かくも穏やかな一日

 

 

 …その喧しい生き物と出会ってからは

 すこぶる調子が悪い

 

 

 

 掃いて捨てるほどあるうざったいばかりの書類に判を押し、さっさと観世音菩薩に押しつけてやろうと立ち上がったところで、やけに静かなことに気が付いた。
 騒音の元凶となる子供には、仕事中はなるべく来るなと言い置いてはあるが、それでも近くにいれば喧噪が絶えることはないのに。
「ちっ……またどこへ行きやがったんだあのバカは……!」
 ──『あのバカ』。
 岩から生まれたという異端の子供。初対面でいきなり俺のことを『太陽』だとか抜かしやがったチビ。
 ちょっと目を離すと何をしでかすか判らないというのに、すばしこい上に好奇心がやたらと旺盛なものだから、すぐにどこかへ消え失せる。
 お陰で迂闊に目が離せない。
「……しょーがねーな、ったく」
 書類を投げつけついでに菩薩に文句のひとつも言ってやろうと思っていたが、やめた。
 待たせてあった菩薩の部下に「おい、コレあいつに渡しとけ」と言いつけて、自分はあの小猿を捕獲しようと執務室のドアを開ける。
 途端、こちらに入ってこようとしていた人影と危うくぶつかりそうになった。
「うわびっくりした。」
 まるで驚いていない口調で驚きの言葉を口にする。天蓬だった。
「何だお前か。何か用か」
 用がないなら帰れと。自分は忙しいのだと、言外にしっかり滲ませたつもりなのに、意に介さないのがこの男だ。
「用ってワケじゃないですけどね」
 返る答えに溜息が漏れそうになる。
 以前からふらりと立ち寄っては人をからかって帰って行く男ではあったけれど、あの子供が来てからその回数が格段に増えた。
「用がないなら……」
 帰れ、と、今度は声に出そうとしたのだが、天蓬はそれを遮って言った。
「いえ、用があるワケじゃないんですけど。ちょっと、悟空がどこにいるかくらいは教えておいてあげようかなあ、と思って。」
 ──やっぱり心配でしょ、飼い主さん?
 見上げる瞳があからさまにそう言っていた。
 不愉快なのは山々だが、悟空の居場所をこいつが知っているなら探す手間は省ける。
「……ふん。馬鹿馬鹿しい。けど、ま、聞いてやる。あんまりモノを壊されちゃ後々周りがうるさいからな。で、どこだ」
 あまり壊れやすいモノの多いところでなければいい、と、つい思ってしまうのが空しかった。観音あたりに、いやそれどころかコイツにも、バレたら大笑いされるに違いない。
 だから「うざったい」と、不機嫌を全面的に押し出して訊ねたのに。
 気付いているのかいないのか、
「捲簾と一緒です。ほら、この城のちょっと外にあるでしょ広い野原が。あそこ」
 ──時間もあったことですし。それにいい風も吹いてますし。たまには外もいいでしょ。
 と、天蓬はただ笑って答えを返す
 確かに、どれほど広いと言っても所詮建物の中は建物の中。あの走ることの好きな子供には狭苦しいに違いない。見上げた空はおぼろに霞んでいつもの通りその色も判然としないが、それでも空は空。戸外は戸外。吹きすぎる風はとても穏やかなものだった。
「……ああ、確かにいい風だな」
 呟くと天蓬が心底意外な顔をする。
「なんだ?」
「…………いえ、別に…………」
「『別に』と言いながらその表情は何なんだ」
 言い募ると天蓬は、さも根負けしたと言いたげな、けれどどこかに純粋な笑みも含ませた苦笑を浮かべて、こんなことを言った。
「……貴方、変わりましたね、金蝉」
「何がだ、ったく」
 どいつもこいつも、と言いかけて、気付く。
 そういえば同じ事をつい先日も観音に言われたのだ、と。
 その時は、自分の何が変わったというのか判らなかった──いや正直今も判らない。
 ただ、不変のモノなどつまらないと言い切った菩薩に、「まあな」とだけ答えた。それはずっと思っていたことだったから。
 退屈は人を殺せる。
 不変を望み永遠楽土を夢見る下界の『人間達』から見れば、天界のこの変化のなさは理想以外の何者でもないのかもしれないが、決してここが『楽園』などでないことを、誰でもない自分自身が知っていた。
 変化のないこの場所で、変化のなさに心底退屈していた自分の、一体どこが変わったというのだろう?
 眉をひそめる自分を見上げて、隣を歩く天蓬がクスクスと笑う。こんな『裏ありまくり男』の声だというのに、噂好きな天界人の癪に障る笑い声と違って、それは不思議と耳に馴染んで優しく響いた。
 からかわれているのは明白なのに。
 何故だろう、と不思議に思いながらも、それ以降は会話もないままただのんびりと歩いて、目的の野原が近づいたと思ったところで、彼方に見慣れた色が踊った。
 見慣れた色──見慣れて、しまった色。
 軍服の捲簾の隣ではしゃぐ、大地の色の長い髪。遠すぎて瞳までは見えないが、それが外を走り回る楽しさで金色に輝いているのが確信できる。
「ほら、いた」
 天蓬が笑みを深くした途端、自分達に気付いたらしい捲簾と小猿が手を振った。
「こーんぜーんっ! 天ちゃーんっ!」
 こちらが歩いて行くまで待つのももどかしいのか、悟空がぱたぱたと駆けてくる。
 そんなに走って転びでもしなければいい、手当するのは自分なのだから。そう思う傍らに、あの小猿ならそんなへまはしない、という妙な確信が、確かに在る。
 「走るなバカ猿。転んで怪我しても知らねぇぞ!」叫ぶのは簡単だけれど、せっかくだれ憚ることもなく思う存分走り回っているものを、禁じてしまうのも可哀想だ、と、そんなことまで思う自分がいて。
 結局何も言わずに立ち止まっていると、横から天蓬が。
「金蝉、気付いてます? 貴方さっきから結構な百面相してますよ」
 ──面白いですねぇ。
 しみじみと言われて眩暈がした。
 この男の前で百面相。しかもその元凶は間違いなく悟空だと、この男のこの様子だと、明らかにバレている。
「天蓬……」
 声を低めて囁いた途端、なにかがぶつかる軽い衝撃が体を襲った。
 なにかが──悟空が。
 目線を下げると相も変わらず物怖じもせずに自分を……この金蝉童子を、見上げる金の瞳に出会う。
 こいつのこの仕草のお陰で、こっちはずっと肩こりだというのに。それでも。
「ほらっ! きれーだろっ」
 嬉しそうに悟空が差し出すそれは、鮮やかな黄色の小さな花で作った首飾り。
「あ。ホントだ。綺麗に出来ましたね。悟空、上手になりましたねぇ」
 天蓬が……どうでもいい相手には本当に手厳しいこの元帥が、優しい笑顔を悟空に向ける。穏やかな誉め言葉を、彼の口が紡ぐ。
 同じことを、自分も思うようになった。
 綺麗だと。
 ──悟空が、来てからだ。
 どこにでも咲くその花が、こうして編まれたことでささやかな装飾品に姿を変える。
 同じように、自分にとっては何の変哲もなかったモノが、悟空の目を通すことでその存在の色を変えた。
 自分にとっては変化もなく、退屈なだけでしかなかった天界のおぼろな空を、悟空は蒼に混じる色んな色がゆっくり流れて綺麗だと言う。
 年がら年中咲いて散る花が綺麗だと、花びらが舞うのが綺麗だと言う。鳥の名前、木々の名前、吹く風の香り。自分は気にもしてこなかったものを悟空はとても珍しがる。
 走ること、高らかに笑うこと、怒ること泣くこと。天界人の──少なくとも『上級』の──間では下品とされているそんな感情のままの行動も、悟空にとってはごく当たり前で、そうしてそんな時の彼の表情には『下品さ』のかけらもなくて。
 いつしか自分は、この子供の行動を、実害のない限りにおいては、呆れながらも否定しようとは思わなくなった。
 ……いや、そんな気は、最初からなかった、のかもしれない。
 差し出される花飾りを、見つめながらそっと応えてやる。
「……ああ、綺麗だな」
 この子供が自分の世界に色を付けた。
 この子供が自分に動く理由をもたらした。
 お陰で増した苦労は多い。
 悟空が来てから調子が悪い。目と首が痛むし喉も腹筋も痛む。ふくらはぎの筋肉痛も絶えることがない。それから、それからとあげつらえば出てくる不調にはキリがない。
 いつの間にかこれが『日常』になってしまった。
 ──それでも。
「楽しそうですね、金蝉」
 天蓬が言うからには、きっと自分の顔は、心では文句を吐き出しながらもどこかで微笑っているのだろう。
「……やっぱり変わりましたよ貴方」
 しみじみと天蓬が呟く。
 だから自分も短く返した。
「そうだな」

 

 やはり自分は変わったのだろう。

 ──この、子供に、逢ってから。

 

 

 

 

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あとがき(もしくは言い訳・^^;)

外伝1巻中表紙裏の金蝉独白を読んで、どうしても書きたくなったのが、これです。
あの、最後の「──それから。」にやられました。
金蝉。あの人、あの言葉を呟きながら、絶対に微笑んでいると、そう思えて。
例によって例の如く、感想、いただけるとありがたいです。