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1. 比喩について
1-3. 言述中の語の意味

 先ほどから、比喩を語の意味の変化として捉えるに際して、あたかも孤立した語の内にその語の意味が内包されているように扱ってきたが、語の意味とはその語の内部で同定できるものなのだろうか。この問は、私たちにとっては、比喩における意味の置き換え(転移)が起こるのは、本当に語のレベルでのことなのか、言い換えれば、比喩はただ一語、あるいはせいぜい数語から成る文彩なのかと問うことに等しい。

 ソシュールに始まる構造意味論によれば、ある語の意味はそれに内包されるものではなく、当該言語中におけるその語と他の語との関係、差異によって規定されている。言語記号 signifiant は1対1対応的に意味 signifi  を持つのではなく、他の諸記号との差異によってはじめて自身の意味を持つのである。この関係は、範列的 paradigmatique と連辞的 symtagmatique との二重の関係である。私たちが通常、言語を用いる際の形態である文、あるいは文章は、複数の語が連結した線形で非可逆的な形(これは「言連鎖」と呼ばれる)でできているから、列をなす各語がどのように関係しているかという観点すなわち連辞的な観点からそれらの語を調べることもできるし、またそこに実際には使われていないが、もしかしたらその列の中で用いられたかもしれない語、あるいはそれと対立する他の語とどのような関係にあるかという観点すなわち範列的な観点から調べることもできる。そして、このように相互に関連する語の集合はシンタグム、パラディグムの二つの軸を持つ「意味場」を構成するといわれる。 (*12)

 このように「意味場」の中で自分以外の語との関係によってある位置を占め、相対的にある価値を持つ各語は、能記 signifiant(意味するもの)として所記 signifi (意味されるもの)と結びつくことによって意味を持つ。いや、結びつくというのは正確ではない。能記−所記は、あらかじめそれぞれが存在し、その後に結びつくのではないのだから。バルトはソシュールを引きながらこう述べている。


 意味作用と価値という二重現象を説明するため、ソスュールは一枚の紙のたとえを使っている。紙を切り取ると、一方では何枚かの紙片(A、B、C)が得られ、その各々はその他の紙片との関係によって「価値」を持つが、他方、紙片の各々は、同時に切り出された表と裏(A−A’、B−B’、C−C’)を持つ。これが能記と所記との関係(意味作用)である。 (*13)

 当該言語中(科学的言語は除く)で一つの語が、他の語との対比において同定されるということは、同時にその語の内的な不均質性、あるいは複数性を認めること、したがって同じ語が文脈に応じてさまざまな語義を受け入れることができるということ、である。 (*14) したがってこのようにして意味を持つそれぞれの語は、ただ一つの意味を持つわけではない。一つの語は、一つ以上の意味を持つ、いいかえれば多義的である。

 ここでいう多義性とは、あらかじめ確立された、能記−所記の関係をもとにして定義されるべきものである。つまり、一つ以上の意味とは字義通りの、辞書的な意味である。ある言語における語彙や文法などの諸規則の総体(ラング)は、世界に網目をかけるもの、あるいは世界を切り分けるものとして考えることができるが、このことはその網目の一つ、あるいは一片に一つ以上の世界の要素が含まれているものと理解することができる。

 ラングの語彙的組織は堅固なものではない。例えば、新しい種類の機械が発明され、あるいは実際に発明されなくてもその概念が考え出され、世界に新たな要素が生まれる必要が生じたとき、それに対応する考えられる手段は二つある。一つは新しい語をつくることであり、もう一つは既存の語にその新たな要素を取り込むことである。どちらの場合も新しい能記−所記の関係が生じる。このようなことだけがラングの語彙組織の変化の要因であるわけではないが、とにかく、その組織は実際の言語の使用に際しては「あいまいさ vagueness」 (*15)を常に孕んでいる。言語活動 langage は「多様で混質的な」(ソシュール)性質を持っているのだ。 (*16) そして、ラングにおける語意の多義性はこの「あいまいさ vagu-eness」のあらわれであり、また多義性の生じる平面(ラングの「意味場」)の指向を思い起こせば(バルトによれば、ラングとは、「異質なものの混和した総体(言語活動 langage ,括弧内筆者)から、純然たる社会的対象、コミュニケーションに必要な約束事の体系化された総体を、それを構成する信号の素材(マチエール)とは無関係に取り出したもの」 (*17)である。)、それは、「あいまいさ vagueness」を辞書的に体系づけるための対抗措置でもあるのだ。

 ラングに対して、パロールは「本質的に個人による選択と現動化の行為」 (*18)である。図式的に表せば、[言語活動 langage =ラング+パロール]となる。バルトは、ラングとパロール、そして言述 discours との関係について、次のように述べている。


 記号がラングの要素になるのは、それらが、(パロールの無限の多様性にしたがってどのようにでも組み合わされるけれども)異なった言述 discours の中に、または同一の言述 discours の中に、くりかえし現れるからであり、また、パロールが個人の行動に対応し、純粋な創造活動に対応するものではないのは、それが本質的に組み合わせによるものだからである。

 この二つの用語の意味を完全に定義するには、両者を結びつけている弁証法的な過程の中でとらえるしかない。パロールがなければラングは存在しないし、またラングを離れてパロールは存在しないからである。メルロー=ポンティ Maurice Merleau-Ponty も指摘しているように、この両者の相互関係の中にしか、コトバにおける真の行動 praxis は存在しない。 (*19)


 ただそれだけで独立して在るときには多義的で、あいまいな語は、どのようにして言述中で(比較的)一義的な意味を持つようになるのだろう。その答は、言述において語は常に並べられて、文、文章、対話の形で与えられることを考えれば自ずから明らかになるだろう。バンヴェニストはこう述べている。


 文の意味は、その概念であり、語の意味はその用法(常に意味論的な語義で)である。話者は、そのつど独自な概念から出発して語を集め、それらの語は、その用法において、独自の〈意味〉を持つのである。  (*20)

 複数の語が価値をおびるのは、語が接合する結果であり、その価値は、語自体として持っている価値ではなく、しかもその価値は、語が他の方法で持つ価値と矛盾することさえある。 (*21)

 文は語において実現されるが、語は単に文を分節したものではない。文は、諸部分の総和には還元されない一つの全体をなしている。この全体に内在する意味は、構成要素の集合内に配分されている。 (*22)


 例を挙げると、「7時」という語は「7時のニュースです。」という文と「昨日は仕事が少なくて、7時に家に帰ることができた。」という文では異なった意味(ニュアンスといった方が適切か)を持つ。また、「もう7時ですよ。」という文は、その前後の関係によって様々な意味を担わされる。「今何時になった?」という問に対する応えとしては「時間が経つのははやいものですね。」とか、「そろそろ夕食にしましょうか。」といった意味を含むかもしれないし、その日、7時から用事があるはずなのに、居眠りをしてしまっている知人に対してこの言葉を私がかけた場合には「はやく起きて、急いで行きなさい。」という意味を含むかもしれない。ある語(文でさえも)は、それが置かれる文脈によってそれぞれ異なった意味を持つのである。  このことから、この節のはじめの問に対してこう答えることができる。孤立した語は、それが持つ部分的な意味の総和からなる潜在的な意味作用しか持たず、しかもそれはその語が言述において使われようとするその瞬間には揺れ動く。その語が顕在的な意味作用を持つのは、ただ与えられた文(言述)の中においてのみである。そしてその際に大きな役割を果たすのが文脈である。


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