冬咲く花
「オウリ、お茶が入りましたよ」
背後から声をかけられて、アルミサッシの窓越しに外を眺めていた人影が振り向いた。
「そうか」
ふんわりと笑みを浮かべるその顔は、余裕で美女の範疇に入る。
豊かな黒髪を結い上げて、身に纏うのは朽ち葉色の極上の絹の着物。透けるほど白い肌に、伏し目がちな切れ長の瞳。唇は紅を刷いたように赤い。
平成の世の、しかもアパートの1室にはいささかならず不似合いな出で立ちである。
戦国時代か江戸時代の姫君がタイムスリップしてきたか、はたまた時代劇に出演する役者が舞台衣装のまま抜け出して来たのかと、思われても仕方はないのだが
--
この美女は、けれど実際にはそのどちらでもなかった。
「雨でしょう、外? 雪になるには気温が高いって、今朝方の天気予報で言ってましたよ。揚げ煎餅も買ってきてありますから、お茶が冷めない内にいただきませんか」
そう声をかける部屋の主には、彼女の出で立ちにも、
「いや、少しばかり冷えてきた故、な。したが……そうじゃな。茶にしよう。そなたの煎れる茶は美味い故、冷めては勿体ないからの」
などという、部屋の雰囲気にはこの上もなく不似合いで、そのくせ彼女の出で立ちにはこの上もなくよく似合う言葉遣いにも、不審を覚える様子も、一向に、ない。
ただ、ゆったりと立ち上がってこたつに入りこんでくる美女を見つめながら、くすくすと笑った。
「……何じゃ? コオ」
「いえ……。1年前には、こんな風にあなたとお茶を飲むなんて想像もしなかったな、と思って」
コオ、と呼ばれた部屋の主は、やはり笑いながら答える。
コオ --
文字にすれば、『紅尾』。女性である。フルネームは篠宮紅尾と言う。
女性の名にはいささか不似合いな音、人名にはやはりいささか違和感のある字も、けれど「紅く染まる山の尾根に見惚れた祖父がつけたそうです」という謂われを聞けば、なんとなし典雅に思えるのだから不思議なものだ。
「それを言うなら妾も同じじゃ」
肩をすくめてオウリが言った。
桜の里、と書いて、オウリと読む。
「この時勢になって、よもや妾の見える者がおろうとは思わなんだわ」
不思議な言葉を紡ぐのは、桜里が人ではないからだ。
「私だって驚きましたよ。去年の春引っ越してきて、ご近所を探検がてら散歩してたら、いきなりそんな格好で、あんな場所に、あなたが現れるんですから」
あんな場所に。
花の盛りを過ぎて、花びらの薄紅と若葉の新緑のコントラストも目に鮮やかな、大きな桜の木の下に。
「ほほほ。したが、あそこが妾の場所故の」
朱唇をふわりとほころばせ、微笑う桜里は --
彼女は、桜の精である。
紅尾の住むアパートの、ベランダに出れば見えるほどの距離にある神社。その社殿の脇に立つ大きな桜が、彼女の本性。
「それはまあ、そうですけど」
苦笑混じりに答える紅尾に、追い打ちをかける桜里である。
「それにそなた、そうは言うが、妾を見てもたいして驚かなんだではないか」
どうせ見える者などおらぬと、自分は高をくくっていたというのに。
紅尾を見る桜里の目は、笑っている。
彼女が前触れもなく現れたのは、夕闇迫る神社脇の、しかも桜の古木の下だった。
桜の精霊が現れるにはこれ以上ないほど似つかわしく、そして首都の一角という場所と時節を考えればやはり同じくらい異様な舞台。
そこに現れた桜里を見て、紅尾はこんな風に呟いたのだ。
『なんとまあ……珍しい』
珍しいには違いないが、桜里を見てそんな台詞を出せる紅尾とてまた稀な存在だろう。
『そなた……まさか妾が見えるのか?』
目を瞠る桜里に向かって
『え……見えちゃいけないんですか?』
などと、普通言えるものではない。
「珍しい、だの、見えてはならぬのか、だの、そなたも相当変わった人間よの」
「いいじゃないですか、別にぃー」
人外の存在に変わり者呼ばわりされてはたまらない、と、紅尾が軽い抗議の声を上げる。
と、ふと真顔に戻った桜里が、今更のように問いかけた。
「紅尾。今だに不思議なのだがの」
2煎目のお茶を湯飲みに注ぎながら、紅尾が顔を上げて桜里を見る。
-- 今更、何を不思議に思うと言うのだろう?
とでも言いたげな紅尾を横目に、桜里は構わず言葉を続けた。
「そなた、あの時何故、驚かなんだ? 今でもごくたまに妾の姿を見たり気配を感じたり出来る人間もおらぬではないが、その者達は蒼ざめたり悲鳴をあげたりして逃げ出すのが常であったのに」
桜里の問いかけに、紅尾は湯飲みを手渡しながら呆れ顔。
「出会って1年近くになるのに、今更それを訊きますか?」
同じ問いを、桜里は何度も繰り返している。
その度に紅尾は「あなたが綺麗だったからですよ。現れたのが見るからにお化けお化けしていたら、私だって泡食って逃げてます」と笑ってはぐらかしていたのだけれど。
紅尾のそんな軽口が、桜里は結構気に入っていはするのだけれど……。
ふと、もう一歩つっこんでみたくなったのだ、桜里は。
「今だから、と、言うておこうかの」
くすくすと笑う彼女に、観念したように答えた紅尾の言葉は、やはり一風変わっていた。
「だって、勿体ないじゃないですか」
「……勿体ない?」
-- 勿体ないとは何事なのだ。
きょとん、と、それでも湯飲みを受け取りながら桜里が紅尾を見つめ返すと、部屋の主は「そうですよ」とふわりと微笑う。
「そうですよ。あなたの現れたのが夢だとしたら、そんな夢ならもう少し見ていたい。もしも夢でなかったら
--
それこそ、こんな綺麗な桜の精霊とお近づきになれる機会を無粋な悲鳴なんかで台無しにしたくない。どちらにしろ、悲鳴なんかあげて逃げ出すのは勿体ないじゃないですか」
「……呆れたヤツじゃ」
現れたのが自分ではなく、魔性のモノだったらどうするつもりだったのか。
少しばかり眉をひそめた桜里に向かって、またしても紅尾が朗らかに答えた。
「その時は、まあ、その時ですよ」
「…………呆れたヤツじゃ」
額に手を当てて溜息をつく桜里の、けれど口元が笑っている。
「我らの存在を否定せぬのじゃな、そなたは」
「しませんよ、そんなこと」
「……勿体ない、か?」
「ええ、勿体ない、です」
「ほんに、変わった人間もいたものよ」
桜里がしみじみと呟くと、
「ひどいなぁ、その言い方」
苦笑混じりに紅尾がぼやいた。
「真のことであろうが」
「はいはい。いいですよもう。何とでも言って下さい」
やれやれ、と肩をすくめながら、今度は紅尾が桜里に訊く。
「それよりも……今年は、桜里、いつ頃花をつけるおつもりなんです?」
「何じゃ、いきなり」
「だってほら、去年私が引っ越してきた時には、あなたの花の盛りは過ぎていましたから」
だから今年は、満開の桜里の艶姿を見逃したくはないのだ、と、紅尾は言う。
「なるほどの。気持ちは嬉しいが……いくらなんでもまだ判らぬよ」
答えた桜里が苦笑を漏らした。
-- いくら何でも、まだ早い。
日は少しずつ、けれど確実に長くなってゆきはするけれど、春は、まだ、遠い。
今年の春がいつやってくるのか、花の咲くのは、新芽の出るのはいつのことになるのか、この空と大地だけが知っている。
言いながら、彼方の春を見通そうとするかのように窓の外を見やった桜里が、
「したが……」
窓の外の空を見上げたまま、呟いた。
「したが、紅尾。妾の枝に咲く、桜ではない別の花を、そなたに見せてやれそうじゃ」
「別の花、ですか?」
「そうじゃ。見てみよ。冷えてきたと思うておったら」
桜里に手招きされて、紅尾も窓の外を見る。
窓の外には……
「雪、ですか」
「冬に咲く花。不香の花じゃ」
カチャ。
紅尾がアルミサッシの鍵を開け、
カラリ。
窓を開けて舞い降りる雪を手に取る。
「綺麗ですね」
花のない季節に、空が大地に贈る白い花だ。
「積もると、思いますか?」
「この時間から降れば、おそらくな」
日没にはまだ少し時間がある。今から降るのなら、雪は明日の朝には世界を覆うだろう。
すっかり葉の落ちた桜里の枝に、積もる雪はけれどとても綺麗だろう。
「積もったら、お花見をしましょうか」
紅尾が言うと、
「そうじゃな」
と桜里が笑った。
完
|