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明 暗(3)
夏目漱石 

六十一

 小さいうちから彼の世話になって成長したお延は、色々の角度で出没するこの叔父の特色を他人より能く承知していた。
 肥った身体に釣り合わない神経質の彼には、時々自分の室に入ったぎり、半日位黙って口を利かずにいる癖がある代りに、他の顔さえ見ると、また何かしら喋舌(しゃべ)らないでは片時も居られないといった気作な風があった。それが元気の遣り場所に困るからというよりも、成るべく相手を不愉快にしたくないという対人的な想い遣や、又は客を前に置いて、唯のつそつしている自分の手持無沙汰を避けるためから起る場合が多いので、用件以外の彼の談話には、彼の平生の心掛から来る一種の興味的中心があった。彼の成功に少なからぬ貢献をもたらしたらしく思われる、社交上極めて有利な彼のこの話術は、その所有者の天からうけた諧謔(かいぎゃく)趣味のために、一層派手な光彩を放つ事が屡(しばしば)あった。そうしてそれが子供の時分から彼の傍にいたお延の口に、何時の間にか乗り移ってしまった。機嫌のいい時に、彼を向うへ廻して軽口の吐(つ)き競(くら)をやる位は、今の彼女に取って何の努力も要らない第二の天性のようなものであった。然し津田に嫁いでからの彼女は、嫁ぐとすぐにこの態度を改めた。ところが最初慎みのために控えた悪口は、二ヶ月経っても、三ヶ月経っても中々出て来なかった。彼女は遂にこの点に於て、岡本に居た時の自分とは別個の人間になって、彼女の夫に対しなければならなくなった。彼女は物足らなかった。同時に夫を欺むいているような気がしてならなかった。偶に来て、故(もと)に変らない叔父の様子を見ると、其所に昔しの自由を憶い出させる或物があった。彼女は生豆腐を前に、胡座を掻いている剽軽(ひょうきん)な彼の顔を、過去の記念のように懐かし気に眺めた。
「だってあたしの悪口は叔父さんのお仕込じゃないの。津田に教わった覚なんか、ありゃしないわ」
「ふん、そうでもあるめえ」
 わざと江戸っ子を使った叔父は、そういう種類の言葉を、一切家庭に入れてはならないものの如くに忌み嫌う叔母の方を見た。傍(はた)から注意すると猶面白がって使いたがる癖を能く知っているので、叔母は素知らぬ顔をして取り合わなかった。すると目標(あて)が外れた人のように叔父は又お延に向った。
「一体由雄さんはそんなに厳格な人かね」
 お延は返事をしずに、唯にやにやしていた。
「ははあ、笑ってる所を見ると、矢っ張嬉しいんだな」
「何がよ」
「何がよって、そんなに白ばっくれなくっても、分っていらあな。――だが本当に由雄さんはそんなに厳格な人かい」
「どうだかあたし能く解らないわ。何故またそんな事を真面目腐ってお訊きになるの」
「少し此方にも料簡(りょうけん)があるんだ、返答次第では」
「おお怖い事。じゃ云っちまうわ。由雄は御察しの通り厳格な人よ。それがどうしたの」
「本当にかい」
「ええ。随分叔父さんも苦呶(くど)いのね」
「じゃ此方でも簡潔に結論を云っちまう。果して由雄さんが、お前のいう通り厳格な人ならばだ。到底悪口の達者なお前には向かないね」
 こう云いながら叔父は、其所に黙って坐っている叔母の方を、顎でしゃくって見せた。
「この叔母さんなら、丁度お誂(おあつ)らえ向かも知れないがね」
 淋しい心持が遠くから来た風のように、不意にお延の胸を撫でた。彼女は急に悲しい気分に囚えられた自分を見て驚ろいた。
「叔父さんは何時でも気楽そうで結構ね」
 津田と自分とを、好過ぎる程仲の好い夫婦と仮定してかかった、調戯(からかい)半分の叔父の笑談を、ただ座興から来た出鱈目として笑ってしまうには、お延の心にあまり隙(すき)があり過ぎた。と云って、その隙を飽くまで取り繕ろって、他人の前に、何一つ不足のない夫を持った妻としての自分を示さなければならないとのみ考えている彼女は、心に感じた通りの何物をも叔父の前に露出する自由を有っていなかった。もう少しで涙が眼の中に溜まろうとした所を、彼女は瞬きで胡麻化した。
「いくらお誂らえ向でも、こう年を取っちゃ仕方がない。ねえお延」
 年の割に何処へ行っても若く見られる叔母が、こう云って水々した光沢(つや)のある眼をお延の方に向けた時、お延は何にも云わなかった。けれども自分の感情を隠すために、第一の機会を利用する事は忘れなかった。彼女はただ面白そうに声を出して笑った。

六十二

 親身の叔母よりも却って義理の叔父の方を、心の中で好いていたお延は、その報酬として、自分もこの叔父から特別に可愛がられているという信念を常に有っていた。洒落(しゃらく)でありながら神経質に生れ付いた彼の気合を能く呑み込んで、その両面に行き渡った自分の行動を、寸分違わず叔父の思い通りに楽々と運んで行く彼女には、何時でも年齢の若さから来る柔軟性が伴っていたので、殆んど苦痛というものなしに、叔父を喜こばし、又自分に満足を与える事が出来た。叔父が鑑賞の眼を向けて、常に彼女の所作を眺めていて呉れるように考えた彼女は、時とすると、変化に乏しい叔母の骨はどうしてあんなに堅いのだろうと怪しむ事さえあった。
 如何にして異性を取り扱うべきかの修養を、こうして叔父からばかり学んだ彼女は、何処へ嫁に行っても、それをそのまま夫に応用すれば成功するに違ないと信じていた。津田と一所になった時、始めて少し勝手の違うような感じのした彼女は、この生れて始めての経験を、成程という眼付で眺めた。彼女の努力は、新らしい夫を叔父のような人間に熟(こな)しつけるか、又は既に出来上った自分の方を、新らしい夫に合うように改造するか、何方かにしなければならない場合によく出合った。彼女の愛は津田の上にあった。然し彼女の同情は寧ろ叔父型の人間に注がれた。こんな時に、叔父なら嬉しがって呉れるものをと思う事がしばしば出て来た。すると自然の勢いが彼女にそれを逐一叔父に話してしまえと命令した。その命令に背くほど意地の強い彼女は、今までどうかこうか我慢して通して来たものを、今更告白する気には到底(とても)なれなかった。
 こうして叔父夫婦を欺むいてきたお延には、叔父夫婦がまた何の懸念もなく彼女のために騙されているという自信があった。同時に敏感な彼女は、叔父の方でも亦彼女に打ち明けたくって、しかも打ち明けられない、津田に対する、自分のと同程度位なある秘密を有っているという事を能く承知していた。有体(ありてい)に見透した叔父の腹の中を、お延に云わせると、彼は決して彼女に大切な夫としての津田を好いていなかったのである。それが二人の間に横わる気質の相違から来る事は、たとい二人を比較して見た上でなくても、あまり想像に困難のかからない仮定であった。少くとも結婚後のお延はじき其所に気が付いた。然し彼女はまだその上に材料を有っていた。粗放のようで一面に緻密(ちみつ)な、無頓着のようで同時に鋭敏な、口先は冷淡でも腹の中には親切気のあるこの叔父は、最初会見の当時から、既に直観的に津田を嫌っていたらしかった。「お前はああいう人が好きなのかね」と訊かれた裏側に、「じゃ己のようなものは嫌だったんだね」という言葉が、ともに響いたらしく感じた時、お延は思わずはっとした。然し「叔父さんの御意見は」と此方から問い返した時の彼は、もうその気不味(きまず)い関を通り越していた。
「お出(いで)よ、お前さえ行く気なら、誰にも遠慮は要らないから」と親切に云って呉れた。
 お延の材料はまだ一つ残っていた。自分に対して何にも云わなかった叔父の、津田に関するもっと露骨な批評を、彼女は叔母の口を通して聞く事が出来たのである。
「あの男は日本中の女がみんな自分に惚れなくっちゃならないような顔付をしているじゃないか」
 不思議にもこの言葉はお延にとって意外でも何でもなかった。彼女には自分が津田を精一杯愛し得るという信念があった。同時に、津田から精一杯愛され得るという期待も安心もあった。又叔父の例の悪口が始まったという気が何より先に起ったので、彼女は声を出して笑った。そうして、この悪口はつまり嫉妬から来たのだと一人腹の中で解釈して得意になった。叔母も「自分の若い時の己惚(おのぼれ)は、もう忘れているんだからね」と云って、彼女に相槌を打って呉れた。……
 叔父の前に坐ったお延は自分の後にあるこんな過去を憶い出さない訳に行かなかった。すると「厳格」な津田の妻として、自分が向くとか向かないとかいう下らない彼の笑談のうちに、何か真面目な意味があるのではなかろうかという気さえ起った。
「己の云った通りじゃないかね。なければ仕合せだ。然し万一何かあるなら、又今ないにした所で、これから先ひょっと出て来たなら遠慮なく打ち明けなけりゃ不可いよ」
 お延は叔父の眼の中に、こうした慈愛の言葉さえ読んだ。

六十三

 感傷的の気分を笑に紛らした彼女は、その苦痛から逃れるために、すぐ自分の持って来た話題を叔父叔母の前に切り出した。
「昨日の事は全体どういう意味なの」
 彼女は約束通り叔父に説明を求めなければならなかった。すると返答を与える筈の叔父が却って彼女に反問した。
「お前はどう思う」
 特に「お前」という言葉に力を入れた叔父は、お延の腹でも読むような眼遣いをして彼女を凝(じっ)と見た。
「解らないわ。藪から棒にそんな事訊いたって。ねえ叔母さん」
 叔母はにやりと笑った。
「叔父さんはね、あたしの様な空疎(うっかり)ものには解らないが、お延になら屹度解る。あいつは貴様より気が利いてるからって仰ゃるんだよ」
 お延は苦笑するより外に仕方なかった。彼女の頭には無論朧気(おぼろげ)ながらある憶測があった。けれども強いられないのに、悧巧(りこう)振ってそれを口外する程、彼女の教育は蓮葉(はすは)でなかった。
「あたしにだって解りっこないわ」
「まあ中(あ)てて御覧。大抵見当は付くだろう」
 どうしてもお延の方から先に何か云わせようとする叔父の景色を見て取った彼女は、二三度押問答の末、とうとう推察の通りを云った。
「見合じゃなくって」
「どうして。――お前にはそう見えるかね」
 お延の推測を首肯(うけが)う前に、彼女の叔父から受けた反問がそれからそれへと続いた。仕舞に彼は大きな声を出して笑った。
「中った、中った。矢張りお前の方が住より悧巧だね」
 こんな事で、二人の間に優劣を付ける気楽な叔父を、お住とお延が馬鹿にして冷評(ひやか)した。
「ねえ、叔母さんだってその位の事なら大抵見当が付くわね」
「お前も御賞(おほめ)にあずかったって、あんまり嬉しくないだろう」
「ええ些(ちっ)とも有難かないわ」
 お延の頭に、一座を切り舞わした吉川夫人の斡旋振(あっせんぶり)が又描き出された。
「どうもあたしそうだろうと思ったの。あの奥さんが始終継子さんと、それからあの三好さんて方を、引き立てよう、引き立てようとして、骨を折っていらっしゃるんですもの」
「ところがあのお継と来たら、又引き立たない事、夥(おびただ)しいんだからな。引き立てようとすれば、却って引き下がるだけで、まるで紙袋を被った猫みたいだね。其所へ行くと、お延のようなのはどうしても得だよ。少くとも当世向だ」
「厭にしゃあしゃあしているからでしょう。何だか賞められてるんだか、悪く云われてるんだか分らないわね。あたし継子さんのような大人しい人を見ると、どうかしてあんなになりたいと思うわ」
 こう答えたお延は、叔父の所謂(いわゆる)当世向を発揮する余地の自分に与えられなかった、従って自分から見れば寧ろ不成功に終った、昨夕の会合を、不愉快と不満足の眼で眺めた。
「何で又あたしがあの席に必要だったの」
「お前は継子の従妹じゃないか」
 ただ親類だからというのが唯一の理由だとすれば、お延の外にも出席しなければならない人がまだ沢山あった。その上相手の方では当人がたった一人出て来ただけで、紹介者の吉川夫婦を除くと、向うを代表するものは誰もいなかった。
「何だか変じゃないの。そうすると若し津田が病気でなかったら、やっぱり親類として是非出席しなければ悪い訳になるのね」
「そりゃ又別口だ。外に意味があるんだ」
 叔父の目的中には、昨夕(ゆうべ)の機会を利用して、津田とお延を、一度でも余計吉川夫妻に接近させて遣ろうという好意が含まれていたのである。それを叔父の口から判切(はっきり)聴かされた時、お延は日頃自分が考えている通りの叔父の気性が其所に現われているように思って、暗に彼の親切を感謝すると共に、そんなら何故あの吉川夫人ともっと親しくなれるように仕向けて呉れなかったのかと恨んだ。二人を近づけるために同じ食卓に坐らせたには坐らせたが、結果は却って近づけない前より悪くなるかも知れないという特殊な心理を、叔父はまるで承知していないらしかった。お延はいくら行き届いても男はやっぱり男だと批評したくなった。然しその後から、吉川夫人と自分との間に横わる一種微妙な関係を知らない以上は、誰が出て来ても畢竟どうする事も出来ないのだから仕方がないという、嘆息を交えた寛恕(かんじょ)の念も起って来た。

六十四

 お延はその問題を其所へ放り出したまま、まだ自分の腑に落ちずに残っている要点を片付けようとした。
「成程そういう意味だったの。あたし叔父さんに感謝しなくっちゃならないわね。だけどまだ外に何かあるんでしょう」
「あるかも知れないが、仮令(たとい)ないにした所で、単にそれだけでも、ああしてお前を呼ぶ価値は充分あるだろう」
「ええ有るには有るわ」
 お延はこう答えなければならなかった。然しそれにしては勧誘の仕方が少し猛烈過ぎると腹の中で思った。叔父は果して最後の一物を胸に蔵(しま)い込んでいた。
「実はお前にお婿さんの眼利(めきき)をして貰おうと思ったのさ。お前は能く人を見抜く力を有ってるから相談するんだが、どうだろうあの男は。お継の未来の夫として可いだろうか悪いだろうか」
 叔父の平生から推して、お延は何処までが真面目な相談なのか、一寸判断に迷った。
「まあ大変な御役目を承わったのね。光栄の至りだ事」
 こう云いながら、笑って自分の横にいる叔母を見たが、叔母の様子が案外沈着なので、彼女はすぐ調子を抑えた。
「あたしの様なものが眼利をするなんて、少し生意気よ。それにただ一時間位ああして一所に坐っていただけじゃ、誰だって解りっこないわ。千里眼ででもなくっちゃ」
「いやお前には一寸千里眼らしい所があるよ。だから皆が訊きたがるんだよ」
「冷評(ひやか)しちゃ厭よ」
 お延はわざと叔父を相手にしない振をした。然し腹の中では自分に媚びる一種の快感を味わった。それは自分が実際他(ひと)にそう思われているらしいという把捉(はそく)から来る得意に外ならなかった。けれどもそれは同時に彼女を失意にする覿面(てきめん)の事実で破壊されべき性質のものであった。彼女は反対に近い例証としてその裏面にすぐ自分の夫を思い浮べなければならなかった。結婚前千里眼以上に彼の性質を見抜き得たとばかり考えていた彼女の自信は、結婚後今日に至るまでの間に、明らかな太陽に黒い斑点の出来るように、思い違い疳違(かんちがい)の痕迹(こんせき)で、既に其所此所(そこここ)汚れていた。畢竟(ひっきょう)夫に対する自分の直覚は、長い月日の経験によって、訂正されべく、補修されべきものかも知れないという心細い真理に、漸(ようや)く頭を下げ掛けていた彼女は、叔父に煽(あお)られてすぐ図に乗る程若くもなかった。
「人間はよく交際(つきあ)って見なければ実際解らないものよ、叔父さん」
「その位な事は御前に教わらないだって、誰だって知ってらあ」
「だからよ。一度会った位で何にも云える訳がないっていうのよ」
「そりゃ男の云い草だろう。女は一眼見ても、すぐ何かいうじゃないか。又よく旨い事を云うじゃないか。それを云って御覧というのさ、ただ叔父さんの参考までに。何(な)にもお前に責任なんか持たせやしないから大丈夫だよ」
「だって無理ですもの。そんな予言者みたいな事。ねえ叔母さん」
 叔母は何時ものようにお延に加勢しなかった。さればと云って、叔父の味方にもならなかった。彼女の予言を強いる気色を見せない代りに、叔父の悪強いも留めなかった。始めて嫁にやる可愛い長女の未来の夫に関する批判の材料なら、それがどんなに軽かろうと、耳を傾むける値打は充分あるといった風も見えた。お延は当り障りのない事を一口二口云って置くより外に仕方がなかった。
「立派な方じゃありませんか。そうして若い割に大変落ち付いていらっしゃるのね。……」
その後を待っていた叔父は、お延が何にも云わないので、又催促するように訊いた。
「それっ切かね」
「だって、あたしあの方の一軒置いてお隣へ坐らせられて、碌々(ろくろく)お顔も拝見しなかったんですもの」
「予言者をそんな所へ坐らせるのは悪かったかも知れないがね。――何かありそうなもんじゃないか、そんな平凡な観察でなしに、もっとお前の特色を発揮するような、ただ一言で、ずばりと向うの急所へ中(あ)たるような……」
「むずかしいのね。――何しろ一度位じゃ駄目よ」
「然し一度だけで何か云わなければならない必要があるとしたらどうだい。何か云えるだろう」
「云えないわ」
「云えない? じゃお前の直覚は近頃もう役に立たなくなったんだね」
「ええ、お嫁に行ってから、段々直覚が擦り減らされてしまったの。近頃は直覚じゃなくって錯覚だけよ」

六十五

 口先でこんな押問答を長たらしく繰り返していたお延の頭の中には、又別の考えが絶えず並行して流れていた。
 彼女は夫婦和合の適例として、叔父から認められている津田と自分を疑わなかった。けれども初対面の時から津田を好いて呉れなかった叔父が、その後彼の好悪を改める筈がないという事も能く承知していた。だから睦(むつま)しそうな津田と自分とを、彼は始終不思議な眼で、眺めているに違ないと思っていた。それを他の言葉で云い換えると、どうしてお延のような女が、津田を愛し得るのだろうという疑問の裏に、叔父は何時でも、彼自身の先見に対する自信を持ち続けていた。人間を見損(みそく)なったのは、自分でなくて、却ってお延なのだという断定が、時機を待って外部に揺曳(ようえい)するために、彼の心の下層にいつも沈澱しているらしかった。
「それだのに叔父は何故三好に対する自分の評を、こんなに執濃(しつこ)く聴こうとするのだろう」
 お延は解しかねた。既に自分の夫を見損なったものとして、暗に叔父から目指されているらしい彼女に、その自覚を差し置いて、おいそれと彼の要求に応ずる勇気はなかった。仕方がないので、彼女は仕舞に黙ってしまった。然し年来遠慮のなさ過ぎる彼女を見慣れて来た叔父から見ると、この際彼女の沈黙は、不思議に近い現象に外ならなかった。彼はお延を措いて叔母の方を向いた。
「この子は嫁に行ってから、少し人間が変って来たようだね。大分臆病になった。それもやっぱり旦那様の感化かな。不思議なもんだな」
「貴方があんまり苛めるからですよ。さあ云え、さあ云えって、責めるように催促されちゃ、誰だって困りますよ」
 叔母の態度は、叔父を窘(たしな)めるよりも寧ろお延を庇護(かば)う方に傾いていた。然しそれを嬉しがるには、彼女の胸が、あまり自分の感想で、一杯になり過ぎていた。
「だけどこりゃ第一が継子さんの問題じゃなくって。継子さんの考え一つで極まるだけだとあたし思うわ、あたしなんかが余計な口を出さないだって」
 お延は自分で自分の夫を択(えら)んだ当時の事を憶い起さない訳に行かなかった。津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼の許に嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女は何時でも彼女の主人公であった。又責任者であった。自分の料簡(りょうけん)を余所にして、他人の考えなどを頼りたがった覚はいまだ嘗(かつ)てなかった。
「一体継子さんは何と仰しゃるの」
「何とも云わないよ。あいつはお前より猶臆病だからね」
「肝心の当人がそれじゃ、仕方がないじゃありませんか」
「うん、ああ臆病じゃ実際仕方がない」
「臆病じゃないのよ、大人しいのよ」
「何方(どっち)にしたって仕方がない、何にも云わないんだから。或(あるい)は何にも云えないのかも知れないね、種がなくって」
 そういう二人が漫然として結び付いた時に、夫婦らしい関係が、果して両者の間に成立し得るものかというのが、お延の胸に横わる深い疑問であった。「自分の結婚ですらこうだのに」という論理(ロジック)がすぐ彼女の頭に閃めいた。「自分の結婚だって畢竟は似たり寄ったりなんだから」という風に、この場合を眺める事の出来なかった彼女は、一直線に自分の眼を付けた方ばかり見た。馬鹿らしいよりも恐ろしい気になった。なんという気楽な人だろうとも思った。
「叔父さん」と呼び掛けた彼女は、呆れたように細い眼を強く張って彼を見た。
「駄目だよ。あいつは初めっから何にも云う気がないんだから。元来はそれでお前に立ち合って貰ったような訳なんだ、実を云うとね」
「だってあたしが立ち合えばどうするの」
「兎に角継(つぎ)が是非そうして呉れって己達(おれたち)に頼んだんだ。つまりあいつは自分よりお前の方を余っ程悧巧(りこう)だと思ってるんだ。そうしてたとい自分は解らなくっても、お前なら後から色々云って呉れる事があるに違ないと思い込んでいるんだ」
「じゃ最初からそう仰しゃれば、あたしだってその気で行くのに」
「ところが又それは厭だというんだ。是非黙ってて呉れというんだ」
「何故でしょう」
 お延は一寸叔母の方を向いた。「極りが悪いからだよ」と答える叔母を、叔父は遮(さえぎ)った。
「なに極りが悪いばかりじゃない。成心があっちゃ、好(い)い批評が出来ないというのが、あいつの主意なんだ。つまりお延の公平に得た第一印象を聞かして貰いたいというんだろう」
 お延は初めて叔父に強いられる意味を理解した。

六十六

 お延から見た継子は特殊の地位を占めていた。此方の利害を心に掛けて呉れるという点に於て、彼女は叔母に及ばなかった。自分と気が合うという意味では叔父よりもずっと縁が遠かった。その代り血統上の親和力や、異性に基づく牽引性以外に、年齢の相似から来る有利な接触面を有っていた。
 若い女の心を共通に動かす色々な問題の前に立って、興味に充ちた眼を見張る時、自然の勢として、彼女は叔父よりも叔母よりも、継子に近づかなければならなかった。そうしてその場合に於る彼女は、天分から云って、いつでも継子の優者であった。経験から推せば、勿論継子の先輩に違なかった。少なくともそういう人として、継子から一段上に見られているという事を、彼女は能く承知していた。
 この小さな嘆美者には、お延のいう凡てを何でも真に受ける癖があった。お延の自覚から云えば、一つ家に寐起を共にしている長い間に、自分の優越を示す浮誇(ふこ)の心から、柔軟性に富んだこの従妹を、何時の間にかそう育て上げてしまったのである。
「女は一目見て男を見抜かなければ不可い」
 彼女はかつてこんな事を云って、無邪気な継子を驚ろかせた。彼女は又充分をれを遣り終(おお)せるだけの活きた眼力を自分に具えているものとして継子に対した。そうして相手の驚きが、羨みから嘆賞に変って、仕舞に崇拝の間際まで近づいた時、偶然彼女の自信を実現すべき、津田と彼女との間に起った相思の恋愛事件が、恰(あたか)も神秘の焔の如く、継子の前に燃え上った。彼女の言葉は継子にとって遂に永久の真理その物になった。一般の世間に向って得意であった彼女は、とくに継子に向って得意でなければならなかった。
 お延の見た通りの津田が、すぐ継子に伝えられた。日常接触の機会を自分自身に有っていない継子は、わが眼わが耳の範囲外に食(は)み出している未知の部分を、すべて彼女から与えられた間接の知識で補なって、容易に津田という理想的な全体を造り上げた。
 結婚後半年以上を経過した今のお延の津田に対する考えは変っていた。けれども継子の彼に対する考えは毫(ごう)も変らなかった。彼女は飽くまでもお延を信じていた。お延も今更前言を取り消すような女ではなかった。何処までも先見の明によって、天の幸福を享(う)ける事の出来た少数の果報者として、継子の前に自分を標榜(ひょうぼう)していた。
 過去から持ち越したこういう二人の関係を、余儀なく記憶の舞台に躍らせて、この事件の前に坐らなければならなくなったお延は、辛いよりも寧ろ快よくなかった。それは皆んなが寄ってたかって、今まで糊塗(こと)して来た自分の弱点を、早く自白しろと間接に責めるように思えたからである。此方(こっち)の「我」以上に相手が意地の悪い事をするように見えたからである。
「自分の過失に対しては、自分が苦しみさえすればそれで沢山だ」
 彼女の腹の中には、平生から貯蔵してあるこういう弁解があった。けれどもそれは何事も知らない叔父や叔母や継子に向って叩き付ける事の出来ないものであった。もし叩き付けるとすれば、彼等三人を無心に使嗾(しそう)して、自分に当擦(あてこす)りを遣らせる天に向ってするより外に仕方がなかった。
 膳を引かせて、叔母の新らしく淹(い)れて来た茶をがぶがぶ飲み始めた叔父は、お延の心にこんな交み入った蟠(わだか)まりが蜿蜒(うねく)っていようと思う筈がなかった。造りたての平庭を見渡しながら、晴々した顔付きで、叔母と二言三言、自分の考案になった樹や石の配置に就いて批評しあった。
「来年はあの松の横の所へ楓(かえで)を一本植えようと思うんだ。何だか此所から見ると、あすこだけが穴が開いてるようで可笑いからね」
 お延は何の気なしに叔父の指している見当を見た。隣家(となり)と地続きになっている塀際の土をわざと高く盛り上げて、其所へ小さな孟宗藪(もうそうやぶ)をこんもり繁らした根の辺(あたり)が、叔父のいう通り疎(まば)らに隙いていた。先刻から問題を変えよう変えようと思って、暗に機会を待っていた彼女は、すぐ機転を利かした。
「本当ね。彼所を塞がないと、さもさも藪を拵(こしら)えましたって云うようで変ね」
 談話は彼女の予期した通り余所の溝へ流れ込んだ。然しそれが再び故(もと)の道へ戻って来た時は、前より急な傾斜面を通らなければならなかった。

六十七

 それは叔父が先刻玄関先で鍬を動かしていた出入の植木屋に呼ばれて、一寸席を外した後、また庭口から座敷へ上って来た時の事であった。
 まだ学校から帰らない百合子や一(はじめ)の噂に始まった叔母とお延の談話は、その時また偶然にも継子の方に滑り込みつつあった。
「欲張屋さん、もう好い加減に帰りそうなもんだのにね、何をしているんだろう」
 叔母はわざわざ百合子の命(つ)けた渾名(あざな)で継子を呼んだ。お延はすぐその欲張屋の様子を思い出した。自分に許された小天地のうちでは飽くまで放恣(ほうし)な癖に、其所から一歩踏み出すと、急に謹慎の模型みたように竦んでしまう彼女は、まるで父母の監督によって仕切られた家庭という籠の中で、さも愉快らしく囀る小鳥のようなもので、一旦戸を開けて外へ出されると、却ってどう飛んで可いか、どう鳴いて可いか解らなくなるだけであった。
「今日は何のお稽古に行ったの」
 叔母は「中てて御覧」と云った後で、すぐ坂の途中から持って来たお延の好奇心を満足させて呉れた。然しその稽古の題目が近頃熱心に始め出した語学始め出した語学だと聞いた時に、彼女は又改めて従妹の多慾に驚ろかされた。そんなに色々なものに手を出して一体何にする積だろうという気さえした。
「それでも語学だけには少し特別の意味があるんだよ」
 叔母はこう云って、弁護かたがた継子の意味をお延に説明した。それが間接ながら矢張今度の結婚問題に関係しているので、お延は叔母の手前殊勝(しゅしょう)らしい顔をして成程と首肯(うなづ)かなければならなかった。
 夫の好むもの、でなければ夫の職業上妻が知っていると都合の好いもの、それ等を予想して結婚前に習って置こうという女の心掛は、未来の良人(りょうじん)に対する親切に違なかった。或は単に男の気に入るためとしても有利な手段に違なかった。けれども継子にはまだそれ以上に、人間として又細君としての大事な稽古がいくらでも残っていた。お延の頭に描き出されたその稽古は、不幸にして女を善くするものではなかった。然し女を鋭敏にするものであった。悪く摩擦するには相違なかった。然し怜悧(れいり)に研ぎ澄すものであった。彼女はその初歩を叔母から習った。叔父のお蔭でそれを今日に発達させて来た。二人はそういう意味で育て上げられた彼女を、満足の眼で眺めているらしかった。
「それと同じ眼がどうしてあの継子に満足出来るだろう」
 従妹の何処にも不平らしい素振さえ見せた事のない叔父叔母は、この点に於てお延に不可解であった。強いて解釈しようとすれば、彼等は姪と娘を見る眼に区別をつけているとでも云うより外に仕方がなかった。こういう考えに襲われると、お延は突然口惜(くや)しくなった。そういう考えが又時々発作のようにお延の胸をつかんだ。然し城府を設けない行き届いた叔父の態度や、取扱いに公平を欠いた事のない叔母の親切で、それは何時でも燃え上る前に吹き消された。彼女は人に見えない袖を顔へ中てて内部の赤面を隠しながら、矢っ張不思議な眼をして、二人の心持を解けない謎のように不断から見詰めていた。
「でも継子さんは仕合せね。あたしみたいに心配性でないから」
「あの子はお前よりもずっと心配性だよ。ただ宅にいると、いくら心配したくっても心配する種がないもんだから、ああして平気でいられるだけなのさ」
「でもあたしなんか、叔父さんや叔母さんのお世話になってた時分から、もっと心配性だったように思うわ」
「そりゃお前と継とは・・…」
 中途で止めた叔母は何をいう気か解らなかった。性質が違うという意味にも、身分が違うという意味にも、また境遇が違うという意味にも取れる彼女の言葉を追求する前に、お延ははっと思った。それは今まで気の付かなかった或物に、突然ぶつかったような動悸(どうき)がしたからである。
「昨日の見合に引き出されたのは、容貌の劣者として暗に従妹の器量を引き立てるためではなかったろうか」
 お延の頭に石火のようなこの暗示が閃めいた時、彼女の意志も平常(へいぜい)より倍以上の力をもって彼女に逼った。彼女は遂に自分を抑え付けた。どんな色をも顔に現さなかった。
「継子さんは得な方ね。誰にでも好かれるんだから」
「そうも行かないよ。けれどもこれは人の好々(すきずき)だからね。あんな馬鹿でも……」
 叔父が縁側へ上ったのと、叔母がこう云い掛けたのとは、殆ど同時であった。彼は大きな声で「継がどうしたって」と云いながら又座敷へ入って来た。

六十八

 すると今まで抑え付けていた一種の感情がお延の胸に盛り返して来た。飽くまで機嫌の好い、飽くまで元気に充ちた、そうして飽くまで楽天的に肥え太ったその顔が、瞬間のお延を咄嗟(とっさ)に刺戟した。
「叔父さんも随分人が悪いのね」
 彼女は藪から棒にこう云わなければならなかった。今日まで二人の間に何百遍となく取り換わされたこの常套な言葉を使ったお延の声は、何時もと違っていた。表情にも特殊な所があった。けれども先刻からお延の腹の中にどんな潮(うしお)の満干(みちひ)があったか、其所にまるで気の付かずにいた叔父は、平生(へいぜい)の細心にも似ず、全く無邪気であった。
「そんなに人が悪うがすかな」
 例の調子でわざと空っとぼけた彼は、澄まして刻烟草(きざみ)を雁首へ詰めた。
「おれの留守に又叔母さんから何か聴いたな」
 お延はまだ黙っていた。叔母はすぐ答えた。
「あなたの人の悪い位今更私から聴かないでも能く承知してるそうですよ」
「成程ね。お延は直覚派だからな。そうかも知れないよ。何しろ一目見てこの男の懐中には金が若干あって、彼はそれを犢鼻褌(ふんどし)のミツへ挟んでいるか、又は胴巻へ入れて臍(へそ)の上に乗っけているか、ちゃんと見分ける女なんだから、中々油断は出来ないよ」
 叔父の笑談は決して彼の予期したような結果を生じなかった。お延は下を向いて眉と睫毛を一所に動かした。その睫毛の先には知らない間に涙が一杯溜った。勝手を違えた叔父の悪口もぱたりと留まった。変な圧迫が一度に三人を抑え付けた。
「お延どうかしたのかい」
 こう云った叔父は無言の空虚を充たすために、煙管(きせる)で灰吹を叩いた。叔母も何とかその場を取り繕ろわなければならなくなった。
「何だね小供らしい。この位な事で泣くものがありますか。何時もの笑談じゃないか」
 叔母の小言は、義理のある叔父の手前を兼た挨拶とばかりは聞えなかった。二人の関係を知り抜いた彼女の立場を認める以上、何処から見ても公平なものであった。お延はそれを能く承知していた。けれども叔母の小言を尤もと思えば思う程、彼女は猶泣きたくなった。彼女の唇が顫えた。抑え切れない涙が後から後からと出た。それにつれて、今まで堰(せ)き留めていた口の関も破れた。彼女はついに泣きながら声を出した。
「何もそんなにまでして、あたしを苛めなくったって……」
 叔父は当惑そうな顔をした。
「苛めやしないよ。賞(ほ)めてるんだ。そらお前が由雄さんの所へ行く前に、あの人を評した言葉があるだろう。あれを皆な蔭で感心しているんだ。だから……」
「そんな事承(うかが)わなくっても、もう沢山です。つまりあたしが芝居へ行ったのが悪いんだから。……」
 沈黙がすこし続いた。
「何だか飛んだ事になっちまったんだね。叔父さんの調戯(からか)い方が悪かったのかい」
「いいえ。皆んなあたしが悪いんでしょう」
「そう皮肉を云っちゃ不可(いけな)い。何処が悪いか解らないから訊くんだ」
「だから皆なあたしが悪いんだって云ってるじゃありませんか」
「だが訳を云わないからさ」
「訳なんかないんです」
「訳がなくって、ただ悲しいのかい」
 お延は猶泣き出した。叔母は苦々しい顔をした。
「何だねこの人は。駄々ッ子じゃあるまいし。宅にいた時分、いくら叔父さんに調戯われたって、そんなに泣いた事なんか、ありゃしない癖に。お嫁に行きたてで、少し旦那から大事にされると、すぐそうなるから困るんだよ、若い人は」
 お延は唇を噛んで黙った。凡ての原因が自分にあるものとのみ思い込んだ叔父は却って気の毒そうな様子を見せた。
「そんなに叱ったって仕様がないよ。おれが少し冷評(ひやか)し過ぎたのが悪かったんだ。――ねえお延そうだろう。屹度そうに違ない。よしよし叔父さんが泣かした代りに、今に好い物を遣る」
 漸く発作の去ったお延は、叔父からこんな風に子供扱いにされる自分をどう取り扱って、跋(ばつ)の悪いこの場面に、平静な一転化を与えたものだろうと考えた。

六十九

 ところへ何にも知らない継子が、語学の稽古から帰って来て、ひょっくり顔を出した。
「只今」
 和解の心棒を失って困っていた三人は、突然それを見出した人のように喜こんだ。そうして殆んど同時に挨拶を返した。
「お帰んなさい」
「遅かったのね。先刻から待ってたのよ」
「いや大変なお待兼だよ。継子さんはどうしたろう、どうしたろうって」
 神経質な叔父の態度は、先刻の失敗を取り戻す意味を帯びているので、平生よりは一層快豁(かいかつ)であった。
「何でも継子さんに逢って、是非話したい事があるんだそうだ」
 こんな余計な事まで云って、自分の目的とは反対な影を、お延の上に逆まに投げて置きながら、彼は却って得意になっているらしかった。
 然し下女が襖(ふすま)越に手を突いて、風呂の沸いた事を知らせに来た時、彼は急に思い付いたように立ち上った。
「まだ湯なんかに入っちゃいられない。少し庭に用が残ってるから。――お前達先へ入るなら入るがいい」
 彼は気に入りの植木屋を相手に、残りの秋の日を土の上に費やすべく、再び庭へ下り立った。
 けれども一旦脊中を座敷の方へ向けた後で又振り返った。
「お延、湯に入って晩飯でも食べておいで」
 こう云って二三間歩いたかと思うと彼は又引き返して来た。お延は頭の能く働くその世話しない様子を、如何にも彼の特色らしく感心して眺めた。
「お延が来たから晩に藤井でも呼んで遣ろうか」
 職業が違っても同じ学校出だけに古くから知り合の藤井は、津田との関係上、今では以前より余程叔父に縁の近い人であった。これも自分に対する好意からだと解釈しながら、お延は別に嬉しいと思う気にもなれなかった。藤井一家と津田、二つのものが離れているよりも、はるかに余計に、彼女は彼等より離れていた。
「然し来るかな」といった叔父の顔は、正にお延の腹の中を物語っていた。
「近頃みんなおれの事を隠居々々っていうが、あの男の隠居主義と来たら、遠い昔からの事で、到底おれなどの及ぶ所じゃないんだからな。ねえ、お延、藤井の叔父さんは飯を食いに来いったら、来るかい」
「そりゃどうだかあたしにゃ解らないわ」
 叔母は婉曲(えんきょく)に自己を表現した。
「大方入らっしゃらないでしょう」
「うん、中々おいそれと遣って来そうもないね。じゃ止すか。――だがまあ試しに一寸掛けて見るが可い」
 お延は笑い出した。
「掛けて見るったって、あすこにゃ電話なんかありゃしないわ」
「じゃ仕方がない。使でも遣るんだ」
 手紙を書くのが面倒だったのか、時間が惜しかったのか、叔父はそう云ったなりさっさと庭口の方へ歩いて行った。叔母も「じゃあたしは御免蒙(こうむ)ってお先へお湯に入ろう」と云いながら立ち上った。
 叔父の潔癖を知って、みんなが遠慮するのに、自分だけは平気で、こんな場合に、叔父の言葉通り断行して顧みない叔母の態度は、お延に取って羨ましいものであった。又忌わしいものであった。女らしくない厭なものであると同時に、男らしい好いものであった。ああ出来たらさぞ好かろうという感じと、いくら年を取ってもああは遣りたくないという感じが、彼女の心に何時もの通り交錯した。
 立って行く叔母の後姿を彼女がぼんやり見送していると、一人残った継子が突然誘った。
「あたしのお部屋へ来なくって」
 二人は火鉢や茶器で取り散らされた座敷をそのままにして外へ出た。

七十

 継子の居間は取りも直さず津田に行く前のお延の居間であった。其所に机を並べて二人いた昔の心持が、まだ壁にも天井にも残っていた。硝子戸を嵌(は)めた小さい棚の上に行儀よく置かれた木彫の人形もそのままであった。薔薇の花を刺繍(ぬい)にした籃入(かごいり)のピンクッションもそのままであった。二人してお対(つい)に三越から買って来た唐草模様の染付の一輪挿もそのままであった。
 四方を見廻したお延は、従妹と共に暮した処女時代の匂を至る所に嗅いだ。甘い空想に充ちたその匂が津田という対象を得て遂に実現された時、忽然(こつぜん)鮮やかな焔に変化した自己の感情の前に抃舞(べんぶ)したのは彼女であった。眼に見えないでも、瓦斯(ガス)があったから、ぱっと火が点いたのだと考えたのは彼女であった。空想と現実の間には何等の差違を置く必要がないと論断したのは彼女であった。顧みるとその時からもう半年以上経過していた。何時か空想は遂に空想に留まるらしく見え出して来た。何所まで行っても現実化されないものらしく思われた。或は極めて現実化され悪(にく)いものらしくなって来た。お延の胸の中には微かな溜息さえ宿った。
「昔は淡い夢のように、次第々々に確実な自分から遠ざかって行くのではなかろうか」
 彼女はこういう観念の眼で、自分の前に坐っている従妹を見た。多分は自分と同じ経路を踏んで行かなければならない、又ひょっとしたら自分よりもっと予期に外れた未来に突き当らなければならないこの処女の運命は、叔父の手にある諾否の賽(さい)が、畳の上に転がり次第、今明日中(こんみょうにちじゅう)にでも、永久に片付けられてしまうのであった。
 お延は微笑した。
「継子さん、今日はあたしがお神籤を引いて上げましょうか」
「なんで?」
「何でもないのよ。ただよ」
「だって唯じゃ詰らないわ。何か極めなくっちゃ」
「そう。じゃ極めましょう。何が可いでしょうね」
「何が可いか、そりゃあたしにゃ解らないわ。あなたが極めて下さらなくっちゃ」
 継子は容易に結婚問題を口へ出さなかった。お延の方から無暗(むやみ)に云い出されるのも苦痛らしかった。けれども間接に何処かで其所に触れて貰いたい様子がありありと見えた。お延は従妹を喜こばせて遣りたかった。と云って、後で自分の迷惑になるような責任を持つのは厭であった。
「じゃあたしが引くから、あなた自分でお極めなさい、ね。何でも今あなたのお腹の中で、一番知りたいと思ってる事があるでしょう。それにするのよ、あなたの方で、自分勝手に。可くって」
 お延は例の通り継子の机の上に乗っている彼等夫婦の贈物を取ろうとした。すると継子が急にその手を抑えた。
「厭よ」
 お延は手を引込めなかった。
「何が厭なの。可いから一寸(ちょいと)お借しなさいよ。あなたの嬉しがるのを出して上げるから」
 神籤に何の執着もなかったお延は、突然こうして継子と戯れたくなった。それは結婚以前の処女らしい自分を、彼女に憶い起させる良い媒介(なかだち)であった。弱いものの虚を衝くために用いられる腕の力が、彼女を男らしく活發にした。抑えられた手を跳ね返した彼女は、もう最初の目的を忘れていた。ただ神籤箱を継子の机の上から奪い取りたかった。若くはそれを言い前に、ただ継子と争いたかった。二人は争った。同時に女性の本能から来るわざとらしい声を憚(はばか)りなく出して、遊戯的な戦いに興を添えた。二人は遂に硯箱の前に飾ってある大事な一輪挿を引っ繰り返した。紫檀(したん)の台からころころと転がり出したその花瓶は、中にある水を所嫌わず打ち空けながら畳の上に落ちた。二人は漸く手を引いた。そうして自然の位置から不意に放り出された可愛らしい花瓶を、同じように黙って眺めた。それから改めて顔を見合せるや否や、急に抵抗する事の出来ない衝動を受けた人のように、一度に笑い出した。

七十一

 偶然の出来事がお延を猶小供らしくした。津田の前でかつて感じた事のない自由が瞬間に復活した。彼女は全く現在の自分を忘れた。
「継子さん早く雑巾を取って入らっしゃい」
「厭よ。あなたが零(こぼ)したんだから、あなた取って入らっしゃい」
 二人はわざと譲り合った。わざと押問答をした。
「じゃジャン拳よ」と云い出したお延は、繊(ほそ)い手を握って勢よく継子の前に出した。継子はすぐ応じた。宝石の光る指が二人の間にちらちらした。二人はそのたんびに笑った。
「狡猾いわ」
「あなたこそ狡猾いわ」
 仕舞にお延が負けた時には零れた水がもう机掛と畳の目の中へ綺麗に吸い込まれていた。彼女は落付き払って袂から出した手巾で、濡れた所を上から抑え付けた。
「雑巾なんか要りゃしない。こうして置けば、それで沢山よ。水はもう引いちまったんだから」
 彼女は転がった花瓶(はないけ)を元の位置に直して、摧(くだ)けかかった花を鄭寧(ていねい)にその中へ挿し込んだ。そうして今までの頓興(とんきょう)をまるで忘れた人のように澄まし返った。それが又堪らなく可笑しいと見えて、継子は何時までも一人で笑っていた。
 発作が静まった時、継子は帯の間に隠した帙入(ちついり)の神籤を取り出して、傍にある本棚の抽斗へ仕舞い易えた。しかもその上からぴちんと錠を下して、わざとお延の方を見た。
 けれども継子に取って何時までも続く事の出来るらしいこの無意味な遊技的感興は、そう長くお延を支配する訳に行かなかった。一仕切(ひとしきり)我を忘れた彼女は、従妹より早く醒めてしまった。
「継子さんは何時でも気楽で好いわね」
 彼女はこう云って継子を見返した。当り障りのない彼女の言葉は迚(とて)も継子に通じなかった。
「じゃ延子さんは気楽でないの」
 自分だって気楽な癖にと云わんばかりの語気のうちには、誰からでも、世間見ずの御嬢さん扱いにされる兼ての不平も交っていた。
「あなたとあたしと一体何処が違うんでしょう」
 二人は年齢(とし)が違った。性質も違った。然し気兼苦労という点にかけて二人の何処にどんな違があるか、それは継子のまだ考えた事のない問題であった。
「じゃ延子さんどんな心配があるの。少し話して頂戴な」
「心配なんかないわ」
「そら御覧なさい。あなただって矢張気楽じゃないの」
「そりゃ気楽は気楽よ。だけどあなたの気楽さとは少し訳が違うのよ」
「どうしてでしょう」
 お延は説明する訳に行かなかった。又説明する気になれなかった。
「今に解るわ」
「だけど延子さんんとあたしとは三つ違よ、たった」
 継子は結婚前と結婚後の差違をまるで勘定に入れていなかった。
「ただ年齢ばかりじゃないのよ。境遇の変化よ。娘が人の奥さんになるとか、奥さんがまた旦那様を亡くして、未亡人になるとか」
 継子は少し怪訝な顔をしてお延を見た。
「延子さんは宅にいた時と、由雄さんの所へ行ってからと、何方が気楽なの」
「そりゃ……」
 お延は口籠った。継子は彼女に返答を拵える余地を与えなかった。
「今の方が気楽なんでしょう。それ御覧なさい」
 お延は仕方なしに答えた。
「そうばかりにも行かないわ。これで」
「だってあなたが御自分で望んで入らしった方じゃないの、津田さんは」
「ええ、だからあたし幸福よ」
「幸福でも気楽じゃないの」
「気楽な事も気楽よ」
「じゃ気楽は気楽だけれども、心配があるの」
「そう継子さんの様に押し詰めて来ちゃ敵わないわね」
「押し詰める気じゃないけれども、解らないから、ついそうなるのよ」

七十二

 段々勾配の急になって来た会話は、何時の間にか継子の結婚問題に滑り込んで行った。成るべくそれを避けたかったお延には、今までの行き掛り上、またそれを避ける事の出来ない義理があった。経験に乏しい処女の期待するような予言は兎も角も、男女関係に一日の長ある年上の女として、相当の注意を与えて遣りたい親切もないではなかった。彼女は差し障りのない際どい筋の上を婉曲に渡って歩いた。
「そりゃ駄目よ。津田の時は自分の事だから、自分に能く解ったんだけれども、他の事になるとまるで勝手が違って、些(ちっ)とも解らなくなるのよ」
「そんなに遠慮しないだって可かないの」
「遠慮じゃないのよ」
「じゃ冷淡なの」
 お延は答える前に少時(しばらく)間を置いた。
「継子さん、あなた知ってて。女の眼は自分に一番縁故の近いものに出会った時、始めて能く働らく事が出来るのだという事を。眼が一秒で十年以上の手柄をするのは、その時に限るのよ。しかもそんな場合は誰だって生涯にそう沢山(たんと)ありやしないわ。ことによると生涯に一返も来ないで済んでしまうかも分らないわ。だからあたしなんかの眼はまあ盲目(めくら)同然よ。少なくとも平生は」
「だって延子さんはそういう明るい眼をちゃんと持っていらっしゃるんじゃないの。そんなら何故それをあたしの場合に使って下さらなかったの」
「使わないんじゃない、使えないのよ」
「だって岡目八目(おかめはちもく)って云うじゃありませんか。傍にいるあなたには、あたしより余計公平に分る筈だわ」
「じゃ継子さんは岡目八目で生涯の運命を極めてしまう気なの」
「そうじゃないけれども、参考にゃなるでしょう。ことに延子さんを信用しているあたしには」
 お延は又少時黙っていた。それから少し前よりは改った態度で口を利き出した。
「継子さん、あたし今あなたにお話ししたでしょう、あたしは幸福だって」
「ええ」
「何故あたしが幸福だかあなた知ってて」
 お延は其所で句切を置いた。そうして継子の何かいう前に、すぐ後を継ぎ足した。
「あたしが幸福なのは、外に何にも意味はないのよ。ただ自分の眼で自分の夫を択(えら)ぶ事が出来たからよ。岡目八目でお嫁に行かなかったからよ。解って」
 継子は心細そうな顔をした。
「じゃあたしのようなものは、とても幸福になる望はないのね」
 お延は何とか云わなければならなかった。然しすぐは何とも云えなかった。仕舞に突然興奮したらしい急な調子が思わず彼女の口から迸(ほとば)しり出した。
「あるのよ、あるのよ。ただ愛するのよ、そうして愛させるのよ。そうさえすれば幸福になる見込は幾何(いくら)でもあるのよ」
 こう云ったお延の頭の中には、自分の相手としての津田ばかりが鮮明に動いた。彼女は継子に話し掛けながら、殆んど三好の影さえ思い浮べなかった。幸いそれを自分のためとのみ解釈した継子は、真ともにお延の調子を受ける程感激しなかった。
「誰を」と云った彼女は少し呆れたようにお延の顔を見た。「昨夕お目にかかったあの方の事?」
「誰でも構わないのよ。ただ自分でこうと思い込んだ人を愛するのよ。そうして是非その人に自分を愛させるのよ」
 平生包み藏(かく)しているお延の利かない気性が、次第に鋒鋩(ほうぼう)を露わして来た。大人しい継子はそのたびに少しずつ後へ退った。仕舞に近寄りにくい二人の間の距離を悟った時、彼女は微かな溜息さえ吐いた。するとお延が忽然また調子を張り上げた。
「あなたあたしの云う事を疑っていらっしゃるの。本当よ。あたし嘘なんか吐いちゃいないわ。本当よ。本当にあたし幸福なのよ。解ったでしょう」
 こう云って絶対に継子を首肯(うけが)わせた彼女は、後から又独り言のように付け足した。
「誰だってそうよ。たとい今その人が幸福でないにした所で、その人の料簡一つで、未来は幸福になれるのよ。屹度なれるのよ。屹度なって見せるのよ。ねえ継子さん、そうでしょう」
 お延の腹の中を知らない継子は、この予言をただ漠然と自分の身の上に応用して考えなければならなかった。然しいくら考えてもその意味は殆んど解らなかった。

七十三

 その時廊下伝いに聞こえた忙がしい足音の主ががらりと室(へや)の入口を開けた。そうして学校から帰った百合子が、遠慮なくつかつか入って来た。彼女は重そうに肩から釣るした袋を取って、自分の机の上に置きながら、ただ一口「只今」と云って姉に挨拶した。
 彼女の机を据えた場所は、丁度もとお延の坐っていた右手の隅であった。お延が津田へ片付くや否や、すぐその後へ入る事の出来た彼女は、従妹のいなくなったのを、自分にとって大変な好都合のように喜こんだ。お延はそれを知ってるので、わざと言葉を掛けた。
「百合子さん、あたしまたお邪魔に上りましたよ。可くって」
 百合子は「能く入らっしゃいました」とも云わなかった。机の角へ右の足を載せて、少し穴の開きそうになった黒い靴足袋の親指の先を、手で撫でていたが、足を畳の上へ卸すと共に答えた。
「好いわ、来ても。追い出されたんでなければ」
「まあ非道(ひど)い事」と云って笑ったお延は、少し間を置いてから、また彼女を相手にした。
「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相だと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げても可いわ」
「そんなら、その時は又このお部屋へ置いて下すって」
「そうね」
 百合子は少し考える様子をした。
「可いわ、置いて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢して成る可く追い出されないようにしたら可いでしょう、此方の都合もある事だから」
 こう云った百合子は年上の二人と共に声を揃えて笑った。そうして袴も脱がずに、火鉢の傍へ来てその間に坐りながら、下女の持ってきた木皿を受取って、すぐその中にある餅菓子を食べ出した。
「今頃お八ツ? このお皿を見ると思い出すのね」
 お延は自分が百合子位であった当時を回想した。学校から帰ると、待ちかねて各自(めいめい)の前に置かれる木皿へ手を出したその頃の様子がありありと目に浮かんだ。旨そうに食べる妹の顔を微笑して見ていた継子も同じ昔を思い出すらしかった。
「延子さんあなた今でもお八ツ召しゃがって」
「食べたり食べなかったりよ。わざわざ買うのは億劫だし、そうかって宅に何かあっても、昔しのように旨(おい)しくないのね、もう」
「運動が足りないからでしょう」
 二人が話しているうちに、百合子は綺麗に木皿を空にした。そうして木に竹を接いだような調子で、二人の間に割り込んで来た。
「本当よ、お姉さまはもうじきお嫁に行くのよ」
「そう、何処へ入らっしゃるの」
「何処だか知らないけれども行く事は行くのよ」
「じゃ何という方の所へ入らっしゃるの」
「何という名だか知らないけれども、行くのよ」
 お延は根気よく三度目の問を掛けた。
「それはどんな方なの」
 百合子は平気で答えた。
「大方由雄さんみたいな方なんでしょう。お姉さまは由雄さんが大好きなんだから。何でも延子さんの云う通りになって、大変好い人だって、そう云っててよ」
 薄赤くなった継子は急に妹の方へ掛って行った。百合子は頓興な声を出してすぐ其所を飛び退いた。
「おお大変々々」
 入口の所で一寸立ち留まってこう云った彼女は、お延と継子を其所へ残したまま、一人で室を逃げ出して行った。

七十四

 お延が下女から食事の催促を受けて、二返目に継子と共に席を立ったのは、それから間もなくであった。
 一家のものは明るい室に晴々した顔を揃えた。先刻何かに拗(す)ねて緑の下へ這入ったなり容易に出て来なかったという一さえ、機嫌よく叔父と話をしていた。
「一さんは犬みたいよ」と百合子がわざわざ知らせに来た時、お延はこの小さい従妹から、彼がぱくりと口を開いて上から鼻の先へ出された餅菓子に食い付いたという話を聞いたのであった。
 お延は微笑しながら所謂(いわゆる)犬みたいな男の子の談話に耳を傾けた。
「お父さまは箒星(ほうきぼし)が出ると何か悪い事があるんでしょう」
「うん昔の人はそう思っていた。然し今は学問が開けたから、そんな事を考えるものは、もう一人もなくなっちまった」
「西洋では」
 西洋にも同じ迷信が古代に行われたものかどうだか、叔父は知らないらしかった。
「西洋? 西洋にゃ昔からない」
「でもシーザーの死ぬ前に彗星が出たっていうじゃないの」
「うんシーザーの殺される前か」と云った彼は、胡麻化すより外に仕方がないらしかった。
「ありゃ羅馬(ローマ)の時代だからな。ただの西洋とは訳が違うよ」
 一はそれで納得して黙った。然しすぐ第二の質問を掛けた。前よりは一層奇抜なその質問は立派に三段論法の形式を具えていた。井戸を堀って水が出る以上、地面の下は水でなければならない、地面の下が水である以上、地面は落こちなければならない。然るに地面は何故落こちないか。これが彼の要旨であった。それに対する叔父の答弁が又頗(すこぶ)るしどろもどろなので、傍(はた)のものはみんな可笑しがった。
「そりゃお前落ちないさ」
「だって下が水なら落ちる訳じゃないの」
「そう旨くは行かないよ」
 女連が一度に笑い出すと、一は忽ち第三の問題に飛び移った。
「お父さま、僕この宅が軍艦だと好いな。お父さまは?」
「お父さまは軍艦よりただの宅の方が好いね」
「だって地震の時宅なら潰れるじゃないの」
「ははあ軍艦ならいくら地震があっても潰れないか。成程こいつは気が付かなかった。ふうん、成程」
 本式に感服している叔父の顔を、お延は微笑しながら眺めた。先刻藤井を晩餐に招待するといった彼は、もうその事を念頭に置いていないらしかった。叔母も忘れたように澄ましていた。お延はつい一に訊いて見たくなった。
「一さん藤井の真事(まこと)さんと同級なんでしょう」
「ああ」と云った一は、すぐ真事に就いてお延の好奇心を満足させた。彼の話は、到底子供でなくては云えない、観察だの、批評だの、事実だのに富んでいた。食卓は一時彼の力で賑わった。
 みんなを笑わせた真事の逸話の中に、下(しも)のようなのがあった。
 ある時学校帰りに、彼は一と一所に大きな深い穴を覗き込んだ。土木工事のために深く堀り返されて、往来の真中に出来上ったその穴の上には、一本の杉丸太が掛け渡してあった。一は真事に、その丸太の上を渡ったら百円遣ると云った。すると無鉄砲な真事は、背嚢(はいのう)を脊負って、尨犬(むくいぬ)の皮で拵えたといわれる例の靴を穿いたまま、「屹度呉れる?」と云いながら、殆ど平たい幅を有っていない、つるつる滑りそうな材木を渡り始めた。最初は今に落ちるだろうと思って見ていた一は、相手が一歩々々と、危ないながらゆっくりゆっくり自分に近づいて来るのを見て、急に怖くなった。彼は深い穴の真上にある友達を其所へ置き去りにして、どんどん逃げ出した。真事は又始終足元に気を取られなければならないので、丸太を渡り切ってしまうまでは、一が何処へ行ったか全く知らずにいた。漸く冒険を仕遂げて、約束通り百円貰おうと思って始めて眼を上げると、相手は何時の間にか逃げてしまって、一の影も形もまるで見えなったというのである。
「一の方が少し小悧巧のようだな」と叔父が評した。
「藤井さんが近頃あんまり遊びに来ないようね」と叔母が云った。

七十五

 小供が一つ学校の同級にいる事の外に、お延の関係から近頃岡本と藤井の間に起った交際には多少の特色があった。否でも顔を合せなければならない祝儀不祝儀の席を未来に控えている彼等は、事情の許す限り、双方から接近して置く便宜を、平生から認めない訳に行かなかった。ことに女の利害を代表する岡本の方は、藤井よりも余計この必要を認めなければならない地位に立っていた。その上岡本の叔父には普通の成功者に附随する一種の如才なさがあった。持って生れた楽天的な広い横断面もあった。神経質な彼はまた誤解を恐れた。ことに生計向(くらしむき)に不自由のないものが、比較的貧しい階級から受けがちな尊大不遜の誤解を恐れた。多年の多忙と勉強のために損なわれた健康を回復するために、当分閑地に就いた昨今の彼には、時間の余裕も充分あった。その時間の空虚な所を、自分の趣味に適(かな)う模細工(モザイック)で毎日埋めて行く彼は、今まで自分と全く縁故のないものとして、平気で通り過ぎた人や物に段々接近して見ようという意志も有っていた。
 これ等の原因が困絡(こんがら)がって、叔父は時々藤井の宅へ自分の方から出掛けて行く事があった。排外的に見える藤井は、律儀に叔父の訪問を返そうともしなかったが、そうかと云って彼を厭がる様子も見せなかった。彼等は寧ろ快よく談じた。底まで打ち解けた話は出来ないにした所で、ただ相互の世界を交換するだけでも、多少の興味にはなった。その世界は又妙に食い違っていた。一方から見ると如何にも迂闊なものが、他方から眺めると如何にも高尚であったり、片側で卑俗と解釈しなければならないものを、向うでは是非とも実際的に考えたがったりする所に、思わざる発見がひょいひょい出て来た。
「つまり批評家って云うんだろうね、ああ云う人の事を。然しあれじゃ仕事は出来ない」
 お延は批評家という意味を能く理解しなかった。実際の役に立たないから、口先で偉そうな事を云って他を胡麻化すんだろうと思った。「仕事が出来なくって、ただ理窟を弄(もてあそ)んでいる人、そういう人に世間はどんな用があるだろう。そういう人が物質上相当の報酬を得ないで困るのは当然ではないか」。これ以上進む事の出来なかった彼女は微笑しながら訊いた。
「近頃藤井さんへ入らしって」
「うん此間(こないだ)も一寸散歩の帰りに寄ったよ。草臥(くたび)れた時、休むには丁度都合の好い所にある宅だからね、彼所は」
「又何か面白いお話しでもあって」
「相変らず妙な事を考えてるね、あの男は。此間は、男が女を引張り、女がまた男を引張るって話をさかんに遣って来た」
「あら厭だ」
「馬鹿らしい、好い年をして」
 お延と叔母はこもごも呆れたような言葉を出す間に、継子だけは余所を向いた。
「いや妙な事があるんだよ。大将中々調べているから感心だ。大将のいう所によると、こうなんだ。何処の宅でも、男の子は女親を慕い、女の子はまた反対に男親を慕うのが当り前だというんだが、成程そう云えば、そうだね」
 親身の叔母よりも義理の叔父を好いていたお延は少し真面目になった。
「それでどうしたの」
「それでこうなんだ。男と女は始終引張り合わないと、完全な人間になれないんだ。つまり自分に不足な所が何処かにあって、一人じゃそれをどうしても充たす訳に行かないんだ」
 お延の興味は急に退き掛けた。叔父の云う事は、自分の疾(と)うに知っている事実に過ぎなかった。
「昔から陰陽和合っていうじゃありませんか」
「ところが陰陽和合が必然でありながら、その反対の陰陽不和がまた必然なんだから面白いじゃないか」
「どうして」
「いいかい。男と女が引張り合うのは、互いに違った所があるからだろう。今云った通り」
「ええ」
「じゃその違った所は、つまり自分じゃない訳だろう。自分とは別物だろう」
「ええ」
「それ御覧。自分と別物なら、どうしたって一所になれっこないじゃないか。何時まで経ったって、離れているより外に仕方がないじゃないか」
 叔父はお延を征服した人のように呵々(からから)と笑った。お延は負けなかった。
「だけどそりゃ理窟よ」
「無論理窟さ。何処へ出ても立派に通る理窟さ」
「駄目よ、そんな理窟は。何だか変ですよ。丁度藤井の叔父さんが振り廻しそうな屁理窟よ」
 お延は叔父を遣り込める事が出来なかった。けれども叔父のいう通りを信ずる気にはなれなかった。又どうあっても信ずるのは厭であった。

七十六

 叔父は面白半分まだ色々な事を云った。
 男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する。然しそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寐返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突き付ける。即ち男は女から離れなければ成仏出来なくなる。女も男から離れなければ成仏し悪(にく)くなる。今までの牽引力が忽ち反撥性に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙げるのは、やがて来るべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……
 叔父の言葉の何処までが藤井の受売で、何処からが自分の考えなのか、又その考えの何処までが真面目で、何処からが笑談なのか、お延には能く分らなかった。筆を持つ術を知らない叔父は恐ろしく口の達者な人であった。一寸した心棒があると、その上に幾枚でも手製の着物を着せる事の出来る人であった。俗にいう警句という種類のものが、いくらでも彼の口から出た。お延が反対すればする程、膏(あぶら)が乗って留度なく出て来た。お延はとうとう好い加減にして切り上げなければならなかった。
「随分のべつね、叔父さんも」
「口じゃとても敵(かな)いっこないからお止しよ。此方で何かいうと、猶意地になるんだから」
「ええ、わざわざ陰陽不和を醸すように仕向けるのね」
 お延が叔母とこんな批評を取り換わせている間、叔父はにこにこして二人を眺めていたが、やがて会話の途切れるのを待って、徐(おもむ)ろに宣告を下した。
「とうとう降参しましたかな。降参したなら、降参したで宜しい。敗けたものを追窮はしないから。――其所へ行くと男には又弱いものを憐れむという美点があるんだからな、こう見えても」
 彼はさも勝利者らしい顔を粧(よそお)って立ち上がった。障子を開けて室の外へ出ると、勿体振った足音が書斎の方に向いて段々遠ざかって行った。しばらくして戻って来た時、彼は片手に小型の薄っぺらな書物を四五冊持っていた。
「おいお延好いものを持って来た。お前明日にでも病院へ行くなら、これを由雄さんの所へ持ってッてお遣り」
「何よ」
 お延はすぐ書物を受け取って表紙を見た。英語の表題が、外国語に熟しない彼女の眼を少し悩ませた。彼女は拾い読にぽつぽつ読み下した。ブック、オフ、ジョークス。イングリッシ、ウィット、エンド、ヒュモア。……
「へえ、」
「みんな滑稽なもんだ。洒落だとか、謎だとかね。寐ていて読むには丁度手頃で好いよ、肩が凝らなくってね」
「成程叔父さん向のものね」
「叔父さん向でもこの位な程度なら差支あるまい。いくら由雄さんが厳格だって、まさか怒りゃしまい」
「怒るなんて、……」
「まあ可いや、これも陰陽和合のためだ。試しに持ってッて見るさ」
 お延が礼を云って書物を膝の上に置くと、叔父は又片々(かたかた)の手に持った小さい紙片を彼女の前に出した。
「これは先刻お前を泣かした賠償金だ。約束だから序(ついで)に持ってお出で」
 お延は叔父の手から紙片を受取らない先に、その何であるかを知った。叔父はことさらにそれを振り廻した。
「お延、これは陰陽不和になった時、一番よく利く薬だよ。大抵の場合には一服呑むとすぐ平癒(へいゆ)する妙薬だ」
 お延は立っている叔父を見上げながら、弱い調子で抵抗した。
「陰陽不和じゃないのよ。あたし達のは本当の和合なのよ」
「和合なら猶結構だ。和合の時に呑めば、精神が益(ますます)健全になる。そうして身体は愈(いよいよ)強壮になる。何方へ転んでも間違のない妙薬だよ」
 叔父の手から小切手を受け取って、じっとそれを見詰めていたお延の眼に涙が一杯溜った。

七十七

 お延は叔父の送らせるという俥を断った。然し停留所まで自身で送って遣るという彼の好意を断りかねた。二人は遂に連れ立って長い坂を川縁(かわべり)の方へ下りて行った。
「叔父さんの病気には運動が一番可いんだからね。――なに歩くのは自分の勝手さ」
 肥っていて呼息が短いので、坂を上るとき可笑い程苦しがる彼は、まるで帰りを忘れたような事を云った。
 二人は途々(みちみち)夜の更けた昨夕(ゆうべ)の話をした。仮寐(うたたね)をして突ッ伏していたお時の様子などがお延の口に上った。もと叔父の家にいたという縁故で、新夫婦二人限の家庭に住み込んだこの下女に対して、叔父は幾分か周旋者の責任を感じなければならなかった。
「ありゃ叔母さんが能く知ってるが、正直で好い女なんだよ。留守なんぞさせるには持って来いだって受合った位だからね。だが独りで寐ちまっちゃ困るね、不用心で。尤もまだ年歯(とし)が年歯だからな。眠い事も眠いだろうよ」
 いくら若くっても、自分ならそんな場合にぐっすり寐込まれる訳のものでないという事を能く承知していたお延は、叔父のこの想い遣りをただ笑いながら聴いていた。彼女に云わせれば、こうして早く帰るのも、あんなに遅くなった昨日の結果を、今夜は繰り返させたくないという主意からであった。
 彼女は急いで其所へ来た電車に乗った。そうして車の中から叔父に向って「さよなら」といった。叔父は「さよなら、由雄さんによろしく」といった。二人が辛うじて別れの挨拶を交換するや否や、一種の音と動揺がすぐ彼女を支配し始めた。
 車内のお延は別に纏まった事を考えなかった。入れ替り立ち替り彼女の眼の前に浮ぶ、昨日からの関係者の顔や姿は、自分の乗っている電車のように早く廻転するだけであった。然し彼女はそうした目眩(めまぐる)しい影像(イメジ)を一貫している或物を心のうちに認めた。若くはその或物が根調(こんちょう)で、そうした断片的な影像が眼の前に飛び廻るのだとも云えた。彼女はその或物を拈定(ねんてい)しなければならなかった。然し彼女の努力は容易に成功をもって報いられなかった。団子を認めた彼女は、遂に個々を貫いている串を見定める事の出来ないうちに電車を下りてしまった。
 玄関の格子を開ける音と共に、台所の方から駈け出して来たお時は、彼女の予期通り「お帰り」と云って、鄭寧(ていねい)な頭を畳の上に押し付けた。お延は昨日に違った下女の判切(はっきり)した態度を、さも自分の手柄ででもあるように感じた。
「今日は早かったでしょう」
 下女はそれ程早いとも思っていないらしかった。得意なお延の顔を見て、仕方なさそうに、「へえ」と答えたので、お延は又譲歩した。
「もっと早く帰ろうと思ったんだけれどもね、つい日が短かいもんだから」
 自分の脱ぎ棄てた着物をお時に畳ませる時、お延は彼女に訊いた。
「あたしの居ない留守に何にも用はなかったろうね」
 お時は「いいえ」と答えた。お延は念のためもう一遍問を改めた。
「誰も来やしなかったろうね」
 するとお時が急に忘れたものを思い出したように調子高な返事をした。
「あ、入らっしゃいました。あの小林さんと仰しゃる方が」
 夫の知人としての小林の名はお延の耳に初めてではなかった。彼女には二三度その人と口を利いた記憶があった。然し彼女はあまり彼を好いていなかった。彼が夫から甚だ軽く見られているという事も能く呑み込んでいた。
「何しに来たんだろう」
 こんなぞんざいな言葉さえ、つい口先へ出そうになった彼女は、それでも尋常な調子で、お時に訊き返した。
「何か御用でもおありだったの」
「ええあの外套を取りに入らっしゃいました」
 夫から何にも聞かされていないお延に、この言葉はまるで通じなかった。
「外套? 誰の外套?」
 周密なお延は色々な問をお時に掛けて、小林の意味を知ろうとした。けれどもそれは全くの徒労であった。お延が訊けば訊く程、お時が答えれば答える程、二人は迷宮に入るだけであった。仕舞に自分達より小林の方が変だという事に気の付いた二人は、声を出して笑った。津田の時々使うノンセンスと云う英語がお延の記憶に蘇生えった。「小林とノンセンス」こう結び付けて考えると、お延は堪らなく可笑しくなった。発作のように込み上てくる滑稽感に遠慮なく自己を託した彼女は、電車の中(うち)から持ち越して帰って来た、気掛りな宿題を、しばらく忘れていた。

七十八

 お延はその晩京都にいる自分の両親へ宛てて手紙を書いた。一昨日も昨日も書き掛けて止めにしたその音信(たより)を、今日は是非とも片付けてしまわなければならないと思い立った彼女の頭の中には、決して両親の事ばかり働いているのではなかった。
 彼女は落付けなかった。不安から逃れようとする彼女には注意を一つ所に集める必要があった。先刻からの疑問を解決したという切な希望もあった。要するに京都へ手紙を書けば、ざわざわしがちな自分の心持を纏めて見る事が出来そうに思えたのである。
 筆を取り上げた彼女は、例の通り時候の挨拶から始めて、無沙汰の申し訳までを器械的に書き了(おわ)った後で、少時(しばらく)考えた。京都へ何か書いてやる以上は、是非とも自分と津田との消息を的に置かなければならなかった。それはどの親も新婚の娘から聞きたがる事項であった。どの娘も亦生家の父母に知らせなくっては済まない時項であった。それを差し措いて里へ手紙を遣る必要は殆んどあるまいとまで平生から信じていたお延は、筆を持ったまま、目下自分と津田との間柄が、果してどんな所にどういう風に関係しているかを考えなければならなかった。彼女は有のままその物を父母に報知する必要に逼られてはいなかた。けれどもある男に嫁いだ一個の妻として、それを見極めて置く要求を痛切に感じた。彼女は凝(じっ)と考え込んだ。筆は其所で留ったぎり動かなくなった。その動かなくなった筆の事さえ忘れて、彼女は考えなければならなかった。しかも知ろうとすればする程、確(しか)とした所は手に掴(つか)めなかった。
 手紙を書くまでの彼女は、ざわざわした散漫な不安に悩まされていた。手紙を書き始めた今の彼女は、漸く一つ所に落付いた。そうして又一つ所に落付いた不安に悩まされ始めた。先刻電車の中で、ちらちら眼先に付き出した色々の影像は、みんなこの一点に向って集注するのだという事を、前後両様の比較から発見した彼女は、やっと自分を苦しめる不安の大根(おおね)に辿り付いた。けれどもその大根の正体はどうしても分らなかった。勢い彼女は問題を未来に繰り越さなければならなかった。
「今日解決が出来なければ、明日解決するより外に仕方がない。明日解決が出来なければ明後日解決するより外に仕方がない。明後日解決が出来なければ……」
 これが彼女の論法(ロジック)であった。又希望であった。最後の決心であった。そうしてその決心を彼女は既に継子(つぎこ)の前で公言していたのである。
「誰でも構わない、自分のこうと思い込んだ人を飽くまで愛する事によって、その人に飽くまで自分を愛させなければ已(や)まない」
 彼女は此所まで行く事を改めて心に誓った。此所まで行って落付く事を自分の意志に命令した。
 彼女の気分は少し軽くなった。彼女は再び筆を動かした。成るべく父母の喜こびそうな津田と自分の現況を憚(はばか)りなく書き連ねた。幸福そうに暮している二人の趣が、それからそれへと描出された。感激に充ちた筆の穂先がさらさらと心持よく紙の上を走るのが彼女には面白かった。長い手紙がただ一息に出来上った。その一息がどの位の時間に相当しているかという事を、彼女はまるで知らなかった。
 仕舞に筆を擱(お)いた彼女は、もう一遍自分の書いたものを最初から読み直して見た。彼女の手を支配したと同じ気分が、彼女の眼を支配しているので、彼女は訂正や添削の必要を何処にも認めなかった。日頃苦にして、使う時には屹度言海(げんかい)を引いて見る、うろ覚えの字さえそのままで少しも気に掛からなかった。てには違のために意味の通じなくなった所を、二三ヵ所ちょいちょいと取り繕っただけで、彼女は手紙を巻いた。そうして心の中でそれを受取る父母に断った。
「この手紙に書いてある事は、何処から何処まで本当です。嘘や、気休や、誇張は、一字もありません。もしそれを疑う人があるなら、私はその人を憎みます、軽蔑します、唾(つばき)を吐き掛けます。その人よりも私の方が真相を知っているからです。私は上部(うわかわ)の事実以上の真相を此所に書いています。それは今私にだけ解っている真相なのです。然し未来では誰にでも解らなければならない真相なのです。私は決してあなた方を欺むいてはおりません。私があなた方を安心させるために、わざと欺騙(あざむき)の手紙を書いたのだというものがあったなら、その人眼の明いた盲人です。その人こそ嘘吐(うそつき)です。どうぞこの手紙を上げる私を信用して下さい。神様は既に信用していらっしゃるのですから」
 お延は封書を枕元へ置いて寐た。

七十九

 始めて京都で津田に会った時の事が思い出された。久し振に父母の顔を見に帰ったお延は、着いてから二三日して、父に使を頼まれた。一通の封書と一帙(ちつ)の唐本を持って、彼女は五六町隔った津田の宅まで行かなければならなかった。軽い神経痛に悩まされて、寐たり起きたりぶらぶらしていた彼女の父は、病中の徒然(つれづれ)を慰めるために折々津田の父から書物を借り受けるのだという事を、お延はその時始めて彼の口から聞かされた。古いのを返して新らしいのを借りて来るのが彼女の用向であった。彼女は津田の玄関に立って案内を乞うた。玄関には大きな衝立(ついたて)が立ててあった。白い紙の上に躍っているように見える変な字を、彼女が驚ろいて眺めていると、その衝立の後から取次に現われたのは、下女でも書生でもなく、丁度その時彼女と同じ様に京都の家へ来ていた由雄であった。
 二人は固よりそれまでに顔を合せた事がなかった。お延の方ではただ噂で由雄を知っているだけであった。近頃家へ帰って来たとか、又は帰っているとかいう話は、その朝始めて父から聞いた位のものであった。それも父に新らしく本を借りようという気が起って、彼がそのための手紙を書いた、事の序(ついで)に過ぎなかった。
 由雄はその時お延から帙入の唐本を受取って、何故だか、明詩別裁(みんしべっさい)という厳めしい字で書いた標題を長らくの間見詰めていた。その見詰めている彼を、お延は又何時までも眺めていなければならなかった。すると彼が急に顔を上げたので、お延が今まで熱心に彼を見ていた事がすぐ発覚してしまった。然し由雄の返事を待ちうける位地に立たせられたお延から見れば、これも已を得ない所作に違なかった。顔を上げた由雄は、「父は生憎(あいにく)今留守ですが」と云った。お延はすぐ帰ろうとした。すると由雄が又呼び留めて、自分の父宛の手紙を、お延の見ている前で、断りも何もせずに、開封した。この平気な挙動がまたお延の注意を惹いた。彼の遣口(やりくち)は不作法であった。けれども果断に違なかった。彼女はどうしても彼を粗野(がさつ)とか乱暴とかという言葉で評する気にならなかった。
 手紙を一目見た由雄は、お延を玄関先に待たせたまま、入用の書物を探しに奥へ這入った。然し不幸にして父の借ろうとする漢籍は彼の眼の付く所になかった。十分ばかりして又出て来た彼は、お延を空しく引き留めて置いた詫を述べた。指定の本は一寸見付からないから、彼の父の帰り次第、此方から届けるようにすると云った。お延は失礼だというので、それを断った。自分は又明日でも取りに来るからと約束して宅へ帰った。
 するとその日の午後由雄が向うから望みの本をわざわざ持って来て呉れた。偶然にもお延がその取次に出た。二人は又顔を見合せた。そうして今度はすぐ両方で両方を認め合った。由雄の手に提げた書物は、今朝お延の返しに行ったものに比べると、約三倍の量があった。彼はそれを更紗の風呂敷に包んで、恰(あたか)も鳥籠でもぶら下げているような具合にしてお延に示した。
 彼は招ぜられるままに座敷へ上ってお延の父と話をした。お延から云えば、とても若い人には堪えられそうもない老人向の雑談を、別に迷惑そうな様子もなく、方角違の父と取り換わせた。彼は自分の持って来た本に就いては何事も知らなかった。お延の返しに行った本に就いては猶知らなかった。劃(かく)の多い四角な字の重なっている書物は全く読めないのだと断った。それでも此方から借りに行った呉梅村詩(ごばいそんし)という四文字を的(あて)に、書棚を彼方此方と探して呉れたのであった。父はあつく彼の好意を感謝した。……
 お延の眼にはその時の彼がちらちらした。その時の彼が今の彼と別人ではなかった。といって、今の彼と同人でもなかった。平たく云えば、同じ人が変ったのであった。最初無関心に見えた彼は、段々自分の方に牽(ひ)き付けられるように変って来た。一旦牽き付けられた彼は、また次第に自分から離れるように変って行くのではなかろうか。彼女の疑は殆んど彼女の事実であった。彼女はその疑を拭い去るために、その事実を引ッ繰り返さなければならなかった。

八十

 強い意志がお延の身体全体に充ち渡った。朝になって眼を覚ました時の彼女には、怯懦(きょうだ)ほど自分に縁の遠いものはなかった。寐起の悪過ぎた前の日の自分を忘れたように、彼女はすぐ飛び起きた。夜具を跳ね退けて、床を離れる途端に、彼女は自分で自分の腕の力を感じた。朝寒(あささむ)の刺戟と共に、締まった筋肉が一度に彼女を緊縮させた。
 彼女は自分の手で雨戸を手繰った。戸外(そと)の模様は何時もよりまだ余ッ程早かった。昨日に引き換えて、今日は津田の居る時よりも却って早く起きたという事が、何故だか彼女には嬉しかった。怠けて寐過した昨日の償い、それも満足の一つであった。
 彼女は自分で床を上げて座敷を掃き出した後で鏡台に向った。そうして結ってから四日目になる髪を解いた。油で汚れたところへ二三度櫛を通して、癖が付いて自由にならないのを、無理に廂(ひさし)に束(つか)ね上げた。それが済んでから始めて下女を起した。
 食事の出来るまでの時間を、下女と共に働らいた彼女は、膳に着いた時、下女から「今日は大変お早う御座いましたね」と云われた。何にも知らないお時は、彼女の早起を驚ろいているらしかった。また自分が主人より遅く起きたのを済まない事でもしたように考えているらしかった。
「今日は旦那様のお見舞に行かなければならないからね」
「そんなにお早く入らっしゃるんで御座いますか」
「ええ。昨日行かなかったから今日は少し早く出掛ましょう」
 お延の言葉遣は平生より鄭寧で片付いていた。其所に或落付きがあった。そうしてその落付を裏切る意気があった。意気に伴なう果断も遠くに見えた。彼女の中にある心の調子がおのずと態度にあらわれた。
 それでも彼女はすぐ出掛ようとはしなかった。襷(たすき)を外して盆を持ったお時を相手に、しばらく岡本の話などをした。もと世話になった覚のあるその家族は、お時にとっても、興味に充ちた題目なので、二人は同じ事を繰り返すようにしてまで、よく彼等に就いて語り合った。ことに津田のいない時はそうであった。というのは、もし津田がいると、ある場合には、彼一人が除外物(のけもの)にされたような変な結果に陥るからであった。不図した拍子からそんな気不味い思いを一二度経験した後で、其所に気を付け出したお延は、その外にまだ、富裕な自分の身内を自慢らしく吹聴したがる女と夫から解釈される不快を避けなければならない理由もあったので、お時にもかねてその旨を言い含めて置いたのである。
「御嬢さまはまだ何処へもお極りになりませんので御座いますか」
「何だかそんな話もあるようだけれどもね、まだどうなるか能く解らない様子だよ」
「早く好い所へ入らっしゃるようになると、結構で御座いますがね」
「大方もう直でしょう。叔父さんはあんな性急だから。それに継子さんはあたしと違って、ああいう器量好しだしね」
 お時は何か云おうとした。お延は下女のお世辞を受けるのが苦痛だったので、すぐ自分でその後を付けた。
「女はどうしても器量が好くないと損ね。いくら悧巧でも、気が利いていても、顔が悪いと男には嫌われるだけね」
「そんな事が御座いません」
 お時が弁護するように強くこういったので、お延は猶自分を主張したくなった。
「本当よ。男はそんなものなのよ」
「でも、それは一時の事で、年を取るとそうは参りますまい」
 お延は答えなかった。然し彼女の自信はそんな弱いものではなかった。
「本当にあたしのような不器量なものは、生れ変ってでも来なくっちゃ仕方がない」
 お時は呆れた顔をしてお延を見た。
「奥様が不器量なら、わたくしなんか何といえば可いので御座いましょう」
 お時の言葉はお世辞でもあり、事実でもあった。両方の都合をよく心得ていたお延は、それで満足して立ち上った。
 彼女が外出のため着物を着換えていると、戸外から誰か来たらしい足音がして玄関の号鈴(ベル)が鳴った。取次に出たお時に、「一寸奥さんに」という声が聞こえた。お延はその声の主を判断しようとして首を傾けた。

八十一

 袖を口へ当ててくすくす笑いながら茶の間へ駈け込んで来たお時は、容易に客の名を云わなかった。彼女はただ可笑しさを噛み殺そうとして、お延の前で悶え苦しんだ。わずか「小林」という言葉を口へ出すのでさえ余程手間取った。
 この不時の訪問者をどう取り扱って可いか、お延は解らなかった。厚い帯を締めかけているので、自分がすぐ玄関へ出る訳に行かなかった。といって、掛取でも待たせて置くように、何時までも彼を其所に立たせるのも不作法であった。姿見の前に立ち竦(すく)んだ彼女は当惑の眉を寄せた。仕方がないので、今出掛だから、ゆっくり会ってはいられないがとわざわざ断らした後で、彼を座敷へ上げた。然し会って見ると、満更知らない顔でもないので、用だけ聴いてすぐ帰って貰う事も出来なかった。その上小林は斟酌(しんしゃく)だの遠慮だのを知らない点にかけて、大抵の人に引(ひけ)を取らないように、天から生み付けられた男であった。お延の時間が逼っているのを承知の癖に、彼は相手さえ悪い顔をしなければ、何時まで坐り込んでいても差支ないものと独りで合点しているらしかった。
 彼は津田の病気を能く知っていた。彼は自分が今度地位を得て朝鮮に行く事を話した。彼のいう所によれば、その地位は未来に希望のある重要のものであった。彼は又探偵に跟(つ)けられた話をした。それは津田と一所に藤井から帰る晩の出来事だと云って、驚ろいたお延の顔を面白そうに眺めた。彼は探偵に跟けられるのが自慢らしかった。大方社会主義者として目指されているのだとういう説明までして聴かせた。
 彼の談話には気の弱い女に衝撃(ショック)を与えるような部分があった。津田から何にも聞いていないお延は、怖々ながらつい其所に釣り込まれて大切な時間を度外に置いた。然し彼の言う事を素直にはいはい聴いていると何処まで行っても果しがなかった。仕舞には此方から催促して、早く向うに用事を切り出させるように仕向けるより外に途がなくなった。彼は少し極りの悪そうな様子をして漸く用向を述べた。それは昨夕お延とお時をさんざ笑わせた外套の件に外ならなかった。
「津田君から貰うっていう約束をしたもんですから」
 彼の主意は朝鮮へ立つ前一寸その外套を着て見て、もしあんまり自分の身体に合わないようなら今のうちに直させたいというのであった。
 お延はすぐ入用の品を箪笥の底から出して遣ろうかと思った。けれども彼女はまだ津田から何にも聞いていなかった。
「どうせもう着る事なんかなかろうとは思うんですが」といって逡巡(ためら)った彼女は、こんな事に案外八釜しい夫の気性を能く知っていた。着古した外套一つが本で、他日細君の手落呼(よば)わりなどをされた日には耐(たま)らないと思った。
「大丈夫ですよ、呉れるって云ったに違ないんだから。嘘なんか吐きゃしませんよ」
 出して遣らないと小林を嘘吐(うそつき)としてまうようなものであった。
「いくら酔払っていたって気は確なんですからね。どんな事があったって貰う物を忘れるような僕じゃありませんよ」
 お延はとうとう決心した。
「じゃ少時待ってて下さい。電話で一寸病院へ聞き合せに遣りますから」
「奥さんは実に几帳面ですね」と云って小林は笑った。けれどもお延の暗に恐れていた不愉快そうな表情は、彼の顔の何処にも認められなかった。
「ただ念のためにですよ。あとでわたくしが又何とか云われると困りますから」
 お延はそれでも小林が気を悪くしない用心に、こんな弁解がましい事を附け加えずにはいられなかった。
 お時が自働電話へ駈け付けて津田の返事を持って来る間、二人は猶対坐(たいざ)した。そうして彼女の帰りを待ち受ける時間を談話で繋いだ。ところがその談話は突然な閃めきで、何にも予期していなかったお延の心臓を躍らせた。

八十二

「津田君は近頃大分大人しくなったようですね。全く奥さんの影響でしょう」
 お時が出て行くや否や、小林は藪から棒にこんな事を云い出した。お延は相手が相手なので、当らず障らずの返事をして置くに限ると思った。
「そうですか。私自身じゃ影響なんかまるでないように思っておりますがね」
「どうして、どうして。まるで人間が生れ変ったようなものです」
 小林の云い方が余り大袈裟なので、お延は却って相手を冷評(ひやか)し返して遣りたくなった。然し彼女の気位がそれを許さなかったので、彼女はわざと黙っていた。小林はまたそんな事を顧慮する男ではなかった。秩序も段落も構わない彼の話題は、突飛に此所彼所(ここかしこ)を駈け回(めぐ)る代りに、時としては不作法な位一直線に進んだ。
「矢ッ張細君の力には敵いませんね、どんな男でも。――僕のような独身ものには、殆んど想像が付かないけれども、何かあるんでしょうね、其所に」
 お延はとうとう自分を抑える事が出来なくなった。彼女は笑い出した。
「ええあるわ。小林さんなんかには迚(とて)も見当の付かない神秘的なものが沢山あるわ、夫婦の間には」
「あるなら一つ教えて頂きたいもんですね」
「独りものが教わったって何にもならないじゃありませんか」
「参考になりますよ」
 お延は細い目のうちに、賢こそうな光りを見せた。
「それよりあなた御自分で奥さんをお貰いになるのが、一番捷徑(ちかみち)じゃありませんか」
 小林は頭を掻く真似をした。
「貰いたくっても貰えないんです」
「何故」
「来て呉れ手がなければ、自然貰えない訳じゃありませんか」
「日本は女の余ってる国よ、あなた。お嫁なんかどんなのでも其所いらにごろごろ転がってるじゃありませんか」
 お延はこう云ったあとで、これは少し云い過ぎたと思った。然し相手は平気であった。もっと強くて烈しい言葉に平生から慣れ抜いている彼の神経は全く無感覚であった。
「いくら女が余っていても、これから駈け落をしようという矢先ですからね、来ッこありませんよ」
 駈落という言葉が、不図芝居で遣る男女二人の道行をお延に想い起させた。そうした濃厚な恋愛を象(かた)どる艶めかしい歌舞伎姿を、ちらりと胸に描いた彼女は、それと全く縁の遠い、他の着古した外套を貰うために、今自分の前に坐っている小林を見て微笑した。
「駈落をなさるのなら、一層二人でなすったら可いでしょう」
「誰とです」
「そりゃ極っていますわ。奥さんの外に誰も伴れて入らっしゃる方はないじゃありませんか」
「へえ」
 小林はこう云ったなり畏まった。その態度が全くお延の予期に外れていたので、彼女は少し驚ろかされた。そうして却って予想以上可笑しくなった。けれども小林は真面目であった。しばらく間を置いてから独り言のような口調で、彼は妙なことを云い出した。
「僕だって朝鮮三界まで駈落のお供をして呉れるような、実のある女があれば、こんな変な人間にならないで、済んだかも知れませんよ。実を云うと、僕には細君がないばかりじゃないんです。何にもないんです。親も友達もないんです。つまり世の中がないんですね。もっと広く云えば人間がないんだとも云われるでしょうが」
 お延は生れて初めての人に会ったような気がした。こんな言葉をまだ誰の口からも聞いた事のない彼女は、その表面上の意味を理解するだけでも困難を感じた。相手をどう捌(こ)なして可いかの点になると、全く方角が立たなかった。すると小林の態度は猶感慨を帯びて来た。
「奥さん、僕にはたった一人の妹があるんです。外に何にもない僕には、その妹が非常に貴重に見えるのです。普通の人の場合よりどの位貴重だか分りゃしません。それでも僕はその妹を置いて行かなければならないのです。妹は僕のあとへ何処までも喰ッ付いて来たがります。然し僕はまた妹をどうしても伴れて行く事が出来ないのです。二人一所に居るよりも、二人離れ離れになっている方が、まだ安全だからです。人に殺される危険がまだ少ないからです」
 お延は少し気味が悪くなった。早く帰って来て呉れればいいと思うお時はまだ帰らなかった。仕方なしに彼女は話題を変えてこの圧迫から逃れようと試みた。彼女はすぐ成功した。然しそれがために彼女はまた飛んでもない結果に陥った。

八十三

 特殊の経過を有ったその時の問答は、まずお延の言葉から始まった。
「然し貴方の仰しゃる事は本当なんでしょうかね」
 小林は果して沈痛らしい今までの態度をすぐ改めた。そうしてお延の思わく通り向うから訊き返して来た。
「何がです、今僕の云った事がですか」
「いいえ、そんな事じゃないの」
 お延は巧みに相手を岐路(わきみち)に誘い込んだ。
「貴方先刻仰ゃったでしょう。近頃津田が大分変って来たって」
 小林は元へ戻らなければならなかった。
「ええ云いました。それに違ないから、そう云ったんです」
「本当に津田はそんなに変ったでしょうか」
「ええ変りましたね」
 お延は腑に落ちないような顔をして小林を見た。小林はまた何か証拠でも握っているらしい様子をしてお延を見た。二人がしばらく顔を見合せている間、小林の口元には始終薄笑いの影が射していた。けれどもそれは終に本式の笑いとなる機会を得ずに消えてしまわなければならなかった。お延は小林なんぞに調戯われる自分じゃないという態度を見せたのある。
「奥さん、あなた自分だって大概気が付きそうなものじゃありませんか」
 今度は小林の方からこう云ってお延に働らき掛けて来た。お延はたしかに其所に気が付いていた。けれども彼女の気が付いている夫の変化は、全く別ものであった。小林の考えている、少なくとも彼の口にしている、変化とはまるで反対の傾向を帯びていた。津田と一所になってから、朧気ながら次第々々に明るくなりつつあるように感ぜられるその変化は、非常に見分けにくい色調の階段をそろりそろりと動いて行く微妙なものであった。どんな鋭敏な観察者が外部から覗いても到底判りこない性質のものであった。そうしてそれが彼女の秘密であった。愛する人が自分から離れて行こうとする毫釐(ごうりん)の変化、もしくは前から離れていたのだという悲しい事実を、今になって、そろそろ認め始めたという心持の変化。それが何で小林如きものに知れよう。
「一向気が付きませんね。あれで何処か変った所でもあるんでしょうか」
 小林は大きな声を出して笑った。
「奥さんは中々空惚(そらッとぼ)ける事が上手だから、僕なんざあとても敵わない」
「空惚けるっていうのはあなたの事じゃありませんか」
「ええ、まあ、そんならそうにして置きましょう。――然し奥さんはそういう旨いお手際を有っていられるんですね。漸く解った。それで津田君がああ変化して来るんですね、どうも不思議だと思ったら」
 お延はわざと取り合わなかった。と云って別に煩(うる)さい顔もしなかった。愛嬌を見せた平気とでもいうような態度をとった。小林はもう一歩前へ進み出した。
「藤井さんでもみんな驚ろいていますよ」
「何を」
 藤井という言葉を耳にした時、お延の細い眼が忽ち相手の上に動いた。誘(おび)き出されると知りながら、彼女はついこういって訊き返さなければならなかった。
「あなたのお手際にです。津田君を手のうちに丸め込んで自由にするあなたの霊妙なお手際にです」
 小林の言葉は露骨過ぎた。然し露骨な彼は、わざと愛嬌半分にそれをお延の前で披露するらしかった。お延はつんとして答えた。
「そうですか。わたくしにそれだけの力があるんですかね。自分にゃ解りませんが、藤井の叔父さんや叔母さんがそう云って下さるなら、大方本当なんでしょうよ」
「本当ですとも。僕が見たって、誰が見たって本当なんだから仕方がないじゃありませんか」
「有難う」
 お延はさも軽蔑した調子で礼を云った。その礼の中に含まれていた苦々しい響は、小林にとって全く予想外のものであるらしかった。彼はすぐ彼女を宥(なだ)めるような口調で云った。
「奥さんは結婚前の津田君を御承知ないから、それで自分の津田君に及ぼした影響を自覚なさらないんでしょうが、――」
「わたくしは結婚前から津田を知っております」
「然しその前は御存じないでしょう」
「当り前ですわ」
「ところが僕はその前をちゃんと知っているんですよ」
 話はこんな具合にして、とうとう津田の過去に遡(さかのぼ)って行った。

八十四

 自分のまだ知らない夫の領分に這入り込んで行くのはお延にとって多大の興味に違なかった。彼女は喜こんで小林の談話に耳を傾けようとした。ところがいざ聴こうとすると、小林は決して要領を得た事を云わなかった。云っても肝心の所はわざと略してしまった。例えば二人が深夜非常線にかかった時の光景には一口触れるが、そういう出来事に出合うまで、彼等が何処で夜深しをしていたかの点になると、彼は故意に暈(ぼか)し去って、全く語らないという風を示した。それを訊けば意味ありげににやにや笑って見せるだけであった。お延は彼がとくにこうして自分を焦燥(じら)しているのではなかろうかという気さえ起した。
 お延は平生から小林を軽く見ていた。半ば夫の評価を標準に置き、半ば自分の直覚を信用して成立ったこの侮蔑の裏には、まだ他に向って公言しない大きな因子(ファクトー)があった。それは単に小林が貧乏であるという事に過ぎなかった。彼に地位がないという点に外ならなかった。売れもしない雑誌の編輯(へんしゅう)、そんなものは極った職業として彼女の眼に映る筈がなかった。彼女の見た小林は、常に無籍もののような顔をして、世の中をうろうろしていた。宿なしらしい愚痴を零(こぼ)して、厭がらせに其所いらをまご付き歩くだけであった。
 然しこの種の軽蔑に、ある程度の不気味は何時でも附物であった。殊にそういう階級に馴らされない女、しかも経験に乏しい若い女には、猶更の事でなければならなかった。少くとも小林の前に坐ったお延はそう感じた。彼女は今までに彼位な貧しさの程度の人に出合わないとは云えなかった。然し岡本の宅へ出入りをするそれらの人々は、みんなその分を弁(わきま)えていた。身分には段等があるものと心得て、みんな己れに許された範囲内に於てのみ行動を敢てした。彼女は未だかつて小林のように横着な人間に接した例(ためし)がなかった。彼のように無遠慮に自分に近付いて来るもの、富も位地もない癖に、彼のように大きな事を云うもの、彼のように無暗に上流社会の悪体を吐くものには決して会った事がなかった。
 お延は突然気が付いた。
「自分の今相手にしているのは、平生考えていた通りの馬鹿でなくって、或は手に余る擦れッ枯らしじゃなかろうか」
 軽蔑の裏に潜んでいる不気味な方面が強く頭を持上げた時、お延の態度は急に改たまった。すると小林はそれを見届けた証拠にか、又はそれに全くの無頓着でか、アははと笑い出した。
「奥さんまだ色々残ってますよ。あなたの知りたい事がね」
「そうですか。今日はもうその位で沢山でしょう。あんまり一度きに伺ってしまうと、これから先の楽しみがなくなりますから」
「そうですね、じゃ今日はこれで切り上げときますかな。あんまり奥さんに気を揉ませて、歇斯的里(ヒステリ)でも起されると、後でまた僕の責任だなんて、津田君に恨まれるだけだから」
 お延は後を向いた。後は壁であった。それでも茶の間に近いその見当に、彼女はお時の消息を聞こうとする努力を見せた。けれども勝手口は今まで通り静かであった。疾(と)うに帰るべき筈のお時はまだ帰って来なかった。
「どうしたんでしょう」
「なに今に帰って来ますよ。心配しないでも迷児になる気遣はないから大丈夫です」
 小林は動こうともしなかった。お延は仕方がないので、茶を淹(い)れ代えるのを口実に、席を立とうとした。小林はそれさえ遮ぎった。
「奥さん、時間があるなら、退屈凌ぎに幾らでも先刻の続きを話しますよ。喋舌って潰すのも、黙って潰すのも、どうせ僕みたいな穀潰しにゃ、同(おん)なし時間なんだから、ちっともご遠慮にゃ及びません。どうです、津田君にはあれでまだあなたに打ち明けないような水臭い所が大分あるんでしょう」
「あるかも知れませんね」
「ああ見えて中々淡泊でないからね」
 お延ははっと思った。腹の中で小林の批評を首肯(うけが)わない訳に行かなかった彼女は、それが中っているだけに猶の事感情を害した。自分の立場を心得ない何という不作法な男だろうと思って小林を見た。小林は平気で前の言葉を繰り返した。
「奥さんあなたの知らない事がまだ沢山ありますよ」
「あっても宜しいじゃ御座いませんか」
「いや、実はあなたの知りたいと思ってる事がまだ沢山あるんですよ」
「あっても構いません」
「じゃ、あなたの知らなければならない事が沢山あるんだと云い直したらどうです。それでも構いませんか」
「ええ、構いません」

八十五

 小林の顔には皮肉の渦が漲(みなぎ)った。進んでも退いても此方のものだという勝利の表情がありあありと見えた。彼はその瞬間の得意を永久に引き延ばして、何時までも自分で眺め暮したいような素振さえ示した。
「何という陋劣(ろうれつ)な男だろう」
 お延は腹の中でこう思った。そうして少時の間凝(じっ)と彼と睨(にら)めっ競(くら)をしていた。すると小林の方から又口を利き出した。
「奥さん津田君が変った例証として、是非あなたに聴かせなければならない事があるんですが、余まりおびえていらっしゃる様だから、それは後廻しにして、その反対の方、即ち津田君がちっとも変らない所を少し御参考までにお話して置きますよ。これは厭でも私の方で是非奥さんに聴いて頂きたいのです。――どうです聴いて下さいますか」
 お延は冷淡に「どうともあなたの御随意に」と答えた。小林は「有難い」と云って笑った。
「僕は昔から津田君に軽蔑されていました。今でも津田君に軽蔑されています。先刻からいう通り津田君は大変変りましたよ。けれども津田君の僕に対する軽蔑だけは昔も今も同様なのです。毫(ごう)も変らないのです。これだけはいくら悧巧な奥さんの感化力でもどうする訳にも行かないと見えますね。尤もあなた方から見たら、それが理の当然なんでしょうけれどもね」
 小林は其所で言葉を切って、少し苦しそうなお延の笑い顔に見入った。それから又続けた。
「いや別に変って貰いたいという意味じゃありませんよ。その点について奥さんの御尽力を仰ぐ気は毛頭ないんだから、御安心なさい。実をいうと、僕は津田君にばかり軽蔑されている人間じゃないんです。誰にでも軽蔑されている人間なんです。下らない女にまで軽蔑されているんです。有体(ありてい)に云えば世の中全体が寄ってたかって僕を軽蔑しているんです」
 小林の眼は据わっていた。お延は何という事も出来なかった。
「まあ」
「それは事実です。現に奥さん自身でもそれを腹の中で認めていらっしゃるじゃありませんか」
「そんな馬鹿な事があるもんですか」
「そりゃ口の先では、そう仰しゃらなければならないでしょう」
「あなたも随分僻(ひが)んでいらっしゃるのね」
「ええ僻んでるかも知れません。僻もうが僻むまいが、事実は事実ですからね。然しそりゃどうでも可いんです。もともと無能(やくざ)に生れ付いたのが悪いんだから、いくら軽蔑されたって仕方がありますまい。誰を恨む訳にも行かないのでしょう。けれども世間からのべつにそう取り扱われ付けて来た人間の心持を、あなたは御承知ですか」
 小林は何時までもお延の顔を見て返事を待っていた。お延には何にもいう事がなかった。まるっきり同情の起り得ない相手の心持、それが自分に何の関係があろう。自分には又自分で考えなければならない問題があった。彼女は小林のために想像の翼さえ伸ばして遣る気にならなかった。その様子を見た小林はまた「奥さん」と云い出した。
「奥さん、僕は人に厭がられるために生きているんです。わざわざ人の厭がるような事を云ったり為たりするんです。そうでもしなければ苦しくって堪らないんです。生きていられないのです。僕の存在を人に認めさせる事が出来ないんです。僕は無能です。幾ら人から軽蔑されても存分な讎討(かたきうち)が出来ないんです。仕方がないからせめて人に嫌われてでも見ようと思うのです。それが僕の志願なのです」
 お延の前にまるで別世界に生れた人の心理状態が描き出された。誰からでも愛されたい、又誰からでも愛されるように仕向けて行きたい、ことに夫に対しては、是非ともそうしなければならない、というのが彼女の腹であった。そうしてそれは例外なく世界中の誰にでも当て嵌(はま)って、毫も悖(もと)らないものだと、彼女は最初から信じ切っていたのである。
「吃驚(びっく)りした様じゃありませんか。奥さんはまだそんな人に会った事がないんでしょう。世の中には色々の人がありますからね」
 小林は多少溜飲(りゅういん)の下りたような顔をした。
「奥さんは先刻から僕を厭がっている。早く帰れば可い、帰れば可いと思っている。ところがどうした訳か、下女が帰って来ないもんだから、仕方なしに僕の相手になっている。それがちゃんと僕には分るんです。けれども奥さんはただ僕を厭な奴だと思うだけで、何故僕がこんな厭な奴になったのか、その原因を御承知ない。だから僕が一寸其所を説明して上げたのです。僕だってまさか生れたてからこんな厭な奴でもなかったんでしょうよ、よくは分りませんけれどもね」
 小林は又大きな声を出して笑った。

八十六

 お延の心はこの不思議な男の前に入り乱れて移って行った。一には理解が起らなかった。二には同情が出なかった。三には彼の真面目さが疑がわれた。反抗、畏怖、軽蔑、不審、馬鹿らしさ、嫌悪、好奇心、――雑然として彼女の胸に交錯した色々なものは決して一点に纏まる事が出来なかった。従ってただ彼女を不安にするだけであった。彼女は仕舞に訊いた。
「じゃあなたは私を厭がらせるために、わざわざ此所へ入らしったと言明なさるんですね」
「いや目的はそうじゃありません。目的は外套を貰いに来たんです」
「じゃ外套を貰いに来た序に、私を厭がらせようと仰しゃるんですか」
「いやそうでもありません。僕はこれで天然自然の積なんですからね。奥さんよりも余程技巧は少ないと思ってるんです」
「そんな事はどうでも、私の問にはっきりお答えになったら可いじゃありませんか」
「だから僕は天然自然だと云うのです。天然自然の結果、奥さんが僕を厭がられるようになるというだけなのです」
「詰りそれがあなたの目的でしょう」
「目的じゃありません。然し本望かも知れません」
「目的と本望と何所が違うんです」
「違いませんかね」
 お延の細い眼から憎悪の光が射した。女だと思って馬鹿にするなという気性がありありと瞳子(ひとみ)の裏(うち)に宿った。
「怒っちゃ不可(いけま)せん」と小林が云った。「僕は自分の小さな料簡から敵打をしてるんじゃないという意味を、奥さんに説明して上げただけです。天がこんな人間になって他(ひと)を厭がらせて遣れと僕に命ずるんだから仕方がないと解釈して頂きたいので、わざわざそう云ったのです。僕は僕に悪い目的はちっともない事をあなたに承認して頂きたいのです。僕自身は始めから無目的だという事を知って置いて頂きたいのです。然し天には目的があるかも知れません。そうしてその目的が僕を動かしているかも知れません。それに動かされる事が又僕の本望かも知れません」
 小林の筋の運び方は、少し困絡(こんがら)かり過ぎていた。お延は彼の論理の間隙(すき)を突くだけに頭が錬れていなかった。といって無条件で受け入れて可いか悪いかを見分ける程整った脳力も有たなかった。それでいて彼女は相手の吹き掛ける議論の要点をつかむだけの才気を充分に具えていた。彼女はすぐ小林の主意を一口に纏めて見せた。
「じゃあなたは人を厭がらせる事は、いくらでも厭がらせるが、それに対する責任は決して負わないというんでしょう」
「ええ其所です。其所が僕の要点なんです」
「そんな卑怯な――」
「卑怯じゃありません。責任のない所に卑怯はありません」
「ありますとも。第一この私があなたに対してどんな悪い事をした覚があるんでしょう。まあそれから伺いますから、云って御覧なさい」
「奥さん、僕は世の中から無籍もの扱いにされている人間ですよ」
「それが私や津田に何の関係があるんです」
 小林は待ってたと云わぬばかりに笑い出した。
「あなた方から見たら大方ないでしょう。然し僕から見れば、あり過る位あるんです」
「どうして」
 小林は急に答えなくなった。その意味は宿題にして自分でよく考えて見たら可かろうと云う顔付をした彼は、黙って煙草を吹かし始めた。お延は一層の不快を感じた。もう好い加減に帰って呉れと云いたくなった。同時に小林の意味もよく突き留めて置きたかった。それを見抜いて、わざと高を括ったように落付いている小林の態度がまた癪(しゃく)に障った。其所へ先刻から心待ちに待ち受けていたお時が漸く帰って来たので、お延の蟠(わだか)まりは、一定した様式の下に表現される機会の来ない先に又崩されてしまわなければならなかった。

八十七

 お時は縁側へ坐って外部から障子を開けた。
「只今。大変遅くなりました。電車で病院まで行って参りましたものですから」
 お延は少し腹立たしい顔をしてお時を見た。
「じゃ電話は掛けなかったのかい」
「いいえ掛けたんで御座います」
「掛けても通じなかったのかい」
 問答を重ねているうちに、お時に病院へ行った意味が漸くお延に呑み込めるようになって来た。――始め通じなかった電話は、仕舞に通じるだけは通じても用を弁ずる事が出来なかった。看護婦を呼び出して用事を取次いで貰おうとしたが、それすらお時の思うようにはならなかった。書生だか薬局員だかが始終相手になって、何か云うけれども、それが又ちっとも要領を得なかった。第一言語が不明瞭であった。それから判切(はっきり)聞こえる所も辻褄の合わない事だらけだった。要するにその男はお時の用事を津田に取次いで呉れなかったらしいので、彼女はとうとう諦らめて、電話箱を出てしまった。然し義務を果さないでそのまま宅へ帰るのが厭だったので、すぐその足で電車へ乗って病院へ向った。
「一旦帰って、伺ってからにしようかと思いましたけれども、ただ時間が長く掛るぎりで御座いますし、それにお客さまがこうして待っておいでの事をなまじい存じておるもので御座いますから」
 お時のいう事は尤もであった。お延は礼を云わなければならなかった。然しそのために、小林から散々厭な思いをさせられたのだと思うと、気を利かした下女が却って恨めしくもあった。
 彼女は立って茶の間へ入った。すぐ其所に据えられた銅(あか)の金具の光る重ね箪笥の一番下の抽斗(ひきだし)を開けた。そうして底の方から問題の外套を取り出して来て、それを小林の前へ置いた。
「これでしょう」
「ええ」と云った小林はすぐ外套を手に取って、品物を改める古着屋のような眼で、それを引ッ繰返した。
「思ったより大分汚れていますね」
「あなたにゃそれで沢山だ」と云いたかったお延は、何にも答えずに外套を見詰めた。外套は小林のいう通り少し色が変っていた。襟を返して日に当らない所を他の部分と比較して見ると、それが著じるしく目立った。
「どうせただ貰うんだからそう贅沢も云えませんかね」
「お気に召さなければ、どうぞ御遠慮なく」
「置いて行けと仰しゃるんですか」
「ええ」
 小林は矢ッ張り外套を放さなかった。お延は痛快な気がした。
「奥さん一寸此所で着て見ても可ござんすか」 「ええ、ええ」
 お延はわざと反対を答えた。そうして窮屈そうな袖へ、藻掻(もが)くようにして手を通す小林を、坐ったまま皮肉な眼で眺めた。
「どうですか」
 小林はこう云いながら、脊中をお延の方に向けた。見苦しい畳み皺が幾筋もお延の眼に入った。アイロンの注意でもして遣るべき所を、彼女は又逆に行った。
「丁度好いようですね」
 彼女は誰も自分の傍にいないので、折角出来上った滑稽な後姿も、眼と眼で笑って遣る事が出来ないのを物足りなく思った。
 すると小林がまたぐるりと向き直って、外套を着たなり、お延の前にどっさり胡座をかいた。
「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方が可いものなんですよ」
「そうですか」
 お延は急に口元を締めた。
「奥さんのような窮(こま)った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われる位なら、一層死んでしまった方が好いと思います」
 小林は何にも答えなかった。然し突然云った。
「有難う。御蔭でこの冬も生きていられます」
 彼は立ち上った。お延も立ち上った。然し二人が前後して座敷から縁側へ出ようとするとき、小林は忽ち振り返った。
「奥さん、あなたそういう考えなら、能く気を付けて他に笑われないようにしないと不可ませんよ」

八十八

 二人の顔は一尺足らずの距離に接近した。お延が前へ出ようとする途端、小林が後を向いた拍子、二人は其所で急に運動を中止しなければならなかった。二人はぴたりと止まった。そうして顔を見合せた。というよりも寧ろ眼と眼に見入った。
 その時小林の太い眉が一層際立ってお延の視覚を侵した。下にある黒瞳は凝と彼女の上に据えられたまま動かなかった。それが何を物語っているかは、此方の力で動かして見るより外に途はなかった。お延は口を切った。
「余計な事です。あなたからそんな御注意を受ける必要はありません」
「注意を受ける必要がないのじゃありますまい。大方注意を受ける覚がないと仰しゃる積なんでしょう。そりゃあなたは固より立派な貴婦人に違ないかも知れません。然し――」
「もう沢山です。早く帰って下さい」
 小林は応じなかった。問答が咫尺(しせき)の間に起った。
「然し僕のいうのは津田君の事です」
「津田がどうしたというんです。わたくしは貴婦人だけれども、津田は紳士でないと仰しゃるんですか」
「僕は紳士なんてどんなものかまるで知りません。第一そんな階級が世の中に存在している事を、僕は認めていないのです」
「認めようと認めまいと、そりゃあなたの御随意です。然し津田がどうしたというんです」
「聞きたいですか」
 鋭どい稲妻がお延の細い眼からまともに迸(ほとば)しった。
「津田はわたくしの夫です」
「そうです。だから聞きたいでしょう」
 お延は歯を噛んだ。
「早く帰って下さい」
「ええ帰ります。今帰る所です」
 小林はこう云ったなりすぐ向き直った。玄関の方へ行こうとして縁側を二足ばかりお延から遠ざかった。その後姿を見て堪らなくなったお延は又呼び留めた。
「お待ちなさい」
「何ですか」
 小林はのっそり立ち留った。そうして裄の長過ぎる古外套を着た両手を前の方に出して、ポンチ絵に似た自分の姿を鑑賞でもするように眺め廻した後で、にやにやと笑いながらお延を見た。お延の声は猶鋭くなった。
「何故黙って帰るんです」
「御礼は先刻云った積ですがね」
「外套の事じゃありません」
 小林はわざと空々しい様子をした。はてなと考える態度まで粧(よそお)って見せた。お延は詰責(きっせき)した。
「あなたは私の前で説明する義務があります」
「何をですか」
「津田の事をです。津田は私の夫です。妻の前で夫の人格を疑ぐるような言葉を、遠廻しにでも出した以上、それを綺麗に説明するのは、あなたの義務じゃありませんか」
「でなければそれを取消すだけの事でしょう。僕は義務だの責任だのって感じの少ない人間だから、あなたの要求通り説明するのは困難かも知れないけれども、同時に耻を耻と思わない男として、一旦云った事を取り消す位は何でもありません。――じゃ津田君に対する失言を取消しましょう。そうしてあなたに詫(あや)まりましょう。そうしたら可いでしょう」
 お延は黙然(もくねん)として答えなかった。小林は彼女の前に姿勢を正しくした。
「ここに改めて言明します。津田君は立派な人格を具えた人です。紳士です。(もし社会にそういう特別な階級が存在するならば)」
 お延は依然として下を向いたまま口を利かなかった。小林は語を続けた。
「僕は先刻奥さんに、人から笑われないように能く気をお付けになったら可かろうという注意を与えました。奥さんは僕の注意などを受ける必要がないと云われました。それで僕もその後を話す事を遠慮しなければならなくなりました。考えるとこれも僕の失言でした。併せて取消します。その他もし奥さんの気に障った事があったら、総て取消します。みんな僕の失言です」
 小林はこう云った後で、沓脱に揃えてある自分の靴を穿いた。そうして格子を開けて外へ出る最後に、また振り向いて「奥さんさよなら」と云った。
 微かに黙礼を返したぎり、お延は何時までもぼんやり其所に立っていた。それから急に二階の梯子段を駈け上って、津田の机の前に坐るや否や、その上に突ッ伏してわっと泣き出した。

八十九

 幸いにお時が下から上って来なかったので、お延は憚(はばか)りなく当座の目的を達する事が出来た。彼女は他に顔を見られずに思う存分泣けた。彼女が満足するまで自分を泣き尽した時、涙はおのずから乾いた。
 濡れた手巾を袂へ丸め込んだ彼女は、いきなり机の抽斗(ひきだし)を開けた。抽斗は二つ付いていた。然しそれを順々に調べた彼女の眼には別段目新らしい何物も映らなかった。それもその筈であった。彼女は津田が病院へ入る時、彼に入用の手荷物を纏めるため、二三日前既に其所を捜したのである。彼女は残された封筒だの、物指(ものさし)だの、会費の受取だのを見て、それを又一々鄭寧に揃えた。パナマや麦藁製の色々な帽子が石版で印刷されている広告用の小冊子めいたものが、二人で銀座へ買物に行った初夏の夕暮を思い出させた。その時夏帽を買いに立寄った店から津田が貰って帰ったこの見本には、真赤に咲いた日比谷公園の躑躅(つつじ)だの、突当りに霞が関の見える大通りの片側に、薄暗い影をこんもり漂よわせている高い柳などが、離れにくい過去の匂のように、聯想(れんそう)として付き纏わっていた。お延はそれを開いたまま、しばらく凝(じっ)と考え込んだ。それから急に思い立ったように机の抽斗をがちゃりと閉めた。
 机の横には同じく直線の多い様式で造られた本箱があった。其所にも抽斗が二つ付いていた。机を棄てたお延は、すぐ本箱の方に向った。然しそれを開けようとして、手を環(かん)に掛けた時、抽斗は双方とも何の抵抗もなく、するすると抜け出したので、お延は中を調べない先に、まず失望した。手応えのない所に、新らしい発見のある筈はなかった。彼女は書き古したノートブックのようなものをいたずらに攪き廻した。それを一々読んで見るのは大変であった。読んだ所で自分の知ろうと思う事が、そんな筆記の底に潜んでいようとは想像出来なかった。彼女は用心深い夫の性質を能く承知していた。錠を卸さない秘密を其所いらへ放り出して置くには、あまりに細か過ぎるのが彼の持前であった。
 お延は戸棚を開けて、錠を掛けたものが何処かにないかという眼付をした。けれども中には何にもなかった。上には殺風景な我楽多が、無器用に積み重ねられているだけであった。下は長持で一杯になっていた。
 再び机の前に取って返したお延は、その上に乗せてある状差の中から、津田宛で来た手紙を抜き取って、一々調べ出した。彼女はそんな所に、何にも怪しいものが落ちている筈がないとは思った。然し一番初眼に付きながら、手さえ触れなかった幾通の書信は、矢っ張り最後に眼を通すべき性質を帯びて、彼女の注意を誘いつつ、何時までも其所に残っていたのである。彼女はつい念のためという口実の下に、それへ手を出さなければならなくなった。
 封筒が次から次へと裏返された。中身は順々に繰りひろげられた。或は四半分、或は半分、残るものは全部、悉くお延によって黙読された。しかる後彼女はそれを元通りの順で、元通りの位置に復(もど)した。
 突然疑惑の[焔]が彼女の胸に燃え上がった。一束の古手紙へ油を濺(そそ)いで、それを綺麗に庭先で焼き尽している津田の姿が、ありありと彼女の眼に映った。その時めらめらと火に化して舞い上る紙片(かみきれ)を、津田は恐ろしそうに、竹の棒で抑え付けていた。それは初秋の冷たい風が肌(はだえ)を吹き出した頃の出来事であった。そうしてある日曜の朝であった。二人差向いで食事を済ましてから、五分と経たないうちに起った光景であった。箸を置くと、すぐ二階から細い紐で絡げた包を抱えて下りて来た津田は、急に勝手口から庭先へ廻ったと思うと、もうその包に火を点けていた。お延が縁側へ出た時には、厚い上包が既に焦げて、中にある手紙が少しばかり見えていた。お延は津田に何でそれを焼き捨てるのかと訊いた。津田は嵩(かさ)ばって始末に困るからだと答えた。何故反故(ほご)にして、自分達の髪を結う時などに使わせないのかと尋ねたら、津田は何とも云わなかった。ただ底から現われてくる手紙を無暗に竹の棒で突ッついた。突ッつくたびに、火になり切れない濃い烟が渦を巻いて棒の先に起った。渦は青竹の根を隠すと共に、抑えつけられている手紙をも隠した。津田は烟に咽(むせ)ぶ顔をお延から背けた。……
 お時が午飯の催促に上って来るまで、お延はこんな事を考えつづけて作りつけの人形のように凝と坐り込んでいた。

九十

 時間はいつか十二時を過ぎていた。お延は又お時の給仕で独り膳に向った。それは津田の会社へ出た留守に、二人が毎日繰り返す日課に外ならなかった。けれども今日のお延は何時ものお延ではなかった。彼女の様子は剛張(こわば)っていた。その癖心は纏まりなく動いていた。先刻出掛ようとして着換えた着物まで、平生と違って余所行の気持を余分に添える媒介(なかだち)となった。
 若し今の自分に触れる問題が、お時の口から洩れなかったら、お延は遂に一言も云わずに、食事を済ましてしまったかも知れなかった。その食事さえ、実を云うと、まるで気が進まなかったのを、お時に疑ぐられるのが厭さに、ほんの形式的に片付けようとして、膳に着いただけであった。
 お時も何だか遠慮でもするように、わざと談話を控えていた。然しお延が一膳で箸を置いた時、漸く「どうか遊ばしましたか」と訊いた。そうしてただ「いいえ」という返事を受けた彼女は、すぐ膳を引いて勝手へ立たなかった。
「どうも済みませんでした」
 彼女は自分の専断で病院へ行った詫を述べた。お延はお延でまた彼女に尋ねたい事があった。
「先刻は随分大きな声を出したでしょう。下女部屋の方まで聞こえたかい」
「いいえ」
 お延は疑りの眼をお時の上に注いだ。お時はそれを避けるようにすぐ云った。
「あのお客さまは、随分――」
 然しお延は何にも答えなかった。静かに後を待っているだけなので、お時は自分の方で後を付けなければならなかった。二人の談話はこれが緒口(いとぐち)で先へ進んだ。
「旦那様は驚ろいていらっしゃいました。随分非道い奴だって。此方から取りに来いとも何とも云わないのに、断りもなく奥様と直談判を始めたり何かして、しかも自分が病院に入っている事を能く承知している癖にって」
 お延は軽蔑(さげす)んだ笑いを微かに洩らした。然し自分の批評は加えなかった。
「まだ外に何か仰しゃりやしなかったかい」
「外套だけ遣って早く返せって仰しゃいました。それから奥さんと話しをしているかと御訊きになりますから、話しをしていらっしゃいますと申し上ましたら、大変厭な顔をなさいました」
「そうかい。それぎりかい」
「いえ、何を話しているのかと御訊きになりました」
「それでお前は何とお答えをしたの」
「別にお答えをしようが御座いませんから、それは存じませんと申し上げました」
「そうしたら」
「そうしたら、猶厭な顔をなさいました。一体座敷なんかへ無暗に上り込ませるのが間違っている――」
「そんな事を仰ゃったの。だって昔からのお友達なら仕方がないじゃないの」
「だから私もそう申し上たので御座いました。それに奥さまは丁度お召換をしていらっしゃいましたので、すぐ玄関へお出になる訳に行かなかったのだから已を得ませんて」
「そう。そうしたら」
「そうしたら、お前はもと岡本さんにいただけあって、奥さんの事というと、何でも熱心に弁護すぐから感心だって、冷評かされました」
 お延は苦笑した。
「どうも御気の毒さま。それっきり」
「いえ、まだ御座います。小林は酒を飲んでやしなかったかとお訊きになるんです。私は能く気が付きませんでしたけれども、お正月でもないのに、まさか朝っぱらから酔払って、他の家へお客に入らっしゃる方もあるまいと思いましたから、――」
「酔っちゃいらっしゃらないと云ったの」
「ええ」
 お延はまだ後があるだろうという様子を見せた。お時は果して話を其所で切り上げなかった。
「奥さま、あの旦那様が、帰ったら能く奥さまにそう云えと仰ゃいました」
「なんと」
「あの小林って奴は何をいうか分らない奴だ、ことに酔うとあぶない男だ。だから、あいつが何を云っても決して取り合っちゃ不可い。まあみんな嘘だと思っていれば間違はないんだからって」
「そう」
 お延はこれ以上何も云う気にならなかった。お時は一人でげらげら笑った。
「堀の奥さまも傍で笑っていらっしゃいました」
 お延は始めて津田の妹が今朝病院へ見舞に来ていた事を知った。

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