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『ニ〜ノラ〜〜っ!』
誰かが俺を呼んでいる。
-- ああ、タサカさんか。
声で判ったけど、薄目を開けて一応確認。
うん、あたり。
タサカさんは、ぶち模様も美しい三毛猫である。俺と同じノラ猫だ。やっぱり俺と同じく、この私立月待学園界隈を縄張りにしている。ただタサカさんには、行けば餌をくれる巡回先みたいな家があって
-- 実を言えば、タサカというのはその家の名字なのだ。
「田坂」に反応するからって、猫の呼び名をタサカにする家ってのも大概変だけど、それをそのまま使ってるこのヒトもなぁ。
それにしても、せっかく俺が気持ちよく朝寝を楽しんでいるというのに。
起きあがって挨拶するのも面倒だから、俺は目をつぶったまましっぽを振った。
『……たく。不精者』
何とでも言ってくれたまえ。
でも、それだけで許してくれるあたり、いい友達だよ。
『おはよう、ニノラ』『おはよう、タサカさん』
額をあわせてぐりぐり。これが猫の挨拶。
それからタサカさんは俺の隣に寝そべった。
ちなみに俺達がいるのは、保健室脇の木の上である。右手にグラウンド、左手に正門が見えて、なかなか眺めのいい場所だ。
『いい天気だねぇ』
顔を上げて空気の匂いを嗅いだ。
-- あれ? 誰かの足音が聞こえる。
途端に
『あら嫌だ』
タサカさんが逃げた。
結構人見知りが激しいのだ、タサカさんは。
まあそれが普通だけどね、ノラ猫なんだから。俺はそうでもないけど。
誰が来るのか興味があったから、そのまま木の上で待つことにした。
玄関から現れたのは……
なんだ、行村さんじゃないか。
高等部1年D組の担任で、御年28才の熱血体育教師。ちなみに彼女募集中。
は、いいとして、何やってんだろう、こんなところで? しかも何だかムッとした顔してるよ。
『どしたの、行村さん、こんな時間にこんなところで。HR終わったばっかりでしょ』
とりあえず、声をかけてみた。
もちろん『猫語』で。
そしたら行村さん、眉毛を10時10分にして
「ん? 猫の鳴き声。……どこだ、どこにいやがる、ニノラ猫っ!」
『こっこだよ〜〜ん』
「あっ、そんなところに!」
しっぽを振って答えてやったら、拳を振り上げて俺をにらんだ。
そ。この人、俺を毛嫌いしてるんだ。
猫を、じゃないところがミソ。
校内を猫がうろうろするのは歓迎できない、とか何とか言ってるけど、ホントの理由を俺は知ってるよ、行村さん。
ちょっと優越感に浸ったその時である。
ガラッ。
保健室の窓が開いた。
「朝からなに猫と喧嘩してるんです、行村先生?」
保険医の鮎川さんだ。
ちょっと荒っぽいところはあるけど、腕はいいし人望もある。『生徒のお姉さん』というより、『生徒の姐さん』って感じの人望だけどね。
途端に行村さんがぴきっと固まった。
「あ、鮎川先生。おはようございます! いえあの、別に喧嘩していたわけでは。ええ、ただちょっと人を捜し来ただけで……」
妙にしどろもどろな行村さんの台詞を「ふぅん」と聞き流して、鮎川さんは俺を見る。
「おはよう、ニノラ」
『おはよう、鮎川さん』
「降りてこない? 良いモノあげる」
手招きされてしまったけど、俺は丁重にお断りした。
だってなぁ……鮎川さんが手に持ってるのって、どう見ても大福の包みなんだもん。
鮎川さん、時々俺に食べ物くれるのは嬉しいんだけど、それが大概あんまんだったり大福だったりケーキだったりポテトチップスだったりするんだよなー。猫に食べさせるモンじゃないと思うんだけど……。
『いつもありがと。でも今日は遠慮しとく』
とりあえず、感謝の意を表して、しっぽをぱたぱたと振った。
俺達のこのやりとりを、行村さんは口をへの字にして見ていた。
判った? 行村さんが俺を嫌う訳。
まあそれは置いといて。
「つまんないの。美味しいのに、ここの大福。……ところで、行村先生」
俺にその気がないのを見て、鮎川さんは行村さんに視線を戻した。
慌てて振り向く行村さんに、にっこり笑って鮎川さん。
「誰を捜してたんです、こんな時間から?」
そうそう! それを俺も知りたかったんだよ。
思わず意識を聴覚に集中させた。
行村さんは、溜息混じりに答えた。
「……鳥海ですよ」
「ああ、あの子。またですか。でもこの時間だったら、来てないってこともあるんじゃ?」
「いや。来てはいるらしいんですけどね。ただ、何が気に入らなかったのか、HRが始まる前にどこかに消えたんだそうで」
「そうですか……」
鳥海って、鳥海淳也? だったら俺も知ってるぞ。
お前今はどー見たって授業中だろってな時間に、よく俺の巡回場所の、グラウンド脇の藤棚の辺りとか校舎の屋上とかにいるヤツだ。そんな時は大概、何かに怒ったような顔をしている。
毎回友達が探しに来て、それで渋々って感じで教室へ戻っていく。俺が名前を知ってるのも、梶原っていうその友達が、時々「鳥海淳也」ってフルネームで呼ぶからだ。
たまにパンを分けてくれたりもして --
でもってそんな時には結構優しい目をしてて、だから、いわゆる乱暴者とはちょっと違う、と俺は思うんだけど……。
-- あいつ、またいなくなったのか。
「中等部の頃は、あの子もああじゃなかったんですけどねぇ」
「そうらしいですね。僕は中等部の授業を持ったことはないから知らないんですけど。でも……」
高等部に上がったばかりの頃はああじゃなかった。
俯いて行村さんが言うと、
「あの件以来、ですね」
ちょっと沈んだ声で鮎川さんも答えた。
「ええ。だから、鳥海の気持ちも、判らないではないんですけどね」
2人の表情が何となく暗い。
『ったく、しょーがねぇなー』
俺はひとりごちた。
ヤなんだよ、俺はこーゆーの。
俺は、鳥海が気に入ってる。もちろん鮎川さんも、行村さんもだ。こんな風に授業を抜け出すようになる前の鳥海も、ちゃんと知ってる。
だから、気に入ってる2人が -- でもって多分鳥海も --
暗い顔して沈んでるのなんて、見てらんねーんだよ。
行村さんは、校舎の玄関から出てきた。てことは、これから鳥海を捜しに行くんだろう。
だったら……
俺が立ち上がったのをめざとく見つけて
「あ、ニノラ。行っちゃうの?」
鮎川さんが言い、
「じゃあ、僕もこの辺で……」
行村さんが鮎川さんに軽く会釈して歩き始めた。
グラウンドの方へ歩いてくんだから、どうせ行き先はおんなじだろう。
ちゃんと鳥海の行動範囲を知ってる辺り、いい教師じゃないか。
ちょっと感心した。
『しょーがないから、鳥海捜すのつきあってやるよ』
見上げて言うと、行村さんは
「お前……嫌がらせか? 邪魔だからついてくるな --
なんて猫に言っても無駄かな」
と、顔をしかめて呟いた。
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