が大切であった。その代り辛抱をし抜いた御礼は屹度(きっと)来た。又来る事を以って彼女は相手を奨励した。のみならずそれを自分の倫理上の誇りとした。彼女と津田の間に取り換わされたこの黙契のために、津田の蒙(こうむ)った重大な損失が、今までにたった一つあった。その点で彼女が腹の中で如何に彼に対する責任を感じているかは、怜悧(れいり)な津田の見逃す所でなかった。何事にも夫人の御意を主眼に置いて行動する彼と雖(いえど)も、暗にこの強味だけは恃(たの)みにしていた。然しそれはいざという万一の場合に保留された彼の利器に過ぎなかった。平生の彼は甘んじて猫の前の鼠となって、先方の思う通りにじゃらされていなければならなかった。この際の夫人も中々要点へ来る前に時間を費やした。
「昨日秀子さんが来たでしょう。此所へ」
「ええ。参りました」
「延子さんも来たでしょう」
「ええ」
「今日は?」
「今日はまだ参りません」
「今に入らっしゃるんでしょう」
 津田にはどうだか分らなかった。先刻来るなという手紙を出した事も、夫人の前では云えなかった。返事を受け取らなかった勝手違も、実は気に掛っていた。
「どうですかしら」
「入らっしゃるか、入らっしゃらないか分らないの」
「ええ、よく分りません。多分来ないだろうとは思うんですが」
「大変冷淡じゃありませんか」
 夫人は嘲けるような笑い方をした。
「私がですか」
「いいえ、両方がよ」
 苦笑した津田が口を閉じるのを待って、夫人の方で口を開いた。
「延子さんと秀子さんは昨日此所で落ち合ったでしょう」
「ええ」
「それから何かあったのね、変な事が」
「別に……」
「空ッ惚けちゃ不可せん。あったらあったと、判然(はっきり)仰しゃいな、男らしく」
 夫人は漸く持前の言葉遣いと特色とを、発揮し出した。津田は挨拶に困った。黙って少し様子を見るより外に仕方がないと思った。
「秀子さんを散々苛めたって云うじゃありませんか。二人して」
「そんな事があるものですか。お秀の方が起ってぷんぷん腹を立てて帰って行ったのです」
「そう。然し喧嘩はしたでしょう。喧嘩といったって殴り合じゃないけれども」
「それだってお秀のいうような大袈裟なものじゃないんです」
「かも知れないけれども、多少にしとろ有ったには有ったんですね」
「そりゃ一寸した行違なら御座いました」
「その時あなた方は二人掛りで秀子さんを苛めたでしょう」
「苛めやしません。あいつが耶蘇(ヤソ)教のような気[焔]を吐いただけです」
「兎に角貴方がたは二人、向うは一人だったに違ないでしょう」
「そりゃそうかも知れません」
「それ御覧なさい。それが悪いじゃありませんか」
 夫人の断定には意味も理窟もなかった。従って何処が悪いんだか津田には一向通じなかった。けれどもこういう場合にこんな風になって出て来る夫人の特色は、決して逆らえないものとして、もう津田の頭に叩き込まれていた。素直に叱られているより外に彼の途はなかった。
「そういう積でもなかったんですけれども、自然の勢で、何時かそうなってしまったんでしょう」
「でしょうじゃ不可ません。ですと判然仰しゃい。一体こういうと失礼なようですが、貴方があんまり延子さんを大事になさり過ぎるからよ」
 津田は首を傾けた。

百三十三

 怜悧な性分に似合わず夫人対お延の関係は津田に能く呑み込めていなかった。夫人に津田の手前があるように、お延にも津田に置く気兼があったので、それが真向(まとも)に双方を了解出来る聡明な彼の頭を曇らせる原因になった。女の挨拶に相当の割引をして見る彼も、其所にはつい気が付かなかったため、彼は自分の前でする夫人のお延評を真に受けると同時に、自分の耳に聴こえるお延の夫人評も亦疑がわなかった。そうしてその評は双方共に美くしいものであった。
 二人の女性が二人だけで心の内に感じ合いながら、今までそれを外に現わすまいとのみ力(つと)めて来た微妙な軋轢(あつれき)が、必然の要求に逼られて、次第々々に晴れ渡る靄(もや)のように、津田の前に展開されなければならなくなったのはこの時であった。
 津田は夫人に向って云った。
「別段大事にする程の女房でもありませんから、その辺の御心配は御無用です」
「いいえそうでないようですよ。世間じゃみんなそう思ってますよ」
 世間という仰山(ぎょうさん)な言葉が津田を驚ろかせた。夫人は仕方なしに説明した。
「世間って、みんなの事よ」
 津田にはそのみんなさえ明瞭に意識する事が出来なかった。然し世間だのみんなだのという誇張した言葉を強める夫人の意味は、決して推察に困難なものではなかった。彼女はどうしてもその点を津田の頭に叩き込もうとする積らしかった。津田はわざと笑って見せた。
「みんなって、お秀の事なんでしょう」
「秀子さんは無論その内の一人よ」
「その内の一人でそうして又代表者なんでしょう」
「かも知れないわ」
 津田は再び大きな声を出して笑った。然し笑った後ですぐ気が付いた。悪い結果になって夫人の上に反響して来たその笑いはもう取り返せなかった。文句を云わずに伏罪(ふくざい)する事の便宜を悟った彼は、忽(たちま)ち容(かた)ちを改ためた。
「兎に角これから能く気を付けます」
 然し夫人はそれでもまだ満足しなかった。
「秀子さんばかりだと思うと間違いですよ。貴方の叔父さんや叔母さんも、同なじ考えなんだからその積でいらっしゃい」
「はあそうですか」
 藤井夫婦の消息が、お秀の口から夫人に伝えられたのも明らかであった。
「外にもまだあるんです」と夫人が又付け加えた。津田はただ「はあ」と云って相手の顔を見た拍子に、彼の予期した通りの言葉がすぐ彼女の口から洩れた。
「実を云うと、私も皆さんと同なじ意見ですよ」
 権威ででもあるような調子で、最後にこう云った夫人の前に、彼は勿論反抗の声を揚げる勇気を出す必要を認めなかった。然し腹の中では同時に妙な思わく違に想い到った。彼は疑った。
「何でこの人が急にこんな態度になったのだろう。自分のお延を鄭重に取扱い過ぎるのが悪いといって非難する上に、お延自身をもその非難のうちに含めているのではなかろうか」
 この疑いは津田にとって全く新らしいものであった。夫人の本意に到着する想像上の過程を描き出す事さえ彼には困難な位新らしいものであった。彼はこの疑問に立ち向う前に、まだ自分の頭の中に残っている一つの質問を掛けた。
「岡本さんでも、そんな評判があるんでしょうか」
「岡本は別よ。岡本の事なんか私の関係する所じゃありません」
 夫人が済ましてこう云い切った時、津田は思わずおやと思った。「じゃ岡本とあなたの方は別っこだったんですか」という次の問が、自然の順序として、彼の咽喉まで出掛った。
 実を云うと、彼は「世間」の取沙汰通り、お延を大事にするのではなかった。誤解交りのこの評判が、何処からどうして起ったかを、他に説明しようとすれば、随分複雑な手数が掛るにしても、彼の頭の中にはちゃんとした明晰(めいせき)な観念があって、それを一々掌(たなごころ)に指す事の出来る程に、事実の縞柄(しまがら)は解っていた。
 第一の責任者はお延その人であった。自分がどの位津田から可愛がられ、又津田をどの位自由にしているかを、最も曲折の多い角度で、あらゆる方面に反射させる手際を到る所に発揮して憚(はば)からないものは彼女に違なかった。第二の責任者はお秀であった。既に一種の誇張がある彼女の眼を、一種の嫉妬が手伝って染めた。その嫉妬が何処から出て来るのか津田は知らなかった。結婚後始めて小姑という意味を悟った彼は、折角悟った意味を、解釈の出来ないために持て余した。第三の責任者は藤井の叔父夫婦であった。此所には誇張も嫉妬もない代りに、浮華に対する嫌悪があまり強く働らき過ぎた。だから結果は矢張誤解と同じ事に帰着した。

百三十四

 津田にはこの誤解を誤解として通して置く特別な理由があった。そうしてその理由は既に小林の看破(かんぱ)した通りであった。だから彼はこの誤解から生じ易い岡本の好意を、出来るだけ自分の便宜になるように保留しようと試みた。お延を鄭寧に取扱うのは、つまり岡本家の機嫌を取るのと同じ事で、その岡本と吉川とは、兄弟同様に親しい間柄である以上、彼の未来は、お延を大事にすればする程確かになって来る道理であった。利害の論理(ロジック)に抜目のない機敏さを誇りとする彼は、吉川夫妻が表向の媒酌人として、自分達二人の結婚に関係して呉れた事実を、単なる名誉として喜こぶ程の馬鹿ではなかった。彼は其所に名誉以外の重大な意味を認めたのである。
 然しこれは寧ろ一般的の内情に過ぎなかった。もう一皮剥(む)いて奥へ入ると、底にはまだ底があった。津田と吉川夫人とは、事件が此所へ来るまでに、他人の関知しない因果でもう結び付けられていた。彼等にだけ特有な内外の曲折を経過して来た彼等は、他人より少し複雑な眼をもって、半年前に成立したこの新らしい関係を眺めなければならなかった。
 有体(ありてい)にいうと、お延と結婚する前の津田は一人の女を愛していた。そうしてその女を愛させるように仕向けたものは吉川夫人であった。世話好な夫人は、この若い二人を喰っ付けるような、又引き離すような閑手段(かんしゅだん)を縦(ほしい)ままに弄して、そのたびに迷児々々(まごまご)したり、又は逆(のぼ)せ上ったりする二人を眼の前に見て楽しんだ。けれども津田は固く夫人の親切を信じて疑がわなかった。夫人も最後に来るべき二人の運命を断言して憚からなかった。のみならず時機の熟した所を見計って、二人を永久に握手させようと企てた。ところがいざという間際になって、夫人の自信は見事に鼻柱を挫かれた。津田の高慢も助かる筈はなかった。夫人の自信と共に一棒に撲殺された。肝心の鳥はふいと逃げたぎり、遂に夫人の手に戻って来なかった。
 夫人は津田を責めた。津田は夫人を責めた。夫人は責任を感じた。然し津田は感じなかった。彼は今日までその意味が解らずに、まだ五里霧中に彷徨していた。其所へお延の結婚問題が起った。夫人は再び第二の恋愛事件に関係すべく立ち上った。そうして夫と共に、表向の媒酌人として、綺麗な段落を其所へ付けた。
 その時の夫人の様子を細かに観察した津田は成程と思った。
「おれに対する賠償の心持ちだな」
 彼はこう考えた。彼は未来の方針を大体の上に於てこの心持から割り出そうとした。お延と仲善く暮す事は、夫人に対する義務の一端だと思い込んた。喧嘩さえしなければ、自分の未来に間違はあるまいという鑑定さえ下した。
 こういう心得に万遺[サン](ばんいさん)のある筈はないと初手(しょて)から極めて掛って吉川夫人に対している津田が、たとい遠廻しにでもお延を非難する相手の匂いを嗅ぎ出した以上、おやと思うのは当然であった。彼は夫人に気に入るように自分の立場を改める前に、先ず確かめる必要があった。
「私がお延を大事にし過ぎるのが悪いと仰しゃる外に、お延自身に何か欠点でもあるなら、御遠慮なく忠告して頂きたいと思います」
「実はそれで上ったのよ、今日は」
 この言葉を聴いた時、津田の胸は夫人の口から何が出て来るのか好奇心に充ちた。夫人は話を継いだ。
「これが私(あたし)でないと面と向って誰も貴方に云えない事だと思うから云いますがね。――お秀さんに智慧(ちえ)を付けられて来たと思っては困りますよ。また後でお秀さんに迷惑を掛けるようだと、私が済まない事になるんだから、可ござんすか。そりゃお秀さんもその事でわざわざ来たには違ないのよ。然し主意は少し違んです。お秀さんは重に京都の方を心配しているの。無論京都は貴方から云えばお父さんだから、決して疎略には出来ますまい。ことに良人(うち)でもああしてお父さんに貴方の世話を頼まれていて見ると、黙って放っても置く訳にも行かないでしょう。けれどもね、つまり其方は枝で、根は別にあるんだから、私は根から先へ療治した方が遥かに有効だと思うんです。でないと今度のような行違が又屹度出て来ますよ。ただ出て来るだけなら可ござんすけれども、そのたんびにお秀さんが遣って来るようだと、私も口を利くのに骨が折れるだけですからね」
 夫人のいう禍(わざわい)の根というのは慥にお延の事に違なかった。ではその根をどうして療治しようというのか。肉体上の病気でもない以上、離別か別居を除いて療治という言葉は容易(たやす)く使えるものでもないのにと津田は考えた。

百三十五

 津田は已を得ず訊いた。
「要するにどうしたら可いんです」
 夫人はこの子供らしい質問の前に母親らしい得意の色を見せた。けれどもすぐ要点へは来なかった。彼女は其所だと云わぬばかりにただ微笑した。
「一体貴方は延子さんをどう思っていらっしゃるの」
 同じ問が同じ言葉で昨日掛けられた時、お秀に何と答えたかを津田は思い出した。彼は夫人に対する特別な返事を用意して置かなかった。その代り何とでも答えられる自由な地位にあった。腹蔵のない所をいうと、どうなりとあなたの好きなお返事を致しますというのが彼の胸中であった。けれども夫人の頭にあるその好きな返事は、全く彼の想像の外(ほか)にあった。彼はへどもどするうちににやにやした。勢い夫人は一歩前へ進んで来る事になった。
「あなたは延子さんを可愛がっていらっしゃるでしょう」
 此所でも津田の備えは手薄であった。彼は冗談半分に夫人をあしらう事なら幾通(いくとおり)でも出来た。然し真面目に改まった、責任のある答を、夫人の気に入る様な形で与えようとすると、その答は決してそうすらすら出て来なかった。彼に取って最も都合の好い事で、又最も都合の悪い事は、何方にでも自由に答えられる彼の心の状態であった。というのは、事実彼はお延を愛してもいたし、又そんなに愛してもいなかったからである。
 夫人は愈(いよいよ)真剣らしく構えた。そうして三度目の質問をのっぴきさせぬ調子で掛けた。 「私と貴方だけの間の秘密にして置くから正直に云っとしまいなさい。私の聴きたいのは何でもないんです。ただ貴方の思った通りのところを一口伺えばそれで可いんです」
 見当の立たない津田は愈(いよいよ)迷付(まごつ)いた。夫人は云った。
「貴方も随分焦慮(じれ)ったい方ね。云える事は男らしく、さっさと云っちまったら可いでしょう。そんなむずかしい事を誰も訊いていやしないんだから」
 津田はとうとう口を開くべく余儀なくされた。
「お返事が出来ない訳でもありませんけれども、あんまり問題が漠然としているものですから……」
「じゃ仕方がないから私の方で云いましょうか。可ござんんすか」
「どうぞそう願います」
「貴方は」と云い掛けた夫人はこの時一寸言葉を切って又継いだ。
「本当によござんすか。――あたしはこういう無遠慮な性分だから、よく自分の思ったままをずばずば云っちまった後で、取り返しの付かない事をしたと後悔する場合が能くあるんですが」
「なに構いません」
「でも若しか、貴方に怒られるとそれっ切りですからね。後でいくら詫まっても追付かないなんて馬鹿はしたくありませんもの」
「然し私の方で何とも思わなければそれで可いでしょう」
「そこさえ確かなら無論可いのよ」
「大丈夫です。偽(うそ)だろうが本当だろうが、奥さんの仰しゃる事なら決して腹は立てませんから、遠慮なさらずに云って下さい」
 凡ての責任を向うに脊追(しょ)わせてしまう方が遥かに楽だと考えた津田は、こう受け合った後で、催促するように夫人を見た。何度となく駄目を押して保護を付けた夫人はその時漸く口を開いた。
「もし間違ったら御免遊(あそば)せよ。貴方はみんなが考えている通り、腹の中ではそれ程延子さんを大事にしていらっしゃらないでしょう。秀子さんと違って、あたしは疾(と)うからそう睨んでいるんですが、どうです、あたしの推測は中(あた)りませんかね」
 津田は何ともなかった。
「無論です。だから先刻申し上げたじゃありませんか。そんなにお延を大事にしちゃいませんて」
「然しそれは御挨拶に仰しゃっただけね」
「いいえ私は本当の所を云った積です」
 夫人は断々乎(だんだんこ)として首肯(うけが)わなかった。
「胡麻化しっこなしよ。じゃ後を云っても可ござんすか」
「ええどうぞ」
「貴方は延子さんをそれ程大事にしていらっしゃらない癖に、表では如何にも大事にしているように、他から思われよう思われようと掛っているじゃありませんか」
「お延がそんな事でも云ったんですか」
「いいえ」と夫人は切っ張り否定した。「貴方が云ってるだけよ。貴方の様子なり態度なりがそれだけの事をちゃんとあたしに解るようにして下さるだけよ」
 夫人は其所で一寸休んだ。それから後を付けた。
「どうです中ったでしょう。あたしは貴方が何故そんな体裁を作っているんだか、その原因までちゃんと知ってるんですよ」

百三十六

 津田は今日までこういう種類の言葉をまだ夫人の口から聴いた事がなかった。自分達夫婦の仲を、夫人が裏側からどんな眼で観察しているだろうという問題に就いて、さほど神経を遣っていなかった彼は、漸く其所に気が付いた。そんならそうと早く注意して呉れれば可いのにと思いがら、彼は兎に角夫人の鑑定なり料簡なりを大人しく結末まで聴くのが上分別だと考えた。
「どうぞ御遠慮なく何でもみんな云って下さい。私の向後(こうご)の心得にもなる事ですから」
 途中まで来た夫人は、たとい津田から誘われないでも、もう其所で止まる訳に行かないので、すぐ残りのものを津田の前に投げ出した。
「貴方は良人(うち)や岡本の手前があるので、それであんなに延子さんを大事になさるんでしょう。もっと露骨なのがお望みなら、まだ露骨にだって云えますよ。貴方は表向延子さんを大事にする様な風をなさるのね、内側はそれ程でなくっても。そうでしょう」
 津田は相手の観察がまさかこれ程皮肉な点まで切り込んで来ていようとは思わなかった。
「私の性質なり態度なりが奥さんにそう見えますか」
「見えますよ」
 津田は一刀(ひとかたな)で斬られたと同じ事であった。彼は斬られた後でその理由を訊いた。
「どうして? どうしてそう見えるんですか」
「隠さないでも可いじゃありませんか」
「別に隠す積でもないんですが……」
 夫人は自分の推定が十の十まで中ったと信じて掛った。心の中でその六だけを首肯(うけが)った津田の挨拶は、自然何処かに曖昧な筋を残さなければならなかった。それがこの場合誤解の種になるのは見易い道理であった。夫人は何処までも同じ言葉を繰り返して、津田を自分の好きな方角へのみ追い込んだ。
「隠しちゃ駄目よ。貴方が隠すと後が云えなくなるだけだから」
 津田は是非その後を聴きたかった。その後を聴こうとすれば、夫人の認定を一から十まで承知するより外に仕方がなかった。夫人は「それ御覧なさい」と津田を遣り込めた後で歩を進めた。
「貴方には天から誤解があるのよ。貴方は私を良人と一所に見ているんでしょう。それから良人と岡本をまた一所に見ているんでしょう。それが大間違よ。岡本と良人を一所に見るのはまだしも、私を良人や岡本と一所にするのは可笑いじゃありませんか、この事件に就いて。学問をした方にも似合わないのね貴方も、そんな所へ行くと」
 津田は漸く夫人の立場を知る事が出来た。然しその立場の位置及びそれが自分に対してどんな関係になっているのかまだ解らなかった。夫人は云った。
「解り切ってるじゃありませんか。私だけは貴方と特別の関係があるんですもの」
 特別の関係という言葉のうちに、どんな内容が盛られているか、津田には能く解った。然しそれは目下の問題ではなかった。何故と云えば、その特別な関係を能く呑み込んでいればこそ、今日までの自分の行動にも、それ相当な一種の色と調子を与えて来た積だと彼は信じていたのだから。この特別な関係が夫人をどう支配しているか、そこをもっと明らかに突き留めた所に、新らしい問題は始めて起るのだと気が付いた彼は、ただ自分の誤解を認めるだけでは済まされなかった。
 夫人は一口に云い払った。
「私は貴方の同情者よ」
 津田は答えた。
「それは今までついぞ疑ってみた例もありません。私は信じ切っています。そうしてその点で深くあなたに感謝しているものです。然しどういう意味で? どういう意味で同情者になって下さる積なんですか、この場合。私は迂濶ものだから奥さんの意味が能く呑み込めません。だからもっと判然(はっき)り話して下さい」
「この場合に同情者として私が貴方にして上げる事がただ一つあると思うんです。然し貴方は多分――」
 夫人はこれだけ云って津田の顔を見た。津田はまだ焦らされるのかと思った。然しそうでないと断言した夫人の問は急に変った。
「私の云う事を聴きますか、聴きませんか」
 津田にはまだ常識が残っていた。彼は此所へ押し詰められた何人(なんぴと)も考えなければならない事を考えた。然し考えた通りを夫人の前で公然明言する勇気はなかった。勢い彼の態度は煮え切らないものであった。聴くとも聴かないとも云いかねた彼は躊躇した。
「まあ云って見て下さい」
「まあじゃ不可せん。あなたがもっと判切(はっきり)しなくっちゃ、私だって云う気にはなれません」
「だけれども――」
「だけれどもでも駄目よ。聴きますと男らしく云わなくっちゃ」

百三十七

 どんな注文が夫人の口から出るか見当の付かない津田は、ひそかに恐れた。受け合った後で撤回しなければならないような窮地に陥いればそれぎりであった。彼はその場合の夫人を想像して見た。地位から云っても、性質から見ても、また彼に対する特別な関係から判断しても、夫人は決して彼を赦(ゆる)す人ではなかった。永久夫人の前に赦されない彼は、恰(あたか)も蘇生の活手段を奪われた仮死の形骸(けいがい)と一般であった。用心深い彼は生還の望の確としない危地に入り込む勇気を有(も)たなかった。
 その上普通の人と違って夫人はどんな難題を持ち出すか解らなかった。自由の利き過ぎる境遇、そこに長く住み馴れた彼女の眼には、殆んど自分の無理というものが映らなかった。云えば大抵の事は通った。たまに通らなければ、意地で通すだけであった。ことに困るのは、自分の動機を明瞭に解剖して見る必要に逼られない彼女の余裕であった。余裕というよりも寧ろ放漫な心の持方であった。他の世話を焼く時にする自分の行動は、すべて親切と好意の発現で、その外に何の私もないものと、天から極めて掛る彼女に、不安の来る筈はなかった。自分の批判は殆んど当初から働らかないし、他の批判は耳へ入らず、また耳へ入れようとするものもないとなると、此所へ落ちて来るのは自然の結果でもあった。
 夫人の前に押し詰められた時、津田の胸に、これだけの考えが蜿蜒(うねく)り廻ったので、埒(らち)は益(ますます)開かなかった。彼の様子を見た夫人は、遂に笑い出した。
「何をそんなにむずかしく考えてるんです。大方私が又無理でも云い出すんだと思ってるんでしょう。なんぼ私だって貴方に出来っこないような不法は考えやしませんよ。あなたが遣ろうとさえ思えば、訳なく出来る事なんです。そうして結果は貴方の得になるだけなんです」
「そんなに雑作(ぞうさ)なく出来るんですか」
「ええまあ笑談(じょうだん)みたいなものです。ごくごく大袈裟に云った所で、面白半分の悪戯よ。だから思い切って遣ると仰しゃい」
 津田には凡てが謎であった。けれども高が悪戯ならという気が漸く彼の腹に起った。彼は遂に決心した。
「何だか知らないがまあ遣って見ましょう。話して見て下さい」
 然し夫人はすぐその悪戯の性質を説明しなかった。津田の保証を[掴](つか)んだ後で、また話題を変えた。ところがそれは、あらゆる意味で悪戯とは全く懸け離れたものであった。少くとも津田には重大な関係を有っていた。
 夫人は下のような言葉で、まずそれを二人の間に紹介した。
「貴方はその後清子(きよこ)さんにお会いになって」
「いいえ」
 津田の少し吃驚(びっくり)したのは、ただ問題の唐突なばかりではなかった。不意に自分を振り棄てた女の名が、逃がした責任を半分脊負っている夫人の口から急に洩れたからである。夫人は語を継いだ。
「じゃ今どうしていらっしゃるか、御存知ないでしょう」
「まるで知りません」
「まるで知らなくって可(よ)いの」
「可くないったって仕方がないじゃありませんか。もう余所へ嫁に行ってしまったんだから」
「清子さんの結婚の御披露の時に貴方はお出(いで)になったんでしたかね」 「
行きません。行こうたって一寸行き悪(にく)いですからね」
「招待状は来たの」
「招待状は来ました」
「貴方の結婚の御披露の時に、清子さんは入らっしゃらなかったようね」
「ええ来やしません」
「招待状は出したの」
「招待状だけは出しました」
「じゃそれっ切なのね、両方共」
「無論それっ切です。もしそれっ切でなかったら問題ですもの」
「そうね。然し問題にも寄り切りでしょう」
 津田には夫人の云う意味が能く解らなかった。夫人はそれを説明する前に又外の道へ移った。
「一体延子さんは清子さんの事を知ってるの」
 津田は塞(つか)えた。小林を研究し尽した上でなければ確(しか)とした返事は与えられなかった。夫人は再び訊き直した。
「貴方が自分で話した事はなくって」
「ありゃしません」
「じゃ延子さんはまるで知らずにいすのね、あの事を」
「ええ、少くとも私からは何にも聴かされちゃいません」
「そう。じゃ全く無邪気なのね。それとも少しは癇付(かんづ)いている所があるの」
「そうですね」
 津田は考えざるを得なかった。考えても断案は控えざるを得なかった。

百三十八

 話しているうちに、津田は又思い掛けない相手の心理に突き当った。今まで清子の事をお延に知らせないで置く方が、自分の都合でもあり、また夫人の意志でもあるとばかり解釈して疑わなかった彼は、この時始めて気が付いた。夫人はどう考えてもお延にそれを気(け)どっていて貰いたいらしかったのである。
「大抵の見当は付きそうなものですがね」と夫人は云った。津田はお延の性質を知っているだけに猶答え悪くなった。
「其所が分らないと不可(いけな)いんですか」
「ええ」
 津田は何故だか知らなかった。けれども答えた。
「もし必要なら話しても好ござんすが……」
 夫人は笑い出した。
「今更貴方がそんな事をしちゃ打(ぶ)ち壊しよ。貴方は仕舞まで知らん顔をしていなくっちゃ」
 夫人はこれだけ云って、言葉に区切を付けた後で、新たに出直した。
「私の判断を云いましょうか。延子さんはああいう怜悧(りこう)な方だから、もう屹度感づいているに違ないと思うのよ。何、みんな判る筈もないし、又みんな判っちゃ此方が困るんです。判ったようで又判らないようなのが、丁度持って来いという一番結構な頃合(ころあい)なんですからね。そこで私の鑑定から云うと、今の延子さんは、都合よく私のお誂(あつら)え通りの所にいらっしゃるに違ないのよ」
 津田は「そうですか」というより外に仕方がなかった。然しそういう結論を夫人に与える材料は殆んどなかろうにと、腹の中では思った。然るに夫人はあると云い出した。
「でなければ、ああ虚勢を張る訳がありませんもの」
 お延の態度を虚勢と評したのは、夫人が始めてであった。この二字の前に怪訝な思いをしなければならなかった津田は、一方から見て、またその皮肉を第一に首肯(うけが)わなければならない人であった。それにも拘わらず彼は躊躇なしに応諾を与える事が出来なかった。夫人はまた事もなげに笑った。
「なに構わないのよ。万一全く気が付かずにいるようなら、その時は又その時で此方(こっち)にいくらでも手があるんだから」
 津田は黙ってその後を待った。すると後は出ずに、急に清子の方へ話が逆転して来た。
「貴方は清子さんにまだ未練がおありでしょう」
「ありません」
「ちっとも?」
「ちっともありません」
「それが男の嘘というものです」
 嘘を云う積でもなかった津田は、全然本音を云っているのでもないという事に気が付いた。
「これでも未練があるように見えますか」
「そりゃ見えないわ、貴方」
「じゃどうしてそう鑑定なさるんです」
「だからよ。見えないからそう鑑定するのよ」
 夫人の論議(ロジック)は普通のそれとまるで反対であった。と云って、支離滅裂は何処にも含まれていなかった。彼女は得意にそれを引き延ばした。
「外の人には外側も内側も同なじとしか見えないでしょう。然し私には外側へ出られないから、仕方なしに未練が内へ引込んでいるとしか考えられませんんもの」
「奥さんは初手(しょて)から私に未練があるものとして、極めて掛っていらっしゃるから、そう仰しゃるんでしょう」
「極めて掛るのに何処に無理がありますか」
「そう勝手に認定されてしまちゃ堪りません」
「私がいつ勝手に認定しました。私のは認定じゃありませんよ。事実ですよ。貴方と私だけに知れている事実を云うのですよ。事実ですもの、それをちゃんと知ってる私に隠せる訳がないじゃありませんか、いくら外の人を騙す事が出来たって。それもあなただけの事実ならまだしも、二人の共通な事実なんだから、両方で相談の上、何処かへ埋めちまわないうちは、記憶のある限り、消えっこないでしょう」
「じゃ相談ずくで此所で埋めちゃどうです」
「何故埋めるんです。埋める必要が何処かにあるんですか。それより何故それを活かして使わないんです」
「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」
「罪悪とは何です。そんな手荒な事をしろと私が何時云いました」
「然し……」
「貴方はまだ私の云う事を仕舞まで聴かないじゃありませんか」
 津田の眼は好奇心をもって輝やいた。

百三十九

 夫人はもう未練のある証拠を眼の前に突き付けて津田を抑えたと同じ事であった。自白後に等しい彼の態度は二人の仕合に一段落を付けたように夫人を強くした。けれども彼女は津田が最初に考えた程この点に於て独断的な暴君ではなかった。彼女は思ったより細緻(さいち)な注意を払って、津田の心理状態を観察しているらしかった。彼女はその実券を、一旦勝った後で彼に示した。
「ただ未練々々って、雲を[掴](つか)むような騒ぎを遣るんじゃありませんよ。私には私で又ちゃんと握ってる所があるんですからね。これでも貴方の未練をこんなものだといって他(ひと)に説明する事が出来る積でいるんですよ」
 津田には何が何だか薩張(さっぱり)訳が解らなかった。
「一寸説明して見て下さいませんか」
「お望みなら説明しても可ござんす。けれどもそうすると詰(つま)り貴方を説明する事になるんですよ」
「ええ構いません」
 夫人は笑い出した。
「そう他(ひと)の云う事が通じなくっちゃ困るのね。現在自分がちゃんと其所に控えていながら、その自分が解らないで、他に説明して貰うなんてえのは馬鹿気ているじゃありませんか」
 果して夫人の云う通りなら馬鹿気ているに違なかった。津田は首を傾けた。
「然し解りませんよ」
「いいえ解ってるのよ」
「じゃ気が付かないんでしょう」
「いいえ気も付いているのよ」
「じゃどうしたんでしょう。――つまり私が隠している事にでも帰着するんですか」
「まあそうよ」
 津田は投げ出した。此所まで追い詰められながら、まだ隠し立をしようとは流石の自分にも道理と思えなかった。
「馬鹿でも仕方がありません。馬鹿の非難は甘んじて受けますから、どうぞ説明して下さい」
 夫人は微(かす)かに溜息を吐いた。
「ああああ張合がないのね、それじゃ。折角私が丹精して拵えて来て上げたのに、肝心の貴方がそれじゃ、まるで無駄骨を折ったと同然ね。一層何にも話さずに帰ろうか知ら」
 津田は迷宮(メーズ)に引き込まれるだけであった。引き込まれると知りながら、彼は夫人の後を追懸けなければならなかった。其所には自分の好奇心が強く働いた。夫人に対する義理と気兼も、決して軽い因子ではなかった。彼は何度も同じ言葉を繰り返して夫人の説明を促がした。
「じゃ云いましょう」と最後に応じた時の夫人の様子は寧ろ得意であった。「その代り訊きますよ」と断った彼女は、果して劈頭(へきとう)に津田の毒気(どくき)を抜いた。
「貴方は何故清子さんと結婚なさらなかったんです」
 問は不意に来た。津田は俄かに息塞(いきづま)った。黙っている彼を見た上で夫人は言葉を改めた。
「じゃ質問を易(か)えましょう。――清子さんは何故貴方と結婚なさらなかったんです」
 今度は津田が響(ひびき)の声に応ずる如くに答えた。
「何故だか些とも解らないんです。ただ不思議なんです。いくら考えても何にも出て来ないんです」
「突然関さんへ行っちまったのね」
「ええ、突然。本当を云うと、突然なんてものは疾(とっく)の昔に通り越していましたね。あっと云って後を向いたら、もう結婚していたんです」
「誰があっと云ったの」
 この質問程津田に取って無意味なものはなかった。誰があっと云おうと余計なお世話としか彼には見えなかった。然るに夫人は其所へ留まって動かなかった。
「あなたがあっと云ったんですか。清子さんがあっと云ったんですか。或は両方であっと云ったんですか」
「さあ」
 津田は已むなく考えさせられた。夫人は彼より先へ出た。
「清子さんの方は平気だったんじゃありませんか」
「さあ」
「さあじゃ仕方がないわ、貴方。貴方にはどう見えたのよ、その時の清子さんが。平気には見えなかったの」
「どうも平気のようでした」
 夫人は軽蔑の眼を彼の上に向けた。
「随分気楽ね、貴方も、清子さんの方が平気だったから、貴方があっと云わせられたんじゃありませんか」
「或(あるい)はそうかも知れません」
「そんならその時の’あっ’の始末はどう付ける気なの」
「別に付けようがないんです」
「付けようがないけれども、実は付けたいんでしょう」
「ええ。だから色々考えたんです」
「考えて解ったの」
「解らないんです。考えれば考える程解らなくなるだけなんです」
「それだから考えるのはもう已めちまったの」
「いいえ矢張(やっぱ)り已められないんです」
「じゃ今でもまだ考えてるのね」
「そうです」
「それ御覧なさい。それが貴方の未練じゃありませんか」
 夫人はとうとう津田を自分の思う所へ押し込めた。

百四十

 準備は略(ほぼ)出来上った。要点はそろそろ津田の前に展開されなければならなかった。夫人は機を見て次第に其所へ入って行った。
「そんならもっと男らしくしちゃどうです」という漠然たる言葉が、最初に夫人の口を出た。その時津田は又かと思った。先刻から「男らしくしろ」とか「男らしくない」とかいう文句を聴かされる度に、彼は心の中で暗に夫人を冷笑した。夫人の男らしいという意味は果して何処にあるのだろうと疑ぐった。批判的な眼を拭って見るまでもなく、彼女は自分の都合ばかりを考えて、津田を遣り込めるために、勝手な所へ矢鱈(やたら)にこの言葉を使うとしか解釈出来なかった。彼は苦笑しながら訊いた。
「男らしくするとは? ――どうすれば男らしくなれるんですか」
「貴方の未練を晴すだけでさあね。分り切ってるじゃありませんか」
「どうして」
「全体どうしたら晴されると思ってるんです、貴方は」
「そりゃ私には解りません」
 夫人は急に勢(きお)い込んだ。
「貴方は馬鹿ね。その位の事が解らないでどうするんです。会って訊くだけじゃありませんか」
 津田は返事が出来なかった。会うのがそれ程必要にした所で、どんな方法で何処でどうして会うのか。その方が先決問題でなければならなかった。
「だから私が今日わざわざ此所へ来たんじゃありませんか」と夫人が云った時、津田は思わず彼女の顔を見た。
「実は疾(と)うから、貴方の料簡をよく伺って見たいと思ってた所へね、今朝お秀さんがあの事で来たもんだから、それで丁度好い機会だと思って出て来たような訳なんですがね」
 腹に支度の整わない津田の頭はただ迷児々々(まごまご)するだけであった。夫人はそれを見澄(みすま)してこういった。
「誤解しちゃ不可(いけま)せんよ。私は私、お秀さんはお秀さんなんだから。何もお秀さんに頼まれて来たからって、屹度あの方の肩ばかり持つとは限らない位は、貴方にだって解るでしょう。先刻も云った通り、私はこれでも貴方の同情者ですよ」
「ええそりゃ能く心得ています」
 此所で問答に一区切を付けた夫人は、時を移さず要点に達する第二の段落に這入り込んで行った。
「清子さんが今何処にいらっしゃるか、貴方知ってらっしって」
「関の所にいるじゃありませんか」
「そりゃ不断の話よ。私のいうのは今の事よ。今何処にいらっしゃるかっていうのよ。東京か東京でないか」
「存じません」
「中てて御覧なさい」
 津田は中っ子をしたって詰らないという風をして黙っていた。すると思い掛けない場所の名前が突然夫人の口から点出された。一日掛りで東京から行かれる可なり有名なその温泉場の記憶は、津田に取ってもそれ程旧(ふる)いものではなかった。急にその辺の景色を思い出した彼は、ただ「へええ」と云ったぎり、後をいう智恵が出なかった。
 夫人は津田のために親切な説明を加えて呉れた。彼女の云う所によると、目的の人は静養のため、当分其所に逗留(とうりゅう)しているのであった。夫人は何で静養がその人に必要であるかをさえ知っていた。流産後の身体を回復するのが主眼だと云って聴かせた夫人は、津田を見て意味ありげに微笑した。津田は腹の中で略(ほぼ)その微笑を解釈し得たような気がした。けれどもそんな事は、夫人に取っても彼に取っても、目前の問題ではなかった。一口の批評を加える気にもならなかった彼は、黙って夫人の聴き手になる積で大人しくしていた。同時に夫人は第三の段落に飛び移った。
「貴方も入らっしゃいな」
 津田の心はこの言葉を聴く前から既に揺(うご)いていた。然し行こうという決心は、この言葉を聴いた後でも付かなかった。夫人は一煽(ひとあお)りに煽った。
「入らっしゃいよ。行ったって誰の迷惑にもなる事でもないじゃありませんか。行って澄ましていればそれまででしょう」
「それはそうです」
「貴方は貴方で始めっから独立なんだから構った事はないのよ。遠慮だの気兼だのって、なまじ余計なものを荷にし出すと、事が面倒になるだけですわ。それに貴方の病気には、此所を出た後で、ああいう所へ一寸(ちょっと)行って来る方が可いんです。私に云わせれば、病気の方だけでも行く必要は充分あると思うんです。だから是非入らっしゃい。行って天然自然来たような顔をして澄ましているんです。そうして男らしく未練の片を付けて来るんです」
 夫人は旅費さえ出して遣(や)ると云って津田を促がした。

百四十一

 旅費を貰って、勤向(つとめむき)の都合を付けて貰って、病後の身体を心持の好い温泉場で静養するのは、誰に取っても望ましい事に違なかった。ことに自己の快楽を人間の主題にして生活しようとする津田には滅多にない誂(あつら)え向きの機会であった。彼に云わせると、見す見すそれを取り外すのは愚の極(きょく)であった。然しこの場合に附帯している一種の条件は決して尋常のものではなかった。彼は顧慮した。
 彼を引き留める心理作用の性質は一目瞭然であった。けれども彼はその働きの顕著な力に気が付いているだけで、その意味を返照(へんしょう)する遑(いとま)がなかった。この点に於ても夫人の方が、彼自身よりも却って確(しっ)かりした心理の観察者であった。二つ返事で断行を誓うと思った津田の何処か渋っている様子を見た夫人はこう云った。
「貴方は内心行きたがってる癖に、もじもじしていらっしゃるのね。それが私に云わせると、男らしくない貴方の一番悪い所なんですよ」
 男らしくないと評されても大した苦痛を感じない津田は答えた。
「そうかも知れませんけれども、少し考えて見ないと……」
「その考える癖が貴方の人格に祟(たた)って来るんです」
 津田は「へえ?」と云って驚ろいた。夫人は澄ましたものであった。
「女は考えやしませんよ。そんな時に」
「じゃ考える私は男らしい訳じゃありませんか」
 この答えを聴いた時、夫人の態度が急に嶮(けわ)しくなった。
「そんな生意気な口応(くちごた)えをするもんじゃありません。言葉だけで他を遣り込めれば何処がどうしたというんです、馬鹿らしい。貴方は学校へ行ったり学問をしたりした方の癖に、まるで自分が見えないんだからお気の毒よ。だから畢竟(ひっきょう)清子さんに逃げられちまったんです」
 津田は又「えッ?」と云った。夫人は構わなかった。
「貴方に分らなければ、私が云って聴かせて上げます。貴方が何故行きたがらないか、私にはちゃんと分ってるんです。貴方は臆病なんです。清子さんの前へ出られないんです」
「そうじゃありません。私は……」
「お待ちなさい。――貴方は勇気はあるという気なんでしょう。然し出るのは見識に拘(かか)わるというんでしょう。私から云えば、そう見識ばるのが取りも直さず貴方の臆病な所なんですよ、好ござんすか。何故と云って御覧なさい。そんな見識はただの見栄じゃありませんか。能く云った所で、上っ面の体裁じゃありませんか。世間に対する手前と気兼を引いたら後に何が残るんです。花嫁さんが誰も何とも云わないのに、自分で極りを悪くして、三度の御飯を控えるのと同なじ事よ」
 津田は呆気に取られた。夫人の小言はまだ続いた。
「つまり色気が多過ぎるから、そんな入らざる所に我を立てて見たくなるんでしょう。そうしてそれが貴方の己惚(おのぼれ)に生れ変って変な所へ出て来るんです」
 津田は仕方なしに黙っていた。夫人は容赦なく一歩進んでその己惚を説明した。
「貴方は何時までも品よく黙っていようというんです。じっと動かずに済まそうとなさるんです。それでいて内心ではあの事が始終苦になるんです。そこをもう少し押して御覧なさいな。おれがこうしているうちには、今に清子の方から何か説明して来るだろう来るだろうと思って――」
「そんな事を思ってるもんですか、なんぼ私だって」
「いえ、思っているのと同なじだというのです。実際何処にも変りがなければ、そう云われたって仕様がないじゃありませんか」
 津田にはもう反抗する勇気がなかった。機敏な夫人は其所へ付け込んだ。
「一体貴方は図迂々々(ずうずう)しい性質(たち)じゃありませんか、そうして図迂々々しいのも世渡りの上じゃ一徳だ位に考えているんです」
「まさか」
「いえ、そうです。其所がまだ私に解らないと思ったら、大間違です。好いじゃありませんか、図迂々々しいで、私は図迂々々しいのが好きなんだから。だから此所で持前の図迂々々しい所を男らしく充分発揮なさいな。そのために私が折角骨を折って拵(こしら)えて来たんだから」
「図迂々々しさの活用ですか」と云った津田は言葉を改めた。
「あの人は一人で行ってるんですか」
「無論一人です」
「関は?」
「関さんは此方(こっち)よ。此方に用があるんですもの」
 津田は漸く行く事に覚悟を極めた。

百四十二

 然し夫人と津田の間には結末の付かないまだ一つの問題が残っていた。二人は其所を振り返らないで話を切り上げる訳に行かなかった。夫人が踵(きびす)を回(めぐ)らさないうちに、津田は帰った。
「それで私が行くとしたら、どうなるんです、先刻仰しゃった事は」
「其所です。其所を今云おうと思っていたのよ。私に云わせると、これ程好い療治はないんですがね。どうでしょう、貴方のお考えは」
 津田は答えなかった。夫人は念を押した。
「解ったでしょう。後は云わなくっても」
 夫人の意味は説明を待たないでも略(ほぼ)津田に呑み込めた。然しそれをどんな風にして、お延の上に影響させる積なのか、其所へ行くと彼には確(しか)とした観念がなかった。夫人は笑い出した。
「貴方は知らん顔をしていれば可いんですよ。後は私の方で遣るから」
「そうですか」と答えた津田の頭には疑念があった。後を挙げて夫人に一任するとなると、お延の運命を他人に委ねると同じ事であった。多少夫人の手腕を恐れている彼は危ぶんだ。何をされるか解らないという懸念に制せられた。
「お任せしても可いんですが、手段や方法が解っているなら伺って置く方が便利かと思います」
「そんな事は貴方が知らないでも可いのよ。まあ見て入らっしゃい、私がお延さんをもっと奥さんらしい奥さんに屹度育て上げて見せるから」
 津田の眼に映るお延は無論不完全であった。けれども彼の気に入らない欠点が、必ずしも夫人の難の打ち所とは限らなかった。それをちゃんぽんに混同しているらしい夫人は、少くとも自分に都合の可いお延を鍛え上げる事が、即ち津田のために最も適当な細君を作り出す所以だと誤解しているらしかった。それのみか、もう一歩夫人の胸中に立ち入って、その真底を探ると、飛んでもない結論になるかも知れなかった。彼女はただお延を好かないために、ある手段を拵えて、相手を苛めに掛るのかも分らなかった。気に喰わないだけの根拠で、敵を打ち懲らす方法を講じているのかも分らなかった。幸に自分で其所を認めなければならない程に、世間からも己れからも反省を強いられていない境遇にある彼女は、気楽であった。お延の教育。――こういう言葉が臆面なく彼女の口を洩れた。夫人とお延の間柄を、内面から看破る機会に出会った事のない津田には又その言葉を疑う資格がなかった。彼は大体の上で夫人の実意を信じて掛った。然し実意の作用に至ると、勢い危惧の念が伴なわざるを得なかった。
「心配する事があるもんですか。細工はりゅうりゅう仕上を御覧(ごろ)うじろって云うじゃありませんか」
 いくら津田が訊いても詳しい話しをしなかった夫人は、こんな高を括(くく)った挨拶をした後で、教えるように津田に云った。
「あの方は少し己惚(おのぼ)れ過ぎてる所があるのよ。それから内側と外側がまだ一致しないのね。上部(うわべ)は大変鄭寧(ていねい)で、お腹の中は確(しっ)かりし過ぎる位確かりしているんだから。それに利巧だから外へは出さないけれども、あれで中々慢気が多いのよ。だからそんなものを皆んな取っちまわなくっちゃ・・・…」
 夫人が無遠慮な評をお延に加えている最中に、階子段の中途で足を止めた看護婦の声が二人の耳に入った。
「吉川の奥さんへ堀さんと仰ゃる方から電話で御座います」
 夫人は「はい」と応じてすぐ立ったが、敷居の所で津田を顧みた。
「何の用でしょう」
 津田にも解らなかったその用を足すために下へ降りて行った夫人は、すぐ又上って来ていきなり云った。
「大変大変」
「何が? どうかしたんですか」
 夫人は笑いながら落付いて答えた。
「秀子さんがわざわざ注意して呉れたの」
「何をです」
「今まで延子さんが秀子さんの所へ来て話していたんですって。帰りに病院の方へ廻るかも知れないから、一寸お知らせするって云うのよ。今秀子さんの門を出たばかりの所だって。――まあ好かった。悪口でも云ってる所へ来られようもんなら、大耻を掻かなくっちゃならない」
 一旦坐った夫人は、間もなくまた立った。
「じゃ私はもうお暇(いとま)にしますからね」
 こんな打ち合せをした後でお延の顔を見るのは、彼女に取っても極りが好くないらしかった。
「入らっしゃらないうちに、早く退却しましょう。どうぞよろしく」
 一言の挨拶を彼女に残したまま、夫人はついに病室を出た。

百四十三

 この時お延の足は既に病院に向って動いていた。
 堀の宅から医者の所へ行くには、門を出て一二丁町東へ歩いて、其所(そこ)に丁字形(ていじけい)を描いている大きな往来を又一つ向うへ越さなければならなかった。彼女がこの曲り角へ掛った時、北から来た一台の電車が丁度彼女の前、方角から云えば少し筋違(すじかい)の所で留った。何気なく首を上げた彼女は見るともなしに此所(こちら)側の窓を見た。すると窓硝子を通して通る乗客(じょうかく)の中に一人の女がいあた。位地の関係から、お延はただその女の横顔の半分若しくは三分一を見ただけであったが、見ただけですぐはっと思った。吉川夫人じゃないかという気が忽ち彼女の頭を刺戟(しげき)したからである。
 電車はじきに動き出した。お延は自分の物色に満足な時間を与えずに走り去ったその後影(うしろかげ)を少時(しばらく)見送ったあとで、通りを東側へ横切った。
 彼女の歩く往来はもう横町だけであった。その辺の地理に詳しい彼女は、幾何(いくつ)かの小路を右へ折れたり左へ曲ったりして、一番近い道をはやく病院へ行き着く積であった。けれども電車に会った後の彼女の足は急に重くなった。距離にすればもう二三丁という所まで来た時、彼女は病院へ寄らずに、一旦宅へ帰ろうかと思い出した。
 彼女の心は堀の門を出た折から既に重かった。彼女は無暗にお秀を突ッ付いて、却って遣り損なった不快を胸に包んでいた。そこには大事を明らさまに握る事が出来ずに、裏からわざわざ匂わせられた歯痒(はが)ゆさがあった。なまじいそれを嗅ぎ付けた不安の色も、前よりは一層濃く染め付けられただけであった。何よりも先だつのは、此方(こっち)の弱点を見抜かれて、逆まに相手から翻弄(ほんろう)されはしなかったかという疑惑であった。
 お延はそれ以上にまだ敏(さと)い気を遠くの方まで廻していた。彼女は自分に対して仕組まれた謀計(はかりごと)が、内密に何処かで進行しているらしいとまで癇付(かんづ)いた。主謀者は誰にしろ、お秀がその一人である事は確(たしか)であった。吉川夫人が関係しているのも明かに推測された。――こう考えた彼女は急に心細くなった。知らないうちに重囲(じゅうい)のうちに自分を見出した孤軍のような心境が、遠くから彼女を襲って来た。彼女は周囲(あたり)を見廻した。然し其所には夫を除いて依(たよ)りになるものは一人もいなかった。彼女は何を置いてもまず津田に走らなければならなかった。その津田を疑ぐっている彼女にも、まだ信力は残っていた。如何な事があろうとも、夫だけは共謀者の仲間入はよもしまいと念じた彼女の足は、堀の門を出るや否や、ひとりでにすぐ病院の方へ向いたのである。
 その心理作用が今喰い留められなければならなくなった時、通りで会った電車の影をお延は腹の底から呪った。もし車中の人が吉川夫人であったとすれば、もし吉川夫人が津田の所へ見舞に行ったとすれば、もし見舞に行った序(ついで)に、――。如何に怜悧(りこう)なお延にも考える自由の与えられていないその後は容易に出て来なかった。けれども結果は一つであった。彼女の頭は急にお秀から、吉川夫人、吉川夫人から津田へと飛び移った。彼女は何がなしに、この三人を巴(ともえ)のように眺め始めた。
「ことによると三人は自分に感じさせない一種の電気を通わせ合っているかも知れない」
 今まで避難場の積で夫の所へ駆け込もうとばかり思っていた彼女は考えざるを得なかった。
「この分じゃ、ただ行ったって不可(いけな)い。行ってどうしよう」
 彼女はどうしようという分別なしに歩いて来た事に気が付いた。するとどんな態度で、どんな風に津田に会うのが、この場合最も有効だろうという問題が、さも重要らしく彼女に見え出して来た。夫婦の癖に、そんな余所行(よそいき)の支度なんぞして何になるという非難を何処にも聴かなかったので、一旦宅へ帰って、能く気を落ち付けて、それから又出直すのが一番の上策だと思い極めた彼女は、遂にもう五六分で病院へ行き着こうという小路の中程から取って返した。そうして柳の木の植っている大通りから賑やかな往来まで歩いてすぐ電車へ乗った。

百四十四

 お延は日のとぼとぼ頃に宅へ帰った。電車から降りて一丁程の所を、身に染みるような夕暮の靄(もや)に包まれた後の彼女には、何よりも火鉢の傍が恋しかった。彼女はコートを脱ぐなりまず其所へ坐って手を翳した。
 然し彼女には殆んど一分の休憩時間も与えられなかった。坐るや否や彼女はお時の手から津田の手紙を受け取った。手紙の文句は固より簡単であった。彼女は封を切る手数と殆んど同じ時間で、それを読み下す事が出来た。けれども読んだ後の彼女は、もう読む前の彼女ではなかった。僅(わず)か三行ばかりの言葉は一冊の書物より強く彼女を動かした。一度に外から持って帰った気分に火を点けたその書翰(しょかん)の前に彼女の心は躍った。
「今日病院へ来て不可(いけな)いという意味は何処にあるだろう」
 それでなくっても、もう一遍出直す筈であった彼女は、時間に関(かま)う余裕さえなかった。彼女は台所から膳を運んで来たお時を驚ろかして、すぐ立ち上がった。
「御飯は帰ってからにするよ」
 彼女は今脱いだばかりのコートを又羽織って、門を出た。然し電車通りまで歩いて来た時、彼女の足は、又小路の角で留まった。彼女は何故だか病院へ行くに堪えないような気がした。この様子では行った所で、役に立たないという思慮が不意に彼女に働らき掛けた。
「夫の性質では、とても率直にこの手紙の意味さえ説明しては呉れまい」
 彼女は心細くなって、自分の前を右へ行ったり左へ行ったりする電車を眺めていた。その電車を右へ利用すれば病院で、左へ乗れば岡本の宅であった。いっそ当初の計画をやめて、叔父の所へでも行こうかと考え付いた彼女は、考え付くや否や、すぐその方面に横(よこた)わる困難をも想像した。岡本へ行って想像する以上、彼女は打ち明け話をしなければならなかった。今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝(さら)け出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。今まで隠していた夫婦関係の奥底を、曝け出さなければ、一歩も前へ出る訳には行かなかった。叔父と叔母の前に、自分の眼が利かなかった自白を綺麗にしなければならなかった。お延はまだそれ程の耻を忍ぶまでに事件は逼(せま)っていないと考えた。復活の見込が充分立たないのに、酔興で自分の虚栄心を打ち殺すような正直は、彼女の最も軽蔑する所であった。
 彼女は決しかねて右と左へ少しずつ揺れた。彼女がこんなに迷っているとはまるで気の付かない津田は、この時床の上に起き上って、平気で看護婦の持って来た膳に向いつつあった。先刻お秀から電話の掛った時、既にお延の来訪を予想した彼は、吉川夫人と入れ代りに細君の姿を病室に見るべく暗に心の調子を整えていた所が、その細君は途中から引き返してしまったので、軽い失望の間に、夕食の時間が来るまで、待ち草臥(くたび)れた所為か、看護婦の顔を見るや否や、すぐ話し掛けた。
「漸く飯か。どうも一人でいると日が長くなって困るな」
 看護婦は体(なり)の小さい血色の好くない女であった。然し年頃はどうしても津田に鑑定の付かない妙な顔をしていた。何時でも白い服を着けているのが、猶更彼女を普通の女の群から遠ざけた。津田はつねに疑った。――この人が通常の着物を着る時に、まだ肩上(かたあげ)を付けているだろうか、又は除(と)っているだろうか。彼はいつか真面目にこんな質問を彼女に掛けて見た事があった。その時彼女はにやりと笑って、「私はまだ見習です」と答えたので、津田は大凡(おおよそ)の見当を立てた位であった。
 膳を彼の枕元へ置いた彼女はすぐ下へ降りなかった。
「御退屈さま」と云って、にやにや笑った彼女は、すぐ後を付け足した。
「今日は奥さんはお見えになりませんね」
「うん、来ないよ」
 津田の口の中にはもう焦げた麺麭(パン)が一杯入っていた。彼はそれ以上何も云う事が出来なかった。然し看護婦の方は自由であった。
「その代りのお客さまが入らっしゃいましたね」
「うん。あのお婆さんだろう。随分肥ってるね、あの奥さんは」
 看護婦が悪口の相槌を打つ気色を見せないので、津田は一人で喋舌(しゃべ)らなければならなかった。
「もっと若い綺麗な人が、どんどん見舞に来て呉れると病気も早く癒るんだがね」と云って看護婦を笑わせた彼は、すぐ彼女から冷嘲(ひや)かし返された。
「でも毎日女の方ばかり入らっしゃいますね。余っ程間が可いと見えて」
 彼女は小林の来た事を知らないらしかった。
「昨日入らしった奥さんは大変お綺麗ですね」
「あんまり綺麗でもないよ。あいつは僕の妹だからね。何処か似ているかね、僕と」
 看護婦は似ているとも似ていないとも答えずに、矢っ張りにやにやしていた。

百四十五

 それは看護婦に取って意外な儲け日であった。下痢の気味で何時もの通り診察場に出られなかった医者に、代理を頼まれた彼の友人は、午前の都合を付けて呉れただけで、午後から夜へ掛けての時間には、もう顔を出さなかった。
「今日は当直だから晩には来られないんだそうです」
 彼女はこう云って、不断のような忙がしい様子を何処にも見せずに、ゆっくり津田の膳の前に坐っていた。
 退屈凌ぎに好い相手の出来た気になった津田の舌には締りがなかった。彼は面白半分色々な事を訊いた。
「君の国は何処かね」
「栃木県です」
「成程そう云われて見ると、そうかな」
「名前は何と云ったっけね」
「名前は知りません」
 看護婦は中々名前を云わなかった。津田は其所に発見された抵抗が愉快なので、わざわざ何遍も同じ事を繰り返して訊いた。
「じゃこれから君の事を栃木県、栃木県って呼ぶよ。可いかね」
「ええ可ござんす」
 彼女の名前の頭文字は’つ’であった
「露か」
「いいえ」
「成程露じゃあるまいな。じゃ土か」
「いいえ」
「待ちたまえよ、露でもなし、土でもないとすると。――ははあ、解った。’つや’だろう。でなければ、常か」
 津田はいくらでも出鱈目を云った。云うたびに看護婦は首を振って、にやにや笑った。笑うたびに、津田は又彼女を追窮した。仕舞に彼女の名が’つき’だと判然(わか)った時、彼はこの珍らしい名をまだ弄(もてあそ)んだ。
「お月さんだね、すると。お月さんは好い名だ。誰が命(つ)けた」
 看護婦は返答を与える代りに突然逆襲した。
「あなたの奥さんの名は何と仰しゃるんですか」
「中てて御覧」
 看護婦はわざと二つ三つ女らしい名を並べた後で云った。
「お延さんでしょう」
 彼女は旨く中てた。というよりも、何時の間にかお延の名を聴いて覚えていた。
「お月さんはどうも油断がならないなあ」
 津田がこう云って興じている所へ、本人のお延がひょっくり顔を出したので、振り返った看護婦は驚ろいて、すぐ膳を持ったなり立ち上った。
「ああ、とうとう入らしった」
 看護婦と入れ代りに津田の枕元へ坐ったお延は忽ち津田を見た。
「来ないと思って入らしったんでしょう」
「いやそうでもない。然し今日はもう遅いからどうかとも思っていた」
 津田の言葉に偽りはなかった。お延にはそれを認めるだけの眼があった。けれどもそうすれば事の矛盾は猶募るばかりであった。
「でも先刻手紙をお寄こしになったのね」
「ああ遣ったよ」
「今日来ちゃ不可いと書いてあるのね」
「うん、少し都合の悪い事があったから」
「何故あたしが来ちゃ都合が悪いの」
 津田は漸く気が付いた。彼はお延の様子を見ながら答えた。
「なに何でもないんだ。下らない事なんだ」
「でも、わざわざ使に持たせてお寄こしになる位だから、何かあったんでしょう」
 津田は胡麻化(ごまか)してしまおうとした。
「下らない事だよ。何で又そんな事を気に掛けるんだ。お前も馬鹿だね」
 慰藉(いしゃ)の積で云った津田の言葉は却って反対の結果をお延の上に生じた。彼女は黒い眉を動かした。無言のまま帯の間へ手を入れて、其所から先刻の書翰(しょかん)を取り出した。
「これをもう一遍見て頂戴」
 津田は黙ってそれを受け取った。
「別段何にも書いちゃないじゃないか」と云った時、彼の腹は漸く彼の口を否定した。手紙は簡単であった。けれどもお延の疑いを惹くには充分であった。既に疑われるだけの弱味を有っている彼は、遣り損なったと思った。
「何にも書いてないから、その理由を伺うんです」とお延は云った。
「話して下すっても可いじゃありませんか。折角来たんだから」
「お前はそれを聴きに来たのかい」
「ええ」
「わざわざ?」
「ええ」
 お延は何処まで行っても動かなかった。相手の手剛(てごわ)さを悟った時、津田は偶然好い嘘を思い付いた。
「実は小林が来たんだ」
 小林の二字はたしかにお延の胸に反響した。然しそれだけでは済まなかった。彼はお延を満足させるために、却って其所を説明して遣らなければならなくなった。

百四十六

「小林なんかに逢うのはお前も厭だろうと思ってね。それで気が付いたからわざわざ知らして遣ったんだよ」
 こう云ってもお延はまだ得心した様子を見せなかったので、津田は已を得ず慰藉(いしゃ)の言葉を延ばさなければならなかった。
「お前が厭でないにした所で、おれが厭なんだ、あんな男にお前を合わせるのは。それに彼奴が又お前に聴かせたくないような厭な用事を持ち込んで来たもんだからね」
「あたしの聴いて悪い用事? じゃお二人の間の秘密なの?」
「そんな訳のものじゃないよ」と云った津田は、自分の上に寸分の油断なく据えられたお延の細い眼を見た時に、周章(あわ)てて後を付け足した。
「又金を強乞(せび)りに来たんだ。ただそれだけさ」
「じゃあたしが聴いて何故悪いの」
「悪いとは云やしない。聴かせたくないというまでさ」
「するとただ親切ずくで寄こして下すった手紙なのね、これは」
「まあそうだ」
 今まで夫に見入っていたお延の細い眼が猶細くなると共に、微かな笑が唇を漏れた。
「まあ有難い事」
 津田は澄ましていられなくなった。彼は用意を欠いた文句を択(よ)り除(の)ける余裕を失った。
「お前だって、あんな奴に会うのは厭なんじゃないか」
「いいえ、些とも」
「そりゃ嘘だ」
「どうして嘘なの」
「だって小林は何かお前に云ったそうじゃないか」
「ええ」
「だからさ。それでお前もあいつに会うのは厭だろうと云うんだ」
「じゃ貴方はあたしが小林さんからどんな事を聴いたか知っていらっしゃるの」
「そりゃ知らないよ。だけどどうせ彼奴(あいつ)のことだから碌な事は云やしなかろう。一体どんな事を云ったんだ」
 お延は口へ出かかった言葉を殺してしまった。そうして反問した。
「此所で小林さんは何と仰(おっし)ゃって」
「何とも云やしないよ」
「それこそ嘘です。貴方は隠していらっしゃるんです」
「お前の方が隠しているんじゃないかね。小林から好い加減な事を云われて、それを真に受けていながら」
「そりゃ隠しているかも知れません。貴方が隠し立てをなさる以上、あたしだって仕方がないわ」
 津田は黙った。お延も黙った。二人とも相手の口を開くのを待った。然しお延の辛抱は津田よりも早く切れた。彼女は急に鋭どい声を出した。
「嘘よ、貴方の仰しゃる事はみんな嘘よ。小林なんて人は此所へ来た事も何にもないのに、貴方はあたしを胡麻化そうと思って、わざわざそんな拵え事を仰しゃるのよ」
「拵えたって、別におれの利益になる訳でもなかろうじゃないか」
「いいえ外の人が来たのを隠すために、小林なんて人を、わざわざ引張り出すに極まってるわ」
「外の人? 外の人とは」
 お延の眼は床の上に載せてある楓(かえで)の盆栽に落ちた。
「あれは何方(どなた)が持っていらしったんです」
 津田は失敗(しくじ)ったと思った。何故早く吉川夫人の来た事を自白してしまわなかったかと後悔した。彼が最初それを口にしなかったのは分別の結果であった。話すのに訳はなかったけれども、夫人と相談した事柄の内容が、お延に対する彼を自然臆病にしたので、気の咎める彼は、まあ遠慮して置く方が得策だろうと思案したのである。
 盆栽を振り返った彼が吉川夫人の名を云おうとして、一寸(ちょっと)口籠(くちごも)った時、お延は機先を制した。
「吉川の奥さんが入らしったじゃありませんか」
 津田は思わず云った。
「どうして知ってるんだ」
「知ってますわ。その位の事」
 お延の様子に注意していた津田は漸く度胸を取り返した。
「ああ来たよ。つまりお前の予言が中った訳になるんだ」
「あたしは奥さんが電車に乗って入らしった事までちゃんと知ってるのよ」
 津田は又驚ろいた。ことによると自動車が大通りに待っていたかも知れないと思っただけで、彼は夫人の乗物にそれ以上細かい注意を払わなかった。
「お前何処で会ったのかい」
「いいえ」
「じゃどうして知ってるんだ」
 お延は答える代りに訊き返した。
「奥さんは何しに入らしったんです」
 津田は何気なく答えた。
「そりゃ今話そうと思ってた所だ。――然し誤解しちゃ困るよ。小林はたしかに来たんだからね。最初に小林が来て、その後へ奥さんが来たんだ。だから丁度入れ違になった訳だ」

百四十七

 お延は夫より自分の方が急(せ)き込んでいる事に気が付いた。この調子で乗し掛って行った所で、夫はもう圧(お)し潰されないという見切を付けた時、彼女は自分の破綻(ぼろ)を出す前に身を翻がえした。
「そう、そんならそれでも可いわ。小林さんが来たって来なくったって、あたしの知った事じゃないんだから。その代り吉川の奥さんの用事を話して聴かして頂戴。無論只のお見舞でない事はあたしにも判ってるけれども」
「といった所で、大した用事で来た訳でもないんだよ。そんなに期待していると、又聴いてから失望するかも知れないから、一寸断っとくがね」
「構いません、失望しても。ただ有のままを伺いさえすれば、それで念晴(ねんばら)しになるんだから」
「本来が見舞で、用事は付けたりないんだよ、可いかね」
「可いわ、何方(どっち)でも」
 津田は夫人の齎(もたら)した温泉行の助言だけをごく淡泊(あっさ)り話した。お延にお延流の機略がある通り、彼には彼相当の懸引(かけひき)があるので、都合の悪い所を巧みに省略した、誰の耳にも真卒で合理的な説明が容易(たやす)く彼の口からお延の前に描き出された。彼女は表向それに対して一言の非難を挟(さしは)さむ余地がなかった。
 ただ落ち付かないのは互の腹であった。お延はこの単純な説明を透して、その奥を覗き込もうとした。津田は飽くまでもそれを見せまいと覚悟した。極めて平和な暗闘が度胸比べと技巧比べで演出されなければならなかった。然し守る夫に弱点がある以上、攻める細君にそれだけの強味が加わるのは自然の理であった。だから二人の天賦(てんぷ)を度外に置いて、ただ二人の位地関係から見ると、お延は戦かわない先にもう優者であった。正味の曲直を標準にしても、競り合わない前に、彼女は既に勝っていた。津田にはそういう自覚があった。お延にもこれと略同じ意味で大体の見当が付いていた。
 戦争は、この内部の事実を、そのまま表面へ追い出す事が出来るか出来ないかで、一段落付かなければならない道理であった。津田さえ正直ならばこれ程容易い勝負はない訳でもあった。然し若し一点不正直な所が津田に残っているとすると、これ程又落し悪(にく)い城は決してないという事にも帰着した。気の毒なお延は、否応なしに津田を追い出すだけの武器をまだ造り上げていなかった。向うに開門を逼るより外に何の手段も講じ得ない境遇にある現在の彼女は、結果から見て殆んど無能力者と択(えら)ぶ所がなかった。
 何故心に勝っただけで、彼女は美くしく切り上げられないのだろうか。何故凱歌(がいか)を形の上にまで運び出さなければ気が済まないのだろうか。今の彼女にはそんな余裕がなかったのである。この勝負以上に大事なものがまだあったのである。第二第三の目的をまだ後に控えていた彼女は、此所を突き破らなければ、その後をどうする訳にも行かなかったのである。
 それのみか、実をいうと、勝負は彼女に取って、一義の位をもっていなかった。本当に彼女の目指す所は、寧ろ真実相であった。夫に勝つよりも、自分の疑を晴らすのが主眼であった。そうしてその疑いを晴らすのは、津田の愛を対象に置く彼女の生存上、絶対に必要であった。それ自身が既に大きな目的であった。殆んど方便とも手段とも云われない程重い意味を彼女の眼先へ突き付けていた。
 女は前後の関係から、思量分別の許す限り、全身を挙げて其所へ拘泥(こだわ)らなければならなかった。それが彼女の自然であった。然し不幸な事に、自然全体は彼女よりも大きかった。彼女の遥か上にも続いていた。公平な光りを放って、可憐な彼女を殺そうとしてさえ憚からなかった。
 彼女が一口拘泥(こだわ)るたびに、津田は一足彼女から退ぞいた。二口拘泥れば、二足退いた。拘泥るごとに、津田と彼女の距離はだんだん増して行った。大きな自然は、彼女の小さい自然から出た行為を、遠慮なく蹂躙(じゅうりん)した。一歩ごとに彼女の目的を破壊して悔いなかった。彼女は暗に其所へ気が付いた。けれどもその意味を悟る事は出来なかった。彼女はただそんな筈はないとばかり思い詰めた。そうして遂にまた心の平静を失った。
「あたしがこれ程貴方の事ばかり考えているのに、貴方はちっとも察して下さらない」
 津田は遣り切れないという顔をした。
「だからおれは何(なん)にもお前を疑(うたぐ)ってやしないよ」
「当り前ですわ。この上貴方に疑ぐられる位なら、死んだ方が余っ程増しですもの」
「死ぬなんて大袈裟な言葉は使わないでも可いやね。第一何にもないじゃないか、何処にも。もしあるなら云って御覧な。そうすればおれの方でも弁解もしようし、説明もしようけれども、初手から根のない苦情じゃ手の付けようがないじゃないか」
「根は貴方のお腹の中にある筈ですわ」
「困るなそれだけじゃ。――お前小林から何かしゃくられたね。屹度そうに違ない。小林が何を云ったか其所で話して御覧よ。遠慮は要らないから」

百四十八

 津田の言葉つきなり様子なりからして、お延は彼の心を明瞭に推察する事が出来た。――夫は彼の留守に小林の来た事を苦にしている。その小林が自分に何を話したかを猶気に病んでいる。そうしてその話の内容は、まだ判然[掴](つか)んでいない。だから鎌を掛けて自分を釣り出そうとする。
 其所に明らかな秘密があった。材料として彼女の胸に蓄わえられて来たこれまでの一切は、疑もなく矛盾もなく、悉く同じ方角に向って注ぎ込んでいた。秘密は確実であった。青天白日のように明らかであった。同時に青天白日と同じ事で、何処にもその影を宿さなかった。彼女はそれを見詰めるだけであった。手を出す術を知らなかった。
 悩乱のうちにまだ一分(いちぶん)の商量を余した利巧な彼女は、夫の掛けた鎌を外さずに、すぐ向うへ掛け返した。
「じゃ本当を云いましょう。実は小林さんから詳しい話をみんな聴いてしまったんです。だから隠したってもう駄目よ。貴方も随分非道(ひど)い方ね」
 彼女の云い草は殆んど出鱈目に近かった。けれどもそれを口にする気持からいうと、全くの真剣沙汰と何の異なる所はなかった。彼女は熱を籠めた語気で、津田を「非道い方」と呼ばなければならなかった。
 反響はすぐ夫の上に来た。津田はこの出鱈目に退避(たじ)ろぐ気色を見せた。お秀の所で遣り損(そく)なった苦い経験にも懲りず、又同じ冒険を試みたお延の度胸は酬いられそうになった。彼女は一躍して進んだ。
「何故こうならない前に、打ち明けて下さらなかったんです」
「こうならない前」という言葉は曖昧であった。津田はその意味を捕捉するに苦しんだ。肝心のお延には猶解らなかった。だから訊かれても説明しなかった。津田はただぼんやりと念を押した。
「まさか温泉へ行くことをいうんじゃあるまいね。それが不都合だと云うんなら、已めても構わないが」
 お延は意外な顔をした。
「誰がそんな無理をいうもんですか。会社の方の都合が付いて、病後の身体を回復する事が出来れば、それ程結構な事はないじゃありませんか。それが悪いなんて無茶苦茶を云い募るあたしだと思っていらっしゃるの、馬鹿らしい。ヒステリーじゃあるまいし」
「じゃ行っても可いかい」
「よござんすとも」と云った時、お延は急に袂から手帛(ハンケチ)を出して顔へ当てたと思うと、しくしく泣き出した。あとの言葉は、啜り上げる声の間から、句をなさずに、途切れ途切れに、毀(こわ)れ物のような形で出て来た。
「いくらあたしが、……我儘(わがまま)だって、……貴方の療養の……邪魔をするような、……そんな……あたしは不断からあなたがあたしに許して下さる自由に対して感謝の念を有っているんです……のにあたしがあなたの転地療養を……妨げるなんて・・・…」
 津田は漸く安心した。けれどもお延にはまだ先があった。発作が静まると共に、その先は比較的すらすら出た。
「あたしはそんな小さな事を考えているんじゃないんです。いくらあたしが女だって馬鹿だって、あたしには又あたしだけの体面というものがあります。だから女なら女なり、馬鹿なら馬鹿なりに、その体面を維持して行きたいと思うんです。もしそれを毀損(きそん)されると……」
 お延はこれだけ云い掛けて又泣き出した。あとは又切れ切れになった。
「万一……もしそんな事があると……岡本の叔父に対しても……叔母に対しても・…面目なくて、合す顔がなくなるんです。……それでなくっても、あたしはもう秀子さんなんぞから馬鹿にされ切っているんです。……それを貴方は傍で見ていながら、……済まして……済まして……知らん顔をしていらっしゃるんです」
 津田は急に口を開いた。
「お秀がお前を馬鹿にしたって? 何時? 今日お前が行った時にかい」
 津田は我知らず飛んでもない事を云ってしまった。お延が話さない限り、彼はその会見を知る筈がなかったのである。お延の眼は果して閃めいた。
「それ御覧なさい。あたしが今日秀子さんの所へ行った事が、貴方にはもうちゃんと知れているじゃありませんか」
「お秀が電話を掛けたよ」という返事がすぐ津田の咽喉から外へ滑り出さなかった。彼は云おうか止そうかと思って迷った。けれども時に一寸(いっすん)の容赦もなかった。反吐(へど)もどしていればいる程形勢は危うくなるだけであた。彼は殆んど行き詰った。然し間髪を容れずという際どい間際に、旨い口実が天から降って来た。
「車夫(くるまや)が帰って来てそう云ったもの。大方お時が車夫に話したんだろう」
 幸いお延がお秀の後を追懸(おっか)けて出た事は、下女にも解っていた。偶発の言訳が偶中の功(ぐうちゅうのこう)を奏した時、津田は再度の胸を撫で下した。

百四十九

 遮二無二(しゃにむに)津田を突き破ろうとしたお延は立ち留った。夫がそれ程自分を胡麻化していたのでないと考える拍子に気が抜けたので、一息に進むつもりの彼女は進めなくなった。津田は其所を覘(ねら)った。
「お秀なんぞ何を云ったって構わないじゃないか。お秀はお秀、お前はお前なんだから」
 お延は答えた。
「そんなら小林なんぞがあたしに何を云ったって構わないじゃありませんか。貴方は貴方、小林は小林なんだから」
「そりゃ構わないよ。お前さえ確かりしていて呉れれば。ただ疑ぐりだの誤解だのを起して、それを無暗に振り廻されると迷惑するから、此方だって黙っていられなくなるだけさ」
「あたしだって同じ事ですわ。いくらお秀さんが馬鹿にしようと、いくら藤井の叔母さんが疎外しようと、貴方さえ確かりしていて下されば、苦になる筈はないんです。それを肝心の貴方が……」
 お延は行き詰った。彼女には明瞭な事実がなかった。従って明瞭な言葉が口へ出て来なかった。そこを津田が又一掬(ひとすく)い掬った。
「大方お前の体面に関わるような不始末でもすると思ってるんだろう。それよりか、もう少しおれに憑(よ)り掛って安心していたら可いじゃないか」
 お延は急に大きな声を掲げた。
「あたしは憑り掛りたいんです。安心したいんです。どの位憑り掛りたがっているか、貴方には想像が付かない位、憑り掛りたいんです」
「想像が付かない?」
「ええ、まるで想像が付かないんです。もし付けば、貴方も変って来なくっちゃならないんです。付かないから、そんなに澄ましていらっしゃられるんです」
「澄ましてやしないよ」
「気の毒だとも可哀相だとも思って下さらないんです」
「気の毒だとも、可哀相だとも……」
 これだけ繰り返した津田は一旦塞(つか)えた。その後で継ぎ足した文句は寧ろ蹣跚(まんさん)として揺めいていた。
「思って下さらないったって。――いくら思おうと思っても。――思うだけの因縁があれば、いくらでも思うさ。然しなけりゃ仕方がないじゃないか」
 お延の声は緊張のために顫(ふる)えた。
「あなた。あなた」
 津田は黙っていた。
「どうぞ、あたしを安心させて下さい。助けると思って安心させて下さい。貴方以外にあたしは憑り掛り所のない女なんですから。あなたに外されると、あたしはそれぎり倒れてしまわなければならない心細い女なんですから。だからどうぞ安心しろと云って下さい。たった一口で可いから安心しろと云って下さい」
 津田は答えた。
「大丈夫だよ。安心おしよ」
「本当?」
「本当に安心おしよ」
 お延は急に破裂するような勢で飛びかかった。
「じゃ話して頂戴。どうぞ話して頂戴。隠さずにみんな此所で話して頂戴。そうして一思いに安心させて頂戴」
 津田は面喰った。彼の心は波のように前後へ揺(うご)き始めた。彼はいっその事思い切って、何もかもお延の前に浚(さら)け出してしまおうかと思った。と共に、自分はただ疑がわれているだけで、実証を握られているのではないとも推断した。もしお延が事実を知っているなら、此所まで押して来て、それを彼の顔に叩き付けない筈はあるまいとも考えた。
 彼は気の毒になった。同時に逃げる余地は彼にまだ残っていた。道義心と利害心が高低を描いて彼の心を上下(うえした)へ動かした。するとその片方に温泉行の重みが急に加わった。約束を断行する事は吉川夫人に対する彼の義務であった。必然から起る彼の要求でもあった。少くともそれを済ますまで打ち明けずにいるのが得策だという気が勝を制した。
「そんなくだくだしい事を云ってたって、お互いに顔を赤くするだけで、際限がないから、もう止そうよ。その代りおれが受け合ったら可いだろう」
「受け合うって」
「受け合うのさ。お前の体面に対して、大丈夫だという証書を入れるのさ」
「どうして」
「どうしてって、外に証文の入れようもないから、ただ口で誓うのさ」
 お延は黙っていた。
「つまりお前がおれを信用すると云いさえすれば、それ可いんだ。万一の場合が出て来た時は引き受けて下さいって云えば可いんだ。そうすればおれの方じゃ、よろしい受け合ったと、こう答えるのさ。どうだねその辺の所で妥協は出来ないかね」

百五十

 妥協という漢語がこの場合如何に不釣合に聞こえようとも、その時の津田の心事を説明するには極めて穏当であった。実際この言葉によって代表される最も適切な意味が彼の肚(はら)にあった事は慥であった。明敏なお延の眼にそれが映った時、彼女の昂奮は漸く喰い留められた。感情の潮(うしお)がまだ上りはしまいかという懸念で、暗に頭を悩ませていた津田は助かった。次の彼には喰い留めた潮の勢を、反対な方向へ逆用する手段を講ずるだけの余裕が出来た。彼はお延を慰めにかかった。彼女の気に入りそうな文句を多量に使用した。沈着な態度を外部側(そとがわ)に有っている彼は、又臨機に自分を相手なりに順応させて行く巧者も心得ていた。彼の努力は果して空しくなかった。お延は久し振に結婚以前の津田を見た。婚約当時の記憶が彼女の胸に蘇えった。
「夫は変ってるんじゃなかった。やっぱり昔の人だったんだ」
 こう思ったお延の満足は、津田を窮地から救うに充分であった。暴風雨になろうとして、なり損ねた波瀾は漸く収まった。けれども事前の夫婦は、もう事後の夫婦ではなかった。彼等は何時の間にか吾知らず相互の関係を変えていた。
 波瀾の収まると共に、津田は悟った。
「畢竟(ひっきょう)女は慰撫(いぶ)し易いものである」
 彼は一場の風波が彼に齎(もたら)したこの自信を抱いてひそかに喜こんだ。今までの彼は、お延に対するごとに、苦手の感を何処かに起さずにいられた事がなかった。女だと見下ろしながら、底気味の悪い思いをしなければならない場合が、日毎に現前した。それは彼女の直覚であるか、又は直覚の活作用とも見傚(みな)される彼女の機略であるか、或はそれ以外の或物であるか、慥かな解剖は彼にもまだ出来ていなかったが、何しろ事実は事実に違いなかった。しかも彼自身自分の胸に畳み込んで置くぎりで、未だ嘗て他(ひと)に洩らした事のない事実に違いなかった。だから事実と云い条、その実は一個の秘密でもあった。それならば何故彼がこの明白な事実をわざと秘密に附していたのだろう。簡単に云えば、彼はなるべく己れを尊く考がえたかったからである。愛の戦争という眼で眺めた彼等の夫婦生活に於て、何時(いつ)でも敗者の位地に立った彼には、彼でまた相当の慢心があった。ところがお延のために征服される彼は已(やむ)を得ず征服されるので、心から帰服するのではなかった。堂々と愛の擒(とりこ)になるのではなくって、常に騙し打に会っているのであった。お延が夫の慢心を挫く所に気が付かないで、ただ彼を制服する点に於てのみ愛の満足を感ずる通りに、負けるのが嫌な津田も、残念だとは思いながら、力及ばず組み敷かれるたびに降参するのであった。この特殊な関係を、一夜の苦説(くぜつ)が逆にして呉れた時、彼のお延に対する考えは変るのが至当であった。彼は今までこれ程猛烈に、又真正面に、上手(うわて)を引く様に見えて、実は偽りのない下手(しって)に出たお延という女を見た例(ためし)がなかった。弱点を抱いて逃げまわりながら彼は始めてお延に勝つ事が出来た。結果は明瞭であった。彼は漸く彼女を軽蔑する事が出来た。同時に以前よりは余計に、彼女に同情を寄せる事が出来た。
 お延にはまたお延で波瀾後の変化が起りつつあった。今まで曾てこういう態度で夫に向った事のない彼女は、一気に津田の弱点を衝く方に心を奪われ過ぎたため、ついぞ露(あら)わした事のない自分の弱点を、却って夫に示してしまったのが、何より先に残念の種になった。夫に愛されたいばかりの彼女には平常からわが腕に依頼する信念があった。自分は自分の見識を立て通して見せるという覚悟があった。勿論(もちろん)その見識は複雑とは云えなかった。夫の愛が自分の存在上、如何に必要であろうとも、頭を下げて憐(あわれ)みを乞うような見苦しい真似は出来ないという意地に過ぎなかった。もし夫が自分の思う通り自分を愛さないならば、腕の力で自由にして見せるという堅い決心であった。のべつにこの決心を実行して来た彼女は、詰りのべつに緊張していると同じ事であった。そうしてその緊張の極度は何処かで破裂するに極っていた。破裂すれば、自分で自分の見識を打(ぶ)ち壊すのと同じ結果に陥いるのは明瞭であった。不幸な彼女はこの矛盾に気が付かずに邁進(まいしん)した。それでとうとう破裂した。破裂した後で彼女は漸く悔いた。仕合せな事に自然は思ったより残酷でなかった。彼女は自分の弱点を浚(さら)け出すと共に一種の報酬を得た。今までどんなに勝ち誇っても物足りた例のなかった夫の様子が、少し変った。彼は自分の満足する見当に向いて一歩近づいて来た。彼は明らかに妥協という字を使った。その裏に彼女の根限(こんかぎ)り堀り返そうと力(つと)めた秘密の滞在する事を暗に自白した。自白? 彼女は能く自分に念を押して見た。そうしてそれが黙認に近い自白に違いないという事を確かめた時、彼女は口惜(くや)しがると同時に喜こんだ。彼女はそれ以上夫を押さなかった。津田が彼女に対して気の毒という念を起したように、彼女もまた津田に対して気の毒という感じを持ち得たからである。
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