二
紅尾と清流が桜里の視線を追う。
その先にあったのは --
植えられてまだやっと1年か2年だろう、日当たりのあまり良くない公園の奥に、風にも折れそうな程に細い幹をそれでもすらりと伸ばして蕾をつけた、ソメイヨシノの幼木。
--
『他の桜が咲いたからといって、慌てて咲くこともあるまい』
つい先刻の桜里の言葉が、本当は誰に向けられたものであったのか、その瞬間に、紅尾も清流も、悟る。
「言われてみれば、そうですね」
言って、紅尾が笑顔を桜里に向けた、その時だった。
「…………!」
桜里が、切れ長の一重の目を軽く見開いた。紅をはいたような朱唇が、ゆっくりと笑みを形作る。
「桜里?」
「紅尾さん!」
不思議に思って声をかけた紅尾の、けれどジーンズの裾を清流がつんつんと引っ張った。
「ほら、あれ!」
清流が指さしているのは……そして桜里が見ているのも、先程の桜の幼木である。
だが、その幼木は、ある一点において先程のそれとは決定的に違っていた。
「花が……咲いてる」
右側に張りだした細い枝の先、数個寄り添った蕾の中の一つが、ほころんでいる。
そうして、更に……
ぽっ。
枝先にちいさな薄紅の光が点り、それが木の正面に移動して、それから段々大きくなって、やがて樹高と同じくらいにまで成長する。
そしてそのまま凝るように収束して……
光が消えた後には、薄紅の着物を纏った女の子が、目を閉じて、立っていた。
肩口で切りそろえた真っ直ぐな黒髪が、濃さを増した茜色の光に映えて揺れている。
ふわり、と、風に少女の袖が舞った。
途端、目を開けた少女が
「桜里さまっ!」
弾んだ声を響かせて駆けてくる。
両手を広げて待っている桜里の顔にも、やはり満面の笑みがあった。
「桜里さま、桜里さま! やっと、あたし、咲けました。やっと桜里さまにこうしてご挨拶に来られるようになりました!」
身をかがめた桜里の腕の中に飛び込んで、嬉しそうに少女は笑う。
寿命が長く、力も強く、望めばいつでも人形を取ることの出来る桜里は、彼女達にとっては主にも等しいのだろう。そうして、いつもは声をかけてもらうばかりの主とあがめる存在に、自ら挨拶に出向くことは、彼女達にとっては何よりも嬉しく、誇らしいことなのだろう。
ましてそれが花を咲かせた瞬間とあってはなおのこと。
「よう咲いたの。綺麗に咲いた。そなたもこれで一人前の桜じゃ。これから毎年、そなたの花も、春の宴を艶やかに飾るのじゃな」
「はいっ!」
桜里の言葉に少女は答えて握り拳で高らかに宣言する。
「あたし、これから頑張って、先輩達よりもっとずっと早く、綺麗な花を咲かせます!」
「……そうか」
ごくごくかすかに吐息を織り込んだ桜里の笑みに、けれど少女は気付かない。
「それは、どうかと思うけど?」
盛り上がっていた少女の言葉に、さりげなく突っ込みを入れたのは紅尾だった。
「どうかと思う、というのは、どういう意味ですか、紅尾さま」
「紅尾さん」
-- 桜里が何も言わないものを。
呆れたような清流の目と、いささかならずムッとした少女の眼差しを受けて、それでも穏やかな笑みを浮かべてみせるのが紅尾だ。
ほんの少し……少女にはそれと判らない程度の苦笑を滲ませる桜里を見やって、再び少女に視線を戻し、
「うん……判らないなら、まあ、いいよ」
自分の放った、謎かけにもならない謎かけの、意味を説明するつもりは、どうやら紅尾にはないらしい。
「あのー。あたしは全然よくないんですけど」
眉をひそめた少女に向かって、今度は桜里がふわりと笑った。
「いずれそなたにも、判る時が来ようぞ」
それまでは、一心にただ咲けばいい。
意味不明の紅尾の言葉も、同じく意味不明だろう桜里の言葉も、主と仰ぐ桜の精の笑顔の前にあっては、少女には何の意味もなさないらしい。
「はいっ!」
大きくこっくりと頷いた少女は、
「それでは桜里さま、みなさま。また来年お会いしましょう」
誇らしくも鮮やかな会心の笑みを浮かべて、ちょこん、とひとつ礼をしてから、再び自分の宿る桜の木へと戻って行く。
「純粋と言うか、無邪気と言うか……」
こっそり呟いた紅尾をちらりと横目でにらんで、
「そなたのように性格が複雑骨折しているよりは、数段ましであろうよ」
とすかさず桜里。
「あっ、ひどい……」
嘆く振りをしながら、紅尾は隣で吹き出した清流の耳をくいっと強く引っ張った。
幼い桜の精霊は、そんなやりとりにもまるで気付く様子もなく、ぱたぱたと自分の宿る木に駆け寄って
「あたし、頑張って綺麗に咲きます!」
最後にもう一度振り返り、無邪気な笑顔を向けた後、少女の姿は太陽の投げる最後の光に包まれ……
光が消えると同時に、風に融けた。
辺りを一瞬の静寂が覆う。
空は茜から紫、薄青、群青へと、刻々その色を移して行く。
やがて残照も薄れれば、薄闇の公園にぽっと白い常夜灯が点る。
夜にはまだ早い。けれど昼間でももうない。ささやかながら夜に昼を持ち込む常夜灯も、まだその力は発揮できずにただすぐそばの桜だけを淡く照らしている。
ほんのり白く浮かび上がる桜達を見やって、桜里が
「……さて」
と呟いた。
「桜里?」
「桜里さま」
何が一体「さて」なのだ。
「さて、帰るか」と続くのかと、きょとん、とした目で紅尾と清流が桜里を見つめる。
その眼差しを受け止めて、不思議なことを桜里は言った。
「さて。準備はよいかえ?」
「はっ?」
「準備って何ですか。」
まだ事情の飲み込めない紅尾と清流にクスクスと笑いかけ、
「準備は準備じゃ。ゆくぞえ」
見ておれ。
己の本性である山桜へと歩み寄った桜里は、その枝先に白く優雅な手を伸ばした。
ぽぅっ……。
常夜灯の光の届かない枝先に、淡く小さな光が点る。
その薄紅の光を受けて
「……!」
息をひそめた紅尾と清流の目の前で、桜里が今年その身を飾る最初の一輪が、ふわりと、咲いた。
この枝先に一輪、二輪。
その先の枝に今度は三輪。
そしてまたこちらの枝に、また一輪。
ふわり、はらりと開いて行く山桜を見つめて、紅尾は呼吸を忘れている。
と。
「桜里さま……紅尾さん!」
清流が隣でいきなり声を上げた。
「清流? ……どうした」
我に返って紅尾が人外の同居人に目を向けると、清流はそれ以上何も言わずにそっと桜里に視線を移した。
「……?」
桜里が、何か?
訳が判らず、紅尾は首を傾げる。
それもそのはず。
紅尾は、なにしろ最初は清流を見下ろした視線の角度をそのまま保って、桜里の衣装の裾だけを見つめたのだから。
けれど、その眼差しを裾から袖、肩口へと徐々に上げて行くに従って、紅尾は清流が驚いた理由を知る。知って再び息を飲む。
「桜里……あなたの着物……」
紅尾と清流の見つめる先の、桜里の衣装の裾は変わらぬ紅。だが、そこから肩口へと見上げるにつれて、彼女の着物の色は紅から薄紅、桜色から白と見まごう一斤染めへと段々淡くなってゆく。
ふたりの視線を笑って受け止めて、桜里は
「妾の花が咲いた故、な」
と、小さくひとこと言って微笑った。
「ああ……なるほど」
咲く直前の樹は紅。蕾は薄紅。咲いた直後の花は淡い紅で、それから段々白くなる。
桜里の衣は自身を映す鏡だ。
だからこの変化は当然のことなのだろう。
言葉もなく、しばらく花と桜里の両方に見惚れて……
「綺麗ですね」
紅尾はそっと、吐息のような言葉を漏らした。
「さて。紅尾。清流。夜桜を眺めて花見でもするかえ?」
いつの間にか濃くなった闇の中、薄紅の桜が浮かんでいる。
目の前には、桜の精霊。
「まだちょっと早いんじゃないですか?」
クスリと笑った紅尾の隣で、
「でも、ものすごく贅沢ですよね」
やはり笑って清流が言った。
「ああ、そうだな」
今年初めて蕾をつけた桜の花が開くのを見た。精霊の宿る山桜が、今年最初に花を咲かせるその瞬間を見た。精霊の衣装の色が変わるのも。
これ以上の贅沢が、他にあるだろうか?
顔を見合わせて頷きあった紅尾と清流の隣で、桜里がほんの少しだけ威張った素振りで
「贅沢であろうが。感謝するがよいぞ。これも全て妾のお陰じゃからの」
「はい、感謝してます」
「もちろんですとも桜里さま」
クスクス笑って答えるふたりに更に笑って桜里は言った。
「ならば早速、花見酒ならぬ花見紅茶に花見クッキーとゆこうではないか」
「それってひょっとして、『とりあえず』なんて注釈ついたりしませんか?」
「その後花見食事会に花見宴会、なんて言い出しそうですよね、桜里さまって」
「ほほほ、さて、どうだかの?」
紅尾と清流の呆れ顔にも、桜里は素知らぬ振りだ。
春のはじめの夜の宴は、まだまだ始まったばかりであるらしい。
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