── ソラに想いを ──

 

 

 

 

「さーさーのーはー さーらさらー のーきー……」
 リビングの窓から曇りがちな夜空を見上げて、小さな声で地気の化身が歌っている。
 それを聞くとはなしに耳に入れながら茉莉龍珠茶を淹れていた紅尾は、ふと違和感を覚えて手を止めた。
「どうしたのじゃ、紅尾?」
 聞香杯に茶を注ぎ分けていた手が止まったことに、訝しげに声をかけたのは、桜の化身・桜里である。
「え、あー、ちょっと……」
 歯切れ悪く答えた紅尾の視線は、窓際の清流に向けられたままだ。
「清流がどうかしたのかえ?」
 再度訊ねてきた桜里に、
「いやその、ちょっと清流の歌が気になって……」
 やはり歯切れ悪く紅尾が答えると、それが耳に入ったのか、それまで窓の外を妙に熱心に眺めていた清流が、ふと振り返って問いかけた。
「? 紅尾さん、なんです?」
「いや……あー、その。気のせいだったかもしれないんだけど、清流?」
「はい?」
「さっきお前が歌ってた歌。」
「七夕の?」
「そうそれ。もっかい歌ってくれないか」
「はあ」
 一体何が気になったのか、と、桜里も首を傾げながら歌を待つ。
 と、緊張でもしたのか大きく息を吸い込んだ清流が、おもむろにそれを歌い始めた。
「さーさーのーはー さーらさらー のーきーばーにー ぬーれーるー」
 途端桜里と紅尾が反応した。
「む?」
「そこだやっぱりだ待て清流!」
「へ?」
 素で不思議そうな顔をした清流である。
 きょとん、とした表情に、半ば呆れたような紅尾のツッコミが入った。
「お前今、軒端に濡れるっつったろう!」
「え。違うんですか?」
 ──違うだろう。
 心中でのツッコミは桜里も紅尾もほぼ同時だったに違いない。
 真顔の清流に、今度こそ呆れた風情で紅尾が言う。
「違うよ! どこで覚えたんだそんな風に? 濡らすな濡らすなせっかくの七夕飾りを。いくら今が梅雨時で、彦星も天の川に沈んでるからって、歌でいきなり紙が主体の飾りを濡らしちゃいかんだろう」
 織姫と彦星が年に一度の逢瀬を果たせるようにと願う七夕なのに、笹飾りが濡れては困るではないか。
 言われて自分の間違いを悟った清流が
「あ。そっか。えっとじゃあ、ホントは何なんです?」
 問うのに、
「軒端に揺れる、だ。濡らすなよ」
 紅尾が答えたすぐ後だった。
 半ば呆れた風情で桜里が言ったものである。
「と、言いながら、彦星を沈めるそなたもどうかと思うがの、紅尾」
「はい?」
 実に意外そうな顔をした紅尾だ。
 更に言った。
「何か間違ってますっけ?」
 全くの素だった。
「確かにの、彦星は天の川の中にある。したが、沈めずともようかろうが、物騒な。まるで簀巻きにされて突き落とされたように聞こえて仕方がないぞ」
 苦笑混じりの桜里の言葉に、紅尾も己が失言に気付いたようだ。
「ああ……それもそうか。つい。」
 つい、そんな台詞が飛び出すあたり、人としてどうなのか、とは、桜里と清流ふたりの心にほぼ同時に浮かんだ感慨だった。
 が、それと好奇心は別だったようだ。
 清流が紅尾と桜里に訊ねた。
「天の川の中にあるんですか彦星? 僕、彦星も織姫も天の川挟んで川岸にいるんだと思ってました」
 だから年に一度カササギの橋を渡って、夏の短夜の逢瀬を果たすのだと。
 大河に隔てられた恋人達を会わせるために、カササギが橋をかけるのだと。
 そう、清流は思っていたのだ。
 だから毎年七夕の夜には、自分達の願いも託しつつ、彼等ふたりの無事な逢瀬を願って、七夕の飾りをしつらえ空を仰ぎ、晴天を願うのだと。
「彦星が天の川で溺れてるんだったら、カササギが橋をかけてくれてもダメなんじゃないですか?」
「……沈めた次は溺れさせるかそなたら……」
 呆れ顔の桜里を横目に、繋ぐ紅尾の言葉は軽い。
「ま、そこは昔話で伝承だし。それに、彦星が天の川の中にあるって言ったって、それはここからそう見えるってだけのことだしな」
 ここから。
 この国、この星から。
「それを言うなら、そもそも彦星と織姫自体、たまたまこの星から見れば天の川を挟んでいるだけ、ということになるのではないかえ?」
 ちらり、片眉を上げて桜里が言うのにも、紅尾はふわりと笑って応えた。
「ええ、まあ、そうですね。でも嫌いじゃないですよ、私、そういう、伝承とか、伝説とか、こういう行事とか」
 星に空に思いを託し世界を映して願いをかける。
 あまり真剣に深刻になるのはどうかと思うが、人智の遠く及ばないものに願いをかけるのは、古来、人の自然な情動だろう。
 言うと、
「あ、僕も好きです!」
 清流が応えて手を上げ、桜里も
「それはわらわとて同じこと」
 と笑みを浮かべた。
「そうやってそなたら人がいろいろなものに想いを託してきたが故に、伝承があり伝説がありこうした行事もあるのじゃからの。それを悪いなどと言う気はもちろんないし、否定する気もさらさらないわ。それに溺れるのでなければの」
「そうですね」
 頼るのではなく想いを託し。
 溺れるのでなくただ願って。
 七夕に人が見上げる空は、きっとそういう空だろう。
「晴れるとよかったんですけどね」
 星を見上げられるから。
 ふ、と清流が紡いだ言葉に、紅尾と桜里は笑って応えた。
「そうだな。こればっかりはどうにも出来ないけどな」
「なに、心配せずとも雲の上はいつも晴れじゃ」
「そうですね」
 たとえ雲がかかっていようと雲の上はいつも晴れだし、その向こうの遥か宇宙から星が消えるわけでもない。
 それでも、晴れるといい、と思うのは、それだけ七夕の伝承が心に馴染んでいるからだろう。
「でも、やっぱり晴れがいいですよね」
 キラキラ。
 澄んだ音がしそうなほど綺麗な笑顔で言った清流に、
「そうだな」
「ああ、そうよな」
 紅尾と桜里は今度も微笑って、空を見上げて囁いた。

 

 

  

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あとがき
というわけで2005年七夕突発。白状すれば本当は去年書こうとして間に合わなかったネタ(^^;)。
少しでもお気に召していただければ幸い。感想などいただけると茶寮主、泣いて喜びますので、掲示板かメールにて、是非。