Library 福翁自伝(1) 福翁自伝(2)
福翁自伝(2)
福沢諭吉 

大阪を去って江戸に行く

 私が大阪から江戸へ来たのは、安政五年二十五歳の時である。同年江戸の奥平の屋敷から、御用があるから来いといって、私を呼びに来た。それは江戸の屋敷に岡見彦曹という蘭学好きの人があって、この人は立派な身分のある上士族で、如何かして江戸の藩邸に蘭学の塾を開きたいというので、様々に周旋して、書生を集めて原書を読む世話をしていた。ところで奥平家が私をその教師に使うので、その前、松木弘安、杉亨二というような学者を雇うていたような訳けで、私が大阪に居るということがわかったものだから、他国の者を雇うことはない、藩中にある福沢を呼べということになって、ソレで私を呼びに来たので、そのとき江戸詰の家老には奥平壱岐が来ている。壱岐と私との関係については、私は自ら自慢をしても宣いことがある。これはが如何しても悪感情がなければならぬ筈、衝突がなければならぬ筈、けれども私はその人と一寸とも戦ったことがない。彼は私を敵視し愚弄しているということは、長崎を出た時の様でチャソトわかっている。長崎を立つ時に「貴様は中津に帰れ。帰ったら誰にこの手紙を渡せ。誰にこう伝言せよ」と命ずるから、ヘイ/\〈と畏まりながら、心の中では舌を出して「馬鹿言え、乃公は国に帰りはせぬぞ、江戸に行くぞ」と言わぬばかりに、席を蹴立てて出たことも、後になれば先方でも知っている。けれどもその後、私は毎度本人に逢うて仮初にも怨言(えんげん)を言うたことのないどころではない、わざと旧恩を謝するという趣きばかり装うている中に、またもやその大切な原書を盗み写したこともある。先方も悪ければ此方も十分悪い。けれどもただ私が、そのことを人に語らず顔色にも見せずに、御家老様と尊敬していたから、いわゆる国家老のお坊さんで、今度私を江戸に呼び寄せることについても、家老に異議なく直に決して幸いであったが、実を申せば壱岐よりも私の方が粥って罪が深いようだ。

三人同行

 大阪から江戸に来るについては、何はさておき中津に帰って一度母に会うて別れを告げて釆ましょうというので、中津に帰ったその時はコレラの真っ盛りで、私の家の近所まで病人だらけ、バタ/\死にました。その流行病最中、船に乗って大阪に着いて暫時逗留、ソレカラ江戸に向かって出立ということにしたところが、およそ藩の公用で勤番するに、私などの身分なれば、道中並びに在勤中、家来を一人くれるのが常例で今度も私の江戸勤番について家来一人ぶりの金を渡してくれた。けれども家来なんぞということは思いも寄らぬことで、何も要らぬ。けれどもここに旅費がある。待て/\、塾中に誰か江戸に行きたいという者はないか、江戸に行きたければ連れて行くが如何だ、実はこういう訳けで金はあるぞと言うと、即席にどうぞ連れて行ってくれと言ったのが岡本周吉、すなわち古川節蔵である(広島の人)。「よし連れて行ってやろう。連れて行くが、君は飯を炊かなければならぬが宣しいか。江戸へ行けば米もあれば長屋もある、鍋釜も貸してくれるが、本当の家来をやめにすれば飯炊きがない。その代りに連れて行くのだが如何だ」「飯を炊くぐらいのことは何でもない、飯を炊こう」「それじゃ一緒に来い」と言って、それから私の荷物は同藩の人に頼んで、道連れは私と岡本、もう一人備中の者で原田磊蔵(らいぞう)という矢張り緒方の塾生、都合三人の道中で、勿論歩く。その時は丁度十月下旬で少々寒かったが小春の時節、一日も川止めなどいう災難に遇わず、滞りなく江戸に着いて、まず木挽町汐留(しおどめ)の奥平屋敷に行ったところが、鉄砲洲(てっぽうず)に中屋敷がある、そこの長屋を貸すと言うので、早速岡本と私とその長屋に住み込んで、両人自炊の所帯持ちになって、それから同行の原田は下谷練塀小路(ねりべいこうじ)の大医大槻俊斎先生のところへ入り込んだ。江戸へ参れば知己朋友は幾人もいて、だん/\面白くなって来た。

江戸に学ぶに非ず教うるなり

 さて私が江戸に参って鉄砲洲の奥平中屋敷に住まっているという中に、藩中の子弟が三人五人ずつ学びに来るようになり、また他から五、六人も来るものが出来たので、その子弟に教授していたが、前にも言う通り大阪の書生は修業するために江戸に行くのでほない、行けば教えに行くのだというおのずから自負心があった。私も江戸に来てみたところで、全体江戸の蘭学社会は如何いうものであるか知りたいものだと思っている中に、ある日島村鼎甫(ていほ)の家に尋ねて行ったことがある。島村は勿論緒方門下の医者で、江戸に来て蘭書の翻訳などしていた。私も甚だ能く知っているので、尋ねて参れば何時も学問の話ばかりで、その時に主人は生理書の翻訳最中、その原書を持ち出して言うには、この文の一節が如何してもわからないと言う。それから私がこれを見たところが、なるほど解し悪(にく)いところだ。よって主人に向かって、これは外の朋友にも相談してみたかと言えば「イヤもう、親友誰々、四、五人にも相談をしてみたが如何してもわからぬ」と言うから「面白い、ソレじゃ僕がこれを解してみせよう」と言って、本当に見たところがなか/\六かしい。およそ半時問ばかりも無言で考えたところで、チャソトわかった。「一体これはこういう意味であるが如何だ、物事はわかってみると造作のないものだ」と言って、主客共に喜びました。何でもその一節は、光線と視力との閑係を論じ、蝋燭(ろうそく)を二本点けて持てその灯光(あかり)をどうかすると影法師が如何とかなるという随分六かしいところで、島村の翻訳した生理発蒙(せいりはつもう)という訳書中にある筈です。この一事で私もひそかに安心して、まずこれならば江戸の学者もさまで恐れることはないと思うたことがある。
 それからまた、原書の不審なところを諸先輩に質問してひそかにその力量を試したこともある。大阪に居る中に毎度人の読み損うたところか人の読み損いそうなところを選り出して、そうしてそれを私はわからない顔して不審を聞きに行く。聞きに行くと、毎度のことで、学者先生と称している人が読み損うているから、此方はかえって満足だ。実は欺いて人を試験するようなもので徳義上において相済まぬ罪なれども、壮年血気の熱心、おのずから禁ずることが出来ない。畢竟(ひっきょう)私が大阪に居る間は同窓生と共に江戸の学者を見下だして取るに足らないものだとこう思うていながらも、ただソレを空に信じて宣い気になっていては大間違いが起るから、大抵江戸の学者の力量を試さなければならぬと思って、悪いこととは知りながら試験をやってみたのです。

英学発心

 ソコデもって、蘭学社会の相場は大抵わかってまず安心ではあったがさてまたここに、大不安心なことが生じて来た。私が江戸に来たその翌年、すなわち安政六年、五国条約というものが発布になったので、横浜正しく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った。その時の横浜というものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みたような家が諸方にチョイ/\出来て、外国人が其処に住まって店を出している。其処へ行ってみたところが、一寸とも言葉が通じない。此方の言うこともわからなければ、彼方の言うことも勿論わからない。店の看板も読めなければ、ビンの貼紙もわからぬ。何を見ても私の知っている文字というものはない。英語だか仏語だか一向わからない。居留地をブラ/\歩くうちに、ドイツ人でキニッフルという商人の店に打ち当たった。その商人はドイツ人でこそあれ蘭語蘭文がわかる。此方の言葉はロクにわからないけれども、蘭文を書けばどうか意味が通ずるというので、ソコでいろ/\な話をしたり、一寸と買物をしたりして江戸に帰って来た。御苦労な話で、ソレも屋敷に門限があるので、前の晩の十二時から行ってその晩の十二時に帰ったから、丁度一昼夜歩いていた訳けだ。

小石川に通う

 横浜から帰って、私は足の疲れではない、実に落胆してしまった。これは/\どうも仕方ない、今まで数年の間、死物狂いになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、今は何にもならない、商売人の看板を見ても読むことが出来ない、さりとは誠に詰らぬことをしたわいと、実に落胆してしまった。けれども決して落胆していられる場合でない。あすこに行われている言葉、書いてある文字は、英語か仏語に相違ない。ところで今、世界に英語の普通に行われているということはかねて知っている。何でもあれは英語に違いない、今我国は条約を結んで開けかかっている、さすればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ迚(とて)も何にも通ずることが出来ない、この後は英語を読むより外に仕方がないと、横浜から帰った翌日だ、一度は落胆したが同時にまた新たに志を発して、それから以来は一切万事英語と覚悟を極めて、さてその英語を学ぶということについ如何して宣いか取付端(とりつきは)がない。江戸中にどこで英語を教えているという所のあろう訳けもない。けれども段々聞いてみると、その時に条約を結ぶというがために、長崎の通詞の森山多吉郎という人が、江戸に来て幕府の御用を勤めている。その人が英語を知っているという噂を聞き出したから、ソコで森山の家に行って習いましょうとこう思うて、その森山という人は小石川の水道町に住居していたから、早速その家に行って英語教授のことを頼み入ると、森山の言うに「昨今御用が多くて大変に忙しい、けれども折角習おうというならば教えて進ぜょう、ついては毎日出勤前、朝早く来い」ということになって、そのとき私は鉄砲洲に住まっていて、鉄砲洲から小石川まで頓(やが)て二里余も有りましょう。毎朝早く起きて行く。ところが、「今日はもう出勤前だからまた明朝来てくれ」、明くる朝早く行くと、「人が来ていて行かない」と言う。如何しても教えてくれる暇がない。ソレは森山の不親切という訳けではない、条約を結ぼうという時だから、なか/\忙しくて実際に教える暇がありはしない。そうすると、こんなに毎朝来てて何も教えることが出来んでは気の毒だ、晩に来てくれぬかと言う。ソレじゃ晩に参りましょうと言って、今度は日暮から出掛けて行く。あの往来は、丁度今の神田橋一橋外の高等商業学校のある辺で、素(も)と護持院ガ原というて、大きな松の樹などが生茂っている恐ろしい淋しいし所で、追剥でも出そうな所だ。そこを小石川から帰途にが夜の十一時十二時ごろ通る時の怖さというものは今でも能く覚えている。ところが、この夜稽古も矢張り同じことで、今晩は客がある、イヤ急に外国方(外務省)から呼びに来から出て行かなければならぬというような訳けで、頓と仕方がない。およそそこに二月か三月通うたけれども、どうにも暇がない。迚もこんなことでは何も覚えることも出来ない。加うるに森山という先生も、何も英語を大層知っている人ではない、ようやく少し発音を心得ているというくらい。迚もこれは仕方がないと、余儀なく断念。

藩書調所に入門

 その前に私が横浜に行った時に、キニッフルの店で薄い蘭英会話書を二冊買って来た。ソレヲ独りで読むとしたところで、字書がない。英蘭対訳の字書があれば先生なしで自分一人で解すことが出来るから、どうか字書を欲しいものだといったところで、横浜に字書などを売るところはない。何とも仕方がない。ところがその時に、九段下に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)という幕府の洋学校がある。そこには色々な字書があるということを聞き出したから、如何かしてその字書を借りたいものだ。借りるには入門しなければならぬ、けれども藩士が出し抜けに公儀(幕府)の調所に入門したいといっても許すものでない、藩士の入門願にはその藩の留守居というものが願書に裏印をして然る後に入門を許すという。それから藩の翻守居の所に行って奥印のことを頼み、私は(かみしも)を着て蕃書調所に行って入門を願うた。その時には箕作麟祥(みつくりりんしょう)のお祖父さんの箕作阮甫(げんぽ)という人が調所の頭取で、さっそく入門を許してくれて、入門すれば字書を借りることが出来る。直に拝借を願うて、英蘭対訳の字書を手に受け取って、通学生のいる部屋があるから、そこでしばらく見て、それから懐中の風呂敷を出してその字書を包んで帰ろうとすると、ソレはならぬ、ここで見るならは許して苦しくないが、家に持ち帰ることは出来ませぬと、その係の者が言う。こりや仕方がない、鉄砲洲から九段坂下まで毎日字引を引きに行くということは迚も間に合わぬ話だ。ソレも、ようやく入門して、たった一日行ったきりで断念。
 さて如何したら宜かろうかと考えた。ところで、だん/\横浜に行く商人がある。何か英蘭対訳の字書はないかと頼んでおいたところが、ホルトロップという英蘭対訳発音付の辞書一部二冊物がある。誠に小さな字引だけれども価五両という。それから私は奥平の藩に歎願して買い取って貰って、サアもうこれで宜しい、この字引さえあればもう先生は要らないと、自力研究の念を固くして、ただその字引と首っ引きで、毎日毎夜独り勉強。またあるいは英文の書を蘭語に翻訳してみて、英文に慣れることばかり心掛けていました。

英学の友を求む

 そこで自分の一身はそう定めたところで、これは如何しても朋友がなくてはならぬ。私が自分で不便利を感ずる通りに、今の蘭学者は悉(ことごと)く不便を感じているに違いない。迚も今まで学んだのは役に立たない。何でも朋友に相談をしてみようとこう思うたが、このこともなか/\易くないというのは、その時の蘭学者全体の考えは、私を始めとして皆、数年の間刻苦勉強した蘭学が役に立たないから、丸でこれを捨ててしまって英学に移ろうとすれば、新たに元の通りの苦しみをもう一度しなければならぬ。誠に情ないつらい話である。たとえば五年も三年も水練を勉強して、ようやく泳ぐことが出来るようになったところで、その水練を罷めて今度は木登りを始めようというのと同じことで、以前の勉強が丸で空になると、こう考えたものだから、如何にも決断が六(むつ)かしい。ソコデ学友の神田孝平に面会して、如何しても英語をやろうじゃないかと相談を掛けると、神田の言うに「イヤもう僕も疾うから考えていて実は少し試みた。試みたが如何にも取付端(とりつきは)がない。どこから取り付いて宜いか実に訳けがわからない。しかし年月を経(ふ)れば何か英語を読むという小口が立つに違いないが、今のところでは何とも仕方がない。マア君たちは元気が宣いからやってくれ、大抵方角が付くと僕も吃とやるから、ダガ今のところでは何分自分でやろうと思わない」と言う。それから番町の村田蔵六(後に大村溢次郎)の所に行って、その通りに勧めたところが、これは如何してもやらぬという考えで、神田とは丸で説が違う。「無益なことをするな。僕はそんな物は読まぬ。要らざることだ。何もそんな困難な英書を、辛苦して読むがものはないじゃないか。必要な書は皆オランダ人が翻訳するから、その翻訳書を読めばソレで沢山じゃないか」と言う。「なるほどそれも一説だが、けれどもオランダ人が何もかも一々翻訳するものじゃない。僕は先頃横浜に行って呆れてしまった。この塩梅では迚も蘭学は役に立たぬ。是非英書を読まなくてはならぬではないか」と勧むれども、村田はなか/\同意せず「イヤ読まぬ。僕は一切読まぬ。やるなら君たちはやり給え。僕は必要があれば蘭人の翻訳したのを読むから構わぬ」と威張っている。これは迚も仕方がないというので、今度は小石川にいる原田敬策にその話をすると、原田は極(ごく)熱心で「何でもやろう。誰がどう言うても横わぬ。是非やろう」と言うから「そうか、ソレは面白い。そんなら二人でやろう。どんなことがあってもやり遂げようではないか」というので、原田とは極説が合うて、いよ/\英書を読むという時に、長崎から来ていた子供があって、その子供が英語を知っているというので、そんな子供を呼んで来て発音を習うたり、またあるいは漂流人で折節(おりふし)帰るものがある、長く彼方へ漂流していた者が、開国になって船の便があるものだから、折節帰る者があるから、そんな漂流人が着くとその宿屋に訪ねて行って聞いたこともある。その時に、英学で一番六かしいというのは発音で、私共は何もその意味を学ぼうというのではない、ただスペルリングを学ぶのであるから、子供でも宣ければ漂流人でも構わぬ、そういう者を捜し回っては学んでいました。始めはまず英文を蘭文に翻訳することを試み、一字々々字を引いて、ソレを蘭文に書き直せば、ちゃんと蘭文になって、文章の意味を取ることに苦労はない。ただその英文の語音を正しくするのに苦しんだが、これも次第緒(いとぐち)が開けて来ればそれほどの難渋でもなし、詰まるところは最初私共が蘭学を捨てて英学に移ろうとするときに、真実に蘭学を捨ててしまい、数年勉強の結果を空して生涯二度の艱難辛苦と思いしは大間違いの話で、実際を見れば蘭といい英というも等しく横文にして、その文法も略(ほぼ)相同じければ、蘭書読むカはおのずから英書にも適用して、決して無益でない。水を泳ぐと木に登ると全く別のように考えたのは、一時の迷いであったということを発明しました。


初めてアメリカに渡る

咸臨丸(かんりんまる)

 ソレカラ私が江戸に来た翌年、即ち安政六年冬、徳川政府からアメリカに軍艦を遣るという日本開闢以来未曾有の事を決断しました。さてその軍艦と申しても、至極小さなもので、蒸気は百馬力、ヒュルプマシーネと申して、港の出入りに蒸気を焚くばかり、航海中はただ風を便りに運転せねばならぬ。二、三年前オランダから買い入れ、価は小判で二万五千両、船の名を咸臨丸という。その前、安政二年のころから幕府の人が長崎に行って、蘭人に航海術を伝習して、その技術もようやく進歩したから、このたび使節がワシントンに行くにつき、日本の軍艦もサンフランシスコまで航海とこういう訳けで幕議一決、艦長は時の軍艦奉行木村摂津守、これに随従する指揮官は勝麟太郎、運用方は佐々倉桐太郎、浜口興右衛門、鈴藤勇次郎、測量は小野友五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、蒸気は肥田浜五郎、山本金次郎、公用方には吉岡勇平、小永井五八郎、通弁官は中浜万次郎、少年士官には根津欽次郎、赤松大三郎、岡田井蔵、小杉雅之進と、医師二人、水夫火夫六十五人、艦長の従者を併せて九十六人。船の割にしては多勢の乗組人でありしが、この航海のことについては色々お話がある。
 今度咸臨丸の航海は日本開闢以来初めての大事業で、乗組士官の面々は固より日本人ばかりで事に当ると覚悟していたところが、その時アメリカのカピテン・ブルックという人が、太平洋の海底測量のために小帆前船(しょうほまえせん)へネモココパラ号に乗って航海中、薩摩の大島沖で難船して幸いに助かり、横浜に来て徳川政府の保護を受けて、カピテン以下、士官一人、医師一人、水夫四、五人、久しく滞留の折柄、日本の軍艦がサンフランシスコに航海と聞き、幸便だからこれに乗って帰国したいと言うので、その事が定(き)まろうとすると、日本の乗組員は米国人と一緒に乗るのは厭だと言う。何故かというに、もしその人たちを連れて帰れば、却って銘々共(めいめいども)がアメリカ人に連れて行って貰ったように思われて、日本人の名誉に係るから乗せないと剛情を張る。それこれで政府もよほど困った様子でありしが、到頭ソレを無理圧付けにして同船させたのは、政府の長老も内実は日本士官の伎倆(ぎりょう)を覚束なく思い、一人でも米国の航海士が同船したらば、マサカの時に何かの便利になろうという老婆心であったと思われる。

木村摂津守

 艦長木村摂津守という人は、軍艦奉行の職を奉じて海軍の最上官であるから身分相当に従者を連れて行くに違いない。それから私は、どうもその船に乗ってアメリカ州に行ってみたい志はあるけれども、木村という人は一向知らない。去年大阪から出て来たばかりで、そんな幕府の役人などに緑のある訳けはない。ところが幸いに、江戸に桂川という幕府の蘭家の侍医がある。その家は、日本国中蘭学医の総本山とでも名を命けて宜しい名家であるから、江戸はさておき日本国中蘭学社会の人で桂川という名前を知らない者はない。ソレ故、私なども江戸に来れば何はさておき桂川の家には訪問するので、度々その家に出入している。その桂川の家と木村の家とは親類――ごく近い親類である。それから私は、桂川に頼んで「如何かして木村さんの御供をしてアメリカに行きたいが、紹介して下さることは出来まいか」と懇願して、桂川の手紙を貰って木村の家に行ってその願意を述べたところが、木村では即刻許してくれて「宜しい、連れて行ってやろう」とこういうことになった。というのは、案ずるに、その時の世態人情において、外国航海など言えば、開闢以来の珍事と言おうか、むしろ恐ろしい命懸けのことで、木村は勿論艦奉行であるから家来はある、あるけれどもその家来という者も余り行く気はないところに、仮初めにも自分から進んで行きたいと言うのであるから、実は彼方でも妙な奴だ、幸というくらいなことであったろうと思う。直に許されて私は御供をすることになった。

浦賀に上陸して酒を飲む

 咸臨丸の出帆は万延元年の正月で、品川沖を出てまず浦賀に行った。同時に日本からアメリカに使節が立って行くので、アメリカからその使節の迎船が来た。ポーハタソというその軍艦に乗って行くのであるが、そのポーハタソは後から来ることになって、咸臨丸は先に出帆して、まず浦賀に泊まった。浦賀にいて面白いことがある。船に乗組んでいる人はみな若い人で「もうこれが日本の訣別(オワカレ)であるから浦賀に上陸して洒を飲もうではないか」と言い出した者がある。何れも同説で、それから陸に上がって茶屋みたようなところに行って、さん/″\酒を飲んでサア船に帰るという時に、誠に手癖の悪い話で、その茶屋の廊下の棚の上に嗽茶碗(うがいじゃわん)が一つあった、これは船の中で役に立ちそうな物だと思って、一寸と私がそれを盗んで来た。その時ほ冬のことで、サア出帆したところが大嵐、毎日々々の大嵐、なか/\茶碗に飯を盛って本式に食べるなんということは容易なことではない。ところが私の盗んだ嗽茶碗が役に立って、その中にいっばい飯を入れて、その上に汁でも何でも皆かけて、立って食う。誠に世話のない話で、大層便利を得て、アメリカまで行って、帰りの航海中も毎日用いて、到頭日本まで持って帰って、久しく私の家にゴロチャラしていた。程経て聞けば、その浦賀で上陸して飲み食いした所は遊女屋だという。それはその当時私は知らなかったが、そうしてみると、あの大きな茶碗は女郎の嗽茶碗であったろう。思えばきたないようだが、航海中は誠に調法、唯一の宝物であったのが可笑しい。

銀貨狼藉

 さてそれから船がでて、ずっと北方に乗り出した。その咸臨丸というのは百馬力の船であるから、航海中始終石炭を焚くということは出来ない。ただ港を出るとき這い入るときに焚くだけで、沖に出れば丸で帆前船(ほまえせん)、というのは、石炭が積まれますまい、石炭がなければ帆で行かなければならぬ。その帆前船に乗って太平海を渡るのであるから、それは/\毎日の暴風で、艀船(はしけぶね)が四艘あったが、激浪のために二艘も取られてしもうた。その時は、私は艦長の家来であるから、艦長のために始終左右の用を弁じていた。艦長は船の艫(とも)の方の部屋にいるので、ある日、朝起きて、いつもの通り用を弁じましょうと思って艫の部屋に行った、ところがその部屋に弗(ドルラル)が何百枚か何千枚か知れぬほど散乱している。如何したのかと思うと、前夜の大嵐で、袋に入れて押し入れの中に積み上げてあった弗、定めし錠も卸してあったに違いないが、激しい船の動揺で、弗の袋が戸を押し破って外に散乱したものと見える。これは大変なことと思って、直に引返して艫の方にいる公用方の吉岡勇平にその次第を告げると、同人も大いに驚き、場所に駈け付け、私も加勢してその弗を拾い集めて、袋に入れて元の通り戸棚に入れたことがあるが、元来船中にこんな事の起るその次第は、当時外国為替ということについて一寸とも考えがないので、旅をすれば金が要る、金が要れば金を持って行くという極簡単な話で、何万弗だか知れない弗を、袋などに入れて艦長の部屋に蔵めて置いたその金が、嵐のために溢れ出たというような奇談を生じたのである。それでも大抵四十年前の事情が分りましょう。今ならば一向訳けはない。為替で一寸と送って遣れば、何も正金(しょうきん)を船に積んで行く必要はないが、商売思想のない昔の武家は大抵こんなものである。航海中は毎日の嵐で、始終船中に波を打ち上げる。今でも私は覚えているが、甲板の下にいると上に四角な窓があるので、船が傾くとその窓から大洋の立浪が能く見える。それは大層な波で、船体が三十七、八度傾くということは毎度のことであった。四十五度傾くと沈むというけれども、幸いに大きな災いもなくただその航路を進んで行く。進んで行く中に、何も見えるものはないその中でもって、一度帆前船に会うたことがあった。ソレはアメリカの船で、シナ人を乗せて行くのだというその船を一艘見た切り、外には何も見ない。

牢屋に大地震の如

 ところで三十七日かかってサンフランシスコに着いた。航海中私は身体が丈夫だとみえて怖いと思うたことは一度もない。始終私は同船の人に戯れて「これは何の事はない」生まれてからマダ試みたことはないが、牢屋に這入って毎日毎夜大地震にあっていると思えば宣いじゃないか」と笑っているくらいなことで、船が沈もうということは一寸とも思わない。というのは、私が西洋を信ずるの念が骨に徹していたものとみえて、一寸とも怖いと思ったことがない。それから途中で水が乏しくなったので、ハワイに寄るか寄らぬかという説が起った。辛抱して行けばハワイに寄らないでも間に合うであろうが、ごく用心をすれば寄港して水を取って行く、如何しょうかというたが、ついにハワイに寄らずにサンフランシスコに直航とこう決定して、それから水の倹約だ。何でも飲むより外は一切水を使うことはならぬということになった。ところでその時に大いに人を感激せしめたことがある、というのは船中にアメリカの水夫が四、五人いましたその水夫らが、動(やや)もすると水を使うので、カピテン.ブルックに「どうも水夫が水を使うて困る」と言ったら、カピテンの言うには「水を使うたら直に鉄砲で撃ち殺してくれ、これは共同の敵じゃから、説諭も要らなければ理由を質問するにも及ばぬ、即刻銃殺して下さい」と言う。理屈を言えば、その通りに違いない。それから水夫を呼んで「水を使えば鉄砲で打ち殺すからそう思え」というような訳けで水を倹約したから、如何やらこうやら水の尽きるということがなくて、同勢合せて九十六人、無事にアメリカに着いた。船中の混雑はなか/\容易ならぬことで、水夫共は皆筒紬(つつそで)の着物は着ているけれども穿物(はきもの)は草鞋(わらじ)だ。草鞋が何百何千足も貯えてあったものと見える。船中はもうビショ/\で、カラリとした天気は三十七日の間に四日か五日あったと思います。誠に船の中は大変な混雑であった(サンフランシスコ着船の上、艦長の奮発で水夫共に長靴を一足ずつ買ってやって、それから大いに体裁がよくなった)。

日本国人の大胆

 しかしこの航海については、大いに日本のために誇ることがある、というのは、そも/\日本の人が初めて蒸気船なるものを見たのは嘉永六年、航海を学び始めたのは安政二年のことで、安政二年に長崎においてオランダ人から伝習したのがそも/\事の始まりで、その業成って外国に船を乗り出そうということを決したのは安政六年の冬、すなわち目に蒸気船を見てから足掛け七年目、航海術の伝習を始めてから五年目にして、それで万延元年の正月に出帆しょうというその時、少しも他人の手を借らずに出掛けて行こうと決断したその勇気といいその伎倆といい、これだけは日本国の名誉として、世界に誇るに足るべき事実だろうと思う。前にも申した通り、航海中は一切外国人のカピテン・ブルックの助力は借らないというので、測量するにも日本人自身で測量する。アメリカの人もまた自分で測量している。互いに測量したものを後で見合わせるだけの話で、決してアメリカ人に助けて貰うということは一寸でもなかった。ソレだけは大いに誇っても宣いことだと思う。今の朝鮮人、シナ人、東洋全体を見渡したところで、航海術を五年学んで太平海を乗り越そうというその事業、その勇気のある者は決してありはしない。ソレどころではない。昔々ロシアのペートル帝がオランダに行って航海術を学んだというが、べートル大帝でもこのことは出来なかろう。たとい大帝は一種絶倫の人傑なりとするも、当時のロシアにおいて日本人の如く大胆にして且つ学問思想の緻密なる国民は容易になかろうと思われる。

米国人の歓迎祝砲

 海上恙(つつが)なくサンフランシスコに着いた。着くやいなや土地の重立ったる人々は船まで来て祝意を表し、これを歓迎の始めとして、陸上の見物人は黒山の如し。次いで陸から祝砲を打つということになって、彼方から打てば咸臨丸から応砲せねばならぬと、このことについて一奇談がある。勝麟太郎という人は艦長木村の次にいて指揮官であるが、至極船に弱い人で、航海中は病人同様、自分の部屋の外に出ることは出来なかったが、着港になれば指揮官の職として万端指図する中に、かの祝砲のことが起った。ところで勝の説に、ソレは迚も出来ることでない、ナマジ応砲などして遣り損なうよりも此方は打たぬ方が宣いと言う。そうすると運用方の佐々倉桐太郎は「イヤ打てないことはない、乃公(おれ)が打ってみせる」「馬鹿言え、貴様たちに出来たら乃公の首をやる」と冷かされて、佐々倉はいよ/\承知しない。何でも応砲してみせるというので、それから水夫共を差図して大砲の掃除、火薬の用意して、砂時計をもって時を計り、物の見事に応砲が出来た。サア佐々倉が威張り出した。首尾よく出来たから勝の首は乃公の物だ。しかし航海中、用も多いからしばらくあの首を当人に預けて置くと言って、大いに船中を笑わしたことがある。兎も角もマア祝砲だけは立派に出来た。ソコで無事に港に着いたらば、サアどうも彼方の人の歓迎というものは、ソレは/\実に至れり尽くせり、この上のしようがないというほどの歓迎。アメリカ人の身になってみれば、アメリカ人が日本に来て初めて国を開いたというその日本人が、ペルリの日本行より八年目に自分の国に航海して来たという訳けであるから、丁度自分の学校から出た生徒が実業について自分と同じことをすると同様、乃公がその端緒を開いたと言わぬばかりの心持(こころもち)であったに違いない。ソコでもう日本人を掌の上に乗せて、不自由をさせぬように不自由をさせぬようにとばかり、サンフランシスコに上陸するや否や、馬車をもって迎いに来て、取り敢えず市中のホテルに休息というそのホテルには、市中の役人か何かは知りませぬが、市中の重立った人が雲霞のごとく出掛けて来た。様々の接待饗応。それからサンフランシスコの近傍に、メールアイランドという所に、海軍港がある。その海軍港附属の官舎を咸臨丸一行の止宿所に貸してくれ、船は航海中なか/\損所が出来たからとて、ドックに入れて修復をしてくれる。逗留中はもちろん彼方で賄も何もそっくりしてくれる筈であるが、水夫をはじめ日本人が洋食に慣れない、矢張り日本の飯でなければ食えないというので、自分賄という訳けにしたところが、アメリカの人はかねて日本人の魚類を好むということをよく知っているので、毎日々々魚を持って来てくれたり、あるいは日本人は風呂に這入ることが好きだというので、毎日風呂を立ててくれるというような訳け。ところでメールアイランドという所は町でないものですから、折節今日はサンフランシスコに来いと言って誘う。それから船に乗って行くと、ホテルに案内して饗応するというようなことが毎度ある。

敷物に驚く

 ところが此方は一切万事不慣れで、例えば馬車を見ても初めてだから実に驚いた。そこに車があって馬が付いて居れば、乗物だということは分りそうなものだが、一見したばかりでは一寸と考えが付かぬ。ところで、戸をあけて這入ると馬が駈け出す。なるほどこれは馬の挽く事だと初めて発明するような訳け。何れも日本人は大小を挟して穿物は麻裏草履を穿いている。ソレで、ホテルに案内されて行ってみると、絨[毯](じゅうたん)が敷き詰めてあるその絨[毯]はどんな物かというと、まず日本で言えばよほどの贅沢者が一寸四方幾干(いくつ)という金を出して買うて、紙入れにするとか莨(たばこ)入れにするとかいうようなソンナ珍しい品物を、八畳も十畳も恐ろしい広い所に敷き詰めてあって、その上を靴で歩くとは、さて/\途方もないことだと実に驚いた。けれどもアメリカ人が往来を歩いた靴のままで颯々(さっさ)と上がるから、此方も麻裏草履でその上に上がった。上がると突然酒が出る。徳利の口をあけると恐ろしい音がして、まず変なことだと思うたのはシャンパンだ。そのコップの中に何が浮いているのもわからない。三、四月暖気の時節に氷があろうとは思いも寄らぬ話で、ズーッと銘々の前にコップが並んで、その酒を飲む時の有様を申せば、列座の日本人中で、まずコップに浮いているものを口の中に入れて、胆を潰して吹き出す者もあれば、口から出さずにガリ/\噛む者もあるというような訳けで、ようやく氷が這入っているということがわかった。ソコでまた煙草を一服と思ったところで、煙草盆がない、灰吹きがないから、そのとき私はストーヴの火で一寸(ちょい)と点けた。マッチも出ていたろうけれども、マッチも何も知りはせぬから、ストーヴで吸い付けたところが、どうも灰吹きがないので吸殻を捨てる所がない。それから懐中の紙を出してその紙の中に吸殻を吹き出して、念を入れて揉んで/\火の気のないようにねじ付けて袂(たもと)に入れて、しばらくしてまた後の一服をやろうとするその時に、袂から煙が出ている。何ぞ図らん、能く消したと思ったその吸殻の火が紙に移って煙が出て来たとは大いに胆を潰した。

磊落(らいらく)書生も花嫁の如し

 すべてこんなことばかりで、私は生まれてから嫁入りをしたことはないが、花嫁が勝手のわからぬ家に住み込んで、見ず知らずの人に取巻かれてチヤフヤ言われて、笑う者もあれば雑談(ぞうだん)を言う者もあるその中で、お嬢さんばかり独り静かにしてお行儀を繕(つくろ)い、人に笑われぬようにしようとして却ってマゴツイテ顔赤くするその苦しさはこんなものであろうと、凡そ推察が出来ました。日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし怖い者なしと威張っていた磊落書生も、初めてアメリカに来て花嫁のように小さくなってしまったのは、自分でも可笑しかった。それから彼地の貴女紳士が打ち寄り、ダンシングとかいって踊りをして見せるというのは毎度のことで、さて行って見たところが少しもわからず、妙な風をして男女が座敷中を飛びまわるその様子は、どうにもこうにもただ可笑しくてたまらない、けれども笑っては悪いと思うから成るたけ我慢して笑わないようにして見ていたが、これも初めの中は随分苦労であった。

女尊男卑の風俗に驚く

 一寸したことでも右の通りの始末で、社会上の習慣風俗は少しも分らない。ある時にメールアイランドの近所にバレーフォーという所があって、そこにオランダの医者が居る。オランダ人は如何しても日本人と縁が近いので、その医者が艦長の木村さんを招待したいから来てくれないかというので、その医者の家に行ったところが、田舎相応の流行家とみえて、なか/\の御馳走が出る中に、如何にも不審なことには、お内儀(カミ)さんが出て来て座敷にすわり込んでしきりに客の取り持ちをすると、御亭主が周旋奔走している。これは可笑しい。まるで日本とアベコべなことをしている。御亭主が客の相手になってお内儀さんが周旋奔走するのが当然あるに、さりとはどうも可笑しい。ソコで御馳走は何かというと、豚の子の丸煮が出た。これにも胆を潰した。如何だ、マアあきれ返ったな、まるで安達ガ原に行ったような訳けだと、こう思うた。さん/″\馳走を受けて、その帰りに馬に乗らないかと言う。ソレは面白い、久し振りだから乗ろうと言って、その馬を借りて乗って来た。艦長木村は江戸の旗本だから、馬に乗ることは上手だ。江戸に居れば毎日馬に乗らぬことはない。それからその馬に乗ってどん/\駆けて来ると、アメリカ人が驚いて、日本人が馬に乗ることを知っていると言うて不思議な顔をしている。そういう訳けで、双方共に事情が少しもわからない。

事物の説明に隔靴の歎あり

 それからまた、アメリカ人が案内して諸方の製作所などを見せてくれた。その時はサンフランシスコ地方にマダ鉄道は出来ない時代である。工業は様々の製作所があって、ソレを見せてくれた。そこがどうも不思議な訳けで、電気利用の電灯はないけれども、電信はある。それからガルヴァニの鍍金(メッキ)法というものも実際に行われていた。アメリカ人の考えに、そういうものは日本人の夢にも知らないことだろうと思って見せてくれたところが、此方はチャント知っている。これはテレグラフだ。これはガルヴァニの力で、こういうことをしているのだ。また砂糖の製造所があって、大きな釜を真空にして沸騰を早くするということを遣っている。ソレを懇々と説くけれども、此方は知っている、真空にすれば沸騰が早くなるということは。且つその砂糖を精浄にするには、骨炭で漉(こ)せば清浄になるということもチャント知っている。先方では、そういうことは思いも寄らぬことだとこう察して、ねんごろに教えてくれるのであろうが、此方は日本に居る中に数年の間そんなことばかり穿鑿(せんさく)していたのであるから、ソレは少しも驚くに足らない。ただ驚いたのは、掃きだめに行ってみても浜辺に行ってみてもても、鉄の多いには驚いた。申さば石油の箱みたような物とか、いろ/\な[缶]詰の空殻などが沢山捨ててある。これは不思議だ。江戸に火事があると焼け跡に釘拾いがウヤ/\出ている。ところでアメリカに行ってみると、鉄は丸で塵埃(ごみ)同様に捨ててあるので、どうも不思議だと思うたことがある。  それから物価の高いにも驚いた。牡蠣を一罎(びん)買うと半弗、幾つあるかと思うと二十粒か三十粒ぐらいしかない。日本では二十四文か三十二文というその牡蠣が、アメリカでは一分二朱もする勘定で、恐ろしい物の高い所だ、あきれた話だと思ったような次第で、社会上政治上経済上のことは一向わからなかった。

ワシントンの子孫如何と問う

 ところで私が不図(ふと)胸に浮かんで或る人に聞いてみたのは外でない、今ワシソトンの子孫は如何なっているかと尋ねたところが、その人の言うに、ワシントンの子孫には女がある筈だ、今如何しているか知らないが、何でも誰かの内室になっている様子だと如何にも冷淡な答で、何とも思って居らぬ。これは不思議だ。勿論私もアメリカは共和国、大統領は四年交代ということは百も承知のことながら、ワシントンの子孫といえば大変な者に違いないと思うたのは、此方の脳中には、源頼朝、徳川家康というような考えがあって、ソレから割出して聞いたところが、今の通りの答に驚いて、これは不思議と思うたことは今でも能く覚えている。理学上のことについては少しも胆を潰すということはなかったが、一方の社会上のことについては全く方角が付かなかった。
 或る時にメールアイランドの海軍港に居るカピテンのマッキヅガルという人が、日本の貨幣を見たいと言うので、艦長はかねてそんなことのために用意したものと見え、新古金銀が数々あるから、慶長小判をはじめとして万延年中までの貨幣をそろえてカビテンのところへ送ってやった。ところが珍しい/\とばかりで、宝を貰ったという考えは一寸とも顔色に見えない。昨日は誠に有り難うと言って、その翌朝お内儀さんが花を持って来てくれた。私はその取次ぎをして独りひそかに感服した。人間というものはアアありたい、如何にも心の置きどころが高尚だ、金や銀を貰ったからといってキョト/\喜ぶというのは卑劣な話だ、アアありたいものだと、大きに感心したことがある。

軍艦の修繕に価を求めず

 前に言うた通りアメリカ人は誠に能く世話をしてくれた。軍艦をドックに入れて修覆してくれたのみならず、乗組員の手元に入用な箱を拵えてくれるとかいうことまでも親切にしてくれた。いよ/\船の仕度も出来て帰るという時に、軍艦の修覆その他の入用を払いたいと言うと、彼方の人は笑っている。代金などとは何のことだ、というような調子で一寸とも話にならない。何と言うても勘定を取りそうにもしない。

初めて日本に英辞書を入る

 その時に私と通弁の中浜万次郎という人と両人が、ウェブストルの字引を一冊ずつ買って来た。これが日本にウェブストルという字引の輸入の第一番、それを買ってモウ外には何も残ることなく、首尾よく出帆してきた。
 ところで私が二度目にアメリカに行ったとき、カピテン・ブルックに再会して八年目に聞いた話がある。それは最初日本の咸臨丸がアメリカに着いたとき、サンフランシスコでなか/\議論があった。今度日本の軍艦が来たからその接待を盛んにしなけれはならぬというので、あすこに陸軍の出張所をみたようなものがある。そこヘカピテン・ブルックが行って、大いに歓迎しようではないかと相談を掛けると、ワシントンに伺うた上でなければ出来ないと言う。「そんなことをしていては間に合わないから、何でも出張所の独断でやれ」と談じても、とかく埒(らち)が明かないから、カピテンは少し立腹して「いよ/\政府の筋で出来なければ.此方に仕様がある」と言って、それから方向を転じてサンフランシスコの義勇兵に持ち込んで「どうだ、こういう訳けであるから接待せぬか」と言うと、義勇兵は大喜びで直に用意が出来た。

義勇兵

 全体この義勇兵というものは、普段軍役のあるではなし大将は御医者様で、少将は染物屋の主人というような者で組み立ててあるけれども、チャント軍服も持っていれば銃砲も何もすっかり備えていて、日曜か何か暇な時かまたは月夜などに操練をして、イザ戦争という時に出て行くというばかりで、太平の時はまず若い者の道楽仕事であるから、折角こしらえた軍服も滅多に着ることがないところに、今度カピテン・ブルックの話を聞いて千歳一遇の好機会と思い、晴れの軍服を光らして日本の軍艦咸臨丸を歓迎したのであると、カビテンが話していました。

ハワイ寄港

 祝砲と共にめでたくサンフランシスコを出帆して、今度はハワイ寄港と定まり、水夫は二、三人アメリカから連れて来たけれども、カピテンのブルックは居らず、本当の日本人ばかりで、どうやらこうやらハワイを捜し出して、そこへ寄港して三、四日逗留した。逗留中、ハワイの風俗については物珍しく言うほどの要用はないだろう、と思うのは、三十年前のハワイも今も変ったことはなかろう。その土人の風俗は汚ない有様で、一見蛮民と言うより外仕方がない。王様にも会うたが、これも国王陛下と言えば大層なようだけれども、そこへ行ってみれば驚くほどのことはない。夫婦連れで出て来て、国王はただ羅紗の服を着ているというくらいなこと、家も日本で言えば中ぐらいの西洋造り、宝物を見せると言うから何かと思ったら、鳥の羽で誂えた敷物を持って来て、これが一番のお宝物だと言う。あれが皇弟か、その皇弟が笊(ざる)を堤(さ)げて買物に行くような訳けで、マア村の漁師の親方ぐらいの者であった。

少女の写真

 それからハワイで石炭を積み込んで出帆した。その時に、一寸したことだが奇談がある。私はかねて申す通り一体の性質が花柳に戯れるなどということには仮初めにも身に犯したことないのみならず、口でもそんな如何わしい話をしたこともない。ソレゆえ、同行の人は妙な男だというくらいには思うていたろう。それからハワイを出航したその日に船中の人に写真を出して見せた。これはどうだ(その写真はここにありとて、福沢先生が筆記者に示されたるものを見るに、四十年前の福沢先生のかたわらに立ち居るは十五、六の少女なり。)――その写真というのはこの通りの写真だろう。ソコで、この少女が芸者か女郎か娘かは、勿論その時に見さかいのある訳けはない。――「お前たちはサンフランシスコに長く逗留していたが、婦人と親しく相並んで写真を撮るなぞということは出来なかったろう、サアどうだ、朝夕口でばかり下らないことを言っているが、実行しなければ話にならないじゃないか」と、大いに冷かしてやった。これは写真屋の娘で、歳は十五とかいった。その写真屋には前にも行ったことがあるが、丁度雨の降る日だ、そのとき独りで行ったところが娘が居たから「お前さん一緒に取ろうではないか」と言うと、アメリカの娘だから何とも思いはしない。「取りましょう」と言うて一緒に取っ たのである。この写真を見せたところが、船中の若い士官たちは大いに驚いたけれども、口惜しくしくも出来なかろう、と言うのは、サンフランシスコでこのことを言い出すと、直に真似をする者があるから、黙って隠して置いて、いよ/\ハワイを離れてもうアメリカにもどこにも縁のないという時に見せてやって、一時の戯れに人を冷かしたことがある。

不在中桜田の事変

 帰る時は南の方を通ったと思う。行くときとは違って至極海上は穏やかで、何でもその歳には閏(うるう)があって、閏をこめて五月五日の午前に浦賀に着した。浦賀には是非錨を卸すというのがお極りで、浦賀に着するや否や、船中数十日のその間は勿論湯に這入るということの出来る訳けもない、口嗽(うがい)をする水がヤット出来るというくらいなことで、身体はよごれているし、髪はクシャ/\になっている、何はさておき一番先に月代(さかやき)をして、それから風呂に這入ろうと思うて、小舟に乗って陸に着くと、木村のお迎えが数十日前から浦賀に詰め掛けていて、木村の家来に島安太郎という用人がある、ソレが海岸まで迎いに来て、私が一番先に陸に上がってその島に会うた。正月の初めにアメリカに出帆して浦賀に着くまでというものは、風の便りもない、郵便もなければ船の交通というものもない。その間はわずかに六ヵ月の間であるが、故郷の様子は何も聞かないから、ほとんど六ヵ年も会わぬような心地。ヒョイと捕賀の海岸で島に会って「イヤ誠にお久しぶり、時に何か日本に変ったことはないか」と尋ねたところが、島安太郎が顔色を変えて「イヤあったとも/\大変なことが日本にあった」と言うその時、私が一寸と島さん待ってくれ、言うてくれるな、私が中(あ)ててみせょう、大変と言えば何でもこれは水戸の浪人が掃部(かもん)様の屋敷にあばれ込んだというようなことではないか」と言うと、島は更に驚き「どうしてお前さんはそんなことを知っている、どこで誰に聞いた」「聞いたって聞かないたってわかるじゃないか、私はマア雲気を考えてみるに、そんなことではないかと思う」「イヤこれはどうも驚いた、屋敷にあばれ込んだどころではない、こう/\いう訳けだ」と言って、桜田騒動の話をした。その歳の三月三日に桜田に大騒動のあった時であるから、そのことを話したので、天下の治安というものはおおよそ分るもので、私が出立する前から世の中の様子を考えてみると、どうせ騒動がありそうなことだと思っていたから、偶然にも中ったので誠に面白かった。 その前年からそろ/\攘夷説が行われるという世の中になって来て、アメリカに逗留中、艦長が玩具(おもちゃ)半分に蝙蝠傘(こうもりがさ)を一本買った。珍しいものだと言ってみな寄ってひねくって見ながら「如何だろう、これを日本に持って帰ってさして回ったら」「イヤそれはわかりきっている、新銀座の艦長の屋敷から日本橋まで行く間に、浪人者に斬られてしまうに違いない、まず屋敷の中で折節ひろげてみるより外に用のない品物だ」と言ったことがある。およそこのくらいな世の中で、帰国の後は日々に攘夷論が盛んになって来た。

幕府に雇わる

 アメリカから帰ってから塾生も次第に増している中に、私はアメリカ渡航を幸いに彼の国人に直接して英語ばかり研究して、帰ってからも出来るだけ英語を読むようにして、生徒の教授にも蘭書は教えないで悉く英書を教える。ところがマダなか/\英語が六かしくて自由自在に読めない。読めないから、便るところは英蘭対訳の字書のみ。教授とは言いながら、実は教うるが如く学ぶが如く共に勉強している中に、私は幕府の外国方(今で言えば外務省)に雇われた。その次第は、外国の公使領事から政府の閣老または外国奉行へ差出す書翰を翻訳するためである。当時の日本に英仏等の文を読む者もなければ書く者もないから、諸外国の公使領事より来る公文には必ずオランダの翻訳文を添うるの慣例にてありしが、幕府人に横文字読む者とては一人もなく、止むを得ず吾々如き陪臣(大名の家来)の蘭書読む者を雇うて用を弁じたことであるが、雇われたについてはおのずから利益のあるというのは、たとえば英公使、米公使というような者から来る書翰の原文が英文で、ソレにオランダの訳文が添うてある。如何かしてこの翻訳文を見ずに直接英文を翻訳してやりたいものだと思って試みている間にわからぬところがある、わからぬと蘭訳文を見る、見るとわかるというような訳けで、なか/\英文研究の為めになりました。ソレからもう一つには幕府の外務省にはおのずから書物がある、種々様々な英文の原書がある。役所に出ていて読むのは勿論、借りて自家へ持って来ることも出来るから、ソンナことで幕府に雇われたのは身の為めに大いに便利になりました。


ヨーロッパ各国に行く

 私がアメリカから帰ったのは万延元年。その年に華英通語というものを翻訳して出版したことがある。これがそも/\私が出版の始まり。まずこの両三年間というものは、人に教うるというよりも自分でもって英語研究が専業であった。ところが文久元年の冬、日本からヨーロッパ諸国に使節派遣ということがあって、その時にまた私はその使節に付いて行かれる機会を得ました。この前アメリカに行く時には私(ひそか)に木村摂津守に懇願して、その従僕ということにして連れて行って貰ったが、今度は幕府に雇われていてヨーロッパ行きを命ぜられたのであるから、おのずから一人前の役人のような者になって、金も四百両ばかり貰ったかと思う。旅中はい一切官費で、ただ手当として四百両の金を貰ったから、誠に世話なし。ソコで私は平生頓と金のいらない男で、いたずらに金を費やすということは決してない。四百両貰ったその中で、百両だけ国に居る母に送ってやった。如何にも母に対して気の毒だというのは、アメリカから帰ってマダ国へ親の機嫌を聞きに行きもせずに、重ねてヨーロッパに行くというのだから、如何にも済まない。のみならず私がアメリカ旅行中にも、郷里中津の者共が色々様々な風聞を立てて、アメリカに行って彼の地で死んだと言い、甚だしきに至れば現在の親類の中の一人が私共の母に向かって、誠に気の毒なことじゃ、諭吉さんもとう/\アメリカで死んで、身体は醢(しおづ)けにして江戸に持って帰ったそうだなんと、威すのか冷かすのか、ソンナ事まで言って母を嬲(なぶ)っていたというようなことで、これも時節柄で我慢して黙っているより外に仕方がないとしていながら、母に対しては如何にも気が済まない。金をやったからと言ってソレで償える訳けのものではないけれども、マア/\百両だの二百両だのという金は生まれてから見たこともない金だから、ソレでも送って遣ろうと思って、幕府から請け取った金を分けて送りました。
 それからヨーロッパに行くということになって、船の出発したのは文久元年十二月のことであった。このたびの船は日本の使節が行くというために、イギリスか迎船のようにして来たオーヂンという軍艦で、その軍艦に乗ってホンコン、シンガポールというようなインド洋の港々に立ち寄り、紅海に這入って、スエズから上陸して蒸気車に乗って、エジプトのカイロ府に着いて二晩ばかり泊まり、それから地中海に出て、そこからまた船に乗ってフランスのマルセイル、そこで蒸気車に乗ってリオンに一泊、パリに着いて滞在およそ二十日、使節のことを終り、パリを去ってイギリスに渡り、イギリスからオランダ、オランダからプロスの都のベルリンに行き、ベルリンからロシアのペートルスポルグ、それから再びパリに帰って来て、フランスから船に乗って、ポルトガルに行き、ソレカラ地中海に這入って、元の通りの順路を経て帰って来たその間の年月はおよそ一カ年、即ち文久二年一杯、押し詰まってから日本に帰って来ました。
 さて今度の旅行について申せば、私もこの時にはモウ英書を読み英語を語るということがそろ/\出来て、それから前に申す通りに、金もいささか持っているその金は、何も使い所はないから、ただ日本を出る時に尋常一様の旅費をしただけで、その当時は物価の安い時だから、何もそんなに金のいる訳がない、その余った金は皆携えて行って、ロンドンに逗留中、外に買物もない、ただ英書ばかりを買って来た。これがそも/\日本へ輸入の始まりで、英書の自由に使われるようになったというのもこれからのことである。
 それから彼(か)の国の巡回中、いろ/\観察見聞したことも多いが、これは後の話にして、まず使節一行の有様を申さんに、その人員は、 旅行中用意の品々、失策また失策

  右の外に三使節の家来両三人ずつと、賄(まかない)小使六、七人、この小使の中には内緒で諸藩から頼んで乗り込んだ立派な士人もある。松木、箕作、福沢らは、まず役人のような者ではあるが、大名の家来、いわゆる陪臣の身分であるから、一行中の一番下席だ。総人数およそ四十人足らず、いずれも日本服に大小を横たえて、パリロンドンを闊歩したも可笑しい。日本出発前に外国は何でも食物が不自由だからというので、白米を箱に詰めて何百箱の兵粮(ひょうろう)を貯え、また旅中止宿(ししゅく)の用意というので、廊下にともす金行灯(かなあんどん)−二尺四方もある鉄網作りの行灯を何十台も作り、そのほか、提灯、手燭(てしょく)ボンボリ、蝋燭(ろうそく)等に至るまで、一切取りそろえて船に積み込んだその趣向は、大名が東海道を通行して宿駅の本陣に止宿するくらいの胸算に違いない。それからいよ/\パリに着して、先方から接待員が迎いに出て来ると、一応の挨拶終りて、まず此方よりの所望は、随行員も多勢なり荷物も多いことゆえ、下宿はなるべく本陣に近い所に頼むというのは、万事不取締り不安心だから、一行の者を使節の近所に置きたいという意味でしょう。スルト接待員は、いさい承知して、まず人数を聞き糺し、総勢三十何人とわかって「こればかりの人数なれば一軒の旅館に十組や二十組は引き受けます」との答に、何のことやら訳けがわからぬ。ソレカラ案内に連れられて止宿した旅舘は、パリの王宮の門外にあるホテルデロウブルという広大な家で、五階造り六百室、脾僕五百余人、旅客は千人以上差し支えなしというので、日本の使節などはどこに居るやらわからぬ。ただ旅館中の廊下の道に迷わぬように、当分はソレが心配でした。各室には温めた空気が流通するから、ストーヴもなければ蒸気もなし、無数のガス灯は室内廊下を照らして日の暮るるを知らず、食堂には山海の珍味を並べて、如何なる西洋嫌いも.口腹に攘夷の念はない、みな喜んでこれを味わうから、ここに手持ち無沙汰なるは日本から背負て来た用意の品物で、ホテルの廊下に金行灯をつけるにも及ばず、ホテルの台所で米の飯をたくことも出来ず、とう/\しまいには米をはじめ諸道具一切の雑物を、接待掛りの下役のランベヤという男に進上して、ただ貰って貰うたのも可笑しかった。
 まずこんな塩梅式だから、吾々一行の失策物笑いは数限りもない。シガーとシュガーを間違えて煙草を買いにやって砂糖を持って来るもあり、医者は人参と思って買って来て生姜の粉であったこともある。またあるときに三使節中の一人が便所に行く、家来がボンポリを持って供をして便所の二重の戸を明け放しにして、殿様が奥の方で日本流に用をたすその間、家来は袴着用、殿様のお腰の物を持って、便所の外の廊下にひらき直ってチャント番をしているその廊下は旅館中の公道で、男女往来織るが如くにして、便所の内外ガスの光明昼よりも明らかなりというからたまらない。私は丁度そこを通り掛って、篤いたとも驚くまいとも、まず表に立ちふさがって物も言わずに戸を打ち締めて、それからそろ/\その家来殿に話したことがある。

欧洲の政風人情

 政治上のことについては、ロンドン、パリ等に在留中、色々な人に会うて色々なことを聞いたがもとよりその事例の由来を知らぬから、よくわかる訳もない。当時はフランスの第三世ナボレヲンが欧洲第一の政治家と持てはやされてエライ勢力であっだが、隣国のプロスも日の出の新進国で油断はならぬ。オースタリ―との戦争、また、アルサス、ローレンスのことなども国交際の問題として、いずれ後年には云々(しかじか)の変乱が生ずるであろうなんということは朝野政通の予言するところで、私の日記覚書にもチョイ/\記してある。またロンドンに居るとき、ある社中の人が社名をもって議院に建言したというて、その草稿を日本使節に送って釆た。建言の趣意は、在日本英国の公使アールコックが新開国たる日本に居て乱暴無状、あたかも武力をもって征服したる国民に臨むが如し云々とて、種々様々の証拠を挙げて公使の罪を責めるその証拠の一つに、公使アールコックが日本国民の霊場として尊拝する芝の山内に騎馬にて乗り込みたるが如き、言語に絶えたる無礼なりと痛論したる節もある。私はこの建言書を見て大いに胸が下がった。なるほど世界は鬼ばかりでない、これまで外国政府の仕振りを見れば、日本の弱身に付け込み日本人の不文殺伐なるに乗じて無理難題を仕掛けて真実困っていたが、その本国に来て見ればおのずから公明正大、優しき人もあるものだと思って、ます/\平生の主義たる開国一偏の説を堅固にしたことがある。

土地の売買勝手次第

 また各国巡回中、待遇の最も濃(こま)やかなるはオランダの右に出るものはない。これは三百年来特別の関係でそうなければならぬ。ことに私をはじめ同行中に横文字読む人で蘭文を知らぬ者はないから、文書言語でいえばヨーロッパ中第二の故郷に帰ったような訳で、自然に居心地が宣い。それはさておきオランダ滞留中に奇談がある。あるとき使節がアムストルダムに行って地方の紳士紳商に面会、四方八方(よもやま)の話のついでに、使節の問に「このアムストルダム府の土地は売買勝手なるか」と言うに、彼の人答えて「もとより自由自在」「外国人へも売るか」「値段次第、誰にでも、また何ほどにても」「さればここに外国人が大資本を投じて広く土地を買い占め、これに城郭砲台でも築くことがあったら、それでも勝手次第か」と言うに、彼の人も妙な頗をして「ソンナことはこれまで考えたことはない、いかに英仏その他の国々に金満家が多いとて、他国の地面を買って城を築くような馬鹿気た商人はありますまい」と答えて、双方共に要領を得ぬ様子で、私共はこれを見て実に可笑しかったが、当時日本の外交政略はおよそこの辺から割り出したものであるからたまらない訳けさ。

見物自由の中また不自由

 それはさておき、私がこの前アメリカに行ったときには、カリフヲルニヤ地方にマダ鉄道がなかったから、勿論鉄道を見たことがない、けれども今度はスエズに上がって初めて鉄道に乗り、それからヨーロッパ各国を彼方此方(あちこち)と行くにもみな鉄道ばかり、到る所に歓迎せられて,海陸軍の場所をはじめとして、官私の諸工場、銀行会社、寺院、学校、クラブ等は勿論、病院に行けば解剖も見せる、外科手術も見せる、あるいは名ある人の家に晩餐の饗応、舞踏の見物など、誠に親切に案内せられて、かえって招待の多いのにくたびれるというほどの次第であったが、ただここに一つ可笑しいというのは、日本はそのとき丸で鎖国の世の中で、外国に居ながら兎角外国人に会うことを止めようとするのが可笑しい。使節は、竹内、松平、京極の三使節、その中の京極は御目附という役目で、ソレにはまた相応の属官が幾人も付いている。ソレが一切の同行人を目ッ張子で見ているので、なか/\外国人に会うことが六かしい。同行者は何れも幕府の役人連で、その中にまず同志同感、互いに目的を共にするというのは箕作秋坪と松木弘安と私と、この三人は年来の学友で互いに往来していたので、彼方(あちら)に居てもこの三人だけは自然別なものにならぬ。何でも有らん限りの物を見ようとばかりしていると、ソレが役人連の目に面白くないとみえ、殊に三人とも陪臣で、しかも洋書を読むというからなか/\油断をしない。何か見物に出掛けようとすると、必ず御目付方の下役が付いて行かなければならぬという御定まりで始終付いて回る。此方は固より密売しようではなし、国の秘密を洩らす気遣もないが、妙な役人が付いて来ればただうるさい。うるさいのはマダ宣いが、その下役が何か外に差支えがあると、私共も出ることが出来ない。ソレは甚だ不自由でした。私はその時に「これはマア何のことはない、日本の鎖国をそのままかついで来て、ヨーロッパ各国を巡回するようなものだ」と言って、三人で笑ったことがあります。

血を恐れる

 ソレでも私共は、見ようと思うものは見、聞こうと思うことほ聞いたが、序(ついで)ながらこの見聞のことについて私の身の恥を言わねばならぬ。私は少年の時から至極元気の宣い男で、時として大言壮語したことも多いが、天稟(うまれつき)気の弱い性質で、殺生が嫌い、人の血を見ることが大嫌い。例えば緒方の塾に居るときは刺烙(しらく)流行の時代で、同窓生は勿論、私も腕の脈に針をして血を取ったことがある。ところが私は、自分でも他人でもその血の出るのを見て心地が善くないから、刺略といえばチャント眼を閉じて見ないようにしている。腫物が出来ても針をすることはまず見合わせたいと言い、一寸とした怪我でも血が出ると顔色が青くなる。毎度都会の地にある行き倒れ、首くくり、変死人などは何としても見ることが出来ない。見物どころか、死人の話を聞いても逃げてまわるというような臆病者である。ところがロシアに滞留中、ある病院に外科手術があるから見物せよとの案内に、箕作も松木も医者だから直ぐに出掛ける。私にも一緒に行けと無理に勧めて連れて行かれて、外科室に這入ってみれば石淋(せきりん)を取り出す手術で、執刀の医師は合羽(かっぱ)を着て、病人をば俎(まないた)のような台の上に寝かして、コロロホルムをかがせて、まずこれを殺して、それからその医師が光り耀く刀を執ってグット刺すと、大層な血がほとばしって医者の合羽は真赤になる、それから刀の切口に釘抜きのようなものを入れて、膀胱の中にある石を取り出すとかいう様子であったが、その中に私は変な心持になって何だか気が遠くなった。スルト同行の山田八郎という男が私を助けて室外に連れ出し、水など呑ましてくれてヤット正気に返った。その前ドイツのべルリンの眼病院でも、ヤブニラミの手術とて子供の眼に刀を刺すところを半分ばかり見て、私は急いでその場を逃げ出して、その時には無事に済んだことがある。松木も箕作も私に意気地がないと言って頻りに笑い頻りに冷かすけれども、持って生まれた性質は仕方がない、生涯これで死ぬことでしょう。

事情探索の胸算

 それはさておき私のヨーロッパ巡回中の胸算(きょうさん)は、およそ書籍上(しょじゃくじょう)で調べられることは日本に居ても原書を読んでわからぬところは字引を引いて調べさえすればわからぬことはないが、外国の人に一番わかり易いことでほとんど字引にも載せないというようなことが此方では一番六かしい。だから原書を調べてソレでわからないということだけをこの逗留中に調べておきたいものだと思って、その方向でもって、これは相当の人だと思えばその人について調べるということに力を尽くして、聞くに従って一寸々々こういうように(このとき先生細長くして古々しき一小冊子を示す)しるしておいて、それから日本に帰ってから、ソレを台にしてなお色々な原書を調べまた記憶するところを繰り合わせて、西洋事情というものが出来ました。凡そ理化学、器械学のことにおいて、あるいはエレキトルのこと、蒸気のこと、印刷のこと、諸工業製作のことなどは、必ずしも一々聞かなくても宜しいというのは、元来私が専門学者ではないし、聞いたところが真実深い意味のわかる訳けはない、ただ一通りの話を聞くばかり、一通りのことなら自分で原書を調べて容易にわかるから、コンナことの詮索はまず二の次にして、外に知りたいことが沢山ある。例えばココに病院というものがある、ところでその入費の金はどんな塩梅にして誰が出しているのか、また銀行(バンク)というものがあってその金の支出入は如何しているか、郵便法が行われていて、その法は如何いう趣向にしてあるのか、フランスでは徴兵令を励行しているがイギリスには徴兵令がないというその徴兵令というのは、そも/\如何いう趣向にしてあるのか、その辺の事情が頓とわからない。ソレカラまた政治上の選挙法というようなことが皆無わからない。わからないから選挙法とは如何な法律で議院とは如何な役所かと尋ねると、彼方の人はただ笑っている、何を聞くのかわかり切ったことだというような訳け。ソレが此方ではわからなくてどうにも始末が付かない。また、党派には保守党と自由党と徒党のようなものがあって、双方負けず劣らず鎬(しのぎ)を削って争うているという。何のことだ、太平無事の天下に政治上の喧嘩をしているという。サアわからない。コリヤ大変なことだ、何をしているのか知らん。少しも考えの付こう筈がない。あの人とこの人とは敵だなんというて、同じテーブルで酒を飲んで飯を食っている。少しもわからない。ソレが略(ほぼ)わかるようになろうというまでには骨の折れた話で、その謂れ因縁が少しずつわかるようになって来て、入組んだ事柄になると五日も十日も掛かって、ヤット胸に落ちるというような訳けで、ソレが今度洋行の利益でした。

樺太の境界談判

 それからその逗留中に誠に情けなく感じたことがあると申すは、私共の出立前からして日本国中次第々々に攘夷論が盛んになって、外交は次第々々に不始末だらけ、今度の使節がロシアに行った時に此方から樺太の境論(さかいろん)を持ち出して、その談判の席に私も出ていたので、日本の使節がソレを言い出すと先方は少しも取り合わない。或いは地図などを持ち出して、地図の色はこう/\いう色ではないか、おのずからここが境だと言うと、ロシア人の言うには、地図の色で境がきまれば、この地図を皆赤くすれば世界中ロシアの領分になってしまうだろう、またこれを青くすれば世界中日本領になるだろうというような調子で、漫語放言、迚(とて)も寄り付かれない。マア兎にも角にも、お互いに実地を調べたその上のことにしようというので、樺太の境はきめずに宣加減にして談判はやめになりましたが、ソレを私が傍から聞いていて、これは迚も仕様がない、一切万事便るところなし、日本の不文不明の奴らが殻威張(からいば)りして攘夷論が盛んになればなるほど、日本の国力は段々弱くなるだけの話で、しまいには如何いうようになり果てるだろうかと思って、実に情けなくなりました。

露政府の厚遇

 国交際の談判は右の通りに水臭い次第であるが、使節に対する私(わたくしの)の待遇はそうでない。ベートルスボルグ滞在中は日本使節一行のために特に官舎を貸し渡して、接待委員という者が四、五人あってその官舎に詰め切りで、いろ/\饗応するその饗応の仕方というはすこぶる手厚く、何一つ遺憾はないという有様。ソレで御用のない時は、名所旧跡をはじめ諸所の工場というような所に案内して見せてくれる。その中に段々接待委員の人々と懇意になって種々様々な話もしたが、その節ロシアに日本人が一人居るという噂を聞いたその噂は、どうも間違いない事実であろうと思われる。名はヤマトフと唱えて、日本人に違いないといという。勿論その噂は接待委員から聞いたのではない。その外の人から洩れたのであるが、まず公然の秘密というくらいなことで、チャントわかっていた。そのヤマトフに会ってみたいと思うけれども、なか/\会われない。とう/\逗留中出て来ない。出て来ないが、その接待中の模様に至っては動(やや)もすると日本風のことがある。例えば室内に刀掛があり、寝床には日本流の木の枕があり、湯殿には糠を入れた糠袋があり、食物もつとめて日本調理の風にして、箸茶碗なども日本の物に似ている。どうしてもロシア人の思い付く物でない。シテ見ると、噂の通り何処にか日本人の居るのは間違いない、明らかにわかっているけれども、到頭(とう/\)わからずに帰ってしまいました。私の西航日記にこのことを記して、その傍に詩のようなものが一寸と書いてある。  今日になって一々記憶もないが、よほど日本流のことが多かったと思われます。

露国に止まることを勧む

 それからある日のことで、その接待委員の一人が私のところに来て、一寸こちらに来てくれろと言って、一間に私を連れて行った。何だと言って話をすると、私の一身上のことに及んで「お前はこのたび使節に付いて来たが、これから先は日本に帰って何をする所存かソリャ勿論知らないが、お前は大層金持か」と尋ねるから「イヤ決して金持ではない、マア幾らか日本の政府の用をしている、用をしていればおのずからその報酬というものがあるから、衣食の道に差支はないものだ」とこう私は答えた。ところが接待委員の言うに「日本のことだから我々に委しい事情のわかる訳けはない、わかりはしないけれども、どうも大体を考えてみたところで日本は小国だ、アアいう小さな国に居て男子の仕事の出来るものじゃない。ソレよりかお前はヒョイとここに心を変えてこのロシアに止まらないか」と言うから、私は答えて「自分の身は使節に随従して来ているものであるから、そう勝手に止まられる訳けのものじゃない」と有りのままに言うと「イヤそれは造作もない話だ、お前さえ今から決断して隠れる気になれば、直ぐに私が隠してやる。どうせ使節は長くここに居る気遣いはない、間もなく帰る。帰ればソレきりだ。そうしてお前はロシア人になってしまいなさい。このロシアには外国の人は幾らも来ている、就中(なかかんづく)ドイツの人などは大変に多い、その外オランダ人も来ていればイギリス人も来ている。だから日本人が来ていたからと言って何も珍しいことはない、是非ここに止まれ。いよ/\止まると決すれば、その上はどんな仕事でもしようと思えは面白い愉快な仕事は沢山ある。衣食住の安心は勿論、随分金持になることも出来るから止まれ」と懇ろに説いたのは、決して尋常の戯れでない。チャント一間の中に差向かいで真面目になって話したのである。けれども私がその時に止まるという必要もなければ、また止まろうという気もない。宣い加減に返答をして置くと、その後二、三度同じようなことを言って来たが、固より話はまとまらず。その時に私は大いに心付きました。なるほどロシアはヨーロッパの中で一種風俗の変った国だというが、ソレに違いない。たとえば今度英仏にもしばらく滞留し、また前年アメリカに行ったときにも、人に逢いさえすれば日本に行こう/\と言う者が多い。何か日本に仕事はないか、どうかして一緒に連れて行ってくれないかと、ソリャもう行く先々でうるさいように言う者はあれども、ついぞ止まれということをただの一度も言った人ほない。ロシアに来て初めて止まれという話を聞いたその趣きを推察すれば、決してこれは商売上の話ではない、如何しても政治上また国交際上の意味を含んでいるに違いない。こりやどうも気の知れない国だ、言葉に意味を含んで止まれというところをみれば、或いは陰険の手段を施すためではないか知らんと思うたことがあった。けれどもそんなことを聞いたと言うことを同行の人に語ることも出来ない、語ればどんな嫌疑を蒙るまいものでもないから、その時に語らぬのは勿論、日本に帰って来ても人に言わずに黙っていました。或いはそういうことを言われたのは私一人でなく、同行の者も同じことを言われて、私と同じ考えで黙っていた者があったかも知れない。とにかくに気の知れぬ国だと思われる。

生麦の報道到来して使節苦しむ

 それからロシアを去ってフランスに帰り、いよ/\出発というその時は生麦の大騒動、即ち生麦で英人のリチヤードソンというものを薩摩の侍が斬ったということが丁度彼方に報告になった時で、さあフランスのナポレオン政府が吾々日本人に対して気不味(きまづ)くなって来た。人民はどうか知らないが、政府の待遇の冷淡無愛相になったことは甚だしい。主人の方でその通りだから、客たる吾々日本人のキマリの悪いこと如何にも言いようがない。日本の使節が港から船に乗ろうというその道は十町余りもあったかと思う、道の両側に兵隊をずっと並べて見送らした。これは敬礼を尽すのではなくして、日本人を威かしたに違いない。兵士を幾ら並べたって鉄砲を撃つ訳けでないから、怖くも何ともありはしないけれども、その苦々しい有様というものは実にたまらない訳けであった。私の「西航記」中の一節に、閏八月十三日(文久二年)朝八時ロシフヲルトに着。ロシフヲルトは巴里より仏里にて九十里の処にある仏蘭西の海軍港なり。蒸気車より下り船に乗るまでの路十余町、この間盛んに護衛の兵卒千余人を列せり。敬礼を表するに似て或いは威を示すなり。日本人は昨夜蒸気車に乗り車中安眠するを得ず大いに疲れたるに、此処に着して暫時も休息せしめず車より下りて直ちに又船に乗らしむ。且つ船に乗るまで十余町の道、日本の一行には馬車を与えず徒歩にて船まで云々。
 それからフランスを出発してポルトガルのリスボンに寄港し、使節の公用を済ましてまた船に乗り、地中海に入り、インド洋に出て、海上無事、日本に帰ってみれば、攘夷論の真盛りだ。


攘 夷 論

攘夷論の鋒先洋学者に向かう

 井伊掃部頭(いいかもんんのかみ)はこの前殺されて、今度は老中の安藤対馬守が浪人に疵を付けられた。その乱暴者の一人が長州の屋敷に駆け込んだとか何とかいう話を聞いて、私はそのとき初めて心付いた、なるほど長州藩も矢張り攘夷の仲間に這入っているのかとこう思ったことがある。兎にも角にも日本国中攘夷の真盛りでどうにも手の着けようがない。ところで私の身にしてみると、これまでは世間に攘夷論があるというだけのことで、自分の身について危ないことは覚えなかった。大阪の塾に居る中に勿論暗殺などということのあろう筈はない。また江戸に出て来たからとて、怖い敵もなければ何でもないとばかり思っていたところが、サア今度ヨーロッパから帰って来たその上は、なか/\そうでない。段々喧しくなって、外国貿易をする商人が俄に店を片付けてしまうなどというようなことで、浪人と名づくる者が盛んに出て来て、どこに居て何をしているのかわからない。丁度今の壮士というようなもので、ヒョコ/\妙なところから出て来る。外国の貿易をする商人さえ店をしまうというのであるから、まして外国の書を読んでヨーロッパの制度文物をそれこれと論ずるような者は、どうも彼輩は不埒な奴じゃ、畢竟彼奴(あいつ)らは虚言をついて世の中を瞞着する売国奴だ、というような評判がソロ/\行われて来て、ソレから浪士の鋒先(ほこさき)が洋学者の方に向いて来た。これは誠に恐れ入った話で、何も私共は罪を犯した覚えはない。これはマアどこまで小さくなれば免るるかというと、幾ら小さくなっても免れない。到頭しまいには洋書を読むことをやめてしもうて攘夷論でも唱えたらば、ソレはお詫びが済むだろうが、マサカそんなことも出来ない。此方が無頓着に、思うことをやろうとすれば、浪人共は段々きつくなって来る。既に私共と同様、幕府に雇われている翻訳方の中に手塚律蔵という人があって、その男が長州の屋敷に行って何か外国の話をしたら、屋敷の若者らが斬ってしまうと言うので、手塚はドン/\駈け出す、若者らは刀を抜いて追っかける、手塚は一生懸命に逃げたけれども逃げ切れずに、寒い時だが日比谷外の濠の中へ飛び込んでようやく助かったこともある。それから同じ長州の藩士で東条礼蔵という人も、矢張り私と同僚翻訳方で、小石川のもと蜀山人の住居という家に住んでいた。ところがその家にいわゆる浮浪の徒があばれ込んで、東条は裏口から逃げ出してやっと助かったというような訳けで、いよ/\洋学者の身が甚だ危くなって来て油断がならぬ。さればとて、自分の思うところ、為す仕事はやめられるものじゃない。それから私は構わない、構おうといったところが構われもせず、やめようといったところがやめられる訳けでない、マア/\言語挙動を柔らかにして決して人に逆らわないように、社会の利害というようなことはまず気の知れない人には言わないようにして、慎めるだけ自分の身を慎んで、ソレと同時に私はもっぱら著書翻訳のことを始めた。その著訳の一条については、今ココで別段に言うことはない、私の今年開版した福沢全集の緒言に詳かに書いてあるからこれは見合わせるとして、その著訳事業中、すなわち攘夷論全盛の時代に、洋学生徒の数は次第々々にふえるから、その教授法に力を尽くし、また家の活計(クラシ)は幕府に雇われて扶持米を貰うてソレで結構暮らせるから、世間のことには頓と頓着せず、怖い半分、面白い半分に歳月を送っている。あるとき可笑しいことがあった。私が新銭座に一寸住居の時(新銭座塾に非ず)「誰方か知らないがお目に掛りたいと言ってお侍が参りました」と下女が取り次ぎするから「ドンナ人だ」と聞くと「大きな人で、眼が片眼で、長い刀を挟しています」と言うから「コリャ物騒な奴だ、名は何という」「名はお尋ね申しましたが、お目に掛ればわかると言って、おっしゃいません」。どうも気味の悪い奴だと思って、それから私は、そっとのぞいて見ると、何でもない、筑前の医学生で原田水山、緒方の塾に一緒にいた親友だ。思わずののしった。「この馬鹿野郎、貴様は何だ、なぜ名を言ってくれんか、乃公(おれ)は恐くてたまらなかった」と言って、奥に通して色々世間話をして、共々に大笑したことがある。そういう世の中で、洋学者もつまらぬことに驚かされていました。

英艦来る

 それから攘夷論というものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂(いえもち)公の上洛となり、続いて御親発として長州征伐に出掛けるということになって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、イギリスの軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人はただ懇親をもって交わろうと思うてこれまでも有らん限り柔らかな手段ばかりを執っていた、然るに日本の国民が乱暴をして、あまつさえ人を殺した、如何にしてもその責は日本政府にあって免るべからざる罪であるから、こののち二十日を期して決答せよという次第は、政府から十万ポンドの償金を取り、なお二万五千ポンドは薩摩の大名から取り、その上、罪人を召捕って眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が釆た。その時に私共が翻訳する役目に当っているので、夜中に呼びに来て、赤坂に住まっている外国奉行松平石見守の宅に行ったのが、私と杉川玄端、高畠五郎、その三人で出掛けてて行って、夜の明けるまで翻訳したが、これはマアどうなることだろうか、大変なことだと窃(ひそか)に心配したところが、その翌々二十一日には将軍が危急存亡の大事を眼前に見ながら、それを捨てておいておいて上洛してしもうた。そうするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、ところがもう二十日待ってくれろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやらこうやら待ってもらうことになった。ところでいよ/\償金を払うか払わないかという幕府の評議がなか/\決しない。その時の騒動というものは、江戸市中そりやモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争があるなどという評判、その二十日の期間も既に過ぎ去って、また十日ということになって、始終十日と二十日の期限をもって次第々々に返辞を延ばして行く。私はその時に新銭座に住まっていたから、迚(とて)もこりゃ戦争になりそうだ、なればどうも逃げるより外にしようがないと、ソロ/\逃仕度をするというようなことで、ソコでいよ/\期日も差迫って、今度はもう掛値なし、一日も負からないという日になった、というのを私は政府の翻訳局に居て詳らかに知っているからなおたまらない。

仏国公使無法に威張る

 その翻訳をする間に、時のフランスのミニストル・ベレクルという者が、どういう気前だか知らないが、大層な手紙を政府に出して、今度のことについてフランスは全くイギリスと同説だ、いよ/\戦端を開く時には英国と共々に軍艦をもって品川沖をあばれ回ると、乱暴なことを言うて来た。誠に謂れのない話で、丸でその趣きは今の西洋諸国の政府がシナ人を威すと同じことで、政府はただ英仏人の剣幕を見て心配するばかり。私にはよくその事情がわかる、わかればわかるほど気味が悪い。

事態いよ/\迫る

 これはいよ/\やるに違いないと鑑定して、内の方の政府を見れば何時までも説が決しない。事が喧しくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこにあるか訳けがわからず、ただ役人たちが思い/\に小田原評議のグズ/\で、いよ/\期日が明後日というような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。今でも私のところに疵の付いた箪笥がある。いよ/\荷物を片付けようというので箪笥を細引で縛って、青山の方へ持って行けば大丈夫だろう、何もただの人間を害する気遣いはないからというので、青山の穏田という所に呉黄石という芸州の医者があって、その人は箕作の親類で、私はかねて知っているから、呉の所に行って、どうか暫くここに立退場を頼むと相談もととのい、いよ/\青山の方と思うて荷物は一切こしらえて名札を付けて担ぎ出すばかりにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行って見れば、大砲の口を海の方に向けて撃つような構えにしてある。これは今明日の中にいよ/\事は始まると覚悟をきめた。その前に幕府から布令が出てある。いよ/\兵端を開く時には、浜御殿、今の延遼館で、火矢を挙げるから、ソレを合図に用意致せという市中に布令が出た。江戸ッ子は口の悪いもので「瓢符(兵端)の開け初めは冷(火矢)でやる」と川柳があったが、これでも時の事情はわかる。

米と味噌と大失策

 それからまた可笑しいことがある。私の考えに、これは何でも戦争になるに違いない、マア米を買おうと思って、出入の米屋に申し付けて米を三十俵買って米屋に預け、仙台味噌を一樽買って納屋に入れて置いた。ところが期日が切迫するに従って、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何すると言ったところが、担いでいで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負ってって駐けることも出来なかろう。これは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば宣いと言ったが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、これはマア逃げる時はこの米と味噌は捨てて行くより外はないと言って、その騒動の真盛りに大笑いを催したことがある。その時にも新銭座の家に学生が幾人か居て、私はそのとき二分金で百両か百五十両持っていたから、この金を独りで持っていても策でない、イザと言えば誰がどこにどう行くか分らない、金があればまず餒(かつ)えることはないから、この金は私が一人で持っているよりか、家内が一人で持っているよりか、これは銘々に分けて持つが宜かろうというので、その金を四つか五つに分けて、頭割りにして銘々ソレを腰に巻いて行こうと、用意金の分配まで出来て、明日か明後日はいよ/\戦争の始まり、外に道はないと覚悟したところが、ここに幸いなことがあるというのは、その時に唐津の殿様で小笠原壱岐守という閣老がある。それから横浜に浅野備前守という奉行がある。

小笠原壱岐守

 ソレらの人が極秘蜜に言い合わせたこととみえて、五月の初旬十日前後と思いますが、いよ/\今日という日に、前日まで大病だと言って寝ていた小笠原壱岐守が、ヒョイとその朝起きて、日本の軍艦に乗って品川沖を出て行く。するとイギリスの砲艦(ガンボート)が壱岐守の船の尻に尾いて走るというのは、壱岐守は上方に行くと言って品川湾を出発したから、もし本当にその方針を取って本牧の鼻を回れば、英人は後ろから砲撃する筈であったという。ところが壱岐守は本牧を回らずに横浜の方へ這入って、自分の独断で即刻に償金を払うてしまった。十万ポンドを時の相場にすればメキシコ弗(ドル)で四十万になるその正銀を、英公使セント・ジョン・ニールに渡してまず一段落を終りました。

鹿児島湾の戦争

 幕府に要求した十万ポンドの償金は五月十日に片付いて、それから今度はその英軍艦が鹿児島に行って、被害者の遺族の手当として二万五千ポンドを要求し、且つその罪人を英国人の見ている所で死刑に処せよという掛合のために、六艘の軍艦は鹿児島湾に回って錨を卸した。スルト薩摩薄から直ちに来意訪問の使者が来る。英の旗艦の水師提督はクーパー、司令長鮎はウヰルモット、船長はジョスリソグという人で、書翰を薩摩の役人に渡し、応否の返答如何と待っている。ところがなか/\容易なことに返辞が出来ない。ソレコレする中に薩摩に西洋形の船、即ち西洋から薩摩藩に買い取った船が二艘あるその二艘の船を談判の抵当に取るという極意で、桜島の側に碇泊してあった二艘の船を英の軍艦が引っ張って来るという手詰めの場合になった。ズルト陸の方からこの様子を見ていよ/\発砲し始めて、陸から発砲すれば海からも発砲して、ドン/\大合戦になった、というのが丁度文久三年五月下旬、何でも二十八、九日ごろである。その時に英の旗艦はマダ陸からは発砲しないことと思って錨を挙げずにいたところが、俄に陸の方で撃ち始めたものだから、サア錨を上げようとすると生憎その時は大変な暴風、加うるに海が最も深いからドウも錨を上げる遑(いとま)がないというので、錨の鎖を切ってそれから運動するようになった。これが例のイギリスの軍艦の錨が薩摩の手に入った由来である。ソコで陸から打つ鉄砲もなか/\エライ、専ら旗艦を狙うて命中するものも多いその中に、大きな丸い破裂弾が旨く発して怪我人が出来た中に、司令長官とカピテンと二人の将官が即死して船中の騒動、また船から陸に向かっての砲撃もなか/\激しく、海岸の建物は大抵焼き払うてこれも容易ならぬ損害であったが、詰まるところ、勝負なしの戦争というのは、薩摩の方はイギリスの軍艦を撃って二人の将官まで殺したけれどもその船を如何(どう)することも出来ない、また軍艦の方でも陸を焼き払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰ったのは六月十日前のころであったが、その時に面白い話がある。戦争の済んだあとで、かの旗艦に命中した破裂弾の砕片を見て、船中の英人らがしきりに語り合うに「こんな弾丸が日本で出来る訳けはない。イヤよく見ればロシア製のものじゃ。ロシアから日本に送ったのであろう」などと評議区々(まちまち)なりしという。当時クリミヤ戦争の当分ではあるし、元来イギリスとロシアとの間柄は犬と猿のようで、相互に色々な猜疑心がある。今日に至るまでも仲は好くないように見える。

松本、五代、英艦に投ず

 それはさておきここに薩摩の船を二艘此方(こちら)に引っ張って来るという時に、その船長の松木弘安(後に寺島陶蔵また後に宗則)五代才助(後に五代友厚)の両人が、船奉行という名義でいわば船長である。ソコで英の軍艦が二艘の船を引っ張って来ようというその時に、乗り込みの水夫などはそこから上陸させたが、船長二人だけは英艦の方に投じた。投じたけれども自分の船から出るときに、実は松木と五代と申し談じてひそかにその船の火薬庫に導火(みちび)をつけておいたから、間もなく船は二艘とも焼けてしまった。それはそれとして、さて松木に五代というものは捕虜でもなければお客でもない、何しろ英の軍艦に乗り込んで横浜に来たに違いはない。そのことは横浜の新聞紙にも出ていたのであるが、ソレきり少しも消息がわからない。私はその前年松木とヨーロッパに一緒に行ったのみならず、以前から私と箕作と松木というものは甚だ親しい朋友の間柄で、ソコで松木が英船に乗ったというが如何したろうかと、ただその噂をするばかりで尋ねる所もない。英人がもしこの両人を薩摩の方へ還せば、ソリャもう若武者共が直ぐに殺すにきまっている。さればといってこれを幕府の方に渡せば、殺さぬまでもマア嫌疑の筋があるとか取り調べる廉(かど)があるとか言って、取り敢えず牢には入れるだろう。ところが今日まで薩摩に還したという沙汰もなければ、幕府に引き渡したという様子もない。如何したろうか、如何にも不審なことじゃと、ただ箕作と私と始終その話をしていた。ところがおよそこのことが済んで一年ばかりたってから、不意とその松木を見付け出したこそ不思議の因縁である。

薩人英人と談判

 松木の話は次にしておいて、横浜にイギリスの軍艦が帰って来たあとで、薩摩から談判のために江戸に人の出て来たというのは、岩下佐次右衛門、重野厚保之丞(後に安繹/やすつぐ)、その外に黒幕みたような役目を帯びて来たのが大久保一蔵(後に利通)、その三人が出て来たところで、第一番に薩摩の望むところは兎にも角にもこの戦争をしばらく延引して貰いたいという注文なれども、その周旋を誰に煩むという手掛りもなく当惑の折柄、ここに一人の人があるその一人というのは清水卯三郎(瑞穗屋卯三郎)という人で、この人は商人ではあるけれども英書も少し読み西洋のことについては至極熱心、まず当時においてはその身分に不似合な有志者である。初め英艦が薩摩に行こうというときに、もし薩摩の方から日本文の書翰を出されたときにほこれを読むに困る。通弁にはアレキサンドル・シーボルトがあるから差支(さしつかえ)ないけれども、日本文の書翰を颯々(さっさ)と読む人がない、というので英人から同行を頼まれた。清水は平生勇気もあり随分そんなことの好きな人で、それは面白い行ってみようと容易(たやす)く承諾し、横浜税関の免状を申し受けて旗艦に乗り込み、先方に着して親しく戦争をも見物したその縁があるので、今度薩州の人が江戸に来て英人との談判につき、黒幕の大久保一蔵は取り敢えず清水卯三郎を頼み、兎に角にこの戦争をしばらく延引して貰いたいということを、在横浜の英公使ジョン・ニールに掛け合うことにした。ソコで清水は大久保の依託を受けて横浜の英公使館に出掛けてその話を申し込んだところが、取り次ぎの者の言うに、かかる重大事件を談ずるに商人などでは不都合なり、モット大きな人が来たら宜かろうというから、清水はこれを押し返し、人に大小軽重はない、談判の委任を受けていれば沢山だ、それでも拙者と話は出来ないかと少しく理窟を言ったところが、そういう訳けなら直ぐに会うというので、それから公使に面会して戦争中止のことを話し掛けると、なか/\聞きそうにもしない。イヤもうすでにインド洋から軍艦を増発して何千の兵士はただいま支度最中、然るにこの戦争の時期を延ばして待つなどとは謂れのない話だ云々と、思うさま威嚇して聞きそうな顔色がない。ソコで清水はその挨拶を承って薩人に報告すると、重野が、迚もこりゃ六かしそうだ、兎に角に自分たちが自ら談判してみようと言って、ついに陵英談判会を開き、種々様々問答の末、とう/\要求通りの償金を払うことになり、高は二万五千ポンド、時の相場にしておよそ七万両ぐらいに当り、その七万両の金は内実幕府から借用して、そうして島津薩摩守の名義では払われないというので、分家の島津淡路守の名をもって金を渡すことにして、且つまたリチャルドソンを殺した罪人は何分にもどこにか逃げてわからないから、もしわかったらば死刑ということでもって事が収まった。その談判の席には大久保一蔵は出ない。岩下と重野の両人、それから幕府の外国方から鵜飼弥一、監察方から斎藤謹吾という人が立ち会い、いよ/\書面を取り換わして事のすっかり収まったのが、文久三年の十一月の朔月(ついたち)か二日ごろであった。

松木、五代、埼玉郡に潜む

 さてそれから私の気になる松木、すなわち寺島の話はこういう次第である。松木、五代が薩摩の船から英の軍艦に乗り移ったところが、清水が居たので松木も篤いた。清水という男は、以前江戸にて英書の不審を松木に聞いていたこともある至極懇意な間柄で、その清水が英の軍艦に居るから松木の驚くも無理はない。「イヤ如何してここに居るか」「お前さんは如何してまたここへ来た」というような訳けで、大変好都合であった。ソコで横浜に来たけれども、このままに何時までもこの船の中に居られるものでない。マア如何かして上陸したい、というそのことについては清水卯三郎が一切引き受ける。それは松木と五代は極々日蔭者(ひかげもの)」で、青天白日の身というのは清水一人、そこで清水がまず横浜に上がって、それからアメリカ人のヴェンリートという人にその話をしたところが、如何でも周旋しよう、兎に角に艀船(はしけぶね)に乗って神奈川の方に上がる趣向にしよう、その船も何も世話をしてやろうということになった。ところでアドミラルが如何言うか、ソレに聞いてみなければならぬので、アドミラルにそのことを話すと、至極寛大で、上陸差支(さしつかえ)なしと言うので、ソレカラ一切万事、清水とヴェソリートと諜合(しめし)わせて、落人(おちうど)両人の者は夜分ひそかにその艀船に乗り移り、神奈川以東の海岸から上がる積りに用意したところが、その時には横浜から江戸に来る街道一町か二町目ごとに今の巡査交番所みたようなものがずっと建っていて、一人でも怪しいものは通行を咎めるということになっているから、なか/\大小などを挟して行かれるものでない。ソコで大小も陣笠も一切の物はヴェンリートの家に預けて、丸で船頭か百姓のような風をして、小舟に乗り込み、舟は段々東に下って、とう/\羽根田の浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に這入るとしたところで、マダ幕府の探偵が甚だ恐ろしい。ただの宿屋には泊られないから、江戸に這入ったらば、堀留の鈴木という船宿に、清水が先へ行って待っているからそこへ来いという約束がしてある。ソコで両人は夜中勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り/\に江戸の方に向かって足を進める中に夜が明けでしまい、コリャ大変とそれから駕籠に乗って顔を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。清水は昨夜から待っているので万事の都合宜しく、その船宿に二晩ひそかに泊つて、それから清水の故郷武州埼玉郡羽生村(はにゅうむら)まで二人を連れて来て、そこも何だか気味が悪いというので、またその清水の親類で奈良村に吉田市右衛門という人がある、その別荘に移して、ここは極淋しい所で、見つかるような気遣いはないと安心して、二人とも収め込んでしまい、五代はその後五、六カ月してひそかに長崎の方に行き、松木はおよそ一年ばかりもそこに居る中に、本藩の方でも松木のことを心頭に掛けてその所在を探索し、大久保、岩下、重野をはじめとして、江戸の薩州屋敷には肥後七左衛門、南部弥八郎などいう人が様々周綻の末、これは清水卯三郎が知っていはしないかと思い付いて、清水の所に尋ねに来た。ところが清水はドウも怖くて言われない、不意と捕まえられて首を斬られるのではなかろうかと思って、真実が吐かれない。一応はただ知らぬと答えたれども、薩摩の方ではなか/\疑っている様子。そうかと思うと、時としては幕府の方からも清水の家に尋ねに来る。ソコで清水も当惑して、如何しようとも考えが付かない。殺さないなら早く出してやりたいが、殺すようなことなら今まで助けておいたものだから出したくないと、自分の思案に余って、それから江戸の洋学の大家川本幸民先生は松木の恩師であるから、この大先生の意見に任せようと思って相談に行ったところが、先生の説に「ソリャ出すが宣かろう、薩藩人がそう言うなら有りのままに明かして渡してやるが宜かろう、マサカ殺しもしなかろう」と言うので、ソコで初めて決断して、清水の方から薩人に通知して、実は初めから何もかも自分が世話をしたことで一切知っている、早速お引き渡し申すが、ただ約束は決して本人を殺さぬようにと念を押して、ソコデ松木が初めて薩人に面会して、この時から松木弘安を改めて寺島陶蔵と化けたのです。右の一条は薩州の方でも甚だ秘密にして、事実を知っている者は藩中にただ七人しかないと清水が聞いたそうだが、その七人とは多分大久保、岩下なぞでしょう

初めて松木に逢う

 その時は既に文久四年となり、四年の何月かドウモ覚えない寒い時ではなかった、夏か秋だと思いますが、ある日肥後七左衛門が不意と私方に来て、「松木居るが、お前の所に来ても差支はないか」と言う。私は実に驚いた。「去年からモウ気になっていて、箕作と会いさえすればその噂をしていたが、生きていたか」「確かに生きている」「何処に居るか」「江戸に居る、兎に角に此家(ここ)に来て宣いか」「宣いとも、大宣(おおよ)しだ。何も憚ることはない、少しも構わない、直ぐに会いたい」と言うと、その翌日松木が出て来た。誠に冥土の人に遭ったような気がして、ソレカラいろ/\な話し聞いて、清水と一緒になったということもわかれば何もかもわかってしまった。そのとき私は新銭座に居ましたが、マア久しぶりで飲食を共にして、どこに居るかと聞けば、白金台町に曹某(そうなにがし)という医者がある、その家は寺島の内君の里なので、その縁で曹の家に潜んでいると言う。その日はまずそのままわかれて、それから私は直ぐに箕作の所に事の次第を言って遣って、箕作も直ぐその翌日出て来て、両人同道して白金の曹の家に行き、三友団座、昼から晩までいろ/\なことを話すその中に、例の鹿児島戦争の話などもあって、その戦争のことについてはマダ/\いろ/\面白いことがあるけれども、長くなるから此処でこれを略し、さて寺島の身の上は如何だと言うに、薩摩の方は大抵これで宜しいが、マダ幕府の意向がわからない、けれどもこれとても別段に幕府の罪人でもないから、そう恐れることもない訳け。ソコで寺島は何をして食っているかと聞けば、今は本藩の翻訳などしていると言う。それこれの話の中に寺島が言うには「モウ/\鉄砲は嫌だ/\、今でも乃公(おれ)は鉄砲の音がドーソと鳴ると頭の中がズーンとして来る、モウ嫌だぜ/\、乃公は思い出しても身がブル/\ッとする、それからまたその船の火薬庫に導火(みちび)をつけるときは随分気味の悪い話しだった、だが命拾いをしたその時、懐中に金が二十五両あったからその金を持って持って上陸した」と言う。いろ/\の話の中に、英人が薩摩湾に碇泊中果物が欲しいと言うと、薩摩人がこれを進上する風をして、その機に乗じて斬り込もうとして出来なかったかったというような、種々様々な話がありますが、それはマアやめにして錨の話。

夢中で錨を還す

 その錨を切ったということは、清水卯三郎が船に乗って見ていたばかりで薩摩の人は多分知らない。ソレカラ清水が薩摩の人に会って、あの時に英艦の方では錨を切ったのだから拾い挙げておいたら宜かろうと言ったところが、薩摩でも余り気に留めなか

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入力  シャンメン
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
2000/01/03/掲載途中
NO.005
底本 『福翁自伝』岩波文庫/1984/岩波書店
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。