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PioneerHeaven
 「滅びの子」〜スノゥ〜
−・1・−
不夜城都市



 風がふいていた。
 ふきぬける風は草原に緑のたなびきをうながし、波のようにさざめかせている。
 空が青い。
 澄みわたる天体には、雲ひとつみえなかった。
 陽の光に照らされて光かがやく青と、緑――
 ここには空を覆うドームもない。
 そびえたつタワーもない。
 すべてが自然だった。
 そのなかを風は、ふいていく。
 ここちがよかった。つめたくて、その風に身を浸していると身体のなかにたまる澱がすべて払拭されていくような、そんな錯覚さえ感じてしまう。
 そのここちよさに身をまかせ、私はゆっくりと、手をのばす。
 あの空の青さに溶けてしまうほどにこの身が澄んで、軽くなってしまえばどれだけ楽になれるだろう。
 この地上の重力はつよすぎる。
 私は私でいられない。
 どこにもたどりつけられず、だた時がすぎていくのを待つまま。
 だけど、あの空に、私が舞うことができるのならば。
 きっと、私はかわれる。
 いまの私じゃない、またべつの、知らなかった可能性に気づくことができる。
 この背中に、あの風にまけないだけのハネがあるのなら……。
 そんなあこがれを抱いて、私は伸ばしてみた。
 空へ。指を。
 風のつよさが増した。
 耳もとで猛々しく風がうなる。赤髪が正体もなくみだれる。草原のたなびきはよりいっそう強くなり、幾重ものさざなみがその流れを速め、地平線の彼方へとぬけていった。
 風は指のあいだをぬけ、肌をなで、私の身のうちを侵すことなくふきぬけていく。
 握りしめても風はつかめない。
 みあげた空からゆっくり、視線をおとして私は草原にかたどられる波の模様をみつめた。
 ……過ぎていく。
 遠くへ。はるか遠くへ。
 もう、指をのばしてもとどかない、ずっとむこう側へ。
(…………)
 この指は、風をつかめない。
 私の瞳は、風を映せない。
 草原に緑の波がかたどられるそのさまを、私はただ目にするだけで、そのながれも、うずをまき空へとのぼるそのみだれも、私は見ることができないでいた。
 これだけ強く、風は唸りをあげているのに。
 私の髪をなぶり、彼方へとぬけていくのに。
(…………)
 みあげた空には、いくつかの人影がみえた。
 そのなかには同じ魂のかたわれの姿がいた。
 愛したひとがいた。
 友人とよべる、気兼ねなく心をあけわたすことのできる人たちがいた。
 かれらはみな、私にとりかけがえのない、大切なひとたちだった。
 自由にはばたき、みずからを謳歌するものたち。
 その姿は誇りたかく、なにものにも属さない。
 みえない翼をひろげてまっすぐ、ははるかな高みへと駆けのぼっていく。
 地上の重力にも負けず、からみつくしがらみにも夢はつぶされることなく。
 無窮の海を――はばたいていく。
(…………)
 そんなかれらだからこそ、空はそこにかれらをすまうのをゆるしたのだろうか。
 空はひとを選ぶ。風はひとをみさだめる。
 私は――空にえらばれなかった。
 私では、空をとべない。
 この足は地をけりとばすことすらできない。
 しがらみは深く、重力は強く。
 のがれるだけのつよさを、空は私にあたえてくれなかった。
 ……いや、違う。
 私だ。私が空を捨てた。
 私ではあの無窮に殺されてしまう。
 踏みしめる地をうしなってまで生きていけるほど、私は強くはない。
 だから――
 私はこの地でかれらをみまもることを選び、空を捨てたのだ。きっと。
(…………)
 空をとぶかれらの影を目で追いながら、私は思う。
 もしかしたらそれは、誰でもいいのかもしれない。
 けど、誰か――誰かがかれらの姿をみまもるものがいなければ、いったいかれらはどうなってしまうだろう。
 きっと、消えてしまう。
 この地上にあり、かれらは異端なのだ。魂のかたち、そのものからして違う。それは夢を夢みるようにはできていない。いつも焦がれており、ここではない自由、誰も知らぬ未踏を、つねにかれらはさがしつづけている。
 だれかみまもるものがいなければその想いがきっと、かれらをこの世界ではない、どこかの果てに連れ去っていってしまうに違いない。
 だから――
 私が、いる。私は、いる。
 この地上でじっと、とどかない空をみあげながら。
(…………)
 笑顔はくずさない。
 かれらが空のひろさにまどいをみせたその時に、できるかぎりの助言を私がしてあげられるよう、私はしすかに笑顔をうかべていた。
 ふきぬける風は強かった。
 草原になびく波は、地平線の向こうにまでつづいていた。 
(…………)
 もう一度だけ、そっと――
 私は空にむけて指をのばした。
 風が腕にまとわりからみつく。指のあいだをすりぬける。
 てのひらをにぎりしめてもそこに私は自分の感触をおぼえるだけで、風をつかみとることはやはりできなかった。
(…………)
 ほほえみは、くずさない。
 風を追い、みあげた先に見える空。
 気がつくとそこにはもう、かれらの姿はみえなかった。
 ――いって、しまった。
 私をおいて、空の彼方へ。
 誰もしらない、未踏の地へ。
 考えればわかる。それは当然の帰結だ。
 この地上に縛られた空は、かれらには狭すぎる。
 もう、目で追いかけることもできない。
(…………)
 吹く風は草原にたなびきを添えて、地上を緑の海原へかたちをかえていく。
 降りそそぐ太陽の光はいつもと同じで、晴れやかに世界を祝福していた。
 なにもかわりばえのない景色がひろがっていた。
 それは自然に抱かれた、とてもやさしい世界だった。
 なにも思い煩うことのない、そんな平和な時間はいつまでも続いていた。
 その、なかで。
 緑の波のなか、私はひとりたたずみながら――

 自分のほほえみが、少しずつゆらいでいくのをかんじていた。
 






 ぼんやりとした像は、ゆるやかに焦点をさだめていく。
 瞳を開けて、まずはじめにみえたのは蔓草のレリーフがほどこされた天井。
 ……身体がダルい。
 昨夜の情事がいまだに尾をひいているのだろうか。
 動くのもおっくうで、まるで鎖にでもつながれているみたいで、なにをするにも、とかく面倒に思えてしまう。
(…………)
 額に腕をおきながら、私は天井に彫られた蔓草の模様をみつめつづけていた。そうしながらも別の手は、寝台の隣の空白を探っていた。
 誰もいない。
 情事をともにした男の姿は、まるで一夜限りの魔法のように、こつぜんとその姿を消していた。つめたいシーツの感触だけを、私の指は感じていく。
 息を吐きだした。
 関係はいつも刹那だ。
 うわべだけがまじわり、ひとときの悦楽のあと、それはなにごともなかったようにかけ離れていく。ふかくつながりあうことも、そこからただ一つの真理に到達することもけっしてない。
 重い身体にわずらいをおぼえながら、私は身を起こした。
(…………)
 べつに、ふかいまじわりをもとめているわけではない。甘い幻想が現実にかすむことなくかたどられる瞬間を夢見ているわけでもない。そんなものがここで得られるわけがないのは、じゅうぶんに理解している。私もそこまで無知じゃない。
 そんなこと、わかってる。
 けど……。
(けど?)
 みずからがたどる思考の流れに、私は笑った。
 「けど」なんなのだろう。その後に続く言葉に、私はなにを期待しているのだろう。
 ばかばかしい。くだらない感傷だ。 
 また一つ、私は息を吐き出した。
(…………)
 髪を無造作にかきながら、私はぐるり部屋をみわたした。
 夜とも昼ともつかない、ほのあかるい闇に染まる室内。
 正面には【レッドリング・リコ】の通称でしられるSSハンターズの一人、リコ・タイレルのポスターがはられている。
 ポスターといっても、それはホロヴィジョン処理を施されたものではなく、紙の材質にただ印刷がなされただけの、二次元的なシロモノだ。
 すみには書架が一つ配置され、となりにはクローゼットの扉が壁に埋め込まれている。そのクローゼットのとなりには古風な化粧台が立ち、三面鏡が両開きに開いたままになっていた。
 右の壁は外に面しているが、壁に透過処理はほどこされておらず、窓がただ一つ、あるのみだった。窓の縁――プランターには花壇が置かれ、開いた窓からながれる風を受け、紫の花がさわやかにそよいでいた。紗幕(カーテン)もまた、そんな風のあおりをうけ、やわらかなふくらみをみせていた。
 ホームセキュリティを統べる端末の姿もない。そもそもホームセキュリティそのものがあるのかもわからない。非常に古風で、懐古的なつくりをしていた。
 質素ではあるが、そのなかにも確かな味がある。
 全体的におちついたトーンをかもしだしていて、はじめのうちこそまるで別世界に迷い込んだかのようにおちつかなかったが、慣れてみると端末のない生活も、そんなに悪いものではなかった。
 喉に渇きをおぼえて、私は寝台の隣にそえつけられたテーブルに手を伸ばす。
 ……え?
「なぁにニヤついてたのよ。スケベ」
 ひ、人――!?
「っわわわ」
 バランスをくずして、文字どおり私は寝台から転げ落ちた。
「ずいぶんと派手に驚いてくれるわねぇ。わたしゃ化け物か」
 軽い憤慨の声を、アリアは漏らした。
「いつからいたのよ」
 ……痛い。
 うちつけた頭をさすりながら、寝台に手をかけ私は身を起こした。
「さぁ、時間なんてはかってないから忘れたわよ。そんなの」
 椅子を逆に腰かけ、その背に身をもたせながらアリアは言った。
 白を基調とした、涼やかな色をしたワンピース。
 伸びる四肢はすらりとながく、私に容赦なくそのプロポーションのよさをうかがわせてくれる。薄明に閉じた部屋のなかにありながらも、肌の白さがさまざまと映えていた。
 さっぱりとした印象の女性だった。
 ショートにまとめられた髪はプラチナに近いブロンドで、それは先端を軽くはねあげるスタイルをしている。ブロンドのはざまよりのびるながい耳はニューマン特有のものだ。その髪型は、アリアの我の強そうな細い顔だちによくよく似合っていた。
 切れ長の双眸からのぞく、さわやかな空の色あいがおかしげに私をみつめる。
「少なくとも、そこのスープが冷めるくらいの時間は経ってるみたいだけどね」
 アリアの視線をたどるとテーブルの上に、木製の器に満たされたコーンのスープがあった。湯気もなく、すっかり冷めてしまっていた。
 窓の外に目をやると、だいぶ陽の光が弱まっていた。
 夕焼け、というべきなのだろうか。
 でもそれを再現できるほどの細やかな機微を、この区域の気象システムは備えていない。ただ天体に、光量の落とされた淡い光のトーンを広げるのみ。それに、もともとが他のエリアとくらべてここの日照期間は非常に短く設定されており、一日のほとんどが夜となっている。
 その夜が、もうすぐそこまできていた。
「……私、もしかして寝過ごした?」
「いいんじゃない。なにか用があればおばさんがたたき起こしにくるだろうし」
「フライパンで?」
「そ。フライパンで」
 顔を見合わせて、私たちは笑った。
 おばさんのフライパンは当代随一の威力として、この区域ではちょっとした伝説と化している。
「それで、アリアはなにをしていたわけ」
 テーブルに置かれた水さしからコップに水を注いで、私はかわいた喉をうるおした。
「んーべつに。暇だからスノゥの寝顔みてた。これ運びがてらね」
 ちらりと目で、テーブルに置かれたスープをさししめした。
 コップをあおぐ私の手がとまった。
「寝顔って……」
 一抹の不安がよぎる。あわてて私は胸を隠した。
「んーな貧相な胸いまさら隠してどーなるのよ。食べるつもりならとっくに食べてるって」
「ひ、貧相って……」
 どんな反応をするべきか思わず迷った。テーブルにコップを置きながらも片腕でまだ、私は胸を隠しつづけている
「体格相応といえば体格相応なんだろうけどさ。でも発育悪いよぉ。ちゃんとかわいがってもらってるの? なんだったらわたしが――」
「結構よ。というかその手やめなさい」
 胸をもむように指をわきわきさせるアリアに、私はにべもなく言い放った。
「べつに胸で売っているわけじゃないから」
「かといって幼児趣味の男は断っているくせに」
「う……」
 あいかわらずこの子は痛いところをついてくる。
「顔や性癖で選んでいるうちはまだまだガキね。男にある程度の水準を求めるなら、まずは自分も磨かないと」
「……そういうアリアはどうなの」
「ん、わたし?」
 アリアの空色の瞳が、我が意得たとばかりにきらめいた。
 椅子にもたれた背筋をぴんと伸ばし、腰に手をあてて胸をはる。
 ……どうやら自分の胸を誇示しているらしい。
 確かに私の身体にはない、見事な張りだった。
「見る?」
「……いや、遠慮しとく」
 おどけ、私をからかおうとするアリアを無視して私はクローゼットを開けた。
「…………」 
 ……服がない。
 幾度もまばたきをして、クローゼットの中身を確認する。
 やっぱり服がない。さすがに目をこするほどの馬鹿な真似はしなかったが、それでも事態を把握するのに、少しばかり時間がかかった。
 振りかえり、アリアを見る。
 案の定、唇にいらずらっぽい笑みを浮かべ、こちらに目を向けていた。
 私の視線に気づき、アリアが口を開く。
「なに? 食べ物ならほら、ちゃんとテーブルの上に――」
「アリア」
 アリアの言葉をさえぎり、私は彼女をじっとにらみすえた。
 私の視線にも、アリアは物怖じした素振りすらみせない。
 そんなタマじゃないのはわかっていたけど、それでも真っ正面からこう、受け止められるとなんだか腹がたつ。
「どこに隠したの」
「隠す? なにを?」
「とぼけないで。あなたでしょう。私の服隠したの」
「あー、あれね」
 わざとらしく大仰な素振りを、アリアはみせた。
「クリーニングに出しておいたわよ」
「く、クリーニングぅ!?」
 驚きのあまり頓狂な声を出してしまった。
 開けたクローゼットにふたたび目をやる。
 服が一着もない。
 ……きょう一日ハダカですごせとでもいうのだろうか、この子は。
 唐突にアリアの笑い声が聞こえた。
 見ると腹を抱えて身をよじっていた。
「あんたのその顔……ほんと、いいキャラしてる」 
「アリア!」
「ごめんごめん。だって……」
 笑いに目に涙を浮かべながら、アリアは寝台の枕のほうを指差した。
「いくらなんでも全部クリーニングに出すわけないでしょう。ほら、あんたの服はそこ。気付かなかったの。いままで」
「……おかげさまで」
 これ以上怒りをぶつけてもアリアの笑いを助長させるだけだ。そう結論づけて私はなんとか自分をなだめる。イタズラ好きも結構だが、それも度がすぎると笑えない。その対象が自分であるのならなおさらだ。
「……って」
 これ、私の服じゃない。
 枕の横に置かれた服を指で持ち上げ、広げてみる。やっぱり、その黒いワンピースに見覚えはなかった。
 と言うか、ワンピースと呼ぶには、その、ちょっと少し扇情的なような、気が……。
「それね、今日マーケットでいい値段で売っててさ。スノゥに似合うかなぁと思って買ってきたんだけど。どお、気に入った」
 アリアの声は嬉々とはずんでいた。その声からは本気で似合うと思い買ってきたのか、それとも私をからかうために買ってきたのか判別しかねた。
「確かに……サイズはピッタリだとは思うけど」
 このスカートの縁にある花柄の刺繍はなんなのだろう。思いきり少女趣味丸出しじゃない。
「あんたって、いっつもシンプルな服ばかり着てるじゃない。たまにはそういうのもいいって。絶対似合うよ」
「……あまり、趣味じゃないのよね。こういうの」
「そう言わない。ほら、そんな貧相なもの見せびらかしてないで早く着た着た」
「ひ、貧相って――」
 自分の胸の豊満さをカサにきて、ホント好き放題言ってくれる。
「怒らないの。今日はおばさんのお店手伝う日でしょう。ほら、急がないと」
 色々と言いたいこともあったが、とりあえず私はワンピースと一緒に置かれていた下着を身につけた。その黒い下着にも見覚えはなく、おそらくはアリアがマーケットとやらでいい値段で売っていたものを見つけ、買ってきたものなのだろう。それもまた、とうてい私の趣味とは言いがたい、少女趣味満載なシロモノだった。
 ……なんだか人形扱いされている気分だ。
「さ、ほら。そんな髪じゃ出られるものも出られないって」
 私が下着を身につけたとみるや、アリアは椅子から立ち上がり、私を化粧台のほうへおしやっていった。無理やり椅子に座らせられる。
「ろくに手入れもしてないくせに、ホントいい髪質してるわよねぇ」
 化粧台に置かれたクシで私の髪を梳きながら、アリアは言った。
「アリアも人のこと言えないわよ」
「私はいいの。努力してるから」
 窓から射す弱い光が私の黒髪にとどき、表面に蒼い光をながしていく。
 白い肌。子供のような細い体躯。
 眼是ない黒い瞳が、じっと私を見つめている。
 黒髪のあいだからはアリアと同じく鋭い、長い耳がのぞいていた。
 そんな私のすがたが、化粧台の三面鏡のうえにうつっていた。
 それはいまの私の姿だった。
 いまの私だった。
(…………)
「ねえ」
 私の髪を梳きながら、アリアが尋ねてきた。
「なに」
「どんな、夢をみていたの」
 アリアにしてめずらしく、どこか遠慮がちな言葉だった。
「夢?」
「ん……ちょっとね、気になっちゃって」
 髪を梳きながら、アリアは言った。
 表情はなにげなかったが、それがかえって不自然だった。
「べつに嫌なら答えなくてもいいわ。たんなる興味本位でだしね」
 鏡に映る自分の目をよく見ると、それはどこか腫れぼったくて、赤い。
 目の端に涙の跡がみえた。
(暇だからスノゥの寝顔見てた)
 さきほどのアリアの言葉が、ふと脳裏によぎった。
「イヤという訳じゃないけど……もう忘れたわ」
「ん。そっ――か」
 それだけを言うと、アリアはなにごともなかったかのように私の髪を梳くことに集中しはじめた。
「ホント憎らしいほど素材はいいのにねぇ。嘆くべきはそれを磨く努力を当人がしないことか」
(…………)
 ――うそだった。
 ほんとうは、ちゃんとよくおぼえていた。
 あの、風にそよく緑の海原。
 みあげることしかできない、遠く青い空。
 どれだけ腕をのばしてもこの指はかれらのもとへはとどかない。そのせつなさとむなしさも、私はちゃんとおぼえていた。
 いつもみるその夢は、きまって私にほろにがいものを胸に残していく。それは心のすきまがみせる、かなしい幻影だった。
 風をあび、はるかな高みとかけのぼっていくかれら。
 かれらははたして気づいていたのだろうか。
 浮かべたほほえみの、その裏側にひそめた私の心を。
(…………)
 羨望や嫉妬、絶望と涙――その続きからみちびきだされる孤独。
 それに気づきたくなくて私は、すべてをほほえみのなかに閉ざしていた。そして、すこしでもかれらとのつながりのある人間なんだと、そう自分にいいきかせたくて、とどかない空をずっとみあげていた。空をみあげてみまもることが、夢のなかの私ができた、せいいっぱいのつながりだった。
 だけど、いってしまった。
 さらなる高みへ。新たなる風をつたって。いまだ見ぬ空へと。
 少しだけ、心がいたい。
(…………) 
 私は最後の最後まで、ほほえみをくずすことができなかった。
 本当はいってほしくなかった。私のもとに残って欲しかった。心は悲鳴をあげていた。ひきさかれるほどのいたみに自分はたえられるほどつよくはないと、そう、何度も何度も、ずっとさけんでいた。
 でも、言えなかった。
 言えば、私の瞳が涙でくもることになる。それが鎖となり、かれらの歩みをとめることになる。かれらがもとめた自由が、私なんかのためにつぶれるそのことのほうが、自分の心をおさえつづけるより私にはたえがたかった。
 ひきとめたかったわけじゃない。
 ただ、一緒にいきたかった。
 かれらとともに、風に導かれ、あの空の果てまで。
 かれらと共にあることが――私にとり、ゆいいつの安息だったから。
(…………)
 わかってる。私はばかだ。
 夢は夢。あれは幻だ。想いがイメージとしてかたどられた産物で、それは現実じゃない。あんな過去、私は知らない。
 だけど……。
 抽象は実体をおびて夢をつむぎだす。
 そう。あの時の言葉は確かに未踏へのはばたきだった。私のもとから離れる別れに違いなかった。
(俺はいく。アルゴルへ――)
 感極まり、熱をおびて言うあの人に、私は激励をかけることしかできなかった。
 かれの翼はついにみずからがもとめた空にたどりついたのだ。そこにどうしてその翼をにぶらせるようなことが言えるだろう。かれの自由を殺すぐらいなら、私などいらないほうがいい。
 もう、必要ないのだ。
 あの人はあの人の本当の世界をみつけた。仮宿としてすみつけた世界はその役目を終えた。だからつなぎとめていた鎖は消える。それだけのこと。
 一度はつけた結論だった。私はじゅうぶんにやすらぐことができた。ぬくもりが費えても、凍てつく氷は二度と私を閉ざすことはない。あの人の望みに少しでも役にたてたことできっと、私は満足していた。していたはずだった。
 なのに――想いが消えない。
 いちど得た安息を私はまだ求めている。もう戻らない。それはわかっているはずなのに、まだ蜃気楼のように霞むかつての景色を求めてしまう。
 女々しく思う。でも、そう自分を侮蔑しても感情は消えない。


 ねえ、もう私のことは必要ないの?


 あの時に言えなかったその問いを、ただあの人に。
 ……投げかけたくて。



               
* *




 アリアはいつからしゃべらなくなったのだろう。
 それももう、よくおぼえていない。
 しんとしたしすけさが、まるで薄氷のように室内を包み込む。
 それはうごきはじめたシティのざわめきをも遠くさせていた。
(…………)
 日照期間はとうに過ぎ去ってしまっていた。空の光は完全に途絶え、窓からはその光が射すこともない。かわりにシティを照らす、街のあかりそれ自体が射し込んできていた。
 気がつくと、夜がおとずれていた。
 闇に踊り狂う、アビスの一日がまたはじまる。
「…………」
 アリアは言葉もなく私の髪型をセットしていた。要所要所をピンでとめて、結い上げるかたちにスタイルを整えていく。光のない部屋のなかでは、鏡に映る私とアリアの姿はただのシルエットだけで、顔も、表情も、闇にまぎれてみることはできなかった。
「これで――っと」
 後ろに流し、まとめた髪房のひとつをピンであげる形にとめて、ようやく満足いったようにアリアは大きく息を吐き出した。
「んー、完璧。もうプロの領域ね」
 その言葉に、私は思わず吹きだした。
「集中力は認めるけどね。でもこれじゃどんな出来栄えかわからないじゃない。せめてあかりの一つでもつけたら?」 
「あはは。確かに。でも、できないわよ。そんなこと」
 ――? できない。
 いぶかしみ、私がアリアのほうへ降りかえろうとしたそのとき、ふいにアリアの腕が私の肩にまわされた。
「え……?」
 そのまま背後から抱きしめられる。
 突然のことで面を食らってしまった。
「ちょ、アリ――」
 アリアの抱擁から逃れようと身を動かす。
 瞳からなにかがこぼれた。
(……あ)
 雫となってそれは頬につたった。
「ごめん。きいちゃいけないこときいちゃったかな。私」
 しずかな、気遣うようなアリアの声だった。
「…………」
 言葉が浮かばない。自分でも気づかなかったその涙に、なにより自分自身が戸惑っている。アリアもまた言葉もなく、背後から私を抱きしめるのみだった。
 静寂が降りた。
 その静寂をうめるように、シティのざわめきは室内にとどく。
 粗野なやじと女の嬌声。ひょうげたミュージック。
 とどく喧騒はお世辞にも品性があるとはいえず、窓から射す光もめまぐるしく、おちつくことを知らなかった。
 あふれかえる光と音。シティを反映していろどられる空間。
 あるはずの夜は、すべてその虚飾に塗布されていた。
 パイオニア2不可侵領域――通称【淵(アビス)】
 市民IDを取得することのかなわなかったものたちが集い、結成されたコミュニティー。その性質上、政府の警邏対象からはずされており、法の光はここにまでとどかない。
 自由だった。
 けどそれは、人の持つすべての業の解放をも意味していた。
 密造も淫売も、殺人すらもがここでは商売として成り立っている。
 倫理は人を縛る枷にはならず、ただ欲望だけがアビスを支配していた。
 堕ちる闇は深く、それは底をみいだせない。
 その深淵を覆うように、光は夜にちりばめられている。
 それは、誰にも認められない闇のなかで暮らす人々があみだした、みずからがみずからをあざむくためにうみだした光、なのかもしれなかった。
 欺瞞に満ちた、ねばりつく欲望にいろどられた不夜城。
 空はすでに遠い。もう戻ることもできない。
(…………)
 静寂は薄氷のようにはりつめ、それは破られることをしらない。
 窓より射す光も、部屋全体を照らすまでにはいたらない。
 私からはなにも、言葉を見つけられなかった。
 なにかきっかけがないかぎり、この空気は動かなかった。
「小さい身体、ね。ほんとに子供みたい」
 耳もとにきこえる、アリアのささやき。
「こんな身体で、男と寝て……さ」
 なにを言いたいのだろう。
 心が無性にざわめく。いらだちをおぼえる。
「ねえスノゥ。あんたいったい男になにを求めてるの。お金? ぬくもり? やさしさ? それとも――」
「私のこと詮索してどうするつもり? もしかして同情? やめてよ、気持ちわる――ひゃっ」
 ふいに耳たぶをかまれ、頓狂な声をあげてしまった。
「人の話は最後まで聞きなさい。このスケベ」
 頬が熱くなるのを感じた。そのまま感情にまかせ、私はアリアのほうをふりかえった。
 すぐ目の前に、アリアの顔がぶつかる。
 闇のなか、微細な光に浮かぶその肌はやはり白い。
 キメもこまかく、唇も、あざやかなまでに紅く。
 一瞬、目を奪われてしまった。
 そして、その眼――
 予想に反して、空色の瞳は笑っていなかった。
 まっすぐと、湖のようなしずかな色あいをたたえて私に見据えられている。その湖面に私は、見たくもない自分の姿が見えるような気がして、思わず視線をそらしてしまった。
 正面の鏡に視線を転じる。
 鏡に映る、二つのシルエット。
 それは妹の肩を抱く姉と、そのぬくもりに戸惑う妹のようにみえた。
「詮索――か。確かにそうとれるわね。ごめん、謝る」
 意外なほど素直に、アリアは自分の非を認めた。
 ……なんだか調子が狂う。
「べつに、あんたがどんな人間かなんて、わたしにとっちゃどうでもいいことなんだけど、でも、なんでかしらね。なのにどうしようもなくほっておけなくなるのよ」
「…………」
「ヘンに無理して他人を拒絶して、自分を拒絶して――」
「べつに拒絶なんて――」
「してるわよ。あんた自分でそれに気づいてないだけ。それとも……気づかないフリ?」
「…………」
 なにもいえないでいる私のみみもとで、アリアがひとつ笑いを漏らした。
「ホラ、図星。なにもいえなくなってる」
「…………」
 拒絶、かどうかなんて知らない。
 ただ、私は私でいるのに必死。それだけのこと。
 アリアは言葉を続ける。
 やさしく、染みるように。
「もう少し、気をラクになさいな。肩の力をぬきなさい。あんたが思うほど、ヒドいことなんてなにもありはしないんだからさ」
「…………」
「泣けるときぐらい、しっかり泣きなさい。私にそんなところ見せられないってんなら、べつにそれが、私のそばじゃなくてもいいから。誰にもみせられないんなら、それが誰かのそばじゃなくてもいい。ひとりの――たったひとりのときだけでもいいから。せめて自分にだけはその弱さを気づかせてあげないと」
「…………」
「でないと凍えるわよ。心が」
 鏡に映るアリアのシルエットが動いた。窓の外をみているのだろうか。
 その横顔はやわらかく、やさしくほほえんでいる。
 闇にまぎれて表情はみえないはずなのに、それでも私にはそう思えた。
「殺し、ひったくり、売春……すべての庇護から見捨てられたエリアだからこそ、まかり通る行為」
 窓からながれてくるシティの喧騒はあいかわらず雑多で、人間の欲望がむきだしにされている。
 それは、夜に在ることではじめて映える、アビスの音色だ。
「あんたにとっちゃ、どうしようもない場所かもしれないけど、でもね。これだけはおぼえておきなさい。こんなところでも、人は生きているのよ。こんなところでしか、生きられない人もいるのよ」
 私の肩を抱くアリアの腕に力がこもった。
「やさしさから逃れて、ぬくもりを拒絶して、なくすことではじめて気づけたもの……」
 肌に触れるアリアの温度が、より近くなる。
 やわらかな花の匂いがした。
「悪いことを公然とおこなえるからじゃない。自由に生きられるからじゃない。つきつけられるただしさの矛盾にすりつぶされてしまうような、そんな弱さをもつからこそ、ここでしか生きられない人は確かにいるのよ」
「…………」
「それは不幸なことかもしれない。でもね、だからといって、それがしあわせになる権利を与えられない道理には、ならないのよ。わかる? 私のいいたいこと」
「…………」
「つらいことを覆い隠すために酒におぼれて、女にごまかし、金でうすめて……それで生きていく人たちと、みんなあきらめて、アビスの昏さに身を沈めて、下を向く人たち」
「…………」
「いまのあんたって、はたしてどちらなのかしらね」
 外からとどき、あふれる飾りのない野次と、享楽に酔う女の嬌声。
 夜はせわしなく、光に塗布されている。
「ここは、それだけの場所じゃないのよ……」
 だけど人は、その塗布された夜の向こう側に、いったいなにを隠すのだろう。
 ……わからない。
(…………)
 不思議な感情があった。具体化のゆるされない気持ちがあった。
 それはあの夢で見た、空をみあげていた感情にどこか似ていた。
 でも違う。
 あの時にはこんな融和感などなかった。
 心をなげかけた空は、私になにも返さないでいたのに。
 戸惑いをおぼえる。困惑する。言葉をなくす。
 どうしていいか、それがわからない。
 ――いつもそうだ。
 ここの人間は無遠慮に、私に言葉を投げかけてくる。心のすきまをぬい、私をたどりつけ、ふかくつらぬく言葉を投げかける。それが私を殺すものであれば、まだどうにかできたのに。排除する。それすらもできないまま、痛みのない毒のように言葉は私のなかに浸透する。私は私でいられない。
 どうすればいいのだろう。なにをもとめているのだろう。私は正体もなく、ただ泣けばいいのだろうか。ありのままにみにくい、くじけた自分をさらけだしてそれを涙で癒せばいいと、そういうことだろうか。 
 ……冗談じゃない。
 私のなかに眠る、昏い炎がちらりとめばえた。
 けど、私が口を開くよりもはやく、アリアが言葉をつむいだ。
「と。以上がアリア姐さんからのありがたいご忠告。ど? 参考した?」
 いつもの調子の、明るい、おどけた口調だった。
「…………」
 タイミングが遅い。ここまで私のなかを穿ちながら、すぐに調子をとりもどせだなんて、ムシがよすぎる。無責任だ。せめてもう少し早くひきかえしてくれれば私も私のイヤな部分をみる必要もなかったのに。唐突に調子を戻されて、それにあわせられるほど私は器用じゃ――
 ……………………。
 ………………。
 …………。
「……アリア」
 憮然とした口調で、私は言った。
「ん。どうしたの」
 嬉々とした声。
 …………。
 視線を胸に落とす。
 いま私、いったいどんな顔してるだろう。
 きっとあきれてる。すっごいあきれてる。
 それは声の調子にもあらわれていた。
「どさくさに紛れて、人の胸もまないで」
「あ」
 と、ひとこと。
 私の「貧相な」胸をもむアリアの指が、ピタリと硬直した。
「いや、その、ほら、あれよ……ご利益? ね?」
 ごまかすようなアリアの笑いは、どこか堅い。
「……なにがご利益よ」
 私は大きく息を吐き出した。
 それは憑き物をとるような、そんな大きなため息だった。
 ――もう、バカ。

 

        
       
* * *




 秋子飯店はにぎわいをみせていた。
 でもそれは、つねのようなにぎわいとは少し違う。
 この時間であれば、食事をもとめに訪れる客たちでごったがえし、ちょっとした修羅場を呈しているはずなのに、その客の姿がまばらだった。カウンターにしか、その姿を認められない。
「あらら……これはまたずいぶんと派手にやらかしたものねぇ」
 半壊した店内を見渡して、楽しそうにアリアはつぶやいた。
 なにをどうやらかせばこうなるのかは知らないが、店内は見るも無残に破壊されていた。
 壁のいたるところに穴が穿たれ、壊され、使いものにならなくなったイスやテーブルが廃棄物と化してホールの片隅にまとめられている。本来、それがあるべきスペースは、ぽっかりとただ空間をひろげるのみだった。
 そのなかを、汗を流して男たちが往来する。
「おぅい、スパライザーそっちにねえかっ?」
「ばっきゃーろぅ。いま手が離せるか! てめえでとりにきやがれ!」
「るせぇ、それが出来れば苦労ねぇよ――お、ジンザ。すまねえがスパライザーあのバカんとっから持ってきてくれやっ」
「おら邪魔だゴラ。ぶちあっておっ死んでもしんねえぞ!」
 喧々囂々と野次がとびかう。
 店内を修復する人夫たちの姿で、秋子飯店はつねとはちがう喧騒に満たされていた。
「なに、これ……」
 昨日まではなにごともなかったはずなのに。
「さぁ。おそらくどこかのバカがおばさん怒らせたんじゃない?」
 アリアのその声はじつに平然としたものだ。
「怒らせたって……それでこうなるの?」
「なるわよ――って、あ、そうか。あんた拾われてからまだこの光景、見てないものね」
「……その拾われたって表現やめなさい」
 私はイヌやネコじゃない。
「まぁ、場所柄どうしても抗争は絶えないしねぇ。こんな風に店内荒らされることも一度や二度じゃないわけよ。――もっとも、ここまでひどくするのはおばさんなんだけど」
 苦笑まじりにアリアは言う。
「じゃあ、この人たちはおばさんが雇った?」
「まさか」
 アリアは言った。
「そんな経費のかさむことおばさんがする訳ないでしょ」
「え、だって」
「払わせているのよ。店を壊した当の本人たちに」
「あ。なるほど」
 思わずすんなりと納得してしまった。
 あのおばさんなら、そのくらいやりかねない。
「修復ついでに、ちょっと改装したりもなんかしてね」
「な、なるほど……」
 アリアの言葉にまたまた納得してしまった。
 壁のほうでは男たちが声をとばしあいながら、なにやら花をかたどった照明を添えつけている。それは以前、おばさんが店内に飾りたいとぼやいていた照明だった。
 たくましいと言うかなんというか――もっとも、それくらいの気概がなければ、確かにここで商売なんかはやっていけないのかもしれない。
 でもそんなことができるのは、世界広しと言えどもおばさんぐらいなものだろう。
 ……おそるべし秋子飯店。
 そのとき、人夫たちの波をかきわけてかっぷくのいい中年の女性が私たちのもとにやってきた。
「あら、アリア。やっとおでましかい」
 この店のオーナー、秋子おばさんだ。
 太い身体に比して腕も太く、足も太い。太い首のうえには丸い頭がのっている。
 身に、男まさりな雰囲気を纏う秋子おばさんではあるが、とうていその外見からはアビスの猛者どもを打倒するだけの膂力があるとは思えなかった。
 が、現実として彼女にかなう男はいないというのが、このアビスに住むものの一般的な通説であった。あのガルガでさえ、おばさんのフライパンの前には手も足もでないらしい。
「今回はまた、すいぶんと派手にやらかしたものねぇ。相手はだれ」
「ガルガだよ。あのバカ性懲りもなくハンターズ相手に喧嘩をおっ始めやがってねぇ。まったく、おかげで商売あがったりだよ」
 腰に手をあてて、おばさんは憤慨する。
「お客さんに申し訳がたたないったらありゃしない」
「でも、モトはとるつもりなんでしょ」
「当たり前さね。やられっぱなしでいるアタシだと思うかい? ま、あの子も以前に比べりゃあ、腕をあげたみたいだけどまだまた。若いモノにゃ負けてられないよ」
 大口をあげて、おばさんは大笑した。男たちの声を圧して、その大笑はホールじゅうに響く。
 ……アビスの支配者としてのしあがったガルガを「あの子」呼ばわりできるのは、あとにもさきにもおばさんくらいなものだろう。
「それにしてもずいぶん遅かったんじゃないのかい。さて、どうしてくれようかねえ」
 片眉をあげてニヤリと、おばさんは笑った。
 それが冗談だというのはじゅうぶんに理解しているつもりだったが、おばさんのそうした背景を知っているだけに、思わず気おされてしまう。
「あら。この子のコレを見ても、まだそんな言えるかしらね」
 アリアもまた、おばさんの笑みに物怖じすることなく笑みをかえしていた。
 この子も胆が座っているというかなんというか――って、え?
「どう、私の見立て」
 得意げに笑いながら、アリアは私の肩をつかみ、私の身体をおばさんのもとへ見せつけるような形でおしすすめた。
 いぶかしげなおばさんの眼と、私の眼が、合う。
「? 誰だい、この子。あんたの新しいコレかい?」
 だ、誰って……。
「違うわよ。スノゥよ、スノゥ」
 とたん――黄色い声がおばさんの口からあふれた。
「スノゥ!? スノゥってあんた、もしかしてあのスノゥかい?」
 まじまじと、おばさんの茶色の瞳が私を凝視する。
「他に誰がいるのよ」
 アリアが含み笑いを漏らす。
「ヤダちょっと、ずいぶんと見違えたんじゃないのかい!?」
 おばさんの太い腕が、私を抱きしめてきた。色々な意味で豊満な胸に顔がうずめられる。
「む、んぐぐ……」
 息ができない。
「いやーちょっとかーわいいワァ。このまま飾っておきたいぐらいだよ」
 そんな私の状況もお構いなしに、さらに輪をかけた黄色い声を発して、おばさんは私を強く抱きしめてきた。ぐりぐりと顔が胸におしつけられる。
「ぐ、ぐるじ――」
 指が、助けをもとめて宙をかく。
「ほら、そんなキツく抱いたら壊れちゃうわよ」
 苦笑するアリア。
「なぁにトンチキなこと言ってるんだい、アタシなんかの力でこの子がおっ死ぬわけ――スノゥッ!?」
 アリアの助けなのかなんなのかしらないが、ようやく私の異変に気づいたおばさんが、その胸から私の身をもぎはなしてくれた。
「ちょっと大丈夫かいっ、ほら、しっかりおしッ!」
 と思えば今度は、前後に激しくゆさぶられた。
 ぐらんぐらんと揺れる視界。
 視界だけじゃない、脳までもが揺れる。
「あ、あう……」
 た、助けて。
「おばさんおばさん、逆効果、逆効果だって」
「え、あ、そうかい」
 激しい揺れがおさまった――ように思える。
 酩酊。悪い酒によったように均衡をたもてない。ふらふらする。窒息のあとは地震。こんな体験、なかなかめったにお目にかかれるものじゃない。
「う、うーん……」
「ほら、スノゥ。しっかりなさい」
 軽く頬をたたかれていた。気がつくと私はアリアに支えられていた。ほんの少しのあいだではあるがもしかしたら私、気をうしなっていたのかもしれない。
 ハッキリとしない頭をふって、ようやくひとつ心地がついた。
「ふう――」
 ……新手のいじめなのだろうか。これは。
「でも、なかなかの評判じゃない。わたしに感謝なさいよ。スノゥ」
「……おかげさま」
 ウィンクをしながら得意げにささやくアリアに、私は憮然として答えた。
 確かに評判はよかった。よかったが、こうも過剰な反応をされるのはどうかと思う。
 それに、この格好……なんだか恥ずかしい。
 花柄の刺繍がほどこされた黒のワンピースと、後ろに流した髪を散らす形で遊ばせたヘアー。
 髪型はいい。少々幼さが強調されているように感じられなくもないが、それも見た目相応といえばまだ納得がいく。でもやっぱり、この扇情的な格好はいただけなかった。
 スカートのすそがみじかすぎて、歩く動作にすら気をつかってしまう。男たちの視線が、ふともものつけねあたりに集中しているような気がするのは、絶対に気のせいなんかじゃない。すごく気恥ずかしい。視線、それそのものが私を揶揄しているような錯覚すら感じてしまう。
「やっぱり、男にある程度の水準をもとめるなら自分も磨かないと」
 その結果として幼児趣味の男にひっかかったんじゃたまったものじゃない。この格好は、その可能性がじゅうぶんにありえた。
「まったく……」
 私は息を吐き出した。もういまさら言っても仕方がない。結局はそんな投げやりな諦観に身を任せることで、私はいまの姿に納得せざるえないのだ。
 それより――
「これじゃ、私たちの手伝う余地、まるでないわね」
 ぐるりとみまわした店内には、客の姿はほとんどなかった。いるのは人夫だけ。それも、かなりガラの悪い。
 話を聞くかぎり、かれらはやはりガルガの手下(てか)なのだろうか。専門の人間というには作業の手がたどたどしく、それが素人目にも見てとれた。
「なんだったら、資材でも運ぶ?」
「なに言ってるんだい。こういうのは男の仕事だよ。今日は開店休業。あちらのお得意さんがあがったら店を閉めるつもりさね」
 顎でカウンターに座るお客さんをさししめして、おばさんは言った。
「それに今日は皐月にも休んでもらったし」
 そういえば確かに、調理場にいるはずの彼女の姿がみえなかった。
「こんな状態であの子にいてもらっちゃ、かえって迷惑だよ」
「実績があるものねえ」
 おばさんの言葉にアリアはうんうんとうなずく。
「実績って、もしかして人数分以上の料理をつくるとか?」
 想像したままのことを私は口にした。
「それもある」というのがおばさんのいらえだった。
「腕は確かなんだけどねぇ。頑張りすぎるのがたまにキズだよ。あの子は」
(頑張りというより、単に限度を知らないだけなのでは) 
 言いかけた言葉を私はあわてて呑みこんだ。
 そこまで言ってしまっては、さすがに本人に悪い。
 この秋子飯店にあって皐月さんといえば、いまやちょっとした名物だった。
 両の手に包丁を携え、小気味よくまな板をたたくその響きは喧騒に軽快なリズムを与え、勢いのあるかけ声とともに食材にむけて放たれるテクニックは、みるものの喝采をよぶ。
 本人は強く否定しているが、あれは完全に「魅せる調理」だ。
 じっさい、皐月さんの「芸」見たさに秋子飯店を訪れる客も一人や二人ではない。器具を一切使わず、己のテクニックと手に携えた包丁だけで、どんな料理をもしあげてしまう調理師など、世界広しといえども皐月さんぐらいなものだろう。少なくとも私はそんな調理師、ほかに知らない。
 いちおう、ハンターズであるらしいが、だとしたらなかなか変わり者のハンターズである。いったい、どんな依頼を請け負い、どんな風に仕事をこなすのだろうか……。
「くぉらそこ! なにさぼってるんだい!」
 ふいにとんだ一喝に、身体がビクンとはねあがった。
 ――な、なに!?
 おばさんだ。おばさんの声だ。
 驚いたのは私だけではない。アリアも、修復作業にいそしんでいた人夫たちもまた、唐突なその一喝に驚き、作業の手をとめてしまっていた。
「あんただよアンタ、この小腐れ坊主!」
 さらに一喝がとんだ。眉をつりあげたおばさんの視線の先を追うと、そこに資材を運ぶ男の姿があった。
 男はおばさんの一喝などどこ吹く風。片手で資材の束を肩にかつぎ、別の手に持つとっくりを悠然とあおいで一息つけていた。
 白いハンターズ特有のハンタースーツ。
 肩の辺りまで無造作にのびた黒髪。
「ああ、うめぇ」
 満足げに口をぬぐう、その後ろ姿――
「ああうめぇ、じゃないよ! このスットコドッコイッ!」
 どこからともなくフライパンを取りだして、おばさんはそれを勢いよく男に向かって投げつけた。
 重力を無視して、フライパンはまっすぐと男に飛来する。
「どぅあっ!」
 間のぬけた音をたてて、フライパンが男の頭部の上をはねた。同じく間の抜けた声が男の口からもれた。
 つんのめって倒れた。
 拍子に肩に担いでいた資材の束が男のうえにくずれた。
 耳触りな音がホールじゅうに響く。
「なにしやがるッ!」
 資材を跳ねのけ、男は起き上がった。
(あ……)
 黒髪に収まる、その容貌――
 黙っていればじゅうぷん、女を釣るにはもうしぶんのない顔だちをしているが、いかんせん間のぬけた表情がそれを相殺させていた。やもめ男特有の、どこか余裕のなさが見受けられた。
 左目は縦にはしる傷痕につぶされており、それがともすれば、かれに剣呑な空気を与えなくもなかったが、間のぬけた表情がさいわいして、そのイメージはだいぶ払拭されていた。
 とらえどころのない風来坊。
 ひとことでいうと、そんな感じだろうか。
 それは私にとり、よく馴染みのある顔だった。
 秋子飯店の常連だ。
 来てはいつもカウンターに陣どり、精度の荒い酒を注文する。つまみひとつ頼むこともせず、ただ一人で酒を飲むその光景は、バーでならなんらめずらしくもないだろうが、秋子飯店にあってはそれが異様に目立った。
 彼曰く――「これだけのもん飲むにゃ、ここにくるしかねぇからよ」とのことだ。
 確か名を……卍(まんじ)といったはずだ。
「あんたなぁ、人が楽しくヤッている時にいったいなにを投げつけ――って、げっ、フ、フライパン!?」
 床に落ちた鉄製の調理器具を認めて、卍は目を丸くする。
「殺す気かっ!? あんた」
「ハン、お黙りッ。どこの世界に酒かっくらって仕事するバカがいるんだいッ。タワゴトもたいがいにおし!」
 卍のわめきを腰に手をあてて、おばさんは鼻をならして一喝する。
「うちにタダメシくらわす余裕なんてないんだよっ! さぁ、キリキリ働きな!」
「タダメシ? ンなもん食らったおぼえはねえぞ」
「わからない子だねぇ。これからくらわすんだよ! このアンポンタンッ」
「いらねぇって」
「バカをお言いでないよッ! 腹をすかせてあとで困るのはどこのどいつさッ! まったく、それくらいのことちょっとは考えたらどうたいッ。この腐れ脳みそ!」
「だったら一息つくぐらい容赦してもいいたろうが」
「なンでそうなるんだよッ」
「決まってるだろう。酒は命の妙薬だ」
「妙薬ゥ? なにキザったらしくキメてるんだい。バカもたいがいにおしッ。いい加減にしないと痛い目みるよッ」
「もう見てらぁっ!」
 おばさんと卍のあいだで激烈な火花が散る。舌鋒は火を吹き、ホールの人間すべての目を釘付けにするのに、それはじゅうぶんな「見せ物」だった。
「ちょっとちょっと、みんな見てるわよ」
 苦笑まじりにアリアがおばさんの袖をひく。
 おばさん、我に返る。それから周囲を見渡して――
「ほら、アンタたちもなに手ぇ休めてるんだいッ! メシ抜きにするよっ!」
 ふたたび一喝がホールにとんだ。あわてたようにみな、作業にもどる。
「まったく……」
 腰に手をあて、深く息をつくおばさん。
 とっくりをあおいで一息つく卍。
「って、そっちの手ェ進めてどうするんだよッ!」
 電光石火の挙動で、今度はおたまがおばさんの手からとんだ。
 ……どこにそんな調理器具を仕込んでいるのだろう。謎だ。
「のぅあ!」
 のけぞり、飛来するおたまの一撃をなんとかかわす卍ではあるが、その際に床に転がる資材に足をとられたらしく、ものの見事に後転し、派手に後頭部をうちつけた。
「ッつつ……あんた、己を殺す気か!?」
「フンッ、この程度で死ぬるタマかいッ」
「まあまあまあ」
 苦笑しながらアリアが二人の仲裁にはいる。
「おばさんの気持ちもわかるけどさ。このまま言い争いをしてたってなにも進展しないって」
「こっちだって好きで言い争ってるわけじゃないよ。まったく」
 荒く鼻息を吐き出して、おばさんは腰に手をあてた。まだ憤るものはあるが、アリアの言葉にとりあえずは矛を収めてくれたようだった。
「だいたいだねぇ、どこの世界に人さまの店んなかで喧嘩おっぱじめる馬鹿がいるんだい。アンタみたいのがいるからいつまでたっても札付きのレッテルがとれないんだよ。ハンターズは」
「勝手に喧嘩売ってきたのはガルガだろうが。俺はただそれに巻き込まれただけだ」
「売る方も売る方なら買う方も買う方さね。自分の行いタナにあげるんじゃないよ」
「売られりゃ買う。当たり前のことだろうが」
 資材のうえにあぐらをかいたまま、性懲りもなくまたとっくりをあおる卍。
「その考えが札付きって言うんだよッ! スットコドッコイッ!」
 またまたおばさんの手から、今度は包丁がとんだ。
 あわてて首をひっこめる卍の頭上を包丁はかすめすぎ、補修作業を進めていたガルガの手下のすぐ脇の壁に突き刺さった。その鋭利な調理器具を認めた手下の口から、情けないわめきが聞こえたのはそれから少し後のことだった。腰をぬかして口をぱくぱくさせている。……かわいそうに。
「た、頼むから己が人間だってことわかれよ」
「ハンッ、人権を謳うつもりならキリキリ働きな!」
「おばさんおばさん、落ち着いて。ほら、深呼吸」
「アタシャじゅうぶんに落ち着いてるよ」
「……どこかだよ」
 卍のつぶやきにキッとおばさんの眉がつりあがる。
「ほらほら」
 どこからともなくとりだしたフライパンを振り上げたその腕をつかんで、懸命にアリアはおばさんをなだめる。
「卍も。ヘタに刺激するようなこと言わないで。殺されたいの?」
「そういう以前の問題だろう。なんで己が駆り出されてガルガはいねんだ? 不公平じゃねえか」
 なるほど。卍の不満は結局そこにいきつくらしい。卍の顔に浮かぶ渋面はそのことを如実に語っていた。
「組織と個人の差じゃないかしらね。きっと」
 ホールをぐるり見渡して私は言った。
「……ったく。身もフタもねえ現実だな」
「卍」
 とっくりをあおぎかけた卍に、ぴしゃりとアリアが言う。ただでさえしぶい顔をよけいに渋くして、卍は仕方なさそうにとっくりをおろした。
「そうぼやかないの。ほら立ちなさい。なんだったらわたしが手伝ってあげるから」
 卍のもとにかけよりアリアは、卍の腕をとってかれを立ち上がらせる。
 とった腕をそのまま自分の腕に絡めながら、
「ひとり孤立して作業を進めなきゃいけないそのむなしさ――わたしがうめてあげるわよ」
 卍の顔を見上げたその空色の瞳には、男を誘惑せんとする媚笑をはらんでいた。
 ……また悪い癖がはじまった。
「い、いや、いいって。その、腕、離してくんねえか」
「ふふ。いーや」
 もともと女性に対して免疫がないのであろう。うろたえる卍を逆手にとってアリアはネコのように甘えた声をあげ、自分の頬と、胸を卍の腕におしつける。
「さあ、いきましょ」
「い、いくってどこへだよ」
「秘密」
 秘密って……。
 なまじ普段のアリアを目の当たりにしているだけに、その豹変ぶりはいつ見ても面食らってしまう。女は男に合わせてスタイルをさまざまにかえる。ましてや、男を客としてみる私たちならばなおさらのことだ。それはわかっているつもりだった。
 でも私には、あんな風に自分をころころ変えることなんて、できない。
「しっかし、あんな唐変木のどこがいいんだろうねえ」
 すっかり毒気を抜かれた様子で、茶色の髪をかきながらおばさんはそんな二人を見つめていた。
「さあ……人の好みはそれぞれだから」
 あいまいに言葉を濁しながら、私もそんな二人を見つめていた。
 アリアの男に対しての範囲はじつに広くて、どこまでが許容とする範囲なのか、それがいまいちわからない。が、それでも彼女なりの審眼はやはりあるようで、アリアの気にかける男性のいずれもがなにかしら、ある種の魅力を兼ねそろえていた。
 この場合の卍の魅力といえば――
「ぶてぶてしさかしら、ね」
「ぶてぶてしいねェ」
 私の独白におばさんが答えた。
 手に持ったフライパンで肩を軽くたたきながら、
「ただのアマノジャクじゃないのかい? ありゃ」
 その言葉に、思わず私はふいた。
「それはいえてるかも」
 右といえば左をむいて、左といえば右をむく。
 長いモノにまかれることをとかく嫌うタチなのだろう。きっと。
「まぁ、やんちゃでバカでアンポンタンだけど……ああみえてホネだけはあるからねぇ」
 ぼやくようにおばさんはつぶやいた。
「あの気性の半分でもウチの旦那が持ち合わせてくれたなら、アタシも少しゃ気がラクなんだけどねェ……」
 そして、思うようにため息をひとつ。
 なんだかんだいってもおばさんだって卍のことは認めているのだ。
 勘気にこそ触れども、それは拒絶にまではいたらない。ほんとうにどうしようもなく嫌っているのであれば、逆鱗に触れたその瞬間に秋子飯店から追い出され、出入り禁止をくらっているはずである。
 自分を枉げることを知らない。
 あの性格も、言葉を変えるとそういう事なのだろう。
 また、そんな子供めいた頑是無さがアリアの気を惹いているのかもしれないし。
「あ、そうだよスノゥ」
 唐突に声をあげておばさん。それからフライパンをしまい、前掛けのポケットから紙をいちまい取り出した。
 ……おばさん、フライパンはどこに?
「スノゥ。どうしたんだい?」
「え、あ、ううん。なんでもない」
 いぶかしげにたずねるおばさんに、私は笑ってごまかした。
「なんだい。ヘンな子だねぇ」
「あはは……はは」
「ま、いいさね。それよりも、さ」
 折りたたまれた紙を広げて私にみせる。
「? なに、これ」
 なにかの設計図のようだ。
「んー、アタシもよくわからないんだけどねぇ。ほら――アンタ以前にあのバカが動かないと嘆いていたナントカって銃――ええと」
「ホーリーレイ?」
「そうそう、それ。ソイツをちょちょいのちょいと直してくれたじゃないかい」
「直したって言うか……」
 単純にマガジンの挿入部が正規の規格にあわなかったことと、波状粒子系バイパスが焼ききれていたことを指摘しただけだ。私が直接メンテナンスをおこなった訳ではない。
「それでさ、あのバカまた性懲りもなく訳わかんない銃をオークションで拾ってきてねえ。また動かないってボヤいてるんだよ。で、こないだのオークションでその銃の設計ファイルを競り落としたんだけど……どうだい、わかるかい」
「オークションねえ」
 つぶやきながら、私は苦笑せずにいられなかった。
 ギゼルさんの武器コレクターぶりもじつに堂に入ったものだ。
 資料よりもまずは実物。
 欲しいものはなにがなんでも手にいれなければ気がすまないタチらしく、その執念たるや、アビス内でも危険視されているオークション会場にまで足を運ぶほどであった。もちろん、数人の護衛を雇っていたりはしているのだろうが、それでも危険なことにはかわりない。
 もっとも、アビスの支配者であるガルガと親交があり、この界隈一の腕っぷしを誇る秋子おばさんの夫であるギゼルさんを襲おうなどと考える輩がそういるとは思えないけど。
 でも、欲しいものを手にいれる――
 その意味では、ここアビスに居を構えたのは正解だったのかもしれない。
 一部の砂糖菓子やアルコールなどは通常、パイオニア2においては禁制品とされており、それに対してフラストレーションをためている乗船市民も少なくはない。
 長い星間航行におけるバイオリズムの変調を危惧しての措置だと、総督府は見解を述べているが、その内訳は一部の欲望を抑圧させ、乗船市民の重圧関心をその一点にむけさせることでパーソナルアウト(ホームグラウンド喪失における人格崩壊現象)におちいる可能性をおさえているのではないだろうか。
 地上の重力は、私たちが思っている以上にその身体に、精神に、魂に、深く根づいて根源を為している。
 その意味では総督府の見解は間違ったものではないし、事実この政策はいまのところ功を奏していた。
 規制をかけるぶん、リラクゼーションには力を入れており、さまざまなレジャー施設が住居区のいたるところに設営されていた。
 だが、それはあくまでも法に照らされた、倫理の侵されぬ範囲内においてのことで、カジノやコロシアムなどの、ほんとうの意味でスリリングな体感を味わえる施設は、公式には認可されていない。もちろん、遊郭などもってのほかだ。
 法と言う絶対的な光に護られた箱庭――
 それが移民航行船、パイオニア2だった。
 そのなかにあり、アビスは異質だった。
 もともとの背景が異端である以上、それは異質にならざるえないのかもしれない。
 総督府から見放されたこのエリアには、なにも縛る枷はありえず、そのために通常のエリアでは禁制品とされているアルコールや砂糖菓子も、ここでは容易に手にいれることができた。カジノはもちろんのこと、コロシアムだってどこかにあるという噂だ。
 そして、オークション。
 月に幾度か開催されているその会場では、陽の目にかかるようなことはまずありえない芸術品や、いわくありげな武器、はては倫理を無視した、口にするのもはばかれるようなものまで出展され、競り落とされているらしい。むろんのこと、出展された品が希少であればあるほど競り落とされる値段もそれに付随したものになり、それをめあてに訪れる政府高官の姿も少なくはないときく。
 もっとも、噂なだけで真偽のほどは確かではなく、じっさい、そのような品物など見たことがないというのがギゼルさんの言であった。
「そう。オークションさね」
 私の苦笑に、おばさんはしぶい顔でこたえた。
「まったく。あのトンチキときたら、そこにいったいいくらつかってると思ってるんだか……自分の身を護るにゃ強い武器が必要だがなんだか知らないが、そんなものこれだけあればじゅうぶんじゃないさね。そう思わないかい? スノゥ」
 ひらひらといとも軽そうにフライパンをかかげて、おばさんは同意を求めてきた。
 とりあえず私は笑っておいた。まさかフライパンひとつでアビスの猛者をのめすことができるのはおばさんだけだ――なんて口がさけても言えなかった。
「で。どうさ。わかるかい?」
「わかるっていわれても……」
 もともと私は理工系を専行していたわけじゃない。せいぜいが図にかかれた記号の意味を理解するだけで、それがいったいどんな働きをするものなのか、そこまで理解しろというのが無理な話だ。
 でも、おばさんの頼みを断ることもできず、仕方なしに私は図面を覗いた。
「……実弾火器(バレットウエポン)、じゃないみたいね」
 その割にはヤスミコフをはじめとしたバレットウエポンのそれと、構造が非常に酷似している。大抵はマガジン挿入部位の規格を調べればすぐにわかりそうなものだが、その肝心の挿入部がどこにもみあたらなかった。
「なにこれ……」
 ――永久機関?
 ふいにめばえたばかげた夢想に、私は苦笑した。
 無尽蔵にエネルギーを供給するシステムなど、いままでありえた試しはない。世間一般でそうとらえられているものだって、いってしまえば供給の際に排出されたものをふたたびエナジーとして再稼動させる、その循環の繰り返しだ。本当の意味での限りのない供給なんて、まずありえない。
「…………」
 わからないことははじめから承知だった。が、エナジーの供給システム――そんな本当に基本的なことすらもがわからない。それが逆に私の関心をよびおこした。一度気にしだすととまらない。
(……こんなとき、テイルズがいてくれれば)
 考えたって詮なきことだ。
 過去の関係は、二度と私に振りかえらない。
「で……どうだい」
 緊張したおももちのおばさんの声に私、我にかえる。
「あ……ごめん。わからない」
「そうかい」
 身体のなかに溜まるなにかをぬくように、おばさんは大きく息を吐き出した。
「アンタがそんな顔でジッと見ているもんだから、思わずこっちまで緊張しちまったよ」
 肩のコリをほぐすように、おばさんはフライパンで肩をたたいた。
「でも……インテリのアンタがわかんないとなるとそりゃ、そうとうの値打ちモンじゃないのかい?」
「うーん……単純に私がわからないだけで本当はけっこう膾炙された技術なのかもしれないし」
「カイシャ? なんだいそりゃ」
「世間一般でよく知られているってこと」
「ふぅん――ま、いいさね。カイシャだろうとなんだろうとこんどあのバカがいない時にでも、その武器、ちょいとアタシのほうからオークションにかけてみるかね。そのときはスノゥ。気の効いたコメント、ひとつ頼むよ」
 ウインクして言うおぱさんに、私はあいまいな笑顔を浮かべた。
「ギゼルさんの泣き顔が目に浮かぶようね」
「アハハハハ、あのバカにはいいクスリだよ」
 大口を開けての大笑。その笑い声に驚いたのか、資材を担いで脇を抜けようとした男があやうく資材を落としかける。
 抗議の言葉が男の口から出かけるが、それもおばさんのひとにらみに圧殺された。しぶしぶ憤りを胸にため込んだ様子で、男はそのまま通り過ぎていった。……かわいそうに。
(さて、どうしたものかしらね)
 大きく息を吐き出し、私はホールをみわたした。
 野次をとばしあいながら行きかう人夫。 
 客の姿はカウンターに座するだけで、これでは本当に私の出番がありえようはずもない。
 と思えばそのカウンターには、ちゃっかりアリアと卍の二人の姿が。
(あらら)
 グラスを傾ける卍の隣で、懸命にアリアがいろいろと何事かを話し掛けていた。はじめはあれだけ戸惑っていた卍だったのに、体のいいサボる口実を得てじつにケロリとしたものだ。
 ……ぶてぶてしいというか、なんというか。
(はは……)
 苦笑してしまう。
「ああ。そういや揚(ヤン)が今日、ここがはけた後でいいから、いちど顔を出してくれって言っていたねぇ」
「マネージャーが?」
 肩にフライパンを置き、唇に指をそえた形で思い出したようにそうつぶやくおばさんの顔を、私はみあげた。
「あっちが予定していた時刻よか、おそらくはだいぶ早いだろうけど……どうする。行ってみるかい?」
「それ、私だけなの」
「いや、いちおうアリアもなんだけど、さ」
 言って、アリアを瞥見するおばさんの瞳に――
「ちょいとあの子たちにはヤボ用があるんでね」
 剣呑な光がやどるのを私は見逃さなかった。
「行くんならスノゥ。先にいっといとくれ。アリアにゃアタシから言っておくさね」
 おそらくはアリアはともかくとして、その隣に座する卍の姿を認めたためだろう。不敵に笑むその唇はもはや確定的だ。
 ホールの修復にいそしむガルガの手下たちをながめやりながら、またあらたにふえるであろう手間のことを思い、私は思わずかれらに同情してしまった。
 ……かわいそうに。
「ま、アッチはあとで料理してやるとして――揚のトコはココよかタチ悪いからね。なんだったらここにいる連中の何人かでも、アンタの護衛につけるかい」
「大丈夫よ。あそこにいくのも一度や二度じゃないし。護衛なんてつけられたら、かえって怪しまれて襲われるわよ」
「ン、そうかい?」
「ええ」
 心配そうに私をみるおばさんに、私は笑ってみせた。
「じゃあせめてこれを持っておいき。護身用だよ」
 そう言っておばさんは、フライパンを私の手に握ぎるように持たせてきた。 
 おばさんご用達のフライパンだ。威力のほどはこれまでの武勇伝のなかで、充分に保証されている。たしかに護身用としては申し分――
「きゃっ――」
 おばさんの手がフライパンから離れた途端、予想もしないほどの重さが私の腕にのしかかった。その重さに負けて、私はフライパンの頭を床におとしてしまう。
「お、重い……」
 持ちあがらない。
「なんだいなんだい、だらしないねェ。そんなことじゃいっぱしの料理なんてつくれないよ」
「そ、ンなコト……言っ、たって」
 そうおばさんはぼやくけど、この重さは尋常じゃない。体積の比重を完全に無視した重さだ。こんなモノをおばさんはいままで軽々とふりまわしていたのだろうか。
 ……信じられない。
「ふう。まったく。仕方ないねェ」
 フライパンをもちあげようと躍起になってる私をみかねておばさん、私の手から鉄製の調理器具をひょいととりあげ、それを背後のどこかにしまいこむと、同じ場所から今度はさきほどよりもいくぶん小さめの、白いフライパンをとりだした。
「さ、ほら。どうだい。これならあんたでも持てるだろ」
 ……あれだけのフライパン、いったいどこにしまったんだろう。
 気になる。すっごい気になる。
「? なんだい、スノゥ。アタシの顔になにかついてでもいるのかい」
 ぶらさげているようでもないし、フライパンをしまいこむだけのスペースが用意されているようでもない。なにか最新の技術がおばさんの体内に組み込まれてでもいるのだろうか。
 最新の技術――
(まさか……)
 あの体積の比重を無視したフライパンや、通常の女性では考えられないようなあの膂力も、あれらすべてがそうしたテクノロジーの産物なのだとしたら……すべてが納得いく。
 ミステリーは科学の理論によって解明されるという、これはその証なんだろうか。
(…………)
 ヒトを模造した生体構造型アンドロイド――秋子。
 決戦人型最終兵器――そんなフレーズが、いま目の前にいるおばさんの姿と重なった。
 ……似合いすぎている。
「ス・ノ・ゥ」
「っ痛ッ」
 額を指ではじかれた。口でいうほど痛くはなかったが、思わず面食らってしまった。
「なにするのよぉ……」
 前言撤回。痛い。おさえた額からじわりと痛みが広がってくる。手加減はしてくれたのだろうが、あのおばさんの指ではじかれたのだ。もしかしたら赤くなっているかもしれない。その痛みに負けて、私は情けない抗議の声をあげてしまった。
「なにするのじゃないよ。ヒトの話ぐらいちゃんとお聞き。おおかたまた、くだらないことでも考えていたんだろ」
「う……」
 図星なだけになにも言えない。
「それで、どうなんだい。それならばあんたでも持てるだろ」
「え? ん、あ……」
 そうだった。私、フライパンの話をしていたんだった。
 握らされていた白いフライパンを持ち上げてみる。振りまわしてみる。
 ――軽い。
 いや、言うほど軽くはないが、それでもさきほどのフライパンに比べれば天と地の差だった。
「その様子だと、大丈夫なようだね。護身というにゃちょいと頼りないかもしれないけどさ。なにもないよりゃマシだろ」
 腰に手をあてて、ほっとしたようにおばさんは軽く息を吐き出した。
 フライパンの底に、なにか赤い意匠らしきものが見えた。
 みてみると、そこには「秋子」と毛筆でダイナミズムに書かれた筆跡が。
 ――おばさんらしいというか、なんというか。
「はは……」
 思わず苦笑してしまう。
「なかなかいいデザインだろう」
 と、おばさん。フライパンの意匠に気づいた私を認めて、じつに得意げな様子だった。
「印刷でおとしこんだデザインじゃないよ。ちゃんと毛筆家に頼んで書いてもらったものさね。やっぱり、自分が使う器具なら、愛着ももちたいし、長く使いたいじゃないかい。だから、さ」
(長く使うって……)
 こんなところに意匠をこらしたところで、すぐぼろぼろになるのでは?
 そんな当然ともいうべき疑問がわきあがるが、あえて私はなにも言わなかった。
 いやな予感がしたから。
「なのに――あ、そうだよ、ちょいときいとくれよスノゥ。前にさ、皐月にこれと同じフライパンをあげてやったんだけど、あの子ったらこのデザインをみるなりなんていったか――わかるかい?」
「さ、さあ」
 なんとなく想像はつく。
「無駄ッ! だよ、無駄。いうに事欠いて無駄。感謝の念もありがたみもあったもんじゃなく、無駄――まったく、恩知らずにもほどがあるってものさね。そう思わないかい? 思うだろ、スノゥ」
「はは……確かに」
「しかもだよ、それだけならまだしもあの子ったら、このデザインに向けてテクニックの……ええと、なんていうんだい。ほら、あの、あれ――火のカタマリがボンと出るヤツ」
「フォイエ?」
「そうそう、それ。そのフォイエをぶつけてくれてねぇ。それから真っ黒焦げになったフライパンをじっと眺めて「実用には耐えられそうね。ありかだく使わせてもらうわ」だと。あんときゃアタシャ目が点になったよ。なァにをするんだこの子って」
「はは……」
 まずい。
「さっすがにねェ。あのときゃアタシもキレちまってねぇ。こう、そのとき手に持っていたフライパンでスコーンと、思いきりあの子の頭ぶん殴ってやったさね。ふだんなら手加減のひとつでもしようものだけど、あれだけのことをされちゃあ、ね。そんな配慮も持てないってものだよ」
「確かに……ねえ」
 いやな予感ほどよくあたる、とはよく言ったものだ。
 案の定、おばさんの舌は私という格好の獲物にねらいをさだめて、そのおしゃべりはとどまることをしらなかった。
 あいまいにあいづちをうちながらどうこの場を切り抜けようか、うまい言い訳を考えてみるが……思い浮かばない。
「いやぁ、あのときは荒れたねェ。こっちが本気になっているからあの子も本気になるしかなかったんだろうけどさ。こっちはフライパンで向こうはテクニック。あの子もほら、加減ってものを知らないだろ。だからホント、あのときはヤバかったさね。都合よくその場に揚がいてくれたからいいようなものの、もしいなかったら……」
 あ。そうだ。
「私、そろそろいかないと。あまりマネージャー待たせてもあれだから」
「? ああ、そうだったね。けど――待たせるといったところで、ここはける予定の時刻にゃ、まだだいぶ早いだろ」
「え、うん。でも――そろそろ時間的にもほら……って、あれ?」
 壁にかけられていた時計を指さしたつもりだった。が、指さした先にあるはずの時計はなかった。
「あのバカが暴れた拍子に壊しちまったんでね。とっぱらったんだよ」
 顎で卍をさししめすおばさん。
「あ、そ、そうなの」
「そうさね」
 言うおばさんの言葉はどこかさめていた。さきほどまでのおしゃべりの熱はもうどこかへふきとんでしまったようだった。
「ははは……」
 気まずい。
 口実が口実だとおばさんに悟られ、どうにも次に続く言葉が見つけられない。
 離れようにも離れられず、私はただ、ごまかすように笑うことしかできなかった。
 そんな私の様子におばさんは、大きく息を吐き出した。
「ま、いいさね。今度ひまなときにでもたっぷり、アタシの愚痴聞いてもらうからさ。気にすんじゃないよ、スノゥ」
「う、うん……ごめんなさい」
「なぁにトンチキなこと言ってんだい。そこは謝るとこじゃないだろ」
 萎縮する私を笑い飛ばすようにおばさんは大笑し、私の背中をどんとどやしつけてきた。
「きゃっ」
「さぁ、早くおいき。いくら夜が無駄に長いっていったところで、あんまり遅くもなればよくない輩がでるってものさね。ましてやあんた、そんなかわいらしいカッコしてんだから気をつけないと」
(かわいらしいカッコ……)
 おばさんのそのひとことで、忘れかけていた羞恥心にふたたび火がともった。意味がないとはわかっていながらも、思わずスカートのすそをさげずにはいられない。
 またおばさんの口から、幾度めかの大笑が漏れた。
「なぁに照れくさがってるんだい。バカな子だねぇ。そりゃそのカッコはアリアの趣味かもしれないけどさ、心配するでないよ。いまのあんたに、それはじゅうぶん似合ってるよ」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
 そういいかけるが、先に続く言葉を私は呑み込んだ。
 どうせおばさんのことだ。この私の羞恥心も、とんだ見当違いだと笑い飛ばしてしまうに違いない。いつもの私とくらべて、この姿はよほどあかぬけてみえたのだろう。それは、さきほどの黄色い声と過剰なリアクションでじゅうぶんに察することができた。
 ……そんなに地味なんだろうか、私。
「さぁて、と」
「?」
 気持ちをきりかえるようにおばさん。それから腕まくりをひとつして、どこからともなくフライパンをとりだした。
「そろそろあのバカにお灸のひとつでもすえてやろうかね」
「お灸?」
 おばさんの茶色い瞳が、ねらいをつけるようにカウンターに座する卍へとさだめられる。
「せぇの」
 肩を支点として、フライパンを腕ごとぐるぐるとまわし、そして――
「ふぉいえぇぇぇっっ!」
 気迫を声に込め、ためこんだ勢いを一気に開放するよう、おぱさんはフライパンを卍めがけて投げつけた。
 ……フォイエ?
「ごぅわっ!」
 ごぉん、とフライパンが卍の頭部をはねる間の抜けた響きと、調子のはずれた叫び声が、微妙にかさなった。
 完全に油断していたのだろう。直撃だった。
 もうこれいじょうにないというくらい、直撃だった。
「ま、卍っ!?」
 驚き、介抱するアリアと、
「……ぅ、っっ」
 後頭部を抑え、カウンターにつっぷしたまま声も出せないでいる卍。
 身体がプルプルと震えている。
 それが激痛からくるものなのか、激情を抑えたためのなのか私には判別しかねた。
「て、めぇ……なにしやが――ぐぉ」
 感情を一気に開放するよう椅子を蹴倒し立ち上がり、卍が怒気をはらんでこちらをふりかえったその瞬間、二発目の「フォイエ」がすでにかれの顎めがけてとんでいた。
 上体をそらし、それをかろうじて回避する。
「! っとと」
 バランスをくずし、そのまましりもちをついた。
「ハンッ、いつになれば動くかと思えば、ずいぶんと長いあいだ油売ってたんじゃないのかいっ。このアンポンタンっ!」
「あぁ?」
 蹴倒した椅子に腕をかけた卍のその目は、不条理に対する怒りに満ちている。
「口で言ってもわからないなら鉄拳制裁――さあ、早くお立ち。その腐った性根、ねっこからたたきなおしてやるよッ!」
「……言ってくれるじゃねェか、ババァ」
 卍のおばさんをみる表情に、好戦的な笑みがくわわった。
 卍と、おばさん――
 その二人をむすぶ中空で、熱い火花が散る。
 その様子を見届けているのは、なにも私だけではない。ただならぬ気配を察して、補修作業を進めていたガルガの手下たちも、カウンターにすわり居残る客たちもまた、そんな二人をみまもっていた。
 空気が静まる。
「……まぁたやらかすつもりかよ、懲りねぇなあ」
 そうぼやく手下たちの声が、耳にとどいた。
「あばれてえってんなら勝手にすりゃいいけどよ、ちったぁなおすほうの身にもなってくれよ」
「ま、こうなっちゃとめようにもとめられねえけどな。逆にのされちまわぁ」
「ちげえねえ」
 はあ、と、深いため息がひとつ。
「おう、嬢ちゃん」
 ――え?
「わ、私?」
 それまで蚊帳の外だと思っていたため、唐突によばれ、私は思わず頓狂な声をあげてしまった。それが自分以外にないというのに、自分を指さし確認してしまう。
「こうなっちゃ誰にもとめられねえからよ、まきこまれねえ内にどっかよそへいったほういいんじゃねえのか」
「だな。興味本位でみるぶんにゃたのしいかもしんないけどよ、身の安全の保証はできねえぞ」
「う、うん」
 手下たちの言葉にうなずきながらも、アリアのほうを瞥見する。
 あの子はいったい、どうするつもりなんだろう。
 完全に見物の体を決め込んでいた。カウンターに悠然と座り、グラスをゆらし、なかにある氷をもてあそびながら、火花を散らす二人の様子をながめていた。
 この子も肝が座っているというかなんというか……。
「はは……」
 苦笑いしか漏れない。
 私の視線に気づき、アリアが肩をすくめてこちらにかえしてきた。
 それに店を出ると、そうジェスチャーでこたえようとしたそのとき――
「そんなに売りたいんなら高く買ってやらぁ。後悔するなよっ、ババァ」
 手にかけた椅子を獲物に、卍が、駆けた。
 両者のあいていた距離が、一瞬でうまる。
「ハンッ、遅いんだよッ」
 どこからともなくとりだしたフライパンで、おばさんは卍のふりおろす椅子の一撃をうけとめた。
 鉄製の調理器具で防がれ、椅子がこなごなに砕けた。
「きゃっ」
 その破片が私のすぐそばをかすめゆく。
(確かにこれは……まきこまれないうちに退散したほうがよさそうね)
 二人の対決にも興味はあるが、それよりも身の安全が第一だ。
 そして私は秋子飯店を後にした。


 ごぉん、というフライパンの間の抜けた響きと、
「ぐぉっ」
 相変わらず調子のはずれた、卍の悲鳴を背後にききながら。




             
* * * *




 夜が深い。
 夜空を模した天体には星の姿さえなく、ただ闇だけが広がっている。
 それに抗するたげの光は、ここにはない。
 空に覆われた闇に呑まれ、ストリートは底冷えするような夜に沈んでいた。
 光といえばストリートを照らすライトがそのしるべを伝えているだけで、あとにはなにもなかった。建物は影にぬりつぶされ、その詳細もわからず、不気味に軒をつらねている。
 繁華街から少し離れれば、このような情景はアビスでは無数に存在していた。
 あの、刹那的な享楽に満ちた熱気がアビスのかたちならば、この深淵に閉ざされた空気もまた、同じアビスのかたちなのだろう。いや、むしろ光という虚飾、喧騒という熱気をはいだこの姿こそが、アビスが本来たずさえている素顔、なのかもしれない。
 壁によりかかり、客を待つ娼婦。
 どんよりとした眼を開き、夜の片隅にたむろい己の世界に没頭する中毒者。
 ぼろに身を包み、すでに空となった酒瓶をいつまでもあおぐ老人。
 どこに目を向けても、そこには希望をなくした姿しかうつらなかった。
 廃墟然とした街なみのなかに漂う、退廃的な空気。絶望を模した世界。
 それはおよそ、このパイオニア2においてはいちばん似つかわしくない光景だった。
 ――移民航行船、パイオニア2。
 超長距離の星間航行を目的として建造され、小規模なコロニースペースを有し、数万単位の人員の収容を可能としたこの移民船は現在、新惑星ラグオルへと向かう、その途上にあった。
 先駆者であるパイオニア1からの招聘を受け、惑星コーラルより出航してからすでに半年。光学計算上では、ラグオルにたどり着くまで、あと一年半、ないし二年の月日を要するといわれている。先にラグオルへと向かったパイオニア1が標(しる)したサーフィングポイントを頼りとした航行である為、その時間的距離は大幅に短縮されているが、それでも長い航行であることにはかわりはない。
 いま、私たちは未知の世界へとその足を向けている。
 その世界の名は、惑星ラグオル。
 それは無人の惑星探査衛星によって発見されてまだ間もない、未開の星だ。
 未開であること。
 それは、これから望む未来がそこにあるという、その証明だった。
 私たち人類がその移住可能な惑星を見つけ出すためにいったい、どれだけの時間と労力を費やしたであろう。私たちの種としての成長は、ただひとつところの星にとどまるには、すでに限界を超えていた。
 その現状を打開するための方針として、新たな惑星をみいだし、そこを新天地として移住しようという、一つの計画があった。
 ――【パイオニア計画】。
 それはすでに数世紀も前から唱えられ、人々のあいだで希望の代名詞として伝えられてきた名称だ。そこにみんな、これからきりひらくべき未来の姿があるのだと信じていた。
 逆をいえばそれは、惑星コーラルの終焉をだれもが予期していた、その証だった。
 資源の枯渇にともない、その残り少ないエネルギーを求めて繰り返される争い。
 技術の推進をあざ笑うかのように、それはいつはてるともなく続き、大陸の領土はめまぐるしくその色をかえていく。支配はまたあらたなる支配に呑まれ、うみだされてきたテクノロジーはすべて人々を殺傷するため――武力による掌握を目的とした【兵器】へと転換されていく。
 【テラー】の正式な樹立、およびウィルヘム会議より端を発する世界政府の制定――【十カ国同盟】の発令にともない、ここ数十年はまだいくぶん安寧を取り戻していたが、私の知る限り、この数世紀は血で彩られた歴史だ。
 うしなわれてきたのは、なにも命だけではない。
 文化も、様式も、技術も蹂躙され、滅亡して名も忘れ去られた国家とともに、その存在は世界から抹消されていった。
 近年、フォトン粒子の発見に伴ない世界のテクノロジーレベルは劇的に向上したとされているが、それだってうしなわれてきた技術にくらべれば、見る影もないほど瑣末なものだろう。
 進みゆくテクノロジー。
 そううたわれながらも私たちは確かに、過去から衰退していた。
 熱量をなくしていく宇宙が空間を凝縮し、やがては終焉を迎えるのと同じように、私たちもまた、みずからの手と足を食み、自身の成長を抑え、縮小することでしかコーラルという、その小さなひびわれた受け皿に収まる術をもてなかったのだ。
 戦争を繰り返し、被害を広げ、みずからがうみだしていった尊いものを打ち壊すことでしか。
 終わりゆく世界から離れ、未来を切り開く希望の箱舟。
 それがここ、パイオニア2という世界の、本来あるべき姿なのだろう。
 しかし――
(…………)
 ここの住人たちは、そんなコーラルが携えていた退廃的な因習めいたものをいまだにひきずっていた。
 かれらにとり、ラグオルとはいったいなんなのであろう。
 新たな新天地に、なにを望んだのだろう。
 それははたして希望だったのか、それとも――
(いや……それは私も、同じ、か)
 ふいに自虐的な感情が芽生えた。笑いたくなった。
(俺はいく。アルゴルへ――)
 そう。私がみたのは未来なんかじゃない。
 あの人の背中に追いつきたい、ただ、それだけ。
 その意味では私もまた、ここの住人たちと同じだ。
 未来ではなく、過去に目をむけている。取り戻せない時間をいつまでもひきずり、それを糧にしていまを生きている。
 きっと……アビスは私なのだ。
 この深い夜も、音の消えたうしなわれた時間もすべて、私のために用意された世界なのだ。ここに住まい、光を拒絶するかれらと同じように。
(…………)
 そんなことを考えながら、私はただ、無機的に歩を進めていた。
 自身の考えに没頭していたためだろう。それに気づくのに少しばかり時間かかかった。
 そして気づいたときにはもう、手遅れだった。
「よお」
 なれなれしい、低い、声。
 顔をあげると、そこにはならずもの然とした巨躯の男が私の行く手をさえぎっていた。腰のベルトに親指をはさめ、くちもとには卑下た笑みを浮かべている。その左右には男に付き従うよう、同じ風体の男が二人と、そして――
(……囲まれている)
 背後にはそれ以上の人間の気配が感じられた。
 みな、暴力のプロだ。
 けどそれにたいして恐怖感はわかなかった。嫌悪感が先にあった。
 巨躯の男が口を開く。
「ひさしぶりじゃねえかスノゥ。少し見ねえ間にずいぶんと色気づいたんじゃねえのか、え。おめえ、ひょっとしてコレでもデキたか?」
 指で卑猥なジェスチャーをとり、巨体を揺らして笑う。
 それに私は、刺すような笑みでこたえた。
「おかげさまでね。あなたみたいな遊べない男以上に楽しめる男は、たくさんいるから」
 フライパンを肩にかつぎ、不遜に構えて私は言う。
 その態度がよけい、男の勘に障ったのであろう。あらかさまに男の表情がひくつき、顔から笑みが消えた。
 私はさらに言葉を続けた。
「ねえ、ジェイド。いいかげん私をつけまわすのはおやめなさいな。自分のテクのなさをごまかすために私みたいな子供を相手しよう、なんて考えはわかるけど、おあいにくさま。残念ながらアノ方面に関していえば、あなたより私のほうが――大人よ」
 唇に艶美な、不敵な色を添える。
 アリアにはかなわないにしても、私だって女を武器とすることはできる。どこをどう触れれば男の自尊心をくすぐるのかを理解できれば、その逆もまた容易だ。
 予想通り男――ジェイドの顔がみるみる赤くなっていった。本当に単純な男。暴力だけを頼りにして生きてきたぶん、理性の発育をおろそかにしてきた、それはその代償だ。
 知らず、嘲笑が漏れた。
「それで私になんの用? まさか私と寝たいの。やめておきなさいな。稚拙な支配欲にまた穴を開けるだけよ」
「おーおーいわれてるぜ、ジェイド」
「餓鬼にいわれちゃ世話ねえやな」
「うるせぇっ!」
 はやしたてるごろつきたちの言葉を、ジェイドは声を荒げて抑え込んだ。子供じゃあるまいし、怒鳴ればすむと思っているその態度が実に笑える。自分の信じている世界がどこまでも通用するとかたくなに信じて、物事の変容を拒絶している。
 ……これだから嫌いなのだ。幼児趣味の男は。
 これだけ私や、周りに軽んじられながらも、それでも無理に笑みを張り付かせているのは、この男の薄っぺらなプライドがそうさせているからなのだろう。震える唇を懸命に開きながら、ジェイドは言った。
「へっ、色気づいてしおらしくなったかと思やあ、あいかわらずな鼻っぱしらだな。ちったぁ男になびく術ってもんをおぼえねえと、このさき命がいくつあっても足りねえぜ」
「それは、なに。忠告のつもり? それとも恫喝?」
「さぁな」
 ニヤリ、と――そう刻んだジェイドの笑みは、少しだけ自身の領域が通用する会話になったためであろう。自然と浮かぶ、この男ほんらいの顔に戻っていた。
「……大の大人がよってたかって子供ひとり囲んで、それで悦に入っているようじゃ終わってるわね」
「言うじゃねえか。ちったぁ、状況ってもんを考えてみたらどうよ、ええ」
「同じ言葉を、そっくりそのままあなたに返すわ」
 恫喝に笑んでいるこの男の無知さかげんが、無性におかしかった。
「あなた、このまわりの人間が自分に手助けしてくていると、本気で思っているの。自分のゆがんだ執心を周りに露呈して、数に頼んで私を篭絡しようとして――それがあなたの見せる男? だとしたらずいぶんと小さなものね」
「……てめえ」
「少しは考えてみなさいな。自分の行為がこの男たちにどう映るのか。それによってどんな評価がくだされているのか。もっとも、それだけの知恵が回るのならばこれだけの英断、とてもできないでしょうけどね」
 ジェイドが口を開くよりも先に、私はフライパンをジェイドに向けて突きつけ、威圧した。そして、ひるんだその間隙をぬうよう、私はさらに言葉を続けた。
「ジェイド。いますぐ私の前から消えて。私を抱きたいというのなら、ヤンを通して私のもとにきなさい。それすらもできないで、力で私を犯すつもりなら――私の口をたとえふさいだとしても、あなたのその狭量さが、アビスじゅうに知れ渡ることになるわよ。この男たちの口によって、ね」
 顎で、ジェイドをとりまく男たちを指ししめしてやる。
「なに言ってんだ、てめえ。こいつらがそんなことするわけ――」
「ないとでも本気で思ってるの? だとしたらとんだ楽観主義ね。ガルガの信義を裏切った人間が他人の信義をあてにするの。それだけの厚い情があなたたちの間にあるとでも?」
「ぐっ……」
 返答に窮し、ジェイドは言葉をつまらせた。心のひるみが後ずさりというかたちとなって、この男の挙動にあらわれていた。
 もともとがなにかの義を持ち、ガルガを裏切った男ではない。そんな新参者が短期間で組織内に確固たる地位を確立させるなんて、どたい無理な話だ。そんな男にかれらがつきしたがえている理由など、ただの興味本位でしかない。
 ならば――この状況を打破するのは簡単なことだ。
 満たしてやればいいのだ。その欲求を。
 得体の知れぬ新参者が、私という無力な子供に蹂躙されるという、その現場をみせつけてやることで。
 わかってないのだ。この男は。自分の行動が招いた結果によって、どれだけの自分の首がしめられるのかを。暴力をもちいなくても、その間隙にはいりこめば、私だって充分にこの男を圧倒することができる。いや、現に圧倒している。
 とりまく男たちのあいだから漏れる失笑が、そのことを確かに物語っていた。
 ――あと少しだ。
 巨躯ばかりを頼りとするその男に、さらに、とどめの一撃をくわえようと私は口を開きかける。
 そのときだった。
「なるほど」
 声がきこえたのは。
「確かにこの子の言うとおりだな。みずからの欲望を満たすよりもまず先に、自分の足元を見たらどうだ、ジェイド」
 トーンの低いその声は、女性のそれだった。
(……後ろ?)
 ふりかえる。
「て……てめえは」
 夜のなかに浮かぶ、一つの、影。
 ――白い。
 なにもかもが、白い。
 深くかぶったつばの長い帽子も、そこからながれる髪も、身に包むマントも、ジーンズも、ブーツも、なにからなにまでもが白かった。その、ブーツの踵にはなにか、鋭い刃先をそなえた鉄の輪がそえつけられている。
 古風ないでだちだった。
 まるで、古代世界に伝えられる西方の銃使いがそのままに姿をあらわしたかのような、そんな物語めいた神秘性があった。白で統一された姿がよけい、その印象に拍車をかけていた。
 ゆっくり、白い影が近づいてくる。
 道をゆずるように、私の背後をとりかこんでいた男たちがあとずさった。
「……カラミティ・シェーン」
 誰かがつぶやいたその言葉には、抗しがたい力に対する畏怖がこめられていた。
 白い影――シェーンは私に寄り添うよう私のすぐ横にたった。
 深くかぶった帽子――テンガロンハットの下から覗く灰色の眼をジェイドに向けて。
「ここにヤンがいなくて助かったな。それにしても……ガルガの信義を捨ててレベッカに転んだお前が、よくこの界隈を歩けるな。その胆力だけは誉めておいてやるよ」
 唇が諧謔で笑む形に、ゆがむ。
「だが誉められるのはそこまでだ。この子はヤンの大事な商品だ。キズモノにされれば私が迷惑をこうむる。ここまでいえば……わかるだろう。おまえの頭でも」
 見上げて覗く、その端整な横顔には凍えるような威圧が張りついていた。
 それは心臓をわしづかみにするような、氷の恫喝だ。
(…………)
 ほのかに、漂う殺気。
 私を囲む輪が、さらに広まった。
 マントを一つはらう。腰のホルダーに皮の白い手袋に包まれた女の右手が、添えられる。
 そこにおさまる銃は、フォトン粒子をそのエナジーとした光学兵器ではない。
 実弾を装填し、物理的殺傷を目的としたバレットウェポンだ。
 それもヤスミコフなどのような近代銃器とは完全に一線を画した、古式銃になぞらえられる部類のものである。銃身の末端、象牙により白く象られたグリップの天頂部分にある撃鉄が、そのことを如実に物語っていた。
 シェーンの顔から、笑みが消えた。
 そこにあるのはアンドロイドのような、無面の表情。
「退くか、死ぬか」
 感情がぬけおちたような、言葉。
「選べ、二つにひとつだ」
 刹那に漂う、死よりなお冷たい空気。
「て、てめぇ……」
 ジェイドは押しつぶせぬ激情に、顔をゆがめていた。
「……それが答えか」
「ま、待て……!」
 シェーンの言葉に、ジェイドはとっさに反応した。即座に返答し、両の掌をこちらにむける。その時にはもう、ホルダーに収まっていた銃はシェーンの右手にあり、銃口は巨躯の男へと向けられていた。あと、ほんの一瞬でもジェイドの声が彼女の耳にとどかなければ、構えていた左手が撃鉄を鳴らし、その銃弾がジェイドを撃ち殺していたであろう。
 いつ彼女が銃をぬいたのか、そばにいながらもそれが判らなかった。
 まはたきする間もないほどのあいだにおこなわれた、完成されたアクション。
 それこそが、カラミティ・シェーンのカラミティ・シェーンたる、その由来なのかもしれなかった。
「待ったぞ。どうする」
「わかった、わかったからその銃おろしてくれや」
「なにがわかったのか、答えになってないな」
 慌てふためくジェイドとは対象的に、シェーンのその声はじつに落ち着いたものだ。
「おめえの顔に免じてこの場はひいてやるって言ってんだッ。だから、だからその銃――早く降ろしやがれ!」
 ほとんど絶叫に近い、ジェイドの言葉だった。
「……そうか」
 と、それだけを言って。
 シェーンはゆっくりと銃口を下げ、腰のホルダーに古式銃をおとした。
 後ろにはらったマントを悠然と直しながら、
「血を見なくてなによりだ。少し婉曲的な言いまわしになったが、それを理解してくれたことに感謝するぞ。ジェイド」
 淡々と語るその口調からは、それが皮肉をこめたものなのか、本心からくるものなのか、いまいち判別することができなかった。
「……ケッ」
 ジェイドの口から舌打ちがひとつ、もれる。
 この男の憤りがそうさせるのだろう。舗装のほどこされぬ路面を蹴り飛ばし、そこに唾を吐く。が、それだけでは当然、この男の鬱屈が収まる訳がない。
「スノゥ……てめえ、おぼえてろよ。この落とし前は絶対つけてやらぁ」
 私をにらむその目には、深い憎悪が宿っていた。
「……立ち去りがたいのか」
 と、シェーン。
 淡々とした口調ではあるが、それがいつあの神がかり的なアクションにつながるかわからない――その気配を察したためであろう。それ以上はなにも言わず、ふりかえることもなく、肩をいからせジェイドはその場を去っていった。
 そして、ジェイドにつきしたがう男たちも、また。
 ストリートの脇を曲がり、深い闇へとその姿が、消える。
 それまでの間が、とてもとても長い時間のように思えた。
(…………)
 そして――私とシェーン、ただ二人だけが、その場に残る。
「ふう」
 知らずに漏れた、大きなため息。
 とたん、身体の力が一気にぬけおちた。
「え――?」
 へなへなと崩れ落ちて、路面に腰をおとす。立ち上がろうとしても立ち上がれない。まるで、自分の身体が自分のものでないような、そんな脱力感。
「あ、あれ……」
 冷たい感情がわいてくる。それが私の身体をふるわせる。両の肩を抱いてみても震えはとまらない。だんだん、だんだん激しくなる。歯の根があわない。
「は、はは……なに、これ」
 おかしい? いや、おかしくない。
 なのに笑う。笑いが漏れる。
 ――怖い。
 唐突にそんな情動が、私のなかから強く強く突き上げてきた。
 目を閉じて、ぎゅっと。自分を抱く指に力が。爪が肩に食い込み、痛いほどに。
 ふるえ、とまらない。
「大丈夫?」
 肩に触れる、なにか。皮特有のつめたい、ざらついた感触。
 ……シェー、ン?
「あ……」
 みあげると、そこに、シェーンの顔が。
 さっきまでの無機的な顔はない。心配そうな、顔。
 年相応の、まだ幼さの抜けきらない少女の顔立ち。
 その――なまざしに、さらされて。
 とくん、とくん、と……からだのなかで脈打つ、心臓の鼓動が、少しだけ、しずまる。
 あたたかな安堵感。
 それが私のなかに浸透し、少しだけふるえがおさまった。はなれかけた理性をとりもどすことができた。
 けど――
「はは……あまり大丈夫じゃ、ない、かな」
 と。
 そういらえを返して私、たちあがる。
 ふらついた。とっさにシェーンがささえてくれなかったらまた、しりもちをついていたかもしれない。
「過度の緊張から開放されたその反動かな。大丈夫。すぐに収まるから」
「……うん」
 シェーンの胸によりかかるとその熱が、少しだけあたたかい。
(…………)
 震えは徐々に、徐々に収まっていった。
 どれだけ、シェーンの胸に自分をあずけていたか――わからない。
「なんだか……助けられた形になったわね」
 ようやくおちつきをとりもどして。
 シェーンの介抱から離れながら、私は言った。
「そうね。でも礼には及ばないわよ。それが私の仕事だから」
 やさしくほほえむその顔には、さきほどの鋭敏な感覚は微塵も感じられなかった。
 用心棒としての戦士の顔とともに、年相応の、少女の顔もこの子は持ち合わせている
 いや、これこそがこの子ほんらいが持つ、この子自身の顔なのだろう。
「うん……でも、ありがとう。助かったわ」
 さきほどみせた、あの、顔。
(退くか、死ぬか――)
 それはこの子がくぐりぬけてきた修羅場によってはぐくまれてきたものに違いない。
 卓絶した技巧と、白い髪。
 それが、そのことをなによりも雄弁に物語っていた。
 マネージャーからきいたことがある。
 あの髪の白さは過去に衝撃的な場面に遭遇した、その代償なのだということを。
 過去になにがあったのか、私にはそれをはかる術はない。
 けど、それだけの事件に遭遇しながらも、それを乗り越え、彼女はいま、ここにいる。
 アビスの猛者と渡り合うだけの技巧と、胆力を備えながら。
(…………)
 その強さがどんな想いに裏打ちされてのものなのか、私は知らない。
 でもその事実が単純にすごいことだと、私には思えた。
 同時に、そんな彼女の強さが私にはとてもうらやましかった。
(…………)
 私にも、あれだけの強さがもてたなら。
 あの風に負けないだけの、強靭なハネがもてたなら。
 私もまた、あの人とともにいつまでもいられたのに。
(…………)
 ――え? 
「な、なに」
 ふいに額になにかあてられて、戸惑った声をあげてしまった。
「熱は……ないみたいね」
 シェーンの手だった。
「ね、熱? なんのこと?」
「なにって……そんな顔でぼーっとしているから熱でもあるのかと思って」
 脱いだ皮の手袋をはきながら、シェーンは言う。
「あ、ああ。ううん。大丈夫よ。ちょっと考え事をしていただけ」
 どんな表情を浮かべていいかわからず、とりあえず私は笑っておいた。
「考え事、ね」
 独白のようにつぶやきながら、私を見て笑うシェーン。
「? なに」
 それがなにを意味するものなのか気になって、私は問いただしてみた。
「いや、たいしたことじゃないけど、ヤンの言うとおりだなって」
「マネージャーの?」
「スノゥは夢遊病の気があるから特に気をつけてくれって」
 言って、笑う。
「む、夢遊病て……」
 そのあまりにも心外な響きに、私は言葉をつまらせてしまった。そんな私の様子に、シェーンの笑いに拍車がかかる。
「現に店の前を素通りしていったし。それとも他に行く場所でもあったの」
「え、素通り?」
 答えるかわりにシェーンは、私が歩いてきた方向をさししめした。
(あ……)
 夜に深く染まり、閑散と静まりかえるシティ。
 その、ストリートの脇につらなる建物のなかに、タワーのようにひときわ高くそびえたつ建物の威容を私は見つけた。それは、私のよく知るみなれた建物だった。
 ヤンが根城とする娼館、【散華館】だ。
「いつの間に……」
 絶句する。シェーンの言葉どおり本当に私、店の前を通り過ぎてしまっていたようだ。それがそうと、気づかずに。事実がそうである以上、なにも言い訳ができなかった。
「気にしないで」
 恥ずかしさに言葉をなくしている私の頭を、シェーンが撫でてきた。
「そういう人の安全を守るために、私はヤンに雇われているのよ。でしょ、スノゥ」
「う、うん……」
 私に対しての慰めの言葉だというは百も承知だけど、それを肯定するのはなんとも複雑な気持ちだった。
「もっとも――そんな立派なこと言えた義理、私にはないんだけどね」
 シェーンの顔に暗い影がよぎった。おそらくはリンダたちのことがこの子の脳裏にかすめたのだろう。私は言った。
「……人には人の、できる限界があるのよ。だから気にしないで。シェーン」
「ん、そう、ね。でも……気にするなというのは、無理だと思う」
「そう」
 この子がこの子のなかで決着のつけられないなにかがある以上、私からはなにもいえなかった。過度にすぎた慰めは、かえってこの子の自尊心を傷つけてしまう。
「でも……そうね。だからこそスノゥ、お願い。私の目の前でなら夢遊に浸って歩いても、無茶してもかまわないけど、誰の助けもこない場所では……絶対に無理はしないで」
「む、夢遊って……」
「お願い」
 シェーンの言葉に少し心外なものを感じたが、その態度は私を揶揄するものではなかった。真摯に、まっすぐと私に灰色のまなざしをむけてくる。
「ジェイドに絡まれていた時もそう。スノゥ、あのとき自分でこの状況をどうにかできると思ってたでしょ」
「…………うん」
「無理よ」
 はっきりと、彼女は言った。
「正直に言うけど、スノゥは暴力の姿ってものを知らなすぎると思う。言葉であいつらを屈服させられると思ったのなら、それは大きな間違い。言葉は、言葉でしかないのよ」
「…………」
「通用する世界が違うの。根本的に」
 このアビス内において、己の力のみを頼りとして生きているシェーンの言葉である。
 それに私は、抗し難い敗北感を感じた。
「ここは力によってなりたつ世界なの。どんなに傷つけられても、それを支配すれば――つまり、殺してしまえば、あとはどうにでもなる場所。なんの裏づけもないただの正論は、かえって自分の命をつぶしてしまうことになる」
「…………」
「少し、厳しいかも知れないけどそれだけはわかって」
「そう、ね……」
 私の意思が認められない世界なら、そんな世界、いる価値もない。
 もともとがすべてを失い得た、まがいものの命なのだ。
 いまさら私が私をなくすことに、なんの痛痒も感じない。
「わかったわ。肝に命じておく」
 言葉が私の唇から自然と出るに任せて、私は踵を返した。
 そのまま散華館へと向かった。
 そんな私のすぐ後を、シェーンがついてくる。
(…………)
 ……いまこの子、どんな事を考えているのだろう。
 私を心配して言った言葉だというのは、よくわかってる。でも、それにたいする配慮を、いまの私に持てというのは無理な話だ。
 たぶん、譲れない。
 なにが譲れないのかわからない。けど、それを認めて変容してしまったら、きっと私は、私でなくなってしまう。
 ――だから……ごめん。
 散華館に向かいながら、そんな口に出せない謝罪をつぶやいていたそのときだった。
「あーッ!」
 なにかに驚いたように、シェーンが大仰に声をあげてきたのは。
 ふりかえり、見ると手に――白い皮の手袋になにかがついている。
 髪房をとめるピンだった。
 ……あ。あれって。
「ご、ごめんなさいスノゥ。私、私……」
 私の視線に気づいて、シェーンは正体をなくして声をあげる。その様子からは、このアビス内で【カラミティ・シェーン】として恐れられる彼女の姿は微塵も感じられなかった。
「た、たぶんスノゥの頭撫でた時かな。そのときになんか、とれちゃったみたいで――ちょっと待ってて。いま直すから」 
 言って皮の手袋にはさめたピンを私の頭につけなおそうとする。でも、
「あ、あれ」
 この子の手が触れるたび、なにかがパチンとはずれる音がして、
「ちょっと、どうして……」
 散らす形であそばせた髪房のひとつが私の肩にかかり、
「あ〜、もぅっ」
 アリアが時間をかけて整えたスタイルが、どんどんと解体されていくのがいやでもわかった。
「ど、どうしよう……」
 ひとつだけしかなかったはずのピンを「なぜか」いくつもその手にしながら、うろたえ、困りはて、途方に暮れるカラミティ・シェーン。
 その姿がなんだかおかしくて、とてもおかしくて、悪いとは思いながらも私はこみあげる笑いをおさえることができなかった。
「いいわよ。別に」
 笑いながらシェーンから髪房をとめるピンを受け取り、私の頭につけられた残りのそれをはずしながら、手櫛で乱れたスタイルを整えた。
 背の辺りまで自然と流された、黒髪。
 無造作といわれようと芸がないといわれようと、いまの私には、この髪型がいちばん性に合っている。
 別に過去の自分に固執したいわけじゃない。そんなことをしたところでうしなわれた時間が戻ってくるとも思わない。
 ただ、私はこの髪型が好きだから。それだけのこと。
「ごめんなさい。せっかく可愛らしく仕上がっていたのに」
 可愛らしく。
 なんだかんだ理由をつけてみても、結局のところ、いちばんの原因はやはりそこだ。私は子供じゃない。
 と。
 そこまでの結論に達して、なぜだか私は可笑しくなった。
 なにかがふっきれた気がした。
「ううん。いいわよ。正直私もあのスタイルは趣味じゃなかったから。まあ、そんなこと言ったら、アリアにどんな報復をされるかわからないけどね」
「?」
 事情もわからず顔に疑問符を浮かべるシェーンをよそに、私はそのまま散華館に向かった。
「あ、スノゥ」
 すぐ後をシェーンが続く。
 足取りが軽い。
 なぜだかわからない。でも胸のわだかまりが、不思議といまは少しだけ晴れていた。
 この夜の重圧も、魂を呑む深淵の静けさも、いまはなにもこわくなかった。
(…………)
 光の知らぬ闇のなかにこそ、その真価を覗かせる不夜城――【淵(アビス)】。
 この闇は訪れるものの内にひそめる闇と同化し、そのものの本質をさいなめていく。
 闇に呑まれるものは闇に呑まれ、その闇に打ち勝てるものだけが自身を自身として、この都に住まうことをゆるされていた。
 闇はそのものの魂をあばきだす、真実の腕(かいな)だ。
 私は――その闇に打ち勝てているのだろうか。
(…………)
 わからない。
 けどこの足の軽さは、いま私が私であることを証明していた。
 それはなにかの拍子に訪れた、ただの気まぐれなのかもしれない。
 きっと、闇はふたたび過去の亡霊となり、苦い追憶となって私を苦しめてくるのだろう。
 この瞳が風を映せないのと同じように、闇はただ、私を盲目にさせるから。
(けど――)
 いまは……それでいい。
 この痛みも苦しみも、そして――捨てきれぬ悲しみも、また。
 私を歩ませる、たしかな原動なのだから。
(…………)
 そんなことを想いながら、私は散華館を――
「……スノゥ。どこにいくの」





 ……素通りしていた。


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