追走曲〜カノン〜

 

 

 

 はらはらはら。はらはら。
 薄紅の花弁が風に舞う。
 目の前に立つのは今を盛りと咲き誇る桜。
 花だけが先に咲くもの、たおやかに風にそよぐ枝垂れ。葉と花が同時に開く山桜があれば、他に先駆けて花をつける緋寒桜は既に葉桜へと姿を移して薄紅の中に緑を添え、いまだ花には時期の早い八重桜はひとり冬の風情を残す。
 ここは悟浄と八戒の住まう街の一角、人の集い憩う場としてしつらえられた緑豊かな広場だ。
 今は桜が咲き誇っていた。
 つい1時間ほど前まで、ここで花見をしていたのだ。
 メンバーは自分を含めたいつもの4人に、ハミングバードのマスター一家や玉連達。
 実はその花見は悟空の誕生パーティーの1次会を兼ねていて、これからハミングバードで開かれる2次会の準備をするために、他のメンバーは悟空を残して先に店に帰ってしまった。
 準備が出来たら呼びに来るから、と皆に言われて、だから悟空は桜を見ながら広場で迎えを待っている。
 はらはらはら。
 舞い落ちる花びらに引かれるように視線を上げれば、満開を迎えてほとんど白に近くなった花が、わずかに色を濃くした空に映える。
 春分を過ぎて、季節がゆっくり夏へと向かうこの時期、日没にはまだ少し間がある空は、淡い青は青のまま、そこにほんのりと茜を滲ませた、言い様のない色を見せる。
 もう少し時間が経てば光は更に茜を含み、空も金、茜から淡い青緑、薄青、青、紫、藍へとグラデーションを描くのだろう。
 その、どの光にも空にも、夜の闇と月光にさえ、桜という花はよく似合う。
 はらはらはら。はら。はらはら。
 風が吹けば風に誘われるように数を増し、風がなくてもひとり流れるように宙を舞う薄紅の花びらに、悟空はそっと右手を伸ばした。
 花弁の動きに合わせて伸ばした右手を動かせば、掌に雪のようなひとひらが舞い降りた。
 花びらを掴むのにはコツがいる。
 無闇に追い掛けても決して掴めるものではないし、ただ待っているだけでもいけない。
 昔はこれがどうしても出来なかった。
 降る花を掴もうと何度も何度も手を伸ばして追い掛けて、それでも得られずがっかりして、気付かぬ内に髪にとまった薄紅に『追い掛けなくてもここにあるぞ』と優しく笑われたものだった。
 ──随分と昔の話だ。
 優しく笑ったそのひとは、三蔵でも悟浄でも八戒でも、ない。
 舞い散る花びらを手にするやり方を、教えてくれたのも、彼等ではない。
 あれはいつの春だったか、三蔵と暮らす寺院の庭の満開の桜を前に、やはり花びらを追い掛けていた時だ。
『それじゃ取れねぇよ悟空』
『こうやるんですよ』
 誰のものとも判らぬまま、ふと脳裏に浮かんだ声に導かれるように手を伸ばし、どうすると意識もしない内に手が動いて、気が付けば桜が手にあった。
 あの時は、声の主を覚えていないことを、その名を忘れていることを、そうして喪った記憶を思ってとても哀しい思いをしたものだ。
 捉えどころのない過去の記憶──普段は断片すら思い出せないその記憶が浮かび上がることは稀にあったが……その度に切ない気持ちになったものだが、何故かそれは、桜を目にした時が多くて。
 大好きなのに、綺麗だと思うのに、何故か胸が痛んだりもして。
 自らが誕生日だと決めた日が近付くと必ず満開になるその花を、ゆえに悟空は複雑な思いで見上げることも多かった。
 今は……違う。
 浮かび上がる過去の記憶に捉われることは、もう、ない。
 何故なら。
(俺がいるのは、『今』、だもんな)
 昔、悟空という名をもらった。
 自分を護り慈しみ愛してくれるひとがいた。
 きちんと自分を自分と認めて伸ばされる手があった。
 それはとても大切な思いと記憶だけれど、だからといって、過去に捉われて生きることは、その、手の持ち主達と、今側に在る三蔵達に、とても失礼なことだと思う。
 だから自分は顔を上げて。
 満開の桜を視界に映して。
 遠い過去と現在の、自分の名を呼んでくれる大事な存在達の声を、脳裏に蘇らせようとした。
 その時。
「悟空。お待たせしました」
 背後からかかった柔らかな声に、悟空は笑みを浮かべて振り向いた。
「八戒。もう店、準備オッケー?」
「ええ、もうほとんど。料理も後は仕上げだけですから、あなたが来れば完了です」
 だから、行こうと。
 八戒が差し招くのに、
「うん!」
 頷いて行こうとして、それでも少しだけ去り難く、悟空は身を翻す足を止めた。
 はらはらはら。はらはら。
 見る間にも、目の前の枝から、隣の木から、時にはどことも知れない空の上から、桜の花弁が舞い降りる。
 それは降り積もる雪のようで、断片的に浮かび上がる自分の過去の記憶のようで。
 見詰めていると、いつの間にか並び立った八戒が、ほぅ、と感嘆の溜め息を零しながら、
「ホントに見事な桜ですよね」
 と囁く。
「うん」
 答えて思わず言葉が溢れた。
「でも、俺さ……ちょっと苦手だったんだ」
「え? 桜が、ですか? だってあなた」
「うん。好き。すげぇ好き。だけど……なんかこの花見てると、たまに、ホントにたまにだけど、胸がぎゅーってなること、あってさ。だから、大好きなんだけど、時々ちょっとだけ苦手、だった」
「そう、ですか……」
 微妙に歯切れ悪く答えた八戒が、何を続けようとして止めたのか、悟空には判る気がした。
 察しの良い八戒のことだ。それが悟空の過去に繋がるものだと、言われなくても気付いたのだろう。
 悟空の大切なことだから、悟空が自分から話す気になるまでは問わない。おそらくは三蔵も悟浄もが同じ態度を取るだろう、彼等の心遣いと信頼に、悟空はふわり、嬉しくなる。
「俺さ、色々考えたりもしたんだー。昔のこと思い出したら今のことどうでも良くなっちゃったりするのかな、とか、今のこと忘れちゃうのかな、とか……すごく辛いことがあった時、やっぱり今、昔の記憶がないみたいに、三蔵達のことも忘れたりすることもあるのかなあ、って…………ちょっと、怖かった」
 それに怯えたこともあったのだ。
 逆に、全てを思い出して過去が明らかになった時、仲間達の態度が変わることを恐れたことも、あった。
 けれど。
「……悟空」
「だけど、違った」
 何も変わらないのだと気付いた。
 過去の記憶は消えなかった。ほとんど全てを忘れても確かに残るものがあった。時折浮かび上がる記憶の断片に、昔側に居た存在を思い出したりもしたけれど、昔大事だったものと今大切なものは別で、どちらも自分にはかけがえがないと判った。
 自分の過去が明らかになって三蔵達がどう思うかなど、問いかけるだけで殴られそうだ。
「だから俺、桜、大好き」
「そうですか」
「うん」
 毎年桜は咲いて散るけれど──散ればそれで桜の季節は終わりとばかりに後は見向きもしない人もいるけれど、毎年桜は咲いて散っても、繰り返し訪れる季節ごとに、降り積もって行くものがある。
 上手く言葉に出来ないそれを悟空が言いあぐねていると、秀麗な顔に淡い笑みを刷いて、穏やかな声で八戒が言った。
「カノンって音楽、知ってます?」
「カノン?」
「ええ、これなんか代表曲なんですけど」
 首を傾げる悟空に向けて、八戒は優しい旋律を唇に乗せる。
 それは悟空にも聞き覚えのある、とても綺麗な曲だった。
「あ、それ知ってる」
 最初の旋律を他のパートが後から後から追い掛けるようにして、同じメロディを繰り返しながら豊かな音の流れを紡ぎ、ふぅわりと高みに昇るようなそれは、悟空も好きな曲だった。
「それが何? 八戒」
「これ、ね、この曲の形式、追走曲とも言うんです。同じメロディを後から後から追い掛けて、繰り返して、そうやって曲を形作ってゆく。そうして出来上がる曲は、先のメロディの余韻を残して、すごく深みのあるものになってるでしょう?」
「……うん」
「記憶とかって、そういうものじゃないかと思うんです」
 似たようなことを繰り返して、喜んで楽しんで笑って、哀しい思いも辛い思いも何度も経験して。そうやって積み重なった記憶は、やがてとても豊かなものになる。
「ゆたかな、きおく……」
「まあ、そう出来る、そう言える自分でなきゃいけないってのがまず大前提なんですけどね」
 ──悟空はちゃんとそうでしょう?
「そう、かな」
 自分ではよく判らないけれど。
「そうですよ。僕が言うんですから絶対です。三蔵だって、悟浄だってばっちり保証してくれますよ」
 八戒が笑って言うなら、きっとそう出来ているのだろう。
「そっか」
「そうですよ。で、ですね。そこにもうひとつ楽しいことを積み重ねるために、早くハミングバードへ帰りましょう?」
 みんな待ちかねてますよ、と。
 笑って招く八戒に
「うん!」
 と答えて今度こそ歩き出した悟空は、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「なあ、何で迎えが八戒なわけ?」
 八戒は大事な店の料理人なのだから、パーティー前には忙しいのではないのだろうか。店には悟浄もいるし、三蔵だって、八戒なら笑顔で動かせると思うのに。
 問われた八戒は朗らかに答えたものである。
「料理はほとんど完成してますからね。僕が一番暇なんですよ。悟浄には力仕事してもらってますし、三蔵は……」
「三蔵は?」
「三蔵は桂花の相手です。」
「ああ、なるほど」
 思わず悟空も笑ってしまった。
 桂花の相手と八戒は言うが、彼に限らず周りの心中はきっと逆だろう。桂花に三蔵を引き止めさせているのだ。
「せっかくの悟空の誕生パーティーに、うっかり三蔵を迎えに出してそのまま悟空ととんずらこかれちゃたまりませんから」
 にっこり、と笑顔で言い放つ八戒だけれど、そんなことを本気で言っているわけでは無論ない。
 みんなで祝いたいのだ、と、わざと皮肉に見せ掛けて、そう八戒は言っているのだ。
「というわけで、みんな待ってますから行きましょう。早く行ってあげないと、桂花のお守で三蔵疲れきっちゃいますよ」
 料理も冷めたらもったいないですし。
 八戒が笑うのに、
「おうっ! どんな料理が並んでるのかすっげー楽しみっ!」
 だから行こう、と、悟空も笑う。
 カノンだと八戒が言った自分の時間に、またひとつ楽しい記憶を加えよう。
 足取りも軽く歩き出した悟空の髪に、後から後から舞い落ちる薄紅色の花弁が一枚、色を添えるようにそっと乗った。

 

 

と、いうわけで、最遊記4人組誕生祝いの4巡目ラスト、悟空への「誕生日おめでとう」SSです。
年長3人を祝ったのだから悟空もちゃんとお祝しないと私の気が済むワケがない(笑)。
限りなく自己満足に近い理由で書いているものですが、
掲示板メールでご感想などいただけると、茶寮主、泣いて喜びますのでよろしくお願いいたします。
 

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