眼鏡は眼科医・眼鏡屋の必需品

眼鏡は眼科医・眼鏡屋の必需品

 俺様が、眼鏡から開放されたいと願うようになったとき、既に40歳を過ぎていた。 正直なところ年齢的に遅すぎる不安もあった。朝、目が覚めたとき、先ず眼鏡に手を 伸ばす…。これが習慣だった。                          眼鏡を掛けなければ周囲の様子は、ぼんやりして誠にうっとうしい限りで、そんな 状態で探し物など、とても出来るような状態ではなく、俺様にとって、眼鏡は完璧な 生活必需品であった。                              ただ、その歳で、視力が落ちて眼鏡の新調を進められたとき、初めて眼鏡に対する 疑問を感じ始めた。基本的に自分の視力が落ちているのに、逆に眼鏡によって視力が 上がる…。この異常事態をずっと続けて来た。                   ものを見る力は、完璧に眼鏡に依存して自分の目は、どんどんその機能を低下させ 益々見えなくなる。それでも常に視力が一定に保たれてしまう。弱い目に、ピントの 合った映像を与え続けることに何か無理はないのか?                強度の近視が、網膜剥離を誘発するとも言われる。正常な映像を拒絶する、最後の 人体の抵抗なのかも知れぬ。原因を考えずに結果として現れる、ピントのずれだけに 対処するやり方は、治療ではない。                        本来治療とは、何の道具も必要としない自然の状態に戻して、完璧に医者の手から 患者を開放することなのである。それを考えるとき、医療全般が、本来の治療からは 程遠いところに位置している。                          見かけは何でもないように見えながら、何年も医者通いをして薬を飲み続けている 患者も多い。腎臓の機能が損なわれた状態を放置して、その機能を機械に代行させる ために定期的に人工透析に通わせることも一般的である。              一度、こうして機械に依存すると、人体は自らの力で本来の機能を回復することは なくなる。どんどん退化するだけである。結局、医療の世界全般が、さながら近眼の 状態に置かれているかのようだ。                         医学の基本には、どこかに人体の機能は、人工的に補えるとする考えがあるように 思えてならない。駄目になった機能の回復を考えずに、単純に代替え用品を用意して それに適応するように体を慣らしてしまう。                    最近、駄目になった臓器を部品として捉えて、死んだり脳死状態になった患者から 同じ部品を取り出して使う臓器移植も盛んである。ピントが合わなくなった目を治す 方向を考えず、人工的にピントを合わせてしまう。                 何故、ピントがずれるのか? その基本的な部分は、尚、分からないままである。 というより、それを真剣に考えようとしていない。度の弱くなった眼鏡を、定期的に 調整した方が商売にもなる。                           眼科医も、訪れる患者の全てを自然に返して、医者の必要から開放してしまえば、 それきり商売の縁を切ってしまうことになる。手軽に患者の視力を戻して、継続的な 繋がりが確保出来る眼鏡は眼科医と眼鏡屋の必需品である? ** 悪魔 **  

 ・眼鏡を掛け続けることへの疑問
 ・視力回復の可能性を何処にみいだすか?
 ・近眼と老眼の関係
 ・日本語の表紙へ…