1 アイラ
行き交う人の挨拶のほとんどに気温の話が含まれて、「暑いですね」「今日は涼しいですね」と、そんな言葉が繰り返されるこの季節。
喫茶・十六夜の従業員アイラ=ブリオーシュは、何故か、休業日のはずの職場にいた。
表にはちゃんと『本日休業』の札が出ているにもかかわらず、だ。
休みの日といえば、普通は買い物に行ったり映画を見たりどこかへ出かけたり、と、自分の好きなように時間を使うもの、だけれど。余程仕事が詰まってでもいない限り、休日出勤などしたくないはず、なのだ、けれど。
どっこいアイラにとっては、ここが主な休日の過ごし場所、なのだった。
理由は簡単。
ここなら、好きなお菓子を作る器材が揃っているからだ。
今日も今日とて彼女は、久々に作るとあるケーキを、鼻歌交じりで試作している最中なのである。
本日のケーキは、カボチャのプリン。
西洋風に型に流してオーブンで蒸し焼きにするのではなく、丸ごとのカボチャに生地を流し込み蒸し上げて、器ごと食べられるようにするつもりなのだ。
甘さ控えめでヘルシーでしかも美味。世の中の甘味好きが嬉し泣きしそうな代物である。
最初彼女は小型のカボチャで2人分ほど作ろうとしていたのだが、マスターが
「どうせなら大きなので作ったら? その方が実際に近いから感覚も戻りやすいよ」
とのたまったから、普通のサイズのカボチャで作っている。
そんなにたくさん、休業日なのにどうするのかと、一瞬アイラは思ったが、あのマスターの言うことだから、と妙な納得の仕方をして、プリンを作り始めたのだった。
「ふんふふんふんふーん」
蒸し上がったプリンを、あら熱を取って冷蔵庫に入れたのがほぼ1時間前。
翌日のケーキの下ごしらえをして、使った器材を洗って片づけ、厨房も掃除して、冷蔵庫のドアを開ける。そろそろ冷えた頃だろう。
「うん。オッケー。切り分けて……生クリームを軽くホイップして、かけて食べれば美味しいわよね♪ そろそろマスターも帰ってくる頃だし」
踊るように体を動かしながら、アイラは外出した雇い主を思った。
涼しげな耐熱グラスを見つけたから20個ぐらいまとめて買ってくる、と、出かけたマスターはまだ帰らない。
「マスター、遅いわね」
呟いた途端、コロロン、とドアベルが軽やかな音を立てた。
2 田坂
「やーれやれっと……」
ぽんぽんと肩を叩きながら、田坂言成は読み続けていた資料から自分の両目を解放した。
首を回すとコキコキと音がする。
許可待ちの新薬の効果とその予想される副作用、使用量の増減による効果の大小に試験段階での様々なデータ。1種類のそれだけでも十分な分量があるそれを、細かく自分でチェックもしつつ、この午後だけで5種類分あまりも読んでいたのだから、それも当然のことだった。
彼の職業は薬剤師である。
自分の知識と技術と経験が人の命を左右すると思えば、手を抜くわけにはいかないし、そんなことなどプライドにかけてするつもりもない。
だが、さすがの彼にも休息は必要だった。
テレビを見る気にはなれない。本も、好きだが今はイヤだ。
窓の外を見れば、凶悪なまでに地上を照らしていた太陽も、ようやくそのパワーを、明日に備えて落とそうとしているようで。
多分まだ気温は高いのだろうけれど。
普段空調のきいた職場にいて、今もエアコンのお世話になっている身だから。
「たまには暑い中歩いてみるのもいいかもな」
たとえ妖怪であろうと、生物ならば汗をかくことも必要で、ついでに言えばこの国の季節というものが、実は田坂は好きだったりもしたから。
「……散歩に行くか。でもって十六夜に……」
呟いて立ち上がって、ふと田坂は動きを止める。
そういえば行きつけの喫茶十六夜は、今日は確か定休日だ。
どうしようかな、と、少しの間視線を窓の外とソファに往復させて、
「ま、いいか。」
ついでに買いたい物もあったしな。
と、キーを片手に家を出て、田坂はまだ昼の日差しの名残を残す戸外へと歩き出した。
3 芙蓉
つい先日帰ってきたばかりの植物採集合宿の、成果の総決算である自作のスケッチの数々を、パラパラと眺めて水上芙蓉は満足そうに笑った。
柔らかめの鉛筆で、なるだけ急いでけれど詳細にスケッチしてきた尾瀬の植物は、下界に戻って写真と記憶を頼りに淡く水彩絵の具で色を付けると、その印象をがらりと変えた。
ここに、やはり調べて書き留めてきた生育状況とその環境、木道や山小屋との位置や考えられる影響その他のデータを加えれば、芙蓉自身の『お仲間データ』にこの夏新たな項目が追加されることになる。
自身、蓮の化身である芙蓉は、生きている間になるだけたくさんの『同類』たちに会いに行きたいと思っていた。
だから選んだ植物学だ。
「でもやっぱり、ちょっと疲れた、かな」
苦笑混じりに肩を叩く。
ラインを整理してスケッチに色を付けるだけでも1週間かかったのだ。これからデータを加えると思うとちょっと気が遠くなる。
好きでやっていることではあっても、やはり気分転換は必要だった。
「最近十六夜にも行けてないしなぁ」
ブツブツとぼやいた芙蓉は、椅子を鳴らして立ち上がる。
「よしっ! 散歩がてら十六夜行ってアイラさんのケーキ食べよっ! ……待てよ? まさかと思うけど今日休みじゃないよね……?」
まさかもナニも実は『その通り』なのだが、芙蓉は気にしないことにした。
「まあいいか。散歩には行きたいし。お休みだったらすごーく残念だけど、また明日行けばいいんだし」
──それにひょっとしたら休みでもアイラさんやマスターはお店にいて、顔出したらコーヒーくらい飲ませてもらえるかも知れないしー♪
たとえ妖怪でも『女の子』は『女の子』。
ちゃっかりしている芙蓉なのだった。
「さて行くか!」
教授から鍵を借り受けて独占していた研究室の、冷房を切り、ドアに鍵をかけて、彼女はキャンパスを歩く。
緑の多い構内には、蝉の声が響いていた。
遠くに響いているのは、体育会系の部やサークルの連中が練習に精を出しているその声だろう。
木々の隙間からのぞく空は、大声で呼びかけたらそれがそのままはじき返されてきそうなくらい、夏の日差しをはらんで輝いている。
夏だな、と、思った。
日焼け止めをつけてはいるけれど、そこはやはり万全を期したいから、ちゃんと木陰を選んで歩く。
そうして、自分の住まいへ戻るには少しばかり遠回りの、喫茶・十六夜への道を辿る芙蓉の前方に。
「あ……あれ、田坂さんだ。」
とても見慣れた背中が見えた。
4 コウ
昼間の目に痛いまでの白さにやっと茜を含ませ始めた太陽を、かざした手のひらの影から見上げて高岡裕は立ち止まった。
背中のリュックサックからハンドタオルを引っ張り出して、軽く額の汗を拭う。
そうしてのほほんと呟いた。
「あー……やっぱ下界の気温は高いねぇ」
喜んでいる様子はないが、別段嫌がっている気配もない。
暑いのも夏、そうでなくてもやはり夏。
季節や天候というものはそういうものだと思っている、それが彼、コウだった。
『下界』と彼が評したこの街に、対する『天界』がどこを指すのかというと……奥多摩である。今回は。
芙蓉とはまた違った意味で、コウも仲間を捜していた。
仲間──この国では絶滅して久しいと言われる狼を。
人狼であるコウたちと違って純粋に『獣』である彼らが、生きて動く姿をコウはこの国で見たことがない。
本当に絶滅してしまったのか、それともどこか人の踏み入ることの出来ない奥地にひっそりと暮らしているのか。
知りたいから、長めの休みが取れる時には結構そこかしこを歩き回っているのだが、まだ遭ったことがなかった。
仮にちゃんと生きていても、人の世界に馴染んで暮らす自分に染みついた『人界』の匂いを、彼らは嫌うのかもしれない。
「……ま、気長にゆくさ」
──時間は、あるから。少なくとも人間よりは、自分には。
ひとりごちて朗らかに笑うその表情は、晴れた夏空に良く似合った。
「さて、土産置きに行くか。マスターに渡しとけば連中にちゃんと渡してくれるだろうし」
コウの言う『連中』とは、十六夜の従業員のアイラであり、翠であり、その常連の田坂で芙蓉で、不思議な縁で知り合って、今はやはりほぼ常連の祐である。
毎日顔を合わせるわけではないが、何かの折りには何故かちゃんと勢揃いしている、そんな、『連中』。
土産物を目にして彼らはどんな顔をするだろうか。
「文句、言うかもなぁ」
苦笑混じりにコウは思う。
彼が奥多摩から持ち帰った土産物は、ヤマメの薫製、であったりした。
「美味いんだけどな、コレ。……って、それ以前に休みだったら……ま、いいか」
その時はその時だ。
と。
リュックサックを背負い直して歩き始めたコウの目が、馴染んだ人影を2つ、その視界に捉えた。
5・祐
「やっぱりもうちょっと後にすればよかったかなぁ」
キツい日差しとその照り返しがやっとナリを潜めた通学路を、ぽてぽてと歩きながら山崎祐は考える。
夕方から用があるという友人につきあって、園芸部員の持ち回りでこなしている花壇の水やりの時間をいつもより少し早めた。
日差しに温められて危うく熱湯になりかけていた水道管の中の水が冷たくなるのを待ってから、花壇に水をかけたけれど、地面そのものが熱を持ってしまっていて、一瞬ただ蒸し暑いだけの空気がそこらあたりを支配した。
草のにおいが広がって、水を含んだ土の匂いもちゃんとして、
──夏だなぁ。
と、思ったけれど。
「やっぱりもうちょっと待ってからの方が、よかったのかも、しれないよなぁ」
ぬくもった水に根っこをやられてなければいいな、とか、ちゃんと元気に花を咲かせてほしいな、とか、思うくらいには祐は花壇の花や校庭の木々を大事に大事に思っていた。
見上げる空には入道雲。
「夕立がくれば涼しくなるのにって、お母さんは言うんだよなー。でもってあの入道雲の下って、確かすんごい雨降ってるんだよなぁ」
(あんなに真っ白なのに、あの中って、空気の流れがうりゃうりゃのごろろろのずごごごーんで、雨もどしゃどしゃで雷もガラバキドガダン! なんだって言うもんなぁ。とてもじゃないけどそうは見えないや)
積乱雲を表現する、彼の言語センスは相変わらずだ。
学校の友人たちや十六夜のみんなが聞いたら、きっとまた
『その言語感覚が判らない……』
と頭を抱えるのに違いない。
そう言う彼らの表情までが目に浮かぶようで、ついつい祐は笑ってしまった。
そうして思う。
──みんな、いるかな?
確か十六夜は今日は定休日だったはずだけれど、彼らなら休みでもあの店にいるかもしれない。
芙蓉もコウもしばらく出かけていて会えてなかったから、会えばきっと土産話を聞かせてもらえる。
もしもしっかり鍵もかかって、店に誰もいなくても、ちょっと午後の散歩を楽しんだと思えばいい。
「よーし、行ってみよっ!」
うん、とひとつうなづいて、祐は家へと向かっていた足を、回れ右して喫茶十六夜の方へと向けた。
そうして角をいくつか曲がって、十六夜のある通りへ出て。
(さーて、いるかなぁ、みんな?)
前方に目を凝らすと、そこに。
すっかり見慣れてしまった後ろ姿が、3つ並んで歩いていた。
6・ミドリ
電車を降りた途端自分を包んだ湿気の多い暑い空気に、竜河翠は顔をしかめた。
竜というその本性から、乾燥しすぎた空気は大嫌いだが、だからといってこの体温とさして差のない温度と水分を大量に含む空気も、出来ればゴメン被りたい。
「日差しが弱まってるのが、まあ、救いかな」
恨めしげに空を見上げて、溜め息混じりに呟いた。
強すぎる日差しがミドリは嫌いだ。高すぎる気温も嫌い。出来ることなら日がな一日屋内にいて、活動するのは朝と夜と雨の日だけにしたいと思う。
そんなミドリが何故その『大嫌い』な時間に外にいるかと言うと、だ。
水族館にいたのだ、彼女は、ついさっきまで。
屋内である。水がある。そうして水辺に棲む生き物たちがいる。見つめていると哀しくなることもあるけれど、そこは確かに街の中にぽつんと置かれた『水の世界』で。
水の気配を感じるのは好きだが、水道管を通され消毒液をぶちまけられたプールには入りたいとも思わないミドリは、だから、ごくたまに大量の水を感じたくなった時、水族館に出かけてゆくのだ。
これで実は水槽の中の連中の言葉を、案外楽しみながら聞いていたりもする。愚痴もあれば郷愁もあるが、ちゃっかり状況に順応して人間観察の結果を教えてくれるのもいたりして、連中の話は侮れない。
だからそこは確かに、居心地が良いとミドリが感じる場所のひとつ、なのだった。
一番心地良いのは生まれ育った──そして今はもう宅地開発で失われてしまった懐かしい沼。木々の葉が影を落とし、その隙間から漏れる光が淡く地面と水面を照らしていた。
失われて久しいその場所を、ミドリは今でも時々夢に見る。
目覚めたときにわずかの痛みをもたらすその夢に、けれどミドリが捉われてしまわないのは、仲間がいるから、なのだった。
妖怪もいるし、人間もいる。同じ妖怪でも種族が違う。それでも彼らは友人で、仲間で。
馴れ合うことは苦手だけれど、そうならないのが連中だった。
(思えばへんな連中だよねぇ。)
そんなことを口に出して言ったら、田坂やコウあたりは絶対に「お前に言われる筋合いはない」くらい軽く返してくれそうだけれど。
田坂は冷ややかな目をするだろう。コウは口元をへの字に曲げたりするだろう。そうしてアイラと芙蓉と祐はクスクスと笑い、マスターはただその顔に穏やかな笑みを浮かべるのだろう。
そんなことを思いながら改札を出る。
スッと耳元を掠めた風が、意外なほどに気持ちよかった。
「あれ……涼しい?」
何で、と、首を傾げたミドリの肩を、ポン、と叩く手があった。
同時に言葉が落ちてくる。
「そりゃ、立秋過ぎたからね。暦の上では秋なんだから、多少は風も涼しくなってもらわないと」
振り向くまでもなく声で判る。
「マスター。出かけてたんですか」
言うと、喫茶十六夜の主にしてミドリの雇い主でもあるその人物は、ふわりと笑って両手を掲げた。
「気に入ったグラスがあったからね、まとめて買ってきたんだよ。せっかく会ったんだから、どうだい紅茶でも飲んで行かないかい?」
申し出に否やはない。
「行っきまーす」
答えて歩き出したミドリを、追いかけるでもなくゆったりとマスターが歩いてくる。
そうして店が見えたところで、ミドリはその足を止めた。
「…………何だありゃ?」
「おやおやみなさんお揃いで。」
のんびりとマスターが呟くと、その声が届いたらしい『みなさん』が、揃いも揃って振り向いた。
7 喫茶十六夜
コロロン。
ドアベルの軽やかな音を耳にしたアイラは、笑顔でこう言おうとした。
『あ、お帰りなさいマスター』
けれどその口は、『お』の形のまま一瞬凍りついた。
「ただいま、アイラちゃん」
呆然と立つアイラの前を通り過ぎて、マスターがカウンターの中に入ってくる。
そうして、やはりまだ立ちつくしているアイラを横目に、さっさとお茶の準備を始めてしまう。
それでもアイラは何も言わなかった──というより、言えなかった。
彼女の目の前でとても見慣れた顔が次々とテーブルについてゆく。
「やあ、アイラ。またケーキを試作してたんだな。今度はどんなのだ?」と田坂。
「やっぱり季節感に溢れたものなんですよねきっと」嬉しそうなのは芙蓉。
「よっ、久しぶり。いちおー土産持ってきたぞ」と日焼けした顔でちょっと自慢げに言うのはコウで。
「こんにちは。あのー……水まきのついでに散歩、しようと思って、で、通りがかってみたら、みんなが……」えへへ、と、祐は照れ笑いを浮かべた。
「私は、駅でマスターに会ったんで。」誘われたんだよ、と、これはミドリ。
従業員2人は顔を見合わせて小さく肩をすくめる。
浮かんでいるのは同じ苦笑だった。
今日はこの店は定休日のはずだ。
だからアイラは厨房を借りてこれからメニューに加えるお菓子を試作していたのだ。
なのにどうして、普段とさして代わり映えのしない顔ぶれが、今、この場に揃っているのか。
(やれやれ、まったくね。)
ミドリがカウンターに入る。
アイスティーの用意を始めたマスターの隣で、そうしてアイスコーヒーの準備を始める。
アイラは冷蔵庫へ。
生クリームを取り出して、とろみがつくまでホイップする。
そうしてカボチャのプリンを切り分けて皿に盛りつけ、残る4人の待つテーブルに、自分達の分も、置いた。
同時に飲み物が配られる。
コーヒーが好きな田坂とミドリの前にはアイスコーヒー。残りはアイスティーかハーブティーだ。
それぞれの前にグラスを置きながら、ふわりと笑ってマスターが言った。
「みんな今日は色々お疲れだったみたいだね。これは私からの残暑見舞い」
──ささやかだけどね。
その、声が、言葉が、表情が優しい。
どうして『色々お疲れ』だったと思うのか、とか、何故いつも試作品は少量しか作らないアイラが今日に限ってこんな大量のそれを作っているのか、とか、ついでにどうしてこんなに良いタイミングで買い物から戻ってくるのか、とか、色々いろいろイロイロ、疑問は6人の脳裏に浮かんだけれど。
訊いて返る答えがもっとコワかったらどうしよう、とか、そんなことまで考えて。
(やっぱりマスターが一番謎だよ)
と、同じ思いを共有しながら、それでもいいやと6人は笑った。
残暑お見舞い申し上げます。
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