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明 暗(6)
夏目漱石 

百五十一

 けれども自然は思ったより頑愚(かたくな)であった。二人はこれだけで別れる事が出来なかった。妙な機(はず)みから一旦収まりかけた風波がもう少しで盛り返されそうになった。
 それは昂奮したお延の心持が稍(やや)平静に復した時の事であった。今切り抜けて来た波瀾の結果は既に彼女の気分に働らき掛けていた。酔を感ずる人が、その酔を利用するような態度で彼女は津田に向った。
「じゃ何時頃(いつごろ)その温泉へ入らっしゃるの」
「此所を出たらすぐ行こうよ。身体のためにもその方が都合が可さそうだから」
「そうね。成るべく早く入らしった方が可いわ。行くと事が極った以上」
 津田はこれでまず可しと安心した。ところへお延は不意に出た。
「あたしも一所に行って可いんでしょう」
 気の緩んだ津田は急にひやりとした。彼は答える前にまず考えなければならなかった。連れて行く事は最初から問題にしていなかった。と云って、断る事は猶むずかしかった。断り方一つで、相手はどう変化するかも分らなかった。彼が何と返事をしたものだろうと思って分別するうちに大切の機は過ぎた。お延は催促した。
「ね、行っても可いんでしょう」
「そうだね」
「不可(いけな)いの」
「不可い訳でもないがね……」
 津田は連れて行きたくない心の内を、次第々々に外へ押し出されそうになった。もし猜疑の眸(ひとみ)が一度お延の眼の中に動いたら事はそれ限(ぎり)であると見て取った彼は、実を云うと、お延と同じ心理状態の支配を受けていた。先刻(さっき)の波瀾から来た影響は彼にもう憑(の)り移っていた。彼は彼でそれを利用するより外に仕方がなかった。彼はすぐ「慰撫(いぶ)」の二字を思い出した。「慰撫に限る。女は慰撫さえすればどうにかなる」。彼は今得たばかりのこの新らしい断案を提(ひっ)さげて、お延に尚った。
「行っても可いんだよ。可いどころじゃない、実は行って貰いたいんだ。第一一人じゃ不自由だからね。世話をして貰うだけでも、その方が都合が可いに極ってるからね」
「ああ嬉しい、じゃ行くわ」
「ところがだね。……」
 お延は厭な顔をした。
「ところがどうしたの」
「ところがさ。宅はどうする気かね」
「宅は時がいるから好いわ」
「好いわって、そんな子供みたいな呑気な事を云っちゃ困るよ」
「何故。何処が呑気なの。もし時だけで不用心なら誰か頼んで来るわ」
 お延は続けざまに留守居として適当な人の名を二三挙げた。津田は拒めるだけそれを拒んだ。
「若い男は駄目だよ。時と二人ぎり置く訳にゃ行かないからね」
 お延は笑い出した。
「まさか。――間違なんか起りっこないわ、僅かの間ですもの」
「そうは行かないよ。決してそうは行かないよ」
 津田は断乎たる態度を示すと共に、考える風もして見せた。
「誰か適当な人はいないもんかね。手頃なお婆さんか何かあると丁度持って来いだがな」
 藤井にも岡本にもその他の方面にも、そんな都合の好い手の空いた人は一人もなかった。
「まあ能く考えて見るさ」
 この辺で話を切り上げようとした津田は的(あて)が外れた。お延は[掴](つか)んだ袖を中々放さなかった。
「考えてない時には、どうするの。もしお婆さんがいなければ、あたしはどうしても行っちゃ悪いの」
「悪いとは云やしないよ」
「だってお婆さんなんかいる訳がないじゃありませんか。考えないだってその位な事は解ってますわ。それより行って悪いなら判然(はっきり)云って頂戴よ」
 せっぱ詰った津田はこの時不思議に又好い云訳を思い付いた。
「そりゃいざとなれば留守番なんかどうでも構わないさ。然し時一人を置いて行くにした所で、まだ困る事があるんだ。おれは吉川の奥さんから旅費を貰うんだからね。他の金を貰って夫婦連れで遊んで歩くように思われても、あんまり可くないじゃないか」
「そんなら吉川の奥さんから頂かないでも構わないわ。あの小切手があるから」
「そうすると今月分の払(はらい)の方が差支えるよ」
「それは秀子さんの置いて行ったのがあるのよ」
 津田は又行き詰った。そうして又危い血路を開いた。
「少し小林に貸して遣らなくっちゃならないんだぜ」
「あんな人に」
「お前はあんな人にと云うがね、あれでも今度遠い朝鮮へ行くんだからね。可哀相だよ。そうれにもう約束してしまったんだから、どうする訳にも行かないんだ」
 お延は固より満足な顔をする筈がなかった。然し津田はこれでどうかこうかその場だけを切り抜ける事が出来た。

百五十二

 後は話が存外楽に進行したので、程なく第二の妥協が成立した。小林に対する友誼(ゆうぎ)を満足させるため、かつは一旦約束した言責を果すため、津田はお延の貰って来た小切手の中から、その幾分を割いて朝鮮行の贐(はなむけ)として小林に贈る事にした。名義は固より貸すのであったが、相手に返す腹のない以上、それを予算に組み込んで今後の的(あて)にする訳には行かないので、結果はつまり遣る事になったのである。勿論其所へ行き着くまでにはお延にも多少の難色があった。小林のような横着な男に金銭を恵むのはおろか、ちゃんとした証書を入れさせて、一時の用を足してやる好意すら、彼女の胸のどの隅からも出る筈はなかった。のみならず彼女は稍(やや)ともすると、強いてそれを断行しようとする夫の裏側を覗き込むので、津田はその度に少なからず冷々(ひやひや)した。
「あんな人に何だってそんな親切を尽してお遣りになるんだか、あたしにはまるで解らないわ」
 こういう意味の言葉が二度も三度も彼女によって繰り返された。津田が人情一点張でそれを相手にする気色を見せないと、彼女はもう一歩先の事まで云った。
「だから訳を仰しゃいよ。こういう訳があるから、こうしなければ義理が悪いんだという事情さえ明瞭になれば、あの小切手をみんな上げても構わないんだから」
 津田には此所が何より大事な関所なので、どうしてもお延を通させる訳に行かなかった。彼は小林を弁護する代りに、二人の過去にある旧い交際と、その交際から出る懐かしい記憶とを挙げた。懐かしいという字を使って非難された時には、仕方なしに、昔の小林と今の小林の相違にまで、説明の手を拡げた。それでも腑に落ちないお延の顔を見た時には、急に談話の調子を高尚にして、人道まで云々した。然し彼の口にする人道は遂に一個の功利説に帰着するので、彼は吾知らず自分の拵えた陥穽(かんせい)に向って進んでいながら気が付かず、危うくお延から足を取られて、突き落されそうになる場合も出て来た。それを代表的な言葉でごく簡単に例で現わすと下のようになった。
「兎に角困ってるんだからね、内地に居たたまれずに、朝鮮まで落ちて行こうてんだから、少しは同情して遣っても可かろうじゃないか。それにお前はあいつの人格を無暗に攻撃するが、其所に少し無理があるよ。成程あいつは仕様のない奴さ。仕様のない奴には違ないけれども、彼奴がこうなった因(おこ)りをよく考えて見ると、何でもないんだ。ただ不平だからだ。じゃ何故不平だというと、金が取れないからだ。ところが彼奴は愚図でもなし、馬鹿でもなし、相当な頭を持ってるんだからね。不幸にして正則の教育を受けなかったために、ああなったと思うと、そりゃ気の毒になるよ。つまり彼奴が悪いんじゃない境遇が悪いんだと考えさえすればそれまでさ。要するに不幸な人なんだ」
 これだけなら口先だけとしてもまず立派なのであるが、彼は遂に其所で止まる事が出来ないのである。
「それにまだこういう事も考えなければならないよ。ああ自暴糞(やけくそ)になってる人間に逆らうと何をするか解らないんだ。誰とでも喧嘩がしたい、誰と喧嘩をしても自分の得になるだけだって、現に此所へ来て公言して威張(えば)ってるんだからね、実際始末に了(お)えないよ。だから今もしおれが彼奴の要求を跳ね付けるとすると、彼奴は怒るよ。ただ怒るだけなら可いが、屹度何かするよ。復讐を遣るに極ってるよ。ところが此方には世間体があり、向うにゃそんなものがまるでないんだから、いざとなると敵いっこないんだ。解ったかね」
 此所まで来ると最初の人道主義はもう大分崩れてしまう。然しそれにしても、此所で切り上げさえすれば、お延は黙って点頭(うなず)くより外に仕方がないのである。ところが彼はまだ先へ出るのである。
「それも彼奴が主義としてただ上流社会を攻撃したり、又は一般の金持を悪口するだけなら可いがね。彼奴のは、そうじゃないんだ。もっと実際的なんだ。まず最初に自分の手の届く所から段々に食い込んで行こうというんだ。だから一番災難なのはこのおれだよ。どう考えても此所でおれ相当の親切を見せて、彼奴の感情を美くして、そうして一日も早く朝鮮へ立って貰うのが上策なんだ。でないと何時どんな目に逢うか解ったもんじゃない」
 こうなるとお延はどうしても又云いたくなるのである。
「いくら小林が乱暴だって、貴方の方にも何かなくっちゃ、そんなに怖がる因縁がないじゃありませんか」
 二人がこんな押問答をして、小切手の片を付けるだけでも、ものの十分はかかった。然し小林の方が極ると共に、残りの所置はすぐ付いた。それを自分の小遣として、任意に自分の嗜慾(しよく)を満足するという彼女の条件は直ちに成立した。その代り彼女は津田と一所に温泉へ行かない事になった。そうして温泉行の費用は吉川夫人の好意を受けるという案に同意させられた。
 うそ寒の宵に、若い夫婦間に起った波瀾の消長はこれで漸く尽きた。二人は一先(ひとま)ず別れた。

百五十三

 津田の辛防しなければならない手術後の経過は良好であった。というよりも寧ろ順当に行った。五日目が来た時、医者は予定通り彼のために全部のガーゼを取り替えて呉れた後で、それを保証した。
「至極好い具合です。出血も口元だけです。内部(なか)の方は何ともありません」
 六日目にも同じ治療法が繰り返された。けれども局部は前日よりは健全になっていた。
「出血はどうです。まだ止まりませんか」
「いや、もう殆んど止まりました」
 出血の意味を解し得ない津田は、この返事の意味をも解し得なかった。好い加減に「もう癒(なお)りました」という解釈をそれに付けて大変喜こんだ。然し本式の事実は彼の考える通りにも行かなかった。彼と医者の間に起った一場の問答がその辺の消息を明らかにした。
「これが癒り損(そく)なったらどうなるんでしょう」
「又切るんです。そうして前よりも軽く穴が残るんです」
「心細いですな」
「なに十中八九は癒るに極ってます」
「じゃ本当の意味で全癒(ぜんゆ)というと、まだ中々時間が掛るんですね」
「早くて三週間遅くて四週間です」
「此所を出るのは?」
「出るのは明後日位で差支ありません」
 津田は有難がった。そうして出たらすぐ温泉に行こうと覚悟した。なまじい医者に相談して転地を禁じられでもすると、却って神経を悩ますだけが損だと打算した彼はわざと黙っていた。それは殆んど平生の彼に似合わない粗忽(そこつ)な遣口であった。彼は甘んじてこの不謹慎を断行しようと決心しながら、肚の中で既に自分の矛盾を承知しているので、何だか不安であった。彼は訊かないでも可い質問を医者に掛けて見たりした。
「括約筋(かつやくきん)を切り残したと仰しゃるけれども、それでどうして下からガーゼが詰められるんですか」
「括約筋はとば口にゃありません。五分程引っ込んでます。それを下から斜に三分程削り上げた所があるのです」
 津田はその晩から粥を食い出した。久しく麺麭(パン)だけで我慢していた彼の口には水ッぽい米の味も一種の新らしみであった。趣味として夜寒の粥を感ずる能力を持たない彼は、秋の宵の冷たさを対照に置く薄粥の暖かさを普通の俳人以上に珍重して啜(すす)る事が出来た。
 療治の必要上、長い事止められていた便の疎通を計るために、彼はまた軽い下剤を飲まなければならなかった。さほど苦にもならなかった腹の中が軽くなるに従って、彼の気分も何時(いつ)か軽くなった。身体の楽になった彼は、寐転ろんでただ退院の日を待つだけであった。
 その日も一晩明けるとすぐに来た。彼は車を持って迎いに来たお延の顔を見るや否や云った。
「やっと帰れる事になった訳かな。まあ有難い」
「あんまり有難くもないでしょう」
「いや有難いよ」
「宅の方が病院よりはまだ増しだと仰しゃるんでしょう」
「まあその辺かも知れないがね」
 津田は何時もの調子でこう云った後で、急に思い出したように付け足した。
「今度はお前の拵(こしら)えて呉れた褞袍(どてら)で助かったよ。綿が新しい所為か大変着心地が好いね」
 お延は笑いながら夫を冷嘲(ひやか)した。
「どうなすったの。なんだか急にお世辞が旨くおなりね。だけど、違ってるのよ、貴方の鑑定は」
 お延は問題の褞袍を畳みながら、新らしい綿ばかりを入れなかった事実を夫に白状した。津田はその時着物を着換えていた。絞りの模様の入った縮緬(ちりめん)の兵児帯をぐるぐる腰に巻く方が、彼には寧ろ大事な所作であった。それ程軽く褞袍の中味を見ていた彼の愛嬌は、正直なお延の返事を待ち受けるのでも何でもなかった。彼はただ「はあそうかい」と云ったぎりであった。
「お気に召したらどうぞ温泉へも持って入らしって下さい」
「そうして時々お前の親切でも思い出すかな」
「然し宿屋で貸して呉れる褞袍の方がずっと可かったり何かすると、いい耻っ掻きね、あたしの方は」
「そんな事はないよ」
「いえあるのよ。品質(もの)が悪いとどうしても損ね、そういう時には。親切なんかすぐ何処かへ飛んでっちまうんだから」
 無邪気なお延の言葉は、彼女の意味する通りの単純さで津田の耳へは響かなかった。其所には一種のアイロニーが顫動(せんどう)していた。褞袍は何かの象徴(シンボル)であるらしく受け取れた。多少気味の悪くなった津田は、お延に背中を向けたままで、兵児帯の先をこま結びに結んだ。
 やがて二人は看護婦に送られて玄関に出ると、すぐ其所に待たしてある車に乗った。
「さよなら」
 多事な一週間の病院生活は、この一語で漸(ようや)く幕になった。

百五十四

 目的の温泉場へ立つ前の津田は、規定されたプログラムの順序として、先ず小林に会わなければならなかった。約束の日が来た時、お延から入用の金を受け取った彼は笑いながら細君を顧みた。
「何だか惜しいな、彼奴(あいつ)にこれだけ取られるのは」
「じゃ止した方が好いわ」
「おれも止したいよ」
「止したいのに何故止せないの。あたしが代りに行って断って来て上げましょうか」
「うん、頼んでも可いね」
「何所であの人にお逢いになるの。場所さえ仰しゃれば、あたし行って上げるわ」
 お延が本気かどうかは津田にも分らなかった。けれどもこういう場合に、大丈夫だと思ってつい笑談に押すと、押した此方が却って手古摺(てこず)らせられる位の事は、彼に困難な想像ではなかった。お延はいざとなると口で云った通りを真面(まとも)に断行する女であった。たとい違約であろうとあるまいと、津田を代表して、小林を撃退する役割なら進んで引き受けないとも限らなかった。彼は危険区域へ踏み込まない用心をして、わざと話を不真面目な方角へ流してしまった。
「お前は見掛に寄らない勇気のある女だね」
「これでも自分じゃあると思ってるのよ。けれどもまだ出した例がないから、実際どの位あるか自分にも分らないわ」
「いやお前に分らなくっても、おれにはちゃんと分ってるから、それで沢山だよ。女の癖にそう無暗に勇気なんか出された日にゃ、亭主が困るだけだからね」
「ちっとも困りゃしないわ。御亭主のために出す勇気なら、男だって困る筈がないじゃないの」
「そりゃ有難い場合もたまには出て来るだろうがね」と云った津田には固より本気に受け答えをする積もなかった。「今日までそれ程感服に値する勇気を拝見した覚もないようだね」
「そりゃその通りよ。だって些とも外へ出さずにいるんですもの。これでも内側へ入って御覧なさい。なんぼあたしだって貴方の考えていらっしゃ程太平じゃないんだから」
 津田は答えなかった。然しお延は已めなかった。
「あたしがそんなに気楽そうに見えるの、貴方には」
「ああ見えるよ。大いに気楽そうだよ」
 この好い加減な無駄口の前に、お延は微かな溜息を洩らした後で云った。
「詰らないわね、女なんて。あたし何だって女に生れて来たんでしょう」
「そりゃ己に掛け合ったって駄目だ。京都にいるお父さんかお母さんへ尻を持ち込むより外に、苦情の持ってきたどころはないんだから」
 苦笑したお延はまだ黙らなかった。
「可いから、今に見ていらっしゃい」
「何を」と訊き返した津田は少し驚ろかされた。
「何でも可いから、今に見ていらっしゃい」
「見ているが、一体何だよ」
「そりゃ実際に問題が起って来なくっちゃ云えないわ」
「云えないのはつまりお前にも解らないという意味なんじゃないか」
「ええそうよ」
「何だ下らない。それじゃまるで雲を[掴](つか)むような予言だ」
「ところがその予言が今に屹度中るから見ていらっしゃいというのよ」
 津田は鼻の先でふんと云った。それと反対にお延の態度は段々真剣に近づいて来た。
「本当よ。何だか知らないけれども、あたし近頃始終そう思ってるの、何時か一度このお肚の中に有(も)ってる勇気を、外へ出さなくっちゃならない日が来るに違ないって」
「何時か一度? だからお前のは妄想と同なじ事なんだよ」
「いいえ生涯のうちで何時か一度じゃないのよ。近いうちなの。もう少ししたらの何時か一度なの」
「益(ますます)悪くなるだけだ。近き将来に於て蛮勇なんか亭主の前で発揮された日にゃ敵わない」
「いいえ、貴方のためによ。だから先刻から云ってるじゃないの、夫のために出す勇気だって」
 真面目なお延の顔を見ていると、津田も次第々々に釣り込まれるだけであった。彼の性格にはお延ほどの詩がなかった。その代り多少気味の悪い事実が遠くから彼を威圧していた。お延の詩、彼の所謂(いわゆる)妄想は、段々活躍し始めた。今まで死んでいるとばかり思って、弄(いじく)り廻していた鳥の翅(つばさ)が急に動き出すように見えた時、彼は変な気持がして、すぐ会話を切り上げてしまった。
 彼は帯の間から時計を出して見た。
「もう時間だ、そろそろ出掛けなくっちゃ」
 こう云って立ち上がった彼の後を送って玄関に出たお延は、帽子掛から茶の中折(なかおれ)を取って彼の手に渡した。
「行って入らっしゃい。小林さんによろしくってお延が云ってたと忘れずに伝えて下さい。」
 津田は振り向かないで夕方の冷たい空気の中に出た。

百五十五

 小林と会見の場所は、東京で一番賑やかな大通りの中程を、一寸横へ切れた所にあった。向うから宅へ誘いに寄って貰う不快を避けるため、又此方で彼の下宿を訪ねてやる面倒を省くため、津田は時間を極めて其所で彼に落ち合う手順にしたのである。
 その時間は彼が電車に乗っているうちに過ぎてしまった。然し着物を着換えて、お延から金を受け取って、少しの間坐談をしていたために起ったこの遅刻は、何等の痛痒(つうよう)を彼に与えるに足りなかった。有体(ありてい)に云えば、彼は小林に対して克明に律儀を守る細心の程度を示したくなかった。それとは反対に、少し時間を後らせても、放縦(ほうしょう)な彼の鼻柱を挫いてやりたかった。名前は送別会だろうが何だろうが、その実金を遣るものと貰うものとが顔を合せる席に極っている以上、津田はたしかに優者であった。だからその優者の特権を出来るだけ緊張させて、主客(しゅかく)の位地をあらかじめ作って置く方が、相手の驕慢(きょうまん)を未前(みぜん)に防ぐ手段として、彼には得策であった。利害を離れた単なる意趣返しとしてもその方が面白かった。
 彼はごうごう鳴る電車の中で、時計を見ながら、ことによるとこれでもまだ横着な小林には早過ぎるかも知れないと考えた。もし余り早く行き着いたら、一通り夜店でも素見(ひやか)して、慾の皮で硬く張った小林の予期を、もう少し焦らしてやろうとまで思案した。
 停留所で降りた時、彼の眼の中を通り過ぎた燭光(あかり)の数は、夜の都の活動を目覚しく物語るに充分な位、右往左往へちらちらした。彼はその間に立って、目的の横町へ曲る前に、これ等の燭光と共に十分位動いて歩こうか歩くまいかと迷った。ところが顔の先へ押し付けられた夕刊を除けて、四辺(あたり)を見廻した彼は、急におやと思わざるを得なかった。
 もう大分待ち草臥(くたび)れているに違ないと仮定してかかった小林は、案外にも向う側に立っていた。位地は津田の降りた舗床(ペーヴメント)と車道を一つ隔てた四つ角の一端なので、二人の視線が調子よく合わない以上、夜と人とちらちらする燭光が、相互の認識を遮ぎる便利があった。のみならず小林は真面(まとも)に此方を向いていなかった。彼は津田のまだ見知らない青年と立談(たちばなし)をしていた。青年の顔は三分の二程、小林のは三分の一程、津田の方角から見えるだけなので、彼は略(ほぼ)露見の恐れなしに、自分の足の停まった所から、二人の模様を注意して観察する事が出来た。二人は決して余所見をしなかった。顔と顔を向き合せたまま、何時までも同じ姿勢を崩さない彼等の体(てい)が、ありありと津田の眼に映るにつれて、真面目な用談の、互いの間に取り換わされている事は明瞭に解った。
 二人の後には壁があった。生憎横側に窓が付いていないので、強い光は何処からも射さなかった。ところへ南から来た自働車(じどうしゃ)が、大きな音を立てて四つ角を曲ろうとした。その時二人は自働車の前側に装着してある巨大な燈光(とうこう)を満身に浴びて立った。津田は始めて青年の容貌を明かに認める事が出来た。蒼白い血色は、帽子の下から左右に垂れている、幾ヵ月となく刈り込まない[サンサン]たる髪の毛と共に、彼の視覚を冒した。彼は自働車の過ぎ去ると同時に踵(きびす)を回(めぐ)らした。そうして二人の立っている舗道を避ける様に、わざと反対の方向へ歩き出した。
 彼には何の目的もなかった。はなやかに電燈で照らされた店を一軒ごとに見て歩く興味は、ただ都会的で美くしいというだけに過ぎなかった。商買(しょうばい)が違うにつれて品物が変化する以外に、何等の複雑な趣は見出されなかった。それにも拘わらず彼は到る処に視覚の満足を味わった。しまいに或唐物屋(とうぶつや)の店先に飾ってあるハイカラな襟飾(ネクタイ)を見た時に、彼はとうとうその家の中へ入って、自分の欲しいと思うものを手に取って、ひねくり廻したりなどした。
 もう可かろうという時分に、彼は再び取って返した。舗道の上に立っていた二人の影は果して何処かへ行ってしまった。彼は少し歩調を早めた。約束の家の窓からは暖かそうな光が往来へ射していた。煉瓦作りで窓が高いのと、模様のある玉子色の布(きぬ)に遮ぎられて、間接に夜の中へ光線が放射されるので、通り際に見上げた津田の頭に描き出されたのは、穏やかな瓦斯煖炉(ガスだんろ)を供えた品の好い食堂であった。
 大きなブロックの片隅に、形容した言葉でいうと、寧ろひっそり構えているその食堂は、大して広いものではなかった。津田が其所を知り出したのもつい近頃であった。長い間仏蘭西(フランス)とかに公使をしていた人の料理番が開いた店だから旨いのだと友人に教えられたのが原(もと)で、四五遍食いに来た因縁を措(お)くと、小林を其所へ招き寄せる理由は他に何にもなかった。
 彼は容赦なく扉を押して内へ入った。そうして其所に案の如く少し手持無沙汰ででもある様な風をして、真面目な顔を夕刊か何かの前に向けている小林を見出した。

百五十六

 小林は眼を上げて一寸入口の方を見たが、すぐその眼を新聞の上に落してしまった。津田は仕方なしに無言のまま、彼の坐っている食卓(テーブル)の傍まで近寄って行って此方から声を懸けた。
「失敬。少し遅くなった。余っ程待たしたかね」
 小林は漸く新聞を畳んだ。
「君時計を有ってるだろう」
 津田はわざと時計を出さなかった。小林は振り返って正面の壁の上に掛っている大きな柱時計を見た。針は指定の時間より四十分程先へ出ていた。
「実は僕も今来たばかりの所なんだ」
 二人は向い合って席に就いた。周囲には二組ばかりの客がいるだけなので、そうしてその二組は双方ともに相当の扮装(みなり)をした婦人づれなので、室内は存外静かであった。ことに一間程隔てて、二人の横に置かれた瓦斯煖炉(ガスストーブ)の火の色が、白いものの目立つ清楚な室(へや)の空気に、恰好な温もりを与えた。
 津田の心には、変な対照が描き出された。この間の晩小林のお蔭で無理に引っ張り込まれた怪しげな酒場(バー)の光景がありありと彼の眼に浮んだ。その時の相手を今度は自分の方で此所へ案内したという事が、彼には一種の意味で得意であった。
「どうだね。此所の宅は。一寸綺麗で心持が好いじゃないか」
 小林は気が付いたように四辺(ぐるり)を見廻した。
「うん。此所には探偵はいないようだね」
「その代り美くしい人がいるだろう」
 小林は急に大きな声を出した。
「ありゃみんな芸者なんか君」
 一寸極りの悪い思いをさせられた津田は叱るように云った。
「馬鹿云うな」
「いや何とも限らないからね。何処にどんなものがいるか分らない世の中だから」
 津田はますます声を低くした。
「だって芸者はあんな服装(なり)をしやしないよ」
「そうか。君がそう云うなら確(たしか)だろう。僕のような田舎ものには第一その区別が分らないんだから仕方がないよ。何でも綺麗な着物さえ着ていればすぐ芸者だと思っちまうんだからね」
「相変らず皮肉るな」
 津田は少し悪い気色(きしょく)を外へ出した。小林は平気であった。
「いや皮肉るんじゃないよ。実際僕は貧乏の結果其方(そっち)の方の眼がまだ開いていないんだ。ただ正直にそう思うだけなんだ」
「そんならそれで可いさ」
「可くなくっても仕方がない訳だがね。然し事実どうだろう君」
「何が」
「事実当世に所謂(いわゆる)レデーなるものと芸者との間に、それ程区別があるのかね」
 津田は空っ惚(とぼ)ける事の得意なこの相手の前に、真面目な返事を与える子供らしさを超越して見せなければならなかった。同時に何とかして、ゴツンと喰わして遣りたいような気もした。けれども彼は遠慮した。というよりも、ゴツンと遣るだけの言葉が口へ出て来なかった。
「笑談じゃない」
「本当に笑談じゃない」と云った小林はひょいと眼を上げて津田の顔を見た。津田はふと気が付いた。然し相手に何か考えがあるんだなと悟った彼は、余りに怜悧(りこう)過ぎた。彼には澄まして其所を通り抜けるだけの腹がなかった。それでいて当らず障らず話を傍(わき)へ流す位の技巧は心得ていた。彼は小林に捕まらなければならなかった。彼は云った。
「どうだ君此所の料理は」
「此所の料理も何所の料理も大抵似たもんだね。僕のような味覚の発達しないものには」
「不味いかい」
「不味かない、旨いよ」
「そりゃ好い案配だ。亭主が自分でクッキングを遣るんだから、外よりゃ少しは増しかも知れない」
「亭主がいくら腕を見せたって、僕のような口に合っちゃ敵(かな)わないよ。泣くだけだあね」
「だけど旨けりゃそれで可いんだ」
「うん旨けりゃそれで可い訳だ。然しその旨さが十銭均一の一品料理と同なじ事だと云って聞かせたら亭主も泣くだろうじゃないか」
 津田は苦笑するより外に仕方がなかった。小林は一人で喋舌(しゃべ)った。
「一体今の僕にゃ、仏蘭西料理だから旨いの、英吉利料理だから不味いのって、そんな通を振り廻す余裕なんかまるでないんだ。ただ口へ入るから旨いだけの事なんだ」
「だってそれじゃ何故旨いんだか、理由が解らなくなるじゃないか」
「解り切ってるよ。ただ飢(ひも)じいから旨いのさ。その他に理窟も糸瓜(へちま)もあるもんかね」
 津田は又黙らせられた。然し二人の間に続く無言が重く胸に応えるようになった時、彼は已を得ず又口を開こうとして、忽(たちま)ち小林のために機先を制せられた。

百五十七

「君の様な敏感者から見たら、僕如き鈍物は、あらゆる点で軽蔑に値しているかも知れない。僕もそれは承知している、軽蔑されても仕方がないと思っている。けれども僕には僕で又相当の云草があるんだ。僕の鈍は必ずしも天賦の能力に原因しているとは限らない。僕に時を与えよだ、僕に金を与えよだ。しかる後、僕がどんな人間になって君等の前に出現するかを見よだ」
 この時小林の頭には酒がもう少し廻っていた。笑談とも真面目とも片の付かない彼の気[焔](きえん)には、わざと酔の力を藉(か)ろうとする鬱散(うつさん)の傾きが見えて来た。津田は相手の口にする言葉の価値を正面から首肯(うけが)うべく余儀なくされた上に、多少彼の歩き方に付き合う必要を見出した。
「そりゃ君のいう通りだ。だから僕は君に同情しているんだ。君だってその位の事は心得ていて呉れるだろう。でなければ、こう遣って、わざわざ会食までして君の朝鮮行を送る訳がないからね」
「有難う」
「いや嘘じゃないよ。現にこの間もお延にその訳をよく云って聴かせた位だもの」
 胡散臭(うさんくさ)いなという眼が小林の眉の下で輝やいた。
「へええ。本当かい。あの細君の前で僕を弁護して呉れるなんて、君にもまだ昔の親切が少しは残ってると見えるね。然しそりゃ……。細君は何と云ったね」
 津田は黙って懐へ手を入れた。小林はその所作を眺めながら、わざとそれを止めさせる様に追加した。
「ははあ。弁護の必要があったんだな。どうも変だと思ったら」
 津田は懐へ入れた手を、元の通り外へ出した。「お延の返事は此所にある」といって、綺麗に持って来た金を彼に渡す積でいた彼は躊躇した。その代り話頭(わとう)を前へ押し戻した。
「矢張人間は境遇次第だね」
「僕は余裕次第だという積りだ」
 津田は逆らわなかった。
「そうさ余裕次第とも云えるね」
「僕は生れてから今日までぎりぎり決着の生活をして来たんだ。まるで余裕というものを知らずに生きて来た僕が、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)我儘三昧に育った人とどう違うと君は思う」
 津田は薄笑いをした。小林は真面目であった。
「考えるまでもなく此所にいるじゃないか。君と僕さ。二人を見較べればすぐ解るだろう、余裕と切迫で代表された生活の結果は」
 津田は心の中でその幾分を點頭(うなず)いた。けれども今更そんな不平を聴いたって仕方がないと思っている所へ後が来た。
「それでどうだ。僕は始終君に軽蔑される、君ばかりじゃない、君の細君からも、誰からも軽蔑される。――いや待ち給えまだいう事があるんだ。――それは事実さ、君も承知、僕も承知の事実さ。凡て先刻云った通りさ。だが君にも君の細君にもまだ解らない事が此所に一つあるんだ。勿論今更それを君に話したってお互いの位地が変る訳でもないんだから仕方がない様なものの、これから朝鮮へ行けば、僕はもう生きて再び君に会う折がないかもしれないから……」
 小林は此所まで来て少し昂奮したような気色を見せたが、すぐその後から「いや僕の事だから、行って見ると朝鮮も案外なので、厭になって又すぐ帰って来ないとも限らないが」と正直な所を付け加えたので、津田は思わず笑い出してしまった。小林自身も一旦頓挫(とんざ)してから又出直した。
「まあ未来の生活上君の参考にならないとも限らないから聴きたまえ。実を云うと、君が僕を軽蔑している通りに、僕も君を軽蔑しているんだ」
「そりゃ解ってるよ」
「いや解らない。軽蔑の結果はあるいは解ってるかも知れないが、軽蔑の意味は君にも君の細君にもまだ通じていないよ。だから君の今夕の好意に対して、僕は又留別(りゅうべつ)のために、それを説明して行こうてんだ。どうだい」
「よかろう」
「よくないたって、僕のような一文なしじゃ外に何も置いて行くものがないんだから仕方がなかろう」
「だから可いよ」
「黙って聴くかい。聴くなら云うがね。僕は今君の御馳走になって、こうしてぱくぱく食ってる仏蘭西料理も、この間の晩君に御招待申して叱られたあの汚ならしい酒場の酒も、どっちも無差別に旨い位味覚の発達しない男なんだ。そこを君は軽蔑するだとう。然るに僕は却ってそこを自慢にして、軽蔑する君を逆に軽蔑しているんだ。いいかね、その意味が君に解ったかね。考えて見給え、君と僕がこの点に於て何方が窮屈で、何方が自由だか。何方が幸福で、何方が束縛を余計感じているか。何方が太平で何方が動揺しているか。僕から見ると、君の腰は始終ぐらついてるよ。度胸が坐ってないよ。厭なものを何処までも避けたがって、自分の好きなものを無暗に追懸けたがってるよ。そりゃ何故だ。何故でもない、なまじいに自由が利くためさ。贅沢をいう余地があるからさ。僕のように窮地に突き落されて、どうでも勝手にしやがれという気分になれないからさ」
 津田は天から相手を見縊(みくび)っていた。けれども事実を認めない訳には行かなかった。小林は慥(たし)かに彼より図迂々々(ずうずう)しく出来上っていた。

百五十八

 然し小林の説法にはまだ後があった。津田の様子を見澄ました彼は突然思い掛けない所へ舞い戻って来た。それは会見の最初一寸二人の間に点綴されながら、前後の勢ですぐ何処かへ流されてしまった問題に外ならなかった。
「僕の意味はもう君に通じている。然し君はまだ成程という心持になれないようだ。矛盾だね。僕はその訳を知ってるよ。第一に相手が身分も地位も財産も一定の職業もない僕だという事が、聡明な君を煩わしているんだ。もしこれが吉川夫人か誰かの口から出るなら、それがもっとずっと詰らない説でも、君は襟を正して聴くに違ないんだ。いや僕の僻(ひがみ)でも何でもない、争うべからざる事実だよ。けれども君考えなくっちゃ不可いぜ。僕だからこれだけの事が云えるんだという事を。先生だって奥さんだって、其所へ行くと駄目だという事も心得て置きたまえ。何故だ? 何故でもないよ。いくら先生が貧乏したって、僕だけの経験は嘗(な)めていないんだからね。況(いわ)んや先生以上に楽をして生きて来た彼輩(かのはい)に於てをやだ」
 彼輩とは誰の事だか津田にも能く解らなかった。彼はただ腹の中で、大方吉川夫人だの岡本だのを指すのだろうと思ったぎりであった。実際小林は相手にそんな質問を掛けさせる余地を与えないで、さっさと先へ行った。
「第二にはだね。君の目下の境遇が、今僕の云ったような助言――だか忠告だか、又は単なる知識の供給だか、それは何でも構わないが、兎に角そんなものに君の注意を向ける必要を感じさせないのだ。頭では解る、然し胸では納得しない、これが現在の君なんだ。つまり君と僕とはをれだけ懸絶(けんぜつ)しているんだから仕方がないと跳ね付けられればそれまでだが、其所に君の注意を払わせたいのが、実は僕の目的だ、いいかね。人間の境遇もしくは位地の懸絶といった所で大したものじゃないよ。本式に云えば十人が十人ながら略同じ経験を、違った形式で繰り返しているんだ。それをもっと判然云うとね、僕は僕で、僕に最も切実な眼でそれを見るし、君は又君で、君に最も適当な眼でそれを見る、まあその位の違だろうじゃないか。だからさ、順境にあるものが一寸面喰うか、迷児つくか、蹴爪ずくかすると、そらすぐ眼の球の色が変って来るんだ。然しいくら眼の球が変ったって、急に眼の位置を変える訳には行かないだろう。つまり君に一朝事があったとすると、君は僕のこの助言(じょごん)を屹度思い出さなければならなくなるというだけの事さ」
「じゃ能く気を付けて忘れないようにして置くよ」
「うん忘れずにいたまえ、必ず思い当る事が出て来るから」
「よろしい。心得たよ」
「ところがいくら心得たって駄目なんだから可笑いや」
 小林はこう云って急に笑い出した。津田にはその意味が解らなかった。小林は訊かれない先に説明した。
「その時ひょっと気が付くとするぜ、いいかね。そうしたらその時の君が、やっという掛声と共に、早変りが出切るかい。早変りをしてこの僕になれるかい」
「そいつは解らないよ」
「解らなかない、解ってるよ。なれないに極ってるんだ。憚りながら此所まで来るには相当の修行が要るんだからね。いかに癡鈍(ちどん)な僕と雖も、現在の自分に対してはこれで血の代を払ってるんだ」
 津田は小林の得意が癪(しゃく)に障った。此奴が狗(いぬ)のような毒血を払って果して何物を[掴](つか)んでいる? こう思った彼はわざと軽蔑の色を面に現わして訊いて見た。
「それじゃ何のためにそんな話を僕にして聴かせるんだ。たとい僕が覚えていたって、いざという場合の役にゃ立たないじゃないか」
「役にゃ立つまいよ。然し聴かないより増しじゃないか」
「聴かない方が増しな位だ」
 小林は嬉しそうに身体を椅子の脊に靠(もた)せ掛けて又笑い出した。
「其所だ。そう来る所が此方(こっち)の思う壷なんだ」
「何をいうんだ」
「何も云やしない、ただ事実を云うのさ。然し説明だけはして遣ろう。今に君が其所へ追い詰められて、どうする事も出来なくなった時に、僕の言葉を思い出すんだ。思い出すけれども、ちっとも言葉通りに実行は出来ないんだ。これならなまじいあんな事を聴いて置かない方が可かったという気になるんだ」
 津田は厭な顔をした。
「馬鹿、そうすりゃ何処がどうするんだ」
「どうしもしないさ。つまり君の軽蔑に対する僕の復讐がその時始めて実現されるというだけさ」
 津田は言葉を改めた。
「それ程君は僕に敵意を有ってるのか」
「どうして、どうして、敵意どころか、好意精一杯という所だ。けれども君の僕を軽蔑しているのは何時まで行っても事実だろう。僕がその裏を指摘して、此方から見るとその君にも亦軽蔑すべき点があると注意しても、君は乙に高く留って平気でいるじゃないか。つまり口じゃ駄目だ、実戦で来いという事になるんだから、僕の方でも已を得ず其所まで行って勝負を決しようというだけの話だあね」
「そうか、解った。――もうそれぎりかい、君のいう事は」
「いやどうして。これから愈(いよいよ)本論に入ろうというんだ」
 津田は一気に洋盃(コップ)を唇へあてがって、ぐっと麦酒(ビール)を飲み干した小林の様子を、少し呆れながら眺めた。

百五十九

 小林は言葉を継ぐ前に、洋盃(コップ)を下へ置いて、先ず室内を見渡した。女伴(おんなづれ)の客のうち、一組の相手は洗指盆(フィンガーボール)の中へ入れた果物を食った後の手を、袂から出した美しい手帛(ハンケチ)で拭いていた。彼の筋向うに席を取って、先刻から時々自分達の方を偸(ぬす)むようにして見る二十五六の方は、珈琲茶碗(コーヒーぢゃわん)を手にしながら、男の吹かす烟草の烟を眺めて、しきりに芝居の話をしていた。両方とも彼等より先に来ただけあって、彼等より先に席を立つ順序に、食事の方の都合も連行しているらしく見えた時、小林は云った。
「やあ丁度好い。まだいる」
 津田はまたはっと思った。小林は屹度彼等の気を悪くする様な事を、彼等に聴こえよがしに云うに違なかった。
「おいもう好い加減に止せよ」
「まだ何にも云やしないじゃないか」
「だから注意するんだ。僕の攻撃はいくらでも我慢するが、縁もゆかりもない人の悪口などは、ちっと慎しんで呉れ、こんな所へ来て」
「厭に小心だな。大方場末の酒場と此所と一所にされちゃ堪らないという意味なんだろう」
「まあそうだ」
「まあそうだなら、僕の如き無頼漢をこんな所へ招待するのが間違だ」
「じゃ勝手にしろ」
「口で勝手にしろと云いながら、内心ひやひやしているんだろう」
 津田は黙ってしまった。小林は面白そうに笑った。
「勝ったぞ、勝ったぞ。どうだ降参したろう」
「それで勝った積なら、勝手に勝った積でいるがいい」
「その代り今後益(ますます)貴様を軽蔑して遣るからそう思えだろう。僕は君の軽蔑なんか屁とも思っちゃいないよ」
「思わなけりゃ思わないでも可いさ。五月蠅(うるさ)い男だな」
 小林はむっとした津田の顔を覗き込むようにして見詰めながら云った。
「どうだ解ったか、おい。これが実戦というものだぜ。いくら余裕があったって、金持に交際があったって、いくら気位を高く構えたって、実戦に於て敗北すりゃそれまでだろう。だから僕が先刻(さっき)から云うんだ、実地を踏んで鍛え上げない人間は、木偶(でく)の坊と同なじ事だって」
「そうだそうだ。世の中で擦れっ枯らしと酔払いに敵うものは一人もないんだ」
 何か云う筈の小林は、この時返事をする代りに又女伴の方を一順見廻した後で、云った。
「じゃ愈第三だ。あの女の立たないうちに話してしまわないと気が済まない。好いかね、君、先刻の続きだぜ」
 津田は黙って横を向いた。小林は一向構わなかった。
「第三にはだね。即ち換言すると、本論に入って云えばだね。僕は先刻彼所にいる女達を捕まえて、ありゃ芸者かって君に聴いて叱られたね。君は貴婦人に対する礼義を心得ない野人として僕を叱ったんだろう。よろしい僕は野人だ。野人だから芸者と貴婦人との区別が解らないんだ。それで僕は君に訊いたね、一体芸者と貴婦人とは何所がどう違うんだって」
 小林はこう云いながら、三度目の視線をまた女伴の方に向けた。手帛で手を拭いていた人は、それを合図のように立ち上った。残る一人(にん)も給仕を呼んで勘定を払った。
「とうとう立っちまった。もう少し待ってると面白い所へ来るんだがな、惜い事に」
 小林は出て行く女伴の後影(うしろかげ)を見送った。
「おやおやも一人も立つのか。じゃ仕方がない、相手は矢っ張り君だけだ」
 彼は再び津田の方へ向き直った。
「問題は其所だよ、君。僕が仏蘭西料理と英吉利料理を食い分ける事が出来ずに、糞と味噌を一所にして自慢すると、君は相手にしない。高が口腹(こうふく)の問題だという顔をして高を括(くく)っている。然し内容は一つものだぜ、君。この味覚が発達しないのも、芸者と貴婦人を混同するのも」
 津田はそれがどうしたと云わぬばかりの眼を翻がえして小林を見た。
「だから結論も一つ所へ帰着しなければならないというのさ。僕は味覚の上に於て、君に軽蔑されながら、君より幸福だと主張する如く、婦人を識別する上に於ても、君に軽蔑されながら、君より自由な境遇に立っていると断言して憚からないのだ。つまり、あれは芸者だ、これは貴婦人だなんて鑑識があればある程、その男の苦痛は増して来るというんだ。何故と云って見給え。仕舞には、あれも厭、これも厭だろう。或はこれでなくっちゃ不可い、あれでなくっちゃ不可いだろう。窮屈千万じゃないか」
「然しその窮屈千万が好きなら仕方なかろう」
「来たな、とうとう。食物だと相手にしないが、女の事になると、矢っ張り黙っていられなくなると見えるね。其所だよ、其所を実際問題に就いて、これから僕が論じようというんだ」
「もう沢山だ」
「いや沢山じゃないらしいぜ」
 二人は顔を見合わせて苦笑した。

百六十

 小林は旨く津田を釣り寄せた。それと知った津田は考えがあるので、小林にわざと釣り寄せられた。二人はとうとう際どい所へ入り込まなければならなくなった。
「例えばだね」と彼が云い出した。「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。一(ひと)しきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人より外に男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
「結果は今の如くさ」
「大変淡泊(さっぱ)りしているじゃないか」
「だって外に仕様がなかろう」
「いや、あるんだろう。あっても乙に気取って澄ましているんだろう。でなければ僕に隠して今でも何か遣ってるんだろう」
「馬鹿いうな。そんな出鱈目を無暗に口走ると飛んだ間違になる。少し気を付けて呉れ」
「実は」と云い掛けた小林は、その後を知ってるかと云わぬばかりの様子をした。津田はすぐ訊きたくなった。
「実はどうしたんだ」
「実はこの間君の細君にすっかり話しちまったんだ」
 津田の表情が忽(たちま)ち変った。
「何を?」
 小林は相手の調子と顔付を、噛んで味わいでもするように、少時(しばらく)間を置いて黙っていた。然し返事を表へ出した時は、もう態度を一変していた。
「嘘だよ。実は嘘だよ。そう心配する事はないよ」
「心配はしない。今になってその位の事を云付(いつ)けられたって」
「心配しない? そうか、じゃ此方も本当だ。実は本当だよ。みんな話しちまったんだよ」
「馬鹿ッ」
 津田の声は案外大きかった。行儀よく椅子に腰を掛けていた給仕の女が、一寸首を上げて眼を此方(こっち)へ向けたので、小林はすぐそれを材料にした。
「貴婦人(レデー)が驚ろくから少し静かにして呉れ。君の様な無頼漢と一所に酒を飲むと、どうも外聞が悪くて不可い」
 彼は給使(きゅうじ)の女の方を見て微笑して見せた。女も微笑した。津田一人怒る訳に行かなかった。小林は又すぐその機に付け込んだ。
「一体あの[顛]末(てんまつ)はどうしたのかね。僕は詳しい事を聴かなかったし、君も話さなかった、のじゃない、僕が忘れちまったのか。そりゃどうでも構わないが、ありゃ向うで逃げたのかね、或は君の方で逃げたのかね」
「それこそどうでも構わないじゃないか」
「うん僕としては構わないのが当然だ。又実際構っちゃいない。が、君としてはそうは行くまい。君は大構いだろう」
「そりゃ当り前さ」
「だから先刻(さっき)から僕が云うんだ。君には余裕があり過ぎる。その余裕が君をして余りに贅沢ならしめ過ぎる。その結果はどうかというと、好きなものを手に入れるや否や、すぐその次のものが欲しくなる。好きなものに逃げられた時は、地団太(じだんだ)を踏んで口惜(くや)しがる」
「何時そんな様(ざま)を僕がした」
「したともさ。それから現にしつつあるともさ。それが君の余裕に祟(たた)られている所以だね。僕の最も痛快に感ずる所だね。貧賤(ひんせん)が富貴に向って復讐をやってる因果応報の理だね」
「そう頭から自分の拵(こしら)えた型で、他(ひと)を評価する気ならそれまでだ。僕には弁解の必要がないだけだから」
「ちっとも自分で型なんか拵えていやしないよ僕は。これでも実際の君を指摘している積なんだから。分らなけりゃ、事実で教えて遣ろうか」
 教えろとも教えるなとも云わなかった津田は、ついに教えられなければならなかった。
「君は自分の好みでお延さんを貰ったろう。だけれども今の君は決してお延さんに満足しているんじゃなかろう」
「だって世の中に完全なもののない以上、それも已を得ないじゃないか」
「という理由を付けて、もっと上等なのを探し廻る気だろう」
「人聞(ひとぎき)の悪い事を云うな、失敬な。君は実際自分でいう通りの無頼漢だね。観察の下卑(げび)て皮肉な所から云っても、言動の無遠慮で、粗野な所から云っても」
「そうしてそれが君の軽蔑に値する所以(ゆえん)なんだ」
「勿論さ」
「そらね。そう来るから畢竟(ひっきょう)口先じゃ駄目なんだ。矢ッ張り実戦でなくっちゃ君は悟れないよ。僕が予言するから見ていろ。今に戦いが始まるから。その時漸く僕の敵でないという意味が分るから」
「構わない、擦れっ枯らしに負けるのは僕の名誉だから」
「強情だな。僕と戦うんじゃないぜ」
「じゃ誰と戦うんだ」
「君は今既に腹の中で戦いつつあるんだ。それがもう少しすると実際の行為になって外へ出るだけなんだ。余裕が君を煽動(せんどう)して無役の負戦(まけいくさ)をさせるんだ」
 津田はいきなり懐中から紙入を取り出して、お延と相談の上、餞別の用意に持って来た金を小林の前へ突き付けた。
「今渡して置くから受取っておけ。君と話していると、段々この約束を履行するのが厭になるだけだから」
 小林は新らしい十円紙幣(さつ)の二つ折れたのを広げて丁寧に、枚数を勘定した。
「三枚あるね」

百六十一

 小林は受け取ったものを、赤裸のまま無雑作に脊広の隠袋(ポケット)の中へ投げ込んだ。彼の所作が平淡であった如く、彼の礼の云い方も横着であった。
「サンクス。僕は借りる気だが、君は呉れる積だろうね。如何となれば、僕に返す手段のない事を、又返す意志のない事を、君は最初から軽蔑の眼をもって、認めているんだから」
 津田は答えた。
「無論遣ったんだ。然し貰って見たら、如何(いか)な君でも自分の矛盾に気が付かずにはいられまい」
「いや一向気が付かない。矛盾とは一体何だ。君から金を貰うのが矛盾なのか」
「そうでもないがね」と云った津田は上から下を見下(みおろ)すような態度をとった。「まあ考えて見給え。その金はつい今まで僕の紙入の中にあったんだぜ。そうして転瞬の間に君の隠袋の裏に移転してしまったんだぜ。そんな小説的の言葉を使うのが厭なら、もっと判然(はっきり)云おうか。その金の所有権を急に僕から君に移したものは誰だ。答えて見ろ」
「君さ。君が僕に呉れたのさ」
「いや僕じゃないよ」
「何を云うんだな禅坊主の寐事(ねごと)みたいな事を。じゃ誰だい」
「誰でもない、余裕さ。君の先刻(さっき)から攻撃している余裕が呉れたんだ。だから黙ってそれを受け取った君は、口で無茶苦茶に余裕を打ちのめしながら、その実余裕の前にもう頭を下げているんだ。矛盾じゃないか」
 小林は眼をぱちぱちさせた後でこう云った。
「成程な、そう云えばそんなものか知ら。然し何だか可笑いよ。実際僕はちっともその余裕なるものの前に、頭を下げてる気がしないんだもの」
「じゃ返して呉れ」
 津田は小林の鼻の先へ手を出した。小林は女の様に柔らかそうなその掌を見た。
「いや返さない。余裕は僕に返せと云わないんだ」
 津田は笑いながら手を引き込めた。
「それ見ろ」
「何がそれ見ろだ。余裕は僕に返せと云わないという意味が君にはよく解らないと見えるね。気の毒なる貴公子よだ」
 小林はこう云いながら、横を向いて戸口の方を見つつ、又一句を付け加えた。
「もう来そうなものだな」
 彼の様子を能く見守った津田は、少し驚ろかされた。
「誰が来るんだ」
「誰でもない、僕よりまだ余裕の乏しい人が来るんだ」
 小林は裸のまま紙幣を仕舞い込んだ自分の隠袋を、わざとらしく叩いた。
「君から僕にこれを伝えた余裕は、再びこれを君に返せとは云わないよ。僕よりもっと余裕の足りない方へ順送りに送れと命令するんだよ。余裕は水のようなものさ。高い方から低い方へ流れるが、下から上へは逆行しないよ」
 津田は略(ほぼ)小林の言葉を、意解する事が出来た。然し事解する事は出来なかった。従って半醒半酔(はんせいはんすい)のような落ち付きのない状態に陥った。其所へ小林の次の挨拶がどさどさと侵入して来た。
「僕は余裕の前に頭を下げるよ、僕の矛盾を承認するよ、君の詭弁を首肯(しゅこう)するよ。何でも構わないよ。礼を云うよ、感謝するよ」
 彼は突然ぽたぽたと涙を落し始めた。この急劇な変化が、少し驚ろいている津田を一層不安にした。先達ての晩手古摺(てこず)らされた酒場の光景を思い出さざるを得なくなった彼は、眉をひそめると共に、相手を利用するのは今だという事に気が付いた。
「僕が何で感謝なんぞ予期するものかね、君に対して。君こそ昔を忘れているんだよ。僕の方が昔のままでしている事を、君はみんな逆(さか)に解釈するから、交際が益(ますます)面倒になるんじゃないか。例えばだね、君がこの間僕の留守へ外套を取りに行って、その序に何か妻に云ったという事も――」
 津田はこれだけ云って暗に相手の様子を窺(うかが)った。然し小林が下を向いているので、彼はまるでその心持の転化作用を忖度(そんたく)する事が出来なかった。
「何も好んで友達の夫婦仲を割くような悪戯(いたずら)をしなくっても可い訳じゃないか」
「僕は君に関して何も云った覚はないよ」
「然し先刻(さっき)……」
「先刻は笑談さ。君が冷嘲(ひやか)すから僕も冷嘲したんだ」
「何方が冷嘲し出したんだか知らないが、そりゃどうでも可いよ。ただ本当の所を僕に云って呉れたって好さそうなものだがね」
「だから云ってるよ。何にも君に関して云った覚はないと何遍も繰り返して云ってるよ。細君を訊き糺(ただ)して見れば解る事じゃないか」
「お延は……」
「何と云ったい」
「何とも云わないから困るんだ。云わないで腹の中で思っていられちゃ、弁解も出来ず説明も出来ず、困るのは僕だけだからね」
「僕は何にも云わないよ。ただ君がこれから夫らしくするかしないかが問題なんだ」
「僕は――」
 津田がこう云い掛けた時、近寄る足音と共に新らしく入って来た人が、彼等の食卓の傍に立った。

百六十二

 それが先刻大通りの角で、小林と立談(たちばなし)をしていた長髪の青年であるという事に気の付いた時、津田は更に驚ろかされた。けれどもその驚ろきのうちには、暗にこの男を待ち受けていた期待も交っていた。明らさまな津田の感じを云えば、こんな人が此所へ来る筈はないという断案と、もし此所へ誰か来るとすれば、この人より外にあるまいという予想の矛盾であった。
 実を云うと、自働車の燭光(あかり)で照らされた時、彼の眸(ひとみ)の裏に映ったこの人の影像(イメジ)は津田に取って奇異なものであった。自分から小林、小林からこの青年、と順々に眼を移して行くうちには、階級なり、思想なり、職業なり、服装なり、種々な點に於て随分な距離があった。勢い津田は彼を遠くに眺めなければならなかった。然し遠くに眺めれば眺める程、強く彼を記憶にしなければならなかった。
「小林はああいう人と交際(つきあ)ってるのかな」
 こう思った津田は、その時そういう人と交際っていない自分の立場を見廻して、まあ仕合せだと考えた後なので、新来者に対する彼の態度も自ずから明白であった。彼は突然胡散臭(うさんくさ)い人間に挨拶をされたような顔をした。
 上へ反っ繰り返った細い鍔(つば)の、ぐにゃぐにゃした帽を脱(と)って手に持ったまま、小林の隣りへ腰を卸した青年の眼には異様な光りがあった。彼は津田に対して現に不安を感じているらしかった。それには一種の反感と、恐怖と、人馴れない野育ちの自尊心とが錯雑して起す神経的な光りに見えた。津田は益厭な気持になった。小林は青年に向って云った。
「おいマントでも取れ」
 青年は黙って再び立ち上った。そうして釣鐘(つりがね)のような長い合羽をすぽりと脱いで、それを椅子の脊に投げ掛けた。
「これは僕の友達だよ」
 小林は始めて青年を津田に紹介(ひきあわ)せた。原という姓と芸術家という名称が漸く津田の耳に入った。
「どうした。旨く行ったかね」
 これが小林の次に掛けた質問であった。然しこの質問は充分な返事を得る暇がなかった。小林は後からすぐこう云ってしまった。
「駄目だろう。駄目に極ってるさ、あんな奴。あんな奴に君の芸術が分って堪るものか。いいからまあ緩くりして何か食い給え」
 小林は忽ちナイフを倒(さか)さまにして、やけに食卓(テーブル)を叩いた。
「おいこの人の食うものを持って来い」
 やがて原の前にあった洋盃(コップ)の中に麦酒(ビール)がなみなみと注がれた。
 この様子を黙って眺めていた津田は、自分の持って来た用事のもう済んだ事に漸く気が付いた。こんなお付合を長くさせられては大変だと思った彼は、機を見て好い加減に席を切り上げようとした。すると小林が突然彼の方を向いた。
「原君は好い絵を描くよ、君。一枚買って遣り給え。今困ってるんだから、気の毒だ」
「そうか」
「どうだ、この次の日曜位に、君の家へ持って行って見せる事にしたら」
 津田は驚ろいた。
「僕には絵なんか解らないよ」
「いや、そんな筈はない、ねえ原。何しろ持って行って見せて見給え」
「ええ御迷惑でなければ」
 津田の迷惑は無論であった。
「僕は絵だの彫刻だのの趣味のまるでない人間なんですから、どうぞ」
 青年は傷(きずつ)けられたような顔をした。小林はすぐ応援に出た。
「嘘を云うな。君位鑑賞力の豊富な男は実際世間に少ないんだ」
 津田は苦笑せざるを得なかった。
「又下らない事を云って、――馬鹿にするな」
「事実を云うんだ、馬鹿にするものか。君のように女の鑑賞する能力の発達したものが、芸術を粗末にする訳がないんだ。ねえ原、女が好きな以上、芸術も好きに極ってるね。いくら隠したって駄目だよ」
 津田は段々辛防(しんぼう)し切れなくなって来た。
「大分話が長くなりそうだから、僕は一足先へ失敬しよう、――おい姉さん会計だ」
 給仕が立ちそうにする所を、小林は大きな声を出して止めながら、又津田の方へ向き直った。
「丁度今一枚素敵に好いのが描いてあるんだ。それを買おうという望手(のぞみて)の所へ価直(ねだん)の相談に行った帰り掛に、原君は此所へ寄ったんだから、旨い機会じゃないか。是非買い給え。芸術家の足元へ付け込んで、無暗に値切り倒すなんて失敬な奴へは売らないが好いというのが僕の意見なんだ。その代り屹度買手を周旋して遣るから、帰りに此所へ寄るがいいと、先刻彼所の角で約束して置いたんだ、実を云うと。だから一つ買って遣るさ、訳やないやね」
「他(ひと)に絵も何にも見せないうちから、勝手にそんな約束をしたって仕様がないじゃないか」
「絵は見せるよ。――君今日持って帰らなかったのか」
「もう少し待って呉れっていうから置いて来た」
「馬鹿だな、君は。仕舞にロハで捲き上げられてしまうだけだぜ」
 津田はこの問答を聴いてほっと一息吐いた。

百六十三

 二人は津田を差し置いて、しきりに絵画の話をした。時々耳にする三角派とか未来派とかいう奇怪な名称の外に、彼は今まで曾て聴いた事のないような片仮名をいくつとなく聴かされた。その何処にも興味を見出だし得なかった彼は、会談の圏外へ放遂されるまでもなく、自分から埒(らち)を脱け出したと同じ事であった。これだけでも一通り以上の退屈である上に、津田を厭がらせる積極的なものがまだ一つあった。彼は自分の眼前に見るこの二人、ことに小林を、無暗に新らしい芸術を振り廻したがる半可通として、最初から取扱っていた。彼はこの偏見(プレジュジス)の上へ、乙に職者ぶる彼等の態度を追加して眺めた。この点に於て無知な津田を羨やましがらせるのが、殆んど二人の目的ででもあるように見え出した時、彼は無理に一旦落ち付けた腰を又浮かしに掛った。すると小林が又抑留した。
「もう直だ、一所に行くよ、少し待ってろ」
「いや余まり遅くなるから……」
「何もそんなに他に耻を掻かせなくっても宜かろう。それとも原君が食っちまうまで待ってると、紳士の体面に関わるとでも云うのか」
 原は刻んだサラドをハムの上へ載せて、それを肉叉(フォーク)で突き差した手を止めた。
「どうぞお構いなく」
 津田が軽く会釈を返して、愈(いよいよ)立ち上がろうとした時、小林は殆んど独りごとのように云った。
「一体この席を何と思ってるんだろう。送別会と号して他(ひと)を呼んで置きながら、肝心のお客さんを残して、先へ帰っちまうなんて、侮辱を与える奴が世の中にいるんだから厭になるな」
「そんな積じゃないよ」
「積でなければ、もう少居ろよ」
「少し用があるんだ」
「此方にも少し用があるんだ」
「絵なら御免だ」
「絵も無理に買えとは云わないよ。吝(けち)な事を云うな」
「じゃ早くその用を片付けて呉れ」
「立ってちゃ駄目だ、紳士らしく坐らなくっちゃ」
 仕方なしに又腰を卸した津田は、袂(たもと)から烟草を出して火を点けた。不図見ると、灰皿は敷島の残骸でもう一杯になっていた。今夜の記念としてこれ程適当なものはないという気が、偶然津田の頭に浮かんだ。これから呑もうとする一本も、三分経つか経たないうちに、灰と煙と吸口だけ変形して、役にも立たない冷たさを皿の上に留めるに過ぎないと思うと、彼は何となく厭な心持がした。
「何だい、その用事というのは。まさか無心じゃあるまいね、もう」
「だから吝な事を云うなと、先刻から云ってるじゃないか」
 小林は右の手で脊広の右側を[掴](つか)んで、左の手を隠袋(ポケット)の中へ入れた。彼は暗闇で物を探るように、しばらく入れた手を、脊広の裏側で動かしながら、その間始終眼を津田の顔へぴったり付けていた。すると急に突飛な光景(シーン)が、津田の頭の中に描き出された。同時に変な妄想(もうぞう)が、今呑んでいる烟草の烟のように、淡く彼の心を掠(かす)めて過ぎた。
「此奴は懐から短銃(ピストル)を出すんじゃないだろうか。そうしてそれを己(おれ)の鼻の先へ突き付ける積じゃないかしら」
 芝居じみた一刹那(いつせつな)が彼の予感を微かに揺振(ゆすぶ)った時、彼の神経の末梢(まっしょう)は、眼に見えない風に弄(なぶ)られる細い小枝のように顫動(せんどう)した。それと共に、妄(みだ)りに自分で拵えたこの一場の架空劇を余所目に見て、その荒誕(こうたん)を冷笑(せせらわら)う理智の力が、もう彼の中心に働らいていた。
「何を探しているんだ」
「いや色々なものが一所に入ってるからな、手の先でよく探しあてた上でないと、滅多に君の前へは出されないんだ」
「間違えて先刻放り込んだ札でも出すと、厄介だろう」
「なに札は大丈夫だ。外の紙片と違って活きてるから。こう遣って、手で障って見るとすぐ分るよ。隠袋の中で、ぴちぴち跳ねてる」
 小林は減らず口を利きながら、わざと空しい手を出した。
「おやないぞ。変だな」
 彼は左胸部にある表隠袋(おもてかくし)へ再び右の手を突き込んだ。然し其所から彼の撮(つま)み出したものは皺だらけになった薄汚ない手帛(はんけち)だけであった。
「何だ手品(てずま)でも使う気なのか、その手帛で」
 小林は津田の言葉を耳にも掛けなかった。真面目な顔をして、立ち上りながら、両手で腰の左右を同時に叩いた後で、いきなり云った。
「うん此所にあった」
 彼の洋袴(ズボン)の隠袋から引き摺り出したものは、一通の手紙であった。
「実は此奴を君に読ませたいんだ。それももう当分君に会う機会がないから、今夜に限るんだ。僕と原君と話している間に、一寸読んで呉れ。何訳やないやね、少し長いけれども」
 封書を受取った津田の手は、殆んど器械的に動いた。

百六十四

 ペンで原稿紙へ書きなぐるように認(したた)められたその手紙は、長さから云っても、無論普通の倍以上あった。のみならず宛名は小林に違なかったけれども、差出人は津田の見た事も聴いた事もない全く未知の人であった。津田は封筒の裏表を読んだ後で、それは果して自分に何の関係があるのだろうと思った。けれども冷やかな無関心の傍に起った一種の好奇心は、すぐ彼の手を誘った。封筒から引き抜いた十行二十字詰の罫紙(けいし)の上へ眼を落した彼は一気に読み下した。
「僕は此所へ来た事をもう後悔しなければならなくなったのです。貴方は定めて飽っぽいと思うでしょう、然しこれは貴方と僕の性質の差異から出るのだから仕方がないのです。またかと云わずに、まあ僕の訴えを聞いて下さい。女ばかりで夜が不用心だから銀行の整理のつくまで泊りに来て留守番をしてくれ、小説が書きたければ自由に書くが可い、図書館へ行くなら弁当を持って行くがいい、午後は画(え)を習いに行くが可い。今に銀行を東京へ持って来ると外国語学校へ入れて遣る、家(うち)の始末は心配するな、転居の金は出してやる。――僕はこんな有難い条件に誘惑されたのです。尤も一から十まで当にした訳でもないんですが、その何割かは本当に違いないと思い込んだのです。ところが来て見ると、本当は一つもないんです、頭から尻まで嘘の皮なんです。叔父は東京にいる方が多いばかりか、僕は書生代りに朝から晩まで使い歩きをさせられるだけなのです。叔父は僕の事を「宅(うち)の書生」といいます、しかも客の前でです、僕のいる前でです。こんな訳で酒一合の使(つかい)から縁側の拭き掃除までみんな僕の役になってしまうのです。金はまだ一銭も貰ったことがありません。僕の穿(は)いていた一円の下駄が割れたら十二銭のやつを買って穿かせました。叔父は明日金を遣ると云って、僕の家族を姉の所へ転居させたのですが、越してしまったら、金の事は噫(おくび)にも出さないので、僕は帰る宅さえなくなりました。
 叔父の仕事はまるで山です。金なんか少しもないのです。そうして彼等夫婦は極めて冷やかな極めて吝嗇(りんしょく)な人達です。だから来た当座僕は空腹に堪えかねて、三日に一遍位姉の家へ帰って飯を食わして貰いました。兵糧(ひょうろう)が尽きて焼芋や馬鈴薯(じゃがいも)で間に合せていたこともあります。尤もこれは僕だけです。叔母は極めて感じの悪い女です。万事が打算的で、体裁ばかりで、いやにこせこせ突っつき廻したがるんで、僕はちくちく刺されどおしに刺されているんです。叔父は金のない癖に酒だけは飲みます。そうして田舎へ行けば殿様だなどと云って威張るんです。然し裏側へ入って見ると驚ろく事ばかりです。訴訟事件さえ沢山起っている位です。出発のたびに汽車賃がなくって、質屋へ駈けつけたり、姉の家へ行って、苦しい所を算段して来て遣ったりしていますが、叔父の方じゃ、僕の食費と差引にする気か何かで澄ましているのです。
 叔母は最初から僕が原稿を書いて食扶持(くいぶち)でも入れるものとでも思ってるんでしょう、僕がペンを持っていると、そんなにして書いたものは一体どうなるの、なんて当擦(あてこす)りを云います。新聞の職業案内欄に出ている「事務員募集」の広告を突き付けて謎を掛けたりします。
 こういう事が繰り返されて見ると、僕は何しに此所へ来たんだか、まるで訳が解らなくなるだけです。僕は変に考えさせられるのです。全く形を成さないこの家の奇怪な生活と、変幻窮(きわま)りなきこの妙な家庭の内情が、朝から晩まで恐ろしい夢でも見ているような気分になって、僕の頭に祟(たた)ってくるんです。それを他に話したって、到底通じっこないと思うと、世界のうちで自分だけが魔に取り巻かれているとしか考えられないので、猶(なお)心細くなるのです、そうして時々は気が狂いそうになるのです。というよりももう気が狂っているのではないかしらと疑がい出すと、堪らなく恐くなって来るのです。土の牢(ろう)の中で苦しんでいる僕には、日光がないばかりか、もう手も足もないような気がします。何となれば、手を挙げても足を動かしても、四方は真黒だからです。いくら訴えても、厚い冷たい壁が僕の声を遮ぎって世の中へ聴こえさせないようにするからです。今の僕は天下にたった一人です。友達はないのです。あっても無いと同じ事なのです。幽霊のような僕の心境に触れて呉れる事の出来る頭脳を有ったものは、有べき筈がないからです。僕は苦しさの余りにこの手紙を書きました。救を求める為に書いたのではありません。僕は貴方の境遇を知っています。物質上の補助、そんなものを貴方の方角から受け取る気は毛頭ないのです。ただこの苦痛の幾分が、貴方の脈管の中に流れている人情の血潮に伝わって、其所に同情の波を少しでも立てて呉れる事が出来るなら、僕はそれで満足です。僕はそれによって、僕がまだ人間の一員として社会に存在しているという確証を握る事が出来るからです。この悪魔の重囲の中から、広々した人間の中へ届く光線は一縷(いちる)もないのでしょうか。僕は今それさえ疑っているのです。そうして僕は貴方から返事が来るか来ないかで、その疑いを決したいのです」
 手紙は此所で終っていた。

百六十五

 その時先刻火を点けて吸い始めた巻烟草の灰が、何時の間にか一寸近くの長さになって、ぽたりと罫紙(けいし)の上に落ちた。津田は竪横(たてよこ)に走る藍色の枠の上に崩れ散ったこの粉末に視覚を刺撃されて、不図気が付いて見ると、彼は烟草を持った手をそれまで動かさずにいた。というより彼の口と手がいつか烟草の存在を忘れていた。その上手紙を読み終ったのと烟草の灰を落したのとは同時でないのだから、二つの間にはさまる茫乎(ぼんやり)したただの時間を認めなければならなかった。
 その空虚な時間は果して何の為に起ったのだろう。元来をいうと、この手紙ほど津田に縁の遠いものはなかった。第一に彼はそれを書いた人を知らなかった。第二にそれを書いた人と小林との関係がどうなっているのか皆目解らなかった。中に述べ立ててある事柄に至ると、まるで別世界の出来事としか受け取れない位、彼の位置及び境遇とは懸け離れたものであった。
 然し彼の感想は其所で尽きる訳に行かなかった。彼は何処かでおやと思った。今まで前の方ばかり眺めて、此所に世の中があるのだと極めて掛った彼は、急に後を振り返らせられた。そうして自分と反対な存在を注視すべく立ち留まった。するとああああこれも人間だという心持が、今日までまだ会った事もない幽霊のようなものを見詰めているうちに起った。極めて縁の遠いものは却って縁の近いものだったという事実が彼の眼前に現われた。
 彼は其所で留まった。そうして低徊(ていかい)した。けれどもそれより先へは一歩も進まなかった。彼は彼相応の意味で、この気味の悪い手紙を了解したというまでであった。
 彼が原稿紙から烟草の灰を払い落した時、原を相手に何か話し続けていた小林はすぐ彼の方を向いた。用談を切り上げるためらしい言葉がただ一句彼の耳に響いた。
「なに大丈夫だ。そのうちどうにかなるよ、心配しないでも可いや」
 津田は黙って手紙を小林の方へ出した。小林はそれを受け取る前に訊いた。
「読んだか」
「うん」
「どうだ」
 津田は何とも答えなかった。然し一応相手の注意を確かめて見る必要を感じた。
「一体何のためにそれを僕に読ませたんだ」
 小林は反問した。
「一体何の為に読ませたと思う」
「僕の知らない人じゃないか、それを書いた人は」
「無論知らない人さ」
「知らなくっても可いとして、僕に何か関係があるのか」
「この男がか、この手紙がか」
「何方(どっち)でも構わないが」
「君はどう思う」
 津田は又躊躇した。実を云うと、それは手紙の意味が彼に通じた証拠であった。もっと明瞭にいうと、自分は自分なりにその手紙を解釈する事が出来たという自覚が彼の返事を鈍らせたのと同様であった。彼はしばらくして云った。
「君のいう意味なら、僕には全く無関係だろう」
「僕のいう意味とは何だ?」
「解らないか」
「解らない。云ってみろ」
「いや、――まあ止そう」
 津田は先刻の絵と同じ意味で、小林がこの手紙を自分の前に突き付けるのではなかろうかと疑った。何でもかでも彼を物質上の犠牲者にし終(おお)せた上で、後から様(ざま)を見ろ、とうとう降参したじゃないかという態度に出られるのは、彼に取って忍ぶべからざる侮辱であった。いくら貧乏の幽霊で威嚇(おどか)したってその手に乗るものかという彼の気概が、自然小林の上に働らき掛けた。
「それより君の方でその主意を男らしく僕に説明したら可いじゃないか」
「男らしく? ふん」と云って一旦言葉を句切った小林は、後から付け足した。
「じゃ説明して遣ろう。この人もこの手紙も、乃至(ないし)この手紙の中味も、凡て君には無関係だ。但し世間的に云えばだぜ、可いかね。世間的という意味をまた誤解すると不可いから、序(ついで)にそれも説明して置こう。君はこの手紙の内容に対して、俗社会に所謂(いわゆる)義務というものを帯びていないのだ」
「当り前じゃないか」
「だから世間的には無関係だと僕の方でも云うんだ。然し君の道徳観をもう少し大きくして眺めたらどうだい」
「いくら大きくしたって、金を遣らなければならないという義務なんか感じやしないよ」
「そうだろう、君の事だから。然し同情心はいくらか起るだろう」
「そりゃ起るに極ってるじゃないか」
「それで沢山なんだ、僕の方は。同情心が起るというのは詰り金が遣りたいという意味なんだから。それでいて実際は金が遣りたくないんだから、其所に良心の闘いから来る不安が起るんだ。僕の目的はそれでもう充分達せられているんだ」
 こう云った小林は、手紙を隠袋(ポケット)へ仕舞い込むと同時に、同じ場所から先刻の紙幣を三枚とも出して、それを食卓の上へ並べた。
「さあ取り給え。要るだけ取り給え」

百六十六

 小林の所作は津田に取って全くの意外であった。突然毒気を抜かれた所に十分以上の皮肉を味わわせられた彼の心は、相手に向かって踊った。憎悪の電流とでも云わなければ形容の出来ないものが、咄嗟の間に彼の身体を通過した。
 同時に聡明な彼の頭に一種の疑が閃めいた。
「此奴等(こいつら)二人は共謀(ぐる)になって先刻(さっき)からおれを馬鹿にしているんじゃないからしら」
 こう思うのと、大通りの角で立談(たちばなし)をしていた二人の姿と、此所へ来てからの小林の挙動と、途中から入って来た原の様子と、その後三人の間に起った談話の遣取(やりとり)とが、何方(どれ)が原因とも何方が結果とも分らないような迅速の度合で、津田の頭の中を仕懸(しかけ)花火のようにくるくると廻転(かいてん)した。彼は白い食卓布(テーブルクロース)の上に、行儀よく順次に並べられた新らしい三枚の十円紙幣を見て、思わず腹の中で叫んだ。
「これがこの摺れッ枯らしの拵え上げた狂言の落所(おち)だったのか。馬鹿奴(め)、そう貴様の思わく通りにさせて堪(たま)るものか」
 彼は傷けられた自分のプライドに対しても、この不名誉な幕切に一転化を与えた上で、二人と別れなければならないと考えた。けれどもどうしたらこう最後まで押し詰められて来た不利な局面を、今になって、旨くどさりと引繰り返す事が出来るかの問題になると、予(あらかじ)めその辺の準備をして置かなかった彼は、全くの無能力者であった。
 外観上の落付を比較的平気そうに保っていた彼の裏側には、役にも立たない機智(きち)の作用が、はげしく往来した。けれどもその混雑はただの混雑に終るだけで、何等の帰着点を彼に示して呉れないので、むらむらとした後の彼の心は、徒ずらにわくわくするだけであった。そのわくわくが何時の間にか狼狽(ろうばい)の姿に進化しつつある事さえ、残念ながら彼には意識された。
 この危機一髪という間際に、彼は又思い懸けない現象に逢着(ほうちゃく)した。それは小林の並べた十円紙幣が青年芸術家に及ぼした影響であった。紙幣の上に落された彼の眼から出る異様の光であった。其所には驚ろきと喜びがあった。一種の飢渇(きかつ)があった。[掴](つか)み掛ろうとする欲望の力があった。そうしてその驚ろきも喜びも、飢渇も欲望も、一々真その物の発現であった。作りもの、拵え事、馴れ合いの狂言とは、どうしても受け取れなかった。少くとも津田にはそうとしか思えなかった。
 その上津田のこの判断を確めるに足る事実が後から継いで起った。原はそれ程欲しそうな紙幣(さつ)へ手を出さなかった。と云って断然小林の親切を斥(しり)ぞける勇気も示さなかった。出したそうな手を遠慮して出さずにいる苦痛の色が、ありありと彼の顔付で読まれた。もしこの蒼白い青年が、遂に紙幣(さつ)の方へ手を出さないとすると、小林の拵えた折角の狂言も半分は打(ぶ)ち壊しになる訳であった。もし又小林が一旦隠袋(ポケット)から出した紙幣(さつ)を、当初の宣告通り、幾分でも原の手へ渡さずに、再び故(もと)へ収めたなら、結果は一層の喜劇に変化する訳であった。何方(どっち)にしても自分の体面を繕うのには便宜な方向へ発展して行きそうなので、其所に一縷の望を抱いた津田は、もう少し黙って事の成行を見る事に極めた。
 やがて二人の間に問答が起った。
「何故取らないんだ、原君」
「でも余(あん)まり御気の毒ですから」
「僕は僕で又君の方を気の毒だと思ってるんだ」
「ええ、どうも有難う」
「君の前に坐ってるその男は男で又僕の方を気の毒だと思ってるんだ」
「はあ」
 原はさっぱり通じないらしい顔をして津田を見た。小林はすぐ説明した。
「その紙幣は三枚共、僕が今その男から貰ったんだ。貰い立てのほやほやなんだ」
「じゃ猶どうも……」
「猶どうもじゃない。だからだ。だから僕も安々と君に遣れるんだ。僕が安々と君に遣れるんだから、君も安々と取れるんだ」
「そういう論理(ロジック)になるかしら」
「当り前さ。もしこれが徹夜して書き上げた一枚三十五銭の原稿から生れて来た金なら、何ぼ僕だって、少しは執着が出るだろうじゃないか。額からぽたぽた垂れる膏汗(あぶらあせ)に対しても済まないよ。然しこれは何でもないんだ。余裕が空間に吹き散らして呉れる浄財だ。拾ったものが功徳(くどく)を受ければ受ける程余裕は喜こぶだけなんだ。ねえ津田君そうだろう」
 忌々(いまいま)しい関所をもう通り越していた津田は、却って好い所で相談を掛けられたと同じ事であった。鷹揚(おうよう)な彼の一諾は、今夜此所に落ち合った不調和な三人の会合に、少くとも形式上体裁の好い結末を付けるのに充分であった。彼は醜陋(しゅうろう)に見える自分の退却を避けるために眼前の機会を捕えた。
「そうだね。それが一番可いだろう」
 小林は押問答の末、とうとう三枚のうち一枚を原の手に渡した。残る二枚を再び故(もと)の隠袋(ポケット)へ収める時、彼は津田に云った。
「珍らしく余裕が下から上へ流れた。けれども此所から上へはもう逆戻りをしないそうだ。だから矢っ張り君に対してサンクスだ」
 表へ出た三人は濠端(ほりばた)へ来て、電車を待ち合せる間大きな星月夜を仰いだ。

百六十七

 間もなく三人は離れ離れになった。
「じゃ失敬、僕は停車場へ送って行かないよ」
「そうか、来たって可さそうなものだがね。君の旧友が朝鮮へ行くんだぜ」
「朝鮮でも台湾でも御免だ」
「情合(じょうあい)のない事夥(おびた)だしいものだ。そんなら立つ前にもう一遍此方(こっち)から暇乞(いとまごい)に行くよ、可いかい」
「もう沢山だ、来て呉れなくっても」
「いや行く。でないと何だか気が済まないから」
「勝手にしろ。然し僕は居ないよ、来ても。明日から旅行するんだから」
「旅行? 何処へ」
「少し静養の必要があるんでね」
「転地か、洒落(しゃれ)てるな」
「僕に云わせると、これも余裕の賜物(たまもの)だ。僕は君と違って飽くまでもこの余裕に感謝しなければならないんだ」
「飽くまでも僕の注意を無意味にして見せるという気なんだね」
「正直の所を云えば、まあ其所(そこ)いらだろうよ」
「よろしい、何方が勝つかまあ見ていろ。小林に啓発されるよりも、事実その物に戒飭(かいちょく)される方が、遥かに覿面(てきめん)で切実で可いだろう」
 これが別れる時二人の間に起った問答であった。然しそれは宵から持ち越した悪感情、津田が小林に対して日暮以来貯蔵して来た悪感情、の発現に過ぎなかった。これで幾分か溜飲(りゅういん)が下りたような気のした津田には、相手の口から出た最後の言葉などを考える余地がなかった。彼は理非の如何(いかん)に関わらず、意地にも小林如きものの思想なり議論なりを、切って棄てなければならなかった。一人になった彼は、電車の中ですぐ温泉場の様子などを想像に描き始めた。
 明(あく)る朝は風が吹いた。その風が疎(まば)らな雨の糸を筋違(すじかい)に地面の上へ運んで来た。
「厄介だな」
 時間通りに起きた津田は、縁鼻から空を見上げて眉を寄せた。空には雲があった。そうしてその雲は眼に見える風のように断えず動いていた。
「ことによると、お午(ひる)位から晴れるかも知れないわね」
 お延は規定の計画を遂行する方に賛成するらしい言葉つきを見せた。
「だって一日後(おく)れると一日徒為(むだ)になるだけですもの。早く行って帰って来て頂く方が可いわ」
「おれもその積だ」
 冷たい雨によって乱されなかった夫婦間の取極(とりきめ)は、出立間際になって、始めて少しの行違(ゆきちがい)を生じた。箪笥(たんす)の抽斗(ひきだし)から自分の衣装を取り出したお延は、それを夫の洋服と並べて渋紙の上へ置いた。津田は気が付いた。
「お前は行かないでも可いよ」
「何故」
「何故って訳もないが、この雨の降るのに御苦労千万じゃないか」
「ちっとも」
 お延の言葉があまりに無邪気だったので、津田は思わず失笑した。
「来て貰うのが迷惑だから断るんじないよ。気の毒だからだよ。高(たか)が一日と掛らない所へ行くのに、わざわざ送って貰うなんて、少し滑稽だからね。小林が朝鮮へ立つんでさえ、おれは送って行かないって、昨夜(ゆうべ)断っちまった位だ」
「そう、でもあたし宅(うち)にいたって、何(なん)にもする事がないんですもの」
「遊んでおいでよ。構わないから」
 お延がとうとう苦笑して、争う事を已(や)めたので、津田は一人俥(くるま)を駆って宅を出る事が出来た。
 周囲の混雑と対照を形成(かたちづく)る雨の停車場(ステーション)の侘(わび)しい中に立って、津田が今買ったばかりの中等切符を、ぼんやり眺めていると、一人の書生が突然彼の前へ来て、旧知己のような挨拶をした。
「生憎(あいにく)なお天気で」
 それはこの間始めて見た吉川の書生であった。取次に出た時玄関で会った余所々々(よそよそ)しさに引き換えて、今日は鳥打を脱ぐ態度からしてが丁寧であった。津田は何の意味だか一向気が付かなかった。
「何方(どなた)かどちらへか入らっしゃるんですか」
「いいえ、一寸お見送りに」
「だから何方を」
 書生は弱らせられたような様子をした。
「実は奥さまが、今日は少し差支(さしつかえ)があるから、これを持って代りに行って来て呉れと仰(おっ)しゃいました」
 書生は手に持った果物の籃(かご)を津田に示した。
「いやそりゃどうも、恐れ入りました」
 津田はすぐその籃を受け取ろうとした。然し書生は渡さなかった。
「いえ私が列車の中まで持って参ります」
 汽車が出る時、黙って丁寧に会釈(えしゃく)をした書生に、「どうぞ宜しく」と挨拶を返した津田は、比較的込み合わない車室の一隅(いちぐう)に、ゆっくりと腰を卸しながら、「矢っ張りお延に来て貰わない方が可(よ)かったのだ」と思った。

百六十八

 お延の気を利かして外套の隠袋(かくし)へ入れて呉れた新聞を津田が取り出して、何時(いつ)もより念入りに眼を通している頃に、窓外の空模様は段々悪くなって来た。先刻(さっき)まで疎(まば)らに眺められた雨の糸が急に数を揃えて、見渡す限(かぎり)の空間を一度に充たして来る様子が、比較的展望に便利な汽車の窓から見ると、一層凄(すさ)まじく感ぜられた。
 雨の上には濃い雲があった。雨の横にも眼界の遮(さえ)ぎられない限りは雲があった。雲と雨との隙間なく連続した広い空間が、津田の視覚を一杯に冒した時、彼は荒涼なる車外の景色と、その反対に心持よく設備の行き届いた車内の愉快とを思い較べた。身体を安逸の境(さかい)に置くという事を文明人の特権のように考えている彼は、この雨を衝(つ)いて外部(そと)へ出なければならない午後の心持を想像しながら、独り肩を竦(すく)めた。すると隣りに腰を掛けて、ぽつりぽつりと窓硝子(まどガラス)を打つたびに、点滴の珠を表面に残して砕けて行く雨の糸を、ぼんやり眺めていた四十恰好の男が少し上半身を前へ屈(かが)めて、向側に胡座(あぐら)を掻いている伴侶(つれ)に話し掛けた。然し雨の音と汽車の音が重なり合うので、彼の言葉は一度で相手に通じなかった。
「非道(ひど)く降って来たね。この様子じゃまた軽便の路(みち)が壊れやしないかね」
 彼は仕方なしに津田の耳へも入るような大きな声を出してこう云った。
「なに大丈夫だよ。なんぼ名前が軽便だって、そう軽便に壊れられた日にゃ乗るものが災難だあね」
 これが相手の答であった。相手というのは羅紗(ラシャ)の道行(みちゆき)を着た六十恰好の爺さんであった。頭には唐物屋(とうぶつや)を探しても見当りそうもない変な鍔(つば)なしの帽子を被(かぶ)っていた。烟草入(たばこいれ)だの、唐桟(とうざん)の小片(こぎれ)だの、古代更紗(こだいさらさ)だの、そんなものを器用にきちんと並べ立てて見世を張る袋物屋へでも行って、わざわざ注文しなければ、到底頭へ載せる事の出来そうもないその帽子の主人は、彼の言葉遣いで東京生れの証拠を充分に挙げていた。津田は服装に似合わない思いの外闊達(かったつ)なこの爺さんの元気に驚ろくと同時に、何方(どっち)かというと、ベランメーに接近した彼の口の利き方にも意外を呼んだ。
 この挨拶のうちに偶然使用された軽便という語は、津田に取ってたしかに一種の暗示であった。彼は午後の何時間かをその軽便に揺られる転地者であった。ことによると同じ方角へ遊びに行く連中(れんじゅう)かも知れないと思った津田の耳は、彼等の談話に対して急に鋭敏になった。転席の余地がないので、不便な姿勢と図抜けた大声を忍ばなければならなかった二人の云う事は一々津田に聴こえた。
「こんな天気になろうとは思わなかったね。これならもう一日延ばした方が楽だった」
 中折に駱駝(らくだ)の外套を着た落付のある男の方がこういうと、爺さんはすぐ答えた。
「何高が雨だあね。濡れると思やあ、何でもねえ」
「だが荷物が厄介だよ。あの軽便へ雨曝(あまざら)しのまま載せられる事を考えると、少し心細くなるから」
「じゃおいらの方が雨曝しになって、荷物だけを室(へや)の中へ入れて貰う事にしよう」
 二人は大きな声を出して笑った。その後で爺さんが又云った。
「尤もこの前のあの騒ぎがあるからね。途中で汽罐(かま)へ穴が開いて動(いご)けなくなる汽車なんだから、全くの所心細いにゃ違ない」
「あの時ゃどうして向うへ着いたっけ」
「なに彼方(あっち)から来る奴を山の中程で待ち合せてさ。その方の汽罐(かま)で引っ張り上げて貰ったじゃないか」
「成程ね、だが汽罐を取り上げられた方の車はどうしたっけね」
「違(ちげ)えねえ、此方で取り上げりゃ、向うは困らあ」
「だからさ、取り残された方の車はどうしたろうっていうのさ。まさか他(ひと)を救って、自分は立往生って訳もなかろう」
「今になって考えりゃ、それもそうだがね、あの時ゃ、てんで向うの車の事なんか考えちゃいられなかったからね。日は暮れかかるしさ、寒さは身に染みるしさ。顫(ふる)えちまわあね」
 津田の推測は段々慥(たしか)になって来た。二人はその軽便の通じている線路の左右にある三ヵ所の温泉場のうち、何処かへ行くに違ないという鑑定さえ付いた。それにしてもこれから自分の身を二時間なり三時間なり委せようとするその軽便が、彼等のいう通り乱暴至極のものならば、この雨中(うちゅう)どんな災難に会わないとも限らなかった。けれども其所には東京ものの持って生れた誇張というものがあった。そんなに不完全なものですかと訊いて見ようとして其所に気の付いた津田は、腹の中で苦笑しながら、質問を掛ける手数を省いた。そうして今度は清子とその軽便とを聯結(れんけつ)して「女一人でさえ楽々往来が出来る所だのに」と思いながら、面白半分にする興味本位の談話には、それぎり耳を貸さなかった。

百六十九

 汽車が目的の停車場に着く少し前から、三人によって気遣われた天候が次第に穏かになり始めた時、津田は雨の収まり際の空を眺めて、其所に忙がしそうな雲の影を認めた。その雲は汽車の走る方角と反対の側に向って、ずんずん飛んで行った。そうして後から後からと、恰(あたか)も前に行くものを追懸(おっかけ)るように、隙間(すきま)なく詰め寄せた。その内動く空の中に、稍(やや)明るい所が出来てきた。外の部分より比較的薄く見える箇所が次第に多くなった。就中(なかんずく)一角はもう少しすると風に吹き破られて、破れた穴から青い輝きを洩らしそうな気配を示した。
 思ったより自分に好意を有って呉れた天候の前に感謝して、汽車を下りた津田は、其所からすぐ乗り換えた電車の中で、又先刻会った二人伴(づれ)の男を見出した。果して彼の思わく通り、自分と同じ見当へ向いて、同じ交通機関を利用する連中だと知れた時、津田は気を付けて彼等の手荷物を注意した。けれども彼等の雨曝(あまざら)しになるのを苦に病んだ程の大崇(おおがさ)なものは何処にも見当らなかった。のみならず、爺さんは自分が先刻云った事さえもう忘れているらしかった。
「有難い、大当りだ。だから矢っ張行こうと思った時に立っちまうに限るよ。これで愚図々々して東京にいて御覧な。ああ詰らねえ、こうと知ったら、思い切って今朝立っちまえば可かったと後悔するだけだからね」
「そうさ。だが東京も今頃はこの位好(い)い天気になってるんだろうか」
「そいつあ行って見なけりゃ、一寸(ちょいと)分らねえ。何なら電話で訊いて見るんだ。だが大体(たいてい)間違はないよ。空は日本中何処へ行ったって続いてるんだから」
 津田は少し可笑しくなった。すると爺さんがすぐ話し掛けた。
「貴方も湯治場へ入らっしゃるんでしょう。どうも大方そうだろうと思いましたよ。先刻(さっき)から」
「何故ですか」
「何故って、そういう所へ遊びに行く人は、様子を見ると、すぐ分りますよ。ねえ」
 彼はこう云って隣りにいつ自分の伴侶(つれ)を顧みた。中折(なかおれ)の人は仕方なしに「ああ」と答えた。
 この天眼通(てんがんつう)に苦笑を禁じ得なかった津田は、それぎり会話を切り上げようとした所、快豁(かいかつ)な爺さんの方で中々彼を放さなかった。
「だが旅行も近頃は便利になりましたね。何処へ行くにも身体一つ動かせば沢山なんですから、有難い訳さ。ことに此方徒等(こちとら)みたいな気の早いものにはお誂向(あつらえむき)だあね。今度だって荷物なんか何にも持って来やしませんや、この合切袋(がっさいぶくろ)とこの大将のあの鞄を差し引くと、残るのは命ばかりといいたい位のものだ。ねえ大将」
 大将の名をもって呼ばれた人は又「ああ」と答えたぎりであった。これだけの手荷物を車室内へ持ち込めないとすれば、彼等の所謂(いわゆる)「軽便」なるものは、余程込(こ)み合うのか、さもなければ、常識をもって測るべからざる程度に於(おいて)て不完全でなければならなかった。其所を確かめて見ようかと思った津田は、すぐ確かめても仕方がないという気を起して黙ってしまった。
 電車を下りた時、津田は二人の影を見失った。彼は停留所の前にある茶店で、写真版だの石版だのと、思い思いに意匠を凝らした温泉場の広告絵を眺めながら、昼食(ちゅうじき)を認(した)ためた。時間から云って、平常より一時間以上も後れていたその昼食は、膳を貧(むさ)ぼる人としての彼を思う存分に発揮させた。けれども発車は目前に逼っていた。彼は箸を投げると共にすぐまた軽便に乗り移らなければならなかった。
 基点に当る停車場(ステーション)は、彼の休んだ茶店のすぐ前にあった。彼は電車よりも狭いその車を眼の前に見つつ、下女から支度料の剰銭(つり)を受取ってすぐ表へ出た。切符に鋏(はさみ)を入れて貰う所と、プラットフォームとの間には距離というものが殆んどなかった。五六歩動くとすぐ足を掛ける階段へ届いてしまった。彼は車室のなかで、又先刻の二人連れと顔を合せた。
「やあお早うがす。此方(こっち)へお掛けなさい」
 爺さんは腰をずらして津田の為に、彼の腕に抱えて来た膝掛(ひざかけ)を敷く余地を拵(こしら)えて呉れた。
「今日は空(す)いてて結構です」
 爺さんは避寒避暑二様の意味で、暮から正月へ掛けて、それから七八二月(ふたつき)に渉(わた)って、この線路に集ってくる湯治客の、どんなに雑沓(ざっとう)するかをさも面白そうに例の調子で話して聴かせた後で、自分の同伴者を顧みた。
「あんな時に女なんか伴(つ)れてくるのは実際罪だよ。尻が大きいから第一乗り切れねえやね。そうしてすぐ酔うから困らあ。鮨(すし)のように押し詰められてる中で、吐いたり戻したりさ。見っともねえ事ったら」
 彼は自分の傍に腰を掛けている若い婦人の存在をまるで忘れているらしい口の利き方をした。

百七十

 軽便の中でも、津田の平和は稍(やや)ともすると年を取ったこの楽天家のために乱されそうになった。これから目的地へ着いた時の様子、その様子次第で取るべき自分の態度、そんなものが想像に描き出された旅舘(りょかん)だの山だの渓流だのの光景のうちに、取り留めもなくちらちら動いている際などに、老人は急に彼を夢の裡(うち)から叩(たた)き起した。
「まだ仮橋(かりばし)のままで遣ってるんだから、呑気なものさね。御覧なさい、土方があんなに働らいてるから」
 本式の橋が去年の出水(でみず)で押し流されたまままだ出来上らないのを、老人はさも会社の怠慢ででもあるように罵(ののし)った後で、海へ注ぐ河の出口に、新らしく作られた一構(ひとかまえ)の家を指して、又津田の注意を誘い出そうとした。
「あの家(うち)も去年波で浚(さら)われちまったんでさあ。でもすぐあんなに建てやがったから、軽便より少しゃ感心だ」
「この夏の避暑客を取り逃さないためでしょう」
「此所いらで一夏休むと、大分応えるからね。矢っ張り慾(よく)がなくっちゃ、何でも手っ取り早く仕事は片付かないものさね。この軽便だってそうでしょう、貴方、なまじいあの仮橋で用が足りてるもんだから、会社の方で、何時までも横着を極め込みやがって、掛け易(か)えねえんでさあ」
 津田は老人の人生観に一も二もなく調子を合すべく余儀なくされながら、談話の途切れ目には、眼を眠るように構えて、自分自身に勝手な事を考えた。
 彼の頭の中は纏まらない断片的な映像(イメジ)のために絶えず往来された。その中には今朝見たお延の顔もあった。停車場(ステーション)まで来て呉れた吉川の書生の姿も動いた。彼の車室内へ運んで呉れた果物の籃(かご)もあった。その蓋(ふた)を開けて、二人の伴侶(つれ)に夫人の贈物(おくりもの)を配(わか)とうかという意志も働いた。その所作から起る手数(てかず)だの煩わしさだの、此方(こっち)の好意を受け取る時、相手の遣りかねない仰山な挨拶も鮮やかに描き出された。すると爺さんも中折も急に消えて、その代り肥(ふと)った吉川夫人の影法師が頭の闥(たつ)を拝してつかつか這入(はい)って来た。連想はすぐこれから行こうとする湯治場の中心点になっている清子に飛び移った。彼の心は車と共に前後へ揺れ出した。
 汽車という名を付けるのは勿体(もったい)ない位な車は、すぐ海に続いている勾配の急な山の中途を、危なかしくがたがた云わして駆けるかと思うと、何時の間にか山と山の間に割り込んで、幾度も上ったり下ったりした。その山の多くは隙間なく植付けられた蜜柑の色で、暖かい南国の秋を、美くしい空の下に累々(るいるい)と点綴(てんてつ)していた。
「あいつは旨そうだね」
「なに根っから旨くないんだ、此所から見ている方が余っ程綺麗だよ」
 比較的嶮(けわ)しい曲りくねった坂を一つ上った時、車は忽(たちま)ち留まった。停車場でもない其所に見えるものは、多少の霜に彩(いろ)どられた雑木だけであった。
「どうしたんだ」
 爺さんがこう云って窓から首を出していると、車掌だの運転手だのが急に車から降りて、しきりに何か云い合った。
「脱線です」
 この言葉を聞いた時、爺さんはすぐ津田と自分の前にいる中折を見た。
「だから云わねえこっちゃねえ。屹度(きっと)何かあるに違(ちがい)ねえと思ってたんだ」
 急に予言者らしい口吻(こうふん)を洩(もら)した彼は、愈(いよいよ)自分の駄弁を弄(ろう)する時機が来たと云わぬばかりに乾燥(はしゃ)ぎ出した。
「どうせ家を出る時に、水盃(みずさかずき)は済まして来たんだから、覚悟はとうから極(き)めてるようなものの、いざとなって見ると、こんな所で弁慶の立往生は御免蒙(こうむ)りたいからね。といって何時(いつ)までこう遣って待ってたって、中々元へ戻して呉れそうもなしと。何しろ日の短かい上へ持って来て、気が短かいと来てるんだから、安閑としちゃいられねえ。――どうです皆さん一つ降りて車を押して遣ろうじゃありませんか」
 爺さんはこう云いながら元気よく真先に飛び降りた。残るものは苦笑しながら立ち上った。津田も独り室内に坐っている訳に行かなくなったので、みんなと一所に地面の上へ降り立った。そうして黄色に染められた芝草の上に、あっけらかんと立っている婦人を後(うしろ)にして、うんうん車を押した。
「や、不可(いけね)え、行き過ぎちゃった」
 車は又引き戻された。それから又前へ押し出された。押し出したり引き戻したり二三度するうちに、脱線は漸(ようや)く片付いた。
「又後れちまったよ、大将、お蔭で」
「誰のお蔭でさ」
「軽便のお蔭でさ。だがこんな事でもなくっちゃ眠くって不可(いけね)えや」
「折角遊びに来た甲斐がないだろう」
「全くだ」
 津田は後れた時間を案じながら、教えられた停車場で、この元気の好い老人と別れて、一人薄暮(ゆうぐれ)の空気の中に出た。

百七十一

 靄(もや)とも夜の色とも片付かないものの中にぼんやり描き出された町の様はまるで寂寞(せきばく)たる夢であった。自分の四辺にちらちらする弱い電燈の光と、その光の届かない先に横わる大きな闇の姿を見較べた時の津田には慥(たし)かに夢という感じが起った。
「おれは今この夢みたようなものの続きを辿(たど)ろうとしている。東京を立つ前から、もっと几帳面に云えば、吉川夫人にこの温泉行を勧められない前から、いやもっと深く突き込んで云えば、お延と結婚する前から、――それでもまだ云い足りない、実は突然清子に脊中を向けられたその刹那から、自分はもう既にこの夢のようなものに祟(たた)られているのだ。そうして今丁度その夢を追懸(おっかけ)ようとしている途中なのだ。顧みると過去から持ち越したこの一条(ひとすじ)の夢が、これから目的地へ着くと同時に、からりと覚めるのかしら。それは吉川夫人の意見であった。従って夫人の意見に賛成し、またそれを実行する今の自分の意見でもあると云わなければなるまい。然しそれは果して事実だろうか。自分の夢は果して綺麗に拭(ぬぐ)い去られるだろうか。自分は果してそれだけの信念を有って、この夢のようにぼんやりした寒村の中に立っているのだろうか。眼に入る低い軒、近頃砂利を敷いたらしい狭い道路、貧しい電燈の影、傾むきかかった藁屋根(わらやね)、黄色い幌(ほろ)を下した一頭立の馬車、――新とも旧とも片の付けられないこの一塊(ひとかたまり)の配合を、猶の事夢らしく粧(よそお)っている肌寒と夜寒と暗闇、――すべて朦朧たる事実から受けるこの感じは、自分が此所まで運んで来た宿命の象徴じゃないだろうか。今までも夢、今も夢、これから先も夢、その夢を抱いてまた東京へ帰って行く。それが事件の結末にならないとも限らない。いや多分はそうなりそうだ。じゃ何のために雨の東京を立ってこんな所まで出掛て来たのだ。畢竟(ひっきょう)馬鹿だから? 愈(いよいよ)馬鹿と事が極まりさえすれば、此所からでも引き返せるんだが」
 この感想は一度に来た。半分と掛らないうちに、これだけの順序と、段落と、論理と、空想を具(そな)えて、抱き合うように彼の頭の中を通過した。然しそれから後の彼はもう自分の主人公ではなかった。何処から来たとも知れない若い男が突然現われて、彼の荷物を受け取った。一分の猶予なく彼をすぐ前にある茶店の中へ引き込んで、彼の行こうとする宿屋の名を訊いたり、馬車に乗るか俥にするかを確かめたりした上に、彼の予期していないような愛嬌さえ、自由自在に忙がしい短時間の間に操縦して退(の)けた。
 彼はやがて否応(いやおう)なしにズックの幌を下した馬車の上へ乗せられた。そうして御免といいながら自分の前に腰を掛ける先刻(さっき)の若い男を見出(みいだ)すべく驚ろかされた。
「君も一所に行くのかい」
「へい、御邪魔でも、どうか」
 若い男は津田の目指している宿屋の手代(てだい)であった。
「此所に旗が立っています」
 彼は首を曲げて御者(ぎょしゃ)台の隅に挿し込んである赤い小旗を見た。暗いので中に染め抜かれた文字は津田の眼に入らなかった。旗はただ馬車の速力で起す風のために、彼の座席の方へはげしく吹かれるだけであった。彼は首を縮めて外套の襟を立てた。
「夜中(やちゅう)はもう大分お寒くなりました」
 御者台を脊中に脊負(しょ)ってる手代は、位地の関係から少しも風を受けないので、この云い草は何となく小賢(こざか)しく津田の耳に響いた。
 道は左右に田を控えているらしく思われた。そうして道と田の境目には小河(おがわ)の流れが時々聞こえるように感ぜられた。田は両方とも狭く細く山で仕切られているような気もした。
 津田は帽子と外套の襟で隠し切れない顔の一部分だけを風に曝(さら)して、寒さに抵抗でもするように黙想の態度を手代に示した。手代もその方が便利だと見えて、強いて向うから口を利こうともしなかった。
 すると突然津田の心が揺(うご)いた。
「お客は沢山いるかい」
「へえ有難う、お蔭さまで」
「何人位」
 何人とも答えなかった手代は、却って弁解がましい返事をした。
「只今は生憎季節が季節だもんでげすから、あんまりお出(いで)が御座いません。寒い時は暮からお正月へ掛けまして、それから夏場になりますと、まあ七八二月(ふたつき)ですな、繁昌するのは。そんな時にゃ臨時のお客さまを御断りする事が、毎日のように御座います」
「じゃ今が丁度閑な時なんだね、そうか」
「へえ、どうぞ御緩(ごゆっ)くり」
「有難う」
「やっぱり御病気のためにわざわざお出なんで」
「うんまあそうだ」
 清子の事を訊く目的で話し始めた津田は、此所へ来て急に痞(つか)えた。彼は気がさした。彼女の名前を口にするに堪えなかった。その上後で面倒でも起ると悪いとも思い返した。手代から顔を離して馬車の脊に倚(よ)りかかり直した彼は、再び沈黙の姿勢を回復した。

百七十二

 馬車はやがて黒い大きな岩のようなものに突き当ろうとして、その裾をぐるりと廻り込んだ。見ると反対の側にも同じ岩の破片とも云うべきものが不行儀に路傍を塞いでいた。台上から飛び下りた御車はすぐ馬の口を取った。
 一方には空を凌ぐほどの高い樹が聳(そび)えていた。星月夜の光に映る物凄い影から判断すると古松(こしょう)らしいその木と、突然一方に聞こえ出した奔湍(ほんたん)の音とが、久しく都会の中を出なかった津田の心に不時の一転化を与えた。彼は忘れた記憶を思い出した時のような気分になった。
「ああ世の中には、こんなものが存在していたのだっけ、どうして今までそれを忘れていたのだろう」
 不幸にしてこの述懐は孤立のまま消滅する事を許されなかった。津田の頭にはすぐこれから会いに行く清子の姿が描き出された。彼は別れて以来一年近く経つ今日まで、いまだこの女の記憶を失くした覚がなかった。こうして夜路(よみち)を馬車に揺られて行くのも、有体(ありてい)に云えば、その人の影を一図に追懸(おっかけ)ている所作に違なかった。御者は先刻(さっき)から時間の遅くなるのを恐れる如く、止(よ)せば可いと思うのに、濫(みだ)りなる鞭を鳴らして、しきりに痩馬の尻を打った。失われた女の影を追う彼の心、その心を無遠慮に翻訳すれば、取りも直さず、この痩馬ではないか。では、彼の眼前に鼻から息を吹いている憐れな動物が、彼自身で、それに手荒な鞭を加えるものは誰なのだろう。吉川夫人? いや、そう一概に断言する訳には行かなかった。では矢っ張彼自身? この点で精確な解決を付ける事を好まなかった津田は、問題を其所で投げながら、依然としてそれより先を考えずにはいられなかった。
「彼女に会うのは何の為だろう。永く彼女を記憶するため? 会わなくても今の自分は忘れずにいるではないか。では彼女を忘れるため? 或(あるい)はそうかも知れない。けれども会えば忘れられるだろうか。或はそうかも知れない。或はそうでないかも知れない。松の色と水の音、それは今全く忘れていた山と渓(たに)の存在を憶(おも)い出させた。全く忘れていない彼女、想像の眼先にちらちらする彼女、わざわざ東京から後を跟(つ)けて来た彼女、はどんな影響を彼の上に起すのだろう」
 冷たい山間(やまあい)の空気と、その山を神秘的に黒くぼかす夜の色と、その夜の色の中に自分の存在を呑み尽された津田とが一度に重なり合った時、彼は思わず恐れた。ぞっとした。
 御者は馬の轡(くつわ)を取ったなり、白い泡を岩角に吹き散して鳴りながら流れる早瀬の上に架け渡した橋の上をそろそろ通った。すると幾点の電燈がすぐ津田の眸(ひとみ)に映ったので、彼は忽ちもう来たなと思った。或はその光の一つが、今清子の姿を照らしているのかも知れないとさえ考えた。
「運命の宿火(しゅくか)だ。それを目標(めあて)に辿りつくより外に途(みち)はない」
 詩に乏しい彼は固よりこんな言葉を口にする事を知らなかった。けれどもこう形容して然るべき気分はあった。彼は首を手代の方へ延ばした。
「着いたようじゃないか。君の家はどれだい」
「へえ、もう一丁程奥になります」
 漸(ようや)く馬車の通れる位な温泉(ゆ)の町は狭かった。お負(まけ)に不規則な故意(わざ)とらしい曲折を描いて、御者をして再び車台の上に鞭を鳴らす事を許さなかった。それでも宿へ着くまでに五六分しか掛らなかった。山と谷がそれ程広いという意味で、町はそれ程狭かったのである。
 宿は手代の云った通り森閑としていた。夜の為ばかりでもなく、家の広いためばかりでもなく、全く客の少ない為としか受け取れない程の静かさのうちに、自分の室(へや)へ案内された彼は、好時季に邂逅(めぐりあわ)せて呉れたこの偶然に感謝した。性質から云えば寧ろ人中を択ぶべき筈の彼には都合があった。彼は膳の向うに坐っている下女に訊いた。
「昼間もこの通りかい」
「へえ」
「何だかお客は何処にもいないようじゃないか」
 下女は新舘とか別舘とか本舘とかいう名前を挙げて、津田の不審を説明した。
「そんなに広いのか。案内を知らないものは迷児にでもなりそうだね」
 彼は清子のいる見当を確かめなければならなかった。けれども手代に露骨な質問が掛けられなかった通り、下女にも卒直な尋ね方は出来なかった。
「一人で来る人は少ないだろうね、こんな所へ」
「そうでも御座いません」
「だが男だろう、そりゃ。まさか女一人で逗留(とうりゅう)しているなんてえのはなかろう」
「一人いらっしゃいます、今」
「へえ、病気じゃないか。そんな人は」
「そうかも知れません」
「何という人だい」
 受持が違うので下女は名前を知らなかった。
「若い人かね」
「ええ、若いお美くしい方です」
「そうか、一寸見せて貰いたいな」
「お湯に入らっしゃる時、この室(へや)の横をお通りになりますから、御覧になりたければ、何時でも――」
「拝見出来るか、そいつは有難い」
 津田は女のいる方角だけ教わって、膳を下(さげ)させた

百七十三

 寐る前に一風呂浴びる積で、下女に案内を頼んだ時、津田は始めて先刻彼女から聴かされたこの家の広さに気が付いた。意外な廊下を曲ったり、思いも寄らない階子段を降りたりして、目的の湯壺(ゆつぼ)を眼の前に見出した彼は、実際一人で自分の座敷へ帰れるだろうかと疑った。
 風呂場は板と硝子戸でいくつにか仕切られていた。左右に三つずつ向う合せに並んでいる小型な浴槽の外に、一つ離れて大きいのは、普通の洗湯(せんとう)に比べて倍以上の尺があった。
「これが一番大きくって心持が可いでしょう」と云った下女は、津田の為に擦硝子の篏(はま)った戸をがらがらと開けて呉れた。中には誰もいなかった。湯気が籠るのを防ぐためか、座敷で云えば欄間と云ったような部分にも、矢張り硝子戸の設けがあって、半分程隙かされたその二枚の間から、冷たい一道(いちどう)の夜気が、褞袍(どてら)を脱ぎにかかった津田の身体を、山里らしく襲いに来た。
「ああ寒い」
 津田はざぶんと音を立てて湯壺の中へ飛び込んだ。
「御緩(ごゆっ)くり」
 戸を閉めて出ようとした下女は一旦こう云った後で、又戻って来た。
「まだ下にもお風呂場が御座いますから、もし其方(そちら)の方がお気に入るようでしたら、どうぞ」
 来る時もう階子段を一つか二つ下りている津田には、この浴槽の階下(した)がまだあろうとは思えなかった。
「一体何階なのかね、この家は」
 下女は笑って答えなかった。然し用事だけは云い残さなかった。
「此所の方が新らしくって綺麗は綺麗ですが、お湯は下の方が能く利くのだそうです。だから本当に療治の目的でお出の方はみんな下へ入らっしゃいます。それから肩や腰を滝でお打たせになる事も下なら出来ます」
 湯壺から首だけ出したままで津田は答えた。
「有難う。じゃ今度そっちへ入るから連れてって呉れたまえ」
「ええ。旦那様は何処かお悪いんですか」
「うん、少し悪いんだ」
 下女が去った後の津田は、しばらくの間、「本当に療治の目的で来た客」といった彼女の言葉を忘れる事が出来なかった。
「おれは果してそういう種類の客なんだろうか」
 彼は自分をそう思いたくもあり、又そう思いたくもなかった。何方(どっち)本位で来たのか、それは彼の心が能く承知していた。けれども雨を凌いで此所まで来た彼には、まだ商量の隙間があった。躊躇があった。幾分の余裕が残っていた。そうしてその余裕が彼に教えた。
「今のうちならまだどうでも出来る。本当に療治の目的で来た客になろうと思えばなれる。なろうとなるまいと今のお前は自由だ。自由は何処まで行っても幸福なものだ。その代り何処まで行っても片付かないものだ、だから物足りないものだ。それでお前はその自由を放り出そうとするのか。では自由を失った暁に、お前は何物を確(しか)と手に入れる事が出来るのか。それをお前は知っているのか。御前の未来はまだ現前しないのだよ。お前の過去に合った一条の不可思議より、まだ幾倍かの不可思議を有っているかも知れないのだよ。過去の不可思議を解くために、自分の思い通りのものを未来に要求して、今の自由を放り出そうとするお前は、馬鹿かな利巧かな」
 津田は馬鹿とも利巧とも判断する訳に行かなかった。万事が結果如何で極められようという矢先に、その結果を疑がい出した日には、手も足も動かせなくなるのは自然の理であった。
 彼には最初から三つの途(みち)があった。そうして三つより外に彼の途はなかった。第一は何時までも煮え切らない代りに、今の自由を失わない事、第二は馬鹿になっても構わないで進んで行く事、第三即(すなわ)ち彼の目指す所は、馬鹿にならないで自分の満足の行くような解決を得る事。
 この三ヵ条のうち彼はただ第三だけを目的にして東京を立った。ところが汽車に揺られ、馬車に揺られ、山の空気に冷やされ、烟(けむ)の出る湯壺に漬けられ、愈目的の人は眼前にいるという事実が分り、目的の主意は明日からでも実行に取り掛れるという間際になって、急に第一が顔を出した。すると第二も何時の間にか、微笑して彼の傍(かたわら)に立った。彼等の到着は急であった。けれども騒々しくはなかった。眼界を遮ぎる靄(もや)が、風の音も立てずにすうと晴れ渡る間から、彼は自分の視野を着実に見る事が出来たのである。
 思いの外に浪漫的(ロマンチック)であった津田は、また思いの外に着実であった。そうして彼はその両面の対照に気が付いていなかった。だから自己の矛盾を苦にする必要はなかった。彼はただ決すれば可かった。然し決するまでには胸の中で一(ひと)戦争しなければならなかった。――馬鹿になっても構わない、いや馬鹿になるのは厭だ、そうだ馬鹿になる筈がない。――戦争で一旦片付いたものが、又こういう風に三段となって、最後まで落ちて来た時、彼は始めて立ち上れるのである。
 人のいない大きな浴槽のなかで、洗うとも摩(こす)るとも片の付かない手を動かして、彼はしきりに綺麗な温泉をざぶざぶ使った。

百七十四

 その時不意にがらがらと開けられた硝子戸(ガラスど)の音が、周囲(あたり)をまるで忘れて、自分の中にばかり頭を突込(つっこ)んでいた津田をはっと驚ろかした。彼は思わず首を上げて入口を見た。そうしてそこに半身を現わしかけた婦人の姿を湯気のうちに認めた時、彼の心臓は、合図の警鐘のように、どきんと打った。けれども瞬間に起った彼の予感は、また瞬間に消える事ができた。それは本当の意味で彼を驚ろかせに来た人ではなかった。
 生れてからまだ一度も顔を合せた覚(おぼえ)のないその婦人は、寐掛(ねがけ)と見えて、白昼なら人前を憚(はば)かるような慎(つつ)しみの足りない姿を津田の前に露(あら)わした。尋常の場合では小袖(こそで)の裾(すそ)の先にさえ出る事を許されない、長い襦袢(じゅばん)の派手(はで)な色が、惜気(おしげ)もなく津田の眼をはなやかに照した。
 婦人は温泉烟(ゆけむり)の中に乞食(こじき)のごとく蹲踞(うずくま)る津田の裸体姿(はだかすがた)を一目見るや否や、いったん入りかけた身体(からだ)をすぐ後(あと)へ引いた。
「おや、失礼」
 津田は自分の方で詫(あや)まるべき言葉を、相手に先へ奪(と)られたような気がした。すると階子段(はしごだん)を下りる上靴(スリッパー)の音がまた聴こえた。それが硝子戸の前でとまったかと思うと男女の会話が彼の耳に入った。
「どうしたんだ」
「誰か入ってるの」
「塞(ふさ)がってるのか。好いじゃないか、こんでさえいなければ」
「でも……」
「じゃ小さい方へ入るさ。小さい方ならみんな空(あ)いてるだろう」
「勝(かつ)さんはいないかしら」
 津田はこの二人づれのために早く出て遣(や)りたくなった。同時に是非彼の入っている風呂へ入らなければ承知ができないといった調子のどこかに見える婦人の態度が気に喰(く)わなかった。彼は此所へ入りたければ御勝手にお入んなさい、御遠慮には及びませんからという度胸を据(す)えて、また浴槽の中へ身体を漬(つ)けた。
 彼は脊(せい)の高い男であった。長い足を楽に延ばして、それを温泉(ゆ)の中で上下(うえした)へ動かしながら、透(す)き徹(とお)るもののうちに、浮いたり沈んだりする肉体の下肢(かし)を得意に眺めた。
 時に突然婦人の要する勝さんらしい人の声がし出した。
「今晩は。大変お早うございますね」
 勝さんのこの挨拶には男の答があった。
「うん、あんまり退屈だから今日は早く寐ようと思ってね」
「へえ、もうお稽古はお済みですか」
「お済みって訳でもないが」
 次には女の言葉が聴こえた。
「勝さん、そこは塞がってるのね」
「おやそうですか」
「どこか新らしく拵(こしら)えたのはないの」
「御座います。その代り少し熱いかも知れませんよ」
 二人を案内したらしい風呂場の戸の開く音が、向うの方でした。かと思うと、また津田の浴槽の入口ががらりと鳴った。
「今晩は」
 四角な顔の小作りな男が、またこう云いながら入って来た。
「旦那流しましょう」
 彼はすぐ流しへ下り立って、小判なりの桶へ湯を汲んだ。津田は否応なしに彼に脊中を向けた。
「君が勝さんてえのかい」
「ええ旦那はよく御承知ですね」
「今聴いたばかりだ」
「成程。そう云えば旦那も今見たばかりですね」
「今来たばかりだもの」
 勝さんはははあと云って笑い出した。
「東京からお出ですか」
「そうだ」
 勝さんは何時の下りだの、上りだのという言葉を遣って、津田に正確な答えをさせた。それから一人で来たのかとか、なぜ奥さんを伴れて来なかったのかとか、今の夫婦ものは浜の生糸屋さんだとか、旦那が細君に毎晩義太夫を習っているんだとか、宅(うち)のお上(かみ)さんは長唄が上手だとか、色々の問を掛けると共に、色々の知識を供給した。聴かないでも可(い)い事まで聴かされた津田には、勝さんの触れないものが、たった一つしかないように思われた。そうしてその触れないものは取(とり)も直(なお)さず清子という名前であった。偶然から来たこの結果には、津田にとって多少の物足らなさが含まれていた。勿論(もちろん)津田の方でも水を向ける用意もなかった。そんな暇のないうちに、勝さんはさっさと喋舌(しゃべ)るだけ喋舌って、洗う方を切り上げてしまった。
「どうぞ御緩(ごゆっ)くり」
 こう云って出て行った勝さんの後影(うしろかげ)を見送った津田にも、もう緩くりする必要がなかった。彼はすぐ身体を拭いて硝子戸の外へ出た。しかし濡手拭(ぬれてぬぐい)をぶら下げて、風呂場の階子段を上って、其所にある洗面所と姿見の前を通り越して、廊下を一曲り曲ったと思ったら、果してどこへ帰って可いのか解らなくなった。

百七十五

 最初の彼は殆(ほと)んど気が付かずに歩いた。これが先刻(さっき)下女に案内されて通った路(みち)なのだろうかと疑う心さえ、淡い夢のように、彼の記憶を暈(ぼか)すだけであった。しかし廊下を踏んだ長さに比較して、中々自分の室らしいものの前に出られなかった時に、彼は不図(ふと)立ちどまった。
「はてな、もっと後かしら。もう少し先かしら」
 電燈で照らされた廊下は明るかった。どっちの方角でも行こうとすれば勝手に行かれた。けれども人の足音は何処にも聴えなかった。用事で往来(ゆきき)をする下女の姿も見えなかった。手拭と石[鹸] (シャボン)をそこへ置いた津田は、宅(うち)の書斎でお延を呼ぶ時のように手を鳴らして見た。けれども返事は何処からも響いて来なかった。不案内な彼は、第一下女の溜(たま)りのある見当を知らなかった。個人の住宅と殆んど区別のつかない、植込の突当りにある玄関から上ったので、勝手口、台所、帳場などの所在(ありか)は、凡て彼に取っての秘密と何の択(えら)ぶところもなかった。
 手を鳴らす所作を一二度繰り返して見て、誰も応ずるもののないのを確かめた時、彼は苦笑しながらまた石[鹸] (シャボン)と手拭を取り上(あげ)た。これも一興だという気になった。ぐるぐる廻っているうちには、何時か自分の室(へや)の前に出られるだろうという酔興も手伝った。彼は生れて以来旅舘に於ける始めての経験を故意に味わう人のような心になってまた歩き出した。
 廊下はすぐ尽きた。そこから筋違(すじかい)に二三度上るとまた洗面所があった。きらきらする白い金盥(かなだらい)が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓(せん)の口から流れる山水だか清水だか、絶えずざあざあ落ちるので、金盥は四つが四つともいっぱいになっているばかりか、縁(ふち)を溢(あふ)れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮やかに眺められた。金盥の中の水は後から押されるのと、上から打たれるのとの両方で、静かなうちに微細な震盪(しんとう)を感ずるものの如くに揺れた。
 水道ばかりを使い慣れて来た津田の眼は、すぐ自分の居場所(おりばしょ)を彼に忘れさせた。彼はただ勿体ないと思った。手を出して栓を締めておいてやろうかと考えた時、漸く自分の迂濶(うかつ)さに気がついた。それと同時に、白い瀬戸張のなかで、大きくなったり小さくなったりする不定な渦が、妙に彼を刺戟した。
 あたりは静かであった。膳(ぜん)に向った時下女の云った通りであった。というよりも事実は彼女の言葉を一々首肯(うけが)って、大方このくらいだろうと暗(あん)に想像したよりも遥(はる)かに静かであった。客がどこにいるのかと怪しむどころではなく、人が何処にいるのかと疑いたくなる位であった。その静かさのうちに電灯は隈(くま)なく照り渡った。けれどもこれはただ光るだけで、音もしなければ、動きもしなかった。ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。
 彼はすぐ水から視線を外(そら)した。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据えた。然しそれは洗面所の横に懸けられた大きな鏡に映る自分の影像(イメジ)に過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具え付けけてあるもの位の尺はあった。そうして位地(いち)の都合上、やはり床屋のそれの如くに直立していた。従って彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、猶(なお)鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼かった。彼にはその意味が解(げ)せなかった。久しく刈込を怠った髪は乱れたままで頭に生い被(かぶ)さっていた。風呂で濡らしたばかりの色が漆のように光った。何故だかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。
 彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理(きめ)も男としては勿体ない位濃(こまや)かに出来上っていた。彼は何時でも其所に自信を有っていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だから何時もと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気が先ず彼の心を襲った。凄(すご)くなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、猶の事自分の姿を見詰めた。すぐ二足(ふたあし)ばかり前へ出て鏡の前にある櫛(くし)を取上げた。それからわざと落付いて綺麗に自分の髪を分けた。
 然し彼の所作は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分の室を探す故(もと)の我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段を見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一(さんぶいち)ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈(がんじょう)にできていた。第三に尋常のものと違って、擬(まが)いの西洋舘らしく、一面に假漆(ニス)が塗(かか)っていた。
 胡乱(うろん)なうちにも、この階子段だけは決して先刻(さっき)下りなかったという慥かな記憶が彼にあった。其所を上っても自分の室へは帰れないと気が付いた彼は、もう一遍後戻りをする覚悟で、鏡から離れた身体を横へ向け直した。

百七十六

 するとその二階にある一室の障子を開けて、開けた後をまた閉(た)て切る音が聴えた。階子段(はしごだん)の構えから見ても、上にある室(へや)の数は一つや二つではないらしく思われる程広い建物だのに、今津田の耳に入った音は、手に取るように判切(はっきり)しているので、彼はすぐその確的(たしか)さの度合から押して、室の距離を定める事ができた。
 下から見上げた階子段の上は、普通料理屋の建築などで、人の屡(しばしば)目撃する所と何の異なる所もなかった。其所には広い板の間があった。目の届かない幅は問題外として、突き当りを遮(さえ)ぎる壁を目標(めやす)に置いて、大凡(おおよそ)の見当を付けると、畳一枚を竪(たて)に敷くだけの長さは充分あるらしく見えた。この板の間から、廊下が三方へ分れているか、あるいは二方に折れ曲っているか、そこは階段を上らない津田の想像で判断するより外に途(みち)はないとして、今聴(きこ)えた障子の音の出所(でどころ)は、一番階段に近い室、すなわち下(し)たから見える壁のすぐ後(うしろ)に違なかった。
 ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼は漸く人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟に気を奪(と)られていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇(よみがえ)った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児(まご)ついている今の自分に付着する間抜さ加減を他(ひと)に見せるのが厭だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己れの醜くさを人前に曝(さら)すのが耻ずかしかったからでもある。
 けれども自然の成行はもう少し複雑であった。一旦歩を回(めぐ)らそうとした刹那に彼は気が付いた。
「ことによると下女かも知れない」
 こう思い直した彼の度胸は忽ち回復した。既に驚ろきの上を超える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。
「誰でも可い、来たら方角を教えて貰おう」
 彼は決心して姿見の横に立ったまま、階子段の上を見詰めた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵(かかと)へ跳ね上る上靴(スリッパー)の薄い尾がなかったなら、彼は遂にそれを聴き逃してしまわなければならない程静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。
「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」
 不意にこう感づいた彼の前に、若しやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚われた津田の足は忽ち立ち竦んだ。眼は動かなかった。
 同じ作用が、それ以上強烈に清子をその場に抑え付けたらしかった。階上の板の間まで来て其所でぴたりと留まった時の彼女は、津田にとって一種の絵であった。彼は忘れる事の出来ない印象の一つとして、それを後々まで自分の心に伝えた。
 彼女が何気なく上から眼を落したのと、そこに津田を認めたのとは、同時に似て実は同時でないように見えた。少くとも津田にはそう思われた。無心が有心に変るまでにはある時が掛った。驚ろきの時、不可思議の時、疑いの時、それらを経過した後で、彼女は始めて棒立になった。横から肩を突けば、指一本の力でも、土で作った人形を倒すより容易く倒せそうな姿勢で、硬くなったまま棒立に立った。
 彼女は普通の湯治客のする通り、寐しなに一風呂入って温まる積と見えて、手に小型のタウエルを提げていた。それから津田と同じようにニッケル製の石[鹸]入 (シャボンいれ)を裸のまま持っていた。棒のように硬く立った彼女が、なぜそれを床の上へ落さなかったかは、後からその刹那の光景を辿るたびに、いつでも彼の記憶中に顔を出したがる疑問であった。
 彼女の姿は先刻(さっき)風呂場で会った婦人程縦(ほしい)ままではなかった。けれどもこういう場所で、客同志が互いに黙認しあうだけの自由はすでに利用されていた。彼女は正式に幅の広い帯を結んでいなかった。赤だの青だの黄だの、いろいろの縞(しま)が綺麗に通っている派手な伊達巻(だてまき)を、寧ろずるずるに巻き付けたままであった。寐巻の下に重ねた長襦袢の色が、薄い羅紗(ラシャ)製の上靴(スリッパー)を突掛けた素足の甲を被(おお)っていた。
 清子の身体が硬くなると共に、顔の筋肉も硬くなった。そうして両方の頬と額の色が見る見るうちに蒼白く変って行った。その変化がありありと分って来た中頃で、自分を忘れていた津田は気が付いた。
「どうかしなければ不可(いけな)ない。どこまで蒼くなるか分らない」
 津田は思い切って声を掛けようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上り口の電燈がぱっと消えた。津田は暗闇の中で開けるらしい障子の音をまた聴いた。同時に彼の気の付かなかった、自分の立っているすぐ傍の小さな部屋で呼鈴の返しの音がけたたましく鳴った。
 やがて遠い廊下をぱたぱた馳けて来る足音が聴こえた。彼はその足音の主を途中で喰い留めて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室の在所(ありどころ)を教えて貰った。

百七十七

 その晩の津田は能(よ)く眠れなかった。雨戸の外でするさらさらいう音が絶えず彼の耳に付着した。それを離れる事のできない彼は疑った。雨が来たのだろうか、谿川(たにがわ)が軒の近くを流れているのだろうか。雨としては庇(ひさし)に響がないし、谿川としては勢が緩漫過ぎるとまで考えた彼の頭は、同時にそれより遥か重大な主題のために悩まされていた。
 彼は室に帰ると、何時(いつ)の間にか気を利かせた下女の暖かそうに延べて置いて呉れた床を、わが座敷の真中に見出したので、すぐその中へ潜り込んだまま、偶然にも今自分が経過して来た冒険について思い耽(ふけ)ったのである。
 彼はこの宵の自分を顧りみて、殆んど夢中歩行者(ソムナンビュリスト)のような気がした。彼の行為は、目的(あて)もなく家中彷徨(うろつ)き廻ったと一般であった。ことに階子段(はしごだん)の下で、静中に渦を廻転(かいてん)させる水を見たり、突然姿見に映る気味の悪い自分の顔に出会ったりした時は、事後一時間と経たない近距離から判断して見ても、慥かに常軌を逸した心理作用の支配を受けていた。常識に見捨てられた例(ためし)の少ない彼としては珍らしいこの気分は、今床の中に安臥(あんが)する彼から見れば、耻ずべき状態に違なかった。然し外聞が悪いという事を外にして、何故あんな心持になったものだろうかと、ただその原因を考えるだけでも、説明は出来なかった。
 それはそれとして、何故あの時清子の存在を忘れていたのだろうという疑問に推し移ると、津田は我ながら不思議の感に打たれざるを得なかった。
「それ程自分は彼女に対して冷淡なのだろうか」
 彼は無論そうでないと信じていた。彼は食事の時、すでに清子のいる方角を、下女から教えて貰った位であった。
「然しお前はそれを念頭に置かなかったろう」
 彼は実際廊下を烏鷺々々(うろうろ)歩行(ある)いているうちに、清子を何処かへ振り落した。けれども自分の何処を歩いているか知らないものが、他(ひと)がどこにいるか知ろ筈はなかった。
「この見当だと心得てさえいたならば、ああ不意打を食うんじゃなかったのに」
 こう考えた彼は、もう第一の機会を取り逃したような気がした。彼女が後を向いた様子、電気を消して上り口の案内を閉塞(へいそく)した所作、忽ち下女を呼び寄せるために鳴らした電鈴(ベル)の音、これ等のものを綜合(そうごう)して考えると、凡てが警戒であった。注意であった。そうして絶縁であった。
 然し彼女は驚ろいていた。彼よりも遥か余計に驚ろいていた。それは単に女だからとも云えた。彼には不意の裡(うち)に予期があり、彼女には突然の中(うち)にただ突然があるだけであったからとも云えた。けれども彼女の驚ろきはそれで説明し尽せているだろうか。彼女はもっと複雑な過去を覿面(てきめん)に感じてはいないだろうか。
 彼女は蒼くなった。彼女は硬くなった。津田はそこに望みを繋(つな)いだ。今の自分に都合の好いようにそれを解釈して見た。それから又その解釈を引繰返(ひっくりかえ)して、反対の側からも眺めて見た。両方を眺め尽した次には何方が合理的だろうという批判をしなければならなくなった。その批判は材料不足のために、容易に纏(まと)まらなかった。纏ってもすぐ打ち崩された。一方に傾くと彼の自信が壊しに来た。他方に寄ると幻滅の半鐘が耳元に鳴り響いた。不思議にも彼の自信、卑下して用いる彼自身の言葉でいうと彼の己惚は、胸の中(うち)にあるような気がした。それを攻めに来る幻滅の半鐘はまた反対に何時でも頭の外から来るような心持がした。両方を公平に取扱かっている積でいながら、彼は常に親疎(しんそ)の区別をその間に置いていた。というよりも、遠近の差等が自然天然属性として二つのものに元から具わっているらしく見えた。結果は分明であった。彼は叱りながら己惚の頭を撫でた。耳を傾けながら、半鐘の音を忌(い)んだ。
 かくして互いに追つ追われつしている彼の心に、静かな眠は来ようとしても来られなかった。万事を明日に譲る覚悟を極(き)めた彼は、幾度(いくたび)かそれを招き寄せようとして失敗(しくじ)った揚句、右を向いたり、左を下にしたり、ただ寐返(ねがえ)りの数を重ねるだけであった。
 彼は烟草(たばこ)へ火を点(つ)けようとして枕元にある燐寸(マッチ)を取った。その時袖畳(そでだた)みにして下女が衣桁(いこう)へ掛けて行った褞袍(どてら)が眼に入った。気が付いて見ると、お延の鞄へ入れて呉くれたのはそのままにして、先刻(さっき)宿で出したのを着たなり、自分は床の中へ入っていた。彼は病院を出る時、新調の褞袍に対してお延に使ったお世辞を忽ち思い出した。同時にお延の返事も記憶の舞台に呼び起された。
「何方が好いか比べて御覧なさい」
 褞袍は果して宿の方が上等であった。銘仙(めいせん)と糸織の区別は彼の眼にも一目瞭然(りょうぜん)であった。褞袍を見較(みくら)べると共に、細君を前に置いて、内々心の中(うち)で考えた当時の事が再び意識の域上に現われた。
「お延と清子」
 独りこう云った彼は忽ち吸殻を灰吹の中へ打ち込んで、その底から出るじいという音を聴いたなり、すぐ夜具を頭から被(かぶ)った。
 強いて寐ようとする決心と努力は、その決心と努力が疲れ果てて何処かへ行ってしまった時に始めて酬(むく)いられた。彼はとうとう我知らず夢の中に落ち込んだ。

百七十八

 朝早く男が来て雨戸を引く音のために、一旦破り掛けられたその夢は、半醒半睡(はんせいはんすい)の間に、辛(かろ)うじて持続した。室の四角(よすみ)が寐ていられないほど明るくなって、外部(そと)に朝日の影が充ち渡ると思う頃、始めて起き上った津田の瞼(まぶた)はまだ重かった。彼は楊枝(ようじ)を使いながら障子を開けた。そうして昨夜来の魔境から今漸(ようや)く覚醒した人のような眼を放って、其所いらを見渡した。
 彼の室の前にある庭は案外にも山里らしくなかった。不規則な池を人工的に拵(こしら)えて、その周囲に稚(わか)い松だの躑躅(つつじ)だのを普通の約束通り配置した景色は平凡というより寧(むし)ろ卑俗であった。彼の室に近い築山(つきやま)の間から、谿水(たにみず)を導いて小さな滝を池の中へ落している上に、高くはないけれども、一度に五六筋の柱を花火のように吹き上げる噴水まで添えてあった。昨夜(ゆうべ)彼の睡眠を悩ました細工の源を、苦笑しながら明らさまに見た時、彼の聯想(れんそう)はすぐこの水音以上に何倍か彼を苦しめた清子の方へ推し移った。大根(おおね)を洗えばそれもこの噴水同様に殺風景なものかも知れない、いやもしそれがこの噴水同様に無意味なものであったら堪(たま)らないと彼は考えた。
 彼が銜(くわ)え楊枝のまま懐手(ふところで)をして敷居の上にぼんやり立っていると、先刻から高箒(たかぼうき)で庭の落葉を掃いていた男が、彼の傍(そば)へ寄って来て丁寧に挨拶をした。
「お早う、昨夜はお疲れ様で」
「君だったかね、昨夕(ゆうべ)馬車へ乗って此所まで一所に来て呉れたのは」
「へえ、お邪魔様で」
「成程君の云った通り閑静だね。そうして無暗(むやみ)に広い家(うち)だね」
「いえ、御覧の通り平地の乏しい所でげすから、地ならしをしてはその上へ建て建てして、家が幾段にもなっておりますので、――廊下だけは仰せの通り無暗に広くって長いかも知れません」
「道理で。昨夕僕は風呂場へ行った帰りに迷児になって弱ったよ」
「はあ、そりゃ」
 二人がこんな会話を取り換わせている間に、庭続(つづき)の小山の上から男と女がこれも二人づれで下りて来た。黄葉(こうよう)と枯枝の隙間(すきま)を動いてくる彼等の路は、稲妻形に林の裡(うち)を抜けられるように、また比較的急な勾配を楽に上(のぼ)られるように、作ってあるので、つい其所に見えている彼等の姿も中々庭先まで出るのに暇がかかった。それでも手代は凝(じっ)として彼等を待っていなかった。たちまち津田を放り出した現金な彼は、すぐ岡の裾(すそ)まで駈(か)け出して行って、下から彼等を迎いに来たような挨拶を与えた。
 津田はこの時始めて二人の顔をよく見た。女は昨夕艶(なま)めかしい姿をして、彼の浴室の戸を開けた人に違なかった。風呂場で彼を驚ろかした大きな髷(まげ)をいつの間にか崩して、尋常の束髪に結い更(か)えたので、彼はつい同じ人と気が付かずにいた。彼は更に声を聴いただけで顔を知らなかった伴(つれ)の男の方を、余所(よそ)ながらの初対面といった風に、女と眺め比べた。短かく刈り込んだ当世風の髭を鼻の下に生やしたその男は、成程風呂番の云った通り、何処かに商人らしい面影を宿していた。津田は彼の顔を見るや否や、すぐお秀の夫を憶(おも)い出した。堀庄太郎、もう少し略して堀の庄さん、もっと詰めて当人のしばしば用いる堀庄という名前が、如何にも妹婿の様子を代表している如く、この男の名前も屹度その髭を虐殺するように町人染(じ)みていはしまいかと思われた。瞥見(べっけん)の序(ついで)に纏(まと)められた津田の想像は此所に留まらなかった。彼はもう一歩皮肉な所まで切り込んで、彼等が果して本当の夫婦であるかないかをさえ疑問の中(うち)に置いた。従って早起をして食前浴後の散歩に出たのだと明言する彼等は、津田に取っての違例(いれい)な現象に外ならなかった。彼は楊枝で歯を磨(こす)りながらまだ元の所に立っていた。彼が余所見をしているにも拘(かか)わらず、番頭を相手に二人のする談話はよく聴えた。
 女は番頭に訊いた。
「今日は別舘の奥さんはどうかなすって」
 番頭は答えた。
「いえ、手前はちっとも存じませんが、何か――」
「別に何って事もないんですけれどもね、何時(いつ)でも朝風呂場でお目にかかるのに、今日は入らっしゃらなかったから」
「はあさようで――、ことによるとまだお休みかも知れません」
「そうかも知れないわね。だけどいつでも両方の時間がちゃんと極ってるのよ、朝お風呂に行く時の」
「へえ、成程」
「それに今朝御一所に裏の山へ散歩に参りましょうってお約束をしたもんですからね」
「じゃ一寸伺って参りましょう」
「いいえ、もう可いのよ。散歩はこの通り済んじまったんだから。ただもしや何処かお加減でも悪いのじゃないかしらと思って、ちょっと番頭さんに訊いて見ただけよ」
「多分ただのお休みだろうと思いますが、それとも――」
「それともなんて、そう真面目腐らなくっても可いのよ。ただ訊いて見ただけなんだから」
 二人はそれぎり行き過ぎた。津田は歯磨粉(はみがきこ)で口中を一杯にしながら、また昨夜(ゆうべ)の風呂場を探しに廊下へ出た。

百七十九

 然し探すなどという大袈裟な言葉は、今朝の彼に取って全く無用であった。路に曲折の難はあったにせよ、一足の無駄も踏まずに、自然昨夜(ゆうべ)の風呂場へ下りられた時、彼の腹には、夜来の自分を我ながら馬鹿々々しいと思う心が更に新らしく湧いて出た。
 風呂場には軒下に篏(は)めた高い硝子戸(ガラスど)を通して、秋の朝日がかんかん差し込んでいた。その硝子戸越しに岩だか土堤(どて)だかの片影(へんえい)を、近く頭の上に見上げた彼は、全身を温泉(ゆ)に浸(つ)けながら、如何に浴槽の位置が、大地の平面以下に切り下げられているのを発見した。そうしてこの崖と自分のいる場所との間には、高さから云って随分の相違があると思った。彼は目分量でその距離を一間半乃至(ないし)二間と鑑定した後で、もしこの下にも古い風呂場があるとすれば、段々が一つ家の中(うち)に幾層もあるはずだという事に気が付いた。
 崖の上には石蕗(つわ)があった。生憎其所に朝日が射していないので、時々風に揺れる硬く光った葉の色が、如何にも寒そうに見えた。山茶花(さざんか)の花の散って行く様も湯壺から眺められた。けれども景色は断片的であった。硝子戸の長さの許す二尺以外は、上下とも全く津田の眼に映らなかった。不可知な世界は無論平凡に違なかった。けれどもそれが何故だか彼の好奇心を唆った。すぐ崖の傍(そば)へ来て急に鳴き出したらしい鵯(ひよどり)も、声が聴えるだけで姿の見えないのが物足りなかった。
 しかしそれはほんの付けたりの物足りなさであった。実を云うと、津田は腹のうちで遥かそれ以上気にかかる事件を捏(こ)ね返していたので、彼は風呂場へ下りた時から既にある不足を暗々のうちに感じなければならなかった。明るい浴室に人影一つ見出さなかった彼は、万事君の跋扈(ばっこ)に任せるといった風に寂寞を極(きわ)めた建物の中(うち)に立って、廊下の左右に並んでいる小さい浴槽の戸を、念のため一々開けて見た。尤もこれはそのうちの一つの入口に、スリッパーが脱ぎ棄ててあったのが、彼に或(ある)暗示を与えたので、それが機縁になって、彼を動かした所作に過ぎないとも云えば云えない事もなかった。だから順々に戸を開けた手の番が廻って来て、愈(いよいよ)スリッパーの前に閉(た)て切られた戸に掛った時、彼は急に躊躇した。彼は固(もと)より無心ではなかった。その上失礼という感じが何処かで手伝った。仕方なしに外部(そと)から耳を峙(そばだ)てたけれども、中は森(しん)としているので、それに勢(いきおい)を得た彼の手は、思い切ってがらりと戸を開ける事ができた。そうして外と同じ様に空虚な浴室が彼の前に見出された時に、まあ可かったという感じと、何だ詰らないという失望が一度に彼の胸に起った。
 既に裸になって、湯壺の中に浸(つか)った後の彼には、この引続きから来る一種の予期が絶えず働らいた。彼は苦笑しながら、昨夕と今朝の間に自分の経過した変化を比較した。昨夕の彼は丸髷(まるまげ)の女に驚ろかされるまでは寧ろ無邪気であった。今朝の彼はまだ誰も来ないうちから一種の待ち設けのために緊張を感じていた。
 それは主のないスリッパーに唆のかされた罪かも知れなかった。けれどもスリッパーが何故彼を唆のかしたかというと、寐起に横浜の女と番頭の噂さに上った清子の消息を聴かされたからであった。彼女はまだ起きていなかった。少くともまだ湯に入っていなかった。もし入るとすれば今入っているか、これから入りに来るか何方(どっち)かでなければならなかった。
 鋭敏な彼の耳は、不図誰か階段を下りて来るような足音を聴いた。彼はすぐじゃぶじゃぶやる手を止(や)めた。すると足音は聴えなくなった。然し気の所為か一旦留まったその足音が今度は逆に階段を上(のぼ)って行くように思われた。彼はその源因を想像した。他(ひと)の例にならって、自分のスリッパーを戸の前に脱ぎ捨てて置いたのが悪くはなかったろうかと考えた。何故それを浴室の中まで穿(は)き込まなかったのだろうかという後悔さえ萌(きざ)した。
 しばらくして彼は又意外な足音を今度は浴槽の外側に聞いた。それは彼が石蕗の花を眺めた後、鵯鳥(ひよどり)の声を聴いた前であった。彼の想像はすぐ前後の足音を結び付けた。風呂場を避けた前の足音の主が、わざと外へ出たのだという解釈が容易に彼に与えられた。すると忽ち女の声がした。然しそれは足音と全く別な方角から来た。下から見上た外部の様子によって考えると、崖の上は幾坪かの平地で、その平地を前に控えた一棟の建物が、風呂場の方を向いて建てられているらしく思われた。何しろ声は其方(そっち)の見当から来た。そうしてその主は、慥かにに先刻(さっき)散歩の帰りに番頭と清子の話をした女であった。
 昨夕湯気を抜くために隙(す)かされた庇(ひさし)の下の硝子戸(ガラスど)が今日は閉(た)て切られているので、彼女の言葉は明かに津田の耳に入らなかった。けれども語勢その他から推して、一事は慥かであった。彼女は崖の上から崖の下へ向けて話し掛けていた。だから順序を云えば、崖の下からも是非受け応えの挨拶が出なければならない筈であった。ところが意外にもその方はまるで音沙汰なしで、互い違いに起る普通の会話はけっして聴かれなかった。喋舌る方はただ崖の上に限られていた。
 その代り足音だけは先刻のように留まらなかった。疑いもなく一人の女が庭下駄で不規則な石段を踏んで崖を上って行った。それが上り切ったと思う頃に、足を運ぶ女の裾が硝子戸の上部の方に少し現われた。そうしてすぐ消えた。津田の眼に残った瞬間の印象は、ただうつくしい模様の翻がえる様であった。彼は動き去ったその模様のうちに、昨夕階段の下から見たと同じ色を認めたような気がした。

百八十

 室(へや)に帰って朝食の膳に着いた時、彼は給仕の下女と話した。
「浜のお客さんのいる所は、新らしい風呂場から見える崖の上だろう」
「ええ。あちらへ行って御覧になりましたか」
「いいや、大方そうだろうと思っただけさ」
「よく当りましたね。ちとお遊びに入らっしゃいまし、旦那も奥さんも面白い方です。退屈だ退屈だって毎日困ってらっしゃるんです」
「よっぽど長くいるのかい」
「ええもう十日ばかりになるでしょう」
「あれだね、義太夫(ぎだゆう)を遣るってえのは」
「ええ、能く御存じですね、もうお聴きになりましたか」
「まだだよ。ただ勝さんに教わっただけだ」
 彼が聴くがままに、二人に就いての知識を惜気もなく供給した下女は、それでも分も心得ていた。急所へ来るとわざと津田の問を外した。
「時にあの女の人はいったい何だね」
「奥さんですよ」
「本当の奥さんかね」
「ええ、本当の奥さんでしょう」と云った彼女は笑い出した。「まさか嘘の奥さんてのもないでしょう、何故ですか」
「何故って、素人にしちゃあんまり粋(いき)過ぎるじゃないか」
 下女は答える代りに、突然清子を引合に出した。
「もう一人奥にいらっしゃる奥さんの方がお人柄です」
 間取の関係から云って、清子の室は津田の後、二人づれの座敷は津田の前に当った。両方の中間に自分を見出した彼はようやく首肯(うなず)いた。
「するとちょうど真中辺だね、此所は」
 真中でも室が少し折れ込んでいるので、両方の通路にはなっていなかった。
「その奥さんとあの二人のお客とは友達なのかい」
「ええ御懇意です」
「元から?」
「さあどうですか、其所はよく存じませんが、――大方此所へ入らしってからお知合におなんなすったんでしょう。始終行ったり来たりして入らっしゃいます、両方ともお閑(ひま)なもんですから。昨日も公園へ一所にお出掛けでした」
 津田は問題を取り逃がさないようにした。
「その奥さんは何故一人でいるんだね」
「少し身体がお悪いんです」
「旦那さんは」
「入らっしゃる時は旦那さまも御一所でしたが、すぐお帰りになりました」
「置いてき堀(ぼり)か、そりゃ非道(ひど)いな。それっきり来ないのかい」
「何でも近いうちにまた入らっしゃるとかいう事でしたが、どうなりましたか」
「退屈だろうね、奥さんは」
「ちと話しに行って、お上げになったら如何です」
「話しに行っても可いかね、後で聴いといて呉れたまえ」
「へえ」と答えた下女はにやにや笑うだけで本気にしなかった。津田は又訊いた。
「何をして暮しているのかね、その奥さんは」
「まあお湯に入ったり、散歩をしたり、義太夫を聴かされたり、――時々は花なんかお活(い)けになります、それから夜よく手習をしていらっしゃいます」
「そうかい。本は?」
「本もお読みになるでしょう」と中途半端に答えた彼女は、津田の質問があまり煩瑣(はんさ)にわたるので、とうとうあははと笑い出した。津田は漸く気がついて、少し狼狽(あわて)たように話を外らせた。
「今朝風呂場へスリッパーを忘れていったものがあるね、塞(ふさ)がってるのかと思ってはじめは遠慮していたが、開けて見たら誰もいなかったよ」
「おやそうですか、じゃ又あの先生でしょう」
 先生というのは書の専門家であった。方々に掛っている額や看板でその落[款] (らっかん)を覚えていた津田は「へええ」と云った。
「もう年寄だろうね」
「ええお爺さんです。こんなに白い髯を生やして」
 下女は胸のあたりへ自分の手を遣って書家に相応(ふさ)わしい髯の長さを形容して見せた。
「成程。やっぱり字を書いてるのかい」
「ええ何だかお墓に彫りつけるんだって、大変大きなものを毎日少しずつ書いていらっしゃいます」
 書家はその墓碑銘を書くのが目的で、わざわざ此所へ来たのだと下女から聴かされた時、津田は驚ろいて感心した。
「あんなものを書くのにも、そんなに骨が折れるのかなあ。素人は半日ぐらいで、すぐ出来上りそうに考えてるんだが」
 この感想は全く下女に響かなかった。しかし津田の胸には口へ出して云わないそれ以上の或物さえあった。彼は暗にこの老先生の用向と自分の用向とを見較べた。無事に苦しんで義太夫の稽古をするという浜の二人をさらにその傍(かたわら)に並べて見た。それから何の意味とも知れず花を活けたり手習をしたりするらしい清子も同列に置いて考えた。最後に、残る一人の客、その客は話もしなければ運動もせず、ただぽかんと座敷に坐って山を眺めているという下女の観察を聴いた時、彼は云った。
「いろんな人がいるんだね。五六人寄ってさえこうなんだから。夏や正月になったら大変だろう」
「一杯になるとどうしても百三四十人は入りますからね」
 津田の意味をよく了解しなかったらしい下女は、ただ自分達の最も多忙を極めなければならない季節に、この家へ入り込んでくる客の人数を挙げた。

百八十一

 食後の津田は床の脇に置かれた小机の前に向った。下女に頼んで取り寄せた絵端書へ一口ずつ文句を書き足して、その表へ名宛を記した。お延へ一枚、藤井の叔父へ一枚、吉川夫人へ一枚、それで必要な分は済んでしまったのに、下女の持って来た絵端書はまだ幾枚も余っていた。
 彼は漫然と万年筆を手にしたまま、不動の滝だの、ルナ公園(パーク)だのと、山里に似合わない変な題を付けた地方的の景色をぼんやり眺めた。それからまた印気(インキ)を走らせた。今度はお秀の夫と京都にいる両親宛の分がまたたく間に出来上った。こう書き出して見ると、序(ついで)だからという気も手伝って、ありたけの絵端書をみんな使ってしまわないと義理が悪いようにも思われた。最初は考えていなかった岡本だの、岡本の子供の一(はじめ)だの、その一の学校友達という連想から、また自分の親戚(みうち)の方へ逆戻りをして、甥の真事(まこと)だの、色々な名が沢山並べられた。初手(しょて)から気が付いていながら、最後まで名を書かなかったのは小林だけであった。他(ほか)の意味は別として、ただ在所(ありか)を嗅ぎつけられるという恐れから、津田はどうしてもこの旅行先を彼に知らせたくなかったのである。その小林は不日(ふじつ)朝鮮へ行くべき人であった。無検束をもって自ら任ずる彼は、海を渡る覚悟で既にもう汽車に揺られているかも知れなかった。同時に不規律な彼は又出立(しゅったつ)と公言した日が来ても動かずにいないとも限らなかった。絵端書を見て、(若し津田がそれを出すとすると、)すぐここへやって来ないという事は決して断言出来なかった。
 津田は陰晴定めなき天気を相手にして戦うように厄介なこの友達、もっと適切にいうとこの敵、の事を考えて、思わず肩を峙(そば)だてた。すると一旦緒口(いとくち)の開いた想像の光景(シーン)は其所で留まらなかった。彼を拉(らっ)してずんずん先へ進んだ。彼は突然玄関へ馬車を横付にする、そうして怒鳴り込むような大きな声を出して彼の室へ入ってくる小林の姿を眼前に髣髴(ほうふつ)した。
「何しに来た」
「何しにでもない、貴様を厭がらせに来たんだ」
「どういう理由(わけ)で」
「理由も糸瓜(へちま)もあるもんか。貴様がおれを厭がる間は、何時まで経っても何処へ行っても、ただ追掛るんだ」
「畜生ッ」
 津田は突然拳(こぶし)を固めて小林の横ッ面を撲らなければならなかった。小林は抵抗する代りに、忽ち大の字になって室の真中へ踏ん反(ぞ)り返らなければならなかった。
「撲ったな、この野郎。さあどうでもしろ」
 まるで舞台の上でなければ見られないような活劇が演ぜられなければならなかった。そうしてそれが宿中の視聴を脅(おびや)かさなければならなかった。その中には是非とも清子が交っていなければならなかった。万事は永久に打ち砕かれなければならなかった。
 事実よりも明暸な想像の一幕を、描くともなく頭の中に描き出した津田は、突然ぞっとして我に返った。もしそんな馬鹿げた立ち廻りが実際生活の表面に現われたらどうしようと考えた。彼は羞恥と屈辱を遠くの方に感じた。それを象徴するために、頬の内側が熱(ほて)って来るような気さえした。
 然し彼の批判はそれぎり先へ進めなかった。他に対して面目を失う事、万一そんな不始末をしでかしたら大変だ。これが彼の倫理観の根柢(こんてい)に横わっているだけであった。それを切り詰めると、遂に外聞が悪いという意味に帰着するより外に仕方がなかった。だから悪い奴はただ小林になった。
「おれに何の不都合がある。彼奴(あいつ)さえいなければ」
 彼はこう云って想像の幕に登場した小林を責めた。そうして自分を不面目にする凡ての責任を相手に脊負(しょ)わせた。
 夢のような罪人に宣告を下した後の彼は、すぐ心の調子を入れ代えて、紙入の中から一枚の名刺を出した。その裏に万年筆で、「僕は静養のため昨夜此所へ来ました」と書いたなり首を傾けた。それから「貴女がお出の事を今朝聴きました」と付け足して又考えた。
「これじゃ空々しくって不可(いけな)ない、昨夜(ゆうべ)会った事も何とか書かなくっちゃ」
 然し当り障りのないようにそこへ触れるのは一寸困難であった。第一書く事が複雑になればなる程、文字が多くなって一枚の名刺では事が足りなくなるだけであった。彼は成るべく淡泊(あっさり)した口上を伝えたかった。従って小面倒な封書などは使いたくなかった。
 思い付いたように違い棚(ちがいだな)の上を眺めた彼は、まだ手を付けなかった吉川夫人の贈物が、昨日のままでちゃんと載せてあるのを見て、すぐそれを下へ卸した。彼は果物籃(くだものかご)の葢の間へ、「御病気は如何ですか。これは吉川の奥さんからのお見舞です」と書いた名刺を挿し込んだ後で、下女を呼んだ。
「宅(うち)に関さんという方がお出だろう」
 今朝給仕をしたのと同じ下女は笑い出した。
「関さんが先刻(さっき)お話した奥さんの事ですよ」
「そうか。じゃその奥さんで可いから、これを持って行って上げて呉れ。そうしてね、もしお差支がなければちょっとお目に掛りたいって」
「へえ」
 下女はすぐ果物籃を提げて廊下へ出た。

百八十二

 返事を待ち受ける間の津田は居据(いすわ)りの悪い置物のように落ちつかなかった。ことにすぐ帰って来べき筈の下女が思った通りすぐ帰って来ないので、彼は猶の事心を遣った。
「まさか断るんじゃあるまいな」
 彼が吉川夫人の名を利用したのは、すでに万一を顧慮したからであった。夫人とそうして彼女の見舞品、この二つは、それを届ける津田に対して、清子の束縛を解く好い方便に違なかった。単に彼と応接する煩わしさ、もしくはそれから起り得る嫌疑を避けようとするのが彼女の当体(とうたい)であったにした所で、果物籃の礼はそれを持って来た本人に会って云うのが、順であった。誰がどう考えても無理のない名案を工夫したと信ずるだけに、下女の遅いのを一層苦にしなければならなかった彼は、ふかし掛けた烟草(たばこ)を捨てて、縁側へ出たり、何のためとも知れず、黙って池の中を動いている緋鯉(ひごい)を眺めたり、其所へしゃがんで、軒下に寐ている犬の鼻面へ手を延ばして見たりした。やっとの事で、下女の足音が廊下の曲り角に聴えた時に、わざと取り繕った余裕を外側へ示したくなる程、彼の心はそわそわしていた。
「どうしたね」
「お待遠さま。大変遅かったでしょう」
「なにそうでもないよ」
「少しお手伝いをしていたもんですから」
「何の?」
「お部屋を片づけてね、それから奥さんの御髪(おぐし)を結(い)って上げたんですよ。それにしちゃ早いでしょう」
 津田は女の髷がそんなに雑作なく結える訳のものでないと思った。
「銀杏返(いちょうがえ)しかい、丸髷かい」
 下女は取り合わずにただ笑い出した。
「まあ行って御覧なさい」
「行って御覧なさいって、行っても好いのかい。その返事を先刻(さっき)からこうして待ってるんじゃないか」
「おやどうもすみません、肝心のお返事を忘れてしまって。――どうぞお出下さいましって」
 漸(ちゃっ)と安心した津田は、立上りながらわざと冗談半分に駄目(だめ)を押した。
「本当かい。迷惑じゃないかね。向へ行ってから気の毒な思いをさせられるのは厭だからね」
「旦那様はずいぶん疑り深い方ですね。それじゃ奥さんもさぞ――」
「奥さんとは誰だい、関の奥さんかい、それとも僕の奥さんかい」
「何方だか解ってるじゃありませんか」
「いや解らない」
「そうで御座いますか」
 兵児帯(へこおび)を締め直した津田の後ろへ廻った下女は、室を出ようとする脊中から羽織をかけてくれた。
「此方(こっち)かい」
「今御案内を致します」
 下女は先へ立った。夢遊病者として昨夕彷徨(さまよ)った記憶が、例の姿見の前へ出た時、突然津田の頭に閃めいた。
「ああ此所だ」
 彼は思わずこう云った。事情を知らない下女は無邪気に訊き返した。
「何がです」
 津田はすぐ胡麻化した。
「昨夕僕が幽霊に出会ったのは此所だというのさ」
 下女は変な顔をした。
「馬鹿を仰しゃい。宅(うち)に幽霊なんか出るもんですか。そんな事を仰しゃると――」
 客商売をする宿に対して悪い洒落を云ったと悟った津田は、賢こく二階を見上げた。
「この上だろう、関さんのお室は」
「ええ、よく知ってらっしゃいますね」
「うん、そりゃ知ってるさ」
「天眼通(てんがんつう)ですね」
「天眼通じゃない、天鼻通と云って万事鼻で嗅ぎ分けるんだ」
「まるで犬みたいですね」
 階子段(はしごだん)の途中で始まったこの会話は、上り口の一番近くにある清子の部屋からもう聴き取れる距離にあった。津田は暗にそれを意識した。
「序(ついで)に僕が関さんの室を嗅ぎ分けて遣るから見ていろ」
 彼は清子の室の前へ来て、ぱたりとスリッパーの音を止めた。
「此所だ」
 下女は横眼で津田の顔を睨(にら)めるように見ながら吹き出した。
「どうだ当ったろう」
「成程貴方の鼻は能く利きますね。猟犬より慥かですよ」
 下女は又面白そうに笑ったが、室の中からはこの賑やかさに対する何の反応も出て来なかった。人がいるかいないかまるで分らない内側は、始めと同じように索寞(ひっそり)していた。
「お客さまが入らっしゃいました」
 下女は外部(そと)から清子に話しかけながら、建てつけの好い障子をすうと開けてくれた。
「御免下さい」
 一言(いちごん)の挨拶と共に室の中に入った津田はおやと思った。彼は自分の予期通り清子をすぐ眼の前に見出し得なかった。

百八十三

 室(へや)は二間続きになっていた。津田の足を踏み込んだのは、床のない控えの間の方であった。黒柿(くろがき)の縁と台の付いた長方形の鏡の前に横竪縞(よこたてじま)の厚い座蒲団を据えて、その傍(かたわら)に桐で拵(こし)らえた小型の長火鉢(ながひばち)が、普通の家庭に見る茶の間の体裁を、小規模ながら髣髴(ほうふつ)せしめた。隅には黒塗の衣桁(いこう)があった。異性に附着する花やかな色と手触りの滑(すべ)こそうな絹の縞(しま)が、折り重なってそこに投げ掛けられていた。
 間(あい)の襖(ふすま)は開け放たれたままであった。津田は正面に当る床の間に活立(いけたて)らしい寒菊の花を見た。前には座蒲団が二つ向い合せに敷いてあった。濃茶(こげちゃ)に染めた縮緬(ちりめん)のなかに、牡丹(ぼたん)か何かの模様をたった一つ丸く白に残したその敷物は、品柄から云っても、また来客を待ち受ける準備としても、物々しいものであった。津田は席に就かない先にまず直感した。
「凡(すべ)てが改まっている。これが今日会う二人の間に横わる運命の距離なのだろう」
 突然としてここに気の付いた彼は、今この室へ入り込んで来た自分を咄嗟(とっさ)に悔いようとした。
 然しこの距離は何処から起ったのだろう? 考えれば起るのが当り前であった。津田はただそれを忘れていただけであった。では、何故それを忘れていたのだろう? 考えれば、これも忘れているのが当り前かも知れなかった。
 津田がこんな感想に囚えられて、控の間に立ったまま、室を出るでもなし、席に就くでもなし、うっかり眼前の座蒲団を眺めている時に、主人側の清子は始めてその姿を縁側の隅から現わした。それまで彼女が其所で何をしていたのか、津田には一向解(げ)せなかった。又何のために彼女がわざわざ其所へ出ていたのか、それも彼には通じなかった。或(あるい)は室を片付けてから、彼の来るのを待ち受ける間、欄干の隅に倚(よ)りかかりでもして、山に重なる黄葉(こうよう)の色でも眺めていたのかも知れなかった。それにしても様子が変であった。有体(ありてい)に云えば、客を迎えるというより偶然客に出喰(でっく)わしたというのが、この時の彼女の態度を評するには適当な言葉であった。
 然し不思議な事に、この態度は、鹿爪(しかつめ)らしく彼の着席を待ち受ける座蒲団や、二人の間を堰(せ)くためにわざと真中に置かれたように見える角火鉢程彼の気色(きしょく)に障らなかった。というのは、それが元から彼の頭に描き出されている清子と、全く釣(つ)り合わないまでに懸け離れた態度ではなかったからである。
 津田の知っている清子は決してせせこましい女でなかった。彼女は何時でも優悠(おっとり)していた。何方(どっち)かと云えば寧ろ緩漫というのが、彼女の気質、又はその気質から出る彼女の動作に就いて下し得る特色かも知れなかった。彼は常にその特色に信を置いていた。そうしてその特色に信を置き過ぎたため、却って裏切られた。少くとも彼はそう解釈した。そう解釈しつつも当時に出来上った信はまだ不自覚の間に残っていた。突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻がえす燕(つばめ)のように早かったかも知れないが、それはそれ、これはこれであった。二つのものを結びつけて矛盾なく考えようとする時、悩乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であった如く、乙も矢ッ張り本当でなければならなかった。
「あの緩(のろ)い人は何故飛行機へ乗った。彼は何故宙返りを打った」
 疑いは正(まさ)しく其所に宿るべき筈であった。けれども疑おうが疑うまいが、事実は遂に事実だから、決してそれ自身に消滅するものでなかった。
 反逆者の清子は、忠実なお延よりこの点に於て仕合せであった。もし津田が室に入って来た時、彼の気合を抜いて、間の合わない時分に、わざと縁側の隅から顔を出したものが、清子でなくって、お延だったなら、それに対する津田の反応は果してどうだろう。
「又何か細工をするな」
 彼はすぐこう思うに違なかった。ところがお延でなくって、清子によって同じ所作が演ぜられたとなると結果は全然別になった。
「相変らず緩漫だな」
 緩漫と思い込んだ揚句、現に眼覚(めざま)しい早技(はやわざ)で取って投げられていながら、津田はこう評するより外に仕方がなかった。
 その上清子はただ間(ま)を外しただけではなかった。彼女は先刻(さっき)津田が吉川夫人の名前で贈りものにした大きな果物籃を両手でぶら提げたまま、縁側の隅から出て来たのである。どういう積か、今までそれを荷厄介にしているという事自身が、津田に対しての冷淡さを示す度盛(どもり)にならないのは明かであった。それからその重い物を今まで縁側の隅で持っていたとすれば無論、一旦下へ置いて更に取り上げたと解釈しても、彼女の所作は変に違なかった。少くとも不器用であった。何だか子供染(じ)みていた。然し彼女の平生(へいぜい)を能く知っている津田は、其所に如何にも清子らしい或(ある)物を認めざるを得なかった。
「滑稽だな。如何にも貴女らしい滑稽だ。そうして貴女はちっともその滑稽な所に気が付いていないんだ」
 重そうに籃(かご)を提げている清子の様子を見た津田は、殆(ほと)んどこう云いたくなった。

百八十四

 すると清子はその籃をすぐ下女に渡した。下女はどうして可いか解らないので、器械的に手を出してそれを受取ったなり、黙っていた。この単純な所作が双方の間に行われるあいだ、津田は依然として立っていなければならなかった。然し普通の場合に起る手持無沙汰(ぶさた)の感じの代りに、却って一種の気楽さを味わった彼には何の苦痛も来ずに済んだ。彼はただ間の延びた挙動の引続きとして、平生の清子と矛盾しない意味からそれを眺めた。だから昨夜(ゆうべ)の記憶からくる不審も一倍に強かった。この逼(せま)らない人が、どうしてあんなに蒼くなったのだろう。どうしてああ硬く見えたのだろう。あの驚ろき具合とこの落付方(おちつきかた)、それだけはどう考えても調和しなかった。彼は夜と昼の区別に生れて初めて気が付いた人のような心持がした。
 彼は招ぜられない先に、まず自分から設けの席に着いた。そうして立ちながら果物を皿に盛るべく命じている清子を見守った。
「どうもお土産を有難う」
 これが始めて彼女の口を洩れた挨拶であった。話頭(わとう)はそのお土産を持って来た人から、その土産を呉れた人の好意に及ばなければならなかった。もとより嘘を吐(つ)く覚悟で吉川夫人の名前を利用したその時の津田には、もう胡麻化すという意識すらなかった。
「道伴(みちづれ)になったお爺さんに、もう少しで蜜柑を遣っちまう所でしたよ」
「あらどうして」
 津田は何と答えようが平気であった。
「あんまり重くって荷になって困るからです」
「じゃ来る途中始終手にでも提げていらしったの」
 津田にはこの質問が如何にも清子らしく無邪気に聴えた。
「馬鹿にしちゃ不可(いけま)せん。貴女じゃあるまいし、こんなものを提げて、縁側を彼方(あっち)へ行ったり此方(こっち)へ来たりしていられるもんですか」
 清子はただ微笑しただけであった。その微笑には弁解がなかった。云い換えれば一種の余裕があった。嘘から出立した津田の心は益(ますます)平気になるばかりであった。
「相変らず貴女は何時でも苦がなさそうで結構ですね」
「ええ」
「些(ちっ)とももとと変りませんね」
「ええ、だって同なじ人間ですもの」
 この挨拶を聞くと共に、津田は急に何か皮肉を云いたくなった。その時皿の中へ問題の蜜柑を盛り分けていた下女が突然笑い出した。
「何を笑うんだ」
「でも、奥さんの仰しゃる事が可笑(おかし)いんですもの」と弁解した彼女は、真面目な津田の様子を見て、後からそれを具体的に説明すべく余儀なくされた。
「成程、そうに違い御座いませんね。生きてるうちはどなたも同なじ人間で、生れ変りでもしなければ、誰だって違った人間になれっこないんだから」
「ところがそうでないよ。生きてる癖に生れ変る人がいくらでもあるんだから」
「へえそうですかね、そんな人があったら、ちっとお目に掛りたいもんだけれども」
「お望みなら逢わせて遣っても可いがね」
「どうぞ」といった下女は又げらげら笑い出した。「又これでしょう」
 彼女は人指指(ひとさしゆび)を自分の鼻の先へ持って行った。
「旦那様のこれにはとても敵(かな)いません。奥さまのお部屋をちゃんと臭(におい)で嗅ぎ分ける方なんですから」
「部屋どころじゃないよ。お前の年齢(とし)から原籍から、生れ故郷から、何から何まで中(あ)てるんだよ。この鼻一つあれば」
「へえ恐ろしいもんで御座いますね。――どうも敵わない、旦那様に会っちゃ」
 下女はこう云って立ち上った。然し室を出掛(でがけ)に又一句の揶揄を津田に浴びせた。
「旦那様はさぞ猟がお上手で入らっしゃいましょうね」
 日当りの好い南向の座敷に取り残された二人は急に静かになった。津田は縁側に面して日を受けて坐っていた。清子は欄干を脊にして日に背(そむ)いて坐っていた。津田の席からは向うに見える山の襞(ひだ)が、幾段にも重なり合って、日向(ひなた)日裏の区別を明らさまに描き出す景色が手に取るように眺められた。それを彩どる黄葉(こうよう)の濃淡が又鮮やかな陰影の等差を彼の眸中(ぼうちゅう)に送り込んだ。然し眼界の豁(ひろ)い空間に対している津田と違って、清子の方は何の見るものもなかった。見れば北側の障子と、その障子の一部分を遮(さえ)ぎる津田の影像(イメジ)だけであった。彼女の視線は窮屈であった。然し彼女はあまりそれを苦にする様子もなかった。お延ならすぐ姿勢を改めずにはいられないだろうという所を、彼女は寧ろ落付いていた。
 彼女の顔は、昨夕と反対に、津田の知っている平生の彼女よりも少し紅かった。然しそれは強い秋の光線を直下(じか)に受ける生理作用の結果とも解釈された。山を眺めた津田の眼が、端(はし)なく上気した時のように紅く染った清子の耳朶(みみたぶ)に落ちた時、彼は腹のうちでそう考えた。彼女の耳朶は薄かった。そうして位置の関係から、肉の裏側に差し込んだ日光が、其所に寄った彼女の血潮を通過して、始めて津田の眼に映ってくるように思われた。

百八十五

 こんな場合に何方(どっち)が先へ口を利(き)き出すだろうか、もし相手がお延だとすると、事実は考えるまでもなく明暸であった。彼女は津田に一寸の余裕も与えない女であった。その代り自分にも五分の寛(くつろ)ぎさえ残しておく事の出来ない性質(たち)に生れ付いていた。彼女はただ随時随所に精一杯の作用を恣(ほしい)ままにするだけであった。勢い津田は始終受身の働きを余儀なくされた。そうして彼女に応戦すべく緊張の苦痛と努力の窮屈さを甞(な)めなければならなかった。
 ところが清子を前へ据(す)えると、其所(そこ)に全く別種の趣が出て来た。段取は急に逆になった。相撲で云えば、彼女は何時(いつ)でも津田の声を受けて立った。だから彼女を向うへ廻した津田は、必ず積極的に作用した。それも十が十まで楽々と出来た。
 二人取り残された時の彼は、取り残された後で始めてこの特色に気が付いた。気が付くと昔の女に対する過去の記憶が何時の間にか蘇生(そせい)していた。今まで彼の予想しつつあった手持無沙汰(ぶさた)の感じが、丁度その手持無沙汰の起らなければならないと云う間際へ来て、不思議にも急に消えた。彼は伸び伸びした心持で清子の前に坐っていた。そうしてそれは彼が彼女の前で、事件の起らない過去に経験したものと大して変っていなかった。少くとも同じ性質のものに違ないという自覚が彼の胸のうちに起った。従って談話の途切れた時積極的に動き始めたものは、昔の通り彼であった。然(しか)も昔しの通りな気分で動けるという事自身が、彼には思い掛けない満足になった。
「関君はどうしました。相変らず御勉強ですか。その後御無沙汰をして一向お目に掛りませんが」
 津田は何の気も付かなかった。会話の皮切に清子の夫を問題にする事の可否は、利害関係から見ても、今日(こんにち)まで自分等二人の間に起った感情の行掛り上から考えても、又それ等の纏綿(てんめん)した情実を傍(かたわら)に置いた、自然不自然の批判から云っても、実は一思案しなければならない点であった。それを平生の細心にも似ず、一顧の掛念(けねん)さえなく、ただ無雑作に話頭に上(のぼ)せた津田は、正に居常(きょじょう)お延に対する時の用意を取り忘れていたに違(ちがい)なかった。
 然し相手は既にお延でなかった。津田がその用心を忘れても差支(さしつかえ)なかったという証拠は、すぐ清子の挨拶振(あいさつぶり)で知れた。彼女は微笑して答えた。
「ええ有難う。まあ相変らずです。時々二人して貴方のお噂を致しております」
「ああそうですか。僕も始終忙がしいもんですから、方々へ失礼ばかりして……」
「良人(うち)も同なじよ、あなた。近頃じゃ閑暇(ひま)な人は、まるで生きていられないのと同なじ事ね。だから自然御互いに遠々(とおどお)しくなるんですわ。だけどそれは仕方がないわ、自然の成行だから」
「そうですね」
 こう答えた津田は、「そうですね」という代りに「そうですか」と訊いて見たいような気がした。「そうですか、ただそれだけで疎遠になったんですか。それが貴女の本音ですか」という詰問はこの時既に無言の文句となって彼の腹の中に蔵(かく)れていた。
 然も彼は殆んど以前と同じように単純な、もしくは単純とより解釈のできない清子を眼前に見出した。彼女の態度には二人の間に関を話題にするだけの余裕がちゃんと具っていた。それを口にして苦にならないほどの淡泊さが現われていた。ただそれは津田の暗に予期して掛った所のもので、同時に彼の曾(かつ)て予想し得なかった所のものに違なかった。昔のままの女主人公に再び会う事が出来たという満足は、彼女がその昔しのままの鷹揚(おうよう)な態度で、関の話を平気で津田の前にし得るという不満足と一所に来なければならなかった。
「どうしてそれが不満足なのか」
 津田は面と向ってこの質問に対するだけの勇気がなかった。関が現に彼女の夫である以上、彼は敬意をもって彼女のこの態度を認めなければならなかった。けれどもそれは表通りの沙汰であった。偶然往来を通る他人のする批評に過ぎなかった。裏には別な見方があった。其所には無関心な通り掛りの人と違った自分というものが頑張っていた。そうしてその自分に「私(わたくし)」という名を命(つ)ける事のできなかった津田は、飽くまでもそれを「特殊な人」と呼ぼうとしていた。彼の所謂(いわゆる)特殊な人とは即ち素人に対する黒人(くろうと)であった。無知者に対する有識者であった。もしくは俗人に対する専門家であった。だから通り一遍のものより余計に口を利く権利を有っているとしか、彼には思えなかった。
 表で認めて裏で首肯(うけが)わなかった津田の清子に対する心持は、何かの形式で外部へ発現するのが当然であった。

百八十六

「昨夕(ゆうべ)は失礼しました」
 津田は突然こう云って見た。それがどんな風に相手を動かすだろうかというのが、彼の覘(ねら)い所であった。
「私(わたくし)こそ」
 清子の返事はすらすらと出た。そこに何の苦痛も認められなかった時に津田は疑った。
「この女は今朝になってもう夜の驚ろきを繰り返す事が出来ないのかしら」
 もしそれを憶(おも)い起す能力すら失っているとすると、彼の使命は善にもあれ悪にもあれ、果敢(はか)ないものであった。
「実は貴女を驚ろかした後で、済まない事をしたと思ったのです」
「じゃ止(よ)して下されば可(よ)かったのに」
「止せば可かったのです。けれども知らなければ仕方がないじゃありませんか。貴女が此所に入らっしゃろうとは夢にも思い掛けなかったのですもの」
「でも私への御土産を持って、わざわざ東京から来て下すったんでしょう」
「それはそうです。けれども知らなかった事も事実です。昨夕は偶然お眼に掛っただけです」
「そうですか知ら」
 故意を昨夕の津田に認めているらしい清子の口吻(こうふん)が、彼を驚ろかした。
「だって、わざとあんな真似をする訳がないじゃありませんか、なんぼ僕が酔興だって」
「だけど貴方は大分彼所(あすこ)に立っていらしったらしいのね」
 津田は水盤に溢(あふ)れる水を眺めていたに違なかった。姿見に映るわが影を見つめていたに違なかった。最後に其所にある櫛(くし)を取って頭まで梳(か)いて愚図々々していたに違なかった。
「迷児になって、行先が分らなくなりゃ仕方がないじゃありませんか」
「そう。そりゃそうね。けれども私にはそう思えなかったんですもの」
「僕が待ち伏せをしていたとでも思ってるんですか、冗談じゃない。いくら僕の鼻が万能(まんのう)だって、貴女の湯泉(ゆ)に入る時間まで分りゃしませんよ」
「成程、そりゃそうね」
 清子の口にした成程という言葉が、如何にも成程と合点(がってん)したらしい調子を帯びているので、津田は思わず吹き出した。
「一体何だって、そんな事を疑っていらっしゃるんです」
「そりゃ申し上ないだって、お解りになってる筈ですわ」
「解りっこないじゃありませんか」
「じゃ解らないでも構わないわ。説明する必要のない事だから」
 津田は仕方なしに側面から向った。
「それでは、僕が何のために貴女を廊下の隅で待ち伏せていたんです。それを話して下さい」
「そりゃ話せないわ」
「そう遠慮しないでも可いから、是非話して下さい」
「遠慮じゃないのよ、話せないから話せないのよ」
「然し自分の胸にある事じゃありませんか。話そうと思いさえすれば、誰にでも話せる筈だと思いますがね」
「私の胸に何にもありゃしないわ」
 単純なこの一言(いちごん)は急に津田の機鋒(きほう)を挫(くじ)いた。同時に、彼の語勢を飛躍させた。
「なければ何処からその疑いが出て来たんです」
「もし疑ぐるのが悪ければ、謝まります。そうして止(よ)します」
「だけど、もう疑ったんじゃありませんか」
「だってそりゃ仕方がないわ。疑ったのは事実ですもの。その事実を白状したのも事実ですもの。いくら謝まったってどうしたって事実を取り消す訳には行かないんですもの」
「だからその事実を聴かせて下されば可いんです」
「事実は既に申し上げたじゃないの」
「それは事実の半分か、三分一(さんぶいち)です。僕はその全部が聴きたいんです」
「困るわね。何といってお返事をしたら可いんでしょう」
「訳ないじゃありませんか、こういう理由があるから、そういう疑いを起したんだって云いさえすれば、たった一口で済んじまう事です」
 今まで困っていたらしい清子は、この時急に腑(ふ)に落ちたという顔付をした。
「ああ、それがお聴きになりたいの」
「無論です。先刻(さっき)からそれが伺いたければこそ、こうして執濃(しつこ)く貴女を煩わせているんじゃありませんか。それを貴女が隠そうとなさるから――」
「そんならそうと早く仰ゃれば可いのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由(わけ)は何でもないのよ。ただ貴方はそういう事をなさる方なのよ」
「待伏せをですか」
「ええ」
「馬鹿にしちゃ不可(いけま)せん」
「でも私の見た貴方はそういう方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの」
「成程」
 津田は腕を拱(こまぬ)いて下を向いた。

百八十七

 しばらくして津田は又顔を上げた。
「何だか話が議論のようになってしまいましたね。僕はあなたと問答をするために来たんじゃなかったのに」
 清子は答えた。
「私にもそんな気はちっともなかったの。つい自然其所へ持って行かれてしまったんだから故意じゃないのよ」
「故意でない事は僕も認めます。つまり僕があんまり貴女を問い詰めたからなんでしょう」
「まあそうね」
 清子は又微笑した。津田はその微笑のうちに、例の通りの余裕を認めた時、我慢しきれなくなった。
「じゃ問答序に、もう一つ答えて呉れませんか」
「ええ何なりと」
 清子はあらゆる津田の質問に応ずる準備を整えている人のような答え振(ぶり)をした。それが質問を掛けない前に、少なからず彼を失望させた。
「何もかももう忘れているんだ、この人は」
 こう思った彼は、同時にそれが又清子の本来の特色である事にも気が付いた。彼は駄目(だめ)を押すような心持になって訊いた。
「然し昨夕(ゆうべ)階子段(はしごだん)の上で、貴女は蒼くなったじゃありませんか」
「なったでしょう。自分の顔は見えないから分りませんけれども、貴方が蒼くなったと仰しゃれば、それに違ないわ」
「へえ、すると貴女の眼に映ずる僕はまだ全くの嘘吐(うそつき)でもなかったんですね、有難い。僕の認めた事実を貴女も承認して下さるんですね」
「承認しなくっても、実際蒼くなったら仕方がないわ、貴方」
「そう。――それから硬くなりましたね」
「ええ、硬くなったのは自分にも分っていましたわ。もう少しあのままで我慢していたら倒れたかも知れないと思ったくらいですもの」
「つまり驚ろいたんでしょう」
「ええ随分吃驚(びっくり)したわ」
「それで」と云い掛けた津田は、俯向(うつむき)加減になって鄭寧(ていねい)に林檎(りんご)の皮を剥(む)いている清子の手先を眺めた。滴(したた)るように色付いた皮が、ナイフの刃を洩(も)れながら、ぐるぐると剥(む)けて落ちる後に、水気の多そうな薄蒼い肉が次第に現われて来る変化は彼に一年以上経った昔を憶(おも)い起させた。
「あの時この人は、丁度こういう姿勢で、こういう林檎を剥いて呉れたんだっけ」
 ナイフの持ち方、指の運び方、両肘(ひじ)を膝(ひざ)とすれすれにして、長い袂(たもと)を外へ開いている具合、ことごとくその時の模写であったうちに、ただ一つ違う所のある点に津田は気が付いた。それは彼女の指を飾る美くしい二個(ふたつ)の宝石であった。若(も)しそれが彼女の結婚を永久に記念するならば、そのぎらぎらした小さい光程、津田と彼女の間を鋭どく遮(さえ)ぎるものはなかった。柔婉(しなやか)に動く彼女の手先を見詰めている彼の眼は、当時を回想するうっとりとした夢の消息のうちに、燦然(さんぜん)たる警戒の閃(ひら)めきを認めなければならなかった。
 彼はすぐ清子の手から眼を放して、その髪を見た。然し今朝下女が結って遣ったというその髪は通例の庇(ひさし)であった。何の奇も認められない黒い光沢(つや)が、櫛(くし)の歯を入れた痕(あと)を、行儀正しく竪(たて)に残しているだけであった。
 津田は思い切って、一旦捨てようとした言葉を又取り上げた。
「それで僕の訊きたいのはですね――」
 清子は顔を上げなかった。津田はそれでも構わずに後を続けた。
「昨夕そんなに驚ろいた貴女が、今朝は又どうしてそんなに平気でいられるんでしょう」
 清子は俯向(うつむ)いたまま答えた。
「何故」
「僕にゃその心理作用が解らないから伺うんです」
 清子は矢っ張り津田を見ずに答えた。
「心理作用なんてむずかしいものは私にも解らないわ。ただ昨夕はああで、今朝はこうなの。それだけよ」
「説明はそれだけなんですか」
「ええそれだけよ」
 もし芝居をする気なら、津田は此所で一つ溜息(ためいき)を吐(つ)く所であった。けれども彼には押し切ってそれを遣る勇気がなかった。この女の前にそんな真似をしても始まらないという気が、技巧に走ろうとする彼を何処となく抑え付けた。
「然し貴女は今朝何時もの時間に起きなかったじゃありませんか」
 清子はこの問を掛けるや否(いな)や顔を上げた。
「あらどうしてそんな事を御承知なの」
「ちゃんと知ってるんです」
 清子は一寸津田を見た眼をすぐ下へ落した。そうして綺麗に剥いた林檎に刃を入れながら答えた。
「成程貴方は天眼通でなくって天鼻通ね。実際能(よ)く利くのね」
 冗談とも諷刺とも真面目とも片の付かないこの一言(いちごん)の前に、津田は退避(たじろ)いだ。
 清子は漸く剥き終った林檎を津田の前へ押し遣った。
「貴方いかが」

百八十八

 津田は清子の剥いてくれた林檎に手を触れなかった。
「貴女いかがです、折角吉川の奥さんが貴女のためにといって贈ってくれたんですよ」
「そうね、そうして貴方が又わざわざそれを此所まで持って来て下すったんですね。その御親切に対しても頂かなくっちゃ悪いわね」
 清子はこう云いながら、二人の間にある林檎の一片(ひときれ)を手に取った。然しそれを口へ持って行く前に又訊いた。
「然し考えると可笑(おかし)いわね、一体どうしたんでしょう」
「何がどうしたんです」
「私(わたくし)吉川の奥さんにお見舞を頂こうとは思わなかったのよ。それからそのお見舞をまた貴方が持って来て下さろうとは猶更(なおさら)思わなかったのよ」
 津田は口のうちで「そうでしょう、僕でさえそんな事は思わなかったんだから」と云った。その顔を昵(じつ)と見守った清子の眼に、判然(はっきり)した答を津田から待ち受けるような予期の光が射した。彼はその光に対する特殊な記憶を呼び起した。
「ああこの眼だっけ」
 二人の間に何度も繰り返された過去の光景(シーン)が、ありありと津田の前に浮き上った。その時分の清子は津田と名のつく一人の男を信じていた。だから凡(すべ)ての知識を彼から仰いだ。あらゆる疑問の解決を彼に求めた。自分に解らない未来を挙げて、彼の上に投げ掛けるように見えた。従って彼女の眼は動いても静(しずか)であった。何か訊こうとするうちに、信と平和の輝きがあった。彼はその輝きを一人で専有する特権を有(も)って生れて来たような気がした。自分があればこそこの眼も存在するのだとさえ思った。
 二人は遂に離れた。そうして又会った。自分を離れた以後の清子に、昔のままの眼が、昔と違った意味で、矢っぱり存在しているのだと注意されたような心持のした時、津田は一種の感慨に打たれた。
「それは貴女の美くしい所です。けれどももう私を失望させる美しさに過ぎなくなったのですか。判然(はっきり)教えて下さい」
 津田の疑問と清子の疑問が暫時(ざんじ)視線の上で行き合った後(あと)、最初に眼を引いたものは清子であった。津田はその退(ひ)き方を見た。そうして其所にも二人の間にある意気込の相違を認めた。彼女は何処までも逼(せま)らなかった。どうでも構わないという風に、眼を余所へ持って行った彼女は、それを床の間に活(い)けてある寒菊の花の上に落した。
 眼で逃げられた津田は、口で追掛(おっか)けなければならなかった。
「なんぼ僕だって唯(ただ)吉川の奥さんの使に来ただけじゃありません」
「でしょう、だから変なのよ」
「ちっとも変な事はありませんよ。僕は僕で独立して此所へ来ようと思ってる所へ、奥さんに会って、始めて貴女の此所にいらっしゃる事を聴かされた上に、ついお土産まで頼まれちまったんです」
「そうでしょう。そうでもなければ、どう考えたって変ですからね」
「いくら変だって偶然という事も世の中にはありますよ。そう貴女のように……」
「だからもう変じゃないのよ。訳さえ伺えば、何でも当り前になっちまうのね」
 津田はつい「此方(こっち)でもその訳を訊きに来たんだ」と云いたくなった。然し何にも其所に頓着(とんじゃく)していないらしい清子の質問は正直であった。
「それで貴方も何処かお悪いの」
 津田は言葉少なに病気の顛末(てんまつ)を説明した。清子は云った。
「でも結構ね、貴方は。そういう時に会社の方の御都合が付くんだから。其所へ行くと良人(うち)なんか気の毒なものよ、朝から晩まで忙がしそうにして」
「関君こそ酔興なんだから仕方がない」
「可哀想(かわいそう)に、まさか」
「いや僕のいうのは善い意味での酔興ですよ。つまり勉強家という事です」
「まあ、お上手だ事」
 この時下から急ぎ足で階子段を上って来る草履(ぞうり)の音が聴えたので、何か云おうとした津田は黙って様子を見た。すると先刻(さっき)とは違った下女が其所へ顔を出した。
「あの浜のお客さまが、奥さまにお午(ひる)から滝の方へ散歩にお出(いで)になりませんか、伺って来いと仰しゃいました」
「お供しましょう」清子の返事を聴いた下女は、立ち際(ぎわ)に津田の方を見ながら「旦那様も一所にいらっしゃいまし」と云った。
「有難う。時にもうお午なのかい」
「ええ只今(ただいま)御飯を持って参ります」
「驚ろいたな」
 津田は漸(ようや)く立ち上った。
「奥さん」と云おうとして、云い損(そく)なった彼はつい「清子さん」と呼び掛けた。
「貴女は何時頃(いつごろ)までおいでです」
「予定なんかまるでないのよ。宅(うち)から電報が来れば、今日にでも帰らなくっちゃならないわ」
 津田は驚ろいた。
「そんなものが来るんですか」
「そりゃ何とも云えないわ」
 清子はこう云って微笑した。津田はその微笑の意味を一人で説明しようと試みながら自分の室に帰った。
――未 完――

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入力  ゆげ/takeko
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
1999/08/29/完成版ver1.01
NO.001
底本 『明暗』新潮文庫/1991/新潮社
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。