MS-07H グフ飛行試験型

(GOUF FLYING TEST TYPE)


MS-06J陸戦型ザクをより地上用に特化する目的で開発されたグフシリーズだが、MS自体が持つ走行速度・移動範囲の限界は作戦行動、ひいては戦略にも影響を与える深刻な問題であった。圧倒的な攻撃力・防御力を持つMSを有効に運用するため様々なプランが試されたが、その一つが無謀とも言えるMS自体の飛行計画であった。

こうして開発されたのがMS-07Hである。軍開発局はこのプランを承認し、アイザック・ウーミヤック大佐を責任者とする開発チームを編成、サイド3第29バンチのコロニー工業区にテストベッドが設置された。開発スタッフには、ジオン最大の航空機メーカーであるツィマッド社のスタッフが多く参加している。機体の飛行手段にはいくつかのアイデアが出されたが、ホバーボート一体型を退けて最終的に採用されたプランは簡易性を追求した化学燃料ロケットの追加と、熱核ジェットエンジンの脚部集中化であった。既にMS-07Aの量産・配備が始まっていた時期であり、開発にはYMS-07Aを3機とYMS-07Bが1機、用意されている。

集められた4機は徹底した軽量化を施された上で、両脚部に熱核ジェットエンジンを設置された。またランドセルに2基、背部スカートに2基の化学燃料ロケットがあり、これらが離着陸時の主推進機となる。ランドセルには飛行時に機体を安定させる可変スラビライザーがついていた。脚部の熱核ジェットは足と膝の前部にエアインテークを持ち、大きなフレアを持つ脛内部にVEファンとスラスターを持っている。機体は背部のロケットで離陸し、脚部のジェットで巡航を行う予定であった。

また固定武装のヒートロッド、マシンガンは一旦解除されたが、改めて5連装75mmマシンガンを両腕に装備された。上腕にはには専用の大型マガジンが取り付けられている。格闘戦を得意とするグフだが、これはそこまでに至らない近接戦闘を考慮してのことである。

ここではっきりしているのは、MS最大の特徴である汎用性・武装の交換性を無視していることである。軍部がこのプランを特殊任務用としてしか見ておらず、ある程度見限っていたことが伺えよう。MS-07Hという開発ナンバーも、ジオンではしばしば散見されるカモフラージュナンバーであり、ナンバーを持ってはいても、実際の戦闘を無視した動力テスト機に過ぎないものであった。

改修を終えた4機は突撃機動軍が持つ補給経路を辿り、3隻のムサイで輸送された。北米キャリフォルニアのシャトルベースに到達したこれらプロトタイプは、テストセンターを経てアリゾナにあるフラットネイル空軍基地に運びこまれ、遅れたテストパイロットの到着を待つこととなった。テストチームはビリー・ウォン・ダイク大尉をチーフとする計6名で編成され、多くは本国の航空機部門から出向している。北米へ降下した彼らは連絡と航路の不手際から、機体到着より2週間遅れて着任した。そもそも調整期間は限られており、書類作成・提出を考えると、テストは実質8週間しかないタイトなスケジュールとなってしまった。

前後2週間のラグを置いて、中4週間のうちに4機で計38回の飛行テストが行われた。しかしそのほとんどが低高度のVTOLテストであり、ある程度高度を維持した巡航テストまでには10数回に及ぶトラブルが発生した。主なデータ収集は3号機が行っていたが、これは最も調整がうまくいっていたからである。それでも大出力のスラスターは燃料消費が激しく、スタッフは航続距離の限界に悩まされた。そのため使い捨て式のプロペラントタンクを追加したH-2が造られた。武装は前述の通り、両腕の5連装75mmマシンガンのみである。

UC0087年3月2日、反地球連邦組織エゥーゴは連邦軍の本拠地であるジャブローを襲撃した。グリプス戦役の始まりである。この戦闘で連邦軍は数機のMS-07Hを使用しているが、これは一年戦争後、ジオンの開発拠点を接収した連邦の手によるレプリカと推測される。

戦後連邦は10年遅れていると言われたMS技術の向上に努め、ジオンの技術を積極的に研究した。その過程でこうしたレプリカが多数造られたのである。中には意味があるとは思えないレプリカもあったが、これはジオン側のダミー情報に惑わされたことと、改めて一からジオンの技術を学ぼうという姿勢の両面が作用していたようである。ジャブロー戦で使用されたMS-07Hは、MS-09ドムのように脚部のホバーによって高速移動を行っていた。おそらく飛行能力はなかったと思われる。


MS-07H グフ飛行試験型

全 高 ?m 自重量 ?t 総出力 ?kw 地上速度 ?km/h
頭頂高 ?m 総重量 ?t 総推力 ?t


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