── Calling ──

 

 

 それは、悟空と三蔵が出会って初めて“ふたりで迎える春”だった。

 

 

 退屈だから散歩に行こう、と、無理矢理三蔵を誘いだして寺院の中庭を歩いていた悟空が、ふと足を止めて問いかけた。
「なー、三蔵。ナンかいい匂いするんだけど、アレ、なに?」
「いい匂い?」
 問われて三蔵も足を止め、意識を少しだけ嗅覚に集中させたが、別段“いい匂い”などしはしない。
 悟空の嗅覚は、食欲と直結する方面において特に発達しているから、三蔵はそれを念頭に置いていたのだが──というか、その方面しか考えていなかった、のだが。
「別に食いモンの匂いなんかしねーぞ」
 言うと、悟空は意外にもこう反論してきた。
「違ぇよっ、食いモンじゃねー! いい匂いするじゃんか、なんかわかんねーけどっ!」
 食べ物ではない、“良い匂い”。
(何か変わった匂いなんてしてるか?)
 悟空にちらと目を向けた後、その匂いの元とやらを捜して顔を巡らせた三蔵は、そこでやっと風に乗ってくる淡い香りに気付いた。
 ──ひょっとして。
 三里香る、とも言われるその花は、今ふたりがいる場所よりももう1区画先の、角を曲がったところに植わっている。
 何も言わずに歩き出した三蔵を、
「ちょっ、ちょっと待てよ三蔵っ!」
 追いかけて悟空が小走りになった。
 どうせ長い距離ではない、と、気にも留めずに三蔵は歩く。
 歩を進めるにつれ、漂う香りも強くなった。
 目的のものの前まで来て、立ち止まる。
 追いついてきた悟空の気配に、振り向きもせず問いかけた。
「これか?」
 予想通り、悟空が嬉しそうな声を出す。
「そうそう、これっ! 花だったんだー。なあ……何て花?」
 顔を近づけて花を見つめ、その放つ香りを深く吸い込む悟空に、
「沈丁花。」
 短く答えながら三蔵は、ふとこの1年を思い返していた。
 今は馴れてしまったせいか、主に食べ物の匂いにしか反応しないこの子供だが、最初の頃はそういえば色々煩かったのだ。
 食べ物の匂いはもちろんのこと、仏に供える花の香り、法衣に薫きしめられた香、法会にあわせて種類を変えることも多い護摩壇の香木の放つそれまで、悟空はしっかり聞き分けて、その度三蔵を質問責めにしていた。
 初夏の梔子、秋の金木犀、銀木犀、冬の水仙にも、興味を示した悟空である。
 お陰で寺院内の庭木にも妙に詳しくなってしまったのだ、とは、絶対に言うつもりのない三蔵だった。
「じんちょうげ、かー。いい匂いだな」
 何故か嬉しそうに悟空が言う。
 そうして、鼻を近づけて沈丁花の放つ芳香を楽しんでいた金眼の小猿は、突然思いついたようにこう訊いた。
「なあ、三蔵? なんでこの花、こんなにいい匂いさせるんだろー? あんな遠くからわかるくらい、こんなに強く?」
「さあな。俺が知るか。虫とか鳥とかに見つけて欲しいからじゃねーのか」
 答えた言葉は適当だった。
 だが、その三蔵の言葉に、思いがけなく悟空は反応し、黙り込み、考え込んだ。
「誰かに、見つけて……ほしいから……?」
 じっと花を見つめて悟空は呟く。
 じっと花を見つめて悟空は何かを考える。
 そうして顔を上げた悟空は、まっすぐに三蔵を見て、こんな言葉を、囁いた。
「……じゃあ、俺と……おんなじだ」
 何故だか突然、ムッとした。
「ざけんな。どこがおんなじだ? 沈丁花や梔子と一緒で“誰か”に見つけて欲しかったってんなら、お前とっくの昔に誰かに見つけてもらってるはずだろうが」
 もし本当に悟空が沈丁花と同じなら……“誰でもいい誰か”を呼びたかったのなら、とうに悟空はその“誰か”によって見つけ出されていたはずなのだ。
 ──500年もの長きに渡って、あんな岩牢に閉じこめられることもなく。
 呼び声に引き寄せられて──たとえその理由が“ウルサイから1発殴ってやろうと思った”などという最高僧にあるまじきものであったとしても──五行山のあの岩牢に辿り着いた三蔵に向かって、悟空は間の抜けた顔で『呼んでない』などと言い放った。
 本人に自覚もない、三蔵ひとりにしか届かないそんな“呼び声”が、花の香りと同じなどであるはずがない。
「そんな要領の悪いことしてたら、花なんぞ速攻種の存続の危機だ」
 言うと、悟空は、何故か、微笑った。
「……そっか。そうだよな」
 えへへ、と照れ笑いを零しながら、悟空はそっと三蔵の法衣の袖を掴む。
 自分は違う、と。
 “誰か”を呼ぶ花と自分は違うと、笑って悟空は三蔵の法衣の袖を掴む。

 

 

 500年、ただひとりを自覚もなく呼び続けた金眼の子供は、今、三蔵のそばにいる。

 

 

 

 

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あとがき

翠條さんへの誕生日プレゼントとして突発的に書き上げた短編。悟空と三蔵が出会って、まだやっと1年にしかならない、そんな春のなんてことのない1シーンです。
翠條さんの許可が下りたので、ここにアップすることにしました。