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金波宮ののどかな午後 ──
張楽俊は困っていた。
木々の梢で鳥達がさえずる。瀟洒な四阿を心地よい風が吹き抜ける。巡る水路からは涼やかなせせらぎ。青く晴れた空を雲が行く。
のどかなのどかな昼下がり。
子供達は駆け回り、大人達は戸外に卓を持ち出して茶など楽しみながら一休みしようか、と、思うであろうことはまず間違いないくらいに、それはそれは優しい時間。
実際、楽俊の目の前には、香り高い茶と、見た目も美しくまた食べても美味な茶菓が、置かれている。
午後のひとときの好ましい姿である。
けれど。
彼は、それでも確かに困っていたのだ。
そう、出来るものなら羽を生やして飛び去るか、自分で地面に穴を掘ってそこに埋まってしまいたいと、そんなことまで思ってしまうくらいに。
──楽俊は、困り果てていた。
(なんでこんなことになったんだろうなぁ)
と、先程までのことを思い返して、それでも表に出すことはなくただ心中で密かに、しみじみと溜息を、つきながら。
遠くで楽しそうな雁国主従の声が聞こえる。
つい先刻まではここに、楽俊のすぐそばに、座っていたはずの延王・延麒である。
そもそも、現在の身分は一介の──と言ってしまうには知人の知名度が異常に高いのだが──雁の学生である楽俊が、いまこの場所にいること自体、非公式に、景王の友人としてこの金波宮を訪れた、雁国主従に同行して、のことなのだ。
別に、そうでなければ楽俊に金波宮を訪れる機会がない、というわけではない。
陽子を人間不信の淵から、そして命の瀬戸際からも救い出し、結果として慶に新たな王を連れてきてくれたのは彼だから、少なくともそれを知っている金波宮の人間は、楽俊の訪れを喜びこそすれ厭いなどしないのだけれど……それどころか下にも置かないもてなしをするのだけれど、当の楽俊がその『もてなし』を苦手としているものだから、自然と訪問の頻度が落ちるのだ。
半獣の地位がいまだ低い慶で自分だけが敬われる、そのことを楽俊が「なんだかなぁ」と思ってもいるのを、陽子も景麒も周りの者も、皆が知っていたから、訪問を強要されることも、なかった。
だが楽俊とて友人に会いたいのは山々だったから、見かねた雁国主従が時折こうしてお忍びで連れ出してくれるのを、実は嬉しく思っている。
それでも、今のこの状況は歓迎しかねた。
(なんだかなぁ……)
──ふっ。
「……どうした、楽俊?」
お茶を冷ますふりをしてそっと溜息を身の外へと吐き出したことに、気付いたらしい陽子が、楽俊の右手から声をかける。
「別の菓子を、運ばせましょうか」
呼応するように、今度は左側から景麒が。
「えっ、いや何でもねぇよ、ちょっとお茶が熱かっただけだ。ありがとう。何でもねぇし、お菓子も十分足りてるよ」
慌てて手を振り言葉を返した楽俊に、次いでかけられた言葉は
「……そうか」
「……そうですか」
たったそれだけでまたぞろ口をつぐんでしまうのがこの慶国主従の悪い癖である。
(く、空気が、硬い……。延王、延台補〜、お願いですから戻ってくださいよぉお〜っ)
顔に笑みを浮かべて心で泣きながら、楽俊は必死に雁国主従を、心の声で、呼んでいた。
この年頃の娘は喋るのが好きだ、という世間一般の認識に反して、陽子は必要な時以外は口数が多くない。隣に控える景麒に至っては、言葉惜しみでもしているのではないかと思えてしまうくらいに、はっきり言って、喋らない。
他の人物が相手ならそれほどでもないのだが、この主従、二人の間の会話はないに等しく、必要事項以外のことはまずもって口にしない。
それで会話がはずむわけもなく、結果、空気が重くなるのだ。
実は二人とも不器用なだけだと知っている楽俊ですら、この二人の間にぽつねんとひとり取り残されるのは遠慮したい。
その、出来れば遠慮したい状況に、きっちり置かれているのが、今、だった。
ついさっきまで同じ卓についていた延王と延麒は、四阿の周囲の庭の方に興味を引かれてさっさと席を立ってしまった。同席していた鈴と祥瓊も、雁国主従に庭を案内すると称して同じく卓を離れて行った。
──逃げた、と言った方が正しいかもしれない。
荒れ果てていたこの小さな庭と四阿を、見つけて復活させたのは鈴だという。翠薇洞での生活が、彼女の審美眼と植物の栽培や造園に関する知識と技術を育てていたらしい。ひとりで、時には人の手も借りながらこつこつと仕事をして、完成したのがつい先日なのだと聞いた。
だから鈴が雁国主従に庭の解説をするのはある意味当然のことだったりするのだけれど。そしてどうしても萎縮しがちな友人に、祥瓊が付き合うのもまた当然の成り行きなのだと判っているけれど。それでも。
そうしたことを差し引いても、つい恨めしげに「逃げたな?」と言いたくなってしまう楽俊だった。
会話がなくてもそれが苦痛にならないことがあることも……そんな関係も、世の中には多いと、知っている。
が、この状況は痛かった。
(な、何か話のネタ、ねーかなぁ……)
ひそかに首をひねりながら楽俊が手の中の茶碗を口に運んでいると、再び慶国主従が声をかけてきた。
「楽俊。お茶のおかわりはいいか?」
「新しいお茶を持って来させましょうか」
そっと胃に手をやりながら答えて楽俊
「いや、まだあるからいいよ、ありがとう」
そしてそれに対する陽子と景麒の答えは、またも先程と同じ
「……そうか」
「……そうですか」
まだお茶が残っていてよかった、と、楽俊はしみじみ思った。
会話が途切れる度にお茶を勧められたり菓子を勧められたりするのだからたまらない。
(今歩いたら腹がちゃぷちゃぷ言いそうだなぁ。でもちょっと腹ごなしくらいしとかないと動けなくなるよなぁ……)
半ば真面目にそう考えて、楽俊は意を決して席を立とうとした。
「……あの、さ。おいらも庭、見てきていいかな」
言いながら既に半分腰は浮いている。
だが。
このままうまくすれば四人を連れ戻せる、と、ささやかな希望を持った楽俊を。
──陽子のすがるような目が見つめていた。
「……楽俊」
捨て犬もかくや。
「な、何だ、陽子?」
「庭は私が案内するから、もう少しいてくれないか」
大事な友人から、今にも「きゅぅうーん」と鳴き出しそうなこんな目で見つめられて、それでも席を立てるほど、楽俊は冷たい人格を持ち合わせていない。
心の中で涙を流しながら頷いた。
「……わかった」
「ありがとう」
楽俊の返事を聞いて、陽子はほっとした表情になる。
そうして言った。
口数の少ない自分を鼓舞するように。ひとことひとこと区りながら。もっと口数の少ない自分の麒麟に向かって。
「楽俊を案内するから、だから…………景麒も、鈴の造った庭を、見ないか」
(なんだ、そうか)
ふわりと笑った楽俊である。
口数の少ない自分達なりに、少しでも会話しようと……互いを知ろうと、その端緒を見つけようと、していたわけだ、陽子は。
景麒にしてみても十年と住んでいないだろうこの金波宮に、これから先どれだけ彼等がいることになるのか、誰も知らない。
けれど決して短くはないだろうその年月を、過ごして行く場所を、その来歴を、知って行くのは、きっと楽しい。
「……はい」
景麒の答えを聞いて、楽俊の笑みは一層深くなる。
「それじゃ、行ってみねぇか。鈴にしたっておんなじ話を二回に分けてするのって、きっとのども渇くし大変だろ」
笑いながら立ち上がった楽俊に、今度は陽子も景麒も続く。
「そうだな」
「そうですね」
それでもやっぱり言葉の少ない王と麒麟を見やりながら、楽俊はそっと思った。
会話の少ないこの主従の、その架け橋になれるなら、そのためだけにここに来てもいい。
(まあこの重たい空気は早くなんとかしてほしいけどなぁ)
金波宮で過ごす王と麒麟とその友人の午後が、誰の目から見てものどかに映るようになるには、多分もう少し時間がかかる。
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