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浮 雲 第三篇

     第十三回 

 心理の上から観れば、知愚の別なく人ことごとくおもしろ味はある。内海文三の心状を観れば、それはわかろう。
 前回参看。文三すでにお勢にたしなめられて、憤然として部屋へ駆け戻ッた。さてそれからは独り演劇(しばい)、泡をかんだり、拳を握ッたり。どう考えて見ても心外でたまらぬ。「本田さんが気に入りました、」それは一時の激語も、承知しているでもなく、またいないでもない。から、あながちそればかりを怒ッたわけでもないが、ただ腹が立つ、まだ何か他の事で、おそろしくお勢に欺かれたような心地がして、わけもなく腹が立つ。
 腹の立つまま、ついに下宿と決心して宿所を出た。ではお勢の事はすでにすッぱり思い切ッているか、というに、そうではない、思い切ッてはいない。思い切ッてはいないが、思い切らぬわけにもゆかぬから、そこでむしゃくしゃする。利害得喪、今はそのような事に頓着ない。ただおのれに逆らッてみたい、おのれの望まない事をして見たい。鴆毒(ちんどく)? 持ッて来い。なめてこの一生をむちゃくちゃにして見せよう!…
 そこで宿所を出た。同じ下宿をするなら、遠方がよいというので、本郷辺へ往ッて尋ねてみたが、どうもなかッた。から、彼地から小石川へおりて、そこここと尋ね回るうちに、ふと水道町で一軒見当てた。宿料も廉、そのわりには坐舗も清潔、下宿をするなら、まずここらと定めなければならぬ…となると文三急に考え出した。「いずれ考えてから、またそのうちに…」言葉を濁してその家を出た。
「お勢と諍論(いいあ)ッて家を出た――叔父が聞いたら、さぞ心持ちを悪くするだろうなァ…」と歩きながらそろそろ畏縮(いじけ)だした。「といって、どうもこのままには済まされん…思い切ッて今の家に下宿しようか?…」
 今さら心が動く、どうしてよいかわけがわからない。時計を見れば、まだようやく三時半すこし回ッたばかり。今から帰るも何となく気が進まぬ。から、彼所から牛込見附へかかッて、腹の屈託を口へ出して、おりおり往来の人を驚かしながら、いつ来るともなく番町へ来て、例の教師の家を訪れてみた。
 折りよくもう学校から帰ッていたので、すぐ面会した。が、授業の模様、旧生徒のうわさ、留学、ロンドン、「たいむす」、"はッばァと・すぺんさあー"――相変わぬ噺で、おもしろくも何ともない。「わたし…事によると…このごろに下宿するかもしれません。」唐突にあてもない事をいッてみたが、先生少しも驚かず、何故かふむと鼻を鳴らして、ただ「うらやましいな。もう一度そんな身になってみたい、」とばかり。とんと方角が違う。おもしろくないから、また辞して教師の宅をも出てしまッた。
 出た時の勢いに引き替えて、すごすご帰宅したは八時ごろの事であッたろう。まず目を配ッてお勢をさがす。見えない、お勢が…棄てた者に用も何もないが、それでも、文三にいわせると、人情というものは妙なもので、何となく気にかかるから、火を持ッて上がッて来たお鍋にこッそり聞いてみると、お嬢さまは気分が悪いとおっしゃッて、御膳もろくに召し上がらずに、モウお休みなさいましたという。
「御膳もろくに?…」
「御膳もろくに召しゃがらずに。」
 確かめられて文三急にしおれかけた…が、ふと気をかえて、「へ、へ、へ、御膳も召し上がらずに…今に鍋焼きうどんでも食いたくなるだろう。」
 おかしな事をいうとは思ッたが、使いに出ていて今朝の騒動を知らないから、お鍋はそのまま降りてしまう。
 と、独りになる。「へ、へ、へ、」とまた思い出して冷笑ッた…が、ふと心づいてみれば、今はそんな、つまらぬ、くだらぬ、薬袋(やくたい)もない事にかかわッている時ではない。「叔父の手前何といッて出たものだろう?」と改めて首をひねッて見たが、もウ何となくばかげていて、まじめになって考えられない。「何といッて出たものだろう?」と強いて考えてみても、心めがいう事をきかず、それとは全く関繋(かんけい)もないよそごとをいつからともなく思ッてしまう。いろいろに紛れようとしてみても、どうも紛れられない、意地悪くもそのよそごとが気にかかッて、気にかかッて、どうもならない。こらえに、こらえに、こらえて見たが、とうとうこらえ切れなくなッて「して見ると、同じように苦しんでいるかしらん。」はッといッても追い付かず、こう思うと、急におそろしく気の毒になッて来て、文三あわてて後悔をしてしまッた。
 しかるよりはあやまる方が文三には似合うとだれやらがいッたが、そうかもしれない。


     第十四回 

「気の毒気の毒、」と思い寝にうとうととして目をさまして見れば、烏の鳴き声、雨戸を繰る音、裏の井戸で釣瓶を軋らせる響き。少し眼足りないが、無理に起きて下坐舗へ降りてみれば、ただお鍋が睡そうな顔をして釜の下を焚き付けているばかり。だれも起きていない。
 朝寝が持ち前のお勢、まだ臥ているは当然の事、とは思いながらも、何となく物足らぬ心地がする。
 早く顔が視たい、どんな顔をしているか。顔を視れば、どうせよい心地がしないは知れていれど、それでいてただ早く顔が視たい。
 三十分たち、一時間たつ。今に起きて来るか、と思えば、こそばゆい。髪の寝乱れた、顔の蒼ざめた、腫れ瞼(まぶち)の美人が終始目前にちらつく。
「昨日下宿しようと騒いだはだれであッたろう、」といったような顔色…
 朝飯がすむ。文三は奥坐舗を出ようとする、お勢はそのころになッてようよう起きて来て、入ろうとする、――縁側でピッタリ出会ッた…はッとうろたえた文三は、かねて期した事ながら、それに引き替えて、お勢の澄ましようは、じろりと文三をしり目にかけたまま、奥坐舗へツイともいわず入ッてしまッた。ただそれだけの事であッた。
 が、それだけで十分。そのじろりと視た目つきが目の底にしみついて忘れようとしても忘れられない。胸はつかえた。気は結ぼれる。かてて加えて、朝の薄曇りが昼少し下がるころより雨となッて、びしょびしょと降り出したので、気も消えるばかり。
 お勢は気分の悪いを口実にして英語のけいこにもいかず、ただ一間にこもッたぎり、音沙汰なし。昼飯の時、顔を合わしたが、お勢はなりたけ文三の顔を見ぬようにしている。たまたま目を視合わせれば、すぐ首を据えておかしく澄ます。それがにらみつけられるより文三にはつらい。雨はやまず、お勢は済まぬ顔、家内も湿り切ッてだれとて口を聞く者もなし。文三果ては泣き出したくなッた。
 心苦しいその日も暮れてやや雨はあがる。昇が遊びに来たが、門口で華やかな声。お鍋のけたたましく笑う声が聞こえる。お勢はその時奥坐舗にいたが、それを聞くと、うろたえて起ち上がろうとしたが、間に合わず、――気軽に入ッて来る昇に視られて、さも余儀なさそうにまたすわッた。
 何も知らぬから、昇、例のごとく、好もしそうな目つきをしてお勢の顔を視て、挨拶よりまず戯言をいう、お勢はにっこりともせず、まじめな挨拶をする、――かれこれくいちがう。から、昇も怪訝な顔色をして何かいおうとしたが、突然のお政が、三日も物をいわずにいたように、たてつけてしゃべりかけたので、つい粉らされてその方を向く。その間にお勢はこッそり起ち上がッて坐舗をすべり出ようとして…見つけられた。
「どこへ、勢ちゃん?」
 けれども、聞こえませんから返答をいたしませんといわぬばかりで、お勢は坐舗を出てしまッた。
 部屋は真の闇。手探りでマッチだけは探り当てたが、ランプが見つからない。大方お鍋が忘れてまだ持ッて来ないのであろう。「鍋や、」と呼んで少し待ッてみてまた「鍋や…」返答をしない。「鍋、鍋、鍋。」たてつけて呼んでも返答をしない。じれきッていると、気の抜けたころに、間の抜けた声で、
「お呼びなさいましたか?」
「知らないよ…そんな…呼んでも呼んでも、返答もしないンだものを。」
「だッて奥で御用をしていたンですものを。」
「用をしていると返答はできなくッて?」
「御免あそばせ…何か御用?」
「用がなくッて呼びはしないよ…そんな…人を…くらみ(暗黒)でるのがわかッ(分ら)なッかえッ?」
 二、三度聞き直してようやくわかッてランプを持ッて来たが、心なしめがあとをも閉めずして出ていッた。
「ばか。」
 顔に似合わぬ悪体をつきながら、起ち上がッて邪険に障子をしめ切り、再び机のほとりにすわる間もなく、せっかくしめた障子をまたあけて…おのれ、やれ、もう堪忍が…と振りかえッてみれば、案外な母親。お勢は急によそを向く。
「お勢、」と小声ながら力瘤を込めて、お政は呼ぶ。こちらはなに返答をするものかと力んだ面相。
「何だといッて、あんなおかしな処置振りをおしだ?本田さんが何とか思いなさらアね。あっちへおいでよ。」
 としばらく待ッていてみたが、動きそうにもないので、また声を励まして、
「よ、おいでといッたら、おいでよ。」
「そのくらいならあんな事いわないがいい…」
 と差しうつ向く。その顔をのぞけば、おやおや泪ぐんで…
「ま、あきれけえッちまわア!」と母親はあきれけエッちまッた。「たンとおふくれ。」
 とはいッたが、また折れて、
「世話ア焼かせずと、おいでよ。」
 返答なし。
「ええ、も、じれッたい!勝手にするがいい!」
 そのまま母親は奥坐舗へ還ってしまった。
 これで坐舗へ還る綱も截(き)れた。求めて截ッて置きながら今さら惜しいような、じれッたいような、おかしな顔をしてしばらく待ッていてみても、だれも呼びに来てもくれない。また呼びに来たとて、おめおめ還られもしない。それに奥坐舗では想像(おもいやり)のない者どもが打ちそろッて、噺すやら、笑うやら…肝癪紛れにお勢は色鉛筆を執ッて、まだ真新しな"すうぃんとん"の文典の表紙をごしごしこすり初めた。不運なは"すうぃんとん"の文典!
 表紙が大方真っ青になッたころ、ふと縁側に足音…耳をそばだてて、お勢ははッとうろたえた…手ばしこく文典をあけて、倒(さか)しまになッているとも心づかで、ぴッたり目で食い込んだ、とんと先刻から書見していたような面相をして。
 すらりと障子があく。文典をみつめたままで、お勢は少し震えた。遠慮気もなく無造作に入ッて来た者はいわでと知れた昇。華美な、軽い調子で、「にげたね、好男子が来たと思ッて。」
 といわして置いて、お勢はようやく重そうに首をあげて、世にも落ち着いた声で、さもにべなく、
「あの失礼ですが、まだ明日の支度をしてませんから…」
 けれども、敵手が敵手だから、一向きかない。
「明日の支度? 明日の支度なぞはどうでもいいさ。」
 と昇はお勢のそばに陣を取ッた。
「ほんとうにまだ…」
「何をそうすねたンだろう? おっかさんにしかられたね? え、そうでない。はてな。」
 と首を傾けるより早く横手を拍(う)ッて
「あ、ああわかッた。な、な、それで…それならそうと早く一言いえばいいのに…なンだろう大方かく申す拙者めに…ウ…ウといったようなわけなンだろう? 大蛤の前じゃア口があきかねる、――これゃアもっともだ。そこで釣り寄せて置いて…ほんありがた山の蜀魂(ほととぎす)、一声漏らそうとはうれしいぞえうれしいぞえ。」
 と妙な身振りをして、
「それなら、実はこっちもとうからその気ありだから、それ白痴(こけ)が出来合い靴を買うのじゃないが、しッくりはまるというもンだ。はまるといえば、邪魔の入らないうちだ。ちよッくり抱ッこのぐい極(ぎ)めといきやしょう。」
 と白けた声を出して、手を出しながら、すり寄ッて来る。
「明日の支度が…」
 とお勢は泣き声を出して身を縮ませた。
「ほい間違ッたか。失敗、失敗。」
 何をいッても敵手にならぬのみか、このうえ手を付けたら雨になりそうなので、さすがの本田も少し持ちあぐねた所へ、お鍋が呼びに来たから、それを幸いにして奥坐舗へ還ッてしまッた。
 文三は昇が来たから安心を失くして、起ッて見たりすわッて見たり。がたびしするのがうすうすわかるので、いよいよもってたまらず、ない用をこしらえて、この時二階を降りてお勢の部屋の前を通りかけたが、ふと耳をそばだて、抜き足をして障子の間隙(ひずみ)から内をのぞいてはッと顔。お勢が伏臥(うつぶせ)になッて泣…い…て…
「Explanation(示談(はなしあい))」と一時に胸で破裂した…


     第十五回 

 Explanation(示談)と、肚を極めてみると、大きに胸が透いた。おのれの打ち解けた心で推し測るゆえ、さほどに難事とも思えない。もウ少しの辛抱、と、哀しむべし、文三は眠らでとも知らず夢を見ていた。
 機会(おり)を窺ている二日目の朝、見知り越しの金貸しが来てお政を連れ出して行く。時機到来…今日こそは、と領(えり)を延ばしているとも知らず帰ッて来たか、下女部屋の入り口で「おッかさんは?」と優しい声。
 その声を聞くとひとしく、文三起ち上がりは起ち上がッたが、据えた胸もいざとなればおどる。前へ一歩、後ろへ一歩、ためらいながら二階を降りて、ふいと縁を回ッて見れば、部屋にとばかり思ッていたお勢が入り口の柱にもたれて、空を向上(みあ)げて物思い顔…はッと思ッて、文三立ち止まッた。お勢も何心なく振り返ッてみて、急に顔を曇らせる… ツと部屋へ入ッてあとぴッしゃり。障子は柱と額合わせをして、二、三寸跳ね返ッた。
 跳ね返ッた障子を文三は恨めしそうにみつめていたが、やがて思い切りわるく二歩三歩。わななく手頭を引き手へかけて、胸と共に障子をおどらしながらあけてみれば、お勢は机の前にかしこまッて、一心に壁とにらめくら。
「お勢さん。」
 と瀬踏みをしてみれば、あどけなく返答をしない。危うきに慣れて縮めた肝を少し太くして、また、
「お勢さん。」
 また返答をしない。
 この分なら、と文三は取り越して安心をして、にこにこしながら部屋へ入り、よきほどの所に座を占めて、
「少しお噺が…」
 この時になッてお勢は初めて、首の筋でも蹙(つま)ッたように、そろそろ顔をこちらへ向け、かわいらしい目に角を立てて、文三の様子を見ながら、何か言いたそうな口つきをした。
 今打とうと振り上げた拳の下に立ッたように、文三はひやりとして、思わず一生懸命にお勢の顔を見つめた。けれども、お勢は何ともいわず、また向こうを向いてしまッたので、やや顔を霽(は)らして、きまりわるそうににこにこしながら、
「この間はまことにどう…」
 もと言い切らぬうち、つと起き上がッたお勢の体が…不意を打たれて、ぎょッとする、女帯が、友禅染めの、眼前にちらちら…はッと心づく…われを忘れて、しッかり捉えたお勢の袂を…
「何をなさるンです?」
 と慳貪(けんどん)にいう。
「少しお噺…お…」
「今用があります。」
 邪険に袂を振り払ッて、ついと部屋を出てしまッた。
 そのあとをながめて文三はあきれた顔…「この期をはずしては…」と心づいて起ち上がりてはみたが、まさかあとを慕ッていかれもせず、しおれて二階へこそこそと帰ッた。
「しまッた、」と口へ出して後悔して後れ馳せに赤面。「今にお袋が帰ッて来る。『おっかさんこれこれの次第…』しまッた、しくじッた。
 千悔、万悔、臍(ほぞ)を噬(か)んでいる胸もとを貫くような午砲(ドン)の響き。それと同時に「御膳でございますよ。」けれど、ほいきたといッて降りられもしない。二、三度呼ばれて拠(よ)んどころなく、薄気味わるわる降りてみれば、お政はもウ帰ッていて、娘と取り膳で今食事最中。文三は黙礼をして膳に向かッた。「もう咄したか、まだ咄さぬか、」と思えば胸も落ち着かず、臆病で好事(ものずき)な眼を額越しにそッと親子へ注いでみればお勢は澄ました顔、お政は意味のない顔、…咄したともつかず、咄さぬともつかぬ。
 寿命を縮めながら、食事をしていた。
「そらそら、気をお付けなね。小供じゃアあるまいし。」 ふととどろいたお政の声に、怖気ついた文三ゆえ、びっくりして首をあげてみて、安心した、お勢が誤ッてお茶を膝にこぼしたのであッた。
 気を付けられたからというえこじな顔をして、お勢は澄ましている。ふきもしない。「早くおふきなね、」と母親はしかッた。「膝の上へ茶をこぼして、ぽかんとみてえる奴があるもんか。三歳児じゃアあるまいし、意気地のないにも方図があッたもンだ。」
 もはやこうなッては穏やかに収まりそうもない。黙ッても視ていられなくなッたから、お鍋は一かたけ頬ばッた飯を鵜呑みにして、「はッ、はッ、」と笑ッた。同じ心に文三も「へ、へ、」と笑ッた。
 するとお勢はきっと振り向いて、こわらしい目つきをして文三を睨め出した。その容子が常でないから、お鍋はふと笑いやんでもッけな顔をする。文三は色を失ッた…
「どうせ私は意気地がありませんのさ、」とお勢はじぶくりだした、だれに向かッていうともなく。
「笑いたきゃアたんとお笑いなさい…失敬な。人のしかられるのがどこがおかしンだろう? げたげたげたげた。」
「何だよ、やかましい!言い草いわずと、さっさとふいておしまい。」
 と母親は火鉢の布巾を放げ出す。けれども、お勢は手にだも触れず、
「意気地がなくッたッて、まだ自分がいッたことを忘れるほど盲録はしません。よけいなお世話だ。人の事よりか自分の事を考えてみるがいい。男の口からもう口もきかないなンぞッていッて置きながら…」
「お勢!」
 と一句に力を込めて制する母親、その声ももウこうなッては耳には入らない。文三をしり目にかけながらお勢は歯ぎしりをして、
「まだ三日もたたないうちに、人の部屋へ…」
「これ、どうしたもンだ。」
「だッてわたしァ腹が立つものを。人の事を浮気者だなんぞッてののしッて置きながら、三日もたたないうちに、人の部屋へつかつか入ッて来て…人の袂(たもと)なンぞつかまえて、咄があるだの、何だの、種々な事をいッて…なんぼ何だッてあんまり人を軽蔑した…いう事があるなら、ここでいうがいい、おっかさんの前でいえるなら、いッてみるがいい…」
 留めれば留めるほど、なおわめく。さんざんわめかして置いて、もういい時分となッてから、お政が「あッちへ、」と顎でしゃくる。しゃくられて、放心して人の顔ばかり視ていたお鍋は初めて心づき、あわてて箸を棄ててお勢のそばへ飛んで来て、いろいろにすかして連れて行こうとするが、なかなか素直に連れて行かれない。
「いいえ、うッちゃッといとくれ。何だかいう事があるッていうンだから、それを…聞かないうちは…いいえ、わたしゃ…あんまり人を軽蔑した…いいえ、そこお放しよ…お放しッてッたら、お放しよッ…」
 けれども、お鍋の腕力にはかなわない。無理無体に引き立てられ、がやがやわめきながらも坐舗を連れ出されて、やや部屋へ収まッたようす。
 となッて、文三始めて人心地がついた。
 いずれあてこすりぐらいはあろうとは思ッていたが、こうまでとは思いがけなかッた。青天の霹靂(へきれき)、思いのほかなのに度肝を抜かれて、腹を立てるいとまもない。脳は乱れ、神経は荒れ、心神錯乱して是非の分別も付かない。たださしあたッた面目なさに消えも入りたく思うばかり。叔母を観れば、薄気味わるくにやりとしている。このままにも置かれない、――から、余儀なく叔母の方へ膝を押し向け、おろおろしながら、
「実に…どうもす、す、済まんことをしました…まだお咄しはいたしませんでしたが…一昨日お勢さんに…」
 と言いかねる。
「その事なら、ちらと聞きました、」と叔母が受け取ッてくれた。「それはああしたわがままですから、定めしお気にさわるような事もいいましたろうから…」
「いや、決してお勢さんが…」
「それゃアもう、」と一越(いちおつ)調子高にいッて、文三を言い消してしまい、また声を並みに落として、「おしかんなさるも、あれの身のためだから、いいけれども、ただまだ婚嫁前の事てすから、あんな者でもね、あんまり身体に疵の…」
「いや、私は決して…そんな…」
「だからさ、お言いなすッたとはいわないけれども、これあるもある事たから、おねがい申して置くンですよ。わるくお聞きなすッちゃアいけないよ。」
 びッたり釘を打たれて、ぐッともいえず、文三はただ口惜しそうに叔母の顔を視つめるばかり。
「子を持ッてみなければ、わからない事(こっ)たけれども、女の子というものは嫁(かたず)けるまでが心配なものさ。それゃア、人さまにゃアあんな者をどうなッてもよさそうに思われるだろうけれども、親ばかとはうまくいッたもンで、あんな者でも子だと思えば、ありもしねえ悪名つけられて、ひょッと縁遠くでもなると、いやなものさ。それにだれにしろ、踏みつけられれゃア、あンまりいい心持ちもしないものさ、ねえ文さん。」
 もウ文三たまりかねた。
「す、す、それじゃ何ですか…私が…私がお勢さんを踏み付けたとおッしゃるンですかッ?」
「こわい事をお言いなさるねえ、」とお政はおそろしい顔になッた。「お前さんがお勢を踏み付けたとだれが言いました? わたしア自身にも覚えがあるから、ただの世間咄に踏み付けられたと思うといやなもンだといッたばかしだよ。それをそんな言いもしない事をいって…ああ、なンだね、お前さん言いがかりをいうンだね? 女だと思ッて、そんな事をいッて、人を困らせる気だね?」
 と層(かさ)にかかッて極め付ける。
「ああわるうござンした…」と文三あわててあやまッたが、口惜し涙が承知をせず、両眼にいっぱいたまるので、顔を揚げていられない。差しうつ向いて「私が…わるうござンした…」
「そうお言いなさると、さもわたしが難題でもいいだしたように聞こゆるけれども、なにもそうにげなくッてもいいじゃないか? そんな事を言い出すからにゃア、お前さんだッて、何もわけがなくッちゃア、お言いなさりもすまい?」
「わたしがわるうござンした…」と差しうつ向いたままで重ねてあやまった。「全くそんな気で申したわけじゃアありませんが…お、お、思い違いをして…つい…失礼を申しました…」
 こういわれては、さすがのお政ももう噛み付きようがないと見えて、無言でしばらく文三を睨めるように視ていたが、やがて、
「ああいやだいやだ、」と顔をしかめて、「こんないやな思いをするもみんなあいつのおかげだ。どれ、」と起ち上がッて、「いって土性骨を打っ挫いてやりましょう。」
 お政は坐舗を出てしまッた。
 お政が坐舗を出るやいなや、文三は今までのため涙を一時にはらはらと落とした。ただそのまま、さしうつむいたままで、ややしばらくの間、起ち上がらず、身動きもせず、黙然としてすわッていた。が、そのうちにお鍋が帰ッて来たので、文三も、余儀なく、うつむいたままで、力なさそうに起ち上がり、すごすごわが部屋へ戻ろうとして梯子段の上まで来ると、お勢の部屋でさも意地張ッた声で、
「わたしゃアもう家にいるのはいやだいやだ。」


     第十六回 

 あれほどまでにお勢母子の者に辱められても、文三はまだ園田の家を去る気になれない。ただ、そのかわり、火の消えたように、鎮まッてしまい、いとど無口が一層口をきかなくなッて、呼んでもはかばかしく返答をもしない。用事がなければ下へも降りて来ず、ただ一間にのみ垂れこめている。あまり静かなので、ついいることを忘れて、お鍋がランプの油を注がずに置いても、それをいいつけて注がせるでもなく、油がなければないで、真っ闇な坐舗にしょんぼりとして、終始何事をか考えている。
 けれど、こう静まッているは表相のみで、その胸臆の中へ立ち入ッてみれば、じつに一方ならぬ変動。あたかも心が顛動(てんどう)したごとくに、昨日よいと思ッた事も今日は悪く、今日悪いと思う事も昨日はよいとのみ思ッていた。情欲の雲が取れて心の鏡が明らかになり、睡入ッていた知恵はにわかに目をさまして決然として断案を下し出す。目に見えぬところ、幽妙のところで、文三は――全くとはいわず――やや生まれ変わッた。
 目を改めてみれば、今までしてきたことは夢かはた現か…と怪しまれる。
お政の浮薄、今さらいうまでもない。が、過ッた文三は、――実に今まではお勢を見謬(みあや)まッていた。今となッて考えてみれば、お勢はさほど高潔でもない。移り気、開豁(はで)、軽躁(かるはずみ)、それを高潔と取り違えて、意味もない外部の美、それを内部のと混同して、愧かしいかな、文三はお勢に心を奪われていた。
 われに心を動かしていると思ッたがあれがそもそも誤りの緒(いとぐち)。かりそめにも人を愛するというからには、必ずまず互いに天性気質を知りあわねばならぬ。けれども、お勢は初めより文三の人となりを知ッていねば、よし多少文三に心を動かしたごとき形迹(けいせき)があればとて、それは真に心を動かしていたではなく、ただほんの一時感染(かぶ)れていたのであッたろう。
 感受の力の勝つ者はだれしも同じ事ながら、お勢は眼前に移り行く事や物やのうち少しでも新奇な物があれば、目早くそれを視て取ッて、直ちに心に思い染める。けれども、惜しいかな、ほとんど見たままで、別に烹煉(ほうれん)を加うるということをせずに、無造作にその物その事の見解を作ッてしまうから、自ら真相を看破(あきら)めるというには至らずして、ややもすれば浅膚(せんぷ)の見に陥る。それゆえ、そのものに感染れて、眼色を変えて、狂い騒ぐときをみれば、いかにも熱心そうに見えるものの、もとより一時の浮想ゆえ、まだ真味を味わわぬうち、早くも熱が冷めて、いや気になッて惜しげもなく打ち棄ててしまう。感染れる事の早い代わりに、飽きる事も早く、得る事に熱心な代わりに、すでに得たものを失うことには無頓着。書物を買うにしても、そうで、買いたいとなると、矢も盾もなく買いたがるが、買ッてしまえば、あまり読みもしない。英語のけいこを初めた時も、またその通りで、初めるまでは一日をも争ッたが、初めてみれば、さほどに勉強もしない。万事そうした気風であってみれば、お勢の文三に感染れたも、また厭いたも、その間にからまる事情を棄てて、単にその心状をのみ繹(たず)ねてみたら、恐らくはそのような事であろう。
 かつお勢は開豁な気質、文三は朴茂(じみ)な気質。開豁が朴茂に感染れたから、どこか仮衣をしたように、そぐわぬ所があッて、落ち着きが悪かッたろう。悪ければ良くしようというが人の常情であッてみれば、たとえ免職、窮愁、恥辱などという外部の激因がないにしても、お勢の文三に対する感情は早晩一変せずにはいなかッたろう。
 お勢は実に軽躁である。けれども、軽躁でない者が軽躁な事をしようとして得ぬがごとく、軽躁な者は軽躁な事をしまいと思ッたとて、なかなかしずにはおられまい。軽躁と自ら認めている者すら、なおこうしたものであッてみれば、ましてお勢のごとき、まだわれをも知らぬ、罪のない処女がおのれの気質に克ち得ぬとて、あながちにそれを無理ともいえぬ。もしお勢を深くとがむべき者なら、較べていえば、やや学問あり知識ありながら、なお軽躁を免れぬ、たとえば、文三のごとき者は(はれやれ、文三のごとき者は?)何としたものであろう?
 人事でない。お勢もわるかッたが、文三もよろしくなかッた。「人の頭の蠅を逐うよりはまずわが頭のを逐え、」――聞き旧した諺も今は耳新しく身にしみて聞かれる、から、何事につけても、おのれ一人をのみ責めてあえてみだりにお勢をとがめなかッた。が、いかにひいき目にみても、文三のすでに得たいわゆる識認というものをお勢が得ているとはどうしても見えない。軽躁と心づかねばこそ、身を軽躁に持ちくずしながら、それを憂しとも思わぬ様子、醜穢(しゅうかい)と認めねばこそ、身を不潔な境に処きながら、それを何とも思わぬ顔色。これが文三の近来最も傷心な事、半夜夢さめて燈(ともしび)冷ややかなる時、想うてこの事にいたれば、つねに悵然(ちょうぜん)として太息せられる。
 して見ると、文三は、ああ、まだ苦しみがなめ足りぬそうな!


     第十七回 

 お勢のあくたれた時、お政は娘の部屋で、およそ二時間ばかりも、何か諄々と教誨(いいきか)せていたが、それからは、どうしたものか、急に母子の折り合いがよくなッて来た。取り分けてお勢が母親に孝順(やさしく)する、折節にはきげんを取るのかと思われるほどの事をもいう。親も子も睨める敵は同じ文三ゆえ、こう比周(したしみあう)もそのはずながら、動静を窺(み)るに、ただそればかりでもなさそうで。
 昇はその後ふッつり遊びに来ない。顔を視ればいがみ合う事にしていた母子ゆえ、折り合いが付いてみれば、咄もなく、文三の影口も今は道尽(いいつ)くす、――家内がいつからとなく湿ッて来た。
「ああ辛気なこと!」と一夜お勢があくびまじりにいッて泪ぐンだ。
 新聞を拾い読みしていたお政は眼鏡越しに娘を見やッて、「あくびをして徒然(つくねん)としていることはないやアね。本でも出して来てお復習(さらい)なさい。」
「復習ッて、」とお勢は鼻声になッて眉をひそめた。
「明日の支度はもう済ましてしまッたものを。」
「済ましッちまッたッて。」
 お勢はまた新聞に取りかかッた。
「おっかさん。」とお勢は何かおもい出して事ありげにいッた。「本田さんはなぜ来ないンだろう?」
「なぜだか。」
「憤(おこ)ッているのじゃないだろうか?」
「そうかもしれない。」
 何をいッても取り合わぬゆえ、お勢も仕方なく口をつぐんで、しばらく物思わしげにランプをみつめていたが、それでもまだ気にかかると見えて、「おっかさん。」
「何だよ?」とうるさそうにお政は起き直ッた。
「ほんとうに本田さんは憤ッて来ないのだろうか?」
「何を?」
「何をッて、」少し気を得て、「そら、この間来た時、私がかまわなかったから…」
 と母の顔をみつめた。
「なに人、」とお政はにっこりした、何といッてもまだおぼだなと言いたそうで。「お前にかまッてもらいたいンで来なさるンじゃあるまいシ。」
「あら、そうじゃないンだけれどもさ…」
 と愧(はず)かしそうに自分もにっこり。
 おほんという罪を作ッているとは知らぬから、昇が、例の通り、平気な顔をしてふいとやッて来た。
「おや、ま、うわさをすれば影とやらだよ」、お政が顔を見るよりしゃべりつけた。「今あなたのうわさをしていた所さ。え? もちろんさ、ぎりにもよくはいえないッさ…ははははは。それは情談だが、きついお見限りですね。どこか穴でもできたンじゃないかね? できたとえ?そらそら、それだもの、だから鰻男だということさ。ええ鰌(どじょう)でなくッてお仕合わせ? 鰌とはえ?…あ、ほンに鰌といえば、向こう横町にできた鰻屋ね、ちょいと異(おつ)ですツさ。久しぶりだッて、おごらなくッてもいいよ、はははは。」
 皺延ばしの太平楽、聞くに堪えぬというは平日の事、今宵はちと情実(わけ)があるから、お勢は顔をしかめるはさて置き、昇の顔を横目でみながら、追っかけ引っかけて高笑い。てれ隠しか、うれしさのこぼれか当人に聞いてみねば、とんとわからず。
「今夜は大分ごきげんだが、」と昇も心づいたか、お勢をなぶりだす。「この間はどうしたもンだッた? 何をいッても、『まだ明日の支度をしませんから。』はッ、はッ、はッ、おもい出すとおかしくなる。」
「だッて、気分が悪かッたンですものを、」と淫哇(いやら)しい、形容もできない身振り。
「何が何だか、わけがわかりゃアしません。」
 少ししらけた席の穴をうめるためか、昇がにわかに問われもせぬ無沙汰のいいわけをしだして、近ごろは頼まれて、一夜はざめに課長の所へいって、細君と妹に英語の下げいこをしてやる、という。「いや、迷惑な、」と言葉を足す。
 と聞いて、お政にも似合わぬ、正直な、まうけに受けて、その不心得を諭す、これが立身の踏み台になるかも知れぬといッて。けれども、お弟子がお弟子ゆえ、飛んだ事まで教えはすまいかと思うと心配だと高く笑う。
 お勢は昇が課長の所へ英語を教えにいくと聞くより、どうしたものか、にわかにしおれだしたが、この時母親に釣られてさびしい顔でにっこりして、「令妹の名は何というの?」
「花とか耳とかいッたッけ。」
「よほどできるの?」
「英語かね?なアに、からだめだ。Thank you for your Kind だから、まだまだ。」
 お勢は冷笑の気味で、「それじゃア…」
 I will ask you といッて今日教師にしかられた、それはこの時忘れていたのだから、仕方がない。
「ときに、これは、」と昇はお政の方を向いて親指を出してみせて、「どうしました、その後?」
「いますよまだ、」とお政は思い切ッて顔をしかめた。
「ずうずうしいと思ッてねえ!」
「それもいいが、また何かお勢に言いましたツさ。」
「お勢さんに?」
「はア。」
「どんな事を?」
 おッとまかせとしゃべり出した、文三のお勢の部屋へ忍び込むからだんだんと順を逐ッて、剰さず漏らさず、おまけまでつけて。昇は顎をなでてそれをきいていたが、お勢が悪たれた一段となると、不意に声を放ッて、大笑いに笑ッて、「そいつァ痛かッたろう。」
「なにそン時こそちっとばかしおかしな顔をしたッけが、半日もたてば、また平気なものさ。なンと、本田さん、ずうずうしいじゃアありませんか!」
「そうしてね、まだわたしの事を浮気者だなンぞッて。」
「ほんとうにそんな事もいったそうですがね、なにも、そんなに腹がたつなら、ここの家にいないがいいじゃありませんか。わたしならすぐ下宿か何かしてしまいまさア。それを、そんな事をいッて置きながら、ずうずうしく、のべんくらりと、大飯を食らッて………ているとはどこまで押しが重たいンだか数が知れないと思ッて。」
 昇は苦笑いをしていた。しばらくして返答とはなく、ただ、「何にしても困ッたもンだね。」
「ほんとに困ッちまいますよ。」
 困ッている所へ勝手口で、「梅本でござい。」梅本というは近処の料理屋。「おや家では…」とお政は怪しむ、その顔もたちまちにこにことなッた、昇のいいつけとわかッて。
「それだからこの息子はかわいいよ。」片腹痛い言(こと)までいッてやがて下女が持ち込む岡持の蓋を取ッて見るよりまた意地の汚い言をいう。それを、今夜に限って、平気で聞いているお勢どのの心持ちがわからない、と怪しんでいる間もあればこそ、それッと炭を継ぐ、吹く、起こす、燗(かん)をつけるやら、鍋をかけるやら、またたく間に酒となッた。
 あいのおさえのといううるさい事のない代わり、洒落、担ぎ合い、大口、高笑い、都々逸(どどいつ)の素じぶくり、替え歌の伝授など、いろいろの事があッたが、うるさいからそれは略す。
 刺身の調味(つま)のみになッておくびで応答(うけこたえ)するころになッて、お政は、例の所へでもゆきたくなッたか、ふと起ッて坐舗を出た。
 と両人差し向かいになッた。顔を視合わせるともなく視合わして、お勢はくすくすと吹き出したが、急にまじめになッてちんと澄ます。
「これァおかしい。何がくすくすだろう?」
「何でもないの。」
「のぼる源氏のお顔を拝んでうれしいか?」
「あきれてしまわア、ひょッとこ面のくせに。」
「何だと?」
「きれいなお顔でございますということ。」
 昇は例の黙ッてお勢を睨め出す。
「きれいなお顔だというンだから、ほほほ」と用心しながらあとすざりをして、「いいじゃア…おッ…」
 ツと寄ッた昇がお勢のそばへ…空で手と手がひらめく、からまる…と鎮まッた所をみれば、お勢はいつか手を握られていた。
「これがどうしたの?」と平気な顔。
「どうしもしないが、こうまず俘虜(いけどり)にしておいてどッこい…」と振り放そうとする手を握りしめる。
「あちちち」と顔をしかめて、「痛い事をなさるねえ!」
「ちッとは痛いのさ。」
「放してちょうだいよ。放さないとこの手に食い付きますよ。」
「食い付きたいほど思えども…」と平気で鼻歌。
 お勢はおそろしく顔をしかめて、甘たるい声で、「よう、放してちょうだいといえばねえ…声を立てますよ。」
「お立てなさいとも。」
 といわれて一段声を低めて、「あら(引)本田さんが(引)手なんぞ握ッて(引)ほほほ、いけません、ほほほ。」
「それはさぞ(引)お困りでございましょう(引)」
「ほんとうに放してちょうだいよ。」
「なぜ? 内海に知れると悪いか?」
「なにあんな奴に知れたッて…」
「じゃ、ちッとこうしていたまえ。大丈夫だよ、淫褻(いたずら)なぞする本田にあらずだ…が、ちょッと…」と何やら小声でいッて、「…ぐらいはよかろう?」
 するとお勢は、どうしてか、急に心からまじめになッて、「あたしァ知らないからいい…わたしゃァ…そんな失敬な事ッて…」
 昇はおもしろそうにお勢のまじめくさった顔をながめてにこにこしながら、「いいじゃないか? ただちょいと…」
「いやですよ、そんな…よッ、放してちょうだいといえばねえッ。」
 一生懸命に振り放そうとする、放させまいとする、暫時争ッていると、縁側に足音がする、それを聞くと、昇はわれからお勢の手を放して大笑いに笑い出した。
 ずッとお政が入ッて来た。
「叔母さん叔母さん、お勢さんを放し飼いはいけないよ。今も人をつかまえて口説いて口説いて困らせ抜いた。」
「あらあらあんな虚言をついて…ひどい人だこと!…」
 昇は天井を仰向いて、「はッ、はッ、はッ。」


     第十八回 

 一週間とたち、二週間とたつ。昇は、相かわらず、しげしげ遊びに来る。そこで、お勢もますます親しくなる。
 けれど、その親しみ方が、文三の時とは、大きに違う。かの時は華美から野暮(じみ)へと感染(かぶ)れたが、このたびは、その反対で、野暮の上塗りが次第にはげてようやく木地の華美に戻る。両人とも顔を合わせれば、ただ戯れるばかり、落ち着いて談話などした事さらになし。それも、お勢にいわせれば、昇がよろしくないので、こちらでまじめにしているものを、とぼけた顔をし、剽軽(ひょうきん)な事を言い、軽く、気なしに、調子を浮かせてあやなしかける。それゆえ、念に掛けて笑うまいとはしながら、おかしくて、おかしくて、どうもたまらず、唇をかみ締め、眉を釣り上げ、真っ赤になッても耐え切れず、つい吹き出して大事の大事の品格を落としてしまう。果ては、何をいわれんでも、顔さえ見れば、おかしくなる。「本当に本田さんはいけないよ、人を笑わしてばかりいて。」お勢は絶えず昇を憎がッた。
 こうお勢に対うと、昇は戯れ散らすが、お政には無遠慮といううちにも、どこかしっとりとした所があッて、戯言をいわせれば、言いもするが、また落ち着く時には落ち着いて、随分まじめな談話もする。もちろん、まじめな談話といッた所で、金利公債の話、家屋敷の売り買いのうわさ、さもなくば、借家人がさらに家賃を納(い)れぬ苦情――皆つまらぬ事ばかり。一つとしてお勢の耳にはおもしろくも聞こえないが、それでいて、両人の話している所を聞けば、何か、談話の筋のほかに、男女交際、婦人矯風(ふじんきょうふう)の議論よりは、はるかにおもしろい所があッて、それを目顔で話し合ッて娯(たの)しんでいるらしいが、お勢にはさっぱりわからん。が、よほどおもしろいと見えて、そんな談話が始まると、お政はもちろん、昇までが平生の愛嬌はどこへやらやッて、お勢の方は見向きもせず、一心になッて、あるいは公債を書き替えるごく簡略な法、あるいはだれも知ッている銀行の内幕、またはお得意の課長の生計の大した事を蝶々と話す。お勢は退屈で退屈で、あくびばかり出る、起ち上がッて部屋へ帰ろうとは思いながら、つい起ちそそくれて潮合(しおあい)を失い、まじりまじり思慮のない顔をしておもしろくもない談話を聞いているうちに、いつしか目が曇り両人の顔がかすんで話し声もやや遠くこもッて聞こえる…「なに、十円さ、」と突然鼓膜を破る昇の声におどろかされ、震え上がる拍子に目を看開いて、せわしく両人の顔をうかがえば、心づかぬ様子、まずよかッたと安心し、何食わぬ顔をしてまた両人の話を聞き出すと、また目の皮がたるみ、引き入れられるような、快い心地になッて、睡(ねむ)るともなく、つい正体を失う…だれかに手あらく揺すぶられてまた愕然として目をさませば、耳もとにどっと高笑いの声。お勢もさすがににっこりして、「それでも睡いんだものを」と睡そうにいいわけをいう。またこういう事もある、前のように欲ばッた談話で両人は夢中になッている、お勢は退屈やら、手持ちぶさたやら、いびつにすわりてみたり、かしこまッてみたり。耳を借していては際限もなし、そのうちにはまた睡気がさしそうになる、から、ちと談話の仲間入りをしてみようかと思うが、一人が口をつぐめば、一人が舌を揮(ふる)い、蝶々として両つの口が結ばるという事がなければ、嘴を容れたいにも、さらにその間隙が見つからない。その見つからない間隙をようやく見つけて、ここぞと思えば、さて肝心のいうべき事が見つからずまごつくうちにはや人に取られてしまう。経験が知識を生んで、今度はいうべき事もかねて用意して、じれッたそうに插頭(かんざし)で髪をかきながら、ようやくの思いで間隙を見つけ、「公債は今いくらなの?」と嘴をはさんでみれば、さてわれながら唐突千万! 無理ではないが、昇も、母親も、肝をつぶして顔を視合わせて、大笑いに笑い出す。――今のは半襟の間違いだろう。――なに、人形の首だッさ。――違えねえ。またしても口をそろえて高笑い。――あんまりだから、いい! とお勢はふくれる。けれど、ふくれたとて、きげんを取られれば、それだけつまり安目にされる道理。どうしても、こうしても、かなわない。
 お勢はこの事を不平に思ッて、あるいは口を聞かぬといい、あるいは絶交するといッて、おどしてみたが、昇は一向平気なもの、なかなかそんな甘手ではいかん。圧制家(デスポト)、利己論者(イゴイスト)と口ではのろいながら、お勢もついその不届き者と親しんで、もてあそばれると知りつつ、もてあそばれ、なぶられると知りつつ、なぶられている。けれど、そうはいうものの、ふざけるもまんざらでないと見えて、たまたま昇が、お勢の望む通り、まじめにしていれば、さてどうも物足りぬ様子で、こちらから、遠方から、危うがりながら、ちょッかいを出してみる。相手にならねば、はなはだきげんがわるい、から、余儀なくその手を押さえそうにすれば、たちまちきゃッきゃッと軽忽(きょうこつ)な声を発し、高く笑い、遠方へ逃げ、例の睚(まぶち)の裏を返して、べべべーという。すべてなぶられてもいやだが、なぶられぬもいや、どうしましょう、といいたそうな様子。
 母親は見ぬ風をして見落としなく見ておくから、歯がゆくてたまらん。老巧の者の目から観れば、年若の者のする事は、すべてだらしなく、手ぬるくてさらに埒が明かん。そこで耐えかねて、娘に向かい、おごそかに言い聞かせる、娘の時の心掛けを。どのような事かといえば、皆多年の実験から出た交際の規則で、男、取り分けて若い男という者はこういう性質のものであるから、もし情談をいいかけられたら、こう、花を持たせられたら、こう、なぶられたら、こうあしらうものだ、など、という事であるが、親の心子知らずで、こう利益(ため)を思ッて、言い聞かせるものを、それをお勢は、生意気な、まだ世の態(さま)も見知らぬくせに、明治生まれの婦人は芸娼妓でないから、男子に接するにそんな手管はいらないとて、鼻の頭であしらッていて、さらに用いようともしない。手管ではない、これが娘の時の心掛けというものだと言い聞かせても、そのような深遠な道理はまだ青いお勢にはわからない。そんな事は女大学にだッて書いてないと強情を張る。勝手にしなと肝癪を起こせば、勝手にしなくッてと口答えをする。どうにも、こうにも、なッた奴じゃない!
 けれど、母親が気をもむまでもなく、幾ほどもなくお勢はわれから自然に様子を変えた。まずその初めをいえば、こうで。
 この物語の首(はじめ)にちょいとうわさをした事のあるお政の知己「須賀町のお浜」という婦人が、近ごろ娘をさる商家へ縁付けるとて、それを風聴かたがたその娘を伴れて、ある日お政を尋ねて来た。娘というはお勢に一ツ年下で、姿色(きりょう)は少し劣る代わり、遊芸は一通りできて、それでいて、おとなしく、愛想がよくて、お政にいわせれば、如才ない娘で、お勢にいわせれば、旧弊な娘、お勢は大きらい、母親がひいきにするだけに、なお一層この娘をきらう。ただしこれは普通の勝心をさせる業ばかりでなく、この娘の陰で、おりおり高い鼻をこすられる事もあるからで、縁付けると聞いて、お政はうらやましいと思う心を、少しも匿(かく)さず、顔はおろか、口へまで出して、ことごとく慶びを陳べる。娘の親も親で、慶びを陳べられて、一層得意になり、さも誇貌(ほこりが)に婿の財産を数え、また支度に費ッた金額の総計から内訳まで細々と計算をして聞かせれば、聞く事ごとにお政はかつ驚き、かつうらやんで、果ては、どうしてか、婚姻の原因を娘の行状に見いだして、これというも平生の心掛けがいいからだと、口をきわめて賞める、嫁いる事がそんなに手柄であろうか、お勢は猫が鼠を捕ッたほどにも思ッていないのに! それをその娘は、恥ずかしそうにうつ向きはうつ向きながら、おのれも仕合わせと思い顔で高慢は自ら小鼻に現れている。見ていられぬほどに醜態をきわめる! お勢はもとよりうらやましくも、妬ましくもあるまいが、ただおのれ一人でそう思ッているばかりでは満足ができんと見えて、おりおりもさも苦々しそうに冷笑ッてみせるが、あやにくだれも心づかん。そのうちに母親が人の身の上をうらやむにつけて、わが身の薄命を嘆ち、「どこかの人」が親を蔑ろにしてさらにいうことを用いず、いつ身を極めるという考えもないとて、苦情をならべ出すと、娘の親は失礼な、なにこの娘の姿色なら、ゆくゆくは「立派な官員さん」でも夫に持ッて親に安楽させることであろうといッて、あざけるように高く笑う。見ように見まねに娘までが、お勢の方を顧みて、これもまたあざけるようにほほと笑う。お勢はおそろしく赤面してさも面目なげにうつ向いたが、十分もたたぬうちに座舗を出てしまッた。わが部屋へ戻りてから、始めて、後れ馳せに憤然(やっき)となッて「一生お嫁になんぞ行くもんか」と奮激した。
 客は一日打ちくつろいて話して夜に入ッてから帰ッた。帰ッた後に、お政はまた人の幸福をいいだしてうらやむので、お勢はもはや勘弁がならず、胸につもる昼間からの鬱憤を一時に霽(はら)そうという意気込みで、言葉鋭く言いまくッてみると、母の方にも存外な道理があッて、ついにはお勢もなるほどと思ッたか、少し受太刀になッた。が、負けじ魂から、滅多には屈服せず、なおかれこれと諍論(いいあらそ)ッている、そのうちにお政は、何か妙案を思い浮かべたように、にわかに顔色を和らげ、今にも笑い出しそうな目つきをして、「そんな事をお言いだけれども、本田さんなら、どうだえ? 本田さんでも、お嫁に行くのはいやかえ?」という。「いやなこった」、といッてお勢は今まで顔へ出していた思慮をことごとく内へ引っ込ましてしまう。「おや、なぜだろう。本田さんなら、いいじゃないか。ちょいと気がきいていて、小金もちっとは持ッていなさりそうだし、それに第一男が好くッて。」「いやなこッた。」「でも、もし本田さんがくれろといッたら、何といおう?」といわれて、お勢は少したゆたッたが、うろたえて、「い、いいやなこッた。」お政はじろりとその様子をみて、なに思ッてか、高く笑ッたばかりで、再び娘を詰らなかッた。その後はお勢はことさらに何食わぬ顔を作ッてみても、どうもうまくいかぬようすで、ややもすれば沈んで、目を細くしてどこか遠方をみつめ、恍惚(うっとり)として、夢現の境に迷うように見えたこともあッた。「十一時になるよ」、と母親に気を付けられたときは、夢のさめたような顔をしてため息さえついた。
 部屋へ戻ッても、なお気が確かにならず、なに心なく寝衣に着代えて、力なさそうにべッたり、床の上へすわッたまま、身動きもしない。何を思ッているのか? 母の端なくいッた一言の答えを求めて求め得んのか? 夢のように、過ぎこした昔へ心を引き戻してこれまで文三ごとき者にかかずらッて、良縁をも求めず、いたずらに歳月を送ッたを惜しい事に思ッているのか? あるいは母の言葉の放ッた光にわが身をめぐる暗闇を破られ、始めて今が浮沈の潮界、一生の運の定まる時と心づいたのか? そもそもまた狂いだす妄想につれられて、われ知らず心を華やかな、娯(たの)しい未来へ走らし、望みを事実にし、現に夢を見て、うれしく、畏ろしい思いをしているのか? 恍惚(うっとり)とした顔に映る内の想いがないから、何を思ッていることかすこしもわからないが、とにかくややしばらくの間は身動きをもしなかッた、そのままで十分ばかりたッたころ、忽然として目がうれしそうに光りだすかと思う間に、見る見る耐えようにも耐え切れなさそうな微笑が口もとに浮かび出て、頬さえいつしか紅を潮(さ)す。閉じた胸の一時に開けたため、天成の美も一段の光を添えて、艶なうちに、どこかからりと晴れやかに快さそうな所もありて、さながら蓮の花の開くのを観るように、見る目もさめるばかりであッた。突然お勢は跳ね起きて、うれしさがこみあげて、ただすわッていられぬように、そして柱にかけた薄暗い姿見に対い、ぼんやり写るおのが笑顔をのぞき込んで、あやすようなまねをして、片足を浮かせて床の上でぐるりと回り、舞踊でもするような運歩(あしどり)で部屋の中を跳ね回ッて、また床の上へ来るとそのまま、そこへ臥倒れる拍子に手ばしこく、枕を取ッて頭にあてがい、渾身(みうち)を揺すりながら、締め殺したような声を漏らして笑い出して。
 この狂気じみた事のあッた当座は、お勢は憶するでもなく恥じらうでもなく、ただ何となく落ち着きが悪いようであッた。何か心に持ッているそれを悟られまいため、やはり今までどおり、おさなく、あどけなくあしらうと、影では思うが、いざ昇と顔を合わせると、どうももうそうはいかないと云いそうな調子で。いう事にさしたる変わりもないが、それをいう調子にどこかいままでにないところがあッて、濁ッて、いや味を含む。用もないに坐舗を出たり、はいッたり、おかしくもないことに高く笑ッたり、だれやらに顔を見られているなと心づきながら、それをわざと心づかぬ風をして、磊落(らいらく)に母親に物をいッたりするはまだな事、昇と目を見合わして、うろたえて横へそらしたことさえたびたびあッた。すべて今までとは様子が違う、それを昇のいる前で母親に怪しまれた時はお勢もぱッと顔をあからめて、いかにもきまりが悪そうに見えた。が、そのきまり悪そうなもいつしか失せて、その後は、昇に飽いたのか、珍しくなくなったのか、それとも何か争いでもしたのか、どうしたのかわからないが、とにかく昇が来ないとても、もウ心配もせず、来たとて、一向かまわなくなッた。以前は鬱々としている時でも、昇が来れば、すぐ冴えたものを、今は、その反対で、冴えている時でも、昇の顔を見れば、すぐ顔を曇らして、冷淡になって、あまり口数もきかず、すべて仲わるい従兄弟同士のように、遠慮気なくよそよそしくもてなす。昇はさして変わらず、なお折節には戯言など言い掛けてみるが、いッても、もウお勢が相手にならず、もちろんうれしそうにもなく、ただ「知りませんよ」とあちら向くばかり。それゆえに、昇の戯(ざれ)ばみも鉾先が鈍ッて、大抵は、泣き眠入るように、眠入ッてしまう。こうまで昇を冷遇する。そのかわり、昇の来ていない時は、おそろしい冴えようで、だれかれの見さかいなく戯れかかッて、詩吟するやら、唱歌するやら、いやがる下女をとらえて舞踊のまねをするやら、飛んだり、跳ねたり、高笑いをしたり、さまざまに騒ぎ散らす。が、こう冴えている時でも、昇の顔さえ見れば、不意にまた目の中を曇らして、落ち着いて、冷淡になッて、しまう。
 けれど、母親には大層やさしくなッて、騒いでしかられたとて、鎮まりもしないが、悪まれ口もきかず、かえッて憎気なく母親にまでだれかかるので、母親も初めのうちは苦い顔を作ッていたものの、ついには、どうかこうか釣り込まれて、叱る声をくずして笑ッてしまう。ただし朝おこされる時だけはそれは例外で、その時ばかりは少し頬をふくらせる、が、それもそのほどが過ぎれば、われからきげんを直して、華やいで、時には母親に媚びるのかと思うほどの事をもいう。初めのほどはお政も不審顔をしていたが、慣れれば、それも常となッてか、後には何とも思わぬ様子であッた。
 そのうちにお勢が編み物の夜稽古に通いたいといいだす。編み物よりか、心やすい者に日本の裁縫を教える者があるから、昼間そこへ通えと、母親のいうを押しかえして、幾たびか幾たびか、掌を合わせぬばかりにしてぜひ編み物をと頼む。西洋の処女なら、今にも母の首にしがみついて頬のあたりに接吻しそうに、あまえたねだるような目つきで顔をのぞかれ、やいやいとせがまれて、母親は意久地なく、「ええ、うるさい! どうなと勝手におし、」とすかされてしまッた。
 編み物のけいこは、英語よりも、おもしろいとみえて、隔晩のけいこを楽しみにして通う。お勢は、全体、本化粧がきらいで、これまで、外出するにも、薄化粧ばかりしていたが、編み物のけいこを初めてからは、「みんなが大層作ッて来るから、わたし一人なにしない…」ととがめる者もないに、われからいいわけをいいいい、こッてりと、人品を落とすほどに粧(つく)ッて、衣服もなりたけ美いのを撰んで着て行く。夜だから、こちらのでよいじゃないかと、美(よ)くない衣服を出されれば、それをいやとは拒みはしないが、何となくきげんがわるい。
 お政はそわそわして出て行く娘の後ろ姿をいつも請けにくそうに目送る…
 昇はいつからともなく足を遠くしてしまッた。


     第十九回 

 お勢はいったんは文三をはしたなく辱めはしたものの、心にはさほどにも思わんか、その後はただ冷淡なばかりで、さしてつらくも当たらん、が、それに引き替えて、お政はますます文三を憎んで、始終出て行けがしにもてなす。何か用事がありて下座敷へ降りれば、家内じゅう寄り集りて、口を解いておもしろそうに雑談などをしている時でも、皆言い合わしたように、ふと口をつぐんで顔を曇らせる、といううちにも取り分けてお政は不きげんな体で、少し文三が出ようが遅ければ、何をぐずぐずしているといわぬばかりに、こちらを睨めつけ、時には気を焦(いら)ッて、聞こえよがしに舌鼓みなどを鳴らして聞かせる事もある。文三とても、白痴でもなく、瘋癲(ふうてん)でもなければ、それほどにされんでも、今ここで身を退けば眉を伸べて喜ぶ者がそこらに沢山あることに心づかんでもないから、心苦しいことは口にいえぬほどである、けれど、なお園田の家を辞し去ろうとは思わん。何ゆえにそれほどまでに園田の家を去りたくないのか、因循(いんじゅん)な心から、あれほどにされても、なおそのような角立った事はできんか、それほどになっても、まだお勢に心が残るか、そもそもまた、文三の位置では陥りやすい謬(あやま)り、お勢との関繋がこのままになってしまッたとは情談らしくてそうは思えんのか? すべてこれらの事は多少は文三の羞を忍んでなお園田の家にいる原因となったに相違ないが、しかし、重な原因ではない。重な原因というはすなわち人情の二字。この二字にしばられて文三は心ならずもなお園田の家に顔をしかめながら留まッている。
 心を留めて視なくとも、今の家内の調子がむかしとは大いに相違するは文三にもわかる。以前まだ文三がこの調子を成す一つの要素であッて、人々が目を見合わしては微笑し、幸福といわずして幸福を楽しんでいたころは家内全体に生温い春風が吹き渡ッたように、すべて穏やかに、和らいで、おちついて、見る事聞く事がことごとく自然に適ッていたように思われた。そのころの幸福は現在の幸福ではなくて、未来の幸福の影を楽しむ幸福で、われも人も皆何か不足を感じながら、あながちにそれを足そうともせず、かえって今は足らぬが当然と思っていたように、急かず、騒がず、優游(ゆうゆう)として時機の熟するをまっていた、その心の長閑(のどか)さ、ゆるやかさ、今おもい出しても、閉じた眉が開くばかりな… そのころの人々の心が期せずして自ずから一致し、同じ事を念い、同じ事を楽しんで、あながちそれを匿そうともせず、また匿すまいともせず、胸に城郭を設けぬからとて、言って花の散るような事はいわず、また聞こうともせず、まだ妻でない妻、夫でない夫、親でない親、――も、こう三人集まッたところに、だれが作り出すともなく、自ずからに清く、穏やかな、優しい調子を作り出して、それに随(つ)れて物を言い、事をしたから、人々があたかも平生のわれよりは優ったようで、お政のような婦人でさえ、なおどこかたのもしげな所があったのみならず、かえってこれが間に介まらねば、あまり両人の間が接近しすぎて穏やかさを欠くので、お政は文三らの幸福を成すになくてかなわぬ人物とさえ思われた。が、その温かな愛念も、幸福な境界も、優しい調子も、うれしそうに笑う目もとも口もとも、文三が免職になッてから、取り分けて昇が全く家内へ立ち入ったから、皆突然に色がさめ、気が抜けだして、ついに今日このごろのありさまとなった…
 今の家内のありさまを見れば、もはや以前のような和らいだ所もなければ、おちついた所もなく、放心に見渡せば、すべて華やかに、にぎやかで、心配もなく、気あつかいもなく、浮々(うかうか)としておもしろそうに見えるものの、つらつら視れば、それは皆衣物で、*裸*軆(はだかみ)にすれば、見るも汚らわしい私欲、貪婪(どんらん)、淫褻、不義、無情の塊である。以前人々の心を一致さした同情もなければ、私心の垢を洗った愛念もなく、人々おのれ一個の私をのみ思ッて、おのが自恣(じし)に物を言い、おのが自恣に挙動(たちふるま)う。欺いたり、欺かれたり、戯言に託して人の意を測ッてみたり、二つ意味のある言をいってみたり、疑ッてみたり、信じてみたり――いろいろさまざまに不徳を尽くす。
 お政は、いうまでもなく、死灰(しかい)の再び燃えぬうちに、早く娘を昇に合わせて多年の胸の塊を一時におろしてしまいたいが、娘が、思うように、如才なくたちまわらんので、それで歯がゆがって気をもみ散らす。昇はそれを承知しているゆえ、後の面倒を慮って迂闊に手は出さんが、罠のと知りつつ、油鼠のそばを去られん老狐のごとくに、遅疑しながらも、なおお勢の身辺を回って、横目でにらんでは舌ねぶりをする(文三はなぜが昇の妻となる者は必ず愚かで醜い代わり、権貴な人を親に持った、身柄のよい婦人とのみ思いこんでいる)。お政は昇の意を見抜いてい、昇もまたお政の意を見抜いている。しかも互いに見抜かれているとほぼ心づいている。それゆえに、ことさらに無心な顔を作り、思慮のない言を言い、互いに瞞着(まんちゃく)しようと力(つと)めあうものの、しかし、双方共力は牛角(ごかく)のしたたかものゆえ、優りもせず、劣りもせず、挑み疲れて今はすこしにらみ合いの姿となった。すべてこれらの動静(ようす)は文三もほぼ察している。それを察しているから、お勢がこのような危うい境に身を処きながら、それには少しも心づかず、私欲と淫欲とが爍(れき)して出来(でか)した、軽く、浮いた、汚らわしい家内の調子に乗せられて、何心なく物を言っては高笑いをする、その様子を見ると、手を束ねて安座していられなくなる。
 お勢は今はなはだしく迷っている、豕(いのこ)を抱いて臭(くさ)きを知らずとかで、境界の臭みにいても、おそらくは、その臭味がわかるまい。今の心の状を察するに、たとえば酒に酔ッたごとくで、気は暴れていても、心は妙に昧(くら)んでいるゆえ、見るほどの物聞くほどの事が目や耳やへ入ッても底の認識までは届かず、皆中途で立ち消えをしてしまうであろう。またただ外界と縁遠くなったのみならず、わが内界とも疎くなったようで、わが心ながらわが心の心地はせず、始終何か本体の得知れぬ、一種不思議な力に誘われて言動作息(げんどうさそく)するから、われにもわれが判然とはわかるまい、今のお勢の目には宇宙は鮮やいて見え、万物は美しく見え、人は皆われ一人を愛してわれ一人のために働いているように見えよう。もし顔をしかめてため息をつく者があれば、この世はこれほど住みよいに、なぜ人はそう住み憂く思うか、ほとんどその意を解し得まい、また人の老いやすく、色の衰えやすいことを忘れて、今の若さ、美しさは永劫続くように心得て未来の事などは全く思うまい、よし思ッたところで、華やかな、耀やいた未来のほかは夢にも想像に浮かぶまい。昇に狎れ親しんでから、お勢は故(もと)の吾を亡くした、が、それには自分も心づくまい、お勢は昇を愛しているようで、実は愛してはいず、ただ昇に限らず、すべて男子に、取り分けて、若い、美しい男子に慕われるのが何となく快いのであろうが、それにもまた自分は心づいていまい。これを要するに、お勢の病は外から来たばかりでなはなく、内からも発したので、文三に感染れて少し畏縮た血気が今外界の刺激を受けて一時に暴れだし、理性の口をも閉じ、認識の目をくらませて、おそろしい力をもって、さまざまの醜態に奮見するのであろう。もしそうなれば、今がお勢の一生の中でもっとも大切な時、いわゆる放心を求め得て初めて心でこの世を渡るようになろうが、もしつまずけばもうそれまで、倒れたままで、再び起き上がる事もできまい。物のうちの人となるもこの一時、人の中の物となるもまたこの一時、今が浮沈の潮界、もっとも大切な時であるに、お勢はこの危うい境を放心して渡ッていていつ目がさめようとも見えん。
 このままにしては置けん。早く、手遅れにならんうちに、お勢の眠った本心をさまさなければならん、が、しかしたれかお勢のためにこの事に当たろう?
 見渡したところ、孫兵衛は留守、たといいたとて役にも立たず、お政は、あのごとく、娘を愛する心はありても、その道を知らんから、娘の道心を縊(し)め殺そうとしていながら、しかも得意顔でいるほどゆえ、もとよりこれは妨げになるばかり、ただ文三のみは、愚昧ながらも、まだお勢よりは少しは知識もあり、経験もあれば、もしお勢の目をさます者が必要なら、文三をおいてだれがなろう?
 と、こうお勢を見棄てたくないばかりでなく、見棄ててはむしろ義理にそむくと思えば、凝り性の文三ゆえ、もウ余事は思ッていられん、朝夕ただこの事ばかりに心を苦しめて悶え苦しんでいるから、あたかも感覚も鈍くなったようで、お政が顔をしかめたとて、舌鼓を鳴らしたとて、その時ばかり少し居づらくおもうのみで、久しくそれにかかずらってはいられん。それでこう邪魔にされると知りつつ、園田の家を去る気にもなれず、いまに六畳の小座舗に気を詰まらして始終壁に対ッて嘆息のみしているので。
 嘆息のみしているので、なぜなればお勢を救おうという志はあっても、その道を求めかねるから。「どうしたものだろう?」という問いは日に幾たびとなく胸に浮かぶが、いつも浮かぶばかりで、答えを得ずして消えてしまい、その後に残るものはただ不満足の三字。その不満足の苦をのがれようと気をあせるから、健康な知識は縮んで、出過ぎた妄想がわれから荒れ出し、抑えても抑え切れなくなッて、ついにはまだどうしてという手順をも思い付き得ぬうちに、早くもお勢を救い得た後の楽しい光景が眼前にちらつき、払っても去らん事がたびたびある。
 しかし、始終空想ばかりにふけッているでもない、多く考えるうちには少しはやや行われそうな工夫を付ける、そのうちでまず上策というはこのごろの家内の動静を詳しく叔父の耳へ入れて父親の口からとくとお勢に言い聞かせる、という一策である。そうしたら、あるいはお勢も目がさめようかと思われる。が、また思い返せば、他人の身の上なればともかくも、われと入り組んだ関繋のあるお勢の身の上をかれこれ心配してその親の叔父に告げるとは何となく後ろめだくてそうもできん。たとい思い切ッてそうしたところで、叔父はお勢を諭し得ても、わがままなお政は説き伏せるをさて置き、かえッて反対にいいくるめられるもしれん、と思えば、なるべくは叔父に告げずして事を収めたい。叔父に告げずして事を収めようと思えば、今一度お勢の袖を扣(ひか)えて打ち付けにかき口説くほか、他に仕方もないが、しかし、今のごとくに、こうくいちがッては言ったとてききもすまいし、また毛を吹いて疵を求めるようではと思えば、こう思い定めぬうちに、まず気が畏縮(いじ)けて、どうもその気にもなれん。からまた思い詰めた心を解(ほご)して、さらに他にさまざまの手段を思い浮かべ、いろいろに考え散らしてみるが、一つとして行なわれそうなもの見当たらず、回り回ッてまた旧の思案に戻って苦しみ悶えるうちに、ふとまた例の妄想が働きだして無益な事を思わせられる。時としては妙な気になッて、すべてこのごろの事は皆一時の戯れで、お勢は心から文三にそむいたのではなくて、ただそむいた風をして文三を試みているので、その証拠には今にお勢が上がって来て例の華やかな高笑いで今までの葛藤(もだくだ)を笑い消してしまおうと思われる事がある、が、もとより永くは続かん、無慈悲な記憶が働きだしてこのごろあくたれた時のお勢の顔をおもい出させ、瞬息の間にその快い夢を破ってしまう。またこういう事もある、ふと気がかわって、今こう零落していながら、このような薬袋(やくたい)もない事にかかずらッていたずらに日を送るをきわめて愚のように思われ、もうお勢のことは思うまいと、しばらく思いの道を絶ッてまじまじとしていてみるが、それはどうも大切な用事をしかけてやめたようで心が落ち居ず、うろたえてまたお勢の事に立ち戻って悶え苦しむ。
 人の心というものは同一の事を間断なく思ッていると、ついに考えくたびれて思弁力の弱るもので。文三もその通り、始終お勢の事を心配しているうちに、いつからともなく注意が散って一事には集まらぬようになり、おりおり互いに何の関係をも持たぬ零々砕々(ちぎれちぎれ)の事を取り締めもなく思う事もあった。かつて両手を頭に敷き仰向けに臥しながら天井をみつめて初めは例のごとくお勢の事をかれこれと思っていたが、そのうちにふと天井の木目が目に入って突然妙な事を思った。「こう見たところは水の流れた痕のようだな。」こう思うと同時にお勢の事は全く忘れてしまった、そしてなおつくづくとその木目に視入って、「心の取り方によっては高低があるようにも見えるな。ふふん、「おぷちかる、いるりゅうじょん」か。」ふと文三らに物理を教えた外国教師の立派な髯の生えた顔をおもい出すと、それと同時にまた木目の事は忘れてしまった。続いて眼前に七、八人の学生が現れて来たと視れば、皆同学の生徒らで、あるいは鉛筆を耳に挟んでいる者もあればあるいは書物を抱えている者もありまたは開いて視ている者もある。よく視れば、どうか文三もその中に雑っているように思われる。今越歴(えれき)の講義が終わッて試験に掛かる所で、皆「えれくとりある、ましん」の周囲に集まって、何事ともわからんが、何かしきりに言い争いながら騒いでいるかと思うと、たちまちその「ましん」も生徒も烟(けむり)のごとく痕迹(あとかた)もなく消え失せて、ふとまた木目が目に入った。「ふん、「おぷちかる、いるりゅうじょん」か。」といって、何ゆえともなくにっこりした。「「いるりゅうじょん」といえば、今まで読んだ書物の中で"さるれぇ"の「いるりゅうじょんす」ほどおもしろく思ったものはないな。二日一晩に読み切ってしまったっけ。あれほどの頭にはどうしたらなるだろう。よほど組織が緻密に違いない…」"サルレー"の脳髄とお勢とは何の関係もなさそうだが、この時突然お勢の事が、噴水のほとばしるごとくに、胸を突いて騰(あ)がる。と、文三は腫れ物にでも触れたように、あっと叫びながら、跳ね起きた。しかし、跳ね起きた時は、もうその事は忘れてしまッた、何のために跳ね起きたともわからん。久しく考えていて、「あ、お勢の事か、」と辛くしておもい出しはおもい出しても、さながら世を隔てた事のごとくで、おもしろくもおかしくもなく、そのままに思い棄てた、しばらくは惘然(ぼうぜん)とし気の抜けた顔をしていた。
 こう心の乱れるまでに心配をするが、しかしただ心配するばかりで、事実には少しも益がないから、自然はおのがすべき事をさっさっと行ってお勢はますます深味へ陥る。その様子を視て、さすがの文三も今はほとんど志をくじき、とてもわが力にも及ばんと投首をした。
 が、そのうちにふとうれしく思い惑う事に出あッた。というは他の事でもない、お勢がにわかに昇と疎々しくなった、その事で、それまではお勢の言動に一々目を注けて、その狂う意(こころ)の跡を随(した)いながら、われも意を狂わしていた文三もここに至ってたちまち道を失ってしばらく思案の歩みを留めた。あれほどまでにからんだ両人の関繋が故なくして解(ほつ)れてしまうはずはないから、早まって安心はならん。けれど、喜ぶまいとしても、喜ばずにはいられんはお勢の文三に対する感情の変動で、そのころまでは、お政ほどにはなくとも、文三に対して一種の敵意をさしはさんでいたお勢がにわかに様子を変えて、顔をあからめ合った事は全く忘れたようになり、眉をしかめ目の中を曇らせる事はさておき、下女と戯れて笑い興じている所へ行きがかりでもすれば、文三を顧みて快気(こころよげ)に笑う事さえある。この分なら、もし文三が物を言いかけたら、快く返答するかと思われる。あたりに人目がない折などには、文三もしばしば話しかけてみようかとは思ったが、万一に危ぶむ心から、しばらく差し控えた――差し控えているはむしろ愚に近いとは思いながら、なお差し控えていた。
 編み物を始めた四、五日後の事であった、ある日の夕暮れ、何か用事があって文三は奥座敷へ行こうとして、二階を降りて見ると、お勢がこちらへ背を向けて縁端(えんばな)にたたずんでいる。少しうなだれて何か一心にしていたところ、編み物かと思われる。珍しいうちゆえと思いながら、文三は何心なくお勢の背後を通り抜けようとすると、お勢があちらを向いたままで、突然「まだかえ?」という。もちろん人違えと見える。が、この数週の間妄想でなければ言葉を交えた事ないお勢に今思いがけなくやさしく物を言いかけられたので、文三ははっと当惑してわれになく立ち留まる、お勢も返答のないを不思議に思ってか、ふとこちらを振り向く途端に、文三と顔を相視(みあわ)しおッといって驚いた、しかし驚きは驚いても、うろたえはせず、ただにっこりしたばかりで、またあちらを向いて、そして編み物に取り掛かッた。文三は酒に酔った心地、どうしようという方角もなく、ただ茫然としてほとんど無想の境にさまよッているうちに、ふと心づいた。は今日はお政が留守の事。またとない上首尾。思い切って物を言ってみようか…と思い掛けてまたそれを思い定めぬうちに、下女部屋の紙障(しょうじ)がさらりとあく、その音を聞くと文三はわれにもなくつと奥座敷へ入ッてしまった――われにもなく、ほとんど見られてはわるいとも思わずして。奥座敷へ入ッて聞いていると、やがてお鍋がお勢のそばまで来て、ちょいと立ち留まッた光景で「お待ちどおさま」という声が聞こえた。お勢は返答をせず、ただ何か口ばやにささやいた様子で、忍び音に笑う声が漏れて聞こえると、お鍋の調子外ずれの声で「ほんとに内海…」「しッ!…まだそこに」と小声ながら聞き取れるほどに「いるんだよ。」お鍋も小声になりて「ほんとう?」「ほんとうだよ。」
 こうなって見ると、もう潜まッているも何となくきまりが悪くなって来たから、文三が素知らぬ顔をしてふッと奥座敷を出る、その顔をお鍋は不思議そうにながめながら、小腰を屈めて「ちょいとお湯へ。」といッてから、ふと何か思いだして、肝をつぶした顔をしてあわてて、「それから、あの、もし御新造(ごしんぞ)さまがお帰んなすって御膳を召し上がるとおッしゃッたら、お膳立てをしてあの戸棚へ入れときましたから、どうぞ…お嬢さま、もうすぐようござんすか? それじゃア行ってまいります。」お勢は笑い出しそうな目もとでじろり文三の顔を掠めながら、手ばしこく手で持っていた編み物を奥座敷へ投げ入れ、何やらお鍋にいって笑いながら、おもしろそうに打ち連れて出て行った。主従とは言いながら、同じほどの年ごろゆえ、双方とも心持ちは朋友で。もっともこれは近ごろこうなッたので、以前はお勢の心が高ぶっていたから、下女などには容易に言葉をもかけなかった。
 出て行くお勢の後ろ姿を目送って、文三はにっこりした。どうしてこう様子がかわったのか、それを疑っているにいとまなく、ただ何となく心うれしくなって、にっこりした。それからは例の妄想が勃然と首をもたげて抑えても抑え切れぬようになり、さまざまの取り留めもない事が続々胸に浮かんで、ついにはすべてこのごろの事は皆文三の疑心から出た暗鬼で、実際はさして心配するほどの事でもなかったかとまで思い込んだ。が、また心を取り直して考えてみれば、故なくして文三を辱めたといい、母親にさからいながら、いつしかそのいうなりなったといい、それほどまで親しかった昇ににわかに疎々しくなったといい、――どうも常事(ただごと)でなくも思われる。と思えば、喜んでよいものか、悲しんでよいものか、ほとんどわれにも胡乱(うろん)になって来たので、あたかも遠方からこそぐるまねをされたように、思い切っては笑う事もできず、泣く事もできず、快と不快との間に心を迷わせながら、しばらく縁側を往きつ戻りつしていた。が、とにかく物をいったら、聞いていそうゆえ、今にも帰ッて来たら、今一度運を試して聞かれたらそのとおり、もし聴かれん時にはその時こそ断然叔父の家を辞し去ろうと、ついにこう決心して、そしてひとまず二階へ戻った。
(『浮雲』は、ここまでのみが刊行)
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入力  まっきい
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
1999/05/29/完成版ver1.01
NO.014
底本 『浮雲』岩波文庫/1994年/岩波書店
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。