『…………──。』 悟空はひとり空を見ていた。 やっと自分の役割が終わったことに心底ほっとして、三蔵は自分と悟空の住まう離れへと足を向けた。 翌日。
今夜何度目かに意識の端を掠めた音にもならない音に、三蔵はちいさく舌打ちを漏らした。
──チッ。
中で火を焚けるほど天井の高いこの本堂、冗談のように広い空間をただ柱だけで支えた間仕切りもないこの場所に、満ちて三蔵を取り囲むのは居並ぶ僧たちの声明。護摩壇の香木がはぜる音、僧たちの衣擦れ、息遣い、経文をめくる乾いた音。
それらに満たされ、埋め尽くされて、他の関係のない音など入り込む余地はないはずなのに、それでもその『音』は確かに三蔵の耳に、心に届く。
『声』ではない。『言葉』でもない。
今三蔵が置かれた状況を知っているからこそ言葉にされない、それはあの金晴眼の持ち主の『想い』だった。
『………………──』
再び届いたそれに、
「……うるせぇよ」
呟いたのは無意識だ。
「どうかなさいましたか三蔵様?」
隣に座すこの寺院の僧正が、気づいて三蔵に穏やかな目を向けた。
すぐ隣りにいるとはいえ、他人にそれを聴かれてしまったことにいささかうんざりしながら、
「いや、なんでもない」
と三蔵は不機嫌に言葉を、ただ僧正ひとりにだけ届くほどの音量で、返す。
会話不要、と態度で表す三蔵に、僧正は目元をほころばせて、言った。
「あの子、ですか」
質問ではない、それは確認。
三蔵が無視を決め込んでいると、僧正は構わずそっと囁いた。
「本当に申し訳ありません。わたくしどもの不手際で、この法要の準備に手間取って、あなたのお手まで煩わせて、あなたの休暇を奪ってしまった……」
ただでさえ忙しい身の三蔵は、この法会のために更に時間を奪われて、自室に戻るのは激減した睡眠時間を消費するためだけ、という日々がもうひと月あまりも続いていた。
だからこその僧正の言葉だったのだけれど、返す三蔵の言葉はこうだ。
「僧正が謝ることじゃないだろう」
──本心だった。
確かにこの大きな法会の準備は最初から躓いた。躓いて蹴飛ばされた小石は転がるうちに他の石を道連れに、土を巻き込み幅を広げ、いつの間にか大きな地滑りになっていた。
結果、本当ならば雑事は他の僧侶に任せ、法要に備えて心身共に休んでいられるはずの最高僧『玄奘三蔵』までが、諸々の折衝のために借り出されることになってしまった。
しかもその原因が、僧侶同士の対立だというのだから聞いて呆れる。
『監督不行届』というなら確かに僧正が謝るのもスジではあるが。
……三蔵は、そんなことはカケラも思っていないのだった。
別に僧正に気を遣っているワケではない。
ただ、その責を負うべきはこの狭苦しい寺院内部で対立なんぞとしょーもないことを本気でやれるバカな僧侶どもだ、と思っている、それだけのことだ。
「もし今回のこれで連中が懲りなくて、また似たようなことをしでかしたら……その時こそ僧正の責任を問わせてもらう」
寺院の主に向かって三蔵はそう言い放つ。
受けた僧正は
「お好きに」
と頷いて、そうして一層声を潜めた。
「謝っておいてください、あの子にも」
あの子、と僧正が指すのはただひとりだ。
──悟空。
三蔵が連れ帰った金目の小猿。大地のオーラが生み出した、寺院における異端中の異端。
その異端なる子供に仮にも『僧正』が、謝っていると知れただけで、『異端』を忌み嫌う連中が何を言い出すか判らない。
三蔵も悟空も僧正も、バカに何を言われても気にもとめないが、それでもうざったいことは確かだから。だから、それだけを気遣って、僧正は声を落とす。別に気を遣ったワケではないが、大声で話す理由もないから、三蔵もそれにあわせて声を潜めた。
「自分で言えばいいだろう」
「言いましたよ、昨日あなたが出かけておられた時に会いましたから。ですが、言われてしまいました。私が謝ることじゃないと」
誰かさんと同じですね、と、口元に笑みを刻む僧正に
「…………ふん。」
短くそれだけを返した三蔵が、自分の仕事を終えて本堂を去るまで、必要な声明以外にその口を開くことは、二度となかった。
墨を流したような夜の空に星が浮かぶ。開け放たれた窓からは、綺麗な円を描く月が見えた。
今夜一晩、いつにも増して明るく灯され絶やされることのない本堂の燈火も、三蔵と悟空の住まうこの離れまでは照らさない。
なのに明かりもつけないで、ただ淡い月光を部屋に満たし、身体を浸して、悟空はひとりで空を見ていた。
本堂からかすかに声明が響いてくる。
その中には間違いなく三蔵の声もあるのだと、それを聞き分けようと耳を澄ましかけて、
……やめた。
耳を澄ませば意識を集中してしまう。意識を集中すれば間違いなく自分は『呼んで』しまう。
呼んでしまう。
三蔵を。
そのつもりがなくても……声に、出さなくても。
言葉にしないその呼びかけが、言葉にはならなくても三蔵には届いたのだと──届くのだと、出会ったその時に知った。
だからこそ今は『呼べない』。
連日連夜の激務に追われまともに眠ってもいないはずの三蔵が、それでも『三蔵』の名を出さなければどうにもならないほどの事態を収めるために借り出されるのを悟空は見てきた。
本来ならば今日までに数日あったはずの休みは、その事態を前にして泡と消えた。
楽しみにしていた『三蔵の休日』を奪われて、はじめは悟空も不満を漏らしたけれど、日に日に不機嫌の度合いを増してゆく三蔵を見ていたらそのうちそれも言えなくなった。
『すみません、悟空』
客分である三蔵を除けばここで一番偉いというじーさんが昨日謝ってくれたけれど、小柄な自分の目線にまで降りてきてそう言ってくれるその人に、責任があるとは思えなくて。
(だってホントに自分が悪かったらもっとすっげーいっしょけんめー謝るか、それか、逆に自分が悪いこと隠そーってするじゃん)
だから悟空は待つしかなかった。
三蔵の仕事が終わって戻ってくるまで。
法会自体は朝まで続くが、三蔵が関わらなくてはならないのは日付が変わる頃までだという。
だから、それまで、待つのだと。
決めて、悟空は膝を抱えた。
窓際のこの椅子は三蔵の椅子。
三蔵が、煙草やコーヒーを片手に眼鏡をかけて新聞を読むのは、大体決まってここだった。
自然染みついたマルボロの香りが、そっと悟空の身体を包み込む。
…………ほっとした。
五行山の岩牢から連れ出してもらってもう何年にもなるけれど、ひとりになるのは今でも苦手だ。
あの暗い場所を思い出す。
三蔵に出会って、八戒や悟浄とも知り合って、離れていてもひとりじゃないと感じる相手がいることを知ったけれど、それでもこれだけ長い間彼らの誰ともまともに顔を合わせないのは、出会って以来初めてだった。
「……寒ぃ……」
呟いて悟空は膝を抱える。
気温はそれほど低くはないのに、何故だかどうしようもなく寒かった。
それでも悟空は彼を呼べない。
煩わしいだけの儀式を、疲れた身体とささくれ立った心を無理矢理押さえ込んで黙らせて、我慢しているに違いないその人だから。
せめて自分の『声』で彼の煩わしさを募らせることがないように、願っているから悟空は彼の名前を呼べない。
見上げる空には、大好きな色を光で薄めたような白金に輝く月が、浮かんでいる。
もう法会は終わっただろうか。
それともまだ続いているのだろうか。
「早く終わんねぇかなあ……」
囁く自分の声すら遠く聞こえる。
(……寒い……。)
部屋が。身体が。心が。
(寒い、よ……)
もうどうしようもなく寒くて。
「……さんぞお……」
祈りのように言葉が漏れた、その、時に。
「何だ」
決して大きくはないのに静寂を圧して響いたその音に、悟空は目を見開いて振り向いた。
『……──。』
時折思い出したように届くそれに、
「ったく。うるせぇ。」
吐き捨てるように呟く三蔵の顔に、それでも嫌悪の色はない。
いつも、そうだ。
うるさいとは思っても、うざったい、煩わしいと感じたことは一度もなかった。だから嫌悪も沸き上がらない。
名を呼んでくる時もある。今のようにただ『想い』だけが届くこともあったが、それでも自分が嫌悪を感じることがないのだけは変わらなかった。
今などは、特にそうだ。
悟空が自分を呼びかけて、けれど呼ばないその理由まで、全て三蔵には判るから。
表情が不機嫌なのは、三蔵が、届く悟空の『声』についつい足を速めてしまう自分を、あまり認めたくないから、だったりした。
『──。』
また、想いが届く。
もう離れは目と鼻の先。
明かりがついていないのは、悟空が眠っているからだろうか。
(……眠っていても、呼ぶのか……)
いささか呆れながら三蔵が居間の戸に手をかけると、中から悟空の声が響いた。
「……さんぞお……」
「何だ」
普段の悟空からは想像もつかないほど頼りないその声に、叩きつけるように応えてみせると、悟空は振り向いて、弾かれたように金色の目を見開いた。
「ナニやってんだお前明かりもつけないで」
言いながら明かりを灯すと、悟空が眩しそうに目を眇め、口元に笑みを刻む。
「……おかえり、さんぞー」
三蔵がいる。明かりが灯る。
それだけで寒々しかったこの部屋が暖かくなる気が、悟空には、した。
「ああ。」
椅子から立ち上がった悟空が窓を閉めると、三蔵はさっさと自分の場所に腰を下ろして煙草をふかし始める。
その足下に座り込んで、悟空は肘掛けにそっと頭をもたせかけ、目を閉じた。
会話のない空間に、三蔵が新聞をめくる音だけが響く。
そうして煙草を1本吸い終えてから、ことん、と三蔵が言葉を落とした。
「一週間。」
「……え?」
慌てて目を開けた悟空が振り仰ぐと、三蔵は目線は新聞に落としたままでまた言った。
「潰された分と併せて一週間、僧正から休みをもぎ取った」
「……ホント?」
「ウソ言ってどうするんだ」
ここまで言って、三蔵は、肘掛けに手を置いて自分を見上げる金色の目を見返した。
「で、ナニがしたいんだ?」
休みを潰された時にあれだけうるさく騒いだのだから、何かやりたいことでもあったのだろう、と、思って。
一人が苦手な小猿をずっと『独り』にしていたのだから、一つくらいは願いを聞いてやってもいいと、そうも思って。
問いかけた三蔵に、悟空が返した言葉はけれど、三蔵の予想とは違っていた。
「え……やりたいことなんて、俺、ないよ?」
それはもう、本当に「きょとん」という表現がぴったりな表情で。
「なら休みが潰れた時、何でお前あんなにうるさく騒いだんだよ?」
心底不思議に思って三蔵が訊ねると、
「そりゃ最初はさ、休みになったら外へ連れ出してもらおーとか考えてたけど」
でも、と、悟空は一度言葉を切って、そうしてその金色の目をまっすぐに三蔵に向けて、きっぱりと、言った。
「でも俺が今したいのは……ってゆーか、してほしいのはっ。三蔵にちゃんと眠ってもらうこと!」
この人が倒れる姿なんて見たくない。
蒼ざめた顔のままでいてほしくない。
この人を喪うことに、耐えるコトなんてできないから、だから。
「だからさ……三蔵、何もしてくれなくていいから……その代わり、俺も一緒にいさせてよ」
声に出さない悟空の想いは、その瞳が全て語っていた。
虚をつかれるとはこのことだ。
三蔵は、今ではすっかり見慣れてしまった『自分以外の生きた金色』をしばらくの間見返して……。
そうして苦笑に混ぜて呟いた。
「…………馬鹿猿」
たった一言の、他人が聞けば決して『そう』とは受け取れない、けれどそれは悟空の言葉への了承で。
だからこそ悟空はふわりと微笑んだのだ。
こんなコトを言いながら。
「なあ三蔵、寝倒して体力戻ったらさ、久々に悟浄と八戒のとこ行こーよ」
悟浄の持ち物であるその小さな家に、この四人が揃えば、声明すら飲み込んで消し去る寺院の静寂とはかけ離れた喧噪が、その場所を満たすのに違いないのだけれど。
それでもその喧噪は、三蔵にとっても居心地の良いものだから──その、はず、だから。
口よりも数段雄弁な悟空の瞳を見返して、三蔵はやはりいかにも「しかたなく」と言った風情で言葉を返した。
「そうだな。」
「やった! 土産、何か買ってこーな街で。酒がいいかな食い物がいいかな」
はしゃぐ悟空に釘を刺す。
「ただし、明日はナシだぞソレは。俺は今から寝る。起こしたら殺すぞ判ったな猿」
そう言って本当に寝室に向かった三蔵に、
「うんっ!」
金目の小猿は、太陽のように、笑った。
それまでの睡眠不足を奪い返すように昼過ぎまで寝倒し、起き出して身支度を整えた三蔵の元に、まるで計ったようなタイミングで、僧正から、極上の酒が数本、届いた。
それらがどこへ消えたのかは、いわずもがなというヤツである。