── そして、花をあなたに ──

 

 

 

 3月に入ったというのに真冬に逆戻りしたように寒さのぶり返した日のことだった。
 窓の外をぽけらっと眺めながら、悟空がこんなことを呟いた。
「今年は遅いのかなあ……」
 ──何がだ。
 一瞬思ったが、声には出さない三蔵である。
 仕事中なのだ。
 今いる場所は三蔵の執務室なのである。
 いくら「一息お入れなさいませ」と庫裏方から坊主が茶と茶菓子を運んで来ても、それらが既に三蔵の手元にあっても、ここは三蔵法師の執務室であって、悟空の憩いの場ではない。
 ……ない、はずだ。
 だから、勝手に執務室にやってきた悟空がおやつに和み窓の外を見て独り言を言おうと、三蔵に返事をしてやる義理などないのだ。
 事実三蔵の手元には急ぎの書類がいくつもあって、茶菓子をつまむ間にもそれらに目を通しているのである。
 だから。
(どうせ独り言なんだろ)
 考えて、さらに、独り言でなかった場合でも茶菓子を運んで来た坊主に相手をさせれば良いだけだ、と決めつけ、三蔵は無視を決め込むことにした。
 が。
 悟空の『いちばん話したい相手』が三蔵自身であることを、三蔵は失念していたのである。
 つまりあれは独り言ではなかったのだ。
 だから悟空は当然のように振り向き、訊いた。
「な、三蔵、どう思う?」
「ああ?」
 たった2音に『何がどう思うだこの猿人語を話せ』の意味まで持たせるのが三蔵である。
 初対面の人間なら間違いなく引くだろうし、同じ慶雲院の僧侶の中にもこれだけで畏縮する者がいるはずだ。
 だが、悟空にはそんなバリアは効かない。
 あたりまえのように続けて言った。
「だからさ、桜」
「桜がなんだ」
「だから、今年は咲くの遅いのかなあ、どうかなあ、って。どう思う三蔵?」
 ──そんなことを聞かれても。
「知るか」
 三蔵の返事はにべもない。
 悟空がことのほか桜の花が好きだというのは知っている。
 同時にそれだけではない微妙な感情も、理由は本人にも判らないようだが抱いているのも、知っている。
 だが、だいたい桜の開花など自然現象のひとつなのであって、気にする人間にはある程度の予想はつくのだろうが、そこまでの興味のない三蔵にとっては
 ──咲く時に咲く。
 レベルでしかない。
 それでも。
「そっか……そうだよな」
 呟いて、「へへ」と笑う悟空の様子に、ほとんど表には出ない程度に眉をひそめてしまった自分がいるのを、三蔵はしっかり自覚していた。

 

 

 それからしばらく後のことだ。
 依頼してあった仕事の結果報告に来た悟浄と八戒が、帰り際のついでのように、ふと三蔵に問いかけた。
「そーいや小猿は?」
「部屋だ」
「ちょうど良かった。三蔵、今年はどうするんですか?」
「あ?」
 相変わらず1音にさまざまな意味合いを込める最高僧だ。
 苦笑混じりに悟浄が返した。
「あ? じゃなくてよ」
「じゃあ何だ」
 いきなり『今年はどうする』と訊かれたところで返事のしようがないではないか。
 言うと、今度は八戒がちいさく溜め息をつきながらやはり苦笑を口元に刻み
「悟空の誕生日ですよ」
 と、言った。
「……ああ」
 やっと得心のいった三蔵である。
 けれど疑問も沸き上がった。
「どうするもなにも……またハミングバードでパーティーするんだろうが?」
 八戒監修のもとに悟空の胃袋にあわせた大量の料理が用意され、酒やソフトドリンクも同じく大量に用意して、騒ぐ、と、これは既に決定事項だ。
 三蔵はもちろんのこと、悟空本人にすら拒否権がない。
 なのに、どうするもこうするもあるものか。
 言うと、八戒がまたしても苦笑を浮かべた。
「それは夕方からでしょう。僕らが言っているのは、それまでの時間のことですよ。悟空から希望が出ていたりはしないんですか?」
「…………ああ」
 そういうことか、と。
 妙に納得した三蔵だったが、取り立てて悟空からどうしたいと言われているわけではない。
 もとより、そういう『希望』をあまり口にしない悟空なのだ。
 自分自身に対する欲は、もしかしたら4人の中で最も少ないかもしれない。
「何も言われてないですか」
「ああ…………」
 そのはずだ。
 その、はずだった。
 が。
 ふと、三蔵の脳裏に、数日前の悟空の言葉が蘇った。
 ──今年は遅いのかなあ
 悟空が問うた、あれは桜の開花だった。
「桜……」
「え?」
「桜。今年の開花を気にしてたな」
 別段、花見に行きたいと言ったわけではないが、ただ開花の時期だけをそっと話題にした悟空が最後に見せた淡い笑みが、三蔵の心に妙に引っ掛かっていた。
 その笑みを思い出しながら告げた三蔵に、悟浄と八戒が頷いた。
「なるほど桜ですか。判りました。悟浄?」
「まかせろ」
「お願いします。いいですね三蔵?」
「…………何がだ」
 一体何が『いい』のだ?
 思いきり胡乱気に三蔵が言うのを、
「花見に決まってるでしょう」
 八戒がすっぱり斬って捨てる。
「種類によって開花の時期がずれますから、どれかはきっと満開でしょう。そのへんは悟浄に任せて、と。なるべく近場でお願いしますね?」
「へーへーりょーかい」
「おい……」
「パーティーがありますからお弁当は少なめで……料理がかぶらないように気を付けないと」
「おい」
「晴れてくれるといいですけど」
「それは大丈夫じゃねーのか」
「おい!」
 三蔵そっちのけで──いや、悟空すらそっちのけで──話を進める八戒と悟浄を、たまらず三蔵が遮ると、
「なんですか」
 『なにか不満が?』とでも言いたげな顔で、また八戒がさくりと返した。
「お前ら、勝手に……」
「だって悟空の希望でしょう? 桜が見たいというなら見せてあげたいじゃないですか。そこらにないような凄いのを」
 ──過保護だ。
 一瞬泳いだ三蔵の視線が、微苦笑を浮かべる悟浄の面で止まる。
『いいじゃねーか。甘やかしてーんだから』
 どうせ同じ穴の狢だろう、まで言いたげな表情に、三蔵も諦めて白旗を掲げた。
「……判ったよ」
 どうせ、同じ穴の狢なのだ。
 むしろ頭いくつか抜け出した自覚がある。
 頷くと、八戒が
「じゃあ、直前になったら出発時間連絡しますから、その日は朝から空けといてくださいね」
「……判った。」
 答えたその瞬間に、悟空の笑顔が見えた気がした。

 

 

 4月5日。
 悟空が自ら誕生日と決めたその日は、まるでそれを祝うかのように、朝から穏やかに綺麗に晴れた。
 例年よりも早めに開花した桜は、間に花冷えを数日挟んで、狙ったように満開になった。
 悟浄が悟空のために選んだのは、街から少し離れた私有地にある、大きな枝垂れ桜だった。
 賭事仲間の別宅らしい。
 樹齢百年を数えるという、枝振りも花も見事な枝垂れ桜を、たった4人で独占である。
 一般の花見客のいない、それは贅沢な花見だ。
 案の定、悟空は、それを目にした瞬間、息を飲んで言葉を失った。
 青空に映えて舞う薄紅の花弁を見詰め、間近に迫る花枝にそっと手を添えて、ただ無言で見入っていた

「……すげぇ」
 やがて零れた言葉はそれで。
 連れて来てよかった、と、そっと三蔵は思ったのだ。
「気に入ってもらえたようですね」
 嬉しそうに八戒が言う。
「感謝しろよ、猿」
 楽しげに悟浄が言う。
 それぞれに
「うん。サンキュ!」
 悟空が笑顔を返すと、
「んじゃな」
「後で迎えに来ますから」
 突然悟浄と八戒がふたりに背を向けて歩き始めた。
「おい」
 当然三蔵は呼び止めた。
 一体どこへ行くというのか。
 だが、八戒はこれにも笑って答えた。
「戻って悟空のバースディパーティーの準備をするんですよ。じゃあ悟空、ごゆっくり」
 言われた悟空も笑っている。
「弁当が足りなくても我慢しろよ」
「うん! じゃあ後で!」
 ひらひら。
 ──やれやれ。
 手を振って本当に行ってしまった2人組を、三蔵は呆れ半分で見送った。
「いいのか?」
 これは悟空に向けて。
 悟浄も八戒もいない花見で良いのかと。
 問うと、悟空はふわりと笑った。
「いいよ。賑やかなのはこの後あるから。それより三蔵。のんびりしようよ。花見ながら、のんびりしよう? 体力温存しようよ」
 この後のパーティーに備えて。
 さらにその後に続く寺院の行事に備えて。
 この日が過ぎたらしばらくはゆっくりものんびりも出来ないから。
 言って、悟空はふんわり笑う。
 おや、と、三蔵は内心首を傾げた。
 悟空は忙しいと言う。
 この日を過ぎればゆっくり出来ないと。
 だが、それは──寺院の行事に振り回されるのは、どちらかと言えば三蔵であって、悟空ではないはずではないか。
 思わず悟空の金晴眼をまじまじと見詰めてしまった三蔵に、悟空はまたしても柔らかく笑んで、
「ゆっくりしようよ、三蔵」
 と、言った。

 

 誕生祝いのつもりだった。
 悟空が花見したがったから、希望を叶えたのだ、と。
 けれど三蔵はふと考えた。
 一体、この『休暇』を贈り主は誰で、贈られたのは誰なのか、と。

 

 

 

 
誕生祝いSS、6巡めラスト。今年も
「Happy Birthday、悟空!」

あまり悟空は出て来ませんが、それでも悟空への誕生祝いです。
作中では誰も「誕生日おめでとう」と言っていませんが、それでも『誕生祝い』です。
掲示板メールでご感想などいただけると、茶寮主、泣いて喜びますのでよろしくお願いいたします。

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