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福翁自伝
福沢諭吉 

幼少の時

 福沢諭吉の父は豊前中津奥平藩の士族福沢百助、母は同藩士族橋本浜右衛門の長女、名を於順と申し、父の身分はヤット藩主に定式の謁見が出来るというのですから、足軽よりは数等宣しいけれども、士族中の下級、今日でいえばまず判任官の家でしょう。藩でいう元締役を勤めて、大阪にある中津藩の蔵屋敷に長く勤番していました。それゆえ家内残らず大阪に引っ越していて、私共は皆大阪で生まれたのです。兄弟五人、総領の兄の次に女の子が三人、私は末子。私の生まれたのは天保五年十二月十二日、父四十三歳、母三十一歳の時の誕生です。ソレカラ天保七年六月、父が不幸にして病死。跡に遺る母一人に子供五人、兄は十一歳、私は数え年で三つ。斯くなれば大阪にも居られず、兄弟残らず母に連れられて藩地の中津に帰りました。

兄弟五人 中津の風に合わず

 さて中津に帰ってから私の覚えていることを申せば、私共の兄弟五人はドウシテも中津人と一緒に混和することが出来ない、その出来ないというのは深い由縁も何もないが、従兄弟が沢山ある、父方の従兄弟もあれば母方の従兄弟もある。マア何十人という従兄弟がある。また近所の子供も幾許もある、あるけれどもその者らとゴチャックチャになることは出来ぬ。第一言葉が可笑しい。私の兄弟は皆大阪言葉で、中津の人が「そうじゃちこ」と言うところを、私共は「そうでおます」なんと言うような訳で、お互いに可笑しいからまず話が少ない。それからまた母はもと中津生まれであるが、長く大阪に居たから大阪の風に慣れて、子供の髪の塩梅式、着物の塩梅式、一切大阪風の着物より外にない。有合の着物を着せるから、自然、中津の風とは違わなければならぬ。着物が違い言葉が違うという外には何も原因はないが、子供のことだから何だか人中に出るのを気恥かしいように思って、自然、内に引っ込んで兄弟同士遊んでいるというような風でした。それからもう一つこれに加えると、私の父は学者であった。普通の漢学者であって、大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司る役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪らない。金銭なんぞ取り扱うよりも読書一遍の学者になっていたいという考えであるに、存じ掛けもなく算盤を執って金の数を数えなければならぬとか、藩借延期の談判をしなければならぬとかいう仕事で、今の洋学者とは大いに違って、昔の学者は銭を見るも汚れると言うていた純粋の学者が、純粋の俗事に当るという訳けであるから、不平も無理はない。ダカラ子供を育てるのも全く儒教主義で育てたものであろうと思うその一例を申せば、こういうことがある。

儒教主義の教育

 私は勿論幼少だから手習いどころの話でないが、もう十歳ばかりになる兄と七、八歳になる姉などが手習いするには、倉屋敷の中に手習いの師匠があって、其家には町家の子供も来る。そこでイロハニホヘトを教えるのは宜しいが、大阪のことだから九々の声を教える。二二が四、二三が六。これは当然の話であるが、そのことを父が聞いて「怪しからぬことを教える。幼少の子供に勘定のことを知らせるというのはもっての外だ。こういう所に子供くを遣って置かれぬ。何を教えるか知れぬ。さっそく取り返せ」と言って取り返したことがあるということは、後に母に聞きました。何でも大変喧しい人物であったことは推察が出来る。その書き遺したものなどを見れば真実正銘の漢儒で、殊に堀河の伊藤東涯先生が大信心で、誠意誠心屋漏に愧じずということばかり心掛けたものと思われるから、その遺風はおのずから私の家には存していなければならぬ。一母五子、他人を交えず世間の附合いは少なく、明けても暮れてもただ母の話を聞くばかり、父は死んでも生きているようなものです。ソコデ中津に居て、言葉が違い着物が違うと同時に、私共の兄弟は自然に一団体を成して、言わず語らずの間に高尚に構え、中津人は俗物であると思って、骨肉の従兄弟に対してさへ、心の中には何となくこれを目下に見下していて、それらの者のすることは一切咎めもせぬ、多勢に無勢、咎め立てをしようといっても及ぶ話でないと諦めていながら、心の底には丸で歯牙に掛けずに、いわば人を馬鹿にしていたようなものです。今でも覚えているが、私が少年の時から家に居て、能く饒舌りもし、飛びまわり刎ねまわりして、至極活発にてありながら、木に登ることが不得手で、水を泳ぐことが皆無出来ぬというのも、とかく同藩中の子弟と打ち解けて遊ぶことが出来ずに孤立したせいでしょう。

厳ならずして家風正し

 今申す通り私共の兄弟は、幼少のとき中津の人と言語(げんぎょ)風俗を殊にして、他人の知らぬところに随分淋しい思いをしましたが、その淋しい間にも家風は至極正しい。厳重な父があるでもないが、母子睦じく暮して兄弟喧嘩などただの一度もしたことがない、のみか、仮初にも俗な卑陋なことはしられないものだと育てられて、別段に教える者もない、母も決して喧しい六かしい人でないのに、自然にそうなったのは、矢張り父の遺風と母の感化力でしょう。その事実に現れたことを申せば、鳴物などの一条で、三味線とか何とかいうものを、聞こうとも思わなければ何とも思わぬ。かようなものは、全体私なんぞの聞くべきものでない、いわんや玩ぶべきものでないという考えを持っているから、ついぞ芝居見物など念頭に浮かんだこともない。たとえば、夏になると中津に芝居がある。祭の時には七日も芝居を興行して、田舎役者が芸をするその時には、藩から布令が出る。芝居は何日の間あるが、藩士たるものは決して立ち寄ること相成らぬ、住吉の社の石垣より以外に行くことはならぬというその布令の文面は、甚だ厳重なようにあるが、ただ一片の御布令だけのことであるから、俗士族は脇差を一本挟して頬冠りをして颯々と芝居の矢来を破って這入る。もしそれを咎めれば却って叱り飛ばすというから、誰も怖がって咎める者はない。町の者は金を払って行くに、士族は忍姿で却って威張って只這入って見る。しかるに中以下俗士族の多い中で、その芝居に行かぬのは凡そ私のところ一軒ぐらいでしょう。決して行かない。ここから先は行くことはならぬと言えば、一足でも行かぬ、どんなことがあっても。私の母は女ながらもついぞ一口でも芝居のことを子供に言わず、兄もまた行こうと言わず、家内中一寸でも話がない。夏、暑い時のことであるから涼みには行く。しかしその近くで芝居をしているからといって、見ようともしない、どんな芝居をやっているとも噂にもしない、平気でいるというような家風でした。
 前申す通り、亡父は俗吏を勤めるのが不本意であったに違いない。されば中津を蹴飛ばしてして外に出れば宣い。ところが決してソンナ気はなかった様子だ。如何なる事にも不平を呑んで、チャント小禄に安んじていたのは、時勢のために進退不自由なりし故でしょう。私は今でも独り気の毒で残念に思います。

成長の上坊主にする

 たとえば、父の生前にこういうことがある。今から推察すれば父の胸算に、福沢の家は総領に相続させる積りで宜しい、ところが子供の五人目に私が生まれた、その生まれた時は大きな瘠せた骨太な子で、産婆の申すに「この子は乳さえ沢山のませれば必ず見事に育つ」と言うのを聞いて、父が大層喜んで「これは好い子だ、この子がだんだん成長して十か十一になれば寺に遣って坊主にする」と、毎度母に語ったそうです。そのことを母がまた私に話して「アノとき阿父さんは何故坊主にすると仰ッしゃったか合点が行かぬが、今御存命なればお前は寺の坊様になっている筈じゃ」と、何かの話の端には母がそう申していましたが、私が成年の後その父の言葉を推察するに、中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年経っても一寸とも動かぬという有様、家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まっている者も同様、何年経っても一寸とも変化というものがない。ソコデ私の父の身になって考えてみれば、到底どんなことしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主というものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったというような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると言ったのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう。

門閥制度は親の敵

 こんなことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。また初生児の行末を謀り、これを坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深き、私は毎度このことを思い出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私のために門閥制度は親の敵で御座る。
 私は坊主にならなかった。坊主にならずに家に居たのであるから学問をすべき筈である。ところが誰も世話の為人がない。私の兄だからとといって兄弟の長少僅か十一しか違わぬので、その間はみな女の子、母もまたたった一人で、下女下男を置くということの出来る家ではなし、母が一人で飯を焚いたりお菜をこしらえたりして五人の子供の世話をしなければならぬから、なかなか教育の世話などは存じ掛けもない。いわばヤリ放しである。藩の風で幼少の時から論語を読むとか大学を読むくらいのことは遣らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もいない。殊に誰だって本を読むことの好きな子供はいない。私一人本が嫌いということもなかろう、天下の子供みな嫌いだろう。私は甚だ嫌いであったから、休んでばかりいて何もしない。手習いもしなければ本も読まない。

年十四五歳にして初めて読書に志す

 根ッから何にもせずにいたところが、十四か十五になってみると、近所に知っている者はみな本を読んでいるのに、自分独り読まぬというのは外聞が悪いとか恥かしいとか思ったのでしょう。それから自分で本当に読む気になって、田舎の塾へ行き始めました。どうも十四、五になって初めて学ぶのだから甚だきまりが悪い。外の者は詩経を読むの書経を読むのというのに、私は孟子の素読をするという次第である。ところがここに奇なことは、その熟で蒙求とか孟子とか論語とかの会読講義をするということになると、私は天稟、少し文才があったのか知らん、よくその意味を解して、朝の素読に教えてくれた人と、昼からになって蒙求などの会読をすれば、必ず私がその先生に勝つ。先生は文字を読むばかりでその意味は受け取りの悪い書生だから、これを相手に会読の勝敗なら訳けはない。その中、塾も二度か三度更えたことがあるが、最も多く漢書を習ったのは、白石(しらいし)という先生である。そこに四、五年ばかり通学して漢書を学び、その意味を解すことは何の苦労もなく存外早く上達しました。

左伝通読十一遍

 白石の塾にいて漢書は如何なるものを読んだかと申すと、経書を専らにして論語孟子は勿論、すべての経義の研究を勉め、殊に先生が好きと見えて詩経に書経というものは本当に講義をして貰って善く読みました。ソレカラ、蒙求、世説、左伝、戦国策、老子、荘子というようなものも能く講義を聞き、その先は私独りの勉強、歴史は史記を始め、前後漢書、晋書、五代史、元明史略 というようなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は左伝十五巻の内三、四巻でしまうのを、私は全部通読、およそ十一度び読み返して、面白いところは暗記していた。それで一ト通り漢学者の前座ぐらいになっていたが、一体の学流は亀井風で、私の先生は亀井が大信心で、余り詩を作ることなどは教えずに寧ろ冷笑していた。広瀬淡窓などのことは、彼奴は発句師、俳諧師で、詩の題さえ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない奴だと言って居られました。先生がそう言えば門弟子もまたそういう気になるのが不思議だ。淡窓ばかりでない、頼山陽なども甚だ信じない、誠に目下に見下していて、「何だ粗末な文章、山陽などの書いたものが文章といわれるなら、誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。仮令い舌足らずで屹ったところが意味は通ずるというようなものだ」なんて大層な剣幕で、先生からそう教え込まれたから、私共も山陽外史のことば軽く見ていました。白石先生ばかりでない。私の父がまたその通りで、父が大阪に居るとき山陽先生は京都に居り、是非交際しなければならぬ筈であるに一寸とも付き合わぬ。野田笛浦という人が父の親友で、野田先生はどんな人は知らない、けれども山陽を疎外して笛浦を親しむといえば、笛浦先生は浮気でない学者というような意味でしたか、筑前の亀井先生なども朱子学を取らずに経義に一説を立てたというから、その流を汲む人々は何だか山陽流を面白く思わぬのでしょう。

手端器用なり

 以上は学問の話ですが、なおこの外に申せば、私は旧藩士族の子供に較べてみると手の先の器用な奴で、物の工夫をするようなことが得意でした。たとえば井戸に物が墜ちたといえば、如何いう塩梅にしてこれを揚げるとか、箪笥の錠が明かぬといえば、釘の尖などを色々に曲げて遂に見事にこれを明けるとかいう工夫をして面白がっている。また障子を張ることも器用で、自家の障子は勿論、親類へ雇われて張りに行くこともある。兎に角に何をするにも手先が器用でマメだから、自分にも面白かったのでしょう。ソレカラだんだん年を取るに従って仕事も多くなって、固より貧士族のことであるから、自分で色々工夫して、下駄の鼻緒もたてれば雪駄の剥れたのも縫うということは私の引受けで、自分のばかりでない、母のものも兄弟のものも繕うてやる。或いは畳針を買って来て畳の表を附け替え、また或いは竹を割って桶の箍を入れるようなことから、そのほか戸の破れ屋根の漏りを繕うまで、当前の仕事で、みな私が一人でしていました。ソレカラ進んで本当の内職を始めて、下駄を拵えたこともあれば、刀剣の細工をしたこともある。刀の身を磨ぐことは知らぬが、鞘を塗り柄を巻き、そのほか金物の細工は田舎ながらドウヤラコウヤラ形だけは出来る。今でも私の塗った虫食い塗りの脇差の鞘が宅に一本あるが、随分不器用なものです。すべてコンナ事は近所に内職をする士族があって、その人に習いました。

鋸鑢に驚く

 金物細工をするに鑢は第一の道具で、これも手製に作って、その制作には随分苦心していたところが、その後、年経て私が江戸に来てまず大いに驚いたことがある、と申すは、ただの鑢は鋼鉄をこうしてこうやれば私の手にもオシオシ出来るが、鋸鑢ばかりは六かしい。ソコデ江戸に這入ったとき、今思えば芝の田町、所も覚えている、江戸に這入って往来の右側の家で、小僧が鋸の鑢の目を叩いている。皮を鑢の下に敷いて鏨で刻んで颯々(さっさ)と出来る様子だから、私は立ち留ってこれを見て、心の中で「さてさて大都会なる哉、途方もないことが出来るもの哉、自分らは夢にも思わぬ、鋸の鑢を拵えようということは全く考えたこともない、然るに子供がアノ通りやっているとは、途方もない工芸の進んだ場所だ」と思って、江戸に這入ったその日に感心したことがあるというような訳けで、少年の時から読書の外は俗なことばかりして俗なことばかり考えていて、年を取っても兎角手先の細工事が面白くて、動もすれば鉋だの鑿だの買い集めて、何か作ってみよう、繕うてみようと思うその物はみな俗な物ばかり、いわゆる美術という思想は少しもない。平生万事至極殺風景で、衣服住居などに一切頓着せず、如何いう家に居てもドンナ着物を着ても何とも思わぬ。着物の上着か下着かソレモ構わぬ。まして流行の縞模様など考えてみたこともない程の無風流なれども、何か私に得意があるかと言えば、刀剣の拵えとなれば、これは善く出来たとか、小道具の作柄釣合が如何とかいう考えはある。これは田舎ながら手に少し覚えのある芸から自然に養うた意匠でしょう。

青天白日に徳利

 それから私が世間に無頓着ということは、少年から持って生まれた性質、周囲の事情に一寸とも感じない。藩の小士族などは、酒、油、醤油、などを買うときは、自分自ら町に使いに行かねばならぬ。ところがそのころの士族一般の風として、頬冠をして宵出掛けて行く。私は頬冠は大嫌いだ。生まれてからしたことはない。物を買うのに何だ、銭をやって買うに少しも構うことはないという気で、顔も頭も丸出しで、士族だから大小は挟すが、徳利を提げて、夜はさておき白昼公然、町の店に行く。銭は家の銭だ、盗んだ銭じゃないぞというような気位で、却って藩中者の頬冠をして見栄をするのを可笑しく思ったのは少年の血気、自分独り己惚ていたのでしょう。ソレカラまた家に客を招く時に、大根や牛蒡を煮て食わせるということについて、必要があるから母の指図に従って働いていた。ところで私は、客などがウジャウジャ酒を飲むのは大嫌い。俗な奴等だ、呑むなら早く呑んで帰ってしまえば宣いと思うのに、なかなか帰らぬ。家は狭くて居所もない。仕方ないから客の呑んでる間は、私は押し入れの中に這入って寝ている。何時でも客をする時には、客の来るまでは働く、けれども夕方になると、自分も酒が好きだから颯々と酒を呑んで飯を食って押入れに這入ってしまい、客が帰ったあとで押入れから出て、何時も寝る所に寝直すのが常例でした。
 それから、私の兄は年を取っていて色々の朋友がある。時勢論などをしていたのを聞いたこともある、けれども私は、それについて嘴を容れるような地位でない。ただ追い使われるばかり。そのとき中津の人気は如何かといえば、学者は挙って水戸の御隠居様、即ち烈公のことと、越前の春嶽様の話が多い。学者は水戸の老公と言い、俗では水戸の御隠居様と言う。御三家のことだから譜代大名の家来は大変に崇めて、仮初にも隠居などと呼び捨てにする者は一人もいない。水戸の御隠居様、水戸の老公と尊称して、天下一の人物のように話して居ったから、私も左様思っていました。ソレカラ江川太郎左衛門も幕府の旗本だから、江川様と蔭でも屹と様付にして、これもなかなか評判が高い。あるとき兄などの話に、江川太郎左衛門という人は近世の英雄で、寒中袷一枚着ているというような話をしているのを、私が側から一寸と聞いて、なにそのくらいのことは誰でも出来るというような気になって、ソレカラ私は誰にも相談せずに、毎晩掻巻一枚着で敷布団も敷かず畳の上に寝ることを始めた。スルト母はこれを見て「何の真似か、ソンナことをする風邪を引く」と言って、頻りに止めるけれども、トウトウ聴かずに一冬通したことがあるが、これも十五、六歳のころ、ただ人に負けぬ気でやったので、身体も丈夫であったとおもわれる。
 また当時世間一般のことであるが、学問といえば漢学ばかり、私の兄も勿論漢学一方の人で、ただ他の学者と違うのは、豊後の帆足万里先生の流を汲んで、数学を学んでいました。帆足先生といえばなかなか大儒でありながら数学を悦び、先生の説に「鉄砲と算盤は士流の重んずべきものである、その算盤を小役人に任せ、鉄砲を足軽に任せて置くというのは大間違い」というその説が中津に流行して、士族中の有志者は数学に心を寄せる人が多い。兄も矢張り先輩に倣うて、算盤の高尚なところまで進んだ様子です。この辺は世間の儒者と少し違うようだが、その他はいわゆる孝悌忠信で、純粋の漢学者に相違ない。

兄弟問答

 あるとき兄が私に問いを掛けて「お前はこれから先、何になる積りか」と言うから、私が答えて「左様さ、まず日本一の大金持になって思うざま金を使うてみようと思います」と言うと、兄が苦い顔して叱ったから、私が反問して「兄さんは如何なさる」と尋ねると、真面目に「死に至るまで孝悌忠信」とただ一言で、私は「ヘーイ」と言ったきりそのままになったことがあるが、まず兄はソンナ人物で、また妙なところもある。あるとき私に向かって「乃公(おれ)は総領で家督をしているが、如何かして六かしい家の養子になってみたい。何とも言われない頑固な、ゴク喧しい養父母に事(つか)えてみたい。決して風波を起させない」と言うのは、畢竟養父母と養子との間柄の悪いのは養子の方の不行届だと説を極めてたのでしょう。ところが私は正反対で「養子は忌なことだ、大嫌いだ。親でもない人を誰が親にして事える者があるか」というような調子で、折々は互いに説が違っていました。これは私の十六、七のころと思います。
  母もまた随分妙なことを悦んで、世間並みには少し変わっていたようです。一体、下等社会の者に付き合うことが数寄で、出入りの百姓町人は勿論、えたでも乞食でも颯々と近づけて、軽蔑もしなければ忌がりもせず、言葉など至極丁寧でした。また宗教について、近所の老婦人たちのように普通の信心はないように見える。例えば家は真宗でありながら、説法も聞かず「私は寺に参詣して阿弥陀様を拝むことばかりは、可笑しくてキマリが悪くて出来ぬ」と常に私共に言いながら、毎月、米を袋に入れて寺に持って行って墓参りは欠かしたことはない(その袋は今でも大事に保存してある)。阿弥陀様は拝まぬが坊主には懇意が多い。檀那寺の和尚は勿論、また私が漢学塾に修行して、その塾中に諸国諸宗の書生坊主がいて、毎度私所に遊びに来れば、母は悦んでこれを取持って馳走でもするというような風で、コンナ所を見れば、ただ仏法が嫌いでもなうようです。とにかくに、慈善心はあったに違いない。

乞食の虱をとる

 ここに誠に汚い奇談があるから話しましょう。中津に一人の女乞食があって、馬鹿のような狂者のような至極の難渋者で、自分の名か、人の付けたのか、チエ、チエといって、毎日市中を貰ってまわる。ところが此奴が汚いとも臭いとも言いようのない女で、着物はボロボロ、髪はボウボウ、その髪に虱がウヤウヤしているのが見える。スルト母が毎度のことで天気の好い日などには、「おチエ此方に這入って来い」と言って、表の庭に呼び込んで土間の草の上に座らせて、自分は襷掛けに身構えをして乞食の虱狩を始めて、私は加勢に呼び出される。拾うように取れる虱を取っては庭石の上に置き、マサカ爪で潰すことは出来ぬから、私を側に置いて、「この石の上のを石で潰せ」と申して、私は小さい手ごろな石をもって構えている。母が一匹取って台石の上に置くと、私はコツリと打潰すという役目で、五十も百も、まずその時に取れるだけ取ってしまい、ソレカラ母も私も着物を払うて糠で手を洗うて、乞食には虱を取らせてくれた褒美に飯を遣るという極りで、これは母の楽しみでしたろうが、私は汚くて汚くて堪らぬ。今思い出しても胸が悪いようです。

反故を踏みお札を踏む

 また私の十二、三歳のころと思う。兄が何か反故を揃えているところを、私がドタバタ踏んで通ったところが、兄が大喝一声、コリャ待てと酷く叱り付けて「お前は眼が見えぬか、これを見なさい、何と書いてある、奥平大膳大夫と御名があるではないか」と大層な剣幕だから「アア左様でございましたか、私は知らなんだ」と言うと「知らんと言っても眼があれば見えるはずじゃ、御名を足で踏むとは如何いう心得である、臣士の道は」と、何か六かしい事を並べて厳しく叱るから謝らずにはいられぬ。「私が悪うございましたから堪忍して下さい」と御辞儀をして謝ったけれども、心の中では謝りも何もせぬ。「何のことだろう、殿様の頭でも踏みはしなかろう、名の書いてある紙を踏んだからッて構うことはなさそうなものだ」と甚だ不平で、ソレカラ子供心に独り思案して、兄さんのいうように殿様の名の書いてある反故を踏んで悪いと言えば、神様のお名のある御札を踏んだらどうだろうと思って、人の見ぬ所で御札を踏んでみたところが何ともない。「ウム何ともない、コリャ面白い、今度はこれを洗手場に持って行って遣ろう」と、一歩を進めて便所に試みて、その時はどうかあろうかと少し怖かったが、後で何ともない。「ソリャ見たことか、兄さんが余計な、あんなことを言わんでも宜いのじゃ」と独り発明したようなものだが、こればかりは母にも言われず姉にも言われず、言えば屹(きつ)と叱られるから、一人で窃(そつ)と黙っていました。

稲荷様の神体を見る

 ソレカラ一つも二つも年を取れば、おのずから度胸も好くなったとみえて、年寄りなどの話にする神罰冥罰なんということは大嘘だと独り自ら信じ切って、今度は一つ稲荷様を見てやろうという野心を起して、私の養子になっていた叔父様の家の稲荷の社の中には何が這入っているか知らぬと明けて見たら、石が這入っているから、その石を打擲ってしまって代りの石を拾うて入れて置き、また隣家の下村という屋敷の稲荷様を明けて見れば、神体は何か木の札で、これも取って捨ててしまい平気な顔をしていると、間もなく初午になって幟(のぼり)を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイワイしているから、私は可笑しい。「馬鹿め、乃公の入れて置いた石にお御神酒を上げて拝んでるとは面白い」と、独り嬉しがっていたというような訳で、幼少の時から神様が怖いだの仏様が難有いだのということは一寸もない。ト筮(うらない)呪詛(まじない)一切不信仰で、狐狸が付くというようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。子供ながらも精神は誠にカラリとしたものでした。
 ある時に大阪から妙な女が来たことがあるその女というのは、私共が大阪に居る時に邸に出入りをする上荷頭(うわにがしら)の伝法寺屋松右衛門というものの娘で、年のころ三十ぐらいでもあったかと思う。その女が中津に来て、お稲荷様を使うことを知っていると吹聴するその次第は、誰にでも御弊(ごへい)を持たして置いて何か祈ると、その人に稲荷様が憑拠(とっつ)くとか何とか言って、頻りに私の家に来て法螺を吹いている。それからその時に私は十五、六の時だと思う。「ソリャ面白い、やって貰おう、乃公がその御幣を持とう、持っている御幣が動き出すというのは面白い、サアもたしてくれろ」と言うと、その女がつくづくと私を見ていて「坊さんはイケマヘン」と言うから、私は承知しない。「今誰にでもと言ったじゃないか、サアやって見せろ」と、酷くその女を弱らして面白かったことがある。

門閥の不平

 ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、始終不平でたまらぬというのは無理でない。一体、中津の藩風というものは、士族の門閥制度がチャント定まっていて、その門閥の堅いことは常に藩の公用についてのみならず、今日私の交際上、子供の交際に至るまで、貴賎上下の区別を成して、上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向かっては丸で言葉が違う。私などが上士族に対して「アナタがどうなすって、こうなすって」と言えば、先方では「貴様がそう為(し)やって、こう為やれ」と言うような風で、万事その通りで、何でもないただ子供の戯れ遊びにも門閥が付いてまわるから、どうしても不平がなくてはいられない。その癖今の貴様とか何とかいう上下士族の子弟と学校に行って、読書会読というようなことになれば、何時でも此方が勝つ。学問ばかりでない、腕力でも負けはしない。それがその交際、朋友互いに交わって遊ぶ子供遊びの間にも、ちゃんと門閥というものを持って横風至極だから、子供心に腹が立ってたまらぬ。

下執事の文字に叱られる

 況(ま)して大人同士、藩の御用を勤めている人々に貴賎の区別はなかなか喧しいことで、私が覚えているが、あるとき私の兄が家老のところに手紙をやって、少し学者風でその表書に「何々様下執事」と書いてやったら大いに叱られ、「下執事とは何のことだ、御取次衆と認(したた)めて来い」と言って、手紙を突き返して来た。私はこれを見ても側から独り立腹して泣いたことがある。馬鹿々々しい、こんなところに誰が居るものか、如何したってこれはモウ出るより外に仕様がないと、始終心の中に思っていました。ソレカラ私も次第に成長して、少年ながらも少しは世の中の事が分かるようになる中(うち)に、私の従兄弟などにも随分一人や二人は学者がある。能く書を読む男がある。固より下士族の仲間だから、兄などと話のときには藩風が善くないとか何とかいろいろ不平を漏らしているのを聞いて、私は始終ソレを止めていました。「よしなさい、馬鹿々々しい。この中津に居る限りはそんな愚論をしても役に立つものでない。不平があれば出てしまうが宜い、出なければ不平を言わぬが宜い」と、毎度止めていたことがあるが、これはマア私の生まれ付きの性質とでもいうようなものでしょう。

喜怒色に顕わさず

 あるとき私が何か漢書を読む中に、喜怒色に顕さずという一句を読んで、その時にハット思うて大いに自分で安心決定したことがある。「これはドウモ金言だ」と思い、始終忘れぬようにして独りこの教えを守り、ソコデ誰が何と言って誉めてくれても、ただ表面に程よく受けて心の中には決して悦ばぬ。また何と軽蔑されても決して怒らない。どんなことがあっても怒ったことはない。いわんや朋輩同士で喧嘩をしたということは、ただの一度もない。ツイゾ人と掴合ったの、打ったの、打たれたのということは一寸ともない。これは少年の時ばかりでない。少年の時分から老年の今日に至るまで、私の手は怒りに乗じて人の身体に触れたことはない。ところが先年二十何年前、塾の書生に何とも仕方のない放蕩者があって、私が多年衣食を授けて世話をしてやるにも拘わらず、再三再四の不埒、あるときその者が何処に何をしたか夜中酒に酔って生意気な風をして帰ってきたゆえ「貴様は今夜寝ることはならぬ、起きてチャント正座をしていろ」と申し渡して置いて、少しして行ってみればグウグウ鼾をしている。「この不埒者め」と言って、その肩のところをつらまえて引き起こして、目の醒めてるのをなおグングンゆたぶってやったことがある。そのとき、あとで独り考えて「コリャ悪いことをした、乃公は生涯、人に向かって此方から腕力を仕掛けたようなことはなかったに、今夜は気に済まぬことをした」と思って、何だか坊主が戒律でも破ったような心地がして、今に忘れることが出来ません。その癖私は少年の時から能く饒舌り、人並みよりか口数の多いほどに饒舌って、そうして何でもすることは甲斐々々しくやって、決して人に負けないけれども、書生流儀の議論ということをしない。仮令い議論すればといっても、ほんとうに顔を赧らめて如何あっても勝たなければならぬという議論をしたことはない。何か議論を始めて、ひどく相手の者が躍起となって来れば、此方はスラリと流してしまう。「彼の馬鹿が何を馬鹿言っているのだ」とこう思って、頓と深く立ち入るということは決してやらなかった。ソレでモウ自分の一身は何処に行って如何な辛苦も厭わぬ、ただこの中津に居ないで如何かして出て行きたいものだと、独りそればかり祈っていたところが、とうと長崎に行くことが出来ました。


長崎遊学

 それから長崎に出掛けた。ころは安政元年二月、即ち私の年二十一歳(正味十九歳三ヵ月)の時である。その時分には中津の藩地に横文字を読む者がないのみならず、横文字を見たものもなかった。都会の地には洋学というものは百年も前からありながら、中津は田舎のことであるから、原書はさておき、横文字を見たことがなかった。ところがそのころは丁度ペルリの来た時で、アメリカの軍艦が江戸に来たということは田舎でもみな知って、同時に砲術と言うことが大変喧しくなってきて、ソコデ砲術を学ぶ者は皆オランダ流に就いて学ぶので、そのとき私の兄が申すに「オランダの砲術を取調べるには如何しても原書を読まなければならぬ」と言うから、私にはわからぬ。「原書とは何のことです」と兄に質問すると、兄の答に「原書というのはオランダ出版の横文字の書だ。いま日本に翻訳書というものがあって、西洋のことを書いてあるけれども、真実に事を調べるにはその大本の蘭文の書を読まなければならぬ。それについては貴様はその原書を読む気はないか」と言う。ところが私は素(も)と漢書を学んでいるとき、同年輩の朋友の中では何時も出来が好くて、読書講義に苦労がなかったから、自分にも自然頼みにする気があったと思われる。「人の読むものなら横文字でも何でも読みましょう」とソコデ兄弟の相談は出来て、そのとき丁度兄が長崎に行く序に任せ、兄の供をして参りました。長崎に落付き、初めて横文字のabcというものを習うたが、今では日本国中到る所に、徳利の貼紙を見ても横文字は幾許もある。目に慣れて珍しくもないが、初めての時はなかなか六かしい。二十六文字を習うて覚えてしまうまでには三日も掛かりました。けれども段々読む中にはまた左程でもなく、次第々々に易くなって来たが、その蘭学修行のことはさておき、そもそも私の長崎に往ったのは、ただ田舎の中津の窮屈なのが忌で忌で堪らぬから、文学でも武芸でも何でも外に出ることが出来さえすれば難有いというので出掛けたことだから、故郷を去るに少しも未練はない、如斯(コンナ)所に誰が居るものか、一度出たらば鉄砲玉で、再び帰って来はしないぞ、今日こそ宣い心地だと独り心で喜び、後向いて唾して颯々と足早にかけ出したのは今でも覚えている。

活動の始まり

 それから長崎に行って、そして桶屋町の光永寺というお寺を便ったというのは、その時に私の藩の家老の倅で奥平壱岐という人はそのお寺と親類で、そこに寓居しているのを幸いに、その人を使ってマアお寺の居候になっているそのうちに、小出町に山本物次郎という長崎両組の地役人で砲術家があって、そこに奥平が砲術を学んでいるその縁をもって、奥平の世話で山本の家に食客に入り込みました。そもそもこれが、私の生来活動の始まり。有らん限りの仕事を働き、何でもしないことはない。その先生が眼が悪くて書を読むことが出来ないから、私が色々な時勢論など、漢文で書いてある諸大家の書を読んで先生に聞かせる。またその家に十八、九の倅があって独息子、余りエライ少年でない、けれども本は読まなければならぬというので、ソコデその倅に漢書を教えてやらなければならぬ。これが仕事の一つ。それから家は貧乏だけれども活計は大きい。借金もある様子で、その借金の言延し、新たに借用の申込みに行き、また金談の手紙の代筆もする。そこの家に下婢が一人に下男が一人ある。ところで、動(やや)もするとその男が病気とか何とかいう時には、男の代をして水も汲む。朝夕の掃除は勿論、先生が湯に這入る時は背中を流したり湯を取ったりしてやらなければならぬ。またその内儀さんが猫が大好き、狆(ちん)が大好き、生物が好きで、猫も狆も居るその生物一切の世話をしなければならぬ。上中下一切の仕事、私一人で引き受けてやっていたから、酷く調法な男だ、何とも言われない調法な血気の少年でありながら、その少年の行状が甚だ宜しい、甚だ宜しくて甲斐々々しく働くというので、ソコデもって段々その山本の家の気に入って、しまいには先生が養子にならないかと言う。私は前にも言う通り中津の士族で、ついぞ自分は知りはせぬが少さい時から叔父の家の養子になっているから、その事を言うと、先生が「それならなおさら乃公の家の養子になれ、如何でも乃公が世話してやるから」とたびたび言われたことがある。
 その時の一体の砲術家の有様を申せば、写本の蔵書が秘伝で、その本を貸すには相当の謝物を取って貸す。写したいと言えば、写すための謝料を取るというのが、まず山本の家の臨時収入で、その一切の砲術書を貸すにも写すにも、先生は眼が悪いからみな私の手を経る。それで私は砲術家の一切の元締になって、何もかも私が一切取り扱っている。その時分の諸藩の西洋家、例えば宇和島藩、五島藩、佐賀藩、水戸藩などの人々が来て、或いは出島のオランダ屋敷に行ってみたいとか、或いは大砲を鋳るから図をみせてくれとか、そんな世話をするのが山本家の仕事で、その実はみな私がやる。私は本来素人で、鉄砲を打つのを見たこともないが、図を引くのは訳けはない。颯々と図を引いたり、説明を書いたり、諸藩の人が来れば何に付けても独り罷り出て、丸で十年も砲術を学んで立派に砲術家と見られるくらいに挨拶したり世話をしたりするという調子である。ところで私を山本の居候に世話をして入れてくれた人、即ち奥平壱岐だ。壱岐と私とは主客ところを易えて、私が主人みたようになったから可笑しい。壱岐は元来漢学者の才子で局量が狭い。小藩でも大家の子だから如何も我儘だ。もう一つは私の目的は原書を読むに在って、蘭学医の家に通うたり和蘭通詞の家に行ったりして一意専心原書を学ぶ。原書というものは初めて見たのであるが、五十日百日と、おいおい日を経るに従って、次第に意味が分るようになる。ところが奥平壱岐はお坊さん、貴公子だから、緻密な原書など読める訳けはない。その中に此方は余程エラクなったのが主公と不和の始まり。全体奥平という人は決して深い巧らみのある悪人ではない。ただ大家の我儘なお坊さんで智慧がない。その時に旨く私を籠絡して生捕ってしまえば譜代の家来同様に使えるのに、却ってヤッカミ出したとは馬鹿らしい。歳は私より十ばかり上だが、何分気分が子供らしくて、ソコデ私を中津に還すような計略を運らしたのが、私の身には一大災難。

長崎に居ること難し

 ソリャこういう次第になって来た。その奥平壱岐という人に与兵衛という実父の隠居があって、私共はこれを御隠居様と崇めていた。ソコデ私の父は二十年前に死んでいるのですけれども、私の兄が成長の後に父のするような事をして、また大阪に行って勤番をしていて、中津には母一人で何もない。姉は皆嫁(かたづ)いていて、身寄りの若い者の中には私の従兄の藤本元岱という医者がただ一人、よく事がわかり書もよく読める学者であるが、そこで中津に在る彼の御隠居様が無法なことをしたというは、何れ長崎の倅壱岐の方から打合せのあったものと見えて、その隠居が従兄の藤本を呼びに来て、隠居の申すに「諭吉を呼び還せ、アレが居ては倅壱岐の妨げになるから早々呼び還せ、ただしソレについては母が病気だと申し遣わせ」という御直の厳命が下ったから、固より否むことは出来ず、ただ「畏りました」と答えて、母にもそのよしを話して、ソレカラ従兄が私に手紙を寄送して、母の病気につき早々帰省致せという表向きの手紙と、また別紙に、実は隠居からこうこういう次第、余儀なく手紙を出したが、決して母の身を案じるなと詳らかに事実を書いてくれたから、私はこれを見て実に腹が立った。何だ、鄙劣(ひれつ)千万な、計略を運らして母の病気とまで偽を言わせる、ソンナ奴があるものか、モウ焼けだ、大議論をしてやろうかと思ったが、イヤイヤ左様でない、今アノ家老と喧嘩をしたところが、負けるに極っている、戦わずして勝負は見えてる、一切喧嘩はしない、アンナ奴と喧嘩をするよりも自分の身の始末が大事だと思い直して、それからシラバクレテ胆を潰した風をして奥平の所に行って「さて中津から箇様(かよう)申して参りまして、母が俄に病気になりました、平生至極丈夫な方でしたが、実に分らぬものです、今ごろは如何いう容体でしょうか、遠国に居て気になります」なんて、心配そうな顔をしてグチャグチャ述べ立てると、奥平も大いに驚いた顔色を作り「左様か、ソリャ気の毒なことじゃ、さぞ心配であろう、とにかくに早く帰国するが宣かろう、しかし母の病気全快の上はまた再遊の出来るようにしてやるから」と、慰めるように言うのは、狂言が旨く行われたと心中得意になっているに違いない。ソレカラまた私は言葉を続けて「ただいま御指図の通り早々帰国しますが、御隠居様に御伝言はございませんか、何れ帰れば御目に掛ります、また何か御品があれば何でも持って帰ります」と言って、一トまず別れて翌朝また行ってみると、主公が家にやる手紙を出して、これを屋敷に届けてくれ、親仁(おやじ)にこうこう伝言をしてくれと言い、また別に私の母の従弟の大橋六助という男にやる手紙を渡して「これを六助の所に持っていけ、そうすると貴様の再遊に都合が宣かろう」と言って、故意(わざ)とその手紙に封をせずに明けて見よがしにしてあるから、何もかも委細承知して丁寧に告別して、宿に帰って封なしの手紙を開いて見れば「諭吉は母の病気につき是非帰国と言うからその意に任せて還すが、修行勉強中のことゆえ再遊のできるようその方にて取り計らえ」という文句。私はこれを見てますます癪に障る。「この猿松め、馬鹿野郎め」と独り心の中で罵り、ソレカラ山本の家にも事実は言われぬ、もしこれが顕われて奥平の不面目にもなれば、禍いは却って私の身に降って来て如何な目に逢うか知れない、ソレガ恐いから、ただ母の病気とばかり言って暇乞いをしました。

江戸行きを志す

 丁度そのとき、中津から鉄屋(くろがねや)惣兵衛という商人が長崎に来ていて、幸いその男が中津に帰るというから、ともかくもこれと同伴と約束をして置いて、ソコデ私の胸中は固より中津に帰る気はない。何でも人間の行くべき所は江戸に限る、これから真直に江戸に行きましょうと決心はしたが、この事については誰かに話して相談をせねばならぬ。ところが江戸から来た岡部同直という蘭学書生がある。これは医者の子で至極面白い慥かな人物と見込んだから、この男に委細の内情を打ち明けて「こうこういう次第で僕は長崎に居られぬ、余り癪に障るからこのまま江戸に飛び出す積りだが、実は江戸に知る人はなし、方角が分らぬ。君の家は江戸ではないか、大人(オトッサン)は開業医と聞いたが、君の家に食客に置いてくれることは出来まいか。僕は医者でないが丸薬を丸めるくらいのことは屹とできるから、何卒世話をして貰いたい」と言うと、岡部も私の身の有様を気の毒に思うたか、私と一緒になって腹を立てて容易く私の言うことを請け合い「ソレは出来よう、何でも江戸に行け。僕の親仁は日本橋檜物町に開業しているから、手紙を書いてやろう」と言って、親仁名当の一封をくれたから私は喜んでこれを請け取り、「ソコデも今このことが知れると大変だ、中津にかえらなければならぬようになるから、こればかりは奥平にも山本にも一切誰にも言わずに、君一人で呑み込んでいて外に洩らさぬようにして、僕はこれから下ノ関に出て船に乗ってまず大阪に行く、およそ十日か十五日も掛かれば着くだろう。その時を見計ろうて、中村(諭吉当時は中村の姓を冒す)は初めから中津に帰る気はなかった、江戸に行くと言って長崎を出た、と奥平にも話してくれ。これも聊か面当てだ」と互いに笑って、朋友と内々の打合せは出来た。
 それから奥平の伝言や何かをすっかり手紙に認めてしまい、これは例の御隠居様に遣らなければならぬ。「私は長崎を出立して中津に帰る所存で諌早まで参りましたところが、その途中で不図江戸に行きたくなりましたから、これから江戸に参ります。ついては壱岐様から斯様々々の御伝言で、お手紙はこれですからお届け申す」と丁寧に認めてやって、ソレカラ封をせずに渡した即ち大橋六助に宛てた手紙を本人に届けるために、私が手紙を書き添えて「この通りに封をせぬのは可笑しい、こんな馬鹿なことはないがこのままお届け申します。原(もと)はと言えば自分の方で呼び還すように企てて置きながら、表(うわ)べに人を欺くというのは卑劣至極な奴だ。私はもう中津に帰らずに江戸に行くからこの手紙を御覧下さい」というような塩梅に認めて、万事の用意は出来て、鉄屋惣兵衛と一緒に長崎を出立して諫早まで――この間は七里ある――来た。

諫早にて鉄屋と別る

 丁度夕方着いたが、何でも三月の中旬、月の明るい晩であった。「さて鉄屋、乃公は長崎を出る時は中津に帰る所存であったが、これから中津に帰るは忌(いや)になった。貴様の荷物と一緒に、乃公のこの蔦籠も序に持って帰ってくれ。乃公はもう着換が一、二枚あれば沢山だ。これから下ノ関に出て、大阪へ行って、それから江戸に行くのだ」と言うと惣兵衛殿は呆れてしまい「それは途方もない、お前さんのような年の若い旅慣れぬお坊さんが一人で行くというのは」「馬鹿言うな、口があれば京に上る、長崎から江戸に一人行くのに何のことがあるか」「けれども私は中津に帰ってお母さんに言いようがない」「なあに構うものか、乃公は死にも何もせぬから内のおッ母さんに宜しく言ってくれ、ただ江戸に参りましたと言えばそれで分かる」。鉄屋も何とも言うことが出来ぬ。「時に鉄屋、乃公はこれから下ノ関に行こうと思うが、実は下ノ関を知らぬ。貴様は諸方を歩くが、下ノ関に知ってる船宿はないか」「私の懇意な内で船場屋寿久右衛門(すぐえもん)という船宿があります、そこへお入来(いで)なされば宜しい」と言う。そもそもこの事をわざわざ鉄屋に聞かねばならぬというのは、実はそのとき私の懐中に金がない。内からくれた金が一分もあったか、その外にオランダの字引の訳鍵(やくけん)という本を売って、掻き集めたところで二分二朱か三朱しかない。それで大阪までいくには如何しても船賃が足らぬという見込みだから、そこで一寸と船宿の名を聞いて置いて、それから鉄屋に別れて、諫早から丸木船という船が天草の海を渡る。五百八十文出してその船に乗れば、明日の朝、佐賀まで着くというので、その船に乗ったところが、浪風なく朝、佐賀に着いて、佐賀から歩いたが、案内もなければ何もなく真実一身で、道筋の村の名も知らず宿々の順も知らずに、ただ東の方に向いて、小倉にはどう行くかと道を聞いて、筑前を通り抜けて、多分太宰府の近所を通ったろうと思いますが、小倉には三日めに着いた。

贋手紙を作る

 その間の道中というものは随分困りました。一人旅、殊にどこの者とも知れぬ貧乏そうな若侍、もし行倒になるか暴れでもすれば宿屋が迷惑するから容易に泊めない。もう宿の善悪は択ぶに暇なく、ただ泊めてくれさえすれば宜しいというので無暗に歩行(ある)いて、何(どう)か斯(こう)か二晩泊って三日目に小倉に着きました。その道中で私は手紙を書いた。即ち鉄屋惣兵衛の贋手紙を拵えて「この御方は中津の御家中、中村何様の若旦那で、自分は始終そのお屋敷に出入りして決して間違いなき御方だから厚く頼む」と鹿爪らしき手紙の文句で、下ノ関船場屋寿久右衛門へ宛て鉄屋惣兵衛の名前を書いてちゃんと封をして、明日下ノ関に渡ってこの手紙を用に立てんと思い、小倉までたどりついて泊った時はおかしかった。彼方此方マゴマゴして、小倉中、宿を捜したが、どこでも泊めない。ヤット一軒泊めてくれた所が薄汚い宿屋で、相宿の同間に人が寝ている。スルト夜中に枕辺で小便する音がする。何だと思うと中風病の老爺が、しびんにやっている。じつは客ではない、その家の病人でしょう。その病人と並べて寝かされたので、汚くて汚くてたまらなかったのは能く覚えています。
 それから下ノ関の渡場を渡って、船場屋を捜し出して、かねて用意の贋手紙を持って行ったところが、なるほど鉄屋とは懇意な家と見える、手紙を一見して早速泊めてくれて、万事能く世話をしてくれて、大阪まで船賃が一分二朱、賄(まかない)の代は一日若干、ソコデ船賃を払うた外に二百文か三百文しか残らぬ。しかし大阪に行けば中津の蔵屋敷で賄の代を払うことにして、これも船宿で心能く承知してくれる。悪いことだが全く贋手紙の功徳でしょう。

馬関の渡海

 小倉から下ノ関に船で来る時は怖いことがありました。途中に出たところが、少し荒く風が吹いて浪が立ってきた。スルトその纜(つな)を引っ張ってくれ、其方のところを如何してくれと、船頭が何か騒ぎ立って乗組の私に頼むから、ヨシ来たというので纜を引っ張ったり柱を起したり、面白半分に様々加勢をしてまず滞りなく下ノ関の宿に着いて「今日の船は如何したのか、こうこういう浪風で、こういう目に遇った、潮を冠って着物が濡れた」というと、宿の内儀(かみ)さんが「それはお危ないことじゃ、彼れが船頭なら宣いが実は百姓です。この節暇なものですから、内職にそんなことをします。百姓が農業の間に慣れぬことをするから、少し波風があると毎度大きな間違いを仕出来(しでか)します。」というのを聞いて、実に恐かった。なるほど奴らが一生懸命になって私に加勢を頼んだのも道理だと思いました。

馬関より乗船

 それから船場屋寿久右衛門のところから乗った船には、三月のことでみな上方見物、それはそれは種々様々な奴が乗っている。間抜けな若旦那も乗っていれば、頭の禿げた老爺も乗っている、上方辺の茶屋女もいれば,下ノ関の安女郎もいる。坊主も、百姓も、有らん限りの動物が揃うて、其奴らが狭い船の中で、酒を飲み、博打をする。下らぬことに大きな声をして、聞かれぬ話をして、面白そうにしている中に、私一人は真実無言、丸で取付端がない。船は安芸の宮島へ着いた。私は宮島に用はない。ただ来たから、島を見に上がる。外の連中はお互いに朋友だから宣いだろう。みな酒を飲む。私も飲みたくてたまらぬけれども、金がないからただ宮島を見たばかりで、船に帰ってむしゃむしゃ船の飯を食ってるから、船頭もこんな客は忌だろう、妙な顔をして私を睨んでいたのは今でも覚えている。その前に岩国の錦帯橋も余儀なく見物して、それから宮島を出て讃岐の金比羅様だ。多度津に船が着いて金比羅まで三里と言う。行きたくないことはないが、金がないから行かれない。外の奴はみな船から出て行って、私一人で船の番をしている。そうすると、一晩泊って、どいつもこいつもグデングデンに酔って陽気になって帰って来る。癪に障るけれども何としても仕様がない。

明石より上陸

 そういう不愉快な船中で、如何やらこうやら十五日目に播州明石に着いた。朝五ツ時、今の八時ごろ、明旦順風になれば船が出るという、けれどもこんな連中のお供をしては際限がない。これから大阪までは何里と聞けば、十五里という。「ヨシそれじゃ乃公ははこれから大阪まで歩いて行く。ついてはこれまでの勘定は、大阪に着いたら中津の倉屋敷まで取りに来い、この荷物だけは預けていくから」と言うと、船頭がなかなか聞かない。「そう旨くは行かぬ、一切勘場は払っていけ」と言う。言われても払う金は懐中にない。その時に私は更紗の着物と絹紬の着物と二枚あって、それを風呂敷に包んで持っていたから「ここに着物が二枚ある、これで賄の代ぐらいはあるだろう、外に書籍もあるが、これは何にもならぬ。この着物を売ればそのくらいの金にはなるではないか。大小を預ければ宣いが、これは挟して行かねばならぬ。何時でも宣しい、船が大阪に着次第に中津屋敷で払ってやるから取りに来い」と言っても、船頭は頑張って承知しない。「中津屋敷は知ってるが、お前さんは知らぬ人じゃ。何でも船に乗って行きなさい。賄の代金は大阪で請け取るという約束がしてあるからそれは宣しい。何日掛っても構わぬ、途中から上がることは出来ぬ」と言う。此方は只管(ひたすら)頼むと小さくなって訳を言えば、船頭は何でも聞かぬと剛情をはって段々声が大きくなる。喧嘩にもならず実に当惑していたところに、同船中、下ノ関の商人風の男が出て来て、乃公が請け合うとまず発言して船頭に向かい「コレお前もそう、いんごうな事をいうものじゃない。賄代の抵当に着物があるじゃないか。このお方はお侍じゃ、貴様たちを騙す所存ではないように見受ける。もし騙したら乃公が払う、サアお上がりなさい」と言って、船頭もこれに安心して無理も言わず、ソレカラ私はその下ノ関の男に厚く礼を述べて船を飛び出し、地獄に仏と心の中にこの男を拝みました。
 そこで明石から大阪まで十五里の間というものは、私は泊ることが出来ぬ。財布の中はモウ六、七十文、百に足らぬ銭で迚(とて)も一晩泊ることは出来ぬから、何でも歩かなければならぬ。途中何という所か知らぬが、左側の茶店で、一合十四文の酒を二号飲んで、大きな筍の煮たのを一皿と、飯を四、五杯食って、それからグングン歩いて、今の神戸辺は先だか後だか、どう通ったか少しもわからぬ。そうして大阪近くなると、今の鉄道の道らしい川を幾川も渡って、有難いことにお侍だから船賃は只で宣かったが、日は暮れて暗夜で真暗、人に会わなければ道を聞くことが出来ず、夜中淋しい所で変な奴に会えば却って気味が悪い。そのとき私の挟してる大小は、脇差は祐定の丈夫な身であったが、刀は太刀作りの細身でどうも役に立ちそうでなくて心細かった。実を言えば、大阪近在に人殺しの無暗に出る訳もない、ソンナに怖がることはない筈だが、独旅の夜道、真暗ではあるし、臆病神が付いてるから、ツイ腰の物を便りにするような気になる。後で考えれば却って危ないことだと思う。ソレカラ始終道を聞くには、幼少の時から中津の倉屋敷は大阪堂島玉江橋ということを知ってるから、ただ大阪の玉江橋へはどういくかとばかり尋ねて、ヤット夜十時過ぎでもあろう、中津屋敷に着いて兄に会ったが、大変に足が痛かった。

大阪着

 大阪に着いて久振で兄に逢うのみならず、屋敷の内外に幼い時から私を知ってる者が沢山ある。私は三歳の時に国に帰って二十二の歳に再び行ったのですから、私の生まれた時に知ってる者は沢山。私の面(かお)がどこか幼顔に肖(に)ているというその中には、私に乳を呑ましてくれた仲仕の内儀さんもあれば、また今度兄の供をして中津から来ている武八という極質朴な田舎男は、先年も大阪の私の家に奉公して私のお守をした者で、私が大阪に着いた翌日、この男を連れて堂島三丁目か四丁目の所を通ると、男の言うに「お前の生まれる時に我身(オリャ)夜中にこの横町の彼の産婆さんの所に迎いに行ったことがある、その産婆さんは今も達者にしている、それからお前が段々大きくなって、此身(オリャ)お前をだいて毎日々々湊の部屋(勧進元)に相撲の稽古を見に行った、その産婆さんの家は彼処の方じゃ」と、指をさして見せたときには、私も旧を懐(おも)うて胸一杯になって思わず涙をこぼしました。すべて如斯(コン)な訳で、私はどうも旅とは思われぬ、真実故郷に帰った通りで誠に宣い心地。それから兄が私に如何して貴様は出し抜けにここに来たのかという。兄のことであるから構わずこういう次第で参りましたと言ったら、「乃公(おれ)が居なければ宣いが、道の順序を言ってみれば、貴様は長崎から来るのに中津の方が順路だ。その中津を横に見ておッ母さんの所を避けて来たではないか。それも乃公がここに居なければ兎も角、乃公がここで貴様に面会しながらこれを手放して江戸に行けと言えば兄弟共謀だ。如何にも済まぬではないか。おっ母さんはそれほどに思わぬだろうが、如何しても乃公が済まぬ。それよりか大阪でも先生がありそうなものじゃ。大阪で蘭学を学ぶが宣い」と言うので、兄の所に居て先生を捜したら緒方という先生のあることを聞き出した。

長崎遊学中の逸事

 鄙事(ひじ)多能は私の独特、長崎に居る間は山本先生の家に食客生となり、無暗に勉強して蘭学もようやく方角の分るようになるその片手に、有らん限り先生の家の家事を勤めて、上中下の仕事なんでも引き受けて、これは出来ない、それは忌だと言ったことはない。丁度上方辺の大地震のとき、私は先生家の息子に漢書の素読をしてやった跡で、表の井戸端で水を汲んで、大きな荷桶を担いで一足踏み出すその途端にガタガタと動揺(ゆれ)れて足が滑り、誠に危ないことがありました。
 寺の和尚、今は既に物故したそうですが、これは東本願寺の末寺、光永寺と申して、下寺の三カ寺も持っている、まず長崎では名のある大寺、そこの和尚が京に上って何か立身して帰ってきて、長崎の奉行所に廻勤に行く若党に雇われてお供をしたところが、和尚が馬鹿に長い衣か装束か妙なものを着ていて、奉行所の門で駕籠を出ると、私があとからその裾を持ってシズシズと付いて歩いて行く。吹き出しそうに可笑しい。またその和尚が正月になると大檀那の家に年礼に行くそのお供をすれば、坊さんが奥で酒でも飲んでる供待の間に、供の者にも膳を出して雑煮など食わせる。これは難有く戴きました。
  また節分に物貰いをしたこともある。長崎の風に、節分の晩に法螺の貝を吹いて何か経文のようなことを怒鳴ってまわる、東京で言えば厄払い、その厄払いをして市中の家の門に立てば、銭をくれたり米をくれたりすることがある。ところが私のいる山本の隣家に杉山松三郎(杉山徳三郎の実兄)という若い男があって、面白い人物。「どうだ今夜行こうじゃないか」と私を誘うから、勿論同意。ソレカラどこかで法螺の貝を借りて来て、面を隠して二人で出掛けて、杉山が貝を吹く、お経の文句は、私が少年の時に暗誦していた蒙求の表題と千文字で受け持ち、王戎簡要天地玄黄(おうじゅうかんようてんちげんこう)なんぞ出鱈目に怒鳴り立てて、誠に上首尾、銭だの米だの随分相応に貰って来て、餅を買い鴨を買い雑煮を拵えてタラフク食ったことがある。

師弟アベコベ

 私が初めて長崎に来て初めて横文字を習うというときに、薩州の医学生に松崎鼎甫という人がある。その時に藩主薩摩守は名高い西洋流の人物で、藩中の医者などに蘭学を引き立て、松崎も蘭学修行を命ぜられて長崎に出て来て下宿屋に居るから、その人に頼んで教えて貰うが宣かろうと言うので行ったところが、松崎がabcを書いて仮名を附けてくれたのにはまず驚いた。これが文字とは合点が行かぬ。二十何字を覚えてしまうにもよほど手間が掛かったが、学べば進むの道理で、次第々々に蘭語の綴りも分るようになって来た。ソコデ松崎という先生の人相を見て応対の様子を察するに、決して絶倫の才子でない。よって私の心中窃(ひそ)かに「これは高の知れた人物だ。今でも漢書を読んでみろ、自分のほうが数等上流の先生だ。漢蘭等しく字を読み義を解することとすれば、左(さ)までこの先生を恐るることはない。如何かしてアベコベにこの男に蘭書を教えてくれたいものだ」と、生々の初学生が無鉄砲な野心を起したのは全く少年の血気に違いない。ソレはそれとしてその後、私は大阪に行き、これまで長崎で一年も勉強していたから緒方でも上達が頗る速くて、両三年の間に同窓生八、九十人の上に頭角を現わした。ところが人事の回り合せは不思議なもので、その松崎という男が九州から出て来て緒方の熟に這入り、私はその時ズット上級で、下級生の会頭をしているその会読に、松崎も出席することになって、三、四年の間に今昔の師弟アベコベ。私の無鉄砲な野心が本当なことになって、もとより人には言われず、また言うべきことでないから黙っていたが、その時の愉快はたまらない。独り酒を飲んで得意がっていました。されば、軍人の功名手柄、政治家の立身出世、金持の財産蓄積なんぞ孰(いず)れも熱心で、一寸と見ると俗なようで、深く考えると馬鹿なように見えるが、決して笑うことはない。ソンナことを議論したり理屈を述べたりする学者も、矢張り同じことで、世間並みに俗な馬鹿げた野心があるから可笑しい。


大阪修行

 兄の申すことには私も逆らうことが出来ず、大阪に足を止めまして、緒方先生の塾に入門したのは安政二年卯歳の三月でした。その前、長崎に居る時には勿論蘭学の稽古をしたので、その稽古をしたところは楢林という和蘭(オランダ)通詞の家、同じく楢林という医者の家、それから石川桜所という蘭方医師、この人は長崎に開業していて立派な門戸を張っている大家であるから、なかなか入門することは出来ない。ソコデこの玄関に行って調合所の人などに習っていたので、そういうように彼方此方にちょいちょいと教えてくれるような人があればそこへ行く。どこの何某に便り誰の門人になってミッチリ蘭書を読んだということはないので、ソコで大阪に来て緒方に入門したのはこれが本当に蘭学修行の始まり、初めて規則正しく書物を教えて貰いました。その時にも私は学業の進歩が随分速くて、塾中には大勢書生があるけれども、その中ではマア出来の宣い方であったと思う。

兄弟共に病気

 ソコデ安政二年も終り三年の春になると、新春早々ここに大なる不仕合な事が起こって来たと申すは、大阪の倉屋敷に勤番中の兄がリョウマチスに罹り病症が甚だ軽くない。トウトウ手足も叶わぬというほどになって、追々全快するが如く全快せざるが如くしている間に、右の手は使うことが出来ずに左の手に筆を持って書くというような容体。ソレと同時にその歳の二月ごろであったが、緒方の塾の同窓、私の先輩で予(かね)て世話になっていたが加州の岸直輔という人が、腸チフスに罹ってなかなかの難症。ソコデ私は平生の恩人だから、コンナ時に看病しなければならぬ。また加州の書生に鈴木儀六という者があって、これも岸と同国の縁で、私と鈴木と両人昼夜看病して、凡そ三週間も手を尽したけれども、如何しても悪症でとうとう助からぬ。一体この人は加賀人で宗旨は真宗だから、火葬にしてその遺骨を親元に送ってやろうと両人相談のうえ、遺骸を大阪の千日の火葬場に持って行って焼いて、骨を本国に送り、まず事は済んだところが、私が千日から帰って三、四日経つとヒョイト煩(わずら)いついた。容体がドウモただの風邪でない。熱があり気分が甚だ悪い。ソコデ私の同窓生はみな医者だから、誰かに見て貰ったところが、これは腸チフスだ、岸の熱病が伝染したのだと言うている間に、そのことが先生に聞こえて、そのとき私は堂島の倉屋敷に寝ていた。ところが先生が見舞いに見えまして、いよいよ腸チフスに違いない、本当に療治しなければこれは馬鹿にならぬ病気であると言う。

緒方先生の深切

 それから私はその時に今にも忘れぬことのあるというのは、緒方先生の深切。「乃公はお前の病気を屹(きつ)と診てやるけれども、乃公が自分で処方することは出来ない。何分にも迷うてしまう。この薬あの薬と迷て、あとになってそうでもなかったと言ってまた薬の加減をするというような訳で、しまいには何の療治をしたか訳が分からぬようになるというのは人情の免れぬことであるから、病は診てやるが執匙(しつび)は外の医者に頼む。そのつもりにして居れ」と言って、先生の朋友、内藤数馬という医者に執匙を託し、内藤の家から薬を貰って、先生はただ毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図するだけであった。マア今日の学校とか学塾とかいうものは、人数も多く沖(とて)も手に及ばないないことで、その師弟の間はおのずから公なものになっている、けれども昔の学塾の師弟は正しく親子の通り、緒方先生が私の病を見て、どうも薬を授くるに迷うというのは、自分の家の子供を療治してやるに迷うと同じことで、その扱いは実子と少しも違わない有様であった。後世だんだんに世が開けて進んで来たならば、こんなことはなくなってしまいましょう。私が緒方の塾に居た時の心地は、今の日本国中の塾生に較べてみて大変に違う。私は真実緒方の家の者のように思い、また思わずには居られません。ソレカラただいま申す通り実父同様の緒方先生が立会で、内藤数馬先生の執匙で有らん限りの療治をして貰いましたが、私の病気もなかなか軽くない。煩いついて四、五日目から人事不省、およそ一週間ばかりは何も知らないほどの容体でしたが、幸いにして全快に及び、衰弱はしていましたけれども、歳は若し、平生身体の強壮なそのためでしょう、回復はなかなか早い。モウ四月になったら外に出て歩くようになり、その間に兄はリョウマチスを煩って居り、私は熱病の大病後である、どうにも始末が付かない。

兄弟中津に帰る

 そのうちに丁度兄年期というものがあって、二カ年居れば国に帰るという約束で、今年の夏が二年目になり、私もまた病後大阪に居て書物など読むことも出来ず、とにかく帰国が宣かろうというので、兄弟一緒に船に乗って帰ったのがその歳の五、六月ごろと思う。ところが私は病後ではあるが日々に回復して、兄のリョウマチスも全快には及ばないけれども別段に危険な病症でもない。「それでは私はまた大阪に参りましょう」と言って出たのがその歳、即ち安政三年の八月。モウその時は病後とは言われませぬ、なかなか元気が能くて、大阪に着いたその時に、私は中津屋敷の空長屋を使用して独居自炊、即ち土鍋で飯を炊いて食って、毎日朝から夕刻まで緒方の塾に通学していました。

家兄の不幸 再遊困難

 ところがまた不幸な話で、九月の十日ごろであったと思う。国から手紙が来て「九月三日に兄が病死したから即刻帰って来い」という急報。どうも驚いたけれども仕方ない。取るものも取り敢えずスグ船に乗って、この度は誠に順風で、速やかに中津の湊に着いて、家に帰ってみればモウ葬式は勿論、何もかも片がついてしまった後のことで、ソレカラ私は叔父のところの養子になっていた、ところが自分の本家、即ち里の主人が死亡して、娘が一人あれども女の子では家督相続は出来ない、これは弟が相続する、当然(アタリマエ)の順序だというので、親類相談の上、私は知らぬ間にチャント福沢の主人になっていて、当人の帰国を待って相談なんということはありはしない。貴様は福沢の主人になった、と知らせてくれるくらいのことだ。さてその跡を襲(つ)いだ以上は、実は兄でも親だから、五十日の忌服を勤めねばならぬ。それから、家督相続といえば、それ相応の勉めがなくてはならぬ、藩中小士族相応の勤めを命ぜられている、けれども私の心というものは天外万里、何もかも浮足になって一寸とも落ち付かぬ。何としても中津に居ようなどということは思いも寄らぬことであるけれども、藩の正式によればチャント勤めをしなければならぬから、その命を拒むことは出来ない。ただ言行を慎み、何と言われてもハイハイと答えて勤めていました。自分の内心には如何しても再遊と決しているけれども、周囲の有様というもにはなかなか寄り付かれもしない。藩中一般の説は姑(しばら)く差置き、近い親類の者までも西洋は大嫌いで、何事も話し出すことが出来ない。ソコデ私に叔父があるから、そこに行って何か話しをして、序ながらそれとなく再遊の事を少しばかり言い掛けてみると、それはそれは恐ろしい剣幕で頭から叱られた。「けしからぬ事を申すではないか。兄の不幸で貴様が家督相続した上は、御奉公大事に勤めをする筈のものだ。ソレにオランダの学問とは何たる心得違いか、あきれ返った話だ」とか何とか叱られたその言葉の中に、叔父が私を冷かして「貴様のような奴は負角力の痩錣(やせしこ)というものじゃ」と苦々しく睨み付けたのは、身の程知らずという意味でしょう。迚も叔父さんに賛成して貰おうということは出来そうにもしないが、私が心に思っていればおのずから口の端にも出る。出れば狭い所だから直ぐ分かる。近所あたりにどことなく評判をする。平生私の所に能く来るお婆(ばば)さんがあって、私の母より少し年長のお婆さんで、お八重さんという人。今でもその面を覚えている。つい向うのお婆さんで、あるとき私方に来て「何か聞けば諭吉さんはまた大阪に行くという話じゃが、マサカお順さん(私の母)そんなことはさせなさらんじゃろう、再び出すなんというのはお前さんは気が違うていはせぬか」というような、世間一般まずソンナ風で、その時の私の身の上を申せば寄辺(よるべ)汀(なぎさ)の捨小舟、まるで唄の文句のようだ。

母と直談

 ソコデ私は独り考えた。「これは迚も仕様がない。ただ頼むところは母一人だ。母さえ承知してくれれば誰が何と言うても怖い者はない」と。ソレカラ私はとっくり話した。「おっ母さん。今私が修行しているのはこういう有様、こういう塩梅で、長崎から大阪に行って修行して居ります。自分で考えるには、どうしても修行は出来て何か物になるだろうと思う。この藩に居たところが、何としても頭の上がる気遣いはない。真に朽ち果つるというものだ。どんな事があっても私は中津で朽ち果てようとは思いません。アナタはお淋しいだろうけれども、何卒(ドウゾ)私を手放してくださらぬか。私の産まれたときにお父ッさんは坊主にすると仰しゃったそうですから、私は今から寺の小僧になったと諦めてください」。そのとき私が出れば、母と死んだ兄の娘、産まれて三つになる女の子と五十有余の老母とただの二人で、淋しい心細いに違いないけれども、とっくり話して「どうぞ二人で留守をしてください、私は大阪に行くから」と言ったら、母もなかなか思いきりの宣い性質で「ウム宣しい」「アナタさえそう言ってくだされば、誰が何と言っても怖いことはない。」「オーそうとも。兄が死んだけれども、死んだものは仕方がない。お前も余所に出て死ぬかも知れぬが、死生の事は一切言うことなし。どこへでも出ていきなさい」。ソコデ母子の間というものはちゃんと魂胆が出来てしまって、ソレカラいよいよ出ようということになる。

四十両の借金 家財を売る

 出るには金の始末をしなければならぬ。その金の始末というのは、兄の病気や勤番中のそれこれの入費、凡そ四十両借金がある。この四十両というものは、その時代に私などの家にとってっは途方もない大借。これをこのままにしておいては迚も始末が付かぬから、何でも片付けなければならぬ。如何しよう。外に仕方がない。何でも売るのだ。一切万物売るより外なしと考えて、いささか頼みがあるというのは、私の父は学者であったから、藩中ではなかなか蔵書を持っている。およそ冊数にして千五百冊ばかりもあって、中には随分世間に類の少ない本もある。例えば私の名を諭吉というその諭の字は、天保五年十二月十二日の夜、私が誕生したその日に、父が多年所望していた明律(みんりつ)の上諭条例という全部六、七十冊ばかりの唐本を買い取って、大層喜んでいるところに、その夜男子が出生して重ね重ねの喜びというところから、その上諭の諭の字を取って私の名にしたと母から聞いたことがあるくらいで、随分珍しい漢書があったけれども、母と相談の上、蔵書を始め一切の物を売却しようということになって、まず手近な物から売れるだけ売ろうというので、軸物のような物から売り始めて、目ぼしい物を申せば、頼山陽の半切の掛物を金二分に売り、大雅堂の柳下人物の掛物を二両二分、徂徠の書、東涯の書もあったが、誠に値がない、見るに足らぬ。その他はごたごたした雑物ばかり。覚えているのは大雅堂と山陽。刀は天正祐定二尺五寸拵(こしらえ)付、能く出来た物で四両。ソレカラ蔵書だ。中津の人で買う者はありはせぬ。如何したって何十両という金を出す藩士はありはせぬ。ところで私の先生、白石という漢学の先生が、藩で何か議論をして中津を追い出されて豊後の臼杵(うすき)藩の儒者になっていたから、この先生に便って行けば売れるだろうと思って、臼杵までわざわざ出掛けて行って、先生に話をしたところが、先生の世話で残らずの蔵書を代金十五両で臼杵藩に買って貰い、まず一口に大金十五両が手に入り、その他有らん限り皿も茶碗も丼も猪口も一切売って、ようやく四十両の金が揃い、その金で借金は奇麗に済んだが、その蔵書中に易経集註十三冊に伊藤東涯先生が自筆で細々と書き入れをした見事なものがある。これは亡父が存命中、大阪で買い取って殊(こと)の外珍重したものとみえ、蔵書目録に父の筆をもって、この東涯先生書き入れの易経十三冊は天下希有の書なり、子孫謹んで福沢の家に蔵むべし、とあたかも遺言のようなことが書いてある。私もこれを見ては何としても売ることが出来ません。これだけはと思うて残して置いたその十三冊は、今でも私の家にあります。それと今に残っているのは唐焼の丼が二つある。これは例の雑物売り払いのとき、道具屋が値を付けて丼二つ三分というその三分とは中津の藩札で、銭にすれば十八文のことだ。余り馬鹿々々しい、十八文ばかり有っても無くても同じことだと思うて売らなかったのが、その後四十何年無事で、今は筆洗になっているのも可笑しい。

築城書を盗写す

 それはそれとして、私が今度不幸で中津に帰っているその間に一つ仕事をしました、というのはその時に奥平壱岐という人が長崎から帰っていたから、勿論私は御機嫌伺いに出なければならぬ。ある日、奥平の屋敷に推参して久々の面会、四方山の話の序に、主人公が一冊の原書を出して「この本は乃公が長崎から持って来たオランダ新版の築城書である」というその書を見たところが、勿論私などは大阪に居ても緒方の塾は医学塾であるから、医書窮理書の外についぞそんな原書を見たことはないから、随分珍書だとまず私は感心しなければならぬ、というのはその時は丁度ペルリ渡来の当分で、日本国海防軍備の話がなかなか喧しいその最中に、この築城書を見せられたから誠に珍しく感じて、その原書が読んでみたくて堪らない。けれどもこれは、貸せと言ったところが貸す気遣いはない。それからマアいろいろ話をする中に、主人が「この原書は安く買うた。二十三両で買えたから」なんと言うたのには、実に貧書生の胆を潰すばかり。迚も自分に買うことは出来ず、さればとてゆるりと貸す気遣いはないのだから、私はただ原書を眺めて心の底で独り貧乏を嘆息しているその中に、ヒョイと胸に浮かんだ一策を遣ってみた。「なるほどこれは結構な原書でございます。迚もこれを読んでしまうということは急な事では出来ません。せめては図と目録とでも一通り拝見したいものですが、四、五日拝借は叶いますまいか」と手軽に触(アタ)ってみたらば、「よし貸そう」と言ってかしてくれたこそ天与の僥倖。ソレカラ私は家に持って帰って、即刻鵞筆と墨と紙を用意してその原書を初めから写し掛けた。およそ二百ページ余のものであったと思う。それを写すについては、誰にも言われぬのは勿論、写すところを人に見られては大変だ。家の奥の方に引っ込んで一切客に遇わずに、昼夜精切り一杯、根のあらん限り写した。そのとき私は、藩の御用で城の門の番をする勤めがあって、二、三日目に一昼夜当番する順になるから、その時には昼は写本を休み、夜になれば窃(そつ)と写物を持ち出して、朝、城門の明くまで写して、一日も眠らないのは毎度のことだが、またこの通りに勉強しても、人間世界は壁に耳あり眼もあり、既に人に悟られて今にも原書を返せとか何とか言って来はしないだろうか、いよいよ露顕すればただ原書を返したばかりでは済まぬ、御家老様の剣幕でなかなか六かしくなるだろうと思えば、その心配は堪らない。生まれてから泥棒をしたことはないが、泥棒の心配も大抵こんなものであろうと推察しながら、とうとう写し終わりて、図が二枚あるその図も写してしまって、サア出来上がった。出来上がったが読み合わせに困る。これができなくては大変だというと、妙なこともあるもので、中津にオランダのスペルリングの読める者がたった一人ある。それは藤野啓山という医者で、この人は甚だ私のところに縁がある、というのは私の父が大阪に居る時に、啓山が医者の書生で、私の家に寄宿して、母も常に世話をしてやったという縁故からして、固より信じられる人に違いないと見抜いて、私は藤野の所に行って「大秘密をお前に語るが、実はこうこういうことで、奥平の原書を写してしまった。ところが困るのはその読み合わせだが、お前はどうか原書を見ていてくれぬか、私が写したのを読むから。実は昼やりたいが、昼は出来られない。ヒョッと分ってはたいへんだから、夜分私が来るからご苦労だが見ていてくれよ」と頼んだら、藤野が宣しいと快く請け合ってくれて、ソレカラ私はそこの家に三晩か四晩読み合わせに行って、ソックリ出来てしまった。モウ連城の[タマ]を手に握ったようなもので、それから原書は大事にしてあるから如何にも気遣いはない。しらばくれて奥平壱岐の家に行って、「誠に有難うございます、お陰で初めてこんな兵書をみました。こういう新舶来の原書が翻訳にでもなりましたら、嘸(さぞ)マア海防家には有益の事でありましょう。しかしこんな結構なものは貧書生の手に得らるるものでない。有難うございました。返上いたします」と言って奇麗に済んだのはうれしかった。この書を写すに幾日かかったか能く覚えてないが、何でも二十日以上三十日足らずの間に写してしもうて、原書の主人に毛頭疑うような顔色もなく、マンマとその宝物の正味を偸(ぬす)み取って私の物にしたのは、悪漢が宝蔵に忍び入ったようだ。

医家に砲術修行の願書

 その時に母が、「お前は何をするのか。そんなに毎晩夜を更かして禄に寝もしないじゃないか。何のことだ。風邪でも引くと宣くない。勉強にも程のあったものだ」と喧しく言う。「なあに、おッ母さん、大丈夫だ。わたしは写本をしているのです。このくらいの事で私の身体は何ともなるものじゃない。御安心下さい。決して煩いはしませぬ」と言うたことがありましたが、ソレカラいよいよ大阪に出ようとすると、ここに可笑しいことがある。今度出るには藩に願書を出さなければならぬ。可笑しいとも何とも言いようがない。これまで私は部屋住だから、外に出るからといって届も願も要らぬ。颯々(さっさ)と出入したが、今度は仮初にも一家の主人であるから願書を出さなければならぬ。それから私は、かねて母との相談が済んでいるから、叔父にも叔母にも相談は要りはしない。出抜けに蘭学の修行に参りたいと願書を出すと、懇意なその筋の人が内々知らせてくれるに「それはイケない。蘭学修行ということは御家に先例のない事だ」と言う。「そんなら如何すれば宣いか」と尋ぬれば、「左様さ。砲術修行と書いたならば済むだろう」と言う。「けれども緒方といえば大阪の開業医師だ。お医者様のところに鉄砲を習いに行くというのは、世の中に余り例のない事のように思われる。これこそ却って不都合な話ではござらぬか」「イヤ、それは何としても御例のない事は仕方がない。事実相違しても宣しいから、やはり砲術修行でなければ済まぬ」と言うから、「エー宣(よろ)しい。如何でも為(し)ましょう」と言って、ソレカラ私儀大阪表緒方洪庵の許に砲術修行に罷越(まかりこ)したい云々と出して聞き済みになって、大阪に出ることになった。大抵当時の塩梅式が分るであろう、というのは、これは必ずしも中津一藩に限らず、日本国中悉く漢学の世の中で、西洋流などということは仮初にも通用しない。俗にいう鼻摘まみの世の中に、ただペルリ渡来の一条が人心を動かして、砲術だけは西洋流儀にしなければならぬと、いはば一線の血路が開けて、ソコデ砲術修行の願書で穏やかに事が済んだのです。

母の病気

 願が済んでいよいよ船に乗って出掛けようとする時に母の病気、誠に困りました。ソレカラ私は一生懸命、この医者を頼み、あの医者に相談、様々に介抱したところが、虫だと言う。虫なれば如何なる薬が一番の良剤かと医者の話を聞くと、その時にはまだサントニーネというものはない、セメンシーナが妙薬だと言う。この薬は至極価(あたい)の高い薬で田舎の薬店には容易にない。中津にたった一軒あるばかりだけれども、母の病気に薬の価(ね)が高いの安いのと言って居られぬ。私は今こそ借金を払った後で、なけなしの金を何でも二朱か一分出して、そのセメンシーナを買って母に服用させて、それが利いたのか何か分らぬ、田舎医者の言うことも固より信ずるに足らず、私はただ運を天に任せて看病大事と昼夜番をしていましたが、幸いに難症でもなかったとみえて、日数およそ二週間ばかりで快くなりましたから、いよいよ大阪へ出掛ける日を定めて、出立のとき別を惜しみ無事を祈ってくれる者は母と姉とばかり、知人朋友、見送りはさておき見向く者もなし、逃げるようにして船に乗りましたが、兄の死後間もなく、家財は残らず売り払うて諸道具もなければ金もなし、赤貧洗うが如くにして、他人の来て訪問(おとずれ)てくれる者もなし、寂々寥々、古寺みたような家に、老母と小さい姪とタッタ二人残して出て行くのですから、さすが磊落書生もこれには弱りました。

先生の大恩、緒方の食客となる

 船中無事大阪に着いたのは宣しいが、ただ生きて身体が着いたばかりで、さて修行をするという手当ては何もない。ハテ如何したものかと思ったところが仕方ない。何しろ先生のところへ行ってこの通り言おうと思って、それから、大阪着はその歳の十一月ごろと思う、その足で緒方へ行って「私は、兄の不幸、こうこういう次第でまた出て参りました」とまず話をして、それから私は、先生だからほんとうの親と同じことで何も隠すことはない、家の借金の始末、家財を売り払うたことから、一切万事何もかも打ち明けて、かの原書写本の一条まで真実を話して「実はこういう築城書を盗写してこの通り持って参りました」と言ったところが、先生は笑って「そうか、ソレは一寸の間に、怪しからぬ悪い事をしたような、また善い事をしたようなことじゃ。何はさておき、貴様は大層見違えたように丈夫になった」「左様でございます。今も身体は病後ですけれども、今歳の春大層御厄介になりましたその時のことはモウ覚えませぬ。元の通り丈夫になりました」「それは結構だ。ソコデお前は一切聞いてみると如何しても学費のないということは明白に分かったから、私が世話をしてやりたい、けれども外の書生に対して何かお前一人に贔屓するようにあっては宣くない。待て待て。その原書は面白い。ついては乃公がお前に言い付けてこの原書を訳させると、こういうことにしよう、そのつもりでいなさい」と言って、ソレカラ私は緒方の食客生になって、医者の家だから食客生というのは調合所の者より外にありはしませぬが、私は医者でなくただ翻訳という名義で医家の食客生になっているのだから、その意味は全く先生と奥方との恩恵好意のみ、実際に翻訳はしてもしなくても宣いのであるけれども、嘘から出た誠で、私はその原書を翻訳してしまいました。

書生の生活 酒の悪弊

 私はこれまで緒方の塾に這入らずに屋敷から通っていたのであるが、安政三年の十一月ごろから塾に這入って内塾生となり、これがそもそも私の書生生活、活動の始まりだ。元来緒方の塾というものは、真実、日進進歩主義の塾で、その中に這入っている書生はみな活発有為の人物であるが、一方から見れば血気の壮年、乱暴書生ばかりで、なかなか一筋縄でも二筋縄でも始末に行かぬ人物の巣窟、その中に私が飛び込んで共に活発に乱暴を働いた、けれどもまたおのずから外の者と少々違っているということもお話しなければならぬ。まず第一に私の悪いことを申せば、生来酒を嗜むというのが一大欠点、成長した後には自らその悪いことを知っても、悪習すでに性をなして自ら禁ずることの出来なかったということも、敢えて包み隠さず明白に自首します。自分の悪いことを公けにするは余り面白くもないが、正味を言わねば事実談にならぬから、まず一ト通り幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。そもそも私の酒癖は、年齢の次第に成長するに従って飲み覚え、飲み慣れたというでなくして、生まれたまま物心の出来た時から自然に数寄でした。今に記憶していることを申せば、幼少のころ月代(さかやき)を剃るとき、頭の盆の窪を剃ると痛いから嫌がる。スルト剃ってくれる母が「酒を給(た)べさせるからここを剃らせろ」というその酒が飲みたさばかりに、痛いのを我慢して泣かずに剃らしていたことは幽かに覚えています。天性の悪癖、誠に愧ずべきことです。その後、次第に年を重ねて弱冠に至るまで、外に何も法外なことは働かず行状はまず正しい積りでしたが、俗にいう酒に目のない少年で、酒を見ては殆んど廉恥を忘れるほどの意気地なしと申して宣しい。
 ソレカラ長崎に出たとき、二十一歳とはいいながらその実は十九歳余り、マダ丁年にもならぬ身で立派な酒客、ただ飲みたくて堪らぬ。ところが、かねての宿願を達して学問修行とあるから、自分の本心に訴えて何としても飲むことは出来ず、滞留一年の間、死んだ気になって禁酒しました。山本先生の家に食客中も、大きな宴会でもあればそのときに盗んで飲むことは出来る。また銭さえあれば町に出て一寸と升の角からやるのも易いが、何時か一度は露顕すると思って、トウトウ辛抱して一年の間、正体を現わさずに、翌年の春長崎を去って諫早に来たとき、初めてウント飲んだことがある。その後、程経て文久元年の冬洋行するとき、長崎に寄港して二日ばかり滞在中、山本の家を尋ねて先年中の礼を述べ、今度洋行の次第を語り、そのとき初めて酒のことを打ち明け、下戸とは偽り実は大酒飲みだと白状して、飲んだも飲んだか、恐ろしく飲んで、先生夫婦を驚かしたことを覚えています。

血に交わりて赤くならず

 この通り幼少の時から酒が数寄(すき)で、酒のためには有らん限りの悪いことをして随分不養生も犯しましたが、また一方から見ると私の性質として品行は正しい。これだけは少年時代、乱暴書生に交わっても、家を成して後、世の中に交際しても、少し人に変って大きな口が利かれる。滔々たる濁水社会にチト変人のように窮屈なようにあるが、さればとて実際浮気な花柳談ということは大抵事細かに知っている。何故というに、他人の夢中になって汚ないことを話しているのを能く注意して聞いて心に留めて置くから、何でも分らぬことはない。たとえば、私は元来囲碁を知らぬ、少しも分からないけれども、塾中の書生仲間に囲碁が始まると、ジャジャ張り出て巧者なことを言って「ヤア黒のその手は間違いだ、それまたやられたではないか、油断をすると此方の方が危いぞ、馬鹿な奴だあれを知らぬか」などと宣い加減に饒舌(シャベ)れば、書生の素人の拙囲碁(ヘタゴ)で、助言は固より勝手次第で、何方が負けそうなということは双方の顔色を見て能くわかるから、勝つ方の手を誉めて負ける方を悪くさえ言えば間違いはない。ソコデ私はなかなか囲碁が強いように見えて「福沢一番やろうか」と言われると「馬鹿言うな、君たちを相手にするのは手間潰しだ、そんな暇はない」と、高くとまって澄まし込んでいるから、いよいよ上手のように思われて、およそ一年ばかりはごまかしていたが、何かの拍子にツイ化けの皮が現われて散々罵られたことがある、というようなもので、花柳社会のことも他人の話を聞きその様子を見て大抵こまかに知っている、知っていながら自分一身は鉄石の如く大丈夫である。マア申せば、血に交わりて赤くならぬとは私のことでしょう。自分でも不思議のようにあるが、これは如何しても私の家の風だと思います。幼少の時から兄弟五人、他人まぜずに母に育てられて、次第に成長しても、汚ないことは仮初(かりそめ)にも蔭にも日向にも家の中で聞いたこともなければ話したこともない。清浄潔白、おのずから同藩普通の家族とは色を異にして、ソレカラ家を去って他人に交わっても、その風をチャント守って、別に慎むでもない、当然なことだと思っていた。ダカラ緒方の塾にいるその間も、ついぞ茶屋遊びをするとかいうようなことは決してない、と言いながら、前にも言う通り、何も偏屈でそれを嫌って恐れて逃げて回って蔭で理窟らしく不平な顔をしているというようなことも頓としない。遊郭の話、茶屋の話、同窓生と一緒になってドンドン話をして問答して、そうして私はそれをまた冷かして「君たちは誠に野暮な奴だ。茶屋に行ってフラれて来るというような馬鹿があるか。僕は登楼はしない。しないけれども、僕が一度び奮発して楼に登れば、君たちの百倍被待(モテ)て見せよう。君らのようなソンナ野暮なことをするなら止してしまえ。ドウセ登楼などの出来そうな柄でない。田舎者めが、都会に出て来て茶屋遊びのabcを学んでいるなんて、ソンナ鈍いことでは生涯役に立たぬぞ」というような調子で哦鳴り回って、実際においてその哦鳴る本人は決して浮気でない。ダカラ人が私を馬鹿にすることは出来ぬ。能く世間にある徳行の君子なんていう学者が、ムズムズしてシント考えて、他人のすることを悪い悪いと心の中で思って不平を呑んでいる者があるが、私は人の言行を見て不平もなければ心配もない、一緒に戯れて酒蛙々々(しゃあしゃあ)としているから却って面白い。

書生を懲らしめる

 酒の話は幾らもあるが、安政二年の春、初めて長崎から出て緒方の塾に入門したその即日に、在塾の一書生が初めて私に会って言うには「君はどこから来たか」「長崎から来た」というのが話の始まりで、その書生の言うに「そうか、以来は懇親にお交際(ツキアイ)したい。ついては酒を一献酌もうではないか」と言うから、私がこれに答えて「初めてお目に掛かって自分のことを言うようであるが、私は元来酒客、しかも大酒だ。一献酌もうとは有難い。是非お供致したい。早速お供したい。だが念のため申して置くが、私には金はない。実は長崎から出て来たばかりで・塾で修業するその学費さえ甚だ怪しい。有るか無いか分らない。いわんや酒を飲むなどという金は一銭もない。これだけは念のためにお話して置くが、酒を飲みにお誘いとは誠に辱(かたじけ)ない。是非お供致そう」とこう出掛けた。ところがその書生の言うに「そんな馬鹿げたことがあるものか、酒を飲みに行けば金の要るのは当然の話だ。そればかりの金のない筈はないじゃないか」と言う。「何と言われても、ない金はないが、折角飲みに行こうというお誘いだから是非行きたいものじゃ」というのが物分れでその日はしまい、翌日も屋敷から通って塾に行ってその男に出会い「昨日のお話は立消えになったが、如何だろうか。私は今日も酒が飲みたい。連れて行ってくれないか、どうも行きたい」と此方(こっち)から促したところが、「馬鹿言うな」というようなことで、お別れになってしまった。
 ソレカラ一月経ち二月三月経って、此方もチャント塾の勝手を心得て、人の名も知るということになって、当り前に勉強している。一日(あるひ)その今の男を引捕まえた。引捕まえて面談「お前は覚えているだろう、乃公(おれ)が長崎から来て初めて入門したその日に何と言った、酒を飲みに行こうと言ったじゃないか。その意味は新入生というものは多少金がある、それを誘い出して酒を飲もうと、こういう考えだろう。言わずとも分かっている。あの時に乃公が何と言った、乃公は酒は飲みたくて甚らないけれども金がないから飲むことは出来ないと刎(は)ね付けて、その翌日は此方から促した時に、お前は半句の言葉もなかったじゃないか。能く考えてみろ。憚りながら諭吉だからそのくらいに強く言ったのだ。乃公はその時に自ら決するところがあった。お前が愚図々々言うなら、即席に叩き倒して先生のところに引き摺って行ってやろうと思ったその決心が顔色に顕われて怖かったのか何か知らぬが、お前はどうもせずに引っ込んでしまった。如何にしても済まない奴だ。こういう奴のあるのは、塾のためには獅子身中の虫というものだ。こんな奴がいて塾を卑劣にするのだ。以来新入生に会って仮初にも左様なことを言うと、乃公は他人のことは思わぬぞ。直ぐにお前を捕まえて、誰とも言わず先生の前に連れて行って、先生に裁判をして貰うが宜しいか。心得ていろ」と酷く懲らしめてやったことがあった。

塾長になる

 その後私の学問も少しは進歩した折柄、先輩の人は国に帰る、塾中無人にて遂に私が塾長になった。さて塾長になったからといって、元来の塾風で塾長に何も権力のあるではなし、ただ塾中一番六(むつ)かしい原書を会読するときその会頭を勤めるくらいのことで、同窓生の交際に少しも軽重はない。塾長殿も以前のとおりに読書勉強して、勉強の間にはあらん限りの活動ではない、どうかといえばまず乱暴をして、面白がっていることだから、その乱暴生が徳義をもって人を感化するなどという鹿爪らしいことを考える訳けもない。また塾風を善くすれば先生に対しての御奉公御恩報じになると、そんな老人めいた心のあろう筈もないが、ただ私の本来仮初にも弱い者いじめをせず、仮初にも人の物を貧らず、人の金を借用せず、ただの百文も借りたことはないその上に、品行は清浄潔白にして俯仰天地に愧(はじ)ずという、おのずから外の者とちがうところがあるから、一緒になってワイワイ言っていながら、マア一口に言えば同窓生一人も残らず自分の通りになれ、また自分の通りにしてやろうというような、血気の威張りであったろうと今から思うだけで、決して道徳とか仁義とかまた大恩の先生に忠義とか、そんな奥ゆかしいことはさらに覚えはなかったのです。しかし何でもそう威張り回って暴れたのが、塾のために悪いこともあろう、またおのずから役に立ったこともあるだろうと思う。もし役に立って居ればそれは偶然で、決して私の手柄でも何でもありはしない。


緒方の塾風

 そう言えば何か私が緒方塾の塾長で頻りに威張って自然に塾の風を矯正したように聞ゆるけれども、また一方から見れば、酒を飲むことでは随分塾風を荒らしたこともあろうと思う。塾長になっても相変わらず元の貧書生なれども、その時の私の身の上は、故郷に在る母と姪と二人は藩から貰う少々ばかりの家禄で暮している、私は塾長になってから表向きに先生家の賄を受けて、その上に新書生が入門するとき、先生家に束脩を納めて同時に塾長へも金弐朱を呈すと規則があるから、一箇月に入門生が三人あれば塾長には一分二朱の収入、五人あれば二分二朱にもなるから小遣銭には沢山で、これが大抵酒の代になる。衣服は国の母が手織木綿の品を送ってくれて、それには心配がないから、少しでも手もとに金があれば直に飲むことを考える。これがためには同窓生の中で私に誘われてツイツイ飲んだ者も多かろう。さてその飲みようも至極お粗末殺風景で、銭の乏しいときは酒屋で三合か五合買って来て塾中で独り飲む。それから少し都合の宣い時には、一朱か二朱もって一寸と料理茶屋に行く。これは最上の奢(おごり)で容易に出来かねるから、まず度々行くのは鶏肉屋、それよりモット便利なのは牛肉屋だ。そのとき大阪中で牛鍋を食わせる所はだ二軒ある。一軒は難波橋の南詰、一軒は新町の廓の側にあって、最下等の店だから、凡そ人間らしい人で出入する者は決してない。文身(ホリモノ)だらけの町の破落戸(ごろつき)と緒方の書生ばかりが得意の定客だ。どこから取り寄せた肉だか、殺した牛やら病死した牛やらそんなことには頓着なし、一人前百五十文ばかりで牛肉と酒と飯と十分の飲食であったが、牛ほ随分硬くて臭かった。

塾生裸体

 当時は士族の世の中だからみな大小は挟している、けれども内塾生五、六十人の中で、私は元来物を質入れしたことがないから、双刀はチャント持っているその外、塾中に二腰か三腰もあったか、跡はみな質に置いてしまって、塾生の誰か所持しているその刀があたかも共有物で、これでも差支のないというは、銘々倉屋敷にでも行くときに二本挟すばかりで、普段は脇差一本、ただ丸腰にならぬだけのことであったから。それから大阪は暖かい所だから冬は難渋なことはないが、夏は真実の裸体、褌も襦袢も何もない真裸体(まっぱだか)。勿論飯を食う時と会読をする時には、おのずから遠慮するから何か一枚ちょいと引っ掛ける、中にも絽の羽織を真裸体の上に着てる者が多い。これは余程おかしな風で、今の人が見たらさぞ笑うだろう。食事の時には迚(とて)も坐って食うなんということは出来た話でない。足も踏み立てられぬ板敷だから、みな上草履を穿いて立って食う。一度は銘々に別けてやったこともあるけれども、そうは続かぬ。お鉢がそこに出してあるから、銘々に茶碗に盛って百鬼立食。ソンナ訳けだから食物の価(ね)も勿論安い。お菜は一六が葱と薩摩芋の難波煮、五十が豆腐汁、三八が蜆汁というようになっていて、今日は何が出るということは極っている。

裸体の奇談失策

 裸体(はだか)のことについて奇談がある。ある夏の夕方、私共五、六名の中に飲む酒が出来た。すると一人の思い付きに、この洒をあの高い物干の上で飲みたいと言うに、全会一致で、サア屋根づたいに持ち出そうとしたところが、物干の上に下婢が三、四人涼んでいる。これは困った、今あそこで飲むと彼奴らが奥に行って何か饒舌るに違いない、邪魔な奴じゃなと言う中に、長州生に松岡勇記という男がある。至極元気の宜い活発な男で、この松岡の言うに、僕が見事にあの女共を物干か逐い払ってみせようと言いながら、真裸体で一人ツカツカと物干に出て行き「お松どんお竹どん、暑いじゃないか」と言葉を掛けて、そのまま仰向きに大の字なりに成って倒れた。この風体を見ては、さすがの下婢もそこにいることが出来ぬ。気の毒そうな顔をして、みな下りてしまった。すると松岡が、物干の上から蘭語で、上首尾早く来いという合図に、塾部屋の酒を持ち出して涼しく愉快に飲んだことがある。
 またあるときこれは私の大失策――ある夜私が二階に寝ていたら、下から女の声で「福沢さん福沢さん」と呼ぶ。私は夕方酒を飲んで今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。それから真裸体で飛び起きて、階子段を飛び下りて、「何の用だ」とふんばたかったところが、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。どうにもこうにも逃げようにも逃げられず、真裸体で坐ってお辞儀も出来ず、進退窮して実に身の置所がない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも言わず奥の方に引っ込んでしまった。翌朝お詫びに出て、昨夜は誠に失礼仕りましたと陳べる訳けにも行かず、到頭(とうとう)末代御挨拶なしに済んでしまったことがある。こればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に行って緒方の家を尋ねて、この階子段の下だったと四十年前のことを思い出して、独り心の中で赤面しました。

不潔に頓着せず

 塾風は不規則といわんか不整頓といわんか、乱暴狼籍、まるで物事に無頓着。その無煩着の極は、世間でいうように潔不潔、汚ないということを気に止めない。例えば、塾のことであるから勿論桶だの丼だの皿などのあろう筈はないけれども、緒方の塾生は学塾の中にいながら七輪もあれば鍋もあって、物を煮て食うというようなことを普段やっている、その趣きは、あたかも手鍋世帯の台所みたようなことを机の周囲でやっていた。けれども道具の足るということのあろう筈はない。ソコで洗手盥(ちょうずだらい)も金盥も一切食物調理の道具になって、暑中などどこからか素麺を貰うと、その素麺を奥の台所で湯煮(ユデ)て貰うて、その素麺を冷すには、毎朝、顔を洗う洗手盥を持って来て、その中で冷素麺にして、汁を拵えるに調合所の砂糖でも盗み出せは上出来、そのほか肴を拵えるにも野菜を洗うにも洗手盥は唯一のお道具で、ソンナことは少しも汚ないと思わなかった。
 それどころではない。虱は塾中永住の動物で、誰一人もこれを免かれることは出来ない。一寸と裸体になれば五疋も十疋も捕るに造作はない。春さき少し暖気になると羽織の襟に匍出(はいだ)すことがある。ある書生の説に「ドウダ、吾々の虱は大阪の焼芋に似ている。冬中が真盛りで、春になり夏になると次第に衰えて、暑中二、三箇月、蚤と交代して引込み、九月ごろ新芋が町に出ると吾々の虱も復た出て来るのは可笑しい」と言ったことがある。私は一案を工夫し、そもそも虱を殺すに熱湯を用うるは洗濯婆の旧筆法で面白くない、乃公が一発で殺してみせようと言って、厳冬の霜夜に襦袢を物干に晒して虱の親も玉子も一時に枯らしたことがある。この工夫は私の新発明ではない、曾て誰かに聞いたことがあるからやってみたのです。

豚を殺す

 そんな訳けだから、塾中の書生に身なりの立派な者はまず少ない。そのくせ市中の縁日などいえば夜分屹度(きっと)出て行く。行くと往来の群集、就中娘の子などは、アレ書生が来たと言って脇の方に避けるその様子は、何かえたでも出て来てそれをきたながるようだ。如何も仕方がない。往来の人から見てえたのように思う筈だ。あるとき難波橋の吾々得意の牛鍋屋の親爺が豚を買い出して来て、牛屋商売であるが気の弱い奴で、自分に殺すことが出来ぬからと言って、緒方の書生が目ざされた。それから親爺に会って「殺してやるが、殺す代りに何をくれるか」―― 「左様ですな」――「頭をくれるか」――「頭なら上げましょう」。それから殺しに行った。此方はさすがに生理学者で、動物を殺すに窒塞(ちっそく)させれば訳けはないということを知っている。幸いその牛屋は河岸端であるから、そこへ連れて行って、四足を縛って水に突っ込んですぐ殺した。そこてお礼として豚の頭を貰って来て、奥から鉈(なた)を借りて来て、まず解剖的に脳だの眼だのよくよく調べて、散々いじくった跡を煮て食ったことがある。これは牛屋の主人からえたのように見込まれたのでしょう。

熊の解剖

 それからまた、ある時にはこういうことがあった。道修町(どしょうまち)の薬種屋に丹波か丹後から熊が釆たという触れ込み。ある医者の紹介で、後学のため解剖を拝見いたしたいから誰か来て熊を解剖してくれぬかと塾に言って来た。「それは面白い」。当時緒方の書生はなか/\解剖ということに熱心であるから、早速行ってやろうというので出掛けて行く。私は医者でないから行かぬが、塾生中七、八人行きました。それから解剖して、これが心臓で、これが肺、これが肝と説明してやったところが、「誠に有難い」と言って薬種屋も医老もふっと帰ってしまった。その実は彼らの考えに、緒方の書生に解剖して貫えば無疵に熊胆が取れるということを知っているものだから、解剖に託して熊胆が出るや否や帰ってしまったということがチャソトわかったから、書生さんなか/\了簡しない。これは一番こねくってやろうと、塾中の衆議一決、すぐにそれぞれ掛りの手分けをした。塾中に雄弁滔々と能く喋舌(シャベ)って誠に剛情なシツコイ男がある、田中発太郎(今は新吾と改名して加賀金沢にいる)という、これが応接掛り。それから私が掛合手紙の原案着で、信州飯山から来ている書生で菱湖(りょうこ)風の書を善く書く沼田芸平という男が原案の清書する。それから先方へ使者に行くのは誰、脅迫するのは誰と、どうにもこうにも手に余る奴ばかりで、動(やや)もすれば手短に打毀しに行くというような風を見せる奴もある。また彼方から来れば捏(こね)くる奴が控えている。何でも六、七人手勢を揃えて拈込(ねじこ)んで、理屈を述べることは筆にも口にも隙はない。応接掛りは普段の真裸体(まっぱだか)に似ず、袴羽織にチャソト脇差を挟して緩急剛柔、ツマリ学医の面目云々を楯にして剛情な理屈を言うから、サア先方の医者も困ってしまい、そこで平あやまりだという。ただ謝るだけで済めば宣いが、酒を五升に鶏と魚か何かを持って来て、それで手を拍(う)って塾中で大いに飲みました。

芝居見物の失策

 それに引換えて此方から取られたことがある。道頓堀の芝居に与力や同心のような役人が見回りに行くと、スット桟敷に通って、芝居の者共が茶を持って来る菓子を持って来るなどして、大威張りで芝居をただ見る。かねてその様子を知ってるから、緒方の書生が、気味の悪い話サ、大小を挟して宗十郎頭巾を冠って、その役人の真似をして度々行って、首尾能く芝居見物していた。ところが度重なれば顕われるの諺に洩れず、ある日、本者が来た。サア此方は何とも言われないだろう、詐欺だから、役人を偽造したのだから。その時は、こねくられれたととも何とも、進退谷(きわま)り大騒ぎになって、それから玉造の与力に少し由縁を得て、ソレに泣き付いて内済を頼んで、ヤット無事に収まった。そのとき、酒を持って行ったり肴を持って行ったりして、何でも金にして三分ばかり取られたと思う。この詐欺の一件は丹後宮津の高橋順益という男が頭取であったが、私は元来芝居を見ない上に、このことを不安心に思うて「それは余り宣くなかろう、マサカの時は大変だから」と言ったが肯(き)かない。「なに訳けはない、おのずから方便あり」なんてズウ/\しくやっていたが、とう/\捕まったのが可笑しいどころか一時大心配をした。

喧嘩の真似

 それから時としてこういうこともあった。その乱暴さ加減は今人の思い寄らぬことだ。警察がなっかたから、いわば何でも勝手次第である。元来大阪の町人は極めて臆病だ。江戸で喧嘩をすると野次馬が出て来て滅茶苦茶にしてしまうが、大阪では野次馬はとても出て来ない。夏のことで夕方飯を食ってブラブラ出て行く。申し合せをして市中で大喧嘩の真似をする。お互いに痛くないように大層な剣幕で大きな声で怒鳴って掴み合い打ち合うだろう。そうすると、その辺の店はバタバタ片付けて戸を締めてしもうて寂(ひっそ)りとなる。喧嘩といったところが、ただそれだけのことで、外に意味はない。その法は、同類が二、三人ずつ分れて、一番繁昌な賑やかな所で双方から出逢うような仕組にするから、賑やかな所といえばまず遊郭の近所、新町九軒の辺で常極りにやっていたが、しかし余り一カ所でやって化けの皮が顕われるとイカヌから、今夜は道頓堀でやろう、順慶町でやろうと言うてやったこともある。信州の沼田芸平などは、よほど喧嘩の上手であった。

弁天小僧

 それから一度はこういうことがあった。私と先輩の同窓生で久留米の松下元芳という医者と二人連れで御霊という宮地に行って夜見世の植木を冷かしている中に、植木屋が「旦那さん悪さをしてはいけまへん」と言ったのは、吾々の風体を見て万引をしたという意味だから、サア了簡しない。まるで弁天小僧みたように捏繰(ねじくり)返した。「何でもこの野郎を打ち殺してしまえ。理屈を言わずに打ち殺してしまえ」と私が怒鳴る。松下は慰めるような風をして「マア殺さぬでも宣いじゃないか」「ヤア面倒だ、一打ちに打ち殺してしまうから止めなさんな」と、それこれする中に往来の人は黒山のように集まって大混雑になって来たから、此方はなお面白がって威張っていると、御霊の善栽(ぜんさい)屋の餅搗(もちつき)きか何かしている角力(すもう)取が仲裁に這入って来て「どうか宥(ゆる)してやって下さい」と言うから、「よし、貴様が中に這入れば宥してやる。しかし、明日の晩ここに見世を出すと打ち殺してしまうぞ。折角中に這入ったから今夜は宥してやるから」と言つて、翌晩行ってみたら、正直な奴だ、植木屋のところだけ土場見世を休んでいた。今のように一寸も警察というものがなかったから乱暴は勝手次第、けれども存外に悪いことをしない。一寸とこの植木見世くらいの話で、実のある悪事は決してしない。

チボとよばれる

 私が一度大いに恐れたことは、これも御霊の近所で上方に行われる砂持という祭礼のようなことがあって、町中の若い者が百人も二百人も灯籠(とうろう)を頭に掛けてヤイ/\言って行列をして町を通る。書生三、四人してこれを見物している中に、私が如何いう気であったか、何れ酒の機嫌でしょう、杖か何かでその頭の灯寵を打ち落してやった。スルトその連中の奴と見える。チボじゃ、チボじゃ、と怒鳴り出した。大阪でチボ(スリ)といえば、理非を分かたず打ち殺して川に投(ほう)り込む習わしだから、私は本当に怖かった。何でも逃げるに若かずと覚悟をして、跣(はだし)になって堂島の方に逃げた。そのとき私は脇差を一本挟していたから、もし追い付かれるようになれば後向いて進んで斬るより外、仕方がない。斬っては誠に不味い。仮初にも人に疵を付ける了簡はないから、ただ一生懸命に駆けて、堂島五丁目の奥平の倉屋敷に飛び込んでホット呼吸をしたことがある

無神無仏

 また大阪の東北の方に葭屋橋(あしやばし)という橋があるその橋手前の所を築地といって、在昔(むかし)は誠に如何な家ばかり並んでいて、マア待合をする地獄屋とでもいうような内実きたない町であったが、その築地の入口の角に地蔵様か金比羅様か知らん小さな堂がある。なか/\繁昌の様子で、其処に色々な額が上げてある。あるいは男女の拝んでるところが画いてある、何か封書が額に貼り付けてある、または髻(もどり)が切って結い付けてある。それを昼の中に見て置いて、夜になるとその封書や髻のあるのを引っさらえて塾に持って帰って開封してみると、種々様々の願が掛けてあるから面白い。「ハハアこれは博打を打った奴が止めるというのか。これは禁酒だ。これは難船に助かったお礼。此方のは女狂いにこり/"\した奴だ。それは何歳の娘が妙なことを念じている」などと、ただそれを見るのが面白くて毎度やったことだが、兎に角に人の一心を寵めた祈願を無茶苦茶にするとは罪の深いことだ。無神無仏の蘭学生に会っては仕方が

遊女の置手紙

 それから塾中の奇談をいうと、そのときの塾生は大抵みな医者の子弟だから、頭は坊主か総髪で国から出てくるけれども、大阪の都会に居る間は半髪になって天下普通の武家の風がしてみたい。今の真宗妨主が毛を少し延ばして当前の断髪の真似をするような訳けで、内実の医者坊主が半髪になって刀を挟して威張るのを嬉しがっている。そのとき江戸から釆ている手塚という書生があって、この男はある徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した葵の紋付を着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作の刀を挟してるという風だから、如何にも見栄があって立派な男であるが、如何も身持ちが善くない。ソコデ私がある日、手塚に向かって「君が本当に勉強すれば僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何はさておき北の新地に行くことは止しなさい」と言ったら、当人もその時は何か後悔したことがあるとみえて「アア新地か、今思い出しても忌だ。決して行かない」「それなら吃度(きっと)君に教えてやるけれども、マダ疑わしい。行ないという証文を書け」「宜しい、如何なことでも書く」と言うから、云々(しかじか)今後きっと勉強する、もし違約をすれは坊主にされても苦しからず、という証文を書かせて私の手に取って置いて、約束の通りに毎日別段に教えていたところが、その後手塚が真実勉強するから面由くない。こういうのは全く此方が悪い。人の勉強するのを面白くないとは怪しからぬことだけれども、何分興がないから窃(そっ)と両三人に相談して「彼奴の馴染の遊女は何という奴か知ら」「それはすぐにわかる、何々という奴」「よし、それならば一つ手紙をやろう」と、それから私が遊女風の手紙を書く。片言交りにあれらの言いそうなことを並べ立て、何でもあの男は無心を言われているに相違ないと推察して、その無心は、吃度麝香(じゃこう)をくれろとか何とか言われたことがあるに違いないと堆察して、文句の中に「ソレあのとき役足(やくそく)のじゃこはどておます」というような、判じて読まねば分らぬようなことを書き入れて、鉄川様何々よりと記して手紙は出来たが、しかし私の手蹟じゃ不味いから、長州の松岡勇記という男が御家流で女の手に紛らわしく書いて、ソレカラ玄関の取次をする書生に言い含めて「これを新地から来たと言って持って行け。しかし事実を言えば打ち撲るぞ。宜しいか」と脅迫して、それから取次が本人の所に持って行って「鉄川という人は塾中にない、多分手塚君のことと思うから持って来た」と言って渡した。手紙偽造の共謀者は、その前から見え隠れに様子を窺うていたところが、本人の手塚は一人で頻りにその手紙を見ている。麝香の無心があったことか如何か分らないが、手塚の二字を大阪なまりにテツカというそのテツカを鉄川と書いたのは、高橋順益の思い付きでよほど善く出来てる。そんなことで如何やらこうやら、遂に本人をしゃくり出してしまったのは罪の深いことだ。二、三日は止まっていたが果してやって行ったから、ソリャ締めたと共謀者は待っている。翌朝帰って平気でいるから、此方も平気で、私が鋏を持って行ってひょいと引捕えたところが、手塚が驚いて「どうする」と言うから「どうするも何もない、坊主にするだけだ。坊主にされてまた今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。往生しろ」と言って、髻(もとどり)を捕えて鋏をガチャ/\いわせると、当人は真面目になって手を合わせて拝む。そうすると共謀者中から仲裁人が出て来て「福沢、余り酷いじゃないか」「何も文句なしじゃないか、坊主になるのは約束だ」と問答の中に、馴合(なれあい)の中人がだん/\取り持つような風をして、果ては坊主の代りに酒や鶏を買わして、一緒に飲みながらまた冷かして「お願いだ、もう一度行ってくれんか、また飲めるから」とワイワイ言ったのは、随分乱暴だけれども、それがおのずから切諌(イケン)になっていたこともあろう。

御幣担ぎを冷やかす

 同窓生の間にはいろいろな事のあるもので、肥後から来ていた山田謙輔という書生は極々の御掛担ぎで、し'の字を言わぬ。そのとき今の市川団十郎の親の海老蔵が道頓掘の芝居に出ているときで、芝居の話をすると、山田は海老蔵のよ'ば'い'を見るなんて言うくらいな御幣担ぎだから、性質は至極立派な人物だけれども、如何も蘭学書生の気に入らぬ筈だ。何か話の端にはこれを愚弄していると、山田の言うに「福沢々々、君のように無法なことばかり言うが、マア能く考えてみ給え。正月元日の朝、年礼に出掛けた時に、葬礼にあうと、鶴を台に載せて担いで来るのを見ると何方が宜いか」と言うから、私は「それは知れたことだ。死人は食われんから鶴の方が宣い。けれども鶴だッて乃公に食わせなければ死人も同じことだ」と答えたような塩梅式で、何時も冷かして面白がっている中に、あるとき長与専斎か誰かと相談して、彼奴を一番大いにやってやろうじゃないかと、一工夫して、当人の不在の間にその硯に紙を巻いて位牌をこしらえて、長与の書が旨いから、立派に何々院何々居士という山田の法名を書いて机の上に置いて、当人の飯を食う茶わんに灰を入れて線香を立てて、位牌の前にチャソト供えて置いたところが、帰って来てこれを見て、忌な顔をしたとも何とも、真青になって腹を立てていたが、私共は如何も怖かった。もしも短気な男なら切り付けて来たかも知れないから。

欺して河豚を食わせる

 それからまた、一度やった後で怖いと思ったのは、人をだまして河豚を食わせた事だ。私は大阪にいると颯々(さっさ)と河豚も食えば河豚の肝も食っていた。あるとき芸州仁方(にがた)から来ていた書生三刀元寛(みとうげんかん)という男に「鯛の味噌を貰って来たが食わぬか」と言うと、「有難い、なるほど宣い味がする」と、悦んで食ってしまって二時間ばかり経ってから、「イヤ可哀そうに、今食ったのは鯛でも何でもない、中津屋敷で貰った河豚の味噌潰だ。食物の消化時間は大抵知ってるだろう、今吐剤を飲んでも無益だ。河豚の毒が嘔かれるなら嘔いてみろ」と言ったら、三刀も医者のことだから能くわかっている。サア気を揉んで、私に武者振り付くように腹を立てたが、私も後になって余り洒落に念が入り過ぎたと思って心配した。随分間違いの生じ易い話だから。

料理茶屋の物を盗む

 前に言う通り御霊の植木見世で万引と疑われたが、疑われる筈だ、緒方の書生は本当に万引をしていたその万引というは呉服店で反物なんという念の入ったことではない、料理茶屋で飲んだ帰りに、猪口だの小皿だの、いろいろ手ごろな品を窃(そっ)と盗んで来るような万引である。同窓生互いにそれを手柄のようにしているから、送別会などという大会のときには獲物も多い。中には昨晩の会で団扇の大きなのを背中に入れて帰る者もあれば、平たい大皿を懐中し、吸物椀の蓋を袂にする者もある。またある奴は、「君たちがそんな半端物を挙げて来るのはまだ拙(つた)ない。乃公の獲物を拝見し給え」と言って、小皿を十人前揃えて手拭に包んで来たこともある。今思えばこれは茶屋でもトックに知っていながら黙って通して、実はその盗品の勘定も払いの内に這入っているに相違ない、毎度のことでお極りの泥棒だから。

難波橋から小皿を投ず

 その小皿に縁のある一奇談は、ある夏のことである、夜十時過ぎになって洒が飲みたくなって「嗚呼(ああ)飲みたい」と一人が言うと「僕もそうだ」という者がすぐに四、五人出来た。ところがチャソト門限があって出ることが出来ぬから、当直の門番を脅迫して無理に開けさして、鍋島の浜という納涼(すずみ)の葭簾張(よしずばり)で、不味いけれども芋蛸汁か何かで安い酒を飲んで、帰りに例の通りに小皿を五、六枚挙げて来た。夜十二時過ぎでもあったか、難波橋の上に来たら、下流の方で茶船に乗ってジャラ/\三味線を鳴らして騒いでいる奴がある。「あんなことをしていやがる。此方は百五十かそこらの金を見付け出してへようやく一盃飲んで帰るところだ。忌々敷(いまいまし)い奴らだ。あんな奴があるから此方等(こちとら)が貧乏するのだ」と言いさま、私の持ってる小皿を二、三枚投げ付けたら、一番しまいの一枚で三味線の音がプッツリ止んだ。その時は急いで逃げたから、人が怪我をしたかどうか分らなかったところが、不思議にも一カ月ばかり経ってそれが能く分った。塾の一書生が北の新地に行ってどこかの席で芸者に逢うたとき、その芸者の話に「世の中には酷い奴もある。一カ月ばかり前の夜に、私がお客さんと舟で難波橋の下で涼んでいたら、橋の上からお皿を投げて、丁度私の三味線に当たって裏表の皮を打ち抜きましたが、本当に危ないことで、まずまず怪我をせんのが仕合わせでした。どこの奴か四、五人連れで、その皿を投げておいて南の方にドンドン逃げて行きました。実に憎らしい奴もあればあるもの」と、こうこう芸者が話していたというのを、私共はそれを聞いて下手人にはチャソト覚えがあるけれども、言えば面倒だから、その同窓の書生にもその時には隠しておいた。

禁酒から煙草

 また私は酒のために生涯の大損をして、その損害は今日までも身に付いているというその次第は緒方の塾に学問修業しながら、兎角酒を飲んで宣いことは少しもない。これは済まぬことだと思い、あたかも一念ここに発起したように断然酒を止めた。スルト熱中の大評判ではない大笑いで「ヤア福沢が昨日から禁酒した。コリャ面白い、コリャ可笑しい。いつまで続くだろう。迚(とて)も十日は持てまい。三日禁酒で明日は飲むに違いない」なんて冷かす者ばかりであるが、私もなかく剛情に辛抱して十日も十五日も飲まずにいると、親友の高橋順益が「君の辛抱はエライ。よくも続く。見上げてやるぞ。ところが凡そ人間の習慣は、仮令(たとい)い悪いことでも頓(とみ)に禁ずることは宜しくない。到底出来ないことだから。君がいよ/\禁酒と決心したらば、酒の代りに煙草を始めろ。何か一方に楽しみが無くては叶わぬ」と親切らしく言う。ところが私は煙草が大嫌いで、これまでも同塾生の煙草をのむのを散々に悪く言うて「こんな無益な不養生な訳けのわからぬ物をのむ奴の気が知れない。何はさておき臭くて汚くて堪らん。乃公(おれ)の側ではのんでくれるな」なんて、愛想づかしの悪口を言っていたから、今になって自分が煙草を始めるのは如何(どうも)もきまりが悪いけれども、高橋の説を聞けばまた無理でもない。「そんならやってみょうか」と言ってそろ/\試みると、塾中の者が煙草をくれたり、煙管を貸したり、中にはこれは極く軽い煙草だと言ってわざ/\買って来てくれる者もあるというような騒ぎは、何も本当な親切でも何でもない。実は、私が普段、煙草のことを悪くばかり言っていたものだから、今度は彼奴を喫煙者にしてやろうと、寄って掛って私を愚弄するのは分っているけれども、此方は一生懸命禁酒の熱心だから、忌な煙を無理に吹かして、十日も十五日もそろ/\慣らしている中に、臭い辛いものが自然に臭くも辛くもなく、だん/\風味が善くなって来た。凡そ一カ月ばかり経って本当の喫煙者になった。ところが例の酒だ。何としても忘れられない。卑怯とは知りながら、一寸と一盃やってみると堪らない。モウ一盃、これでおしまいと力んでも、徳利を振ってみて音がすれば我慢が出来ない。とう/\三合の洒をみな飲んでしまって、また翌日は五合飲む。五合三合従前(もと)の通りになって、さらば煙草の方はのまぬむかしの通りにしようとしても、これも出来ず、馬鹿々々しいとも何とも訳けが分らない。迚(とて)も叶わぬ禁酒の発心、一カ月の大馬鹿をして酒と煙草と両刀遣いに成り果て、六十余歳の今年に至るまで、酒は自然に禁じたれども煙草は止みそうにもせず、衝生のため自ら作(な)せる損害と申して一言の弁解はありません。

城山から帰って火事場に働く

 塾中兎角貧生が多いので、料理茶屋に行って旨い魚を食うことはまず六かしい。夜になると天神橋か天満橋の橋詰に魚市が立つ。マアいわば魚の残物(ひけもの)のようなもので値が安い。それを買って来て洗手盥(ちょうずだらい)で洗って、机のこわれたのか何かを俎(まないた)にして、小柄(こづか)をもって拵えるというようなことは毎度やっていたが、私は兼て手の先が利いてるから、何時でも魚洗いの役目に回っていた。頃は三月桃の花の時節で、大阪の城の東に桃山という所があって盛りだというから、花見に行こうと相談が出来た。迚(とても)彼方に行って茶屋で飲み食いしようということは叶わぬから、例の通り前の晩に魚の残物を買って来て、その外氷豆腐だの野菜物だの買い調えて、朝早くから起きて匆々(そうそう)に拵えて、それを折か何かに詰めて、それから洒を買って、およそ十四、五人も同伴(ツレ)があったろう、弁当を順持にして桃山に行って、さん/"\飲み食いして宣い機嫌になっているその時に、不図西の方を見ると、大阪の南に当って大火事だ。日はよほど落ちて昔の七ツ過ぎ。サア大変だ。丁度その日に長与専斎が道頓堀の芝居を見に行っている。吾々花見連中は何も大阪の火事に利害を感ずることはないから、焼けても焼けぬでも如何も構わないけれども、長与が行っている。もしや長与が焼死はせぬか。何でも長与を救い出さなければならぬというので、桃山から大阪まで二、三里の道をどん/\駈けて、道頓堀に駆け付けてみたところが、疾うに焼けてしまい、三芝居あったが三芝居とも焼けて、だん/\北の方に焼け延びている。長与は如何したろうかと心配したものの、迚(とても)も捜す訳けに行かぬ。間もなく日が暮れて夜になった。もう夜になっては長与のことは仕方がない。「「火事を見物しようじゃないか」と言って、その火事の中へどんどん這入って行った。ところが荷物を片付けるので大騒ぎ。それからその荷物を運んでやろうというので、夜具包か何の包か風呂敷包を担いだり箪笥を担いだり、なか/\働いて、だん/\と進んで行くと、そのとき大阪では焼ける家の柱に網を付けて家を引き倒すということがあるその綱を引っ張ってくれと言う。「よし来た」とその綱を引っ張る。ところが、握飯を食わせる、酒を飲ませる。如何も堪えられぬ面白い話だ。さん/\酒を飲み握飯を食って八時ごろにもなりましたろう。それから一同塾に帰った。ところがマダ焼けている。
「もう一度行こうではないか」とまた出掛けた。その時の大阪の火事というものは誠に楽なもので、火の周囲だけは大変騒々しいが、火の中へ這入ると誠に静かなもので、一人も人が居らぬくらい。どうもない。ただその周囲の所に人がドヤ/\群集しているだけである。それゆえ大きな声を出して蹴破って中へ飛び込みさえすれば誠に楽な話だ。中には火消の黒人(くろうと)と緒方の書生だけで大いに働いたことがあるというような訳けで、随分活発なことをやったことがありました。
 一体塾生の乱暴というものはこれまで申した通りであるが、その塾生同士相外互の間柄というものは至って仲の宜いもので、決して争いなどをしたことはない。勿論議論はする、いろ/\の事について互いに論じ合うということはあっても、決して喧嘩をするようなことは絶えてない、ことで、殊に私は性質として朋友と本気になって争うたことはない。仮令(たと)い議論をすればとて面白い議論のみをして、例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果して義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私は「どちらでも宜しい、義不義、口の先で自由自在、君が義士と言えば僕は不義士にする、君が不義士と言えば僕は義士にして見せよう、サア来い、幾度来ても苦しくない」と言って、敵になり味方になり、さんざん論じて勝ったり負けたりするのが面白いというくらいな、毒のない議論は毎度大声でやっていたが、本当に顔を赧らめて如何(どう)あっても是非を分ってしまわなければならぬという実の入った議論をしたことは決してない。

塾生の勉強

 およそこういう風で、外に出てもまた内にいても、乱暴もすれば議論もする。ソレゆえ一寸(ちょい)と一目見たところでは――今までの話だけを聞いたところでは、如何にも学問どころのことではなく、ただワイ/\していたのかと人が思うでありましょうが、そこの一段に至っては決してそうでない。学問勉強ということになっては、当時世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われるその一例を申せば、私が安政三年の三月、熱病を煩ろうて幸いに全快に及んだが、病中は括枕(くくりまくら)で、座蒲団か何かを括って枕にしていたが、追々元の体に回復して来たところで、ただの枕をしてみたいと思い、その時に私は中津の倉慶敷に兄と同居していたので、兄の家来が一人あるその家来に、ただの枕をしてみたいから持って来いと言ったが、枕がない、どんなに捜してもないと言うので、不図思い付いた。これまで倉屋敷に一年ばかり居たが、ついぞ枕をしたことがない、というのは、時は何時でも構わぬ、ほとんど昼夜の区別はない、日が暮れたからといって寝ようとも思わず、頻りに書を読んでいる。読書に草臥(くたび)れ眠くなって来れば、机の上に突っ伏して眠るか、あるいは床の間床柱を枕にして眠るか、ついぞ本当に蒲団を敷いて夜具を掛けて枕をして寝るなどということは、ただの一度もしたことがない。その時に初めて自分で気が付いて「なるほど枕はない筈だ、これまで枕をして寝たことがなかったから」と初めて気が付きました。これでも大抵趣きがわかりましょう。これは私一人が別段に勉強生でも何でもない、同窓生は大砥みなそんなもので、およそ勉強ということについては、実にこの上に為(し)ようはないというほどに勉強していました。
 それから緒方の塾に這入ってからも、私は自分の身に覚えがある。夕方食事の時分に、もし酒があれば酒を飲んで初更(ヨイ)に寝る。一寝して目が覚めるというのが、今で言えば十時か十時過ぎ。それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで書を読んでいて、台所の方で塾の飯炊がコト/\飯を焚く仕度をする音が聞えると、それを合図にまた寝る。寝て丁度飯の出来上ったころ起きてそのまま湯屋に行って朝湯に這入ってそれから塾に帰って朝飯を給べてまた書を読むというのが、大抵緒方の塾に居る間ほとんど常極りであった。勿論衛生などということは頓と構わない。全体は医者の塾であるから衛生論も喧しく言いそうなものであるけれども、誰も気が付かなかったのか或いは思い出さなかったのか、一寸でも喧しく言ったことはない。それで平気で居られたというのは、考えてみれば身体が丈夫であったのか、或いはまた衛生々々というようなことを無闇に喧しく言えば却って身体が弱くなると思うていたのではないかと思われる。

原書写本会読の法

 それから塾で修業するその時の仕方は如何いう塩梅であったかと申すと、まず初めて塾に入門した者は何も知らぬ。何も知らぬ者に如何して教えるかというと、そのとき江戸で翻刻になっているオランダの文典が二冊ある。一をガランマチカといい、一をセインタキスという。初学の者には、まずそのガランマチカを教え、素読をを授ける傍(かたわら)に講釈をもして聞かせる。これを一冊読了る(よみおわる)とセインタキスをまたその通りにして教える。如何やらこうやら二冊の文典が解せるようになったところで会読をさせる。会読ということは、生徒が十人なら十人、十五人なら十五人に会頭が一人あって、その会読するのを聞いていて、出来不出来によって白玉を付けたり黒玉を付けたりするという趣向で、ソコで文典二冊の素読も済めば講釈も済み会読も出来るようになると、それから以上は専ら自身自力の研究に任せることにして、会読本の不審は一字半句も他人に質問するを許さず、また質問を試みるような卑劣な者もない。緒方の塾の蔵書というものは、物理書と医書とこの二種類の外に何もない。ソレモ取り集めて僅か十部に足らず、固よりオランダから舶来の原書であるが、一種類ただ一部に限ってあるから、文典以上の生徒になれば如何してもその原害を写さなくてはならぬ。銘々に写して、その写本をもって毎月六斎ぐらい会読をするのであるが、これを写すに十人なら十人一緒に写す訳けに行かないから、誰が先に写すかということは籤(くじ)で定(き)めるので、さてその写しようは如何するというに、その時には勿論洋紙というものはない、みな日本紙で、紙を能く磨(す)って真書で写す。それはどうも埒(らち)が明かない。埒が明かないから、その紙に礬水(どうさ)をして、それから筆は鵞筆(ガペン)でもって写すのがまず一般の風であった。その鷲筆というのは如何いうものであるかというと、そのとき大阪の薬種屋か何かに、鶴か雁かは知らぬが、三寸ばかりに切った鳥の羽の軸を売る所が幾らもある。これは鰹の釣道具にするものとやら聞いていた。価は至極安い物で、それを買って、研ぎ澄ました小刀でもってその軸をペソのように削って使えば役に立つ。それから墨も西洋インキのあられよう訳けはない。日本の墨壷というのは、磨った墨汁を綿か毛氈の切布に浸して使うのであるが、私などが原書の写本に用いるのは、ただ墨を磨ったまま墨壷の中に入れて、今日のインキのようにして貯えて置きます。こういう次第で、塾中誰でも是非写さなければならぬから、写本はなか/\上達して上手である。一例を挙ぐれば、一人の人が原書を読むその傍で、その読む声がちゃんと耳に這入って、颯々と写してスペルを誤ることがない。こういう塩梅に、読むと写すと二人掛りで写したり、また一人で原書を見て写したりして、出来上れば原書を次の人に回す。その人が写し了るとまたその次の人が写すというように順番にして、一日の会読分は半紙にして三枚かあるいは四、五枚より多くはない。

自身自力の研究

 さてその写本の物理書医書の会読を如何するかというに、講釈の為人(して)もなければ読んで聞かしてくれる人もない。内証で教えることも聞くことも書生間の恥辱として、万々一もこれを犯す者はない。ただ自分一人でもってそれを読み砕かなければならぬ。読み砕くには、文典を土台にして辞書に便る外に道はない。その辞書というものは、ここにヅーフという写本の字引が塾に一部ある。これはなか/\大部なもので、日本の紙で凡そ三千枚ある。これを一部こしらえるということは、なか/\大きな騒ぎで、容易に出来たものではない。これは昔、長崎の出島に在留していたオラソダのドクトル・ヅーフという人が、ハルマというドイツオラソダ対訳の原書の字引を翻訳したもので、蘭学社会唯一の宝書と崇められ、それを日本人が伝写して、緒方の塾中にもたった一部しかないから、三人も四人もヅーフの周囲に寄り合って見ていた。それからモウ一歩立上ると、ウェーランドというオランダの原書の字引が一部ある。それは六冊物でオランダの註が入れてある。ヅーフで分らなければウェーランドを見る。ところが初学の間はウェーランドを見ても分かる気遣はない。それゆえ便るところはただヅーフのみ。会読は一六とか三八とか、大抵日目が極っていていよ/\明日が会読だというその晩は、如何な懶堕生(らんだせい)でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋という字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引きつつ勉強している。それから翌朝の会読になる。会読をするにも簸(くじ)でもってここからここまでは誰と極めてする。会頭は勿論原書を持っているので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割り当てられたところを順々に講じて、もしその者が出来なければ次に回す。またその人も出来なければその次に回す。その中で解し得た者は白玉、解し傷(そこの)うた者は黒玉、それから自分の読む領分を一寸でも滞りなく立派に読んでしまったという者は白い三角を付ける。これはただの丸玉の三倍ぐらい優等な印で、およそ塾中の等級は七、八級ぐらいに分けてあった。そうして毎級第一番の上席を三カ月占めていれば登級するという規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞いてやり、至極親切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験にあうようなものだ。そういう訳けで次第々々に昇級すれば、ほとんど塾中の原書を読み尽して、いわば手を空(むな)しうするようなことになる、その時には何か六かしいものはないかというので、実用もない原書の緒言とか序文とかいうようなものを集めて、最上等の塾生だけで会読をしたり、または先生に講義を願ったこともある。私などは即ちその講義聴聞者の一人でありしが、これを聴聞する中にもさま/"\先生の説を聞いて、その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違わぬ大人物であると感心したことは毎度のことで、講義終り塾に帰って朋友相互に「今日の先生の卓説は如何だい。何だか吾々頓(とみ)に無学無識になったようだ」などと話したのは今に覚えています。
市中に出て大いに洒を飲むとか暴れるとかいうのは、大抵会読をしまったその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があるという時に勝手次第に出て行ったので、会読の日に近くなると、いわゆる月に六回の試験だから非常に勉強していました。書物を能く読むと否とは人々の才不才にも依りますけれども、兎も角も外面をごまかして何年いたから登級するの卒業するのということは絶えてなく、正味の実力を養うというのが事実に行われて居ったから、大概の塾生は能く原書を読むことに達していました。

写本の生活

 ヅーフのことについて序(ついで)ながら言うことがある。如何かすると、その時でも諸藩の大名がそのヅーフを一部写して貰いたいという注文を申し込んで来たことがある。ソコででその写本ということがまた書生の生活の種子(たね)になった。当時の写本代は、半紙一枚十行二十字詰で何文という相場である。ところがヅーフ一枚は横文字三十行ぐらいのもので、それだけの横文字を写すと一枚十六文、それから日本文字で入れてある註の方を写すと八文、ただの写本に較べると余程割りが宣しい。一枚十六文であるから十枚写せば百六十四文になる。註の方ならばその半値八十文になる。註を写す者もあれ、は横文字を写す者もあった。ソレを三千枚写すというのであるから、合計してみるとなか〈大きな金高になって、おのずから書生の生活を助けていました。今日より考うれば何でもない金のようだけれども、その時には決してそうでない。一例を申せば、白米一石が三分二朱、酒が一升百六十四文から二百文で、書生在塾の入費は一カ月一分二朱から一分三朱あれば足る。一分二朱はその時の相場でおよそ二貫四百文であるから、一日が百文より安い。然るにヅーフを一日に十枚写せば百六十四文になるから、余るほどあるので、およそ尋常一様の写本をして塾にいられるなどということは世の中にないことであるが、その出来るのは蘭学書生に限る特色の商売であった。ソレについて一例を挙げればこういうことがある。江戸はさすがに大名の居る所で、常にヅーフばかりでなく蘭学書生のために写本の注文は盛んにあったもので、おのずから価が高い。大阪と比べてみれば大変高い。加賀の金沢の鈴木儀六という男は、江戸から大阪に来て修業した書生であるが、この男は元来一文なしに江戸に居て、辛苦して写本でもって自分の身を立てたその上に金を貯えた。およそ一、二年辛抱して金を二十両ばかり拵えて、大阪に出て来て到頭その二十両の金で緒方の塾で学問をして金沢に帰った。これなどは全く蘭書写本のお蔭である。その鈴木の考えでは、写本をして金を取るのは江戸が宣いが、修業するには如何しても大阪でなければ本当なことが出来ないと目的を定めて、ソレでその金を持って来たのであると話していました。

工芸技術に熱心

 それからまた一方では、今日のようにすべて工芸技術の種子というものがなかった。蒸気機関などは、日本国中で見ようといってもありはせぬ。化学(ケミスト)の道具にせよ、どこにも揃ったものはありそうにもしない。揃うた物どころではない、不完全な物もありはせぬ。けれどもそういう中に居ながら、器械のことにせよ化学のことにせよ大体の道理は知っているから、如何かして実地を試みたいものだというので、原書を見てその図を写して似寄(によ)りの物を拵えるということについては、なか/\骨を折りました。私が長崎に居るとき、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫(すず)を附けることが出来るということを聞いて知っている。それまで日本では松脂(まつやに)ばかりを用いていたが、松脂では銅(あかがね)の類に錫を流して鍍金(めっき)することは出来る。唐金(からかね)の鍋に白みを掛けるようなもので、鋳掛屋(いかけや)の仕事であるが、塩酸亜鉛があれば鉄にも錫が着くというので、同塾生と相談してその塩酸亜鉛を作ろうとしたところが、薬屋に行っても塩酸のある気遣いはない。自分でこしらえなければならぬ。塩酸をこしらえる法は書物で分る。その方法に依って何うやら斯うやら塩酸を拵えて、これに亜鉛を溶かして鉄に錫を試みて、鋳掛屋の夢にも知らぬことが立派に出来たというようなことが面白くて堪らぬ。あるいはまたヨジュムを作ってみようではないかと、いろ/\書籍を取り調べ、天満の八百屋市に行って昆布荒布(あらめ)のような海草類を買って来て、それを炮烙(ほうろく)で煎って如何いう風にすれば出来るというので、真黒になって遣ったけれどもこれは到頭出来ない。それから今度は[ドウ]砂製造の野心を起して、まず第一の必要は塩酸アンモニアであるが、これも勿論薬屋にある品物でない。そのアンモニアを造るには如何するかといえば、骨――骨よりもっと世話なしに出来るのは鼈甲屋(べっこうや)などに馬爪(ばす)の削屑(けずりくず)がいくらもあって只くれる。肥料にするかせぬか分らぬが行きさえすればくれるから、それをドツサリ貰って来て徳利に入れて、徳利の外面(そと)に士を塗り、また素焼ききの大きなか瓶を買って七輪にして沢山火を起し、その瓶の中に三本も四本も徳利を入れて、徳利の口には瀬戸物の管を附けて瓶の外に出すなどいろ/\趣向して、ドシ/\火を扇ぎ立てると管の先からタラ/\液が出て来る。即ちこれがアンモニアである。至極旨く取れることは取れるが、ここに難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何とも言いようがない。あの馬爪、あんな骨類を徳利に入れて蒸し炊きにするのであるから、実に鼻持もならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い所でやるのであるから、奥でもって堪らぬ。奥で堪らぬばかりではない。さすがの乱暴書生も、これには辟易して迚(とて)も居られない。夕方湯屋に行くと、着物が臭くって犬が吠えるという訳け。仮令い真裸体(まっぱだか)でやっても、身体が臭いといって人に忌がられる。勿論、製造の本人らは如何でも斯うでもして[ドウ]砂という物を拵えててみましょうという熱心があるから、臭いのも何も構わぬ、頻りに試みているけれども、なにぶん周辺の者が喧しい。下女下男までも、胸が悪くて御飯が食べられないと訴える。それこれの中でヤット妙な物が出来たは出来たが、粉のような物ばかりで結晶しない。如何しても完全な[ドウ]砂にならない、加うるに喧しくて/\堪らぬから一旦罷めにした。けれども気強い男はマダ罷めない。折角仕掛った物が出来ないといっては学者の外聞が悪いとか何とかいうような訳けで、私だの久留米の松下元芳、鶴田仙庵らは思い切ったが、二、三の人はなお遣った。如何しかというと、淀川の一番粗末な船を借りて、舶頭を一人雇うて、その船に例の瓶の七輪を積み込んで、船中で今の通りの臭い仕事をやるは宣いが、矢張り煙が立って風が吹くと、、その煙が陸(おか)の方へ吹き付けられるので、陸の方で喧しくいう。喧しくいえば船を動かして、川を上ったり下ったり、川上の天神橋、天満橋から、ズット下の玉江橋辺まで、上下に逃げて回ってやったことがある。その男は中村恭安いう讃岐の金比羅の医者であった。この外にも犬猫は勿論、死刑人の解剖その他製薬の試験は毎度のことであったが、シテみると当時の蘭学書生は如何にも乱暴なようであるが、人の知らぬところに読書研究、また実地のことについてもなか/\勉強したものだ。
 製薬のことについても奇談がある。あるとき硫酸を造ろうというので、様々大骨折りで不完全ながら色の黒い硫酸が出来たから、これを精製して透明にしなければならぬというので、その日はまず茶椀に入れて棚の上に上げて置いたところが、鶴田仙俺が自分でこれを忘れて、何かの機にその茶椀を棚から落して硫酸を頭から冠り、身体にまでの怪我はなかったが、丁度旧磨四月の頃で、一枚の袷をズタ/\にしたことがある。
 製薬には兎角(とかく)徳利が入用だから、丁庶宣しい、塾の近所の丼池(どぶいけ)筋に米藤という酒屋が塾の御出入、この酒屋から酒を取り寄せて、洒は飲んでしまって徳利は留め置き、何本でもみんな製薬用にして返さぬというのだから、酒屋でも少し変に想ったと見え、内々塾僕に聞き合わせると、この節書生さんは中味の酒よりも徳利の方に用があるというので、酒屋は大いに驚き、その後何としても酒を持って来なくなって困ったことがある。

黒田公の原書を写し取る

 また筑前の国主黒田美濃守という大名は、今の華族黒田のお祖父さんで、緒方洪庵先生は黒田家に出入して、勿論筑前に行くでもなければ江戸に行くでもない、ただ大阪に居ながら黒田家の御出入医ということであった。故に黒田の殿様が江戸出府、あるいは帰国の時に、大阪を通行する時分には、先生は吃度中ノ島の筑前屋敷に伺候して御機嫌を伺うという常例であった。ある歳、安政三年か四年と思う。筑前侯が大阪通行になるというので、先生は例の如く中ノ島の屋敷に行って、帰宅早々私を呼ぶから、何事かと思って行ってみると、先生が一冊の原書を出して見せて「今日筑前屋敷に行ったら、こういう原書が黒田侯の手に這入ったといって見せてくれられたから、一寸と借りて来た」と言う。これを見ればワンダーベルトという原書で、最新の英書をオラソダに翻訳した物理書で、書中は誠に新しいことばかり、就中エレキトルのことが如何にも詳(つまびらか)らかに書いてあるように見える。私などが大阪で電気のことを知ったというのは、ただ纔(わずか)にオランダの学校読本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。ところがこの新舶来の物理書は、英国の大家フハラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来ているから、新奇とも何ともただ驚くばかりで、一見直ちに魂を奪われた。それから私は先生に向かって「これは誠に珍しい原書でございますが、何時までここに拝借していることが出来ましょうか」と言うと、「左様さ。何れ黒田侯は二晩とやら大阪に泊るという。御出立になるまでは、あちらに入用もあるまい」「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとうございます」と言って、塾へ持って来て「如何だ、この原書は」と言ったら、塾中の書生は雲霞の如く集って一冊の本を見ているから、私は二、三の先輩生と相談して、何でもこの本を写して取ろうということに一決して、「この原書をただ見たって何にも役に立たぬ。見ることは止めにして、サア写すのだ。しかし千頁もある大部の書をみな写すことは迚も出来られないから、末段のエレキトルのところだけ写そう。一同筆紙墨の用意して総掛りだ」といったところで、ここに一つ困ることには、大切な黒田様の蔵書を毀すことが出来ない。毀して手分けて遣れば、三十人も五十人もいるから瞬く間に出来てしまうが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙を得ているから、一人が原書を読むと一人はこれを耳に聞いて写すことが出来る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍って来ると直に外の者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でも直に寝ると、こういう仕組にして、昼夜の別なく、飯を食う間も煙草をのむ間も休まず、一寸とも隙(ひま)なしに、およそ二夜三日の間に、エレキトルのところは申すに及ばず、図も写して読み合わせまで出来てしまって、紙数はおよそ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることなら外のところも写したいと言ったが時日が許さない。マア/\これだけでも写したのは有り難いというばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買い取られたと聞いて、貧書生らはただ篤くのみ。固より自分に買うという野心も起りはしない。いよ/\今夕、候の御出立と定(き)まり、私共はその原書を撫くりまわし誠に親に暇乞をするように別れを惜しんで還したことがございました。それから後は、塾中にエレキトルの説が全く面目を新たにして、当時の日本国中最上の点に達していたと申して憚(はばかり)ません。私などが今日でも電気の話を聞いておよそその方角のわかるのは、全くこの写本の御蔭である。誠に因縁のある珍しい原書だから、その後たび/\今の黒田侯の方へ、ひょっとあの原書はなかろうかと問い合わせましたが、彼方でも混雑の際であったから如何なったか見当らぬという。惜しいことでございます。

大阪書生の特色

 只今申したような次第で、緒方の書生は学問上のことについては一寸とも怠ったことはない。その時の有様を申せば、江戸にいた書生が折節(おりふし)大阪に来て学ぶ者はあったけれども、大阪からわざ/\江戸に学びに行くというものはない。行けば則ち教えるという方であった。されば大阪に限って日本国中粒選(つぶえり)のエライ書生のいよう訳けはない。また江戸に限って日本国中の鈍い書生ばかりいよう訳けもない。しかるに何故ソレが違うかということこついては考えなくてはならぬ。勿論その時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をしていたたけれども、それは人物の相違ではない。江戸と大阪とおのずから事情が違っている。江戸の方では開国の初とはいいながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷というものがあって、西洋の新技術を求むることが広く且つ急である。従って、いささかでも洋書を解すことの出来る者を雇うとか、あるいは翻訳させればその返礼に金を与えるとかいうようなことで、書生輩がおのずから生計の道に近い。極都合の宣い者になれば大名に抱えられて昨日までの書生が今日は何百石の侍になったということもまれにはあった。それに引き替えて、大阪はまるで町人の世界で、何も武家というものはない。従って砲術を遣ろうという者もなければ原書を取り調べるべようという者もありはせぬ。それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。緑がないから縁を求めるということにも思い寄らぬので、しからば何のために苦学するかといえば一寸と説明はない。前途自分の身体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるはかりで、既に已に焼けに成っている。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実に訳けのわからぬ身の有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限って斯様(コン)なことが出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下(がんか)に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。たとえばこの薬は何に利くか知らぬけれどども自分たちより外にこんな苦いい薬を呑む者はなかろうという見識で、病の在るところも問わずに、ただ苦ければもっと呑んでやるというくらいの血気であったに違いはない。

漢家を敵視す

 もしも真実その苦学の目的如何なんて問う者あるも返答はただ漠然たる議論ばかり。医師の塾であるから政治談は余り流行せず、国の開国論をいえば固より開国なれども、甚だしくこれを争う者もなく、ただ当の敵は漢方医で、医者が憎ければ儒者までも憎くなって、何でもかでもシナ流は一切打ち払いということは、どことなく定まっていたようだ。儒者が経史の講釈しても聴聞しようという者もなく、漢学書生を見ればただ可笑しく思うのみ。殊に漢医書生はこれを笑うばかりでなくこれを罵詈して少しも許さず、緒方塾の近傍、中ノ島に華岡という漢医の大家があって、その塾の書生は孰(いず)れも福生とみえ服装(みなり)も立派で、なか/\もって吾々蘭学生の類でない。毎度往来に出逢うて、もとより言葉も交えず互いに睨み合うて行き違うそのあとで、「彼の様ア如何だい。着物ばかり奇麗で何をしているんだ。空々寂々チンプンカンの講釈を聞いて、その中で古く手垢の付いてる奴が塾長だ。こんな奴らが二千年来垢染みた傷寒論を土産にして、国に帰って人を殺すとは恐ろしいじゃないか。今に見ろ、彼奴らを根絶やしにして呼吸の音を止めてやるから」なんてワイ/\言ったのは毎度のことであるが、これとても此方(こっち)に如斯(こう)という成算も何もない。ただ漢方医流の無学無術を罵倒して、蘭学生の気焔を吐くばかりのことである。

目的なしの勉強

 兎に角に当時緒方の書生は、十中の七、八、目的なしに苦学した者であるがその目的のなかったのが却って仕合で、江戸の書生よりも能く勉強が出来たのであろう。ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く先ばかり考えているようでは、修業は出来なかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中はおのずから静かにして居らなければならぬ、という理屈がここに出て釆ようと思う。

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