春宵宴


 

 

  

 一

 

 日暮れを間近に控えて淡い茜に染まる公園の、入口へと続く石段を、見慣れた物体がトコトコと登ってくる。
 狸よりも一回り大きい体。顔は、とぼけた猫のようだ。ウサギのように長い耳に、狐のようなふさふさのしっぽを持っている。
 もこもこと体を覆う、手触りの良さそうな毛の色は、純白。
 パーツだけを取ればそれほど珍しい動物でもないが -- 狐や狸が普通に町中にいるのだってそれだけで十分珍しくはあるのだが、この際それは置くとして、だ -- それが一つの体に集まっているのを見ることは、まずない。
 更に持ってきて、他の動物と決定的に違うことには、この物体、人間並みの二足歩行を楽々こなしている。
 ご丁寧なことに、鼻歌まで歌っていた。
「ご機嫌じゃの、キヨル」
 彼女 -- 桜里の呼びかけに、答えて謎の動物は朗らかに笑った。
「桜里さま、こんにちは!」
 『清流』と書いて『キヨル』と読む。
 春先に帰省していた紅尾にくっついて東京にやって来た、彼も桜里と同じ人外のモノ。紅尾の出身地の山野の精気の化身 -- 手っ取り早く言えば、『もののけ』である。
 その清流が、桜里の隣にいる存在に気付いて視線を泳がせた。
 数歩遅れてやって来た紅尾が、遠慮がちに首を傾げる。
「クッキーを焼いたから、お茶のお誘いに来たんですけど……お邪魔でしたか?」
 それに笑顔で「いや」と答えて、桜里は自分の隣に控えめに立つ存在に視線を移した。
「という話なのだが、どうじゃ。そなたも馳走になるかえ? 紅尾の作る菓子は美味ぞ」
 一人暮らしの紅尾の作る料理はなかなか美味だ。甘さ控えめの菓子類に至っては絶品の部類に入る、というのが、桜里も含めた周囲の定評である。この機会を逃すのは勿体ない、と、桜里は傍らの女性に声をかけたのだが。
「いえ、そんな……お邪魔でしょうし」
「そんなことないですよ。結構な数焼きましたし、カップもあります。人数が多い方が賑やかで楽しいし。お嫌いでなければ是非」
「そうそう。せっかくですし。ね?」
 恐縮して引き下がろうとする女性に、紅尾と清流が笑顔で誘いをかけた。
 桜里の隣で、薄紅の着物に身を包み、やはり桜里と同じような古風な出で立ちをしているからには、この女性もまた人間ではないのだろうに、人外の清流はともかく紅尾も一向にそんなことは気にしていない。
 相変わらず動じない人間である。
「いえ……」
 それでもやんわりと断りを入れる佳人に向かって、今度は
「初対面でお茶のお誘いって、不躾でした?」
 相手が人間だろうが精霊だろうが関係ないのだ、紅尾には。
 相手の顔に笑みがこぼれた。
「いえ、そんなことはございません。でも、たまたま今、桜里さまにご挨拶に来たわたくしだけがお茶のご相伴に預かっては、仲間達が羨ましがって後が大変でございます」
 仲間達、というのは、この公園に十本以上植えられた桜のことを言うのだろう。彼女も桜里と同じ桜の精霊なのだった。
「別に構わぬのではないか?」
 苦笑混じりに桜里が言うと、精霊は力を込めて叫んだ。
「とんでもございません! 後で責められて感想を迫られて大変でございますよ」
 これには紅尾と清流が笑ってしまった。
「それじゃ、今度はみなさんの分も作って桜里にことづけることにしますよ」
「ありがとうございます、紅尾さま。……それでは桜里さま、わたくし、これで失礼いたします。また、来年、お会いしましょう」
 花がこぼれるように笑って歩み去った精霊は、一分咲きともまだ言えないながら枝先に数輪ずつ花をつけた、一本の桜の前で立ち止まり、もう一度振り向いてにこりと微笑んでから、すぅっと姿を消した。
 つまりその木が、彼女の宿る桜なのだろう。
 それを見送った清流が、桜里に小声で問いかける。
「また来年っていうのは……どうしてですか」
「それは……」
「あの方々がソメイヨシノだから、ですか」
 言い淀んで途切れた桜里の言葉を、推論の形で紅尾が続けた。
「ソメイヨシノは人の手で作られた比較的新しい品種で、寿命も山桜なんかよりずっと短いって聞いてますけど」
「……そう、なんですか……? 桜里さま」
 もののけの寿命の十分の一も生きていない清流は、特に人界のことに疎い。人の手で作り出されたソメイヨシノは、彼にとってみれば立派に『人界のこと』の範疇に入った。
「そうじゃ」
 答えて桜里は静かに頷く。
「あれは……いや、ここにある桜は、妾以外は全てソメイヨシノじゃ。故に寿命が短く、精霊としての力も弱い。彼女等が人形を取って妾の前に立つことが出来るのは、その精気が最も強くなる開花の時だけ。そうでなければ彼女達は、己が宿る桜から出ることもかなわぬ」
「……それで、また来年、なんですね」
 そんな制限を持たない清流がほんの少し淋しそうに言うと、一瞬沈んだ空気を振り払うように、紅尾が明るい声を出した。
「そういえば、東京でもソメイヨシノの開花宣言が出ましたものね」
 見渡せば、なるほど公園のほとんどの桜が既にその枝に花をつけている。
 桜の精霊が桜里に挨拶に来るわけだ、と。
 東京でソメイヨシノの開花宣言が出たのはつい二日ほど前のことである。
 桜、という花に春を託し、その開花を待ち望んで、官庁が開花の時期を予測する。そしていざ咲いたとなれば、やはり官庁が開花宣言を出し、それを公に『ニュース』として取り扱う。この国は、そんな風雅な国でもある。
「日当たりのいいところのは、もう2分咲きくらいになってますよね」
 にこやかに笑って清流が言えば、自然紅尾と清流の視線は桜里へと向かう。
 桜里は -- というか、彼女の本性である山桜は、いまだ一輪も開いていないが、ほころんだ蕾と新芽の緑の色の対比が鮮やかだった。樹自体は全体におぼろに紅がかっているように見えるから、新芽の緑が余計に映える。
 そういえば、桜里の纏う衣装も同じ色だ。
「桜里?」
 気になった紅尾が、疑問を声に出す。
「なんじゃ」
「気になったんですけど。さっきの方の衣装は白に近い薄紅だったのに、どうしてあなたの衣装はそんな鮮やかな紅なんです?」
 蕾の色も薄紅なのに。他の色といったら樹の肌と新芽の緑だけなのに。桜里のどこにも、そんなに鮮やかな紅はないのに……。
「なんじゃ、紅尾。そなた知らなんだのか」
 意外なことを聞いた、とでも言いたげに目を見開いた桜里に代わって、この疑問には清流が答えた。現代の人界のことでなければ清流にもちゃんと知識があるのだ。
「紅尾さん。桜の木は……紅梅もですけど、花の開く直前には、木全体が『その花の色』に染まるんですよ。外側じゃなく、内側が」
「木、全体が……?」
「そうじゃ」
 驚きに目を瞠った紅尾に笑みを返して、清流の言葉を桜里が引き取る。
「蕾のひとつひとつは言うに及ばず、幹の内側、新芽を護る皮、小さな枝の一本一本に至るまで、の。桜の木の皮で染めた紅色の布があるであろう? あれはそんな、開花の前の紅に染まった樹皮を使って作るのじゃ」
「布を染められる程の、紅に……ですか」
 ことん、と納得して、紅尾は目を伏せ頷く。
 なるほど、だから、蕾のほころんだ桜の木は、あんな風に……紅のヴェールを纏ったように見えるのか、と。
 そうして全身で生み出した紅を、桜は『花』という形で世界に送り出してくれるのか、と。
「道理で……綺麗なはず、ですね」
 噛み締めるように紡ぎ出された紅尾の言葉には、心底からの感嘆がある。
 そうして園内の桜達を、桜里も含めて一渡り見渡して。
 紅尾はやはり紅尾らしい一言を放った。
「で、桜里。あなたはいつ花を咲かせるおつもりなんです?」
 いつ花が咲くのか、ではなく、いつ花を咲かせるのか、と紅尾は訊く。
「なんじゃいきなり」
「いやほら、去年残念な思いをしましたから。今年はあなたとこうしてお知り合いになれているワケですし、せっかくだから最初の一輪が開く瞬間も見せて頂きたいかな、なんて」
 去年満開の桜里を見逃したのが、紅尾には余程悔しいらしい。ついでに、滅多に見られない『最初の一輪が開く瞬間』も桜里に教えてもらって眺めたい、ということなのだろう。
 紅尾の言葉に清流も乗った。
「あ、僕も見たいです、桜里さまの花が咲くところ! 山に住んでても、最初の一輪が咲く瞬間ってまず見られないですから」
 期待に満ちたふたりの眼差しを受け止めて、それでも桜里は「さてな」と笑う。
「さてって何ですかー。ご自分のことでしょう? それに開花宣言も出たし、他の桜もこんなに咲いてきてるのに」
「そうですよ、桜里さまぁ。桜里さまくらいになったら、開花の時期もご自分で決められるでしょう?」
 がっくりと肩を落とした苦笑混じりのふたりの台詞を、やはり微笑みで軽くいなして、桜里はそっと呟いた。
「他の桜が咲いたからといって、何も慌てて咲くこともあるまい?」
 これまたいかにも桜里らしい台詞ではあるのだが……
 その、口調が、それまでのものとはほんの少し違う気がして、紅尾と清流は再び桜里に目を戻す。
 桜里は、紅尾でも清流でもないものを、見ていた。

 




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