── 旅をする木
──
「……たびびとのき?」
突然紅尾の口から飛び出した耳慣れない言葉に、降り続く梅雨の走りの雨を眺めていた桜里と、紅尾を手伝って湯飲みを並べていた清流は、ほぼ同時に振り向き口を揃えた。
「って、何です、紅尾さん?」
純白の尾をふさりと揺らし、清流が小首を傾げて問いかける。
「そういう名前の観葉植物がね、あるらしいんだ。結構大きなものらしいんだけどね」
煎茶を湯飲みに注ぎ分けながら紅尾が答えると、今度は浅葱の着物の裾を捌いて座り込んだ桜里が、
「で、その大きな観葉植物がどうしたと?」
と、湯飲みに手を伸ばしながら質問を投げた。
聞いた桜里はもちろん、清流も、ずっと紅尾を見つめたままである。
『旅人の木って、知ってる?』
仕事から帰って食事を済ませ、一息ついて食後のお茶を、となった途端、何の前置きもなくそんな風に切り出した紅尾を、桜の精霊と地気の化身が不審に思っているのは間違いない。
聞き慣れない名詞に、興味をそそられている部分もあるのだろう。
胡乱気な中に好奇心を混ぜた表情で紅尾の言葉を待つふたりに、紅尾が返したのはまるきり関係のなさそうなこんなものだった。
「倉橋って、会ったことあるでしょう桜里も清流も。麻衣と明弘の夫婦」
「知って、ますけど……」
上がった名は紅尾の友人のもの。そのどちらとも、桜里も清流も会ったことがある──それも、きちんと名乗りを上げて。
「……それが?」
突然知人の名を挙げられてなお訝し気な清流と桜里に、何でもない風を装って、紅尾がポン、と返した言葉が本題だった。
「その倉橋夫婦がね、拾ったらしいんですよ……旅人の木」
「拾った? …………って、観葉植物を?」
きょとん、と目を見開いたのは清流。
桜里はわずかに眉をひそめた。
「結構大きなものだ、と、言わなんだか、そなた?」
「ええ、言いました」
さらりと返した紅尾に、また桜里が。
「……拾った、ということは、その大きなものが、落ちておったと……?」
「落ちていた、というより、捨てられていた、の方が、どうやら正しいようですが」
紅尾の言葉に、清流も桜里も今度ははっきりと眉を寄せた。
しばしの、沈黙。
「……で、そんな話を我らにしたのは、一体何が目的じゃ?」
そうして桜里の朱唇から零れ落ちた言葉に、紅尾は薄い笑みを浮かべた。
「目的、というほどのことはないんです。ただ、その旅人の木が元気がないようだから、桜里と清流に来てもらえないかって、麻衣と明弘が、言うので」
「出張カウンセラーってわけですか?」
清流の口から飛び出した単語に、随分と人界の言葉を覚えたものだ、と、やはり紅尾はクスリと笑う。
「ま、そーゆーことに、なるのかなぁ?」
答えながら紅尾は、カウンセリングを受けるのは一体誰になるのだろうと、そんなことを、思っていた。
*********
紅尾と清流と桜里が“捨て観葉植物”を食後の話題に乗せてから、数日が経過した週末の午後だった。
バルコニーに面した倉橋家のリビングの窓際で、“それ”を見上げて清流がしみじみと言った。
「これが、旅人の木ですか……。大きい、ですね……」
「うーん、そうなんだけどねぇ」
清流の言葉を受けて、どこかのほほんとした空気を滲ませながら微妙な同意を示したのは、倉橋明弘。この家の主である。
拾われた旅人の木は、倉橋夫妻の暮らすマンションのリビングに新たな居場所を得ていた。
「どうぞ、紅尾ちゃん。桜里さまも」
「サンキュ」
「すまぬな」
麻衣が差し出すティーカップを受け取って、紅尾と桜里も、ソファに腰掛けたまま、隣りに座った麻衣共々、改めてそれを眺める。
──大きい、と、清流は言った。
確かに大きな植物ではある。
移動しやすいように、と明弘が鉢の下にキャスターを置いてはあるが、その高さを差し引いても、1mは軽く越える。芭蕉や里芋を連想させる──実際バショウ科なのだ──葉は、茎も伸び葉も大きく四方に広がって、やはり1平方メートルほどのスペースを占拠していた。
確かに大きな植物ではある。どうしても見上げることになってしまう清流が、「大きい」と言うのも、判ることではあるのだが。
──けれど、それでも。
「これでも小さい方らしいのよ」
麻衣の言葉が真実だった。
自分より遙かに背の高いものを“小さい”と言われて不思議そうな目をする清流と、やはりどこか訝し気な桜里に、薄い苦笑を浮かべた明弘が淡々と告げる。
「この木を拾ってから、近所の花屋でちょっと育て方や性質を聞いたんだ。実際にこの木も診せてね。そうしたら……。旅人の木って、成長すれば麻衣の身長は軽く超えるらしいね」
「1m80くらいになるらしいのよ。明ちゃんより大きいくらいよね、そうなると」
けれどこの木は、その半分ほどの高さしかない。
そして件の花屋によれば、この木はもう成木となるのに十分すぎるほどの時を重ねている、というのだ。
それなりの時を経た、けれど小さな、木。
瞬間全員の視線を集めた旅人の木は、ただ静かに初夏の陽射しを受けている。
開いた窓から入る風に濃い緑の葉をそよがせる木を見つめながら、決して小さくないのにそれでも静けさを乱さない不思議な声音で、桜里が言った。
「それで? 我々にどうしろと?」
問いかけに答えたのは麻衣だった。
「……訊いてみてほしいの。捨てられたこととか、また拾われたこととか……言いたいことはありませんか、って……。明ちゃんがその木を連れて来た時、その木、元気、なかったから……」
ずいぶん元気になったんだけどね、と、柔らかく微笑みながら俯いて囁く麻衣の方が、今は余程しおれて見える。
自分が育てるものはもちろん、買ってきた切り花まで、なるだけ長く綺麗に咲かせようとして手間を惜しまない麻衣である。
他の誰かの無知か故意の無作為のせいで育ちきれないまま捨てられた木に、人類代表で罪悪感と怒りを感じているのに違いなかった。
「麻ー衣」
苦笑混じりに紅尾が呼び、明弘が大きな手を伸ばして柔らかな薄茶の髪を撫でても、
「麻衣さんが落ち込むことないです」
「そなたのせいではあるまいに」
と清流と桜里が言っても。
「でもっ……!」
それでも麻衣の怒りは消えないらしい。
どうしようか、と、4人が顔を見合わせた時だった。
束の間訪れた静寂に、染み通るような柔らかなテノールが響いた。
「ありがとう」
その声に。
「えっ?」
音がしそうなほどの勢いで麻衣と明弘が顔を上げ、桜里と清流と紅尾がふわりと微笑った。
──彼らの視線の先に、ゆったりとしたオフホワイトの長衣に身を包んだ、褐色の膚に黒い髪黒い瞳の壮年の男がひとり、穏やかに笑いながら立っていた。
「あの……どちらさま?」
問いかける明弘の声が少しばかり硬かったのは、仕方のないことかもしれない。
種族は違っても同じ精霊である清流や桜里とも、また彼らと一緒にいるお陰ですっかり馴れてしまった紅尾とも違って、明弘も麻衣もこういう事態には馴染みがないのだ。“視える”わけではない2人にとっては、清流と桜里が別格だった。
微妙に警戒しながらひたと見つめる明弘と麻衣に、男は穏やかに、また、言った。
「言いたいことはないか、と奥方が仰いました。だから来ました。……ありがとう」
「……あの……?」
突然の男の出現に、麻衣と明弘はまだ呆然としている。
「判りませんか?」
クスリ、と男が笑った瞬間、サワ、と旅人の木がその葉を揺らした。
「あ、あの、あなた、ひょっとして」
「旅人の木の……?」
麻衣と明弘の言葉に、男は笑みを深くすることで答えを返す。
そうして、
「今まで出てきてくれなかったのに、どうして?」
問いかけた麻衣に、言った。
「そちらの方々が力を貸してくれました。私もあなたがたに言いたいことがありました」
男の視線の先には桜里と清流と紅尾がいる。
人外の存在ふたりと、“視え”て話せる紅尾が落ち着いているのを見て、少しだけ、倉橋夫妻は警戒を解いた。
「言いたいこと? って、何です?」
それでも訊ねる明弘は、右肩で麻衣を庇うようにわずかに身を乗り出している。
その様子に、男──旅人の木の精霊も、紅尾も桜里も清流もが、そっと微笑った。
男は囁く。
「先ほども言いました。──ありがとう」
皮肉でも何でもなく、ただ穏やかに、ありがとうと。
「怒っているんじゃ、ないんですか?」
捨てた人間を恨んではいないか。
不安げに瞳を揺らして麻衣が問うと、男はただ笑って
「いいえ」
と答えた。
男は続ける。
「哀しい、とは思います。あのままでは私は枯れるだけでした。けれど前の主が私を折らずに鉢のままあの場に置いたのは、誰かの手が私に伸べられるのを、祈ったからかも知れないと思うのです。そうして、あなたがたが、私をここに連れてきてくれました。
だから──ありがとう」
紡ぎ出された言葉たちに、恨みの欠片も怒りの欠片も、ほんの少しもなかったけれど。
「……ごめんなさい」
「ごめん」
「ごめんね……」
思わず口をついて飛び出した謝罪を、麻衣も明弘も紅尾も、間違いだとも恥ずかしいとも思わなかった。
自分を拾った人間たちにそんな言葉を贈られて、男は困ったように微笑う。
歩み寄って、桜里が言った。
「長い旅をしたのだな、そなた」
「ええ……そうですね」
男の瞳の焦点がぼやけて、どこか遠くを見るような眼差しになる。
旅人の木の原産地は、遠くマダガスカルだという。けれどおそらく、この旅人の木は、種の生まれた“故郷”を、一度も見たことはないはずだった。
熱帯に種として生まれ、日本で生い育ち、買われ、捨てられて、この木は今、麻衣と明弘のもとにある。
「旅を……したんですね」
見上げる清流に、
「ええ。旅人のための木が、本当の旅人になりました」
と、答えて男はクスリと笑った。
「旅人の木──東西南北に葉を伸ばし、またその茎を切って流れ出る水で旅人が喉を潤したことからこの名がある……か」
花屋から仕入れた知識を明弘がふと口にすると、
「ご存じでしたか」
と、男はわずかに目を見開く。
明弘と麻衣は、そっと首を傾げて、男に向かってこう、言った。
「やっぱり謝らせてください。旅人のための木のあなたを旅人にしてしまったのは、僕達の同類だから」
「あなたを捨てた私達の同類の代わりに、私達に謝らせてください」
穏やかに微笑んで男が答えた。
「でも、あなたがたが拾ってくれました」
「でも……」
「いいえ」
「だけど…………」
「いいんです」
「だって……」
「ストーーップ」
不毛な同道めぐりに終止符を打ったのは紅尾だった。
「やめよ、鬱陶しい。せっかく気持ちよく晴れておるのに空気が湿気ってくる気がするわ」
呆れる桜里の隣で、清流も苦笑を漏らしている。
「紅尾ちゃん……桜里さま」
頬を赤らめて麻衣が振り向き、照れたように明弘も笑った。
男は言う。
「そう。やめてください。恨んでいるわけではありません。哀しかっただけです。ましてそれをあなたがたに向けるつもりは、私には、ありません」
だから謝らないでくれ、と。
「……長い旅をさせました」
「自力では動けない私がこんな旅をすることが出来ました」
「僕達の同族があなたを買って、捨てました」
「けれどあなたがたに逢えました」
「恨まれても怒られても、仕方がないんじゃないでしょうか」
「そういう優しい想像を私に向けてくれるのも、あなたがたの特性でしょう」
次々紡ぎ出される麻衣と明弘の言葉を、男は柔らかに打ち消してゆく。
その様子を眺めながら、紅尾は数日前の会話を思い出していた。
清流は出張カウンセラーだと、言った。
今、紅尾はあらためて思う。
カウンセリングされているのは一体どちらなのだろうか、と。
同じくそれを見ていた桜里が、ふと思いついたように、こんなことを、言った。
「そういえば、以前紅尾の読んでおった本にこんな言葉があったのお……『人は誰も、人生という名の長い旅の途上』……であったか」
「ああ……ありますね。星野道夫さんだな。『長い旅の途上』って、本のタイトルに使われてますよ、それ」
「ああ、紅尾さんがアラスカ行きたいーって握り拳作ったあの本」
「そう。よく覚えてるな、清流」
「みんな、長い旅の途上、か……」
紅尾達の会話に耳を傾けながら、明弘が味わうように反芻した言葉に、旅人の木が揺れて、男が微笑う。
「人を生命と読み替えれば、生き物はみな旅をしている、とも言えるかもしれませんね」
「月日は百代の過客にして、ゆきかふ年もまた旅人なり、なんてのもあるわよ」
昔覚えた古典を歌うように麻衣が囁くと、引き取って明弘が、こんなことを。
「月日が旅人なら、星もそうかな」
「彗星なんて間違いなくそうだしなあ」
紅尾が同意して、
「ああ、そうよねぇ」
頷いた麻衣に、旅人の木の精霊が、穏やかな黒目がちの瞳を向けた。
「生命も、月日も年も星も、すべてが旅人だと言うのなら……最初から私も、旅人ではありませんか」
──だから、捨てられて拾われた自分の身を、麻衣が気にする必要はないのだと。
「そう、でしょうか」
「そう、ですよ。それに、物理的な意味での私の“旅”は、これで終わりに……あなたがたが、してくださるのでしょう?」
「ええ……はい。そのつもりです。ここに……いてくれますか?」
自力では動けない植物に向かって、それでも麻衣は“意志”を問うた。
「ええ、お願いします。いさせてください」
「いてください。ずっと、ここに」
答えて意志を告げた旅人の木に、同じく意志を返した明弘の顔は晴れやかだった。
「よかった、ほっとした。……にしても、なんだかカウンセリング受けたみたいね」
ふわりと笑って言った麻衣に、
「そうだね。なんだか癒されちゃったな」
と、やはり笑って明弘が頷く。
「カウンセリング、ですか」
ちょこん、と小首を傾げて清流が繰り返すと、桜里が笑みの形に細めた切れ長の目を、旅人の木に、向けた。
「今在るものがみな旅人で、そなたが麻衣と明弘の心を癒したのなら……」
「やっぱりあなたは、旅人の木、なんですよ」
同じく微笑いながらの紅尾の言葉に、男は
「そういうことに、なるのでしょうね」
と、ただ、笑った。
旅人に進むべき道を指し示し、体を休める日陰を供し、涸きを潤す水を与える旅人の木は、今、彼自身の場所を得て、柔らかな風に揺れている。
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