月の綺麗な夜だから・2

 

 馴染みの小料理屋・ちよ間屋ののれんをくぐった途端、清水の耳に飛び込んできたのは、女将・ちよのこんな声だった。
「ちょいと登竜、ホントだろうね? ホンットに大丈夫なんだろうねぇ?」
 何事かと思って店の中を見れば、普段は厨房にいるはずのちよがその外にいる。
 のみならず、棒手振り魚屋の梶源と娘の小桃と一緒になって、店の隅で登竜を取り囲んでいた。
「……ナンだぁ?」
「……何事でしょう?」
 甘いモノでも軽くやろうと連れだってやってきた乳母の翠條と二人して、思わず顔を見合わせた清水である。
 と、首を傾げながら呟いた声に、小桃が反応して振り向いた。
「あっ、殿ちゃんっ!」
 狭い店内を全力で駆けてきて、ぽんっと清水めがけて飛び込んでくる。
「ぐぇっ」
 さすがに避けるような大人げないことは出来ず、受け止めた十歳児の体は、勢いも手伝って、なかなかどうして腹に来た。
 うめき声ひとつでこらえた根性を誉めて欲しいくらいだ。
「お前なぁ、小桃坊、いちいち俺に飛びかかってくるんじゃねぇよ」
 言いながら「えへへ」と笑う小桃を下ろすと、横から翠條が小桃を覗き込んで問いかけた。
「で、何事なのです小桃?」
「あのね、竜ちゃんにお天気きいてたの」
 清水を『殿ちゃん』、ちよを『ちよちゃん』と呼び、翠條を『ばばちゃん』と呼ぶ小桃にかかれば、登竜も『竜ちゃん』扱いである。
「天気?」
「うんっ」
 答えて小桃はパタパタと登竜のもとへと戻ろうとする。
 その首根っこを軽く掴んで
「おーいコラ待て小桃。だからそれは『何で』で、『いつ』の天気を訊いてるのか、ってのも、ついでに教えてから戻れ。」
 問うと小桃は振り返らずに、顔だけ上げて清水に答えた。
「えっとね、だからお天気きいてたの。雨とか曇りだったらイヤだから」
「いやそれは判るんだけどな。だからいつの」
「いつのって……殿ちゃん知ってるんじゃないの? もうすぐなんでしょ、なんだっけ、えーと……ちゅーちゅーのめーげつ?」
「ちゅーちゅーのってお前……そんなネズミとヤギが鳴いてるみてぇに」
 思わず笑ってしまったが、これで疑問は解消だ。
 そういえば俗に中秋の名月と呼ばれる長月の望月が、もう数日後に迫っていた。
「つまりは月見がしたいと、こういうわけでございますね」
 苦笑混じりの翠條も、納得した顔で頷いている。
「なるほどそれで登竜か」
 小桃を捉えた手を離し、自分達も歩み寄りながら呟くと、振り向いたちよが言った。
「そ。これでもこの子、曲がりなりにも辻占い師だろ? だから天気を占ってもらってたんだよ」
「曲がりなり、にも……」
 登竜がちょっと傷ついた顔をした。
「だってよなぁ?」
 苦笑混じりに呟いたのは梶源。
「だよねぇ?」
「うんうん」
 ちよと小桃に首肯され、挙げ句清水と翠條にまで苦笑で駄目押しされて、登竜はますますいじけたフリをする。
「…………みなさん、酷い…………」
 笑ってしまった清水である。
 何しろこの登竜、確かに実力もあれば腕も良く、一流の占い師の素質をしっかり持ってはいるのだが、如何せん本人がせっかくの実力を台無しにすること数知れずなのだ。
 右と左を間違える。日を間違えることもあれば場所を間違えたこともあった。
 微妙に詰めが甘いのである。
 それでも、人の命や身代がかかるほどの大事で間違ったことは一度もないから、誰もが力を認めているのだ。
「だって、お天気のことだもん」
 と小桃の言う、これが理由なのだった。
 だが。
「それにしても、何も三人がかりで問いつめずともよかろうに」
 翠條の言葉ももっともだ。
 賛同の意を示して清水が三人に目を向けると、答えて梶源が肩をすくめながら言った。
「いやね、ホラ今年は登竜もいるし、せっかくだからちよ間屋の二階座敷で月見しようって、みんなで」
「やっぱりちゃんと晴れて綺麗な月見ながらやりたいじゃないか。料理や酒の支度もあるんだから、前もって判るんなら知りたくなるのが人情ってもんだろ旦那?」
「そうそう! お初さまも呼ぼうって、言ってたところなんだもん!」
「と、言うわけなんです旦那方」
 登竜の言葉を聞いて、清水も翠條も「なるほど」と思う。
 そこまで画策していたとは思わなかった。
 ならば事前に判るものなら当日の天気を知りたいだろう。
 清水達にまで話が回ってこなかったのは、単に「その内来るからその時でいいよ」とでもちよが言った結果なのだと思われる。
 まして嘉灘家の初にまで声を……
(……ちょっと待て。初どのだと!?)
「おめぇらちょっと待て。お初どのにまで声をかけようとしてンのかっ? お武家のご息女だぞお初どのは。お家の方でも色々あるだろ普通っ!」
 己が素性を遙か彼方へ放り上げて、清水が慌てた声を出した。
 呼ばれたからと言って来るとはとても思えない。そもそも武家の息女を町人の月見に招こうということ自体、無礼と取られても仕方ないのだ。
 ところがだ。
「でも、やるなら来るって言ってくれたよ、お初さま」
 あっさり小桃が言ってのけた。
「そんな莫迦な……」
 嘉灘家と言えば旗本直参の立派な武家である。町人が声をかけて「はいそれなら」と、たとえ初が行きたがっても家人が出してくれるはずがない。
 呆気にとられる清水に向けて、今度は梶源が笑って言った。
「何でも、長刀の師範のおいでる月見だから、と言ったら、お家の方は了解してくださったそうですぜ」
 初の長刀の師範とは、誰あろう清水の隣に立つ翠條である。
「わたくしの名を出したのですか」
 苦笑混じりの翠條に、
「そっちから攻めたのかおめぇら……」
 頭を抱えた清水であった。
「入れ知恵したのは?」
「あ、私です」
「登竜、おめぇか……」
 頭を抱えついでに清水は、さすが口八丁の占い師、と、妙な感心をした。
 隣では登竜が、またぞろ梶源や小桃やちよに問いつめられている。
「で、どうなんでぇ登竜? 晴れるのか晴れねぇのか?」
「それによって酒も料理も考えなきゃいけないんだからさ。月が出てなきゃ騒いでもイマイチ面白くないし」
「小桃、お月見したいんだから。竜ちゃんどうなの? その『ちゅーちゅー』のお月様、見える?」
「だからさっきから言ってるじゃありませんか、晴れます、晴れますってば! 見えますよちゃんと、中秋の名月!」
「本っ当なんだろうね登竜?」
「……信用ないなぁ」
 自業自得で責め立てられる登竜の困り顔を横目に見ながら、翠條が清水にそっと囁いた。
「ところで殿。わたくし先ほどからずっと疑問なのですが。」
「あ? 何だ、おばば」
「月見……観月の宴でございますが。あれは御酒や料理を楽しんで飲んで食べて騒ぐ種類のもので、果たしてありましたでしょうか?」
 本来のそれは、夜通し楽を奏で歌を詠みなどしつつ月を愛でる、もう少し穏やかに風流なものであったはずだ。
 少なくとも翠條と清水の知る『観月の宴』とはそういうものである。
 町人暮らしが板に付いた清水と翠條ならいざ知らず、歴とした武家娘の初にとっては、それが普通なのではないのだろうか?
 その差を、初は、気付いているのか。
 ……が。
「あー……まぁ、いいんじゃねぇのか?」
 しきたりだの何だのはうっちゃって、楽しめるならそれでよいのだ。
 笑った清水に
「ま、左様でございますね」
 あっさり首肯するあたり、結局は酒宴の好きな元・城主とその乳母なのだった。

 

 

 そして、当日。
「晴れて良うございましたね」
 ちよ間屋の二階座敷で障子を開け放ち、月を眺める清水の隣で、そっと初が語りかけた。
 くっきりと晴れた夜空に、闇を圧して鮮やかに、丸い金色の月が浮かぶ。
 前日から降り続いた雨は夕刻に止み、月の出にせかされるように雲はその場所を透き通る闇へと明け渡した。
 光を遮る叢雲も、どこを探しても見あたらず、これ以上はないほどの月見日和だ。
 相変わらずの腕の良さだと、清水は登竜に思いを向けた。
 隣りに立つのは、文句なしの美女。
 これで清水と初が『ふたりきり』なら、さぞかし翠條はじめ元家臣たちが手を取り合って喜ぶ、のだろうが。
 どっこい初の手にはちよ自慢の煮物の鉢がある。清水にしたところでつい先ほどまで青菜のおひたしの鉢を持っていた。座敷の真ん中に置かれた卓には寿司の皿、香の物の盛り合わせに穴子の焼き物。
 小桃と登竜は既に団子の前に陣取っているし、そろそろ梶源が吸い物の椀を持って上がってくる。すぐに翠條とちよも燗酒を持って来るはずだった。
「確かに」
 答えて清水は笑う。そして言った。
「しかし初どの。よくお家の方が許して下さいましたね」
 ──こんな下町の、言っちゃあ悪いがどってことない小料理屋での月見の酒宴に。初とてこんなバカ騒ぎとは、予想しなかったのではあるまいか?
 言外に呆れを交えて見下ろせば、初からは笑顔が返った。
「家には、長刀の師範とご一緒だと告げております。別に知られても父母は笑って許してくれるでしょうし……それに、こんな楽しいお月見はわたくし初めてですから、とても楽しゅうございます」
 目くじら立てて怒るのはきっと乳母くらいでございます、と、いたずらっ子さながらの茶目っ気のある笑みだった。
「……さようで」
 乳母の目を盗んでやんちゃをするのはいずこも同じということらしい。
 納得するやらおかしいやらで苦笑するほか手のない清水に、ぺろりと小さく舌を出して、初は軽い足取りで卓へと戻る。
「さあ、始めようか!」
 ちよの声に目を向ければ、酒も肴も準備万端、全員が卓について、あとは清水を待つばかりとなっていた。
 清水は夜空を仰ぎ見る。
 昔は城の高楼から、父や兄、家臣達に囲まれて見ていたこの月を、今は町屋の二階座敷で仲間に囲まれ眺めている。
 父も、兄達も既に亡い。
 家臣の多くも世を去った。
 城は赤の他人の物となり、領主と呼ばれた一族の内、ただ自分だけが実もないのに『若殿』と呼ばれながら生きている。
 傍らに翠條がある、それだけが今も昔も変わらない。
(いや……月もか)
 ──それとも月も変わっただろうか。
 少なくとも高楼から眺めた月は、これほどには自分に近くなかった。
 空に近い場所から眺めていたのだから、あちらの方が実際には多少なりとも近かったのだろうが、眺める己の心が近くなかった。
 安穏と夜空を眺める、民がそれを出来るよう、護るのが自分達一族の勤めだと、思えば自然、月は遠い。
 それでも昔はそれがアタリマエで、それを己が幸せだと思ってもいた。
 その自分が、今はただの素浪人として町屋で月見の宴会をしている。
 今と昔を比べる気はない。
 今を不幸だとも思わない。
 ただ、それでも、今は他人の治める場所となってしまった故郷に暮らす人々が、やはり同じように安穏と月を眺めていればいいと、思う自分に、わずか清水は苦笑を漏らした。
 ふいに登竜の声が脳裏に響く。
 『月は天の鏡だと申しますよ』
 ならばそれは、人の心を映すのだろう。
 笑いたい時は明らかに、穏やかな時は穏やかに、泣きたい時は淋しげに、月はその人の上にその人のための光を落とすのだろう。
 薄く笑んで振り向けば、今度は翠條と目が合った。
 誰より清水の近くにいるこの乳母は、全て承知、とでも言うように、そっと目を伏せやはり微笑った。
 「殿ちゃん、ほら早く早く! 始めようよお月見!」
 小桃が呼ぶ。
 「そうですよ旦那。せっかくの料理が冷めちまわぁ!」
 梶源が笑う。
「お燗も丁度いい頃合いですし」
 初が微笑んで、ちよが言う。
「そうそう。せっかくの名月なんだから、楽しまなくちゃ損だよ旦那!」
「……ああ……そうだな」
 ちよも、梶源も小桃も、大事な肉親を亡くしている。翠條はいわずもがな、登竜にも初にも、言わぬだけで彼らなりに辛いこともあっただろう。
 それでも彼らは今、笑う。
 その、笑顔達に、応えながら。
 今この月を眺めるものの、生死を問わず場所も問わず、心がやすけくあればいいと、密やかに、清水は思った。

 

 

 

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あとがき

またしても久々登場『月の綺麗な夜だから』メンバーでお届けいたしました、十六夜茶寮版『2001年お月見小説』、お楽しみいただけましたでしょうか?
実はこれも、幻の『十六夜茶寮2万ヒット記念小説』脇キャラ出場権の代替リクエストです(本当を言うと、残暑見舞いの『彼らの休日』もそうだった)。
毎度のことですが、ご感想、お聞かせいただけると主は泣いて喜びます。掲示板かメールで是非。