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明 暗(2)
夏目漱石 

三十一

「大分八釜(やかま)しくなって来たね。黙って聞いていると、叔母甥の対話とは思えないよ」
 二人の間にこう云って割り込んで来た叔父はその実行司でも審判官でもなかった。
「何だか双方敵愾心(てきがいしん)を以て云い合ってるようだが、喧嘩でもしたのかい」
 彼の質問は、単に質問の形式を具えた注意に過ぎなかった。真事を相手にビー珠を転がしていた小林がぬすむようにして此方を見た。叔母も津田も一度に黙ってしまった。叔父は遂に調停者の態度で口を開かなければならなくなった。
「由雄、御前みたような今の若いものには、一寸理解出来悪(にく)いかも知れないがね、叔母さんは嘘を吐いてるんじやないよ。知りもしない己の所へ来るとき、もうちやんと覚悟を極めていたんだからね。叔母さんは本当に来ない前から来た後と同じように真面目だったのさ」
「そりや僕だって伺わないでも承知しています」
「ところがさ、その叔母さんがだね。どういう訳でそんな大決心をしたかというとだね」
 そろそろ酔の廻った叔父は、火熱った顔へ水分を供給する義務を感じた人のように、又洋盃(コップ)を取り上げて麦酒をぐいと飲んだ。
「実を云うとその訳を今日までまだ誰にも話した事がないんだが、どうだ一つ話して聞かせようか」
「ええ」
 津田も半分は真面目であった。
「実はだね。この叔母さんはこれでこの己に意があったんだ。つまり初めから己の所へ来たかったんだね。だからまだ来ないうちから、もう猛烈に自分の覚悟を極めてしまったんだ――。」
「馬鹿な事を仰ゃい。誰が貴方のような醜男(ぶおとこ)に意なんぞあるもんですか」
 津田も小林も吹き出した。独りきょとんとした真事は叔母の方を向いた。
「お母さん意があるって何」
「お母さんは知らないからお父さんに伺って御覧」
「じやお父さん、何さ、意があるってのは」
 叔父はにやにやしながら、禿げた頭の真中を大事そうに撫で廻した。気の所為かその禿が普通の時よりは少し赤いように、津田の眼に映った。
「真事、意があるってえのはね。──つまりそのね。──まあ、好きなのさ」
「ふん。じや好いじやないか」
「だから誰も悪いと云ってやしない」
「だって皆な笑うじやないか」
 この問答の途中へお金さんが丁度帰って来たので、叔母はすぐ真事の床を敷かして、彼を寝間の方へ追い遣った。興に乗った叔父の話は益(ますます)発展するばかりであった。
「そりゃ昔しだって恋愛事件はあったよ。いくらお朝が怖い顔をしたってあったに違ないが、だね。其所にまた今の若いものには到底解らない方面もあるんだから、妙だろう。昔は女の方で男に惚れたけれども、男の方では決して女に惚れなかったもんだ。──ねえお朝そうだったろう」
「どうだか存じませんよ」
 叔母は真事の立った後へ坐って、さっさと松茸飯を手盛にして食べ始めた。
「そう怒ったって仕方がない。某所に事実があると同時に、一種の哲学があるんだから。今己がその哲学を講釈してやる」
「もうそんなむずかしいものは、伺わなくっても沢山です」
「じや若いものだけに教えてやる。由雄も小林も参考のために能く聴いとくが可い。一体お前達は他の娘を何だと思う」
「女だと思ってます」
 津田は交ぜ返し半分わざと返事をした。
「そうだろう。ただ女だと思うだけで、娘とは思わないだろう。それが己達とは大違いだて。己達は父母から独立したただの女として他人の娘を眺めた事が曾てない。だから何処のお嬢さんを拝見しても、そのお嬢さんには、父母という所有者がちゃんと食っ付いてるんだと始めから観念している。だからいくら惚れたくっても惚れられなくなる義理じゃないか。何故と云って御覧、惚れるとか愛し合うとかいうのは、つまり相手を此方が所有してしまうという意味だろう。既に所有権の付いてるものに手を出すのは泥棒じゃないか。そういう訳で義理堅い昔の男は決して惚れなかったね。尤も女は慥(たし)かに惚れたよ。現に其所で松茸飯を食ってるお朝なぞも実は己に惚れたのさ。然し己の方じゃかつて彼女を愛した覚がない」
「どうでも可いから、もう好い加減にして御飯になさい」
 真事を寐かし付けに行ったお金さんを呼び返した叔母は、彼女にいいつけて、みんなの茶碗に飯をよそわせた。津田は仕方なしに、ひとり不味い食麺麭(しょくパン)をにちゃにちゃ噛んだ。

三十二

 食後の話はもうはずまなかった。と云って、別にしんみりした方面へ落ちて行くでもなかった。人々の興味を共通に支配する題目の柱が折れた時のように、彼等はてんでんばらばらに口を開いた後で、誰もそれを会話の中心に纏めようと努力するもののないのに気が付いた。
 餉台の上に両肱を突いた叔父が酔後の欠を続けざまに二つした。叔母が下女を呼んで残物を勝手へ運ばした。先刻から重苦しい空気の影響を少しずつ感じていた津田の胸に、今夜聞いた叔父の言葉が、月の面を過ぎる浮雲のように、時々薄い陰を投げた。そのたびに他人から見ると、麦酒(ビール)の泡と共に消えてしまうべき筈の言葉を、津田は却って意味ありげに自分で追い掛けて見たり、又自分で追い戻して見たりした。其所に気の付いた時、彼は我ながら不愉快になった。
 同時に彼は自分と叔母との間に取り換わされた言葉の投げ合も思い出さずにはいられなかった。その投げ合の間、彼は始終自分を抑え付けて、成るべく心の色を外へ出さないようにしていた。其所に彼の誇りがあると共に、其所に一種の不快も潜んでいたことは、彼の気分が彼に教える事実であった。
 半日以上の暇を潰したこの久し振の訪問を、単にこういう快不快の立場から眺めた津田は、すぐその対照として活溌な吉川夫人とその綺麗な応接間とを記憶の舞台に躍らした。つづいて近頃漸く丸髷に結い出したお延の顔が眼の前に動いた。
 彼は座を立とうとして小林を顧みた。
「君はまだいるかね」
「いや。僕ももう御暇しよう」
 小林はすぐ吸い残した敷島の袋を洋袴の隠袋(かくし)へねじ込んだ。すると彼等の立ち際に、叔父が偶然らしく又口を開いた。
「お延はどうしたい。行こう行こうと思いながら、つい貧乏暇なしだもんだから、御無沙汰をしている。宜しく云って呉れ。お前の留守にや閑で困るだろうね、あの女も。一体何をして暮してるかね」
「何って別にする事もないでしょうよ」
 こう散慢に答えた津田は、何と思ったか急に後から付け足した。
「病院へ一所に入りたいなんて気楽な事をいうかと思うと、やれ髪を刈れの湯に行けのって、叔母さんよりも余っ程やかましい事を云いますよ」
「感心じゃないか。お前のようなお酒落にそんな注意をしてくれるものは外にありやしないよ」
「有難い仕合せだな」
「芝居はどうだい。近頃行くかい」
「ええ時々行きます。この間も岡本から誘われたんだけれども、生憎(あいにく)この病気の方の片を付けなけりやならないんでね」
 津田は某所で一寸叔母の方を見た。
「どうです、叔母さん、近い内帝劇へでも御案内しましょうか。偶にゃああいう所へ行って見るのも薬ですよ、気がはればれしてね」
「ええ有難う。だけど由雄さんの御案内じゃ──」
「お厭ですか」
「厭より、何時の事だか分らないからね」
 芝居場などを余り好まない叔母のこの返事を、わざと正面に受けた津田は頭を掻いて見せた。
「そう信用がなくなった日にゃ僕もそれまでだ」
 叔母はふふんと笑った。
「芝居はどうでも可いが、由雄さん京都の方はどうして、それから」
「京都から何とか云って来ましたか此方へ」
 津田は少し真剣な表情をして、叔父と叔母の顔を見比べた。けれども二人は何とも答えなかった。
「実は僕の所へ今月は金を送れないから、そっちでどうでも為ろって、お父さんが云って来たんだが、随分乱暴じゃありませんか」
 叔父は笑うだけであった。
「兄貴は怒ってるんだろう」
「一体お秀が又余計な事を云って遺るから不可い」
 津田は少し忌々しそうに妹の名前を口にした。
「お秀に咎はありません。始めから由雄さんの方が悪いに極ってるんだもの」
「そりやそうかも知れないけれども、何処の国にあなた阿爺(おやじ)から送って貫った金を、きちんきちん返す奴があるもんですか」
「じゃ最初からきちんきちん返すって約東なんかしなければ可いのに。それに……」
「もう解りましたよ、叔母さん」
 津田はとても敵わないという心持をその様子に見せて立ち上がった。然し敗北の結果急いで退却する自分に景気を添えるため、促がすように小林を引張って、一所に表へ出る事を忘れなかった。

三十三

 戸外には風もなかった。静かな空気が足早に歩く二人の頬に冷たく触れた。星の高く輝く空から、眼に見えない透明な露がしとしと降りているらしくも思われた。津田は自分で外套の肩を撫でた。その外套の裏側に滲み込んでくるひんやりした感じを、はっきり指先で味わってみた彼は小林を顧みた。
「日中は暖かだが、夜になると矢張り寒いね」
「うん。何と云ってももう秋だからな。実際外套が欲しい位だ」
 小林は新調の三つ揃いの上に何にも着ていなかった。ことさらに爪先を厚く四角に拵(こしら)えたいかつい亜米利加型の靴をごとごと鳴らして、太い洋杖をわざとらしく振り廻す彼の態度はまるで冷たい空気に抵抗する示威運動者に異ならなかった。
「君学校にいた時分作ったあの自慢の外套はどうした」
 彼は突然意外な質問を津田に掛けた。津田は彼にその外套を見せびらかした当時を思い出さない訳に行かなかった。
「うん、まだあるよ」
「まだ着ているのか」
「いくら僕が貧乏だって、書生時代の外套を、そう大事そうに何時まで着ているものかね」
「そうか、それじや丁度好い。あれを僕に呉れ」
「欲しければ遣っても好い」
 津田は寧ろ冷やかに答えた。靴足袋まで新らしくしている男が、他の着古した外套を貰いたがるのは少し矛盾であった。少くとも、その人の生活に横わる、不規則な物質的の凸凹を証拠立てていた。しばらくしてから、津田は小林に訊いた。
「何故その背広と一所に外套も拵えなかったんだ」
「君と同なじように僕を考えちゃ困るよ」
「じゃどうしてその背広だの靴だのが出来たんだ」
「訊き方が少し手酷し過ぎるね。なんぼ僕だってまだ泥棒はしないから安心して呉れ」
 津田はすぐ口を閉じた。
 二人は大きな坂の上に出た。広い谷を隔てて向に見える小高い岡が、怪獣の背のように黒く長く横わっていた。秋の夜の燈火が所々に点々と少量の暖かみを滴らした。
「おい、帰りに何処かで一杯遺ろうじやないか」
 津田は返事をする前に、まず小林の様子を窺った。彼等の右手には高い土手があって、その土手の上には蓊欝(こんもり)した竹藪が一面に生い被さっていた。風がないので竹は鳴らなかったけれども、眠ったように見えるその笹の葉の梢は、季節相応な蕭索の感じを津田に与えるに充分であった。
「此所は厭に陰気な所だね。何処かの大名華族の裏に当るんで、何時までもこうして放ってあるんだろう。早く切り開いちまえば可いのに」
 津田はこういって当面の挨拶を胡麻化そうとした。然し小林の眼に竹藪なぞはまるで入らなかった。
「おい行こうじゃないか、久し振で」
「今飲んだばかりだのに、もう飲みたくなったのか」
「今飲んだばかりって、あれっぱかり飲んだんじゃ飲んだ部へ入らないからね」
「でも君はもう充分ですって断っていたじやないか」
「先生や奥さんの前じゃ遠慮があって酔えないから、仕方なしにああ云ったんだね。まるっきり飲まないんなら兎も角もあの位飲ませられるのは却って毒だよ。後から適当の程度まで酔って置いて止めないと身体に障るからね」
 自分に都合の好い理窟を勝手に拵らえて、何でも津田を引張ろうとする小林は、彼に取って少し迷惑な伴侶であった。彼は冷かし半分に訊いた。
「君が奢るのか」
「うん奢っても好い」
「そうして何処へ行く積なんだ」
「何処でも構わない。おでん屋でも可いじやないか」
 二人は黙って坂の下まで降りた。

三十四

 順路からいうと、津田は某所を右へ折れ、小林は真直に行かなければならなかった。然し体よく分れようとして帽子へ手を掛けた津田の顔を、小林は覗き込むように見て云った。
「僕も其方へ行くよ」
 彼等の行く方角には飲み食いに都合のいい町が二三町続いていた。その中程にある酒場めいた店の硝子戸が、暖かそうに内側から照らされているのを見付けた時、小林はすぐ立ち留まった。
「此所が好い。此所へ入ろう」
「僕は厭だよ」
「君の気に入りそうな上等の宅は此所いらにないんだから、此所で我慢しようじやないか」
「僕は病気だよ」
「構わん、病気の方は僕が受け合ってやるから、心配するな」
「冗談云うな。厭だよ」
「細君には僕が弁解してやるから可いだろう」
 面倒になった津田は、小林を某所へ置き去りにしたまま、さっさと行こうとした。すると彼とすれすれに歩を移して来た小林が、少し改まった口調で追究した。
「そんなに厭か、僕と一所に酒を飲むのは」
 実際そんなに厭であった津田は、この言葉を聞くとすぐ留まった。そうして自分の傾向とはまるで反対な決断を外部へ現わした。
「じゃ飲もう」
 二人はすぐ明るい硝子戸を引いて中へ入った。客は彼等の外に五六人居たぎりであったが、店があまり広くないので、比較的込み合っているように見えた。割合楽に席の取れそうな片隅を択んで、差し向いに腰を卸ろした二人は、通した注文の来る間、多少物珍らしそうな眼を周囲へ向けた。
 服装から見た彼等の相客中に、社会的地位のありそうなものは一人もなかった。湯帰りと見えて、縞の半纏(はんてん)の肩へ濡れ手拭を掛けたのだの、木綿物に色帯を締めて、わざとらしく平打の羽織の紐の真中ヘ擬物(まがいもの)の翡翠(ひすい)を通したのだのは寧ろ上等の部であった。ずっと非道(ひど)いのは、まるで紙屑買としか見えなかった。腹掛股引も一人交っていた。
「どうだ平民的で可いじゃないか」
 小林は津田の猪ロへ酒を注ぎながらこう云った。その言葉を打ち消すような新調したての派出な彼の背広が、すぐ殊更らしく津田の眼に映ったが、彼自身はまるで某所に気が付いていないらしかった。
「僕は君と違ってどうしても下等社会の方に同情があるんだからな」
 小林は恰もそこに自分の兄弟分でも揃っているような顔をして、一同を見廻した。
「見たまえ。彼等はみんな上流社会より好い人相をしているから」
 挨拶をする勇気のなかった津田は、一同を見廻す代りに、却って小林を熟視した。小林はすぐ譲歩した。
「少くとも陶然としているだろう」
「上流社会だって陶然とするからな」
「だが陶然どしがたが違うよ」
 津田は昂然として両者の差違を訊かなかった。それでも小林は少しも悄気ずに、ぐいぐい杯を重ねた。
「君はこういう人間を軽蔑しているね。同情に価しないものとして、始めから見縊っているんだ」
 こういうや否や、彼は津田の返事も待たずに、両うにいる牛乳配達みたような若ものに声を掛けた。
「ねえ君。そうだろう」
 出し抜けに呼び掛けられた若者は倔強な頸筋を曲げて一寸此方を見た。すると小林はすぐ杯をそっちの方へ出した。
「まあ君一杯飲みたまえ」
 若者はにやにやと笑った。不幸にして彼と小林との間には一間程の距離があった。立って杯を受ける程の必要を感じなかった彼は、微笑するだけで動かなかった。しかしそれでも小林には満足らしかった。出した杯を引込めながら、自分の口へ持って行った時、彼は又津田に云った。
「そらあの通りだ。上流社会のように高慢ちきな人間は一人も居やしない」

三十五

 インヴァネスを着た小作りな男が、半纏の角刈と入れ違に這入って来て、二人から少し隔った所に席を取った。廂を深く卸ろした鳥打を被ったまま、彼は一応ぐるりと四方を見廻した後で、懐へ手を入れた。そうして某所から取り出した古い小型の帳面を開けて、読むのだか考えるのだか、じっと見詰めていた。彼は何時まで経っても、古ぼけたトンビを脱ごうとしなかった。帽子も頭へ載せたままであった。然し帳面はそんなに長くひろげていなかった。大事そうにそれを懐へ仕舞うと、今度は飲みながら、じろりじろりと他の客を、見ない様にして見始めた。その相間々々には、ちんちくりんな外套の羽根の下から手を出して、薄い鼻の下の髭を撫でた。
 先刻から気を付けるともなしにこの様子に気を付けていた二人は、自分達の視線が彼の視線に行き合った時、ぴたりと真向になって互に顔を見合せた。小林は心持前へ乗り出した。
「何だか知ってるか」
 津田は元の通りの姿勢を崩さなかった。殆んど返事に価しないという口調で答えた。
「何だか知るもんか」
 小林は猶(なお)声を低くした。
「彼奴は探偵だぜ」
 津田は答えなかった。相手より酒量の強い彼は、却って相手程平生を失わなかった。黙って自分の前にある猪口を干した。小林はすぐそれへなみなみと注いだ。
「あの眼付を見ろ」
 薄笑いをした津田は漸く口を開いた。
「君みたいに無暗に上流社会の悪口をいうと、早速社会主義者と間違えられるぞ。少し用心しろ」
「社会主義者?」
 小林はわざと大きな声を出して、ことさらにインヴァネスの男の方を見た。
「笑わかせやがるな。此方や、こう見えたって、善良なる細民の同情者だ。僕に比べると、乙に上品振って取り繕ろってる君達の方が余っ程の悪者だ。何方が警察へ引っ張られて然るべきだか能く考えて見ろ」
 鳥打の男が黙って下を向いているので、小林は津田に喰ってかかるより外に仕方がなかった。
「君はこうした土方や人足をてんから人間抜いにしない積かも知れないが」
 小林は又こう云い掛けて、其所いらを見廻したが、生憎どこにも土方や人足はいなかった。それでも彼は一向構わずに喋舌(しゃべ)りつづけた。
「彼等は君や探偵よりいくら人間らしい崇高な生地をうぶのまま有ってるか解らないぜ。ただその人間らしい美しさが、貧苦という塵埃(ほこり)で汚れているだけなんだ。つまり湯に入れないから穢(きた)ないんだ。馬鹿にするな」
 小林の語気は、貧民の弁護というよりも寧ろ自家の弁護らしく聞こえた。然し無暗に取り合って此方の対面を傷けられては困るという用心が頭に働くので、津田はわざと議論を避けていた。すると小林がなお追懸て来た。
「君は黙ってるが僕のいう事を信じないね。たしかに信じない顔付をしている。そんなら僕が説明してやろう。君は露西亜の小説を読んだろう」
 露西亜の小説を一冊も読んだ事のない津田は矢張何とも云わなかった。
「露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってる筈だ。如何に人間が下賎であろうとも、又如何に無教育であろうとも、時としてその人の目から、涙がこぼれる程有難い、そうして少しも取り繕わない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってる筈だ。君はあれを虚偽と思うか」
「僕はドストエヴスキを読んだ事がないから知らないよ」
「先生に訊くと、先生はありゃ嘘だと云うんだ。あんな高尚な情操をわざと下劣な器に盛って、感傷的に読者を刺戟する策略に過ぎない、つまりドストエヴスキが中たった為に、多くの模倣者が続出して、無暗に安っぼくしてしまった一種の芸術的技巧に過ぎないというんだ。然し僕はそうは思わない。先生からそんな事を聞くと腹が立つ。先生にドストエヴスキは解らない。いくら年齢を取ったって、先生は書物の上で年齢を取っただけだ。いくら若かろうが僕は……」
 小林の言葉は段々逼って来た。仕舞に彼は感慨に堪えんという顔をして、涙をぼたぼた卓布(テーブルクロス)の上に落した。

三十六

 不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれる程の酔が廻っていなかった。同化の埒外(らちがい)からこの興奮状態を眺める彼の眼は遂に批判的であった。彼は小林を泣かせるものが酒であるか、叔父であるかを疑った。ドストエヴスキであるか、日本の下層社会であるかを疑った。その何方にした所で、自分とあまり交渉のない事も能く心得ていた。彼は詰らなかった。又不安であった。感激家によって彼の前に振り落された涙の痕を、ただ迷惑そうに眺めた。
 探偵として物色された男は、懐から又薄い手帳を出して、その中へ鉛筆で何かしきりに書き付け始めた。猫のように物静かでありながら、猫のように凡てを注意しているらしい彼の挙動が、津田を変な気持にした。けれども小林の酔は、もうそんな所を通り越していた。探偵などはまるで眼中になかった。彼は新調の背広の腕をいきなり津田の鼻の先へ持って来た。
「君は僕が汚ない服装をすると、汚ないと云って軽蔑するだろう。又たまに綺麗な着物を着ると、今度は締麗だと云って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすれば可いんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。後生だから教えて呉れ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」
 津田は苦笑しながら彼の腕を突き返した。不思議にもその腕には抵抗力がなかった。最初の勢が急に何処がへ抜けたように、大人しく元の方角へ戻って行った。けれども彼の口は彼の腕程素直ではなかった。手を引込ました彼はすぐ口を開いた。
「僕は君の腹の中をちやんと知ってる。君は僕がこれ程下層社会に同情しながら、自分自身貧乏な癖に、新らしい洋服なんか拵えたので、それを矛盾だと云って笑う気だろう」
「いくら貧乏だって、洋服の一着位拵えるのは当り前だよ。拵えなけりゃ赤裸で往来を歩かなければなるまい。拵えたって結構じやないか。誰も何とも思ってやしないよ」
「ところがそうでない。君は僕を唯めかすんだと恩ってる。お洒落だと解釈している。それが悪い」
「そうか。そりや悪かった」
 もう遣り切れないと観念した津田は、とうとう降参の便利を悟ったので、好い加減に調子を合せ出した。すると小林の調子も自然と変って来た。
「いや僕も悪い。悪かった。僕にも洒落気はあるよ。そりや僕も充分認める。認めるには認めるが、僕が何故今度この洋服を作ったか、その訳を君は知るまい」
 そんな特別の理由を津田は固(もと)より知ろう筈がなかった。又知りたくもなかった。けれども行き掛り上聞いて遣らない訳にも行かなかった。両手を広げた小林は、自分で自分の服装を見廻しながら、寧ろ心細そうに答えた。
「実はこの着物で近々都落(みやこおち)をやるんだよ。朝鮮へ落ちるんだよ」
 津田は始めて意外な顔をして相手を見た。序に先刻から苦になっていた襟飾の横っちょに曲っているのを注意して直させた後で、又彼の話を聴きつづけた。
 長い間叔父の雑誌の編輯(へんしゅう)をしたり、校正をしたり、その間には自分の原稿を書いて、金を呉れそうな所へ方々持って廻ったりして、始終忙がしそうに見えた彼は、とうとう東京に居たたまれなくなった結果、朝鮮へ渡って、某所の或新聞社へ雇われる事に、略(ほぼ)相談が極(きま)ったのであった。
「こう苦しくっちゃ、いくら東京に辛防していたって、仕方がないからね。未来のない所に住んでるのは実際厭だよ」
 その未来が朝鮮へ行けば、あらゆる準備をして自分を侍っていそうな事をいう彼は、すぐ又前言を取り消すような口も利いた。
「要するに僕なんぞは、生涯漂浪して歩く運命を有って生れて来た人間かも知れないよ。どうしても落ち付けないんだもの。たとい自分が落ち付く気でも、世間が落ち付かせて呉れないから残酷だよ。駈落者になるより外に仕方がないじやないか」
「落付けないのは君ばかりじやない。僕だってちっとも落付いていられやしない」
「勿体ない事をいうな。君の落ち付けないのは贅沢だからさ。僕のは死ぬまで麺麭(パン)を追懸けて歩かなければならないんだから苦しいんだ」
「然し落ち付けないのは、現代人の一般の特色だからね。苦しいのは君ばかりじゃないよ」
 小林は津田の言葉から何等の慰籍を受ける気色もなかった。

三十七

 先刻から二人の様子を眺めていた下女が、いきなり来て、わざとらしく食卓の上を片付け始めた。それを相図のように、インヴァネスを着た男がすうと立ち上った。疾うに酒をやめて、ただ話ばかりしていた二人も澄ましている訳に行かなかった。津田は機会を捉えてすぐ腰を上げた。小林は椅子を離れる前に、先ず彼等の間に置かれたM、C、C、の箱を取った。そうしてその中から又新らしい金口を一本出してそれに火を点けた。行き掛けの駄賃らしいこの所作が、煙草の箱を受け取って袂へ入れる津田の眼を、皮肉に擽(くす)ぐったくした。
 時刻はそれ程でなかったけれども、秋の夜の往来は意外に更け易かった。昼は耳に付かない一種の音を立てて電車が遠くの方を走っていた。別々の気分に働らき懸けられている二人の黒い影が、まだ離れずに河の縁をつたって動いて行った。
「朝鮮へは何時頃行くんだね」
「ことによると君の病院へ入いっているうちかも知れない」
「そんなに急に立つのか」
「いやそうとも限らない。もう一遍先生が向うの主筆に会って呉れてからでないと、判然した事は分らないんだ」
「立つ日がかい、或は行く事がかい」
「うん、まあ──」
 彼の返事は少し曖昧であった。津田がそれを追究もしないで、さっさと行き出した時、彼は又云い直した。
「実を云うと、僕は行きたくもないんだがなあ」
「藤井の叔父が是非行けとでも云うのかい」
「なにそうでもないんだ」
「じゃ止したら可いじゃないか」
 津田の言葉は誰にでも解り切った理窟なだけに、同情に飢えていそうな相手の気分を残酷に射貫いたと一般であった。数歩の後、小林は突然津田の方を向いた。
「津田君、僕は淋しいよ」
 津田は返事をしなかった。二人は又黙って歩いた。浅い河床の真中を、少しばかり流れている水が、ぼんやり見える橋杭の下で黒く消えていく時、幽かに音を立てて、電車の通る相間々々に、ちょろちょろと鳴った。
「僕は矢っ張り行くよ。どうしても行った方が可いんだからね」
「じゃ行くさ」
「うん、行くとも。こんな所にいて、みんなに馬鹿にされるより、朝鮮か台湾に行った方がよっぼど増しだ」
 彼の語気は癇走っていた。津田は急に穏やかな調子を使う必要を感じた。
「あんまりそう悲観しちゃ不可いよ。年歯さえ若くって身体さえ丈夫なら、何処へ行ったって立派に成効出来るじゃないか。──君が立つ前一つ送別会を開こう、君を愉快にするために」
 今度は小林の方が可い返事をしなかった。津田は重ねて跋(ばつ)を合わせる態度に出た。
「君が行ったらお金さんの結婚する時困るだろう」
 小林は今まで頭のなかになかった妹の事を、はっと思い出した人のように津田を見た。
「うん、彼奴も可哀相だけれども仕方がない。詰りこんなやくざな兄貴をもったのが不仕合せだと思って、諦らめて貰うんだ」
「君がいなくったって、叔父や叔母がどうかして呉れるんだろう」
「まあそんな事になるばり外に仕方がないからな。でなければこの結婚を断って、何時までも下女代りに、先生の宅で使って貰うんだが、──そいつは先あ何方にしたって同じようなもんだろう。それより僕はまだ先生に気の毒な事があるんだ。もし行くとなると、先生から旅費を借りなければならないからね」
「向うじゃ呉れないのか」
「呉れそうもないな」
「どうにかして出させたら好いだろう」
「さあ」
 一分ばかりの沈黙を破った時、彼は又独り言のように云った。
「旅費は先生から借りる、外套は君から貰う、たった一人の妹は置いてき堀にする、世話はないや」
 これがその晩小林の目から出た最後の台詞であった。二人は遂に分れた。津田は後をも見ずにさっさと宅の方へ急いだ。

三十八

 彼の門は例の通り締まっていた。彼は潜り戸へ手を掛けた。ところが今夜はその潜り戸も亦開かなかった。立て付けの悪い所為かと思って、二三度遣り直した揚句、力任せに戸を引いた時、ごとりという重苦しいかきがねの抵抗力を裏側に聞いた彼は漸く断念した。
 彼はこの予想外の出来事に首を傾けて、しばらく戸の前に佇立(たたず)んだ。新らしい世帯を持ってから今甘に至るまで、一度も外泊した覚のない彼は、たまに夜遅く帰る事があっても、またこうした経験には出会わなかったのである。
 今日の彼は灯点(ひとも)し頃から早く宅へ帰りたがっていた。叔父の家で名ばかりの晩飯を食ったのも仕方なしに食ったのであった。進みもしない酒を少し飲んだのも小林に対する義理に過ぎなかった。夕方以後の彼は、寧ろお延の面影を心に置きながら外で暮していた。その簿ら寒い外から帰って来た被は、丁度暖かい家庭の燈火を慕って、それを目標に足を運んだのと一般であった。彼の身体が土塀に行き当った馬のように留まると共に、彼の期待も急に門前で喰い留められなければならなかった。そうしてそれを喰い留めたものがお延であるか、偶然であるかは、今の彼に取って決して小さな問題でなかった。
 彼は手を挙げて開かない潜り戸をとんとんと二つ敲いた。「此所を開けろ」というよりも「此所を何故締めた」といって詰問する様な音が、更け渡りつつある往来の暗がりに響いた。すると内側ですぐ「はい」という返事がした。殆んど反響に等しい位早く彼の鼓膜を打ったその声の主は、下女でなくてお延であった。急に静まり返った彼は戸の此方側で耳を澄ました。用のある時だけ使う事にしてある玄関先の電燈のスウィッチを捩る音が明らかに聞こえた。格子がすぐがらりと開いた。入口の開き戸がまだ閉(た)ててない事は慥かであった。
「どなた?」
 潜りのすぐ向う側まで来た足音が止まると、お延は先ずこう云って誰何(すいか)した。彼は猶の事急(せ)き込んだ。
「早く開けろ、己だ」
 お延は「あらッ」と叫んだ。
「貴方だったの。御免遊ばせ」
 ごとごと云わしてかきがねを外した後で夫を内へ入れた彼女は何時もより少し蒼い顔をしていた。彼はすぐ玄関から茶の間へ通り抜けた。
 茶の間は何時もの通りきちんと片付いていた。鉄瓶が約束通り鳴っていた。長火鉢の前には、例によって厚いメリンスの座蒲団が、彼の帰りを待ち受ける如くに敷かれてあった。お延の坐りつけたその向うには、彼女の座蒲団の外に、女持の硯箱が出してあった。青貝で梅の花を散らした螺鈿(らでん)の蓋は傍へ取り除けられて、梨地の中に嵌め込んだ小さな硯がつやつやと濡れていた。持主が急いで座を立った証拠に、細い筆の穂先が、巻紙の上へ墨を滲ませて、七八寸書きかけた手紙の末を汚していた。
 戸締りをして夫の後から入ってきたお延は寝巻の上へ平生着の羽織を引っ掛けたまま其所へぺたりと坐った。
「どうも済みません」
 津田は眼を上げて柱時計を見た。時計は今十一時を打ったばかりの所であった。結婚後彼がこの位な刻限に帰ったのは、例外にした所で、決して始めてではなかった。
「何だって締め出しなんか喰わせたんだい。もう帰らないとでも思ったのか」
「いいえ、さっきから、もうお帰りか、もうお帰りかと思って待ってたの。仕舞にあんまり淋しくって堪らなくなったから、とうとう宅へ手紙を書き出したの」
 お延の両親は津田の父母と同じように京都にいた。津田は遠くからその書きかけの手紙を眺めた。けれどもまだ納得が出来なかった。
「待ってたものがなんで門なんか締めるんだ。物騒だからかね」
「いいえ。──あたし門なんか締めやしないわ」
「だって現に締まっていたじやないか」
「時が昨夕締めっ放しにしたまんまなのよ、屹度(きっと)。いやな人」
 こう云ったお延は何時もする癖の通り、ぴくぴく彼女の眉を動かして見せた。日中用のない潜り戸のかきがねを、朝外し忘れたという弁解は、決して不合理なものではなかった。
「時はどうしたい」
「もう先刻寝かしてやったわ」
 下女を起してまで責任者を調べる必要を認めなかった津田は、潜り戸の事をそのままにして寝た。

三十九

 あくる朝の津田は、顔も洗わない先から、昨夜(ゆうべ)寐るまで全く予想していなかった不意の観物(みもの)によって驚ろかされた。
 彼の床を離れたのは九時頃であった。彼は何時もの通り玄関を抜けて茶の間から勝手へ出ようとした。すると嬋娟(あでやか)に盛粧(せいそう)したお延が澄まして其所(そこ)に坐っていた。津田ははっと思った。寐起の顔へ水を掛けられたような夫の様子に満足したらしい彼女は微笑を洩らした。
「今御眼覚(おめざめ)?」
 津田は眼をぱちつかせて、赤い手絡(てがら)をかけた大丸髷(おおまるまげ)と、派手な刺繍(ぬい)をした半襟の模様と、それからその真中にある化粧後の白い顔とを、さも珍らしい物でも見るような新らしい眼付で眺めた。
「一体どうしたんだい。朝っぱらから」
 お延は平気なものであった。
「どうもしないわ。――だって今日は貴方がお医者様へ入らっしゃる日じゃないの」
 昨夜遅く其所へ脱ぎ捨てて寐た筈の彼の袴も羽織も、畳んだなり、ちゃんと取り揃えて、渋紙(しぶかみ)の上へ載せてあった。
「お前も一所に行く積だったのかい」
「ええ無論行く積だわ。行っちゃ御迷惑なの」
「迷惑って訳はないがね。――」
 津田は又改めて細君の服装(なり)を吟味する様に見た。
「余(あん)まりおつくりが大袈裟だからね」
 彼はすぐ心の中(うち)でこの間見た薄暗い控室の光景を思い出した。其所に坐っている患者の一群(ひとむれ)とこの着飾った若い奥様とは、とても調和すべき性質のものでなかった。
「だって貴方今日は日曜よ」
「日曜だって、芝居やお花見に行くのとは少し違うよ」
「だって妾(あたし)……」
 津田に云わせれば、日曜は猶の事患者が朝から込み合うだけであった。
「どうもそういうでこでこな服装(なり)をして、あのお医者様へ夫婦お揃いで乗り込むのは、少し――」
「辟易(へきえき)?」
 お延の漢語が突然津田を擽(くすぐ)った。彼は笑い出した。一寸眉を動かしたお延はすぐ甘垂れるような口調を使った。
「だってこれから着物なんか着換えるのは時間が掛って大変なんですもの。折角着ちまったんだから、今日はこれで堪忍して頂戴よ、ね」
 津田はとうとう敗北した。顔を洗っているとき、彼は下女に俥(くるま)を二台云い付けるお延の声を、恰(あたか)も自分が急き立てられでもするように世話しなく聞いた。
 普通の食事を取らない彼の朝飯は殆んど五分とかからなかった。楊枝も使わないで立ち上った彼はすぐ二階へ行こうとした。
「病院へ持っていくものを纏(まと)めなくっちゃ」
 津田の言葉と共に、お延はすぐ自分の後にある戸棚を開けた。
「此所に拵(こしら)えてあるから一寸見て頂戴」
 余所行着(よそゆきぎ)を着た細君を労(いたわ)らなければならなかった津田は、稍(やや)重い手提鞄と小さな風呂敷包を、自分の手で戸棚から引き摺り出した。包の中には試しに袖を通したばかりの例の褞袍(どてら)と平絎(ひらぐけ)の寐巻紐は這入っているだけであったが、鞄の中からは、楊枝だの歯磨粉だの、使いつけたラヴェンダー色の書翰(しょかん)用紙だの、同じ色の封筒だの、万年筆だの、小さい鋏だの、毛抜だのが雑然と現われた。そのうちで一番重くて嵩張(かさば)った大きな洋書を取り出した時、彼はお延に云った。
「これは置いて行くよ」
「そう、でも何時でも机の上に乗っていて、枝折が挟んであるから、お読みになるのかと思って入れといたのよ」
 津田は何も云わずに、二ヶ月以上もかかって未だ読み切れない経済学の独逸書を重そうに畳の上に置いた。
「寐ていて読むにゃ重くって駄目だよ」
 こう云った津田は、それがこの大部の書物を残して行く正当の理由であると知りながら、余り好い心持がしなかった。
「そう、本はどれが要るんだか妾分らないから、貴方自分でお好きなのを択(よ)って頂戴」
 津田は二階から軽い小説を二三冊持って来て、経済書の代りに鞄の中へ詰め込んだ。

四十

 天気が好いので幌を畳ました二人は、鞄と風呂敷包を、各自(めいめい)の俥の上に一つずつ乗せて家を出た。小路(こうじ)の角を曲って電車通りを一二丁行くと、お延の車夫が突然津田の車夫に声を掛けた。俥は前後ともすぐ留った。
「大変。忘れものがあるの」
 車上で振り返った津田は、何にも云わずに細君の顔を見守った。念入に身仕舞をした若い女の口から出る刺戟性に富んだ言葉のために引き付けられたものは夫ばかりではなかった。車夫も梶棒を握ったまま、等しくお延の方へ好奇の視線を向けた。傍を通る往来の人さえ一瞥の注意を夫婦の上へ与えないではいられなかった。
「何だい。何を忘れたんだい」
 お延は思案するらしい様子をした。
「一寸待ってて頂戴。すぐだから」
 彼女は自分の俥だけを元へ返した。中ぶらりんの心的状態で其所(そこ)に取り残された津田は、黙ってその後姿を見送った。一旦小路の中に隠れた俥がやがて又現われると、劇しい速力で又彼の待っている所まで馳けて来た。それが彼の眼の前で留った時、車上のお延は帯の間から一尺ばかりの鉄製の鎖を出して長くぶら下げて見せた。その鎖の端には環があって、環の中には大小五六個の鍵が通してあるので、鎖を高く示そうとしたお延の所作と共に、じゃらじゃらという音が津田の耳に響いた。
「これ忘れたの。箪笥の上に置きっ放しにしたまま」
 夫婦以外に下女しか居ない彼等の家庭では、二人揃って外出する時の用心に、大事なものに錠を卸して置いて、何方(どっち)かが鍵だけ持って出る必要があった。
「お前預かっておいで」
 じゃらじゃらするものを再び帯の間に押し込んだお延は、平手でぽんとその上を敲きながら、津田を見て微笑した。
「大丈夫」
 俥は再び走(か)け出した。
 彼等の医者に着いたのは予定の時刻より少し後れていた。然し午(ひる)までの診察時間に間に合わない程でもなかった。夫婦して控室に並んで坐るのが苦になるので、津田は玄関を上ると、すぐ薬局の口へ行った。
「すぐ二階へ行っても可いでしょうね」
 薬局にいた書生は奥から見習いの看護婦を呼んで呉れた。まだ十六七にしかならないその看護婦は、何の造作もなく笑いながら津田にお辞儀をしたが、傍に立っているお延の姿を見ると、少し物々しさに打たれた気味で、一体この孔雀は何処から入って来たのだろうという顔付をした。お延が先を越して、「御厄介になります」と此方から挨拶をしたので、始めて気が付いたように、看護婦も頭を下げた。
「君、此奴(こいつ)を一つ持ってくれたまえ」
 津田は車夫から受取った鞄を看護婦に渡して、二階の上り口の方へ廻った。
「お延此方(こっち)だ」
 控室の入口に立って、患者のいる部屋の中を覗き込んでいたお延は、すぐ津田の後に随(つ)いて階子段(はしごだん)を上った。
「大変陰気な室(へや)ね、あすこは」
 南東の開いた二階は幸に明るかった。障子を開けて縁側へ出た彼女は、つい鼻の先にある西洋洗濯屋の物干を見ながら、津田を顧みた。
「下と違って此所は陽気ね。そうして一寸可いお部屋ね。畳は汚れているけれども」
 もと請負師か何かの妾宅に手を入れて出来上ったその医院の二階には、何処となく粋(いき)な昔の面影が残っていた。
「古いけれども宅(うち)の二階より増しかも知れないね」
 日に照らされてきらきらする白い洗濯物の色を、秋らしい気分で眺めていた津田は、こう云って、時代のために多少燻(くす)ぶった天井だの床柱だのを見廻した。

四十一

 其所(そこ)へ先刻(さっき)の看護婦が急須へ茶を淹れて持って来た。
「今仕度をしておりますから、少しの間どうぞ」
 二人は仕方なしに行儀よく差向いに坐ったなり茶を飲んだ。
「何だか気がそわそわして落ち付かないのね」
「まるでお客さまに行ったようだろう」
「ええ」
 お延は帯の間から女持の時計を出して見た。津田は時間の事よりもこれから受ける手術の方が気になった。
「一体何分位で済むのかなあ。眼で見ないでもあの刃物の音だけ聞いていると、好い加減変な心持になるからな」
「あたし怖いわ、そんなもの見るのは」
 お延は実際怖そうに眉を動かした。
「だからお前は此所(ここ)に待っといでよ。わざわざ手術台の傍まで来て、穢(きた)ない所を見る必要はないんだから」
「でもこんな場合には誰か見寄のものが立ち合わなくっちゃ悪いんでしょう」
 津田は真面目なお延の顔を見て笑い出した。
「そりゃ死ぬか生きるかっていうような重い病気の時の事だね。誰がこれしきの療治に立合人なんか呼んで来る奴があるものかね」
 津田は女に穢ないものを見せるのが嫌な男であった。ことに自分の穢ない所を見せるは厭であった。もっと押し詰めていうと、自分で自分の穢ない所を見るのでさえ、普通の人以上に苦痛を感ずる男であった。
「じゃ止しましょう」と云ったお延は又時計を出した。
「お午までに済むでしょうか」
「済むだろうと思うがね。どうせこうなりゃ何時だって同なじこっちゃないか」
「そりゃそうだけど……」
 お延は後を云わなかった。津田も訊かなかった。
 看護婦が又階子段の上へ顔を出した。
「支度が出来ましたからどうぞ」
 津田はすぐ立ち上がった。お延も同時に立ち上がろうとした。
「お前は其所に待っといでと云うのに」
「診察室へ行くんじゃないのよ。一寸此所の電話を借りるのよ」
「何処かへ用があるのかね」
「用じゃないけど、――一寸お秀さんの所へ貴方の事を知らせて置こうと思って」
 同じ区内にある津田の妹の家は其所から余り遠くはなかった。今度の病気に就いて妹の事を余り頭の中に入れていなかった津田は、立とうとするお延を留めた。
「可いよ、知らせないでも。お秀なんかに知らせるのはあんまり仰山過ぎるよ。それに彼奴が来ると八釜(やかま)しくって不可いからね」
 年は下でも、性質の違うこの妹は、津田から見たある意味の苦手であった。
 お延は中腰のまま答えた。
「でも後でまた何か云われると、あたしが困るわ」
 強いて留める理由も見出し得なかった津田は仕方なしに云った。
「掛けても構わないが、何も今に限った事はないだろう。彼奴は近所だから、屹度(きっと)すぐ来るよ。手術をしたばかりで、神経が過敏になってる所へもって来て、兄さんが何とかで、お父さんがかんとかだと云われるのは実際楽じゃないからね」
 お延は微かな声で階下を憚(はば)かるような笑い方をした。然し彼女の露わした白い歯は、気の毒だという同情よりも、滑稽だという単純な感じを明らかに夫に物語っていた。
「じゃお秀さんへ掛けるのは止すから」
 こう云ったお延は、とうとう津田と一所に立ち上った。
「まだ外に掛ける所があるのかい」
「ええ岡本へ掛けるのよ。午までに掛けるって約束があるんだから、可いでしょう、掛けても」
 前後して階子段を下りた二人は、其所で別々になった。一人が電話口の前に立った時、一人は診察室の椅子へ腰を卸した。

四十二

「リチネはお飲みでしたろうね」
 医者は糊(のり)の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田に訊いた。
「飲みましたが思った程効目がないようでした」
 昨日の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙がしく心を使わせられた彼がこの下剤から受けた影響は、殆んど精神的に零であったのみならず、生理的にも案外微弱であった、
「じゃもう一度浣腸しましょう」
 浣腸の結果も充分でなかった。
 津田はそれなり手術台に上って仰向に寐た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷りとした。堅い括(くく)り枕に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の眼は明りに向って寐る人のように、少しも落ち付けなかった。彼は何度も瞬きをして、何度も天井を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属製の光がちらちらと動いた。仰向けに寐ている彼には、それが自分の眼を掠めて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらに偸(ぬす)み見たのだという心持が猶のこと募った。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延の事を急に思い出した。彼女の岡本へ掛けた用事がやっと済んだ時に、彼の治療は漸く始まったのである。
「コカインだけで遣ります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行く積です。それで多分出来そうですから」
 局部を消毒しながらこんな事を云う医者の言葉を、津田は恐ろしいような又何でもないような一種の心持で聴いた。
 局部魔睡(ますい)は都合よく行った。まじまじと天井を眺めている彼は、殆んど自分の腰から下に、どんな大事件が起っているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰かが圧迫を加えているような気がするだけであった。鈍い抵抗が其所に感ぜられた。
「どんなです。痛かないでしょう」
 医者の質問には充分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
「痛かありません。然し重い感じだけはあります」
 その重い感じというのを、どう云い現わして可いか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起しはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭の中に浮かんだ。
「どうも妙な感じです。説明の出来ないような」
「そうですか。我慢出来ますか」
 途中で脳貧血でも起されては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、何でもない彼を却って不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒などを飲まされるものかどうか彼は全く知らなかったが、何しろ特別の手当を受ける事は厭であった。
「大丈夫です」
「そうですか。もう直です」
 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働らかせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際が閃めいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉通りそう早くは片付かなかった。
 切物(きれもの)の皿に当って鳴る音が時々した。鋏で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇した。津田はその度にガーゼで拭き取られなければならない赤い血潮の色を、想像の眼で腥(なまぐ)さそうに眺めた。じっと寐かされている彼の神経はじっとしているのが苦になる程緊張して来た。むず痒い虫のようなものが、彼の身体を不安にするために、気味悪く血管の中を這い廻った。
 彼は大きな眼を開(あ)いて天井を見た。その天井の上には綺麗に着飾ったお延がいた。そのお延が今何を考えているか、何をしているか、彼にはまるで分らなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んで見たくなった。すると足の方で医者の声がした。
「やっと済みました」
 無闇にガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのした後で、医者は又云った。
「瘢痕(はんこん)が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分凝(じっ)としていて下さい」
 最後の注意と共に、津田は漸く手術台から下ろされた。

四十三

 診察室を出るとき、後から随いて来た看護婦が彼に訊いた。
「いかがです。気分のお悪いような事は御座いませんか」
「いいえ。――蒼い顔でもしているかね」
 自分自身に多少懸念のあった津田はこう云って訊き返さなければならなかった。
 創口(きずぐち)に出来るだけ多くのガーゼを詰め込まれた彼の感じは、他(ひと)が想像する倍以上に重苦しいものであった。彼は仕方なしにのそのそ歩いた。それでも階子段を上る時には、割かれた肉とガーゼとが擦(こす)れ合ってざらざらするような心持がした。
 お延は階段の上に立っていた。津田の顔を見ると、すぐ上から声を掛けた。
「済んだの? どうして?」
 津田ははっきりした返事も与えずに室(へや)の中に這入った。其所には彼の予期通り、白いシーツにつつまれた蒲団が、彼の安臥(あんが)を待つべく長々と延べてあった。羽織を脱ぎ捨てるが早いか、彼はすぐその上へ横になった。鼠地のネルを重ねた銘仙の褞袍(どてら)を後から着せる積で、両手で襟の所を持ち上げたお延は、拍子抜けのした苦笑と共に、またそれを袖畳みにして床の裾の方に置いた。
「お薬は頂かなくって可いの」
 彼女は傍にいる看護婦の方を向いて訊いた。
「別に内用のお薬は召し上らないでも差支ないので御座います。お食事の方は只今拵(こしら)えて此方(こちら)から持って参ります。
 看護婦は立ち掛けた。黙って寐ていた津田は急に口を開いた。
「お延、お前何か食うなら看護婦さんに頼んだら可いだろう」
「そうね」
 お延は躊躇した。
「あたしどうしようかしら」
「だってもう昼過だろう」
「ええ。十二時二十分よ。貴方の手術は丁度二十八分掛ったのね」
 時計の蓋を開けたお延は、それを眺めながら精密な時間を云った。津田が手術台の上で俎(まないた)へ乗せられた魚のように、大人しく我慢している間、お延は又彼の見詰めなければならなかった天井の上で、時計と睨めっ競(くら)でもするように、手術の時間を計っていたのである。
 津田は再び訊いた。
「今から宅(うち)へ帰ったって仕方がないだろう」
「ええ」
「じゃ此所で洋食でも取って貰って食ったら可いじゃないか」
「ええ」
 お延の返事は何時まで経っても捗々(はかばか)しくなかった。看護婦はとうとう下へ降りて行った。津田は疲れた人が光線の刺戟を避けるような気分で眼をねむった。するとお延が頭の上で、「あなた、あなた」というので、又眼を開かなければならなかった。
「心持が悪いの?」
「いいや」
 念を押したお延はすぐ後を云った。
「岡本でよろしくって。いずれその内御見舞に上りますからって」
「そうか」
 津田は軽い返事をしたなり、又眼をつぶろうとした。するとお延がそうさせなかった。
「あの岡本でね、今日是非芝居へ一所に来いって云うんですが、行っちゃ不可(いけな)くって」
 気の能く廻る津田の頭に、今朝からのお延の所作が一度に閃めいた。病院へ随いて来るにしては派手過ぎる彼女の衣装といい、出る前に日曜だと断った彼女の注意といい、此所へ来てから、そわそわして岡本へ電話をかけた彼女の態度といい、悉(ことごと)く芝居の二字に向って注ぎ込まれているようにも取れた。そういう眼で見ると、手術の時間を精密に計った彼女の動機さえ疑惑の種にならないでは済まなかった。津田は黙って横を向いた。床の間の上に取り揃えて積み重ねてある、封筒だの書翰用紙だの鋏だの書物だのが彼の眼に付いた。それは先刻(さっき)鞄へ入れて彼が此所へ持って来たものであった。
「看護婦に小さい机を借りて、その上へ載せようと思ったんですけれども、まだ持って来て呉れないから、しばらくの間、ああして置いたのよ。本でも御覧になって」
 お延はすぐ立って床の間から書物を卸した。

四十四

 津田は着物に手を触れなかった。
「岡本へは断ったんじゃないのか」
 不審よりも不平な顔をした彼が、向を変えて寐返りを打った時に、堅固に出来ていない二階の床が、彼の意を迎えるように、ずしんと鳴った。
「断ったのよ」
「断ったのに是非来いっていうのかね」
 この時津田は始めてお延の顔を見た。けれども其所には彼の予期した何物も現われて来なかった。彼女は却って微笑した。
「断ったのに是非来いっていうのよ」
「然し……」
 彼は一寸行き詰った。彼の胸には云うべき事がまだ残っているのに、彼の頭は自分の思わく通り迅速に働らいて呉れなかった。
「然し――断ったのに是非来いなんていう筈がないじゃないか」
「それを云うのよ。岡本も余っ程の没分暁漢(わからずや)ね」
 津田は黙ってしまった。何といって彼女を追究して可いか見当が付かなかった。
「貴方まだ何かあたしを疑ぐっていらっしゃるの。あたし厭だわ、あなたからそんなに疑ぐられちゃ」
 彼女の眉がさもさも厭そうに動いた。
「疑ぐりやしないが、何だか変だからさ」
「そう。じゃその変な所を云って頂戴な、いくらでも説明するから」
 不幸にして津田にはその変な所が明瞭に云えなかった。
「やっぱり疑ぐっていらっしゃるのね」
 津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼に取って少なからざる苦痛であった。二つの我(が)が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、余所目に見える彼は、比較的冷静であった。
「ああ」
 お延は微かな溜息を洩らしてそっと立ち上った。一旦閉(た)て切った障子をまた開けて、南向の縁側へ出た彼女は、手摺の上へ手を置いて、高く澄んだ秋の空をぼんやり眺めた。隣の洗濯屋の物干に隙間なく吊されたワイ襯衣(シャツ)だのシーツだのが、先刻(さっき)見た時と同じ様に、強い日光を浴びながら、乾いた風に揺れていた。
「好いお天気だ事」
 お延が小さな声で独りごとのようにこう云った時、それを耳にした津田は、突然籠の中にいる小鳥の訴えを聞かされたような心持がした。弱い女を自分の傍に縛り付けて置くのが少し可哀相になった。彼はお延に言葉を掛けようとして、接穂(つぎほ)のないのに困った。お延も欄干に身を倚せたまますぐ座敷の中へ戻って来なかった。
 其所へ看護婦が二人の食事を持って下から上って来た。
「どうもお待遠さま」
 津田の膳には二個の鶏卵と一合のソップと麺麭(パン)が付いているだけであった。その麺麭も半斤の二分ノ一と分量は何時のまにか定められていた。
 津田は床の上に腹這になったまま、むしゃむしゃ口を動かしながら、機会を見計らって、お延に云った。
「行くのか、行かないのか」
 お延はすぐ肉匙(フォーク)の手を休めた。
「あなた次第よ。あなたが行けと仰ゃれば行くし、止せと仰ゃれば止すわ」
「大変従順だな」
「何時でも従順だわ。――岡本だってあなたに伺って見た上で、もし可いと仰ゃったら連れて行って遣るから、御病気が大した事でなかったら、訊いて見ろって云うんですもの」
「だってお前の方から岡本へ電話を掛けたんじゃないか」
「ええそりゃそうよ、約束ですもの。一辺断ったけれども、模様次第では行けるかも知れないだろうから、もう一辺その日の午までに電話で都合を知らせろって云って来たんですもの」
「岡本からそういう返事が来たのかい」
「ええ」
 然しお延はその手紙を津田に示していなかった。
「要するに、お前はどうなんだ。行きたいのか、行きたくないのか」
 津田の顔色を見定めたお延はすぐ答えた。
「そりゃ行きたいわ」
「とうとう白状したな。じゃお出よ」
 二人はこういう会話と共に午飯(ひるめし)を済ました。

四十五

 手術後の夫を、やっと安静状態に寐かして置いて、自分一人下へ降りた時、お延はもう約束の時間を大分後らせていた。彼女は自分の行先を車夫に教えるために、ただ一口劇場の名を云ったなり、すぐ俥に乗った。門前に待たせて置いたその俥は、角の帳場にある四五台のうちで一番新らしいものであった。
 小路を出た護謨輪(ゴムわ)は電車通りばかり走った。何の意味なしに、ただ賑やかな方角へ向けてのみ速力を出すといった風の、景気の好い車夫の駈方(かけかた)が、お延に感染した。ふっくらした厚い席の上で、彼女の身体が浮つきながら早く揺くと共に、彼女の心にも柔らかで軽快な一種の動揺が起った。それは自分の左右前後に紛として活躍する人生を、容赦なく横切って目的地へ行く時の快感であった。
 車上の彼女は宅の事を考える暇がなかった。機嫌よく病院の二階へ寐かして来た津田の影像(イメジ)が、今日一日位安心して彼を忘れても差支ないという保証を彼女に与えるので、夫の事もまるで苦にならなかった。ただ目前の未来が彼女の俥とともに動いた。芝居その物に大した嗜好を始めから有(も)っていない彼女は、時間が後れたのを気にするよりも、ただ早く其所(そこ)に行き着くのを気にした。こうして新らしい俥で走っている道中が現に刺戟であると同様の意味で、其所へ行き着くのは更に一層の刺戟であった。
 俥は茶屋の前で留った。挨拶をする下女にすぐ「岡本」と答えたお延の頭には、提灯だの暖簾(のれん)だの、紅白の造り花などがちらちらした。彼女は俥を降りる時一度に眼に入ったこれ等の色と形の影を、まだ片付ける暇もないうちに、すぐ廊下伝いに案内されて、それよりも何層倍(なんぞうばい)か錯綜した、又何層倍か濃厚な模様を、縦横に織り拡げている、海のような場所へ、ひょっこり顔を出した。それは茶屋の男が廊下の戸を開けて「此方(こちら)へ」と云った時、その隙間から遠くに前の方を眺めたお延の感じであった。好んでこういう場所へ出入したがる彼女に取って、別に珍らしくもないこの感じは、彼女に取って、永久に新らしい感じであった。だから又永久に珍らしい感じであるとも云えた。彼女は暗闇を通り抜けて、急に明海(あかるみ)へ出た人の様に眼を覚ました。そうしてこの雰囲気の片隅に身を置いた自分は、眼の前に動く生きた大きな模様の一部分となって、挙止動作共悉くこれからその中に織り込まれて行くのだという自覚が、緊張した彼女の胸にはっきり浮んだ。
 席には岡本の姿が見えなかった。細君に娘二人を入れても三人にしかならないので、お延の坐るべき余地は充分あった。それでも姉娘の継子(つぎこ)は、お延の座が生憎(あいにく)自分の影になるのを気遣う様に、後を向いて筋違(すじかい)に身体を延ばしながらお延に訊いた。
「見えて? 少し此所と換って上げましょうか」
「有難う。此所で沢山」
 お延は首を振って見せた。
 お延のすぐ前に坐っていた十四になる妹娘の百合子は左利なので、左の手の軽い小さな象牙製の双眼鏡を持ったまま、その肱(ひじ)を、赤い布(きれ)でつつんだ手摺の上に載せながら、後を振り返った。
「遅かったのね。あたし宅の方へ入らっしゃるのかと思ってたのよ」
 年の若い彼女は、まだ津田の病気に就いて挨拶かたがたお延に何か云う程の智慧を有たなかった。
「御用があったの?」
「ええ」
 お延はただ簡単な返事をしたぎり舞台の方を見た。それは先刻から姉妹の母親が傍目も振らず熱心に見詰めている方角であった。彼女とお延は最初顔を見合せた時に、一寸黙礼を取り替わせただけで、拍子木の鳴るまでついに一言も口を利かなかった。

四十六

「能く来られたのね。ことによると今日はむずかしいんじゃないかって、先刻継(つぎ)と話してたの」
 幕が引かれてから、始めて打ち寛(くつ)ろいだ様子を示した細君は、漸くお延に口を利き出した。
「そら御覧なさい、あたしの云った通りじゃなくって」
 誇り顔に母の方を見てこう云った継子はすぐお延に向ってその後を云い足した。
「あたしお母さまと賭をしたのよ。今日あなたが来るか来ないかって。お母さまはことによると来ないだろうって仰ゃるから、あたし屹度(きっと)入らっしゃるに違ないって受け合ったの」
「そう。又御神籤(おみくじ)を引いて」
 継子は長さ二寸五分幅六分位の小さな神籤箱の所有者であった。黒塗の上へ篆書(てんしょ)の金文字で神籤と書いたその箱の中には、象牙を平たく削った精巧の番号札が数通り百本納められていた。彼女はよく「一寸見て上げましょうか」と云いながら、小楊枝(こようじ)入を取り扱うような手付で、短冊形の薄い象牙札を振り出しては、箱の大きさと釣り合う様に出来た文句入の折手本を繰りひろげて見た。そうして其所に書いてある蠅の頭程な細かい字を読むために、これも付属品として始めから添えてある小さな虫眼鏡を、羽二重の裏をつけた更紗(さらさ)の袋から取り出して、勿体らしくその上へ翳(かざ)したりした。お延が津田と浅草へ遊びに行った時、玩具としては高過ぎる四円近くの代価を払って、仲見世から買って帰った精巧なこの贈物は、来年二十一になる継子に取って、処女の空想に神秘の色を遊戯的に着けて呉れる無邪気な装飾品であった。彼女は時として帙入(ちついり)のままそれを机の上から取って帯の間に挟んで外出する事さえあった。
「今日も持って来たの?」
 お延は調戯(からかい)半分彼女に訊いて見たくなった。彼女は苦笑しながら首を振った。母が傍から彼女に代って返事をする如くに云った。
「今日の予言はお神籤じゃないのよ。お神籤よりもっと偉い予言なの」
「そう」
 お延は後が聞きたそうにして、母子(おやこ)を見比べた。
「継はね……」と母が云いかけたのを、娘はすぐ追被(おっかぶ)せるように留めた。
「止して頂戴よ、お母さま。そんな事此所で云っちゃ悪いわよ」
 今だって黙って三人の会話を聴いていた妹娘の百合子が、くすくす笑い出した。
「あたし云って上げても可いわ」
「お止しなさいよ、百合子さん。そんな意地の悪い事するのは。可いわ、そんなら、もうピアノを浚(さら)って上ないから」
 母は隣りにいる人の注意を惹かないように、小さな声を出して笑った。お延も可笑しかった。同時に猶(なお)訳が訊きたかった。
「話して頂戴よ、お姉さまに怒られたって構わないじゃないの。あたしが付いてるから大丈夫よ」
 百合子はわざと腮(あご)を前へ突き出すようにして姉を見た。心持小鼻をふくらませたその態度は、話す話さないの自由を我に握った人の勝利を、ものものしく相手に示していた。
「可いわ、百合子さん。どうでも勝手になさい」
 こう云いながら立つと、継子は後(うしろ)の戸を開けてすぐ廊下へ出た。
「お姉さま怒ったのね」
「怒ったんじゃないよ。極(きま)りが悪いんだよ」
「だって極りの悪い事なんかなかないの。あんな事云ったって」
「だから話して頂戴よ」
 年歯(とし)の六つ程下な百合子の子供らしい心理状態を観察したお延は、それを旨く利用しようと試みた。けれども不意に座を立った姉の挙動が、もう既にその状態を崩していたので、お延の愆慂(しょうよう)は何の効目もなかった。母はとうとう凡(すべ)てに対する責任を一人で脊負(しょ)わなければならなかった。
「なに何でもないんだよ。継がね、由雄さんはああいう優しい好い人で、何でも延子さんのいう通りになるんだから、今日屹度来るに違ないって云っただけなんだよ」
「そう。由雄が継子さんにはそんなに頼母(たのも)しく見えるの。有難いわね。お礼を云わなくっちゃならないわ」
「そうしたら百合子が、そんならお姉様も由雄さんみたような人の所へお嫁に行くと可いって云ったんでね、それをお前の前で云われるのが耻ずかしいもんだから、ああやって出ていったんだよ」
「まあ」
 お延は弱い感投詞を寧(むし)ろ淋しそうに投げた。

四十七

 手前勝手な男としての津田が不意にお延の胸に上った。自分の朝夕尽している親切は、随分精一杯な積でいるのに、夫の要求する犠牲には際限がないのかしらんという、不断からの疑念が、濃い色でぱっと頭の中へ出た。彼女はその疑念を晴らして呉れる唯一の責任者が今自分の前にいるのだという自覚と共に、岡本の細君を見た。その細君は、遠くに離れている両親を有った彼女から云えば、東京中で頼りにするたった一人の叔母であった。
「良人(おっと)というものは、ただ妻の情愛を吸い込むためにのみ生存する海綿に過ぎないのだろうか」
 これがお延のとうから叔母にぶつかって、質(ただ)して見たい問であった。不幸にして彼女には持って生れた一種の気位があった。見方次第では痩我慢とも虚栄心とも解釈の出来るこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制(けんせい)した。ある意味からいうと、毎日土俵の上で顔を合せて相撲を取っているような夫婦関係というものを、内側の二人から眺めた時に、妻は何時でも夫の相手であり、又会(たま)には夫の敵であるにした所で、一旦世間に向ったが最後、何処までも夫の肩を持たなければ、体よく夫婦として結び付けられた二人の弱味を表へ曝すような気がして、耻ずかしくていられないというのがお延の意地であった。だから打ち明け話をして、何か訴えたくて堪らない時でも、夫婦から見れば、矢張(やっぱ)り「世間」という他人の部類に入れべきこの叔母の前へ出ると、敏感のお延は外聞が悪くって何も云う気にならなかった。
 その上彼女は、自分の予期通り、夫が親切に親切を返して呉れないのを、足りない自分の不行届からでも出たように、傍から解釈されてはならないと日頃から掛念していた。凡ての噂のうちで、愚鈍という非難を、彼女は火のように恐れていた。
「世間には津田よりも何層倍か気むずかしい男を、すぐ手の内に丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人を綾なして行けないのは、畢竟(ひっきょう)知恵がないからだ」
 知恵と徳とを殆んど同じように考えていたお延には、叔母からこう云われるのが、何よりの苦痛であった。女として男に対する腕を有っていないと自白するのは、人間でありながら人間の用をなさないと自白する位の屈辱として、お延の自尊心を傷けたのである。時と場合が、こういう立ち入った談話を許さない劇場でないにした所で、お延は黙っているより外に仕方がなかった。意味ありげに叔母の顔を見た彼女は、すぐ眼を外(そら)せた。
 舞台に一面に垂れている幕がふわふわ動いて、継目の少し切れた間から誰かが見物の方を覗いた。気の所為(せい)かそれがお延の方を見ているようなので、彼女は今向け換えたばかりの眼を又余所(よそ)に移した。下は席を出る人、座へ戻る人、途中を歩く人で、一度にざわつき始めていた。坐ったぎりの大多数も、前後左右に思い思いの姿勢を取ったり崩したりして、片時も休まなかった。無数の黒い頭が渦のように見えた。彼等の或者の派手な扮装(つくり)が、色彩の運動から来る落ち付かない快感を、乱雑にちらちらさせた。
 土間から眼を放したお延は、ついに谷を隔てた向う側を吟味し始めた。すると丁度その時後(うしろ)を振り向いた百合子が不意に云った。
「彼所(あすこ)に吉川さんの奥さんが来ていてよ。見えたでしょう」
 お延は少し驚ろかされた眼を、教わった通りの見当へ付けて、其所に容易(たやす)く吉川夫人らしい人の姿を発見した。
「百合子さん、眼が早いのね、何時見付たの」
「見付けやしないのよ。先刻から知ってるのよ」
「叔母さんや継子さんも知ってるの」
「ええ皆な知ってるのよ」
 知らないのは自分だけだったのに漸く気の付いたお延が、猶その方を百合子の影から見守っていると、故意だか偶然だか、いきなり吉川夫人の手にあった双眼鏡が、お延の席に向けられた。
「あたし厭だわ。あんなにして見られちゃ」
 お延は隠れるように身を縮めた。それでも向側の双眼鏡は、中々お延の見当から離れなかった。
「そんなら可いわ。逃げ出しちまうだけだから」
 お延はすぐ継子の後を追懸けて廊下へ出た。

四十八

 其所から見渡した外部の光景も場所柄だけに賑わっていた。裏へ貫(ぬき)を打って取り除しの出来る様に拵らえた透しの板敷を、絶間なく知らない人が往ったり来たりした。廊下の端に立って、半ば柱に身を靠(も)たせたお延が、継子の姿を見出すまでには多少の時間が掛かった。それを向う側に並んでいる売店の前に認めた時、彼女はすぐ下へ降りた。そうして軽く足早に板敷を踏んで、目指す人のいる方へ渡った。
「何を買ってるの」
 後から覗き込むようにして訊いたお延の顔と、驚ろいて振り返った継子の顔とが、殆んど擦れ擦れになった、微笑み合った。
「今困ってる所なのよ。一(はじめ)さんが何かお土産を買って呉れって云うから、見ているんだけれども、生憎何にもないのよ、あの人の喜びそうなものは」
 疳(かん)違いをして、男の子の玩具を買おうとした継子は、それからそれへと色々なものを並べられて、買うには買われず、止すには止されず、弱っている所であった。役者には縁故のある紋などを着けた花簪(はなかんざし)だの、紙入れだの、手拭だのの前に立って、もじもじしていた彼女は、どうしたら可かろうという訴えの眼をお延に向けた。お延はすぐ口を利いて遣った。
「駄目よ、あの子は、拳銃(ピストル)とか木剣(ぼっけん)とか、人殺しの出来そうなものでなくっちゃ気に入らないんだから。そんな物こんな粋な所にあろう筈がないわ」
 売店の男は笑い出した。お延はそれを機に年下の女の手を取った。
「兎に角叔母さんに訊いてからになさいよ。――どうもお気の毒さま、じゃ何れ又後程」
 こう云ったなりさっさと歩き出した彼女は、気の毒そうにしている継子を、廊下の端まで引張るようにして連れて来た。其所で留まった二人は、又一本軒柱(のきばしら)を盾に立話をした。
「叔父さんはどうなすったの。今日は何故入らっしゃらないの」
「来るのよ、今に」
 お延は意外に思った。四人でさえ窮屈な所へ、あの大きな男が割り込んで来るのはたしかに一(ひと)事件であった。
「あの上叔父さんに来られちゃ、あたしみたいに薄っぺらなものは、圧(お)されてへしゃげちまうわ」
「百合子さんと入れ代るのよ」
「どうして」
「どうしてでもその方が都合が好いんでしょう。百合子さんは居ても居なくっても構わないんだから」
「そう。じゃもし、由雄が病気でなくって、あたしと一所に来たらどうするの」
「その時はその時で、またどうかする積なんでしょう。もう一間(いっけん)取るとか、それでなければ、吉川さんの方と一所になるとか」
「吉川さんとも前から約束があったの?」
「ええ」
 継子はその後を云わなかった。岡本と吉川の家族がそれ程接近しているとも考えていなかったお延は、其所に何か意味があるのではないかと、一寸不審を打って見たが、時間に余裕のある人の間に起り勝な、単に娯楽のための約束として、それを眺める余地も充分あるので、彼女は遂に何にも訊かなかった。二人の話はただ吉川夫人の双眼鏡に触れただけであった。お延はわざと手真似までして見せた。
「こうやって真ともに向けるんだから、敵(かな)わないわね」
「随分無遠慮でしょう。だけど、あれ西洋風なんだって、宅のお父さまがそう仰ゃってよ」
「あら西洋じゃ構わないの。じゃあたしの方でも奥さんの顔をああ遣ってつけつけ見ても好い訳ね。あたし見て上げようかしら」
「見て御覧なさい、屹度嬉しがってよ。延子さんはハイカラだって」
 二人が声を出して笑い合っている傍に、何処からか来た一人の若い男が一寸立ち留まった。無地の羽織に友縫の紋を付けて、セルの行燈袴を穿いたその青年紳士は、彼等と顔を見合せるや否や、「失礼」と挨拶でもして通り過ぎるように、鄭重な態度を無言のうちに示して、板敷へ下りて向うへ行った。継子は赧くなった。
「もう這入りましょうよ」
 彼女はすぐお延を促がして内へ入った。

四十九

 場中の様子は先刻見た時と何の変りもなかった。土間を歩く男女(なんにょ)の姿が、まるで人の頭の上を渡っているように煩らわしく眺められた。出来るだけ多くの注意を惹こうとする浮誇(ふこ)の活動さえ至る所に出現した。そうして次の色彩に席を譲るべくすぐ消滅した。眼中の小世界はただ動揺であった、乱雑であった、そうして何時でも粉飾であった。
 比較的静かな舞台の裏側では、道具方の使う金槌の音が、一般の予期を唆るべく、折々場内へ響き渡った。合間々々には幕の後で拍子木を打つ音が、撹(か)き廻された注意を一点に纏めようとする警柝(けいたく)の如(よう)に聞こえた。
 不思議なのは観客(かんかく)であった。何もする事のないこの長い幕間(まくあい)を、少しの不平も云わず、かつて退屈の色も見せず、さも太平らしく、空疎な腹に散漫な刺戟を盛って、他愛(たわい)なく時間のために流されていた。彼等は穏和かであった。彼等は楽しそうに見えた。お互の吐く呼息に酔っ払った彼等は、少し醒めかけると、すぐ眼を転じて誰かの顔を眺めた。そうしてすぐ其所(そこ)に陶然たる或者を認めた。すぐ相手の気分に同化する事が出来た。
 席に戻った二人は愉快らしく四辺(あたり)を見廻した。それから申し合せたように問題の吉川夫人の方を見た。夫人の双眼鏡はもう彼等を覘(ねら)っていなかった。その代り双眼鏡の主人も何処かへ行ってしまった。
「あら居らっしゃらないわ」
「本当ね」
「あたし探して上ましょうか」
 百合子はすぐ自分の手に持った此方(こっち)のオペラグラスを眼へ宛てがった。
「居ない、居ない、何処かへ行っちまった。あの奥さんなら二人前位肥ってるんだから、すぐ分る筈だけれども、矢張り居ないわよ」
 そう云いながら百合子は象牙の眼鏡を下へ置いた。綺麗な友染模様の脊中が隠れる程、帯を高く脊負(しょ)った令嬢としては、言葉が少しも余所行(よそゆき)でないので、姉は可笑(おか)しさを堪えるような口元に、年上らしい威厳を示して、妹を窘(たし)なめた。
「百合子さん」
 妹は少しも応えなかった。例の通り一寸小鼻を膨らませて、それがどうしたんだといった風の表情をしながら、わざと継子を見た。
「あたしもう帰りたくなったわ。早くお父さまが来てくれると好いんだけどな」
「帰りたければお帰りよ。お父さまが入らっしゃらなくっても構わないから」
「でも居るわ」
 百合子は矢張り動かなかった。子供でなくっては振舞いにくいこの腕白らしい態度の傍(かたわら)に、お延が年相応の分別を出して叔母に向った。
「あたし一寸行って吉川さんの奥さんに御挨拶をして来ましょうか。澄ましていちゃ悪いわね」
 実を云うと彼女はこの夫人をあまり好いていなかった。向うでも此方を嫌っているように思えた。しかも最初先方から自分を嫌い始めたために、この不愉快な現象が二人の間に起ったのだという朧気(おぼろげ)な理由さえあった。自分が嫌われるべき何等のきっかけも与えないのに、向うで嫌い始めたのだという自信も伴っていた。先刻双眼鏡を向けられた時、既に挨拶に行かなければならないと気の付いた彼女は、即座にそれを断行する勇気を起し得なかったので、内心の不安を質問の形に引き直して叔母に相談しかけながら、腹の中では、その義務を容易(たやす)く果させるために、叔母が自分と連れ立って、夫人の所へ行って呉れはしまいかと暗に願っていた。
 叔母はすぐ返事をした。
「ああ行った方が可いよ。行っといでよ」
「でも今居らっしゃらないから」
「なに屹度廊下にでも出ておいでなんだよ。行けば分るよ」
「でも、――じゃ行くから叔母さんも一所に入らっしゃいな」
「叔母さんは――」
「入らっしゃらない?」
「行っても可いがね。どうせ今に御飯を食べる時に、一所になる筈になってるんだから、御免蒙(こうむ)ってその時にしようかと思ってるのよ」
「あらそんなお約束があるの。あたしちっとも知らなかったわ。誰と誰が一所に御飯を召上がるの」
「みんなよ」
「あたしも?」
「ああ」
 意外の感に打たれたお延は、しばらくしてから答えた。
「そんならあたしもその時にするわ」

五十

 岡本の来たのはそれから間もなくであった。茶屋の男に開けて貰った戸の隙間から中を覗いた彼は、お出々々(おいでおいで)をして百合子を廊下へ呼び出した。其所で二人がみんなの邪魔にならないような小声の立談(たちばなし)を、二言三言取り換わした後で、百合子は約束通り男に送られてすぐ場外へ出た。そうして入れ代りに入って来た彼がその後へ窮屈そうに坐った。こんな場所では一寸身体の位置を変るのさえ億劫そうに見える肥満な彼は、坐ってしまってから不図気の付いたように、半分ばかり背後を向いた。
「お延、代ってやろうか。あんまり大きいのが前を塞いで邪魔だろう」
 一夜作りの山が急に出来上ったような心持のしたお延は、舞台へ気を取られている四辺(あたり)へ遠慮して動かなかった。毛織ものを肌へ着けた例(ためし)のない岡本は、毛だらけな腕を組んで、これもお付合だと云った風に、みんなの見ている方角へ視線を向けた。そこでは色の生っ白い変な男が柳の下をうろうろしていた。荒い縞の着物をぞろりと着流して、博多の帯をわざと下の方へ締めたその色男は、素足に雪駄(せった)を穿いているので、歩く度にちゃらちゃらいう不愉快な音を岡本の耳に響かせた。彼は柳の傍にある橋と、橋の向うに並んでいる土蔵の白壁を見廻して、それからその序(ついで)に観客の方へ眼を移した。然るに観客の顔は悉く緊張していた。雪駄をちゃらちゃら鳴らして舞台の上を往ったり来たりするこの若い男の運動に、非常な重大の意味でもあるように、満場は静まり返って、咳一つするものがなかった。急に表から入って来た彼に取って、すぐこの特殊な空気に感染する事が困難であったのか、又馬鹿らしかったのか、少時(しばらく)すると彼は又窮屈そうに半分後を向いて、小声でお延に話しかけた。
「どうだ面白いかね。――由雄さんはどうだ。――」
 簡単な質問を次から次へと三つ四つ掛けて、一口ずつの返事をお延から受け取った彼は、最後に意味ありげな眼をして更に訊いた。
「今日はどうだったい。由雄さんが何とか云やしなかったかね。大方愚図々々云ったんだろう。己(おれ)が病気で寐ているのに貴様一人芝居へ行くなんて不埒千万(ふらちせんばん)だとか何とか。え? 屹度そうだろう」
「不埒千万だなんて、そんな事云やしないわ」
「でも何か云われたろう。岡本は不都合な奴だ位云われたに違あるまい。電話の様子がとうも変だったぜ」
 小声でさえ話をするものが周囲(あたり)に一人もない所で、自分だけ長い受け答をするのは極りが悪かったので、お延はただ微笑していた。
「構わないよ。叔父さんが後で話をして遣るから、そんな事は心配しないでも可いよ」
「あたし心配なんかしちゃいないわ」
「そうか、それでも少しゃ気がかりだろう。結婚早々旦那様の御機嫌を損じちゃ」
「大丈夫よ。御機嫌なんか損じちゃいないって云うのに」
 お延は煩(うる)さそうに眉を動かした。面白半分調戯(からか)って見た岡本は少し真面目になった。
「実は今日お前を呼んだのはね、ただ芝居(しばや)を見せるためばかりじゃない、少し呼ぶ必要があったんだよ。それで由雄さんが病気の所を無理に来て貰った様な訳だが、その訳さえ由雄さんに後から話して置けば何でもない事さ。叔父さんが能く話して置くよ」
 お延の眼は急に舞台を離れた。
「理由って一体何」
「今此所じゃ話し悪(にく)いがね。いずれ後で話すよ」
 お延は黙るより外に仕方なかった。岡本は付け足すように云った。
「今日は吉川さんと一所に食堂で晩食(ばんめし)を食べる事になってるんだよ。知ってるかね。そら吉川も彼所(あすこ)へ来ているだろう」
 先刻まで眼に付かなかった吉川の姿がすぐお延の眼に入った。
「叔父さんと一所に来たんだよ。倶楽部から」
 二人の会話は其所で途切れた。お延は又真面目に舞台の方を見出した。然し十分経つか経たないうちに、彼女の注意が又そっと後の戸を開ける茶屋の男によって乱された。男は叔母に何か耳語(ささや)いた。叔母はすぐ叔父の方へ顔を寄せた。
「あのね吉川さんから、食事の用意を致させて置きましたから、この次の幕間(まくあい)にどうぞ食堂へ御出下さいますようにって」
 叔父はすぐ返事を伝えさせた。
「承知しました」
 男は又戸をそっと閉(た)てて出て行った。これから何が始まるのだろうかと思ったお延は、黙って会食の時間を待った。

五十一

 彼女が叔父叔母の後に随いて、継子と一所に、二階の片隅にある奥行の深い食堂に入るべく席を立ったのは、それから小一時間後であった。彼女は自分と肩を並べて、すれすれに廊下を歩いて行く従妹(いとこ)に小声で訊いて見た。
「一体これから何が始まるの」
「知らないわ」
 継子は下を向いて答えた。
「ただ御飯を食べるぎりなの」
「そうなんでしょう」
 訊こうとすれば訊こうとする程、継子の返事が曖昧になってくるように思われたので、お延はそれぎり口を閉じた。継子は前に行く父母(ちちはは)に遠慮があるのかも知れなかった。又自分は何にも承知していないのかも分らなかった。或は承知していても、お延に話したくないので、わざと短かい返事を小さな声で与えないとも限らなかった。
 鋭い一瞥の注意を彼等の上に払って行きがちな、廊下で出逢う多数の人々は、みんなお延よりも継子の方に余分の視線を向けた。忽然(こつぜん)お延の頭に彼女と自分との比較が閃めいた。姿恰好は継子に立ち優っていても、服装(なり)や顔形で是非ひけを取らなければならなかった彼女は、何時(いつ)までも子供らしく羞耻(はにか)んでいるような、又何所までも気苦労のなさそうに初々しく出来上った、処女としては水の滴(した)たるばかりの、この従妹を軽い嫉妬の眼で視た。其所にはたとい気の毒だという侮蔑の意(こころ)が全く打ち消されていないにした所で、一寸彼我の地位を易(か)えて立って見たい位な羨望の念が、著るしく働らいていた。お延は考えた。
「処女であった頃、自分にもかつてこんなお嬢さんらしい時期があったろうか」
 幸か不幸か彼女はその時期を思い出す事が出来なかった。平生(へいぜい)継子を標準(めやす)に置かないで、何とも思わずに暮していた彼女は、今その従妹と肩を並べながら、賑やかな電燈で明るく照らされた廊下の上に立って、また曾(かつ)て感じた事のない一種の哀愁に打たれた。それは軽いものであった。然し涙に変化し易い性質のものであった。そうして今嫉妬の眼で眺めたばかりの相手の手を、固く握り締めたくなるような種類のものであった。彼女は心の中で継子に云った。
「あなたは私より純潔です。私が羨やましがる程純潔です。けれどもあなたの純潔は、あなたの未来の夫に対して、何の役にも立たない武器に過ぎません。私のように手落なく仕向けてすら夫は、決して此方の思う通りに感謝して呉れるものではありません。あなたは今に夫の愛を繋ぐために、その貴い純潔な生地を失わなければならないのです。それだけの犠牲を払って夫のために尽してすら、夫はことによるとあなたに辛く中(あた)るかも知れません。私はあなたが羨ましいと同時に、あなたがお気の毒です。近いうちに破壊しなければならない貴い宝物を、あなたはそれと心づかずに、無邪気に有(も)っているからです。幸か不幸か始めから私には今あなたの有っているような天然そのままの器が完全に具(そな)わっておりませんでしたから、それ程の損失もないのだと云えば、云われないこともないでしょうが、あなたは私と違います。あなたは父母の膝下(しっか)を離れると共に、すぐ天真の姿を傷つけられます。あなたは私よりも可哀相です」
 二人の歩き方は遅かった。先に行った岡本夫婦が人に遮ぎられて見えなくなった時、叔母はわざわざ取って返した。
「早くお出なね。何を愚図々々しているの。もう吉川さんの方じゃ先へ来て待って入らっしゃるんだよ」
 叔母の眼は継子の方にばかり注がれていた。言葉もとくに彼女に向って掛けられた。けれども吉川という名前を聞いたお延の耳には、それが今までの気分を一度に吹き散らす風のように響いた。彼女は自分のあまり好いていない、又向うでも自分をあまり好いていないらしい、吉川夫人の事をすぐ思い出した。彼女は自分の夫が、平生から一方ならぬ恩顧を受けている勢力家の細君として、今その人の前に、能う限りの愛嬌と礼儀とを示さなければならなかった。平静のうちに一種の緊張を包んだ彼女は、知らん顔をして、みんなの後に随いて食堂に入った。

五十二

 叔母の云った通り、吉川夫婦は自分達より一足早く約束の場所へ来たものと見えて、お延の目標にするその夫人は、入口の方を向いて叔父と立談(たちばなし)をしていた。大きな叔父の後姿よりも、向う側に食(は)み出している大々した夫人のかっぷくが、まずお延の眼に入った。それと同時に、肉付の豊かな頬に笑いを漲(みなぎ)らしていた夫人の方でも、すぐ眸をお延の上に移した。然し咄嗟の電火作用は起ると共に消えたので、二人は正式に挨拶を取り換すまで、遂に互を認め合わなかった。
 夫人に投げけた一瞥についで、お延は又その傍に立っている若い紳士を見ない訳に行かなかった。それが間違もなく、先刻廊下で継子と一所になって、冗談半分夫人の双眼鏡をはしたなく批評し合った時に、自分達を驚ろかした無言の男なので、彼女は思わずひやりとした。
 簡単な挨拶が各自の間に行われる間、控目にみんなの後に立っていた彼女は、やがて自分の番が廻って来た時、ただ三好さんとしてこの未知の人に紹介された。紹介者は吉川夫人であったが、夫人の用いる言葉が、叔父に対しても、叔母に対しても、又継子に対しても、みんな自分に対するのと同じ事で、その間に少しも変りがないので、お延は遂にその三好の何人(なんぴと)であるかを知らずにしまった。
 席に着くとき、夫人は叔父の隣りに坐った。一方の隣には三好が坐らせられた。叔母の席は食卓の角であった。継子のは三好の前であった。余った一脚の椅子へ腰を下ろすべく余儀なくされたお延は、少し躊躇した。隣りには吉川がいた。そうして前は吉川夫人であった。
「どうです掛けたら」
 吉川は催促するようにお延を横から見上げた。
「さあどうぞ」と気軽に云った夫人は正面から彼女を見た。
「遠慮しずにお掛けなさいよ。もうみんな坐ってるんだから」
 お延は仕方なしに夫人の前に着席した。先を越す積でいたのに、却って先を越されたという拙(まず)い感じが胸の何処かにあった。自分の態度を礼儀から出た本当の遠慮と解釈して貰うように、これから仕向けて行かなければならないという意味もすぐ働らいた。その意志は自分と正反対な継子の初心らしい様子を、食卓越(テーブルごし)に眺めた時、益(ますます)強固にされた。
 継子は又何時もより大人し過ぎた。碌々(ろくろく)口も利かないで、下ばかり向いている彼女の態度の中には、殆んど苦痛に近い或物が見透された。気の毒そうに彼女を一目見遣ったお延は、すぐ前にいる夫人の方へ、彼女に特有な愛嬌のある眼を移した。社交に慣れ切った夫人も黙っている人ではなかった。
 調子の好い会話の断片が、二三度二人の間を往ったり来たりした。然しそれ以上に発展する余地のなかった題目は、其所でぴたりと留まってしまった。二人の間に共通な津田を話の種にしようと思ったお延が、それを自分から持ち出したものかどうかと遅疑しているうちに、夫人はもう自分を置き去りにして、遠くにいる三好に向った。
「三好さん、黙っていないで、ちっと彼地(あっち)の面白い話でもして継子さんに聞かせてお上げなさい」
 丁度叔母と話を途切らしていた三好は夫人の方を向いて静かに云った。
「ええ何でも致しましょう」
「ええ何でもなさい。黙ってちゃ不可(いけま)せん」
 命令的なこの言葉がみんなを笑わせた。
「又独逸を逃げ出した話でもするがいい」
 吉川はすぐ細君の命令を具体的にした。
「独逸を逃げ出した話も、何度となく繰り返すんでね、近頃はもう他(ひと)よりも自分の方が陳腐になってしまいました」
「あなたの様な落付いた方でも、少しは周章(あわて)たでしょうね」
「少しどころなら好いですが、殆んど夢中でしたろう。自分じゃよく分らないけれども」
「でも殺されるとは思わなかったでしょう」
「さよう」
 三好が少し考えていると、吉川はすぐ隣から口を出した。
「まさか殺されるとも思うまいね。ことにこの人は」
「何故です。人間がずうずうしいからですか」
「という訳でもないが、兎に角非常に命を惜がる男だから」
 継子が下を向いたままくすくす笑った。戦争前後に独逸を引き上げて来た人だという事だけがお延に解った。

五十三

 三好を中心にした洋行談が一仕切弾んだ。相間々々に巧みなきっかけを入れて話の後を釣り出して行く吉川夫人のお手際を、黙って観察していたお延は、夫人がどんな努力で、彼等四人の前に、この未知の青年紳士を押し出そうと試みつつあるかを見抜いた。穏和(おだやか)というよりも寧ろ無口な彼は、自分でそうと気が付かないうちに、彼に好意を有った夫人の口車に乗せられて、最も有利な方面から自分をみんなの前に説明していた。
 彼女はこの談話の進行中、殆んど一言も口を挟さむ余地を与えられなかった。自然の勢い沈黙の謹聴者たるべき地位に立った彼女には批判の力ばかり多く働らいた。率直と無遠慮の分子を多量に含んだ夫人の技巧が、毫も技巧の臭味なしに、着々成功して行く段階を、一歩ごとに眺めた彼女は、自分の天性と夫人のそれとの間に非常の距離がある事を認めない訳に行かなかった。然しそれは上下の距離でなくって、平面の距離だという気がした。では恐るるに足りないかというと決してそうでなかった。一部分は得意な現在の地位からも出て来るらしい命令的の態度の外に、夫人の技巧には時として恐るべき破壊力が伴なって来はしまいかという危険の感じが、お延の胸の何所かでした。
「此方の気の所為かしらん」
 お延がこう考えていると、問題の夫人が突然彼女の方に注意を移した。
「延子さんが呆れていらっしゃる。あたしが余まり饒舌(しゃべ)るもんだから」
 お延は不意を打たれて退避(たじ)ろいだ。津田の前でかつて挨拶に困った事のない彼女の知恵が、どう働いて好いか分らなくなった。ただ空疎な薄笑が瞬間の虚を充たした。然しそれは御役目にもならない偽りの愛嬌に過ぎなかった。
「いいえ、大変面白く伺っております」と後から付け足した時は、お延自分でももう時機の後れている事に気が付いていた。又遣り損(そく)なったという苦い感じが彼女の口の先まで湧いて出た。今日こそ夫人の機嫌を取り返して遣ろうという気込(きごみ)が一度に萎(な)えた。夫人は残酷に見える程早く調子を易(か)えて、すぐ岡本に向った。
「岡本さんあなたが外国から帰って入らしってから、もう余程になりますね」
「ええ。何しろ一昔前の事ですからな」
「一昔前って何年頃なの、一体」
「さよう西暦……」
 自然だか偶然だか叔父は勿体(もったい)ぶった考え方をした。
「普仏戦争時分?」
「馬鹿にしちゃ不可(いけま)せん。これでもあなたの旦那様を案内して倫敦を連れて歩いて上げた覚があるんだから」
「じゃ巴里(パリ)で籠城した組じゃないのね」
「冗談じゃない」
 三好の洋行談を一仕切で切り上げた夫人は、すぐ話頭(わとう)を、それと関係の深い他の方面へ持って行った。自然吉川は岡本の相手にならなければ済まなくなった。
「何しろ自動車の出来たてで、あれが通ると、みんな振り返って見た時分だったからね」
「うん、あの鈍臭(のろくさ)いバスがまだ幅を利かしていた時代だよ」
 その鈍臭いバスが、そういう交通機関を自分で利用した記憶のない外の者に取って、何の思い出にならなかったにも関わらず、当時を回顧する二人の胸には、矢張り淡い一種の感慨を惹き起すらしく見えた。継子と三好を見較べた岡本は、苦笑しながら吉川に云った。
「お互に年を取ったもんだね。不断はちっとも気が付かずに、まだ若い積かなんかで、頻りに乾燥(はしゃ)ぎ廻っているが、こうして娘の隣に坐って見ると、少し考えるね」
「じゃ始終その子の傍に坐っていらっしったら好いでしょう」
 叔母はすぐ叔父に向った。叔父もすぐ答えた。
「全くだよ。外国から帰って来た時にゃ、この子がまだ」と云いかけて一寸考えた彼は、「幾つだっけかな」と訊いた。叔母がそんな呑気な人に返事をする義務はないといわぬばかりの顔をして黙っているので、吉川が傍から口を出した。
「今度はお爺さまお爺さまって云われる時機が、もう眼前に逼って来たんだ。油断が出来ません」
 継子が顔を赧(あか)くして下を向いた。夫人はすぐ夫の方を見た。
「でも岡本さんにゃ自分の年歯(とし)を計る生きた時計が付いてるから、まだ可いんです。あなたと来たら何にも反省器械を持っていらっしゃらないんだから、全く手に余るだけですよ」
「その代りお前だって何時までもお若くっていらっしゃるじゃないか」
 みんなが声を出して笑った。

五十四

 彼等ほど多人数でない、従って比較的静かな外の客が、まるで舞台を余所にして、気楽そうな話ばかりしているお延の一群を折々見た。時間を倹約するため、わざと軽い食事を取ったものたちが、珈琲も飲まずに、そろそろ立ち掛ける時が来ても、お延の前にはそれからそれへと新らしい皿が運ばれた。彼等は中途で拭布(ナフキン)を放り出す訳に行かなかった。又そんな世話しない真似をする気もないらしかった。芝居を観に来たというよりも、芝居場へ遊びに来たという態度で、何処までもゆっくり構えていた。
「もう始まったのかい」
 急に静かになった食堂を見廻した叔父は、こう云って白服のボイに訊いた。ボイは彼の前に温かい皿を置きながら、鄭寧(ていねい)に答えた。
「ただ今開きました」
「いいや開いたって。この際眼よりも口の方が大事だ」
 叔父はすぐ皮付の鶏の股を攻撃し始めた。向うにいる吉川も、舞台で何が起っていようとまるで頓着しないらしかった。彼はすぐ叔父の後へついて、劇とは全く無関係な食物(くいもの)の挨拶をした。
「君は相変らず旨そうに食うね。――奥さんこの岡本君が今よりもっと食って、もっと肥(ふと)ってた時分、西洋人の肩車へ乗った話をお聞きですか」
 叔母は知らなかった。吉川はまた同じ問を継子に掛けた。継子も知らなかった。
「そうでしょうね、余まり外聞の好い話じゃないから、屹度隠しているんですよ」
「何が?」
 叔父は漸(ようや)く皿から眼を上げて、不思議そうに相手を見た。すると吉川の夫人が傍から口を出した。
「大方重過ぎてその外国人を潰したんでしょう」
「そんならまだ自慢になるが、みんなに変な顔をしてじろじろ見られながら、倫敦(ろんどん)の群集の中で、大男の肩の上へ噛(かじ)り付いていたんだ。行列を見るためにね」
 叔父はまだ笑いもしなかった。
「何を捏造(ねつぞう)する事やら。一体そりゃ何時の話だね」
「エドワード七世の戴冠式(たいかんしき)の時さ。行列を見ようとしてマンションハウスの前に立ってた所が、日本と違って向うのものがあんまり君より脊丈(せい)が高過ぎるもんだから、苦し紛れに一所に行った下宿の亭主に頼んで、肩車に乗せて貰ったって云うんじゃないか」
「馬鹿を云っちゃ不可(いけな)い。そりゃ人違だ。肩車へ乗った奴はちゃんと知ってるが、僕じゃない、あの猿だ」
 叔父の弁解は寧(むし)ろ真面目であった。その真面目な口から猿という言葉が突然出た時、みんなは一度に笑った。
「成程あの猿なら能く似合うね。いくら英吉利(いぎりす)人が大きいたって、どうも君じゃ辻褄が合わな過ぎると思ったよ。――あの猿と来たら又随分矮小だからな」
 知っていながらわざと間違た振をして見せたのか、或は最初から事実を知らなかったのか、とにかく吉川はやっと腑に落ちたらしい言葉遣いをして、猶その当人の猿という渾名(あざな)を、一座を賑(にぎ)わせる滑稽の余韻の如く繰り返した。夫人は半ば好奇的で、半ば戒飭(かいちょく)的な態度を取った。
「猿だなんて、一体誰の事を仰ゃるの」
「なにお前の知らない人だ」
「奥さん心配なさらないでも好ござんす。たとい猿がこの席にいようとも、我々は表裏なく彼を猿々と呼び得る人間なんだから。その代り向うじゃ私の事を豚々って云ってるから、同なじ事です」
 こんな他愛(たわい)もない会話が取り換わされている間、お延は遂に社交上の一員として相当の分前を取る事が出来なかった。自分を吉川夫人に売り付ける機会は何時まで経っても来なかった。夫人は彼女を眼中に置いていなかった。或は寧ろ彼女を回避していた。そうして特に自分の一軒置いて隣りに坐っている継子にばかり話しかけた。たとい一分間でもこの従妹を、注意の中心として、みんなの前に引出そうとする努力の迹さえありありと見えた。それを利用する事の出来ない継子が、感謝とは反対に、却って迷惑そうな表情を、遠慮なく外部に示すたびに、すぐ彼女と自分とを比較したくなるお延の心には羨望の漣波(さざなみ)が立った。
「自分がもしあの従妹の地位に立ったなら」
 会食中の彼女は屡ばこう思った。そうしてその後から暗に人馴れない継子を憐れんだ。最後には何という気の毒な女だろうという軽侮(けいぶ)の念が例(いつ)もの通り起った。

五十五

 彼等の席を立ったのは、男達の燻(くゆ)らし始めた食後の葉巻に、白い灰が一寸近くも溜った頃であった。その時誰かの口から出た「もう何時だろう」というきっかけが、偶然お延の位置に変化を与えた。立ち上る前の一瞬間を捉えた夫人は突然お延に話しかけた。
「延子さん。津田さんはどうなすって」
 いきなりこう云って置いて、お延の返事も待たずに、夫人はすぐその後を自分で云い足した。
「先刻から伺おう伺おうと思ってた癖に、つい自分の勝手な話ばかりして――」
 この言訳をお延は腹の中で嘘らしいと考えた。それは相手の使う当座の言葉つきや態度から出た疑でなくって、彼女に云わせると、もう少し深い根拠のある推定であった。彼女は食堂へ這入って夫人に挨拶をした時、自分の使った言葉を能く覚えていた。それは自分のためというよりも、寧ろ自分の夫のために使った言葉であった。彼女はこの夫人を見るや否や、恭(うやうや)しく頭を下げて、「毎度津田が御厄介になりまして」と云った。けれども夫人はその時その津田については一言も口を利かなかった。自分が挨拶を交換した最後の同席者である以上、其所にはそれだけの口を利く余裕が充分あったにも関わらず、夫人は、すぐ余所を向いてしまった。そうして二三日前津田から受けた訪問などは、まるで忘れているような風をした。
 お延は夫人のこの挙動を、自分が嫌われているからだとばかり解釈しなかった。嫌われている上に、まだ何か理由があるに違ないと思った。でなければ、いくら夫人でも、とくに津田の名前を回避するような素振を、彼の妻たるものに示す筈がないと思った。彼女は自分の夫がこの夫人の気に入っているという事実を能く承知していた。然し単に夫を贔負(ひいき)にして呉れるという事が、何でもその人を妻の前に談話の題目として憚(はば)かられるのだろう。お延は解らなかった。彼女が会食中、当然他に好かれべき女性としての自己の天分を、夫人の前に発揮するために、二人の間に存在する唯一の共通点とも見られる津田から出立しようと試みて、遂に出立し得なかったのも、一つはこれが胸に痞(つか)えていたからであった。それを愈(いよいよ)席を立とうとする間際になって、向うから切り出された時のお延は、ただ夫人の言訳に対してのみ、嘘らしいという疑を抱くだけでは済まなかった。今頃になって夫の病気の見舞をいってくれる夫人の心の中には、已(やむ)を得ない社交上の辞令意以外に、まだ何か存在しているのではなかろうかと考えた。
「有難う御座います。お蔭さまで」
「もう手術をなすったの」
「ええ今日」
「今日? それであなた能くこんな所へ来られましたね」
「大した病気でも御座いませんものですから」
「でも寐ていらっしゃるんでしょう」
「寐てはおります」
 夫人はそれで構わないのかという様子をした。少なくとも彼女の黙っている様子がお延にはそう見えた。他に対して男らしく無遠慮に振舞っている夫人が、自分にだけは、まるで別な人間として出てくるのではないかと思われた。
「病院へ御入りになって」
「病院と申す程の所では御座いませんが、丁度お医者様の二階が空いておるので、五六日(ごろくんち)其所へ置いて頂く事にしております」
 夫人は医者の名前と住所(ところ)とを訊いた。見舞に行く積だとも何とも云わなかったけれども、実はそのために、わざわざ津田の話を持ち出したのじゃなかろうかという気のしたお延は、始めて夫人の意味が多少自分に呑み込めたような心持もした。
 夫人と違って最初から津田の事をあまり念頭に置いていなかったらしい吉川は、この時始めて口を出した。
「当人に聞くと、去年から病気を持ち越しているんだってね。今の若さにそう病気ばかりしちゃ仕方がない。休むのは五六日に限った事もないんだから、癒るまでよく養生するように、そう云って下さい」
 お延は礼を云った。
 食堂を出た七人は、廊下で又二組に分れた。

五十六

 残りの時間を叔母の家族とともに送ったお延には、それから何の波瀾も来なかった。ただ褞袍(どてら)を着て横臥した寐巻姿の津田の面影が、熱心に舞台を見詰めている彼女の頭の中に、不意に出て来る事があった。その面影は今まで読み掛けていた本を伏せて、此所に坐っている彼女を、遠くから眺めているらしかった。然しそれは、彼女が喜こんで彼を見返そうとする刹那に、「いや疳違(かんちが)いをしちゃ不可(いけな)い、何をしているか一寸覗いて見ただけだ。お前なんかに用のある己じゃない」という意味を、眼付で知らせるものであった。騙されたお延は何だ馬鹿らしいという気になった。すると同時に津田の姿も幽霊のようにすぐ消えた。二度目にはお延の方から「もう貴方のような方の事は考えて上げません」と云い渡した。三度目に津田の姿が眼に浮んだ時、彼女は舌打をしたくなった。
 食堂へ入る前の彼女は未だかつて夫の事を念頭に置いていなかったので、お延に云わせると、こういう不可抗な心の作用は、すべて夕飯後に起った新らしい経験に外ならなかった。彼女は黙って前後二様の自分を比較して見た。そうしてこの急劇な変化の責任者として、胸のうちで、吉川夫人の名前を繰り返さない訳に行かなかった。今夜もし夫人と同じ食卓(テーブル)で晩餐を共にしなかったならば、こんな変な現象は決して自分に起らなかったろうという気が、彼女の頭の何処かでした。然し夫人の如何なる点が、この苦い酒を醸す醗酵分子となって、どんな具合に彼女の頭のなかに入り込んだのかと訊かれると、彼女はとても判然した返事を与えることが出来なかった。彼女はただ不明瞭な材料をもっていた。そうして比較的明瞭な断案に到着していた。材料に不足な懸念を抱かない彼女が、その断案を不備として疑う筈はなかった。彼女は総ての源因が吉川夫人にあるものと固く信じていた。
 芝居が了(は)ねて一旦茶屋へ引き上げる時、お延は其所で又夫人に会う事を恐れた。然し会ってもう少し突ッ込んで見たいような気もした。帰りを急ぐ混雑(ごたごた)した間際に、そんな機会の来る筈もないと、始めから諦らめている癖に、そうした好奇の心が、会いたくないという回避の念の蔭から、ちょいちょい首を出した。
 茶屋は幸にして異っていた。吉川夫婦の姿は何処にも見えなかった。襟に毛皮の付いた重そうな二重廻しを引掛けながら岡本がコートに袖を通しているお延を顧みた。
「今日は宅へ来て泊って行かないかね」
「え、有難う」
 泊るとも泊らないとも片付かない挨拶をしたお延は、微笑しながら叔母を見た。叔母は又「貴方の気楽さ加減にも呆れますね」という表情で叔父を見た。其所に気が付かないのか、或は気が付いても無頓着なのか、彼は同じ事を、前よりはもっと真面目な調子で繰り返した。
「泊って行くなら、泊っといでよ。遠慮は要らないから」
「泊っていけったって、貴方、宅にゃ下女がたった一人で、この子の帰るのを待ってるんですもの。そんな事無理ですわ」
「はあ、そうかね、成程。下女一人じゃ不用心だね」
 そんなら止すが好かろうと云った風の様子をした叔父は、無論最初から何方でも構わないものを一寸問題にして見ただけであった。
「あたしこれでも津田へ行ってからまだ一晩も御厄介になった事はなくってよ」
「はあ、そうだったかね。それは感心に品行方正の至だね」
「厭だ事。――由雄だって外へ泊った事なんか、まだ有やしないわ」
「いや結構ですよ。御夫婦お揃いで、お堅くっていらっしゃるのは――」
「何よりもって恐悦至極」
 先刻聞いた役者の言葉を、小さな声で後へ付け足した継子は、そう云った後で、自分ながらその大胆さに呆れたように、薄赤くなった。叔父はわざと大きな声を出した。
「何ですって」
 継子は極りが悪いので、聞えない振をして、どんどん門口の方へ歩いて行った。みんなもその後に随いて表へ出た。
 車へ乗る時、叔父はお延に云った。
「お前宅へ泊れなければ、泊らないで可いから、その代り何時かお出よ、二三日中にね。少し訊きたい事があるんだから」
「あたしも叔父さんに伺わなくっちゃならない事があるから、今日のお礼旁(かたがた)是非上るわ。もしか都合が出来たら明日にでも伺ってよ、好くって」
「オー、ライ」
 四人の車はこの英語を相図に走(か)け出した。

五十七

 津田の宅と略(ほぼ)同じ方角に当る岡本の住居(すまい)は、少し道程(みちのり)が遠いので、三人の後に随いたお延の護謨輪(ゴムわ)は、小路へ曲る例の角まで一所に来る事が出来た。其所で別れる時、彼女は幌の中から、前に行く人達に声を掛けた。けれどもそれが向うへ通じたか通じないか分らないうちに、彼女の俥はもう電車通りを横に切れていた。しんとした小路の中で、急に一種の淋しさが彼女の胸を打った。今まで団体的に旋回していたものが、吾知らず調子を踏み外して、一人圏外に振り落された時のように、淡いながら頼りを失った心持で、彼女は自分の宅(うち)の玄関を上った。
 下女は格子の音を聞いても出て来なかった。茶の間には電燈が明るく輝やいているだけで、鉄瓶さえ何時ものように快い音を立てなかった。今朝見たと何の変りもない室(へや)の中を、彼女は今朝と違った眼で見廻した。薄ら寒い感じが心細い気分を抱擁(ほうよう)し始めた。その瞬間が過ぎて、ただの淋しさが不安の念に変りかけた時、歓楽に疲れた身体を、長火鉢の前に投げ掛けようとした彼女は、突然勝手口の方を向いて「時、時」と下女の名前を呼んだ。同時に勝手の横に付いている下女部屋の戸を開けた。
 二畳敷の真中に縫物をひろげて、その上に他愛(たわい)なく突ッ伏していたお時は、急に顔を上た。そうしてお延を見るや否や、いきなり「はい」という返事を判然(はっきり)して立ち上った。それと共に、針仕事のため、わざと低目にした電燈の笠へ、崩れかかった束髪(そくはつ)の頭を打(ぶ)つけたので、あらぬ方へ波をうった電球が、猶の事彼女を狼狽させた。
 お延は笑いもしなかった。叱る気にもならなかった。こんな場合に自分ならという彼我(ひが)の比較さえ胸に浮かばなかった。今の彼女には寐ぼけたお時でさえ、其所にいて呉れるのが頼母(たのも)しかった。
「早く玄関を締めてお寐。潜(くぐ)りの*カキガネ*はあたしが掛けて来たから」
 下女を先へ寐かしたお延は、着物も着換えずに又火鉢の前へ坐った。彼女は器械的に灰をほじくって消えかかった火種に新らしい炭を継ぎ足した。そうして家庭としては欠くべからざる要件のごとくに、湯を沸かした。然し夜更に鳴る鉄瓶の音に、一人耳を澄ましている彼女の胸に、何処からともなく逼(せま)ってくる孤独の感が、先刻帰った時よりも猶劇しく募って来た。それが平生(へいぜい)遅い夫の戻りを持ちあぐんで起す淋しみに比べると、遥かに程度が違うので、お延が思わず病院に寐ている夫の姿を、懐かしそうに心の眼で眺めた。
「矢っ張りあなたが居らっしゃらないからだ」
 彼女は自分の頭の中に描き出した夫の姿に向ってこう云った。そうして明日は何を置いても、まず病院へ見舞に行かなければならないと考えた。然し次の瞬間には、お延の胸がもうぴたりと夫の胸に食付(くっつ)いていなかった。二人の間に何だか挟まってしまった。此方で寄り添おうとすればする程、中間にあるその邪魔ものが彼女の胸を突ッついた。しかも夫は平気で澄ましていた。半ば意地になった彼女の方でも、そんなら宜しゅう御座いますといって、夫に脊中を向けたくなった。
 こういう立場まで来ると、彼女の空想は会釈(えしゃく)なく吉川夫人の上に飛び移らなければならなかった。芝居場で一度考えた通り、もし今夜あの夫人に会わなかったなら、最愛の夫に対して、これ程不愉快な感じを抱かずに済んだろうにという気ばかり強くした。
 仕舞に彼女は何処かにいる誰かに自分の心を訴えたくなった。昨夜書きかけた里へ遣る手紙の続を書こうと思って、筆を執りかけた彼女は、何時まで経っても、夫婦仲よく暮しているから安心して呉れという意味より外に、自分の思いを巻紙の上に運ぶ事が出来なかった。それは彼女が常に両親に対して是非云いたい言葉であった。然し今夜は、どうしてもそれだけでは物足らない言葉であった。自分の頭を纏(まと)める事に疲れ果た彼女は、とうとう筆を投げ出した。着物も其所へ脱ぎ捨てたまま、彼女は遂に床へ入った。長い間眼に映った劇場の光景が、断片的に幾通りもの強い色になって、興奮した彼女の頭をちらちら刺戟するので、彼女は焦(じ)らされる人のように、何時までも眠に落ちる事が出来なかった。

五十八

 彼女は枕の上で一時を聴いた。二時も聴いた。それから何時だか分らない朝の光で眼を覚ました。雨戸の隙間から射し込んで来るその光は、明らかに例(いつ)もより寐過した事を彼女に物語っていた。
 彼女はその光で枕元に取り散らされた昨夕(ゆうべ)の衣装を見た。上着と下着と長襦袢(ながじゅばん)と重なり合って、すぽりと脱ぎ捨てられたまま、畳の上に崩れているので、其所には上下裏表の、しだらなく一度に入り乱れた色の塊りがあるだけであった。その色の塊りの下から、細長く折目の付いた端を出した金糸入りの檜扇(ひおうぎ)模様の帯は、彼女の手の届く距離まで延びていた。
 彼女はこの乱雑な有様を、聊(いささ)か呆れた眼で眺めた。これがかねてから、几帳面を女徳の一つと心掛て来た自分の所作かと思うと、少し浅間しいような心持にもなった。津田に嫁いで以後、かつてこんな不体裁(ふしだら)を夫に見せた覚のない彼女は、その夫が今自分と同じ室の中に寐ていないのを見て、ほっと一息した。
 だらしのないのは着物の事ばかりではなかった。もし夫が入院しないで、例もの通り宅(うち)にいたならば、たといどんなに夜更(よふか)しをしょうとも、こう遅くまで、気を許して寐ている筈がないと思った彼女は、眼が覚めると共に跳ね起きなかった自分を、どうしても怠けものとして軽蔑しない訳に行かなかった。
 それでも彼女は容易に起き上らなかった。昨夕の不首尾を償うためか、自分の知らない間に起きて呉れたお時の足音が、先刻から台所で聞こえるのを好い事にして、彼女は何時までも肌触りの暖かい夜具の中に包まれていた。
 その内眼を開けた瞬間に感じた、済まないという彼女の心持が段々弛(ゆる)んで来た。彼女はいくら女だって、年に一度や二度この位の事をしても差支(さしつかえ)なかろうと考え直すようになった。彼女の関節(ふしぶし)が楽々しだした。彼女は何時にない暢(のん)びりした気分で、結婚後始めて経験する事の出来たこの自由を有難く味わった。これも畢竟(ひっきょう)夫が留守のお蔭だと気の付いた時、彼女は当分一人になった今の自分を、寧ろ祝福したい位に思った。そうして毎日夫と寐起を共にしていながら、つい心にも留めず、今日まで見過ごしてきた窮屈というものが、彼女にとって存外重い負担であったのに驚ろかされた。然し偶発的に起ったこの瞬間の覚醒は無論長く続かなかった。一旦解放された自由の眼で、やきもきした昨夕(ゆうべ)の自分を嘲けるように眺めた彼女が床を離れた時は、もう既に違った気分に支配されていた。
 彼女は主婦として何時も遣る通りの義務を遅いながら綺麗に片付けた。津田がいないので、大分省ける手数を利用して、下女も煩(わずら)わさずに、自分で自分の着物を畳んだ。それから軽い身仕舞をして、すぐ表へ出た彼女は、寄道もせずに、通りから半丁程行った所にある、新らしい自動電話の箱の中に入った。
 彼女は其所で別々の電話を三人へ掛けた。その三人のうちで一番先に択(えら)ばれたものは、やはり津田であった。然し自分で電話口へ立つ事の出来ない横臥(おうが)状態にある彼の消息は、間接に取次の口から聞くより外に仕方がなかった。ただ別に異状のある筈はないと思っていた彼女の予期は外れなかった。彼女は「順当で御座います、お変りは御座いません」という保証の言葉を、看護婦らしい人の声から聞いた後で、どの位津田が自分を待ち受けているかを知るために、今日は見舞に行かなくっても可いかと尋ねて貰った。すると津田が何故かと云って看護婦に訊き返させた。夫の声も顔も分らないお延は、判然に苦しんで電話口で首を傾けた。こんな場合に、彼は是非来てくれと頼むような男ではなかった。然し行かないと、機嫌を悪くする男であった。それでは行けば喜ぶかというとそうでもなかった。彼はお延に親切の仕損をさせて置いて、それが女の義務じゃないかといった風に、取り澄ました顔をしないとも限らなかった。不図こんな事を考えた彼女は、昨夕吉川夫人から受け取ったらしく自分では思っている、夫に対する一種の感情を、つい電話口で洩らしてしまった。
「今日は岡本へ行かなければならないから、其方(そちら)へは参りませんって云って下さい」
 それで病院の方を切った彼女は、すぐ岡本へ掛け易(か)えて、今に行っても可いかと聞き合せた。そうして最後に呼び出した津田の妹へは、彼の現状を一口報告的に通じただけで、又宅(うち)へ帰った。

五十九

 お時の御給仕で朝食兼帯の午(ひる)の膳に着くのも、お延にとっては、結婚以来始めての経験であった。津田の不在から起るこの変化が、女王(クイーン)らしい気持を新らしく彼女に与えると共に、毎日の習慣に反して貧(むさ)ぼり得たこの自由が、何時もよりは却って彼女を囚えた。身体の悠(ゆっ)くりした割合に、心の落付けなかった彼女は、お時に向って云った。
「旦那様が居らっしゃらないと何だか変ね」
「へえ、御淋(おさむ)しゅう御座います」
 お延はまだ云い足りなかった。
「こんな寐坊をしたのは始めてね」
「ええ、その代り何時でもお早いんだから、偶(たま)には朝とお午と一所でも、宜しゅう御座いましょう」
「旦那様が居らっしゃらないと、すぐあの通りだなんて、思やしなくって」
「誰がで御座います」
「お前がさ」
「飛んでもない」
 お時のわざとらしい大きな声は、下手な話し相手よりも非道くお延の趣味に応えた。彼女はすぐ黙ってしまった。
 三十分ほど経って、お時の沓脱(くつぬぎ)に揃えた余所行の下駄を穿(は)いて又表へ出る時、お延は玄関まで送って来た彼女を顧みた。
「よく気を付けてお呉れよ。昨夕みたいに寐てしまうと、不用心だからね」
「今夜も遅く御帰りになるんで御座いますか」
 お延は何時帰るかまるで考えていなかった。
「あんなに遅くはならない積だがね」
 たまさかの夫の留守に、ゆっくり岡本で遊んで来たいような気が、お延の胸の何処かでした。
「成るたけ早く帰って来て上げるよ」
 こう云い捨てて通りへ出た彼女の足は、すぐ約束の方角へ向った。
 岡本の住居(すまい)は藤井の家と略(ほぼ)同じ見当にあるので、途中までは例の川沿の電車を利用する事が出来た。終点から一つか二つ手前の停留所で下りたお延は、其所に掛け渡した小さい木の橋を横切って、向う側の通りを少し歩いた。その通りは二三日前の晩、酒場(バー)を出た津田と小林とが、二人の境遇や性格の差違から来る縺(もつ)れ合った感情を互に抱きながら、朝鮮行きだの、お金さんだのを問題にして歩いた往来であった。それを津田の口から聞かされていなかった彼女は、二人の様子を想像するまでもなく、彼等とは反対の方角に無心で足を運ばせた後で、叔父の宅へ行くには是非とも上らなければならない細長い坂へ掛かった。すると偶然向うから来た継子に言葉をかけられた。
「昨日は」
「何処へ行くの」
「お稽古」
 去年女学校を卒業したこの従妹は、余暇(ひま)に任せて色々なものを習っていた。ピアノだの、茶だの、花だの、水彩画だの、料理だの、何へでも手を出したがるその人の癖を知っているので、お稽古という言葉を聞いた時、お延は、つい笑いたくなった。
「何のお稽古? トーダンス?」
 彼等はこんな楽屋落(がくやおち)の笑談(じょうだん)をいう程親しい間柄であった。然しお延から見れば、自分より余裕のある相手の境遇に対して、多少の皮肉を意味しないとも限らないこの笑談が、肝心の当人には、一向諷刺としての音響を伝えずに済むらしかった。
「まさか」
 彼女はただこう云って機嫌よく笑った。そうして彼女の笑は、如何に鋭敏なお延でも、無邪気その物だと許さない訳に行かなかった。けれども彼女は遂に何処へ何の稽古に行くかをお延に告げなかった。
「冷かすから厭よ」
「又何か始めたの」
「どうせ慾張だから何を始めるか分らないわ」
 稽古事の上で、継子が慾張という異名を取っている事も、彼女の宅(うち)では隠れない事実であった。最初妹から付けられて、忽ち家族のうちに伝播したこの悪口は、近頃彼女自身によって平気に使用されていた。
「待っていらっしゃい。じき帰って来るから」
 軽い足でさっさと坂を下りて行く継子の後姿を一度振り返って見たお延の胸に、又尊敬と軽侮とを搗(つ)き交ぜたその人に対する何時もの感じが起った。

六十

 岡本の邸宅(やしき)へ着いた時、お延は又偶然叔父の姿を玄関前に見出した。羽織も着ずに、兵児帯(へこおび)をだらりと下げて、その結び目の所に、後へ廻した両手を重ねた彼は、傍で鍬(くわ)を動かしている植木屋としきりに何か話をしていたが、お延を見るや否や、すぐ向うから声を掛けた。
「来たね。今庭いじりを遣ってる(あけび)の蔓(つる)が巻いたまま、地面の上に投げ出されてあった。
「そいつを今その庭の入口の門の上へ這わせようというんだ。一寸好いだろう」
 お延は網代組(あじろぐみ)の竹垣の中程にあるその茅門(かやもん)を支えている釿(ちょうな)なぐりの柱と丸太の桁を見較べた。
「へえ。あの袖垣(そでがき)の所にあったのを抜いて来たの」
「うんその代り彼所(あすこ)へは玉縁をつけた目関垣(めせきがき)を拵(こしら)えたよ」
 近頃身体に暇が出来て、自分の意匠通り住居(すまい)を新築したこの叔父の建築に関する単語は、何時の間にか急に殖えていた。言葉を聴いただけではとても解らないその目関垣というものを、お延はただ「へえ」と云って応答(あしら)っているより外に仕方がなかった。
「食後の運動には好いわね。お腹が空いて」
「笑談(じょうだん)じゃない、叔父さんはまだ午飯(ひるめし)前なんだ」
 お延は引張って、わざわざ庭先から座敷へ上った叔父は「住(すみ)、住」と大きな声で叔母を呼んだ。
「腹が減って仕方がない、早く飯にして呉れ」
「だから先刻(さっき)みんなと一所に召上がれば好いのに」
「ところが、そう勝手元の御都合の可いようにばかりは参らんです、世の中というものはね。第一物に区切のあるという事をあなたは御承知ですか」
 自業自得な夫に対する叔母の態度が澄ましたものであると共に、叔父の挨拶も相変らずであった。久し振で故郷の空気を吸ったような感じのしたお延は、心のうちで自分の目の前にいるこの一対の老夫婦と、結婚してからまだ一年と経たない、云わば新生活の門出にある彼等二人とを比較して見なければならなかった。自分達も長の月日さえ踏んで行けば、こうなるのが順当なのだろうか、又はいくら永く一所に暮らした所で、性格が違えば、互いの立場も末始終(すえしじゅう)まで変って行かなければならないのか、年の若いお延には、それが智恵と想像で解けない一種の疑問であった。お延は今の津田に満足してはいなかった。然し未来の自分も、この叔母のように膏気(あぶらけ)が抜けて行くだろうとは考えられなかった。もしそれが自分の未来に横わる必然の運命だとすれば、何時までも現在の光沢(つや)を持ち続けて行こうとする彼女は、何時か一度悲しいこの打撃を受けなければならなかった。女らしい所がなくなってしまったのに、まだ女としてこの世の中に生存するのは、真に恐ろしい生存であるとしか若い彼女には見えなかった。
 そんな距離の遠い感想が、この若い細君の胸に湧いているとは夢にも気の付きよう筈のない叔父は、自分の前に据えられた膳に向って胡座を掻きながら、彼女を見た。
「おい何をぼんやりしているんだ。しきりに考え込んでいるじゃないか」
 お延はすぐ答えた。
「久し振にお給仕でもしましょう」
 飯櫃(おはち)が生憎其所にないので、彼女が座を立ちかけると叔母が呼び留めた。
「御給仕をしたくったって、麺麭(パン)だから出来ないよ」
 下女が皿の上に狐色に焦げたトーストを持って来た。
「お延、叔父さんは情けない事になっちまったよ。日本に生れて米の飯が食えないんだから可哀相だろう」
 糖尿病の叔父は既定の分量以外に澱粉質(でんぷんしつ)を摂取する事を主治医から厳禁されてしまったのである。
「こうして豆腐ばかり食ってるんだがね」
 叔父の膳には到底(とても)一人では平らげ切れない程の白い豆腐が生のままで供えられた。
 むくむくと肥え太った叔父の、わざとする情なさそうな顔を見たお延は、大して気の毒にならないばかりか、却って笑いたくなった。
「少しゃ断食でもした方が可いんでしょう。叔父さんみたいに肥って生きてるのは、誰だって苦痛に違いないから」
 叔父は叔母を顧みた。
「お延は元から悪口やだったが、嫁に行ってから一層達者になったようだね」
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