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浮 雲 第二篇


     第七回 団子坂の観菊(きくみ) 上

日曜日は近ごろにない天下晴れ、風も穏やかで塵もたたず、暦を繰って見れば、旧暦で菊月初旬という十一月二日の事ゆえ、物見遊山には持って来いという日和。
園田一家の者は朝から観菊行きの支度とりどり。晴れ着の互長(ゆきたけ)を気にしてのお勢のじれこみがお政の肝癪となって、回りの髪結いの来ようの遅いのがお鍋の落ち度となり、はては万古の茶瓶(きゅうす)が生まれもつかぬい口(いぐち)になるやら、架棚(たな)の擂鉢(すりばち)がひとりでに駆け出すやら、ヤッサモッサこね返している所へあいにくな来客、しかも名打ての長尻で、アノただ今から団子坂へまいろうと存じて、という言葉にまで力瘤を入れて見ても、まや薬ほどもきかず、平気で済まして便々とお神輿(みこし)を据えていられる、そのじれッたさもどかしさ。それでもよくしたもので、案じるより産むがやすく、客もそのうちに帰れば髪結いも来る、ソコデソレ支度も調い、十一時ごろには家内もようやく静まッて、折節には高笑いがするようになッた。
文三は拓落失路(たくらくしつろ)の人、なかなかもって観菊などという空はない。それに昇は花で言えば今を春辺と咲き誇る桜の身、こッちは日陰の枯れ尾花、どうせ楯突く事ができぬくらいなら打たせられに行くでもないと、境界に随(つ)れてひがみを起こし、一昨日(おとつい)昇に誘われた時すでにキッパリ辞ッて行かぬと決心したからは、人が騒ごうが騒ぐまいが隣家の疝気(せんき)で関繋(かけかまい)のない噺、ズット澄ましていられそうなもののさていられぬ。うれしそうに人のそわつくを見るにつけ聞くにつけ、またしても昨日のわれがおもい出されて、五月雨ごろの空と湿る、嘆息もする、おもしろくもない。
ヤおもしろからぬ。文三には昨日お勢が「あなたもおいでなさるか。」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか。」ト平気で澄まして落ち着き払ッていたのがおもしろからぬ。文三の心持ちでは、なろう事なら、行けと勧めてもらいたかッた。それでもなお強情を張ッて行かなければ、「あなたとごいっしょでなきゃアわたしもよしましょう。」とか何とか言ってもらいがかッた………
「シカシこりゃア嫉妬じゃアない………」
とふと何かおもい出してわれとわれに分疏(いいわけ)を言ッて見たが、まだどこかくすぐられるようで………不安心で。
行くもいやなり留まるもいやなりで気がムシャクシャとして肝癪が起こる。だれといって取り留めた相手はないが腹が立つ。何か火急の要事があるようでまたないようで、ないようでまたあるようで、立てもいられずすわってもいられず、どうしてもこうしても落ち着かれない。
落ち着かれぬままに文三がチト読書でもしたら紛れようかと、書函の書物を手当たり放題に取り出して読みかけて見たが、いッかな争(いか)な紛れる事でない。小むずかしい面相をして書物とにらめくらをした所はまずよかったが、開巻第一章の第一行目を反覆読過して見ても、さらにその意義を解し得ない。そのくせ下坐舗でのお勢の笑い声は意地悪くもよく聞こえて、一回聞けばすなわち耳の洞の主人となッて、しばらくは立ち去らぬ。舌鼓を打ちながら文三が腹立たしそうに書物をほうりだして、腹立たそうに机にもたれかかッて、腹立たそうに頬杖をつき、腹立たしそうにどこともなくみつめて………フトまた起き直ッて、よみがえッたような顔色をして、
「モシやめになッたら………」
ト取り外して言いかけてたちまちハッと心づき、あわてて口をつぐんで、びっくりして、狼狽して、ついに憤然(やっき)となッて、「畜生」と言いざま拳を振りあげてわれとわれを威(おど)して見たが、いたずらな虫めは心の底でまだ………やはり………
シカシあいにく故障もなかッたと見えて昇は一時ごろにまいッた。今日はわざと日本服で、茶の糸織りの一ツ小袖に黒七子の羽織、帯も何か乙なもので、相変わらず立とした服飾。梯子段を踏みとどろかして上がッて来て、挨拶もせずにいきなりまず大胡座(あぐら)、わが鼻を視るのかと怪しまれるほどの下目をつかッて文三の顔を視ながら、
「どうした、土左的よろしくという顔色だぜ。」
「すこし頭痛がするから。」
「そうか、尼御台(あまみだい)に油を取られたのでもなかッたか、アハハハハ。」
チョイという事からまず気にさわる。文三もむっとはしたが、そこは内気だけに何とも言わなかった。
「どうだ、どうしてもいかんか。」
「まずよそう。」
「剛情だな………ゴジョウだからおいでなさいよじゃないか、アハハハ。ト独りで笑うほかまずしようがない、何をいッても先様にゃお通じなしだ、アハハハ。」
戯言(ぎげん)ともつかず罵詈(ばり)ともつかぬあいまいなおしゃべりにしばらく時刻を移していると、たちまち梯子段の下にお勢の声がして、
「本田さん。」
「何です。」
「あノ車がまいりましたから、よろしくば。」
「出かけましょう。」
「それではお早く。」
「チョイとお勢さん。」
「ハイ。」
「あなたと合い乗りなら行ってもいいというのがお一方できたが承知ですかネ。」
返答はなく、ただバタバタと駆け出す足音がした。
「アハハハ、何にも言わずに逃げ出すなぞはまだしおらしいネ。」
ト行ったのが文三への挨拶で、昇はそのまま起ち上がッて二階を降りていった。あとを目送りながら文三が、さも苦々しそうに口の中で
「ばかめ………」 ト言ったその声がまだ中有(ちゅうう)にさまよッているうちに、フト今年の春向島へ観桜にいった時のお勢の姿をおもい出し、どういうつもりかむっくと起き上がり、キョロキョロとあたりをみまわして火入れに目を注けたが、おもい直して旧(もと)の座になおり、また苦々しそうに、
「ばかめ。」
これは自らしかったので。
午後はチト風が出たがますます上天気、ことには日曜というので団子坂近傍は花観る人が道去りあえぬばかり。イヤ出たぞ出たぞ、束髪も出た島田も出た、銀杏返しも出た丸髷も出た、蝶々髷もでたおケシも出た。○○会幹事、実は古猫の怪という、鍋島騒動を生で見るような「マダム」某も出た。芥子の実ほどのかわいらしい知恵を両足に打ち込んで、飛んだり跳ねたりを夢にまで見る「ミス」某も出た。お乳母も出たお爨婢(おさんどん)も出た。ぞろりとした半元服、一夫数妻論のまだ行われる証拠に上がりそうな婦人も出た。イヤ出たぞ出たぞ、坊主も出た散髪も出た、五分刈りも出たチョン髷も出た。天帝の愛子、運命の寵臣、人の中の人、男の中の男と世の人の尊重の的、健羨(けんせん)の府となる昔いわゆるお役人様、今いわゆる官員さま、後の世になれば社会の公僕とか何とか名のるべき方々も出た。商賈(しょうこ)も出た負販(ふはん)の徒も出た。人の横面を打り曲げるが主義で、身を忘れ家を忘れて拘留の辱しめにあいそうな毛臑(けずね)さらけ出しの政治家も出た。猫も出た杓子も出た。人さまざまの顔の相好、おもいおもいの結髪風姿(かみかたち)、聞覩(ぶんと)に聚まる衣香襟影(いこうきんえい)は紛然雑然として千態万状、ナッカなかもって一々枚挙するに遑(いとま)あらずで、それにこの辺は道幅が狭いのでなお一段と雑踏する。そのまた中を合い乗りで乗り切る心なし奴(め)もありがたの君が代に、その日活計(ぐらし)の土地の者が、マッチの函を張りながら、往来の花観る人をのみながめて、ついに真の花を観ずにしまうかと、おもえば実に浮世はいろいろさまざま。
さてまた団子坂の景況は、例の招牌(かんばん)から釣り込む植木屋は家々の招きの旗幟を翩飜(へんぼん)と金風(あきかぜ)にひるがえし、木戸木戸で客を呼ぶ声はかれこれからからみ合ッて乱れ合ッて、入我我入でメッチャラコ、ただのぼせ上がッた木戸番の口だらけにした面が見えるのみで、いつ見ても変わッた事もなし。中へ入ッて見てもやッぱりその通りで。
一体全体菊というものは、一本のさびしきにもあれ千本八千本のにぎわしきにもあれ、自然のままに生い茂ッてこそ見どころあろう者を、それをこの辺の菊のようにこうむざむざと作られては、興も明日も覚めるてや。百草の花のとじめと律儀にも衆芳に後れてせっかく咲いた黄菊白菊を、何でもござれに寄せ集めて小供騙欺(こどもだまし)の木偶(でく)の衣装、洗い張りに糊が過ぎてかどこへ触ッてもゴソゴソとしてギコチなさそうな風姿も、小言いッて観る者は千人に一人かふたり、十人が十人、まず花より団子と思い詰めた顔色、さりとはまた苦々しい。トどこかの隠居が菊細工を観ながら愚痴をこぼしたと思しめせ。(看官)何だ、つまらない。
閑話不題。
轟然と飛ぶがごとくに駆け来たッた二台の腕車が、ピッタリと止まる。車をおりる男女三人の者は、おなじみの昇とお勢母子の者で。
昇の服装は前文にある通り。
お政は鼠微塵の糸織りの一ツ小袖に黒の唐繻子(とうじゅす)の丸帯、襦袢の半襟も黒縮緬に金糸でパラリと縫いの入ッたやつか何かで、まず気のきいた服飾(こしらえ)。
お勢は黄八丈の一ツ小袖に藍鼠金入り繻珍(しゅちん)の丸帯、もちろん下にはお定まりの緋縮緬の等身襦袢、こいつも金糸で縫い入ッた水浅黄縮緬の半襟をかけたやつで、帯上げはアレハ時色縮緬、ひっくるめていえば上品なこしらえ。
シカシ人足の留まるは衣装付けよりもむしろその態度で、髪もいつもの束髪ながら、何とか結びとかいう手のこんだ束ね方で、大形の薔薇の花插頭をさし、本化粧は自然にそむくとかいッて薄化粧の清楚な作り、風格*ぼう*神共に優美で。
色だ、ナニ夫婦サ、ト法界悋気の岡焼き連が目引き袖引きとりどりに評判するを漏れ聞くごとに、昇は得々として機嫌顔、これ見よがしに母子の者をそこここと植木屋を引き回しながらも片時と黙してはいない。人の傍(かた)え聞きするにもかまわず例のむだ口をのべつに並べ立てた。
お勢も今日は取り分け気の晴れた面相で、さながら籠を出た小鳥のごとくに、言葉はもちろん歩きぶり身体のこなしにまでどこともなく活々とした所があッて、冴えが見える。昇のむだを聞いてはおかしがッて絶えず笑うが、それもそうで、あながち昇の言う事がおかしいからではなく、黙ッていても自然とおかしいからそれで笑うようで。
お政は菊細工にははなはだ冷淡なもので、ただ「きれいだことネー。」トいッてツラリと見わたすのみ、さして目を注(と)める様子もないが、その代わり、お勢と同年配ごろの娘にあえば、丁寧にその顔貌風姿(かおかたち)を研窮する。まず最初に容貌(かおだち)を視て、次に衣服を視て、帯を視て爪端を視て、行き過ぎてからズーと後姿を一瞥して、また帯を視て髪を視て、そのあとでチョイとお勢を横目で視て、そして澄ましてしまう。妙な癖もあればあるもので。
昇ら三人の者は最後に坂下の植木屋へ立ち寄ッて、次第次第に見物して、とある小舎の前に立ち止まッた。そこに飾り付けてあッた木像の顔が文三のあくびをした面相によく肖ているとか昇がいッたのがおかしいといって、お勢が嬌面(かお)に袖をあてて、勾欄(てすり)におッ被さッて笑い出したので、傍にたたずんでいた書生体の男が、にわかにこちらを振り向いて、愕然として眼鏡越しにお勢をみつめた。「みッともないよ。」ト母親ですら小言を言ッたくらいで。
ようやくの事で笑いを留めて、お勢がまだにこにこと微笑のこびり付いている貌をもたげてそばを視ると、昇はいない。「オヤ」トいッてキョロキョロあたりをみまわして、お勢はたちまちまじめな貌をした。
と見れば後の小舎の前で、昇が磬折(けいせつ)というふうに腰を屈めて、そこにたたずんでいた洋装紳士の背に向かッてしきりに礼拝していた。されども紳士は一向心づかぬ容子で、なおあちらを向いてたたずんでいたが、再三再四虚辞儀をさしてから、ようやくにムシャクシャと頬鬚の生えひろがッた、気むずかしい貌をこちらへ振り向けて、昇の貌をながめ、にっこりともせず帽子も被ッたままでただ鷹揚に点頭すると、昇はたちまち平身低頭、何事かをくどくど言いながら続けさまに二ツ三ツ礼拝した。
紳士の随件(つれ)と見える両人の婦人は、一人は今様おはつとか称える突兀(とつこつ)たる大丸髷、今一人は落雪とした妙齢の束髪頭、いずれも水際の立つ玉ぞろい、面相といい風姿といい、どうも姉妹らしく見える。昇はまず丸髷の婦人に一礼して、次に束髪の令嬢に及ぶと、令嬢はあわててそっぽうを向いて礼を返して、サット顔をあからめた。
しばらくたたずんでの談話、間が隔け離れているにあたりが騒がしいのでその言う事はよくわからないが、なにしても昇は絶えず口角に微笑を含んで、折節に手まねをしながら、何事をか蝶々としゃべり立てていた。そのうちに、何かおかしな事でも言ッたと見えて、紳士は俄然大口をあいて肩を揺すッてハッハッと笑い出し、丸髷の夫人も口頭にしわを寄せて笑い出し、束髪の令嬢もまたにっこり笑いかけて、急に袖で口をおおい、額越しに昇の貌をながめて目もとで笑った。身に余る面目に昇は得々として満面に笑みを含ませ、紳士の笑いのやむを待ッてまた何かしゃべり出した。お勢母子の待ッている事は全く忘れているらしい。
お勢は紳士にも貴婦人にも目を注めぬ代わり、束髪の令嬢を穴のあくほどみつめて一心不乱、わき目をふらなかった、呼吸もつかなかッた、母親が物を言いかけても返答をもしなかった。
そのうちに紳士の一行がドロドロとこちらを指している容子を見て、お政は、茫然としていたお勢の袖をいそがわしくひきうごかして疾歩(あしばや)に外面(おもて)へ立ち出で、路傍にたたずんで待ち合わせていると、しばらくして昇も紳士の後に随って出てまいり、木戸口の所でまたさらに小腰を屈めて皆それぞれに分袂の挨拶、丁寧に慇懃(いんぎん)に蝶々しく陳べ立てて、さて別れて独りこちらへ両三歩来て、フト何かおもい出したような面相をしてキョロキョロあたりをみまわした。
「本田さん、ここだよ。」
トいうお政の声を聞き付けて、昇は足ばやにそばへ歩み寄り、
「ヤ大きにお待ちどお。」
「今の方は。」
「アレガ課長です。」
トいってどうしたわけかにこにこと笑い、
「今日来るはずじゃなかッたんだが………」
「アノ丸髷に結ッた方は、あれは夫人ですか。」
「そうです。」
「束髪の方は。」
「アレですか、ありゃ………」
ト言いかけて後ろを振り返って見て、
「妻君の妹です………内で見たよりかよっぽど別嬪に見える。」
「別嬪も別嬪だけれども、いいお服飾(こしらえ)ですことネー。」
「ナニ今日はあんなお嬢様然とした風をしているけれども、家にいる時は疎末な衣服で、侍婢(こしもと)がわりに使われているのです。」
「学問はできますか。」
ト突然お勢が尋ねたので、昇は愕然として、
「エ学問………できるという噺も聞かんが………それともできるかしらん。この間から課長の所に来ているのだから、わが輩もまだ深くは情実(ようす)を知らないのです。」
ト聞くとお勢はたちまち目もとに冷笑の気を含ませて、振りかえって、今まさに坂の半腹の植木屋へ入ろうとする令嬢の後ろ姿を目送って、チョイとわが帯をなでてそてズーと澄ましてしまッた。
坂下に待たせて置いた車に乗ッて三人の者はこれより上野の方へまいッた。
車に乗ッてからお政がお勢に向かい、
「お勢、お前も今のお娘さんのように、本化粧にして来りゃアよかッたのにネー。」
「いやサ、あんな本化粧は。」
「オヤなぜえ。」
「だッていや味ッたらしいもの。」
「ナニお前十代のうちならちッともいや味なこたアありゃしないわネ。アノ方がいくらいいかしれない、引ッ立ちがよくッて。」
「フフンそんなによきゃアおッかさんおしなさいな。人がいやだというものをいいいいッて、おかしなおッかさんだよ。」
「いいと思ッたからただいいじゃないかといッたばかしだアネ、それをそんな事をいうッてほんとにこの娘はおかしな娘だよ。」
お勢はもはや弁難攻撃は不必要と認めたと見えて、何とも言わずに黙してしまッた。それからというものは、ふさぐのでもなくしおれるのでもなく、ただ何となく沈んでしまッて、母親が再び談話の墜緒(ついしょ)を紹(つご)うと試みても相手にもならず、どうも乙なあんばいであったが、シカシ上野公園に来着いたころにはまた口をきき出して、また旧のお勢に立ち戻ッた。
上野公園の秋景色、かなたこなたにむらむらと立ちならぶ老松奇檜は、柯(えだ)を交え葉を折り重ねて鬱蒼として翠も深く、観る者の心までが蒼く染まりそうなに引き替え、桜杏桃李の雑木は、老木稚木も押しなべて一様に枯れ葉がちな立ち姿、見るからがまずみすぼらしい。遠近の木間隠れに立つ山茶花の一本は、枝一杯に花を持ッてはいれど、煢々(けいけい)として友欲しげに見える。楓はすでに紅葉したものもあり、まだしないのもある。鳥の音も時節に連れて哀れに聞こえる、さびしい………ソラ風が吹き通る、一重桜は戦栗(みぶるい)をして病葉を震い落とし、芝生の上に散り布(し)いた落ち葉は魂のあるごとくに立ち上がりて、友葉を追って舞い歩き、フトまた言い合わせたように一斉にバラバラと伏さッてしまう。満眸(まんぼう)の秋色蕭条(しょうじょう)としてなかなか春のきおいに似るべくもないが、シカシさびれた眺望で、また一種の趣味がある。団子坂へ行く者かえる者がここで落ち合うので、ところどころに人影が見える、若い女の笑いどよめく声も聞こえる。
お勢が散歩したいと言い出したので、三人の者は教育博物館の前で車を降りて、ブラブラ行きながら、石橋を渡りて動物園の前へ出で、車夫には「先へいッて観音堂の下あたりに待ッていろ」ト命じてそこから車に離れ、まっすぐに行ッて、矗立千尺(しゅくりゅうせんせき)、空を摩でそうな杉の樹立の間を通り抜けて、東照宮の側面へ出た。
折しもそこの裏門より Let us go on(行こう)ト「日本の」と冠詞の付く英語を叫びながらピョッコリ飛び出した者がある。と見れば軍艦ラシャの洋服を着て、金鍍金(メッキ)の徽章を付けた大黒帽子を仰向けざまに被った、年ころ十四歳ばかりの、栗虫のように肥った少年で、同遊(つれ)と見える同じ服装の少年を顧みて
「ダガ何か食いたくなったなア。」
「食いたくなった。」
「食いたくなってもか………」
ト愚痴ッぽく言いかけて、フトお政と顔を視合わせ、
「ヤ………」
「オヤ勇が………」
トいう間もなく少年は駆け出して来て、あわてて昇に三ツ四ツ辞儀をして、サッと赤面して、
「おッかさん。」
「何をあわてているんだネー。」
「家へいったら………鍋に聞いたら、文さんばッかだッてたから、僕ァ………それだから………」
「お前、モウ試験は済んだのかえ。」
「ア済んだ。」
「どうだッたえ。」
「そんな事よりか、すこし用があるから………おっかさん………」
ト心ありげに母親の顔をみつめた。
「用があるならここでお言いな。」
少年は横目で昇の顔をジロリと視て、
「チョイとこっちへ来ておくれッてば。」
「フンお前の用なら大抵知れたもんだ、また「小遣いがない」だろう。」
「ナニそんな事ちゃない。」
トいッてまた昇の顔を横目で視て、サッと赤面して、調子外れな高笑いをして、むりやりに母親を引っぱッて、あちらの杉の樹の下へ連れてまいッた。
昇とお勢はブラブラと歩き出して、来るともなく往くともなしに宮の背後に出た。折柄四時ごろの事とて日影も大分傾いたあんばい、立ちならんだ樹立の影は古廟の築檣(ついじ)を斑に染めて、不忍の池水は大魚の鱗かなぞのようにきらめく。ツイ眼下に瓦葺きの大家根の、翼然としてそばだッているのが視おろされる。アレハ大方馬見所の家根で、土手に隠れて形は見えないが、車馬の声が轆々(ろくろく)として聞こえる。 お勢は大榎の根方の所で立ち止まり、翳(さ)していた蝙蝠傘をつぼめてズイと一通りあたりを見わたし、嫣然一笑しながら昇の顔をのぞき込んで、唐突に
「さっきの方はよっぽど別嬪でしたネー。」
「エ、さっきの方とは。」
「ソラ、課長さんの令妹とかおっしゃッた。」
「ウーだれの事かと思ッたら………そうですネ、随分別嬪ですネ。」
「そして家で視たよりか美しくッてネ。それだもんだから………ネ………あなたもネ………」
ト目もとと口もとにいっぱい笑いをためてジッと昇の貌をみつめて、さてオホホホと吹きこぼした。
「アッしまッた、不意を討たれた。ヤどうもおそろ感心、手は二本切りかと思ッたら、これだもの、油断も隙もなりゃしない。」
「それにあの嬢もオホホホ何だと見えて、お辞儀するたんびに顔を真っ赤にして、オホホホホホ。」
「トたたみかけていじめつけるネ、よろしい、覚えておいでなさい。」
「だッて実際の事ですもの。」
「シカシあの娘がいくら美しいといッたッても、どこかの人にゃア………とても………」
「アラ、ようござんすよ。」
「だッて実際の事ですもの。」
「オホホホすぐ復讐して。」
「真に戯談(じょうだん)は除けて………」
ト言いかける折しも官員風の男が十ばかりになる女の子の手を引いて来かかッて、両人の容子を不思議そうにジロジロ視ながら行き過ぎてしまッた。昇は再び言葉を続いで、
「戯談は除けて、いくら美しいといッたッてあんな娘にゃア、先方もそうだろうけれどもこッちも気がない。」
「気がないから横目なんぞつかいはなさらなかッたのネー。」
「マアサお聞きなさい。あの娘ばかりには限らない、どんな美しいのを視たッても気移りはしない。わが輩には「アイドル」(本尊)が一人あるから。」
「オヤそう、それはおめでとう。」
「ところが一向おめでたくない事サ、いわゆる鮑の片思いでネ。こッちはその「アイドル」の顔が視たいばかりで、気まりの悪いのも堪えて毎日毎日その家へ遊びにゆけば、先方じゃうるさいといッたような顔をして口もろくろくきかない。」
トあじな目つきをしてお勢の貌をジッとみつめた。その意を暁(さと)ッたか暁らないか、お勢はただニッコリして
「いやな「アイドル」ですネ、オホホホ。」
「シカシ考えて見ればこっちが無理サ。先方には隠然亭主といッたような者があるのだから、それに………」
「モウ何時でしょう。」
「それに想いをかけるのはよくないよくないと思いながら、因果とまた思い断(き)る事ができない。このごろじゃ夢にまで見る。」
「オヤいやだ………モウちッとあッちの方へ行って見ようじゃありませんか。」
「ようやくの思いでいっしょに物見遊山に出るとまでは漕ぎつけは漕ぎつけたけれども、それもほんのいっしょに歩くのみで、おッかさんというものが終始そばに付いていて見れば思うように談話もならず。」
「おッかさんといえば何をしているんだろうネー。」 ト背後を振り返ッて観た。
「たまたま好機会があッて言い出せば、その通りとぼけておしまいなさるし、考えて見ればつまらんナ。」
ト愚痴ッぽくいッた。
「いやですよ、そんな戯談をおっしゃッちゃ。」
トいッてお勢がにこにこと笑いながらこちらを振り向いて視て、すこしまじめな顔をした。昇はしおれ返ッている。
「戯談と聞かれちゃ填(う)まらない、こう言い出すまでにはどのくらい苦しんだと思いなさる。」
ト昇は嘆息した。お勢は眼睛(め)を地上に注いで、黙然として一語をも吐かなかッた。
「こう言い出したといッて、何もあなたに義理を欠かして私の望みを遂げようというのじゃアないが、ただあなたの口からたッた一言、「あきらめろ」といッていただきたい。そうすりゃア私もそれを力に断然思い切ッて、今日ぎりでもうあなたにもお目にかかるまい………ネーお勢さん。」
お勢はなお黙然としていて返答をしない。
「お勢さん。」 トいいながら昇がうなだれていた首を振り揚げてジッとお勢の顔をのぞき込めば、お勢はどぎまぎしてサッと顔をあからめ、ようやく聞こえるか聞こえぬほどの小声で、
「虚言(うそ)ばッかり。」
トいッ全く差しうつ向いてしまッた………
「アハハハハハ。」
トだしぬけに昇が轟然と一大笑を発したので、お勢はびっくりして顔を振り揚げて視て、
「オヤいやだ………アラいやだ………憎らしい本田さんだネー、まじめくさって人を威かして………」
トいッて悔しそうにでもなく恨めしそうにでもなく、いわば気まりがわるそうににッこり笑ッた。
「おふざけでない。」
トいう声が忽然背後に聞こえたのでお勢がびっくりして振り返ッて視ると、母親が帯の間へ紙入れをはさみながら来る。
「大分談判がむずかしかッたと見えますネ。」
「大きにお待ちどおさま。」
トいッてお勢の顔を視て、
「お前、どうしたんだえ、顔を真っ赤にして。」
トとがめられてお勢はなお顔を赤くして、
「オヤそう、歩いたら暖かになッたもんだから………」
「マア本田さん聞いておくんなさい、ほんとにあの児の銭遣いの荒いのにも困りますよ。こないだネ試験の始まる前に来て、一円前借りして持ッてッたんですよ。それを十日もたたないうちにもう使ッちまって、またくれろサ。宿所(うち)ならこだわりを付けてやるんだけれども………」
「あんな事をいッて虚言ですよ、おっかさんが小遣いをやりたがるのよ、オホホホ。」
ト無理に押し出したような高笑いをした。
「黙ッておいで、お前の知ッた事ちゃない………こだわりを付けてやるんだけれども、途中だからと思ッてネ黙ッて五十銭出してやッたら、そればかじゃ足らないから一円くれろというんですよ。そうそう方図がないと思ッてどうしてもやらなかッたらネ、不承不承に五十銭取ッてしまッてネ、それからまた今度は、明後日お友達同士寄ッて飛鳥山で饂飩会(うどんかい)とかを………」
「オホホホ。」
このたびは真におかしそうにお勢が笑い出した。昇はしきりにうなずいて、
「運動会。」
「そのうんどうかいとか蕎麦買いとかをするからもう五十銭くれろッてネ、明日取りにおいでといッても何といッても聞かずに持ッていきましたがネ。それもいいが、憎い事をいうじゃありませんか。わたしが「明日おいでか」ト聞いたらネ、「これさえもらえばもう用はない、またなくなってから行く」ッて………」
「おっかさん、書生の運動会なら、会費といッても高が十銭か二十銭くらいなもんですよ。」
「エ、十銭か二十銭………オヤそれじゃ三十銭足駄(あしだ)を履かれたんだよ………」
トいッて昇の顔をみつめた。とぼけた顔であッたと見えて、昇もお勢も同時に
「オホホホ。」
「アハハハ。」


     第八回 団子坂の観菊 下

お勢母子の出向いた後、文三はようやくすこしおちついて、つくねんと机のほとりにうずくまッたまま、腕をくみ、顎に襟を埋めて懊悩たる物思いに沈んだ。
どうも気にかかる、お勢の事が気にかかる。こんな区々たる事は苦に病むだけが損だ損だと思いながら、ツイどうも気にかかってならぬ。
およそ相愛する二ツの心は、一体分身で孤立する者でもなく、またしようとてできるものでもない。ゆえに一方の心が歓ぶ時には他方の心も共に歓び、一方の心が悲しむ時には他方の心も共に悲しみ、一方の心が楽しむ時に他方の心も共に楽しみ、一方の心が苦しむ時には他方の心も共に苦しみ、嬉笑(きしょう)にも相感じ怒罵(どば)にも相感じ、愉快適悦、不平煩悶にも相感じ、気が気に通じ心が心を喚び起こして決して齟齬(そご)し扞格(かんかく)する者でないと今日が日まで文三思っていたに、今文三の痛痒をお勢は感ぜぬはどうしたものだろう。
どうも気が知れぬ、文三には平気で澄ましているお勢の心意気がのみ込めぬ。
もし相愛していなければ、文三に親しんでから、お勢が言葉づかいを改め起居動作を変え、蓮葉をやめて優に艶しく女性らしくなるはずもなし、また今年の夏一夕の情話に、われから隔ての関を取り除け、乙な目づかいをし麁匆(ぞんざい)な言葉をつかって、折節に物思いをする理由(いわれ)もない。
もし相愛していなければ、婚姻の相談があった時、お勢が戯談にかこつけてそれとなく文三の肚を探るはずもなし、また叔母と悶着をした時、他人同前の文三をかばって真実の母親と抗論する理由もない。
「イヤ妄想じゃない、おれを思っているに違いない………ガ………」
そのまた思ッているお勢が、そのまた死なば同穴と心に誓った形の影が、そのまた共に感じ共に思慮し共に呼吸生息する身の片割れが、従兄弟なり親友なり未来の………夫ともなる文三の鬱々として楽しまぬのをよそに見て、行かぬといッても勧めもせず、平気で澄まして知らぬ顔でいるのみか、文三と意気(そり)が合わねばこそ自家も常居(つね)からきらいだといッている昇ごとき者に伴われて、物見遊山に出かけて行く………
「わからないナ。どうしてもわからん。」
わからぬままに文三が、想像弁別の両刀を執ッて、種々にしてこの気がかりなお勢の冷淡を解剖して見るに、何か物があってその中にこもっているように思われる、イヤこもっているに相違ない。が、何だか地体はさらにわからぬ。よってさらにまた勇気を振り起こしてただこの一点に注意を集め、わき目も觸(ふ)らさず一心不乱にここを先途として解剖して見るが、歌人のいわゆる箒木(ははきぎ)で、ありとは見えてどうもわからぬ、文三はそろそろジレ出した。スルトいたずらな妄想めが野次馬に飛び出して来て、アアではないかこうではないかと、真っ赤な贋物、宛事もない邪推をつかませる。贋物だ邪推だと必ずしも見透かしているでもなく、また必ずしもいないでもなく、ウカウカと文三がつかませられるままにつかんで、あえだりもんだり円(まる)めたり、また引き延ばしたりして骨を折って事実にしてしまい、今目前にそのことが出来したようにあがきつもがきつ四苦八苦の苦しみをなめ、しかる後フト正眼を得てさて観ずれば、何の事だ、皆夢だ邪推だ取り越し苦労だ。腹立ち紛れに贋物を取ッて木灰微塵と打ち砕き、ホッと一息つきあえずまた穿鑿(せんさく)に取りかかり、また贋物をつかませられてまた事実にしてまた打ち砕き、打ち砕いてはまたつかみ、つかんではまた打ち砕くと、いつまでたっても果てしもつかず、終始同じ所にのみ止まッていて、前へも進まず後へも退かぬ。そして退いてよく視れば、なお何物だか、冷淡の中にあッて朦朧として見透かされる。
文三ホッと精を尽かした。今はもう進んで穿鑿する気力も竭(つ)き勇気も沮(はば)んだ。すなわち目を閉じ頭顱(かしら)を抱えてそこへ横に倒れたまま、、五官をばかにし七情の守りを解いて、是非も曲直も栄辱も窮達もお勢も我の吾たるをも何もかも忘れてしまって、一瞬時なりともこの苦悩この煩悩を解脱(のが)れようと力め、ややしばらくの間というものは身動きもせず息気をもつかず死人のごとくになっていたが、たちまちむっくと跳ね起きて、
「もしや本田に………」
ト言いかけてあえて言い詰めず、さながら何か捜索(さがし)でもするように、愕然としてあたりをみまわした。
それにしてもこの疑念はどこから生じたものであろう。天より降ッたか地より沸いたか、そもそもまた文三のひがみからでた蜃楼海市(しんろうかいし)か、忽然として生じて思わずしてきたり、恍々惚々としてその来所を知るには由なしとはいえど、何にもせよ、あれほどまでにあがきつもがきつして穿鑿(せんさく)してもわからなかったいわゆる冷淡中の一物を、今わけもなく造作もなくツイチョット突き留めたらしい心持ちがして、文三覚えず身の毛がよだッた。
とはいうものの心持ちはまだ事実でない。事実から出た心持ちでなければ、ウカとは信をおき難い。よって今までのお勢の挙動をおもい出して熟思審察して見るに、さらにそんな気色は見えない。なるほどお勢はまだ若い、血気もいまだ定まらまい、志操もあるいは根強くあるまい。が、栴檀(せんだん)は二葉から馨ばしく、蛇は一寸にして人をのむ気がある。文三の目より見る時はお勢はいわゆる女豪の萌芽だ、見識も高尚で気韻も高く、洒々落々として愛すべく尊ぶべき少女であって見れば、よし道徳を飾り物にする偽君子、磊落(らいらく)をよそおう似而非(えせ)豪傑には、あるいは欺かれもしよう迷いもしようが、昇ごときあんな卑屈な軽薄な犬畜生にも劣った奴に、怪我にも迷うはずはない。さればこそ常から文三には信切でも昇には冷淡で、文三をば推尊していても昇をば軽蔑している。相愛は相敬の隣に棲む、軽蔑しつつ迷うというは、わが輩人間のよく了解し得る事でない。
「シテ見れば大丈夫かしら………ガ………」
トまた引っかかりがある、まださっぱりしない。文三あわててブルブルと首を振ッて見たが、それでもまだ散りそうにもしない。この「ガ」めが、藕糸孔中蚊睫(ぐうしこうちゅうぶんしょう)の間にも入りそうなこの眇然(びょうぜん)たる一小「ガ」めが、目の中の星よりも邪魔になり、地平線上に現れた砲車一片の雲よりも畏ろしい。
しかり畏ろしい。この「ガ」の先にはどんな不了簡がひそまッているかもしれぬと思えば、文三畏ろしい。物にならぬうちに一刻も早く散らしてしまいたい。シカシ散らしてしまいたいと思うほどなお散りかねる。しかも時刻の移るにしたがッて枝雲はできる、砲車雲は拡がる、今にも一大颶風(ぐふう)が吹き起こりそうに見える、気が気でない………
国もとより郵便がまいッた。散らし薬には崛竟(くっきょう)の物がまいッた。飢えた蒼鷹(くまだか)が小鳥をつかむのはこんなあんばいであろうかと思うほどに文三が手紙を引っつかんで、封じ目を押し切ッて、わざと声高にして読み出したが、中ごろに至ッて………フト黙して考えて………また読み出して………また黙して………また考えて………つい天を仰いで轟然と一大笑を発した、何をいうかと思えば、
「お勢を疑うなんぞといッておれもよっぽどどうかしている、アハハハハ。帰ッて来たらすっかり咄(はな)して笑ッてしまおう、お勢を疑うなんぞといッて、アハハハハ。」
この最後の大笑で砲車雲は全く打ち払ッたが、その代わり手紙は何を読んだのか皆無判からない。
ハッと気を取り直して文三がまじめになッて落ち着いてさて再び母の手紙を読んでみると、免職を知らせた手紙のその返事で、老耋(としよって)の悪い耳、愚痴をこぼしたり薄命を嘆いたりしそうなものの、文の面を見れば、そんなけびらいは露ほどもなく、何もかも因縁ずくとあきらめた思い切りのよい文言。シカシさすがに心細いと見えて、返す書きに、あとでおもい出して書き加えたように薄墨で、
「こう申せばそなたはお笑いなされ候うかは存じ申さず候えども、手紙の着きし当日より一日も早く旧のようにお成りなされ候うように○○のお祖師さまへ茶断ちして願掛けいたしおり候まま、そなたもそのつもりにて油断なく御奉公口をお尋ねなされたく念じ参らせ候。」
文三は手紙を下において、黙然として腕をくんだ。
叔母ですら愛想を尽かすに、親なればこそ子なればこそ、ふがいないといッて愚痴をもこぼさず、茶断ちまでして子を励ます、その親心を汲み分けてはありがた泪(なみだ)に暮れそうなもの、トサ文三自分にも思ッたが、どうしたものか感涙も流れず、ただ何となくお勢の帰りが待ち遠しい。
「畜生おっかさんがこれほどまでに思ッてくださるのに、お勢なんぞの事を………不孝きわまる。」
ト熱気として自らしかッて、お勢の貌を視るまでは外出などをしたくないが、わざと意地悪く、
「これからいって頼んで来よう。」
ト口に言って、「お勢の帰って来ないうちに」ト内心で言い足しをして、憤々しながら晩餐を喫して宿所を立ち出で、足早に番町へまいって知己(ちき)を尋ねた。
知己というのは石田某といって某学校の英語の教師で、文三とは師弟の間がら、かつて某省へ奉職したのも実はこの男の周施で。
この男はかつて英国に留学した事があるとかで英語は一通りできる。当人の噺によれば彼地(あちら)では経済学を修めて随分上出来の方であったという事で、帰朝後も経済学で立派に押し回される所ではあるが、少々子細あッて当分のうち(七、八年来の当分のうちで)、ただの英語の教師をしているという事で。
英国の学者社会に多人数知己がある中に、かの有名の「ハルベルト・スペンセル」ともかつて半面の識があるが、シカシもう七、八年も以前のことゆえ、今面会したら恐らくは互いに面忘れをしているだろうという、これも当人の噺で。
ともかくさすがは留学しただけありて、英国の事情、すなわち上下議院の宏壮、ロンドン府市街の繁昌、馬車の華美、料理の献立、衣服杖履(じょうり)、日用諸雑品の名称等、すべて閭港猥瑣(りょこうわいさ)の事にはよく通暁していて、カルタをもてあそぶ事もでき、紅茶の好悪を飲み別ける事もでき、指頭で紙巻烟草(シガレット)を製する事もでき、片手で鼻汁をふく事もできるが、その代わり日本の事情は皆無わからない。
日本の事情は皆無わからないが当人は一向苦にしない。ただ苦にしないのみならずおよそ一切の事一切の物を、「日本の」トさえ冠詞が付けばすなわち鼻息でフムと吹き飛ばしてしまってそして平気で済ましている。
まだ中年のくせにこの男はあだかも老人のごとくに、過去の追想のみで生活している。人にあえば必ず留学していたころの手柄噺を咄し出す、もっともこれを封じてはさらに談話のできない男で。
知己の者はこの男の事を種々に評判する、あるいは「懶惰(らんだ)だ」ト言いあるいは「鉄面皮だ」と言いあるいは「うぬぼれだ」ト言いあるいは「ほら吹きだ」トいう。この最後の説だけには新知古交ひっくるめて総起立、薬種屋の丁稚が熱に浮かされたように「そうだ」トいう。
「シカシ、毒がなくッていい。」とだれだか評した者があッたが、これはきわめて確評で、恐らくは毒がないから懶惰で鉄面皮でうぬぼれでほらを吹くので、トいッたらあるいは「イヤ懶惰で鉄面皮でうぬぼれでほらを吹くから、それで毒がないように見えるのだ。」トいう説も出ようが、ともかくも文三はそう信じているので。
尋ねてみると幸い在宿、すなわち面会して委細を咄して依頼すると「よろしい承知した。」ト手軽な挨拶、文三は肚の裏で「毒がないから安請け合いをするが、その代わり身を入れて周施はしてくれまい。」ト思ッてひそかに嘆息をした。
「これが英国だと君一人ぐらいどうでもなるんだが、日本だからいかん。わが輩こう見えても英国にいたころは随分知己があったものだ、まず「タイムス」新聞の社員で某サ、それから………」
ト記憶に存した知己の名を一々言い立てての噺、しばしば聞いて耳にタコが入ッているほどではあるが、イエそのお噺ならもう承りましたとも言い兼ねて文三も始めて聞くような面相をして耳を借している、そのジレッタサもどかしさ、モジモジしながらトウトウ二時間前ばかりというもの、のべつに受けさせられた。その受け賃というわけでもあるまいが帰りぎわになって、
「新聞の翻訳物があるから周施しよう。明後日午後に来たまえ、取り寄せて置こう。」
トいうから文三は喜びを述べた。
「フン新聞か………日本の新聞は英国の新聞から見りゃまるで小供の新聞だ、見られたものじゃない………」
文三はあわてて告別の挨拶をしなおしてそこそこに戸外へ立ち出で、ホッと一息ため息をついた。
早くお勢にあいたい、早くつまらぬ心配をした事を咄してしまいたい、早く心の清い所を見せてやりたい、ト一心に思い詰めながら文三がいそいそ帰宅してみるとお勢はいない。お鍋に聞けば、いったん帰ってまた入湯にいったという、文三すこし拍子抜けがした。
居間へ戻ッて橙火を点じ、臥て見たり起きて見たり、立って見たりすわッて見たりして、今か今かと文三が一刻千秋の思いをして頸を伸ばして待ち構えていると、やがて格子戸のあく音がして、縁側に優しい声がして、梯子段を上る足音がして、お勢が目前に現れた。と見れば常さえ艶やかな緑の黒髪は、水気を含んでビロードをも欺くばかり。玉と透きとおる肌は塩引きの色を帯びて、目もとにはほんのりと紅を潮したあんばい、どこやらがいたずららしく見えるが、ニッコリとした口もとのしおらしい所を見ては是非を論ずるいとまがない。文三は何もかも忘れてしまッて、だらしもなくニタニタと笑いながら、
「お帰んなさい。どうでした団子坂は。」
「非常に雑踏しましたよ、お天気がいいのに日曜だッたもんだから。」
ト言いながら膝から先へベッタリすわッて、お勢は両手で矯面をおおい、
「アアせつない、いやだというのに本田さんが無理にお酒を飲まして。」
「おっかさんは。」
ト文三が尋ねた、お勢は何を言ッたのだかトントわからないようで。
「お湯から買い物に回ッて………そしてネ自家もモウいい加減に酔ってるくせに、私が飲めないというとネ、助けてやるッてガブガブそれこそ牛飲したもんだから、しまいにはグデングデンに酔ってしまッて。」
ト聞いて文三は満面の笑いを半ば引っ込ませた。
「それからネ、私どもを家へ送り込んでから、しようがないんですものヲ、ふざけてふざけて。それにおっかさんも悪いのよ、今夜だけは大目にみて置くなんぞッていうもんだからいい気になっておふざけて………オホホホ。」
ト思い出し笑いをして、
「ほんとに失敬な人だよ。」
文三は全く笑いを引っ込ませてしまッて腹立たしそうに、
「そりゃさぞおもしろかッたでしょう。」
といッて顔をしかめたが、お勢はさらに気が付かぬ様子、しばらく黙然として何か考えていたがやがてまた思い出し笑いをして、
「ほんとに失敬な人だよ。」
つまらぬ心配をしたことをすっぱり咄して、快く一笑に付して、心の清い所を見せて、お勢に………お勢に………感信(かんしん)させて、そして自家も安心しようという文三の胸算用は、ここに至ッてガラリはずれた。昇が酒を強いた、飲めぬといッたら助けた、何でもない事。送り込んでからふざけた………道学先生に聞かせたらふざけさせて置くのが悪いというかもしれぬが、シカシこれとても酒の上の事、一時の戯れならそう立腹するわけにもいかなかッたろう。要するにお勢の噺において深くとがむべき節もない。がシカシ文三には気に食わぬ、お勢の言いようが気に食わぬ。「昇ごとき犬畜生にも劣ッた奴の事を、そううれしそうに「本田さん本田さん」トうわさをしなくてもよさそうなものだ。」トおもえばまた不平になッて、またおもしろくなくなッて、またお勢の心意気がのみ込めなくなッた。文三は差しうつ向いたままで黙然として考えている。
「何をそんなにふさいでおいでなさるの。」
「何もふさいじゃいません。」
「そう、私はまたお留さん(大方老婆が文三の嫁に欲しいといッた娘の名で)とかの事を懐い出して、それでふさいでおいでなさるのかと思ッたら、オホホホ。」
文三は愕然としてお勢の貌をしばらくみつめて、ホッとため息をついた。
「オホホホため息をして。やっぱり当たッたんでしょう、ネそうでしょう、オホホホ。当たッたものだから黙ッてしまッて。」
「そんな気楽じゃありません。今日母の所から郵便が来たから読んで見れば、私のこういう身になッたを心配して、このごろじゃ茶断ちして願掛けしているそうだシ………」
「茶断ちして、おっかさんが、オホホホ。おっかさんもまだ旧弊だ事ネー。」
文三はジロリとお勢をしり目にかけて、恨めしそうに、
「あなたにゃおかしいか知らんが私にゃさっぱりおかしくない。薄命とは言いながら私の身が定まらんばかりで老耋(としよ)ッた母にまで心配掛けるかと思えば、随分………耐らない。それにおっかさんも………」
「また何とか言いましたか。」
「イヤ何ともおっしゃりはしないが、アレ以来終始気まずい顔ばかりしていて打ち解けてはくださらんシ………それに………それに………」
「あなたも」ト口さきまで出たが、どうもあつかましく嫉妬も言いかねて思い返してしまい、
「ともかくも一日も早く定めなければならぬと思ッて今も石田の所へいッて頼んでは来ましたが、シカシこれとてもあてにはならんシ、実に………弱りました。ただ私一人苦しむのなら何でもないが、私の身が定まらぬために「方々」が我他彼此(がたびし)するのでまことに困る。」
トしおれ返ッた。
「そうですネー。」
ト今まで冴えに冴えていたお勢もトウトウ引き込まれて共に気をめいらしてしまい、しばらくの間黙然としてつまらぬものでいたが、やがて小さなあくびをして、
「アアねむくなッた。ドレもういッて寝ましょう。お休みなさいまし。」
と会釈をして起ち上がッてフト立ち止まり、
「アそうだッけ………文さん、あなたはアノー課長さんの令妹をご存じ。」
「知りません。」
「そう。今日ネ、団子坂でお目にかかッたの。年紀は十六、七でネ、随分別品は………別品だッたけれども、束髪のくせにヘゲルほど白粉をつけて………薄化粧ならいいけれども、あんなにつけちゃアいや味ッたらしくッてネー………オヤいい気なもんだ、また噺し込んでいるつもりだと見えるよ。お休みなさいまし。」 ト再び会釈してお勢は二階を降りてしまった。
縁側でただ今帰ッたばかりの母親に出あッた。
「お勢。」
「エ。」
「エじゃないよ。またお前、二階へ上がッてたネ。」
また始まッたといッたような面相をして、お勢は返答をもせずそのまま子舎へ入ッてしまッた。
さて子舎へ入ッてからお勢は手早く寝衣に着替えて床へ入り、しばらくの間臥ながら今日の新聞をみていたが………フト新聞を取り落とした。寝入ッたのかと思えばそうでもなく、目はパッチリ視開いている、そのくせ静まり返ッていて身動きをもしない。やがて、
「なぜアア不活発だろう。」
ト口へ出して考えてフト両足を踏み延ばしてにっこり笑い、あわてて起き揚がッて枕頭のランプを吹き消してしまい、枕について二、三度臥反りを打ッたかと思うと間もなくスヤスヤと寝入ッた。


     第九回 すわらぬ肚(はら)

今日は十一月四日、打ち続いての快晴で空は余残(なごり)なく晴れ渡ッているが、憂愁ある身の心は曇る。文三は朝から一室に垂れこめて、独り屈託の頭を疾ましていた。実は昨日朝飯の時、文三が叔母に対って、一昨日教師を番町に訪うて身の振り方を依頼して来た趣を縷々咄し出したが、叔母は木然として情すくなき者のごとく「ヘー」トよそごとに聞き流していてさらに取り合わなかった、それが未だに気になって気になってならないので。
一時ごろに勇が帰宅したとて遊びにまいッた。浮世の塩を踏まぬ身の気散じさ、腕押坐(すわり)相撲の噺、体操音楽のうわさ、取り締まりとの議論、賄方征討の義挙から、試験の模様、落第のいいわけに至るまで、およそ偶然に懐(むね)に浮かんだことは、月足らずの水子思想、まだまとまっていなかろうがどうだろうがそんな事に頓着はない、訥弁ながらやたら無性に陳べ立てて返答などはさらに聞いていぬ。文三も最初こそ相手にもなっていたれ、ついにはホッと精を尽かしてしまい、勇には随意の空気を鼓動さして置いて、自分は自分でよそごとを、といッた所がお勢の上や身の成り行きで、熟思黙想しながら、おりおり間外れなため息かみ交ぜの返答をしていると、フトお勢が階子段を上ッて来て、中途から貌のみを差し出して、
「勇。」
「だから僕ア議論してやッたんだ。ダッテ君、失敬じゃないか。「ボート」の順番を「クラッス」(級)の順番で………」
「勇といえば。お前の耳は木くらげかい。」
「だから何だといッてるじゃないか。」
「綻びを縫ってやるからシャツをお脱ぎとよ。」
勇はシャツを脱ぎながら、
「「クラッス」の順番で定めるというんだもの。「ボート」の順番を「クラッス」の順番で定めちゃア、僕ア何だと思うな、僕ア失敬だと思うな。だって君、「ボート」は………」
「さッさとお脱ぎでないかネー、人が待っているじゃないか」
「そんなに急がなくたッていいやアネ、失敬な。」
「どっちが失敬だ………アラあんな事を言ッたらなおわざとぐずぐずしているよ。チョッ、ジレッタイネー、さっさとしないと姉さん知らないからいい。」
「そんな事言うなら Bridle path という字を知ってるか。I was at our uncle's という事を知ってるか。I will keep your ………」
「チョイとお黙り………」
ト早口に制して、お勢が耳をそばだてて何か聞き済まして、たちまち満面に笑いを含んでさもうれしそうに
「きっと本田さんだよ。」
ト言いながらあわてて梯子段を駈け下りてしまッた。
「オイオイ姉さん、シャツを持ッてッとくれッてば………オイ………ヤ失敬な、モウいっちまッた。あいつ近ごろ生意気になっていかん。さっきも僕アけんかしてやったんだ。婦人のくせに園田勢子という名刺をこしらえるッてッたから、お勢ッ子で沢山だッてッたら、非常に憤ッたッけ。」
「アハハハハ」
ト今まで黙想していた文三が突然むちゃくちゃに高笑いをし出したが、もちろんすこしもおかしそうではなかッた。しかし少年の議論家は称賛されたのかと思ッたと見えて、
「お勢ッ子で沢山だ、婦人のくせにいかん、生意気で。」
ト言いながら得々として二階をおりていった。あとで文三がしばらくの間また腕を組んで黙想していたが、フト何かおもい出したような面相をして、立ち上がッて羽織だけを着替えて、帽子を片手に二階を降りた。
奥の間の障子をあけて見ると、果たして昇が遊びに来ていた。しかも傲然と火鉢のかたわらに大あぐらをかいていた。そのそばにお勢がベッタリすわって、何かツベコベとはしたなくさえずっていた。少年の議論家は素肌の上に上衣を羽織ッて、子細らしく首を傾げて、ふかし甘薯(いも)の皮をむいてい、お政は囂々(ぎょうぎょう)しく針箱を前に控えて、おぼつかない手振りでシャツの綻びを縫い合わせていた。
文三の顔を視ると、昇が顔で電光(いなびかり)を光らせた、けだし挨拶のつもりで。お勢もまた後方を降りかえッてみはみたが、「だれかと思ッたら」トいわぬばかりの索然とした情味のない面相をして、急にまたあちらを向いてしまッて、
「ほんとう。」
ト言いながら、首を傾げてチョイと昇の顔をみつめた光景。
「ほんとうさ。」
「虚言だとききませんよ。」
アノ筋のわからない他人の談話という者は、聞いてあまり快くはないもので。
「チョイと番町まで。」と文三が叔母に会釈をして起ち上がろうとすると、昇が、
「オイ内海、すこし噺がある。」
「ちと急ぐから………」
「こっちも急ぐんだ。」
文三はグッと視おろす、昇は視上げる、目と目をにらみ合わした、何だか異なあんばいで。それでも文三はしぶしぶながら坐舗へ入ッて座に着いた。
「他の事でもないんだが。」
ト昇がイヤに冷笑しながら咄し出した。するとお政は針仕事の手を止めて不思議そうに昇の貌をみつめた。
「今日役所での評判に、この間免職になった者の中で、二、三人復職する者ができるだろうという事だ。そういやア課長の談話にすこし思い当たる事もあるから、あるいは実説だろうかと思うんだ。ところでわが輩考えて見るに、君が免職になったので叔母さんはもちろんお勢さんも………」 ト言いかけてお勢をしり目にかけてニヤリと笑ッた。お勢はお勢でおかしく下唇を突き出して、ムッと口を結んで、額で昇をにらみつけた。イヤにらみつけるまねをした。
「お勢さんも非常に心配しておいでなさるシ、かつ君だッてもナニモ遊んでいて食えるという身分でもあるまいシするから、もし復職できればこの上ないといッたようなもんだろう。ソコデもし果たしてそうならば、よろしく人の定まらぬうちに課長にのみ込ませて置くべしだ。がシカシ君の事だから今さら直付けにいきにくいとでも思うなら、わが輩一臂(いっぴ)の力をかしてもよろしい、橋渡しをしてもよろしいが、どうだおぼしめしは。」
「それは御信切………ありがたいが………」
ト言いかけて文三は黙してしまった。迷惑はかくしてもかくし切れない、自から顔色に現れている。モジつく文三の光景を視て、昇は早くもそれと悟ッたか、
「いやかネ、ナニいやなものを無理に頼んで周施しようというんじゃないから。そりゃどうとも君の随意サ、ダガシカシ………やせ我慢なら大抵にして置く方がよかろうぜ。」
文三は血相を変えた。
「そんな事おっしゃるがむだだよ。」
トお政が横合いから嘴(くちばし)を容れた。
「内の文さんはグッと気位が立ち上がっておいでだから、そんな卑劣な事ァできないッサ。」
「ハハアそうかネ、それはしごくお立派な事だ。ヤこれは飛んだ失敬を申し上げました、アハハハ。」
と聞くと等しく文三は真っ青になッて、ぶるぶると震え出して、拳を握ッて歯を食いしばッて、昇の半面をグッとにらみつけて、今にもむしゃぶりつきそうな顔色をした………が、ハッと心を取り直して、
「エヘ………」
何となく席がしらけた、だれも口をきかない。勇がふかし甘薯を頬ばッて、右の頬をふくらませながら、モッケな顔をして文三をみつめた。お勢もまた不思議そうに文三を見つめた。
「お勢が顔を視ている………このままでおめおめと退くは残念、何かいッてやりたい、何かコウ品のいい、悪口雑言、一言の下に昇を気死させるほどの事をいッて、アノ鼻頭をヒッこすッて、アノ者面をあからめて………」トあせるばかりで凄み文句は以上見つからず、そしてお勢を視れば、なお文三の顔をみつめている………文三はどぎまぎした………
「モウそ………それッきりかネ。」
ト覚えず取りはずしていッて、われながらわが音声の変わッているのにびっくりした。
「何が。」
またやられた。蒼ざめた顔をサッとあからめて文三が
「用事は………」
「ナニ用事………ウー用事か、用事というかわからない………さよう、これッきりだ。」
モウ席にも堪えかねる。黙礼するやいなや文三が蹶然(けつぜん)起ち上がッて坐舗を出て二、三歩すると、後ろの方でドッと口をそろえて高笑いをする声がした。文三はまたぶるぶると震えてまた蒼ざめて、口惜しそうに奥の間の方をにらみ詰めたまま、しばらくの間釘付けにあッたようにたたずんでいたが、やがてまた気を取り直してすごすごと出てまいッた。
が文三無念で残念で口惜しくて、堪え切れぬ憤怒の気がカッとばかりに激昂したのをば無理無体に圧し着けたために、発しこじれて内攻して胸中に磅*はく*鬱積(ほうはくうっせき)する、胸板が張り裂ける、腸(はらわた)が断絶(ちぎ)れる。
無念無念、文三は恥辱を取ッた。つい近ごろといッて二、三日前までは、官等にちとばかり高下はあるとも同じ一課の局員で、優り劣りがなければ押しも押されもしなかッた昇ごとき犬自物(いぬじもの)のために恥辱を取ッた、しかり恥辱を取ッた。シカシ何の遺恨があッて、いかなる原因があッて。
想うに文三、昇にこそ怨みはあれ、昇に怨みられる覚えはさらにない。しかるに昇は何の道理もなく何の理由もなく、あたかも人を辱める特権でももっているように、文三を土芥のごとくに蔑視(みくだ)して、犬猫のごとくにとりあつかッて、あまつさえ叔母やお勢のいる前で、嘲笑した侮辱した。
復職する者があるという役所の評判も、課長の言葉に思い当たる事があるというも、昇のいう事ならあてにはならぬ。よしそれらは実話にもしろ、人の痛いのなら百年も我慢するという昇が、自家の利益を賭け物にして他人のために周施しようという、まずそれからがのみ込めぬ。
かりに一歩を譲ッて、全く朋友の信実心からあのような事を言い出したとした所で、それならそれで言いようがある。それを昇は、官途を離れて零丁孤苦(れいていこく)、みすぼらしい身になッたといッて文三を見くびッて、失敬にも無礼にも、復職ができたらこの上がなかろうといッた。
それもよろしいが、課長は昇のために課長なら、文三のためにもまた課長だ。それを昇は、あたかも自家(うぬ)一個(ひとり)の課長のように、課長課長とひけらかして、頼みもせぬに「一臂の力をかしてやろう、橋渡しをしてやろう。」といッた。疑いもなく昇は、課長の信用、三文不通の信用、主人が奴僕に措くごとき信用を得ているといッて、それを鼻に掛けているに相違ない。それも己(うぬ)一個で鼻に掛けて、己一個でひけらかして、己と己が愚を披露している分の事なら、空き家で棒を振ッたばかり、当たり触りがなければ、文三も黙ッてもいよう立腹もすまいが、その三文信用をさしはさんで、人に臨んで、人を軽蔑して人を嘲弄して人を侮辱するに至ッては、文三腹に据えかねる。
面と向かッて図大柄(ずおおへい)に、「やせ我慢なら大抵にしろ。」と昇はいッた。
やせ我慢やせ我慢、だれがやせ我慢しているといッた、また何をやせ我慢しているといッた。
俗務をおッつくねて、課長の顔色を承けて、強いて笑ッたり諛言(ゆげん)を呈したり、四ン這いに這い回ッたり、乞食にも劣るまねをしてようやくの事で三十五円の慈恵金にありついた………それがどこが栄誉になる。頼まれても文三にはそんな卑屈なまねはできぬ。それを昇は、お政ごとき愚痴無知の婦人に持ち長じられるといッて、おれほど働き者はないとうぬぼれてしまい、しかも廉潔な心から文三が手を下げて頼まぬといえば、嫉(ねた)み妬(そね)みから負け惜しみをすると臆測をたくましゅうして、人もあろうにお勢の前で、「やせ我慢なら大抵にしろ。」
口惜しい、腹が立つ。余の事はともかく、お勢の目前で辱められたのが口惜しい。
「しかも辱められるままに辱められていて手出しもしなかッた。」
トどこかで異な声が聞こえた。
「手出しがならなかッたのだ、手出しがなっくもし得なかッたのじゃない。」
ト文三憤然としていいわけをし出した。
「おれだッて男児だ、虫もある胆気もある。昇なんぞは蚊蜻蛉とも思ッていぬが、シカシあの時なまじこっちから手出しをしてはますます向こうの思う坪に陥ッて玩弄されるばかりだシ、かつ婦人の前でもあッたから、しにくい我慢もしてやッたんだ。」
トは知らずしてお勢が、怜悧に見えても未惚女(おぼこ)の事なら、蟻とも螻(けら)とも糞中の蛆とも言いようのない人非人、利のためにならば人糞をさえなめかねぬ廉恥知らず、昇ごとき者のために文三が嘲笑されたり玩弄されたり侮辱されたりしても手出しをもせずおめおめとして退いたのを視て、あるいは不甲斐ない意気地がないと思いはしなかッたか………よしお勢は何とも思わぬにしろ、文三はお勢の手前面目ない、恥ずかしい………
「トいうも昇、貴様から起こッた事だぞ、ウヌどうするか見やがれ。」
ト憤然として文三が、拳を握ッて歯を食いしばッて、ハッタとばかりにらみつけた。にらみつけられた者は通りすがりの巡査で、巡査は立ち止まッて不思議そうに文三の背長を目分量に見積もりていたが、それでも何とも言わずにまたあちらの方へと巡行していッた。
愕然として文三が、夢のさめたような面相をして、キョロキョロとあたりをみまわして見れば、いつのまにか靖国神社の華表(とりい)際にたたずんでいる。考えて見るとなるほど俎橋(まないたばし)を渡ッて九段坂を上ッた覚えが微かに残ッている。
すなわち社内へ進み入ッて、左手の方の杪枯(うらが)れた桜の樹の植え込みの間へ入ッて、両手を背後に合わせながら、顔をしかめてそここことうろつき出した。けだし、尋ねようという石田の宿所は、後門を抜ければツイそこではあるが、何分にも胸に燃やす修羅苦羅(しゅらくら)の火の手が盛んなので、しばらく散歩して余熱(ほとぼり)を冷ますつもりで。
「シカシ考えて見ればお勢も恨みだ。」
ト文三がうろつきながら愚痴をこぼし出した。
「現在自分の………おれが、本田のような畜生に辱められるのを傍観していながら、悔しそうな顔もしなかッた………平気で人の顔を視ていた………」
「しかも立ちぎわにいっしょになッて高笑いをした。」ト無慈悲な記憶が用捨(ようしゃ)なく言い足しをした。
「そうだ高笑いをした………シテ見ればいよいよ心変わりがしているかしらん………」
ト思いながら文三が力なさそうに、とある桜の樹の下に据え付けてあッたペンキ塗りの腰掛けへ腰を掛ける、というよりはむしろ尻餅をついた。しばらく間は腕をくんで、顎を襟に埋めて、身動きをもせずに静まり返ッて黙想していたが、たちまちフッと首を振り揚げて、
「ヒョットしたらお勢に愛想を尽かさして………そして自家の方になびかそうと思ッて………それでわざとおれを………お勢のいるところでおれを………そういえばアノ言い様、アノお勢を視た目つき………コ、コ、コリャこのままにはおけん………」
トいッて文三は血相を変えて突ッ立ち上がッた。
がどうしたものであろう。
何かコウ非常な手段を用いて、非常な豪胆を示して、「文三は男児だ、虫も胆気もこの通りある、今まで何と言われても笑ッて済ましていたのはな、全く恢量大度(かいりょうたいど)だからだぞ、無気力だからではないぞ。」ト口で言わんでも行為で見せつけて、昇の胆を褫(うば)ッて、叔母の睡りをさまして、もし愛想を尽かしているならばお勢の信用をも買い戻して、そして………そして………自分も実に胆気があると………確信して見たいが、どうしたものであろう。
思うさま言ッて言ッて言いまくッて、そして断絶絶交する………イヤイヤ昇もなかなか口強馬、舌戦は文三の得策でない、といッてまさか腕力に訴える事もできず。
「ハテどうしてくれよう。」
トほとんど口へ出して言いながら、文三がまた旧の腰掛けに尻餅をついてつくづくと考え込んだまま、一時間ばかりというものは、静まり返ッていて身動きをもしなかッた。
「オイ内海君。」
トいう声が頭上に響いて、だれだか肩をたたく者がある。びッくりして文三がフッと貌を振り揚げて見ると、手ずれて垢光りに光ッた洋服、しかも二、三か所手きずを負うたやつを着た壮年の男が、よほど酩酊していると見えて、鼻持ちならぬほどの熟柿臭いにおいをさせながら、いつの間にか目前に突っ立ッていた。これはもと同僚であッた山口某という男で、第一回にチョイとうわさをして置いたアノ山口と同人で、やはり踏みはずし連の一人。
「ヤだれかと思ッたら一別以来だネ。」
「ハハハ一別以来か。」
「大分ごきげんのようだネ。」
「しかりごきげんだ。シカシ酒でも飲まんじゃーたまらん。あれ以来今日で五日になるが、毎日酒浸りだ。」
トいッてその証拠立てのためにか、胸で妙な間投詞を発して聞かせた。
「なぜまたそう Despair を起こしたもんだネ。」
「Despair じゃーないがシカシ君おもしろくないじゃーないか。何らの不都合があッてわれわれどもを追い出したんだろう、また何らの取り得があッてあんな庸劣(やくざ)な奴ばかりを撰んで残したのだろう、その理由が聞いてみたいネ。」
ト真っ黒になッてまくし立てた、その貌を見て、そばを通りすがッた黒衣の園丁らしい男が冷笑した。文三は少し気まりが悪くなり出した。
「君もそうだが、僕だッても事務にかけちゃー………」
「すこし小さな声で咄したまえ、人に聞こえる。」
ト気を付けられてにわかに声を低めて、
「事務にかけちゃこういやアおかしいけれどもあとに残ッたやつらにあえて多くは譲らんつもりだ。そうじゃないか。」
「そうとも。」
「そうだろう。」
ト乗り地になッて、
「しかるにただ一種事務外の事務を勉励しないといッてわれわれどもを追い出した、おもしろくないじゃないか。」
「おもしろくないけれども、シカシいくらいッてもしようがないサ。」
「しようがないけれどもおもしろくないじゃないか。」
「トキニ本田のいう事だからあてにはならんが復職する者が二、三人できるだろうという事だが、君はそんな評判を聞いたか。」
「イヤ聞かない。ヘー復職する者が二、三人。」
「二、三人」
山口はにわかに口をつぐんで何か黙考していたが、やがてスコシ絶望気味で、
「復職する者があッても僕じゃない、僕じゃいかん、課長に憎まれているからもうだめだ。」 トいッてまたしばらく黙考して、
「本田は一等上がッたというじゃないか。」
「そうだそうだ。」
「どうしても事務外の事務の巧みなものは違ッたものだネ、僕のような愚直なものにはとてもアノまねはできない。」
「だれにもできない。」
「奴の事だからさぞ得意でいるだろうネ。」
「得意もいいけれども、人に対ッて失敬な事いうから腹が立つ。」 トいッてしまッてからアア悪い事をいッたと気が付いたが、モウ取り返しは付かない。
「エ失敬な事を、どんな事をどんな事を。」
「エ、ナニすこし………」
「どんな事を。」
「ナニネ、本田が今日僕にある人の所へいッてお髯の塵を払わないかといッたから、失敬な事をいうと思ッてピッタリ跳ね付けてやッたら、やせ我慢といわんばかりに言やアがッた。」
「それで君、黙ッていたのか。」
ト山口は憤然として眼睛(ひとみ)を据えて、文三の貌をみつめた。
「よっぽどやッつけてやろうかと思ッたけれども、シカシあんな奴のいう事を取り上げるも大人げないト思ッて、ゆるして置いてやッた。」
「そ、そ、それだからいかん、そう君は内気だからいかん。」
ト苦々しそうに冷笑ッたかと思うと、たちまちまた憤然として文三の貌をにらんで、
「僕ならすぐその場でブンなぐッてしまう。」
「なぐろうと思えばわけはないけれども、シカシそんな疎暴な事もできない。」
「疎暴だッてかまわんさ、あんな奴は時々なぐッてやらんと癖になっていかん。君だから何だけれども、僕ならすぐブンなぐッてしまう。」
文三は黙してしまッてもはや弁駁(べんばく)をしなかッたが、しばらくして、
「トキニ君は、何だといってこっちへ来たのだ。」
山口はにわかに何か思い出したような面相をして、
「アそうだッけ………一番町に親類があるからこの勢いでこれからそこへいッて金を借りて来ようというのだ。それじゃこれで別れよう、ちと遊びにやッて来たまえ、失敬。」
ト自己がいう事だけをしゃべり立てて、人の挨拶には耳にもかけず急歩(あしばや)に通用門の方へと行く。その後ろ姿を目送りて文三が肚の裏(うち)で
「あいつまでおれの事を、意久地なしといわんばかりにいやアがる。」


     第十回 負けるが勝ち

知己を番町の家に訪えば主人は不在、留守居の者より翻訳物を受け取ッて、文三がもと来た路を引き返して俎橋まで来たころはモウ点火しごろで、町屋では皆店頭ランプを点している。「免職になッて懐ざみしいから、今ごろ帰るに食事をもせずに来た。」ト思われるのも残念と、つまらぬ所に力瘤を入れて、文三はトある牛店へ立ち寄ッた。
この牛店は開店してまだ間もないと見えて、見掛けはしごくよかッたが裏へ入ッて見ると大違い、もっとも客も相応にあッたが、給事の婢が不慣れなのでまごつくほどには手が回らず、帳場でも間違えれば出し物も後れる。酒を命じ肉を命じて文三が、待てど暮らせど持って来ない、催促をしても持って来ない、また催促をしてもまた持って来ない。たまたま持って来れば後から来た客の所へ置いて行く。さすがの文三もついには癇癪を起こして、厳しく談じ付けて、不愉快不平な思いをしてようやくの事で食事を済まして、勘定を済まして、「毎度ありがとうござい」の声を聞き流して戸外へでた時には、厄落としでもしたような心持ちがした。
両側の夜見世をのぞきながら、文三がブラブラと神保町の通りを通行したころには、胸のモヤモヤもようやく絶えだえになッて、どうやら酒を飲んだらしく思われて、昇に辱められた事も忘れ、お勢の高笑いをした事をも忘れ、山口の言葉の気にさわッたのも忘れ、牛店の不快をも忘れて、ただ*かお*に当たる夜風の涼味をのみ感じたが、シカシ長持ちはしなかッた。
宿所へ来た。何心なく文三が格子戸を開けて裏へ入ると、奥坐舗の方でワッワッという高笑いの声がする。耳をそばだててよく聞けば、昇の声もその中に聞える………まだいると見える。文三は覚えず立ち止まッた。「もしまた無礼を加えたら、モウその時は破れかぶれ。」ト思えばしきりに胸が浪だつ。しばらくたたずんでいて、度胸を据えて、戦争が初まる前の軍人のごとくに思い切ッた顔色をして、文三は縁側へ廻り出た。
奥坐舗をのぞいて見ると、杯盤狼藉と取り散らしてある中に、昇が背なかに円く切り抜いた白紙を張られてウロウロとして立っている、そのそばにお勢とお鍋が腹を抱えて絶倒している、がお政の姿はカイモク見えない。顔を見合わしても「帰ッたか」という者もなく、「叔母さんは」ト尋ねても返答をする者もないので、文三はぷりぷりしながらそのままにして行き過ぎてしまうと、たちまち後ろの方で、
 昇「オヤこんないたずらをしたネ。」
 勢「アラわたしじゃありませんよ、アラ鍋ですよ、オホホホホ。」
 鍋「アラお嬢さまですよ、オホホホホ。」
 昇「だれもかれもない、二人共敵手だ。ドレまずこの肥満奴(ふとっちょ)から。」
 鍋「アラ私じゃありませんよ、オホホホホ。アラいやですよ………アラー御新造さアん(引)」
ト大声を揚げさせての騒動、ドタバタという足音も聞こえた、オホホホという笑い声も聞こえた、お勢のしきりに「引っかいておやりよ、引っかいて」トわめく声もまた聞こえた。
騒動に気を取られて文三が覚えず立ち止まりて後方を振り向く途端に、バタバタと足音がして、避ける間もなくだれだかトンと文三に衝き当たッた。あわてた声でお政の声で、
「オー危ない………だれだネーこんな所に黙ッて突っ立ッてて。」
「ヤ、コリャ失敬………文三です………どこぞ痛めはしませんでしたか。」
お政は何とも言わずにツイと奥坐舗へ入りてあとピッシャリ。恨めしそうにあとを目送ッて文三はしばらくたたずんでいたが、やがて二階へ上がッて来て、まず手探りでランプを点じて机のほとりに蹲踞(そんこ)してから、さて
「実に淫哇(みだら)だ。叔母や本田は論ずるに足らんが、お勢が、品格品格と口癖にいッているお勢が、あんな猥褻な席に連なッている………しかもいっしょになッてふざけている………平生の持論はどこへやッた、何のために学問をした。先自侮而後人侮v之(まずみずからあなどるしこうしてのちひとこれをあなどる)[注 vはレ点]、そのくらいの事は承知しているだろう、それでいてあんなまねを………実に淫哇だ。叔父の留守に不取り締まりがあッちゃおれが済まん、明日厳しく叔母に………」
トまでは調子につれて黙想したが、ここに至ッてふと今のわが身を省みてグンニャリとしおれてしまい、しばらくしてから「まずはともかくも」ト気を替えて、懐中してきた翻訳物を取り出して読み初めた。
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political parties threatens to become more formidable with the increasing influence of what has hitherto been called the Radical partty. For over fifty years the party………
ドッと下坐舗でする高笑いの声に流読の腰を折られて、文三はフト口をつぐんで、
「チョッ失敬きわまる。おれの帰ッたのを知ッていながら、どいつもこいつも本田一人の相手になッてチヤホヤしていて、飯を食ッて来たかという者もない……アまた笑ッた、アリャお勢だ……いよいよ心変わりがしたならしたというがいい、切れてやらんとはいわん。何の糞、おれだッて男児だ、心変わりした者に………」
ハッと心づいて、また一越(いちおつ)調子高に、
The ever difficult task of defining the distinctive characters and aims of English political………
フト格子戸のあく音がして笑い声がピッタリ止まッた。文三は耳をそばだてた。いそがわしく縁側を通る人の足音がして、しばらくすると梯子段の下でランプをどうとかこうとかいうお鍋の声がしたが、それから後はひっそとして音沙汰をしなくなった。何となく来客でもある容子。
高笑いのする声がするうちは何をしているくらいは大抵想像がついたからまずよかッたが、こう静まッて見るとサア容子がわからない。文三すこし不安心になッて来た。「客の相手に叔母は坐舗へ出ている。お鍋も用がなければよし、あればそばに付いてはいない。シテ見ると……」文三は起ッたり居たり。
キット思い付いた、イヤ思いだした事がある。今初まッた事ではないが、先刻から酔いざめの気味での咽喉が渇く。水を飲めば渇きがとまるが、シカシ水は台所よりほかにはない。しこうして台所は二階には付いていない。ゆえにもし水を飲まんと欲せば、ぜひとも下坐舗へ降りざるを得ず。「折が悪いから何となく何だけれども、シカシ我慢しているもばかげている。」ト種々にいいわけをして、文三はついに二階を降りた。
台所へ来て見ると、小ランプが点してはあるがお鍋はいない。皿小鉢の洗いかけたままで打ち捨ててある所を見れば、急に用ができて遣いにでもいったものか。「奥坐舗は」と聞き耳を引き立てれば、ヒソヒソとささやく声が聞こえる。全身の注意を耳一ツに集めて見たが、どうも聞き取れない。そこでぬすむがごとくに水を飲んで、抜き足をして台所を出ようとすると、たちまち奥坐舗の障子がサッとあいた。文三は振り返ッて見て、覚えず立ち止まった。お勢が開けかけた障子につかまッて、出るでもなく出ないでもなく、ただこっちへ背を向けてたたずんだままで、坐舗の裏をのぞき込んでいる。
「チョイとここへおいで。」
トいうはたしかに昇の声。お勢はだらしもなく頭振(かぶ)りを振りながら、
「いやサ、あんな事をなさるから。」
「モウいたずらしないからおいでといえば。」
「いや。」
「ヨーシいやといッたネ。」
「ほんとか、そこへいきましょうか。」
ト、チョイと首を傾げた。
「ア、おいで、サア………サア………」
「どっちの目で。」
「コイツメ。」
ト確かに起ち上がるまね。
オホホホと笑いをこぼしながら、お勢はあわてて駆け出して来て、危うく文三に衝き当たろうとして立ち止まッた。
「オヤだれ………文さん………いつ帰ッたの。」
文三は何も言わず、ツンとして二階へ上がッてしまッた。
その後からお勢も続いて上がッて来て、遠慮会釈もなく文三のそばにベッタリすわッて、常よりはなれなれしく、しかも顔をしかめておかしく身体を揺すりながら、
「本田さんがふざけてふざけてしようがないんだもの。」
ト鼻を鳴らした。
文三は恐ろしい顔色をしてお勢の柳眉(りゅうび)をひそめた矯面(かお)をにらみつけたが、恋は曲者、こうにらみつけた時でもなお「美は美だ」と思わないわけにはいかなかッた。せっかくの相好(そうごう)もどうやらくずれそうになッた………が、はッと心づいて、わざと苦々しそうに冷笑(あざわら)いながらそっぽうをむいてしまッた。
折柄梯子段を踏みとどろかして昇が上がッて来た。ジロリと両人の光景を見るやいなや、たちまちウッと身を反らして、さも業山(ぎょうさん)そうに、
「これだもの………大切なお客様を置き去りにしておいて。」
「だッてあなたがあんな事をなさるもの。」
「どんな事を。」
ト言いながら昇はすわッた。
「どんな事ッてあんな事を。」
「ハハハ、こいつァいい。それじゃーあんな事ッてどんな事を。ソラいいたちこッこだ。」
「そんならいッてもようござんすか。」
「よろしいとも。」
「ヨーシよろしいとおッしゃッたネ、そんならいッてしまうからいい。アノネ文さん、今ネ、本田さんが………」
ト言いかけて昇の顔をみつめて
「オホホホ、マアかにしてあげましょう。」
「ハハハ言えないのか、それじゃーわが輩が代わッて噺そう。「今ネ本田さんがネ………」」
「本田さん。」
「私の………」
「アラ本田さん、おっしゃりゃー承知しないからいい。」
「ハハハ、自分から言い出して置きながらそうも亭主というものは恐いものかネ。」
「恐かアないけれども私の不名誉になりますもの。」
「なぜ。」
「なぜといッて、あなたに凌辱(りょうじょく)されたんだもの。」
「ヤこれは飛んでもないことをお言いなさる、ただチョイと………」
「チョイとチョイと本田さん、あえて一問を呈す、オホホホ。あなたは何ですネ、口には同権論者だ同権論者だとおッしゃるけれども、虚言ですネ。」
「同権論者でなければ何だというんでゲス。」
「非同権論者でしょう。」
「非同権論者なら。」
「絶交してしまいます。」
「エ、絶交してしまう、アラ恐ろしの決心じゃアじゃないか、アハハハ。どうしてどうしてわが輩ほど熱心な同権論者は恐らくはあるまいと思う。」
「虚言おッしゃい。たとえばネ熱心でも、あなたのような同権論者は私ア大きらい。」
「これは御挨拶。大きらいとは情けない事をおッしゃるネ。そんならどういう同権論者がお好き。」
「どういうッてアノー、僕(あたし)のすきな同権論者はネ、アノー………」
ト横目で天井をながめた。
昇が小声で
「文さんのような。」
お勢も小声で
「Yes………」
ト微かにいッて、おかしな身振りをして、両手を貌にあてて笑い出した。文三は愕然としてお勢をみつめていたが、見る間に顔色を変えてしまッた。
「イヨーやけます(引)うらやましいぞ(引)。どうだ内海、エ、今の後託宣は。「文さんのような人が好きッ」アッたまらぬたまらぬ、もう今夜うちにゃ寝られん。」
「オホホホホそんな事をおっしゃるけれども、文さんのような同権論者が好きといッたばかりで、文さんが好きといわないからいいじゃありませんか。」
「そのいいわけ闇(くら)い闇い。文さんのような人が好きも文さんが好きも同じ事でございます。」
「オホホホホそんならばネ………アこうですこうです。私はネ文さんが好きだけれども、文さんは私がきらいだからいいじゃありませんか。ネー文さん、そうですネー。」
「ヘンきらいどころか好きも好き、足駄はいて首ッたけという念の入ッた落ッこちようだ。すこし水層が増そうものなら、ブクブク往生しようというんだ、ナア内海。」
文三はムッとしていてにッこりともしない。その貌をお勢はチョイと横目で視て、
「あんまりあなたが戯談おっしゃるものだから、文さん憤ッてしまいなすッたよ。」
「ナニまさかうれしいともいえないもんだから、それであんな貌をしているのサ。シカシ、アア澄ました所は内海もなかなか好男子だネ、苦味ばしッていて。モウすこし彼の顎がつまると申し分がないんだけれども、アハハハハ。」
「オホホホ。」
ト笑いながらお勢はまた文三の貌を横目で視た。
「シカシそうはいうものの内海は果報者だよ。まずお勢さんのようなこんな」
ト、チョイとお勢の膝をたたいて、
「すこぶる付きの別品、しかも実のあるのに想い付かれて、叔母さんに油を取られたといッては保護してもらい、ヤ何だといッては保護してもらう。実にうらやましいネ。明治年代の丹治というのはこの男の事だ。焼いて粉にして飲んでしまおうか、そうしたらちっとはあやかるかもしれん、アハハハハ。」
「オホホホ。」
「オイ好男子、そう苦虫を食いつぶしていずと、ちっとこっちを向いてのろけたまえ。コレサ丹治君。これはしたり、御返答がない。」
「オホホホホ。」
トお勢はまた作り笑いをして、また横目でムッとしている文三の貌を視て、
「アーおかしいこと。あんまり笑ッたものだから咽喉が渇いて来た。本田さん、下へいッてお茶を入れましょう。」
「マアもうちっと御亭主さんのそばにいて顔を視せておあげなさい。」
「いやだネー御亭主さんなんぞッて。そんなら入れてここへ持ッて来ましょうか。」
「茶を入れて持って来る実があるならいっそ水を持ッて来てもらいたいネ。」
「水を。お砂糖入れて。」
「イヤ砂糖のない方がいい。」
「そんならレモン入れて来ましょうか。」
「レモンが入るなら砂糖けがチョッピリあッてもいいね。」
「何だネーいろんな事いッて。」
ト言いながらお勢は起ち上がッて、二階を降りてしまッた。あとには両人の者が、しばらく手持ちぶさたという気味で黙然としていたが、やがて文三はいやに落ち着いた声で、
「本田。」
「エ。」
「君は酒に酔ッているか。」
「イイヤ。」
「それじゃアすこし聞く事があるが、朋友の交わりというものは互いに尊敬していなければできるものじゃあるまいネ。」
「何だ、おかしな事を言い出したな。さよう、尊敬していなければできない。」
「それじゃア………」
ト言いかけて黙していたが、思い切ッてすこし声を震わせて、
「君とはしばらく交際していたが、モウ今夜ぎりで………絶交してもらいたい。」
「ナニ絶交してもらいたいと………何だ、唐突千万な。何だといッて絶交しようというんだ。」
「その理由は君の胸に聞いてもらおう。」
「おかしくいうな。わが輩少しも絶好しられる覚えはない。」
「フン覚えはない。あれほど人を侮辱して置きながら。」
「人を侮辱して置きながら。だれが、いつ、何といッて。」
「フフンしようがないな。」
「君がか。」
文三は黙然としてしばらく昇の顔をみつめていたが、やがてすこし声高に、
「何にもそうとぼけなくッたッていいじゃないか。君みたようなものでも人間と思うからして、すなわち廉恥を知ッている動物と思うからして、人間らしく美しく絶交してしまおうとすれば、君は一度ならず二度までも人を侮辱して置きながら………」
「オイオイオイ人に物をいうならモウちっとわかるようにいってもらいたいネ。君一人ぐらい友人を失ッたといッてそんなに悲しくもないから、絶交するならしてもよろしいが、シカシその理由も説明せずしてただむやみに人を侮辱した侮辱したというばかりじゃ、ハアそうかといッておられんじゃないか。」
「それじゃなぜさっき叔母やお勢のいる前で僕に、「やせ我慢なら大抵にしろ」といッた。」
「それがそんなに気にさわッたのか。」
「あたりまえサ………なぜ今また僕の事を明治年代の丹治すなわち意気地なしといッた。」
「アハハハいよいよ腹筋だ。それから。」
「事に大小はあッても理に巨細(こさい)はない。やせ我慢といッて侮辱したも丹治といッて侮辱したも、帰する所はただ一の軽蔑からだ。すでに軽蔑心がある以上は朋友の交際はできないものと認めたからして絶好を申出したのだ。わかッているじゃないか。」
「それから。」
「ただしこうはいようなものの、園田の家と絶交してくれとはいわん。からして今までのように毎日遊びに来て、叔母とカルタを取ろうが、」
トいッて文三、冷笑した。
「お勢を芸娼妓(げいしょうぎ)のごとくもてあそぼうが、」
トいッてまた冷笑した。
「僕の関係した事でないから、僕は何ともいうまい。だから君もそう落胆イヤ狼狽して遁辞(とんじ)を設ける必要もあるまい。」
「フフウ嫉妬の原素も雑ッている。それから。」
「モウこれよりほかに言う事もない。また君も何も言う必'要'もあるまいから、このまま下へ降りてもらいたい。」
「イヤいう必要がある。冤罪を被ッてはこれを弁解する必要がある。だからこのまま下へ降りる事はできない。なぜやせ我慢なら大抵にしろと「忠告」したのが侮辱になる。なるほど親友でないものにそう直言したならば侮辱といわれてもしようがないが、シカシ君とわが輩とは親友の関繋(かんけい)じゃないか。」
「親友の間にも礼義はある。しかるに君は面と向かッて僕に「やせ我慢なら大抵にしろ」といった。無礼じゃないか。」
「何が無礼だ。「やせ我慢なら大抵にしろ」といッたッけか、「大抵にした方がよかろうぜ」といッたッけか、どっちだッたかもう忘れてしまッたが、シカシどっちにしろ忠告だ。およそ忠告という者は――君にかぶれて哲学者振るのじゃアないが――忠告という者は、人の所行を非と認めるからというもので、是と認めて忠告を試みる者はない。ゆえにもし非を非と直言したのが侮辱になれば、すべての忠告という者は皆君のいわゆる無礼なものだ。もしそれで君がわが輩の忠告を怒るのならば、わが輩一言もない、謹んで罪を謝そう。がそうか。」
「忠告なら僕はかえって聞く事を好む。シカシ君の言ッた事は忠告じゃない、侮辱だ。」
「なぜ。」
「もし忠告ならなぜ人のいる前でいッた。」
「叔母さんやお勢さんは内輪の人じゃないか。」
「そりゃ内輪の者サ……内輪の者サ……けれども……しかしながら……」
文三は狼狽した。昇はその光景を見てひそかに冷笑した。
「内輪の者だけれども、シカシ何もアア口ぎたなく言わなくッてもいいじゃないか。」
「どうも種々に論鋒が変化するから君の趣意がわかりかねるが、それじゃア何か、わが輩の言い方すなわち忠告の Manner が気に食わんというのか。」
「もちろん Manner も気に食わんサ。」
「Manner が気にくわないのなら改めてお断わり申そう。君には侮辱と聞こえたかもしれんがわが輩は忠告のつもりで言ッたのだ、それでよかろう。それならモウ絶交する必要もあるまい、アハハハ。」
文三は何と駁してよいかわからなくなッた、ただムシャクシャと腹が立つ。風がよければさほどにも思うまいが、風が悪いのでなお一層腹が立つ。油汗を鼻さきににじませて、下唇を食い締めながら、しばらくの間口惜しそうに昇のばか笑いをする顔をにらんで黙然としていた。
お勢がこぼれるばかりに水を盛ッた「コップ」を盆に載せて持ッてまいッた。
「ハイ本田さん。」
「これはお待ちどうさま。」
「何ですと。」
「エ。」
「アノとぼけた顔。」
「アハハハハ、シカシあまり遅かッたじゃないか。」
「だッて用があッたんですもの。」
「浮気でもしていやアしなかッたか。」
「あなたじゃあるまいシ。」
「わが輩がそんなに浮気に見えるかネ………ドッコイ「課長さんの令妹」と言いたそうな口つきをする。いえばこっちにも「文さん」トいう武器があるからすぐ返り討ちだ。」
「いやな人だネー、人が何も言わないのに邪推を回して。」
「邪推を回してといえば、」
ト文三の方を向いて、
「どうだ隊長、また胸に落ちんか。」
「君のいう事は皆遁辞だ。」
「なぜ。」
「そりゃ説明するに及ばん、Self-evident truth だ。」
「アハハハ、とうとう Self-evident truth にまで達したか。」
「どうしたの。」
「マア聞いてごらんなさい、よほどおもしろい議論があるから。」
トいッてまた文三の方を向いて
「それじゃその方の口はまず片が付いたと。それからしてもう一口の方は何だッけ………そうそう丹治丹治、アハハハなぜ丹治といッたのが侮辱になるネ、それもやはり Self-evident truth かネ。」
「どうしたの。」
「ナニネ、さっきわが輩が明治年代の丹治といッたのが御気色(みけしき)にさわッたといッて、この通り顔色まで変えてご立腹だ。あなたの情夫(いろ)にしちゃちと野暮天すぎるネ。」
「本田。」
昇は飲みかけた「コップ」を下に置いて
「何でゲス。」
「人を侮辱して置きながらとがめられたといッて遁辞を設けて逃げるような破廉恥的の人間と舌戦は無益と認める。からしてモウ僕には何も言うまいが、シカシ最初の「プロポーザル」(申し出)より一歩も引く事はできんから、モウ降りてくれたまえ。」
「まだそんな事をいッているのか、ヤどうも君も驚くべき負け惜しみだな。」
「何だと。」
「負け惜しみじゃないか。君にもう自分の悪かッた事はわかッているだろう。」
「失敬な事を言うな。降りろといッたら降りたがいいじゃないか。」
「モウおよしなさいよ。」
「ハハハお勢さんが心配し出した、シカシ真にそうだネ、モウよした方がいい。オイ内海、笑ッてしまおう。マア考えて見たまえ、ばかげ切ッているじゃないか。忠告の仕方が気に食わないの、丹治といッたが癪にさわるのといッて絶交する、まるで子供のけんかのようで、人に対して噺しもできないじゃないかネ、オイ笑ッてしまおう。」
文三は黙ッている。
「不承知か、困ッたもんだネ。それじゃよろしい、こうしよう、わが輩があやまろう、全くそうした深い考えがあッていッたわけじゃないから、お気にさわッたらまっぴら御免ください。それでよかろう。」
文三はモウ堪え切れない憤りの声を振り上げて、
「降りろといッたら降りないか。」
「それでもまだ承知ができないのか。それじゃしようがない、降りよう。今何を言ッてもわからない、のぼせ上がッているから。」
「何だと。」
「イヤこっちの事だ。ドレ。」
ト起ち上がる。
「ばか。」
昇もすこしムッとした趣で、立ち止まッてすばらく文三をにらみつけていたが、やがてニヤリと冷笑ッて、
「フフン、前後忘却の体か。」
ト言いながら二階を降りてしまッた。お勢も続いて起ち上がッて、不思議そうに文三の容子を振りかえッてみながら、これも二階を降りてしまッた。あとで文三は悔しそうに歯を食いしばッて、拳を振り揚げて机を撃ッて、
「畜生ッ。」
梯子段の下あたりで昇とお勢のドッと笑う声が聞こえた。


     第十一回 取り付く島

翌朝朝飯の時、家内の者が顔を合わせた。お政は終始顔をしかめていて口もろくろく聞かず、文三もその通り。独りお勢のみはソワソワしていてさらにおちつかず、はしたなくさえずッて他愛もなく笑う。かと思うとフト口をつぐんでまじめになッて、おもい出したように額越しに文三の顔をながめて、笑うでもなく笑わぬでもなく、不思議そうな剣呑そうな奇々妙々な顔色をする。
食事が済む。お勢がまず起ち上がッて坐舗を出て、縁側でお鍋に戯れて高笑いをしたかと思う間もなく、たちまち部屋の方で低声に詩吟をする声が聞こえた。
ますます顔をしかめながら文三が続いて起ち上がろうとして、叔母に呼び留められてまたすわり直して、不思議そうに恐る恐る叔母の顔色をうかがって視てウンザリした。思いなしかして叔母の顔はとがッている。
人を呼び留めながら叔母は悠々としたもので、まず煙草を環に吹くこと五、六ぷくお鍋の膳を引き終わるを見済ましてさてようやくに、
「他の事でもありませんがネ、昨日わたしがマアそばで聞いてれば――またよけいなお世話だッてしかられるかもしれないけれども――本田さんがアアやッて信切に言ッておくんなさるものを、お前さんはキッパリ断わッておしまいなすッたが、ソリャモウお前さんの事たから、いずれ先に何とか確かな見当てがなくッてあんな事をお言いなさりゃアすまないネ。」
「イヤ何も見当てがあッてのどうのというわけじゃありませんが、ただ………」
「へー、見当てもありもしないのにむやみに辞ッておしまいなすッたの。」
「目的なしに断わるといッてはあるいは無考えのように聞こえるかもしれませんが、シカシ本田の言ッた事でもホンノ風評というだけでナニモ確かに………」
縁側を通る人の足音がした。多分お勢が英語のけいこに出かけるので。改まッて外出をする時を除くのほかは、お勢は大抵母親に挨拶をせずして出かける、それが習慣で。
「確かにそうとも………」
「それじゃ何ですか、いよいよとなりゃ御布告にでもなりますか。」
「イヤそんな、布告なんぞになる気づかいはありませんが。」
「それじゃマア人のうわさをあてにするほかしようがないといッたようなもんですね。」
「デスガ、それはそうですが、シカシ………本田なぞの言う事は………」
「あてにならない。」
「イヤそ、そ、そういうわけでもありませんが………ウー………シカシ………いくら苦しいといッて………課長の所へ………」
「何ですとえ。いくら苦しいといッて課長さんの所へはいけないとえ。まだお前さんはそんな気楽な事を言っておいでなさるのかえ。」
トお政は層にかかッて極めつけかたので、文三はあわてて、
「そ、そ、そればかりじゃありません………たとえ今課長に依頼して復職ができたといッてもとても私のような者は永く続きませんから、むしろ館員はモウ思い切ろうかと思います。」
「官員はモウ思い切る、フン何が何だか理由がわかりゃしない。この間お前さん何とお言いだ、私がこれからどうして行くつもりだと聞いたら、また官員の口でもさがそうかと思ッていますとお言いじゃなかッたか。それを今となッて、モウ館員は思い切る………さようサ、オヤの口は干上がッてもかまわないから、モウ官員はおやめなさるがいいのサ。」
「イヤ親の口が干上がッてもかまわないというわけじゃありませんが、シカシ官員ばかりが職業でもありませんから教師になッても親一人ぐらいは養えますから………」
「だからだれもそうはならないと申しませんよ。そりゃお前さんの勝手だから、教師になと車夫になと何になとおなんなさるがいいのサ。」
「ですがそう御立腹なすッちゃ私も実に………。」
「だれが腹を立てると言いました。何お前さんがどうしようとこっちに関繋のない事だからだれも腹も背も立ちゃしないけれども、ただ本田さんがアアやッて信切に言ッておくンなさるもんだから、周施(とりも)ってもらッて課長さんに取り入ッて置きゃア、よしんば今度の復職とやらはできないでもまた先へよって何ぞれかぞれお世話アしてくださるまいものでもないトネー、そうすりゃ、お前さんばかりかおっかさんも御安心なさる事たシ、それに………何だから「三方四方」円く納まること事たから(この時文三はフット顔を振り揚げて、不思議そうに叔母を見つめた)と思ッて、チョイとお聞き申したばかりさ。けれどもナニお前さんがそうした了簡方(りょうけんかた)ならそれまでの事サ。」
両人共しばらく無言。
「鍋。」
「ハイ。」
トお鍋が襖をあけて顔のみを出した。見れば口をモゴつかせている。
「まだ御膳をしまわないのかえ。」
「ハイ、まだ。」
「それじゃしまッてからでいいからネ、いつもの車屋へいって一人乗り一挺あつらえて来ておくれ、浜町まで上下。」
「ハイ、それではただいまじきに。」
トいッてお鍋が襖を閉(た)て切るを待ち兼ねていた文三が、また改めて叔母に向かって、
「だんだんと承ッて見ますと叔母ざんのおっしゃる事は一々ごもっとものようでもあるシ、かつ私一個(ひとり)の強情から、母親はもちろん叔母さんにまで種々御心配をかけましてはなはだ恐れ入りますから、今一応とくと考えて見まして。」
「今一応も二応もないじゃありませんか、お前さんがモウ官員にゃならないと決めておいでなさるんだから。」
「そ、それはそうですが、シカシ………事によッたら………思い直すかもしれませんから………」
お政は冷笑しながら、
「そんならマア考えてごらんなさい。だがナニモ何ですよ、お前さんが官員になッておくんなさらなきゃア私どもが立ちいかないというんじゃないから、無理に何ですよ勧めはしませんよ。」
「ハイ。」
「それからついでだから言ッときますがネ。聞けば昨夕本田さんと何だか入り組みなすったそうだけれども、そんな事があッちゃまことに迷惑しますネ。本田さんはお前さんのお朋友とは言いじょう、今じゃア家のお客も同前の方だから。」
「ハイ。」
トはいッたが文三実は叔母が何を言ッたのだかよくはわからなかッた、少し考え事があるので。
「そりゃアアいう胸の広い方だから、そんな事があッたといッてそれを根葉にもッて周施をしないとはお言いなさりゃすまいけれども、ぜんたいなら………マアそれは今言ッてもむだだ、お前さんが腹をきめてからの事にしよう。」
ト自家撲滅、文三はフト首を振り揚げて、
「ハイ。」
「イエネ、またの事にしましょう、という事サ。」
「ハイ。」
何だかトンチンカンで。
叔母に一礼して文三が起ち上がッて、そこそこに部屋へ戻ッて室の中央に突ッ立ッたままで、座りもせずややしばらくの間というものは造り付けの木偶のごとくに黙然としていたが、やがてため息と共に
「どうしたものだろう。」
トいッて、さながら雪達磨が日の目にあッて解けるように、グズグズと崩れながらに座に着いた。
なぜ「どうしたものだろう」かとその理由を繹(たづ)ねて見ると、概略(あらまし)はまずこうで。
先ごろ免職が種で油を取られたときは文三は一途に叔母を薄情な婦人と思い詰めて恨みもし立腹もした事ではあるが、その後おちついて考えて見るとどうやら叔母の心意気が飲み込めなくなり出した。
なるほど叔母は賢婦でもない、烈女でもない。文三の感情、思想を忖度(そんたく)し得ないのももちろんの事ではあるが、シカシ菽麦(しゅくばく)を弁ぜぬほどの癡女子(ちじょし)でもなければ自家独得の識見をも保着(ほうちゃく)している、ロジックをも保着している、処世の法をも保着している。それでいてなぜアア何の道理もなく何の理由もなく、ただ文三が免職になッたというばかりで、自身も恐らくは無理と知りつつ無理を陳べて一人で立腹して、また一人で立腹したとてまた一人で立腹して、罪も咎もない文三に手を杖かして謝罪さしたのであろう。お勢を嫁するのがいやになってとある時は思いはしたようなものの、考えて見ればそれもおかしい。二、三分時前までは文三はわが女(むすめ)の夫、わが女は文三の妻と思い詰めていた者が、免職と聞くより早くガラリ気がかわッて、にわかに配合わせるのがいやになッて、急ごしらえの愛想づかしを陳べ立てて、故意に文三に立腹さしてそして娘と手を切らせようとした………どうもおかしい。
こうした疑念が起こッたので、文三がまた叔母の言い草、悔しそうな言葉、ジレッタそうな顔色を一々漏らさずおもい起こして、さらに出直して思惟して見て、文三はついに昨日の非を覚ッた。
叔母の心事を察するに、叔母はお勢の身の固まるのを楽しみにしていたに相違ない。来年の春を心待ちに待ッていたに相違ない。アノ帯をアアしてコノ衣服をこうしてとひそかに胸算用をしていたに相違ない。それが文三が免職になッたばかりでガラリトあてがはずれたので、それで失望したに相違ない。およそ失望は落胆を生み落胆は愚痴を生む。「叔母の言い草を愛想づかしと聞き取ッたのは全くこちらの僻耳(ひがみみ)で、あるいは愚痴であッたかもしれん」トいう所に文三気が付いた。
こう気が付いてみると文三は幾分か恨みが晴れた、叔母がそう憎くはなくなった、イヤむしろ叔母に対して気の毒になッて来た。文三の今我(こんが)は故吾(こご)でない、シカシお政の故吾も今我でない。
悶着以来まだ五日にもならぬにお政はガラリその容子を一変した。もちろん以前とてもナニモ非常に文三を親愛していた、手車に乗せて下へもおかぬようにしていたトいうではないが、ともかく以前は、チョイと顔を見る目もと、チョイと物をいう口もとに、まねてまねのならぬ一種の和気を帯びていたが、このごろは眼中には雲をかけて口もとには苦笑いを含んでいる。以前は言う事がさらさらとしていや味気がなかッたが、このごろは言葉に針を含めば聞いて耳が痛くなる。以前は人我の隔歴がなかッたが、このごろは全く他人にする。霽顔(せいがん)を見せた事もない、温語(おんご)をきいた事もない。物を言いかければ聞こえぬ風をする事もあり、気に食わぬ事があれば目をそばだててにらみつける事もあり、要するにおかしな処置振りをしてみせる。免職が種の悶着はここに至ッて、沍(い)ててかじけて凝結し出した。
文三は篤実温厚な男、よしその人となりはどうあろうとも叔母は叔母、有恩(うおん)の人に相違ないから、尊尚親愛(そんしょうしんあい)して水乳のごとくシックリと和合したいとこそ願え、決して乖背(かいはい)し*キ離*(きり)したいとは願わないようなものの、心には境に随(したが)ッてその相を顕(げん)ずるとかで、叔母にこう仕向けられて見るとまんざらよい心地もしない。よい心地もしなければツイ不吉な顔もしたくなる。がそこは篤実温厚だけに、いつも思い返してジッと辛抱している。けだし文三の身が極まらなければお勢の身も極まらぬ道理、親の事ならそれも苦労になろう。人世の困難にであって、独りで苦悩して独りで切り抜けるというは俊傑(すぐれもの)のする事、並みや通途(つうず)の者ならばそうはいかぬがち。自身に苦悩がある時は、必ずその由来する所を自身に求めずして他人に求める。求めて得なければ天命に帰してしまい、求めて得ればすなわちその人を娼嫉(ぼうしつ)する。そうでもしなければ自ら慰める事ができない。「叔母もそれでこうつらく当たるのだな。」トその心を汲み分けて、どんなおかしな処置振りをされても文三は目を閉ッて黙ッている。
「がもし叔母が慈母(おふくろ)のようにおれの心をかみ分けてくれたら、もし叔母が心を和らげて共に困厄に安ずる事ができたら、おれほど世に幸福な者はあるまいに。」と思ッて文三しばしば嘆息した。よって至誠は天をも感ずるとかいう古賢(こげん)の格言を力にして、折さえあれば力めて叔母のきげんを取ッて見るが、お政は油紙に水を注ぐように、跳ねつけてのみいてさらに取り合わず、そして独りでジレている。文三は針の筵(むしろ)にすわッたような心地。
シカシまだまだこれしきの事なら忍んで忍ばれぬ事もないが、ここにもっとも心配で心配で耐えられぬ事が一ツある。もっとも今のうちはただお勢を戒めて今までのように文三と親しくさせないのみでさして思い切ッた処置もしないからまず差し迫ッた事ではないが、シカシこのままにして捨て置けば将来どんな傷心恨事(かなしいこと)が出来(しゅったい)するかも測られぬ。一念ここに至るごとに、文三は我も折れ気もくじけてそして胸膈(むね)もふさがる。
こういう矢さきには得て疑心も起こりたがる、縄麻(じょうま)に蛇相(じゃそう)も生じたがる、株杭(しゅこう)に人想の起こりたがる。実在の苦境のほかに文三が別に妄念から一苦界を産み出して、求めてその中に沈淪(ちんりん)して、あせッてもがいて極大苦悩をなめている今日このごろ、我慢勝他(がまんしょうた)が性質(もちまえ)の叔母のお政が、よくせきの事なればこそ我から折れて出て、「お前さんさえ我を折れば、三方四方円く納まる。」ト穏便をおもって言ッてくれる。それを無面目にも言い破ッて立腹をさせて、われからがたびしの種子をまく………文三はそうはしたくない。なろう事なら叔母の言い状を立ててその心を慰めて、お勢の縁をもつなぎ留めて、老婆の心をも安めて、そして自分も安心したい。それで文三は先刻も言葉を濁して来たので、それで文三は今また屈託の人となッているので。
「どうしたものだろう。」
ト文三再びわれとわれに相談をかけた。
「いッそ叔母の意見について、廉恥も良心も棄ててしまッて、課長の所へいッて見ようかしらん。依頼さえして置けば、たとえば今が今どうならんといッても、叔母の気が安まる。そうすれば、お勢さえ心変わりがしなければまず大丈夫というものだ。かつおッかさんもこのごろじゃア茶断ちして心配しておいでなさる所だから、こればかりで犠牲(ヴイクチーム)になッたといッてもあえて小胆とは言われまい。コリャいッそ叔母の意見に………」
が猛然として省思すれば、叔母の意見につこうとすればいやでも昇に親しまなければならぬ。昇とあのままにして置いて独り課長にのみ取り入ろうとすれば、渠奴(きゃつ)必ず邪魔を入れるに相違ない。からしていやでも昇に親しまなければならぬ。老婆のためお勢のためなら、あるいは良心を傷つけて自重の気を拉(とりひし)いで課長の鼻息をうかがい得るかもしれぬが、いかに窮したればといッて苦しいといッて、昇に、面と向かッて図大柄(ずおうへい)に「やせ我慢なら大抵にしろ」トいッた昇に、昨夜も昨夜とて小児のごとくに人を愚弄して陽に負けて陰に返り討ちにあわした昇に、不倶戴天の仇敵(あだ)、生きながらその肉をくらわなければこの熱腸が冷やされぬと怨みに思ッている昇に、今さら手をついて一着を輸する事は、文三には死してもできぬ。課長に取り入るも昇に上手を遣うもその趣は同じかろうが同じくあるまいが、そんな事に頓着はない。ただ是もなく非もなく、利もなく害もなく、昇に一着を輸する事は文三には死してもできぬ。
ト決心してみれば叔母の意見にそむかなければならず、叔母の意見にそむくまいとすれば昇に一着を輸さなければならぬ。それもいやなりこれもいやなりで、二時間ばかりというものは黙坐して腕をくんで、沈吟して嘆息して、千思万考、審念熟慮して屈託して見たが、詮ずる所は旧の木阿弥。
「ハテどうしたものだろう。」
物皆終りあれば古筵も鳶にはなりけり。久しく苦しんでいるうちに文三の屈託もついにその極度に達して、たちまち一ツの思案を形作ッた。いわゆる思案とは、お勢に相談して見ようという思案で。
けだし文三が叔母の意見にそむきたくないと思うも、叔母の心を汲み分けて見れば道理な所もあるからと言い、叔母の苦り切ッた顔を見るも心苦しいからというのは少分で、その多分は全くそれが原因でお勢の事を断念らねばならぬように成り行きはすまいかと危ぶむからで、ゆえにもしお勢さえ、天は荒れても地は老いても、海は涸れても石は爛れても、文三がこの上どんなに零落としても、母親がこの後どんな言を言い出しても、決してその初めの志を悛(あらた)めないと定まッていれば、叔母が面をふくらしても目をむき出しても、それしきの事なら忍びもなる。文三は叔母の意見にそむく事ができる。すでに叔母の意見にそむく事ができれば、モウ昇に一着を輸する必要もない。「かつ窮して乱するは大丈夫のするを愧(は)ずる所だ。」
そうだそうだ文三の病原はお勢の心にある。お勢の心一ツで進退去就を決しさえすればイサクサはない。なぜ最初からそこに心づかなかッたか、今となッて考えて見ると文三われながらわれが怪しまれる。
お勢に相談する、きわめて上策。恐らくはこれに越す思案もあるまい。もしお勢が、小挫折に逢ッたといッてその節を移さずして、なお未だに文三の知識で考えて、文三の感情で感じて、文三の息気で呼吸して、文三を愛しているならば、文三にいやな事はお勢にもまたいやに相違はあるまい。文三が昇に一着を輸する事を屑(いさぎよし)と思わぬなら、お勢もまた文三に、昇に一着を輸させたくはあるまい。相談をかけたら飛んだ手軽ろく「母が何といおうとかまやアしませんやアネ、本田なんぞに頼む事はおよしなさいよ。」トいッてくれるかもしれぬ。またこの後の所を念を押したら、恨めしそうに、「あなたは私をそんな浮薄なものだと思ッておいでなさるの。」トいッてくれるかもしれぬ。お勢がそうさえいッてくれれば、モウ文三天下に懼(おそ)るる者はない。火にも入れる、水にも飛び込める。いわんや叔母の意見にそむくくらいの事は朝飯前の仕事、お茶の子さいさいとも思わない。
「そうだ、それがいい。」
トいッて文三起ち上がッたが、また立ち止まッて、
「がこのごろの挙動と言い容子と言い、ヒョッとしたら本田に………何してはいないかしらん………チョッかまわん、もしそうならばモウそれまでの事だ。ナニおれだッて男子だ、心がわりのした者に未練は残らん。断然手を切ッてしまッて、今度こそは思い切ッて非常な事をして、非常な豪胆を示して、本田を拉(とりひ)しいで、そしてお勢にも………お勢にも後悔さして、そして………そして………そして………」
ト思いながら二階を降りた。
がここが妙で、観菊行きの時同感せぬお勢の心を疑ッたにもかかわらず、その夜帰宅してからのお勢の挙動を怪しんだのにもかかわらず、また昨日の高笑い昨夜のしだらを今もっておもしろからず思ッているにもかかわらず、文三は内心の内心ではなおまだお勢において心変わりをするなどというそんな水臭い事はないと信じていた。なおまだ相談をかければ文三の思う通りな事をいって、文三を励ますに相違ないと信じていた。こう信ずる理由があるからこう信じていたのではなくて、こう信じたいからこう信じていたので。


     第十二回 いすかの嘴(はし)

文三が二階を降りて、ソットお勢の部屋の障子をあけるその途端に、今まで机に頬杖をついて何事か物思いをしていたお勢が、びっくりした面相をして少し飛び上がッて居ずまいを直した。顔に手のあとの赤く残ッている所をみると、久しく頬杖をついていたものと見える。
「お邪魔じゃありませんか。」
「イイエ。」
「それじゃア。」
ト言いながら文三は部屋へ入ッて坐に着いて
「昨夜は大きに失敬しました。」
「私こそ。」
「実に面目ない、あなたの前をもはばからずして………今朝そのことでおっかさんに小言を聞きました。アハハハハ。」
「そう、オホホホ。」
ト無理に押し出したような笑い、何となく冷たい。今朝のお勢とはまるで他人のようで。
「トキニ少しあなたに御相談がある。他の事でもないが、今朝おっかさんのおっしゃるには………シカシもうお聞きなすッたか。」
「イイエ。」
「なるほどそうだ、ご存じないはずだ………おっかさんのおっしゃるには、本田がアア信切にいッてくれるものだから橋渡しをしてもらッて課長の所へいッたらばどうだとおっしゃるのです。そりゃなるほどおっかさんのおっしゃる通り今ここで私さえ我を折れば私の身も極まるシ、老婆も安心するシ、「三方四方」(ト言葉に力瘤を入れて)円く納まる事だから私もできる事ならそうしたいが、シカシそうしようとするには良心を絞め殺さなければならん、課長の鼻息(びそく)をうかがわなければならん、そんな事はわれわれにはできんじゃありませんか。」
「できなければそれまでじゃありませんか。」
「サそこです。私にはできないがシカシそうしなければおッかさんがまた悪い顔をなさるかもしれません。」
「母が悪い顔したッてそんなことは何だけれども………」
「エ、かまわんとおっしゃるのですか。」
ト文三はニコニコと笑いながら問いかけた。
「だッてそうじゃありません。あなたがあなたの考えどおりに進退して良心に対してすこしも恥ずる所がなければ、人がどんな貌をしたッていいじゃありませんか。」
文三は笑いを停めて、
「デスガただおッかさんが悪い顔をなさるばかりならまだいいが、あるいはそれが原因となッて………あなたにはどうかはしらんが………私のためにはもッとも忌むべきもッとも哀しむべき結果が生じはしないかと危ぶまれるから、それで私も困るのです………もッともそんな結果が生ずると生じないとはあなたの………あなたの………」
ト言いかけて黙してしまッたが、やがて聞こえるか聞こえぬほどの小声で、
「心一ツにある事だけれども………」
トいッて差しうつ向いた。文三のかけた謎々が解けても解けない風をするのか、それともどうだかそこは判然しないが、ともかくお勢はすこぶる無頓着な容子で、
「私にはまだあなたのおっしゃる事がよくわかりませんよ。なぜそう課長さんの所へゆくのがおいやだろう。石田さんの所へいってお頼みなさるも課長さんの所へいってお頼みなさるも、その趣は同一じゃありませんか。」
「イヤ違います。」
トいッて文三は首を振り揚げた。
「非常な差がある、石田は私を知っているけれど課長は私を知らないから………」
「そりゃどうだかわかりゃしませんやアネ、いって見ないうちは。」
「イヤそりゃ今までの経験でわかります、そりゃおおうべからざる事実だから何だけれども………それに課長の所へゆこうとすればぜひともまず本田に依頼をしなければなりません、もちろん課長は私も知らない人じゃないけれども………」
「いいじゃありませんか、本田さんに依頼したッて。」
「エ、本田に依頼をしろと。」
トいッた時は文三はモウ今までの文三でない、顔色がすこし変わッていた。
「命令するのじゃありませんがネ、ただ依頼したッていいじゃありませんか、というの。」
「本田に。」
ト文三はあたかもわが耳を信じないように再び尋ねた。
「ハア。」
「あんな卑屈な奴に………課長の腰巾着………奴隷………」
「そんな………」
「奴隷といわれても恥とも思わんような、犬…犬…犬猫同前な奴に手をついて頼めとおっしゃるのですか。」
トいッてジッとお勢の顔をみつめた。
「昨夜の事があるからそれであなたはそんなにおっしゃるんだろうけれども、本田さんだッてそんなに卑屈な人じゃありませんワ。」
「フフン卑屈でない、本田を卑屈でない。」
トいッてさも苦々しそうに冷笑いながら顔をそむけたが、たちまちキッとお勢の方を振り向いて、
「いつかあなた何とおっしゃッた、本田があなたに対ッて失敬な情談を言ッた時に………」
「そりゃあの時はいやな感じも起こッたけれども、よく交際して見ればそんなにあなたのお言いなさるように破廉恥の人じゃありませんワ。」
文三は黙然としてお勢の顔をみつめていた、ただしよろしくない徴候で。
「昨夜もあれから下へ降りて本田さんがアノー「おっかさんが聞くときっとやかましく言い出すに違いない、そうすると僕は何だけれどもアノ内海が困るだろうから黙ッていてくれろ。」と口止めしたから、私は何とも言わなかッたけれども鍋がツイしゃべッて………」
「古狸め、そんな事を言やアがッたか。」
「またあんな事をいッて………そりゃ文さん、あなたが悪いよ。あれほどあなたに罵詈されても腹も立てずにやっぱりあなたの利益を思ッていう者を、それをそんな古狸なんぞッて………そりゃあなたは温順だのに本田さんは活発だから気が合わないかもしれないけれども、あなたと気の合わないものはみんな破廉恥ときまッてもいないから………それをむやみに罵詈して………そんな失敬な事ッて………」
トすこし顔を赤めて口早にいッた。文三はますます腹立たしそうな面相をして、
「それでは何ですか、本田はあなたの気に入ッたというんですか。」
「気に入るも入らないもないけれども、あなたのいうようなそんな破廉恥な人じゃありませんワ………それを古狸なんぞッてむやみに人を罵詈して………」
「イヤ、まず私の聞く事に返答してください。いよいよ本田が気に入ッたというんですか。」
言いようがすこしはげしかッた。お勢はムッとして、しばらく文三の容子をジロリジロリと視ていたが、やがて、
「そんな事を聞いて何になさる。本田さんが私の気に入ろうと入るまいと、あなたの関係した事じゃありませんか。」
「あるから聞くのです。」
「そんならどんな関係があります。」
「どんな関係でもよろしい、それを今説明する必要はない。」
「そんなら私もあなたの問いに答える必要はありません。」
「それじゃアよろしい、聞かなくッても。」
トいって文三はまた顔をそむけて、さも苦々しそうに独語(ひとりごと)のように、
「人に問いつめられて逃げるなんぞといッて、実にひひ卑怯きわまる。」
「何ですと、卑怯きわまると………ようござんす、そんな事お言いなさるなら匿(かく)したッてしようがない、言ッてしまいます………言ッてしまいますとも………」
トいッてスコシ胸を突き出して、きッとして、
「ハイ本田さんは私の気に入りました………それがどうしました。」
ト聞くと文三はぶるぶると震えた、真っ蒼になッた………しばらくの間は言葉はなくて、ただ恨めしそうにジッとお勢の澄ました顔をみつめていた、その目縁が見る見るうるみ出した………がたちまちはッと気を取り直して、きッと容(かたち)を改めて、震え声で、
「それじゃ………それじゃこうしましょう、今までの事はすっかり………水に………」
言い切れない、胸がいっぱいになッて。しばらく杜絶(とぎ)れていたが思い切ッて、
「水に流してしまいましょう………」
「何です、今までの事とは。」
「この場になッてそうとぼけなくッてもいいじゃありませんか。いッそ別れるものなら………きれいに………別れようじゃ………ありませんか………」
「だれがとぼけています。だれがだれに別れようというのです。」
文三はムラムラとした。すこし声高になッて、
「とぼけるのもいい加減になさい。だれがだれに別れるのだとは何の事です。今までさんざ人の感情をもてあそんで置きながら、今となッて………本田なぞに見返るさえあるに、人が穏やかに出れば付け上がッて、だれがだれに別れるのだとは何の事です。」
「何ですと。人の感情をもてあそんで置きながら………だれが人の感情をもてあそびました………だれが人の感情をもてあそびましたよ。」
トいった時はもうお勢もうるみ目になっていた。文三はグッとお勢の顔をにらみつけているのみで、一語をも発しなかった。
「あんまりだからいい………人の感情をもてあそんだの本田に見返ったのいろんな事をいって讒謗(ざんぼう)して………自分がうぬぼれてどんな夢を見ていたって、人の知った事ちゃありゃしない………」
トまだ言い終わらぬうちに文三はスックと起ち上がって、お勢をにらみつけて、
「モウ言う事もない聞く事もない。モウこれが口のきき納めだからそう思っておいでなさい。」
「そう思いますとも。」
「沢山………浮気をなさい。」
「何ですと。」
トいった時にはモウ文三は部屋にはいなかった。
「畜生………ばか………口なんぞ聞いてくれなくッたッてちっとも困りゃしないぞ………ばか………」
ト跡でお勢が敵手もないで独りで熱気となって悪口を並べ立てている所へ、いつのまにか帰宅したかフと母親が入って来た。
「どうしたんだえ。」
「畜生………」
「どうしたんだといえば。」
「文三とけんかしたんだよ………文三の畜生と………」
「どうして。」
「さっきいきなり入ッて来て、今朝おッかさんがこうこう言ッたがどうしようと相談するから、それから昨夜おッかさんが言ッた通りに………」
「コレサ、静かにお言い。」
「おッかさんの言ッた通りにいッて勧めたら腹を立てやアがッて、人の事をいろんな事をいッて。」
ト手みじかにもちろん自分に不利な所は悉皆(しっかい)取り除いて次第を咄して、
「おッかさん、わたしァくやしくッてくやしくッてならないよ。」
トいッて襦袢の袖口で泪をふいた。
「フウそうかえ、そんな事をいッたかえ。それじゃもうそれまでの事だ。あんな者でも家大人(おっとさん)の血統だから今となッてかれこれ言い出しちゃ面倒臭いと思ッて、こッちから折れて出てやれば付け上がッて、そんなわがまま勝手をいう………モウ勘弁がならない。」
トいッてすこし考えていたが、やがてまた娘の方を向いて一段と声を低めて、
「実はネ、お前にはまだ内々でいたけれども、家大人はネ、ゆくゆくはお前を文三に配合(めあ)わせるつもりでおいでなさるんだが、お前は………いやだろうネ。」
「いやサいやサ、だれがあんな奴に………」
「きっとそうかえ。」
「だれがあんな奴に………乞食したッてあんな奴のお嫁になるもんか。」
「その一言をお忘れでないよ。お前がいよいよその気ならおっかさんも了簡があるから。」
「おっかさん、今日からわたしを下宿さしておくんなさいな。」
「なんだネこの娘は、藪から棒に。」
「だッてわたしァ、モウ文さんの顔を見るのもいやだもの。」
「そんな事を言ッたッてしようがないやアネ。マアもうちっと辛抱しておいで、そのうちにゃおっかさんがいいようにしてあげるから。」
この時はお勢は黙していた。何か考えているようで。
「これからはほんとうにおっかさんの言う事をきいて、モウあんまり文三と口なんぞお聞きでないよ。」
「だれが聞いてやるもんか。」
「文三ばかりじゃない、本田さんにだッてそうだよ。あんな昨夜のように遠慮のない事をお言いでないよ。ソリャお前の事だからまさかそんな………不埒(ふらち)なんぞはおしじゃあるまいけれども、今が嫁入り前で一番だいじな時だから。」
「おっかさんまでそんな事をいッて………そんならモウこれから本田さんが来たッて口も聞かないからいい。」
「口は聞くなじゃないが、ただ昨夜のように………」
「イイエイイエモウ口も聞かない聞かない。」
「そうじゃないといえばネ。」
「イイエ、モウ口も聞かない聞かない。」
ト頭振(かぶ)りを振る娘の顔を視て、母親は
「まるで狂気だ。チョイと人が一言いえばすぐ腹を立ってしまッて、手も付けられやアしない。」
ト言い捨てて起ち上がッて、部屋を出てしまッた。

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