Tender Melody

 

 

 

 パタパタパタ。

  タン、タン……タン。

   パタタタタッ

    …………ザァーーーッ

 

 雨が降っていた。
 暗い空から絶え間なく落ちてくる水滴が、屋根を、窓を、地面を、叩く。
 溜め息が、こぼれた。
 何度振り払っても、別の何に意識を向けても、雨音はわずかの隙間を突いて八戒の心に忍び込む。
 本を開いても没頭できない。
 音楽を聴いてもダメ。
 テレビをつけて賑やかな番組を選んでみても、瞬きするほどの静寂の間にも耳が雨音を拾い上げ、意識がそちらに絡め取られた。
 心配そうに首を伸ばして
「キュウ?」
 と問いかけてくるジープの身体を
「大丈夫ですよ」
 と撫でてはみても、心のどこかに雨音は響いて。
「……まいったなぁ」
 わざと声に出して言ってみる。
 けれど1人の家にその声はひどく空々しく響いて、余計に雨音を際立たせた。
 雨は苦手だ。
 夜の雨はことさら。
 ましてそれがこんな日では。
 悟浄と出会って、同居するようになって、もう2年が経過している。
 出会ったばかりの頃は、一雨ごとに心を壊して、その度に悟浄にひどく心配をかけた。
 それでも今は、ずいぶんと──少なくとも時間を巻き戻してあの夜に立ち返るようなことがないくらい、自分が『誰』で『どこ』にいるのかも忘れる血と雨と笑顔の記憶の檻に囚われることがないくらいには、自分は安定したのだと、そう、思っていたけれど。
「さすがに今日は、キツイ……かな」
 他人事のように呟いて立ち上がり、リビングのカーテンを開けて、夜を映す鏡となったガラスの中に自分を見る。
 水滴に歪むその顔が、泣けない自分の代わりに泣いているように……思えて。
(……ゴメン……)
 あと2時間もすれば日付が変わる。
 自分だけがまたひとつ年を取る。
(──ゴメンね)
 こつん、と、窓に額をあててみる。
 冷えたガラスが冷えた心に馴染んで、とても心地よく、思えた。

 

 

 

 悟浄は走っていた。
 雨にぬかるんだ道を、全力で。
 向かう先は、家。
 滅多やたらにツキがきて、バカ勝ちしすぎて相手を丸裸にする前に『本日のお仕事』を切り上げた。
 キノコでも魚でもカモでも、総ざらえはよろしくない。
 そうして、もとより早めに帰るつもりでいたこともあって、早々に賭場を出た、までは良かったのだ。
 星が出ていないのを残念に思いながら、それでも機嫌良く家路を辿っていた。
 が。
 それはいきなりやってきた。
 街を抜け、森にさしかかったところで、とうとう雨が降り出したのだ。
 いや、夕方からその兆候はあったのだから、正確には『いきなり』ではなかったのだけれど、何しろその降り方が可愛くなかった。
 雨を空の涙によくたとえるが、それに倣うなら今のこれは、さながら元気なお子さまの自己主張だ。
 シャワーとして浴びるなら丁度イイくらいの勢いだったが、降りかかるのが雨水とあっては、まるで、ちっとも、嬉しくなかった。
「うっわ、サイアク」
 まだ降り始めて数分だというのに、あっと言う間にまとったシャツが膚に張り付き、髪から水滴が滴り落ちる。
 最悪だと思った。
 濡れネズミ確定の自分にとって、ではなく、雨の苦手な同居人にとって。
(よりにもよってこんな夜に降るなよ!)
 愚痴ったところで空に届こうはずもなく。
 だから、自然、家へと駆ける速度がアップした。
 空からは絶え間なく大粒の雨が落ちてくる。
 一定のリズムを刻み、時に不規則に揺れる雨音は、聞く人によってはとても耳に心地よいものなのだろう。
 けれどそれは──ことに夜のそれは、八戒にとっては、心の奥の暗い場所にある湖の表面を、ざわざわと波立たせるものでしかないのだ。
 その、苦手な雨が、今夜、降る。
 日付が変われば誕生日の、今夜。
 花喃のためだけに祝っただろう誕生日。
 花喃を2年前のあの場所に置き去りにして自分だけが年を重ねる、そのことを、多分八戒はまだ自分自身に許せないでいる。
 この日が近づくにつれて、時折カレンダーに目を留める八戒が、その度に「ゴメンね」と、声も出さずに呟いているのを知っていた。
 それなのに。
 生きたいと望んで生を選んだわけではなかったはずの八戒が、否応なく過去に立ち返るこんな日に。
 よりにもよって、雨なんて。
(降ってんじゃねーよコンチクショー!)
 暗い空に向かって毒づきながら、バシャバシャと泥水を跳ね上げて悟浄は走る。
 そうして森を駆け抜けて、家の灯りが見えた時には、悟浄は内心ほっとした。
 けれど、まだ、気は抜けない。
 八戒の心が『現在』にある、その保証はどこにもない。
 だからなるだけ足音を立てて。自分がここにいるのだと、足音で知らせて。
「たっだいまー! 帰ってくる途中で雨降られて、だー、もー、サイアクっ!」
 玄関を開け、リビングのドアを開けると、途端にジープが飛んできた。
「……八戒?」
 何かあったか、と警戒しながら同居人に目を向けて、
「お帰りなさい悟浄。傘、借りられなかったんですか?」
 返った笑顔と優しい声に、やっと悟浄は安堵したのだ。
 八戒はちゃんと『ココ』にいると。
 いきなりジープが飛びついてきたことは、いささか不審ではあるけれど。
「あー、店出た時はまだ降ってなかったんだよ。街抜けたとこでいっきなり土砂降り。ふざけんなっつの!」
「それは災難でしたね」
 濡れたシャツを脱ぎながら毒づくと、八戒がふわりと笑う。
 どこか遠いその笑顔に悟浄はそっと溜め息をついて、
「サンキュ」
 差し出されるタオルを受け取って、代わりにその手にジープを渡し、水の滴る髪を拭きながら答えると、
「シャワー浴びたらどうです? 冷えたままだと風邪引きますよ。ついでにコーヒーか何か淹れましょう」
 言ってキッチンに向かった八戒の、ふいに身体がゆらりと揺れた。
「っ! おい八戒!?」
 慌てて腕を掴んで覗き込む。
 碧の湖面に薄い膜。
 どこか視線の焦点が合わない。
「ああ、すみません。座りっぱなしだったからちょっと眩暈したみたいです」
 返った言葉に「ウソをつけ」と思った。
 掴んだ腕の温度に覚えがある。
 何だろうと一瞬悩んで、すぐに悟浄はその『心当たり』に思い至った。
(……風呂だ。)
 ちょっとぬるめだけれど、長く浸かるにはこのくらいがいいかも、と、そう思うくらいの風呂の湯の温度。
 まかり間違っても人体から感じ取りたい温度ではない。
 八戒の瞳が潤んでいるのはそのせいだ。
 悟浄より少しだけ低い位置にある顔も、よくよく見なければ判らないけれど、毎日顔を合わせている悟浄が見れば気付くほどには、確実に蒼かった。
「八戒……」
「はい?」
「お前さぁ……熱ない?」
「ないですよ」
 問いかければ、ご丁寧にも笑顔までついて、間髪置かずに否定が返る。
 更に
「悟浄の方こそ、手、冷たいですよ。早くシャワー浴びてあったまってくださいね」
 続いた言葉に心の中で悟浄は呆れ返った。
 ──どうしてコイツはこうまで自分のコトには鈍いんだ?
 ピタ。
 試しに自分の掌を八戒の額にあててみる。
 ……熱い。
「あ、でも冷たくてキモチイイかも」
 どこまでもボケた発言に、これが熱のせいでなく素なアタリが心底コワいと悟浄は思う。
「八戒……」
「はい?」
「コーヒーいらない。ンなもん淹れなくていいから、お前、今からベッド直行!」
「は?」
「だからベッド! 寝よう。な、今すぐ寝よう。頼むから、寝てくれっ!」
「あの……悟浄?」
「ヤダっつってもダメだからなっ。ヤダっつっても縛り付けるぞ!!」
 ぐいぐい背中を押してリビングを出ると、八戒が焦った声を出した。
「ベッドって、寝るって、縛るって悟浄!? ちょっとあなた一体何する気なんですか!」
 いっそキモチイイくらいのボケだった。
 「んー? ナニv」くらい返してやろうかと思ったが、さすがに怖くてやめにした。
 いつもの八戒なら鉄の微笑と気孔弾で切り返してくるのだろうが、今それをさせたら容態が悪化しかねない。
 だからここはひとつ素直に。
「何ってな、八戒。お前、熱あんだろ熱。だから、頼むから、薬飲んでさっさと寝てくれ」
「え? ですから熱なんてないですよ、僕?」
 告げた言葉に真顔で返し、八戒はそのままキッチンに戻ろうとする。
 その両肩をしっかり掴んで八戒を部屋へと押し進めながら、悟浄は、本気で、
(こいつマジベッドに縛り付けてやろうか)
 と、思った。

 

 

 

 ベッドサイドに肘をつき、八戒の寝顔を眺めながら、悟浄はしみじみ溜め息ついた。
 八戒を挟んだ向こう側では、同様にジープが寝ずの番をしている。
(やれやれ、ったく。こーの頑固者)
 あれからしばらく経っても、まだ八戒は熱などないと言い張っていた。
 けれど、「大げさですよ、平気なのに」と蒼ざめた顔に潤んだ瞳で言われても、「はいそうですか」と信じられるはずがない。
 「アホぬかせ」と一言の元に切って捨て、それでも不満げな八戒を、説き伏せ叱りつけてベッドに押し込めるまで15分かかった。
 薬を飲ませるのに更に5分。
 ようやっとベッドに入った八戒は、
「もう……平気……な、のに…………」
 と最後まで悪あがきしながら、それでもすぐさま眠りに落ちた。
「……頑固者」
 温もってしまった濡れタオルをそっと額から取り上げ、氷水に浸す。
「大馬鹿者。大ボケ。激ニブ。きかん坊。」
 目覚めている時に言ったら即座に「誰がです?」と氷の微笑で返してくるだろうそんな言葉にも、今の八戒は何の反応も示さない。
 洗面器の中でタオルを軽く揺すると、ついさっき取り替えたばかりの氷がガラガラと意外に大きな音を立てた。
(げっ、やべ)
 ──起こしただろうか?
 そっと覗き込んでみたけれど、碧の瞳は隠されたままで。
 そのことに安堵した悟浄は、冷やして絞ったタオルを八戒の白い額に戻し、またぞろ小声で文句を並べ立て始めた。
「小言大魔人のクセに。ヒトのこと心配するなら自分にも気ぃ配りやがれこのどアホウ」
 本当に、悟浄や悟空や三蔵になら──その3人にほぼ限定されるのだけれど──いつもウルサイくらいに世話を焼くくせに、八戒は自分のことには驚くほどに無頓着だった。
(もっと自分のコト大事にしろよ)
 雨の夜、わざと自分の傷を抉るようなことをする八戒を見る度、悟浄はそう思ってきた。
 けれどそれは八戒が一番苦手とすることなのだと知っている。
 自分をいたわることに根本的なところで無頓着なのは、悟浄も悟空も三蔵も似たようなモノだが、それが一番顕著なのが八戒だった。
「どアホウ。無茶。無謀。医者の不養生……はちょっと違って、笑顔魔人も、今は違うか」
 繰り出される文句の数々も、そろそろネタが尽きてくる。
 三蔵がこの場にいたら、「ならさっさと自分の部屋なり外なりへ行きゃあいいだろう」とくらい、鬱陶しそうに呟くのに違いない。
 けれど、それはしたくないのだ。
 大の男を捕まえて夜通し看病もないもんだと、思いはしても、今の八戒を1人にする気に悟浄はなれない。
 熱がある。
 外は雨で。
 そうしてもうすぐ日付が変わる。
 弱いとは決して言えない存在だけれど、誰もが心弱くなる時に、雨と誕生日などという彼にとっての『悪条件』が重なる今、悟浄が八戒を1人にしたくないのだ。
 眠っていながら時折開くくちびるが、『かなん』と喪った恋人の名を音もなく囁く。
 続く形が『ゴメン』であることも、見なくても悟浄には判っていた。
 そもそもこの発熱の原因の、雨と誕生日が鍵になっているに違いないのだ。
 心の痛みを表に出す、そのことを自分自身にすら許そうとしない八戒の、身体が先に音を上げた結果が今のこれだと、悟浄はそう、思っていた。
 過去を忘れろとは言わない。
 言えないし、言うつもりもない。
 『猪悟能』を抱えたままの『八戒』を、丸ごと大事だと思うくらいには、悟浄はこの同居人を己が心の内側に入れている。
 それはきっと悟空も三蔵も同じで。
 多分、それぞれがそれぞれに対して、似たような感情を抱いているのだと、思う。
 だから悟浄は、うっすらと汗を浮かべる八戒の額にそっと手を当て、雨の音に紛れ込ませて、囁くように言葉を落とす。
「さっさと熱、下げろよ八戒。明後日になったら悟空達来ンだろ。お前がそんなだと小猿が泣くぞ……あんま心配させんなよ」
 けれど、そう、呟きながら。
 『誰かを心配できること』に、心がほのかに暖かくなる、そのことを悟浄は自覚していた。

 

 

 

 パタパタパタ。

  タン、タン……タン。

 

 耳を打つかすかな音で、翌朝八戒は目覚めた。
 時計を見れば午前10時。
 いつもならとっくに起き出して朝食も済ませ、洗濯物も干し終えた頃だ。
「……うわー。しまったなぁ」
 誰にともなく呟いた。
 してみれば、昨夜の自分は、自分自身にすら「何でもない」とウソをつきながら、その実かなりへばっていたのであるらしい。
「心配……させちゃいましたかね」
 無理矢理ベッドに押し込めてくれた同居人を思う。
 額に乗せられた濡れタオルはまだ冷たくて、それはそのままついさっきまで悟浄がここにいたことを示していた。
 そういえば夜中何度か目覚めた時にも、悟浄はいつもそばにいた。
 そんなに信用ないかなぁ、と苦笑しながら、けれどあれだけゴネたのだからそれも仕方ないかと思ったものだ。
 花喃の笑顔を夢に見て、そのままあの雨の夜の記憶に引きずられて。それでも生きている自分にどうしても浮かぶ罪悪感を、花喃の微笑みに向けて音もなくこぼして。
 そうして目覚めた傍らに、あの紅を見つけて安堵した、それもまた、事実。
(まったく、しょうがないですね、僕は)
 自嘲気味に笑った耳に、目覚ましの役割を果たした音が届く。

 

 パタパタッ。

  タンタンタン。

   パタタッ

 

 まだ少しふらつく足をなだめなだめ立ち上がり、カーテンを開けると、案の定外ではまだ雨が降っていた。
 八戒が目覚めた時からずっと枕元で見守っていたジープが、翼をはためかせて飛んでくる。
 その身体を抱き留め、
「大丈夫ですよ」
 と昨夜と同じ言葉を囁いて、八戒は雨音に耳を傾けた。

 

 パタパタ、パタ。

  タンタン。

   パタタッ

    …………サァーーッ

 

 小降りになった雨は、昨夜ほどの大きな音は立てない。
 だから心にもさほど重くは響かない。
 雨は空の涙だという。
 ならば今降るこれは、涙雨だろうかそれとも優しい慈雨だろうか。
 涙雨とすれば浮かぶものはふたつ。
 ──花喃の涙と自分の罪。
 慈雨と取って浮かぶものは、けれど今度は4つに増える。
 ──花喃の笑顔と、悟浄と悟空の笑顔に、三蔵の仏頂面。

 

 パタパタパタ。

             ゴトン。

  タンタンタン。

               ガタン。

   パタタタタッ

            バタバタ、パタン。

    …………サ、サァーーッ

 

 少しだけ気分が軽くなった気がするのは、小さくなった雨音のせいだろうか?
 思ったけれど、どうやら、それだけではないらしい。
 雨音に混じって響いてくるのは、間違いなく悟浄が立てる物音だった。
 その音に、引き寄せられる。
 上着を羽織って部屋を出て、リビングのドアを開けると、途端悟浄の声が飛んできた。
「八戒!? 何起き出してきてンだよ!」
 慌てふためいて駆けてくる。
「すみません、喉、渇いたもので」
「喉だあ? 呼べよ、そんなら、冷たいの持ってってやっから!」
「でも悟浄。ここまで聞こえるようにって、結構大声出さないとダメですよ?」
 ──それって辛いじゃないですか?
「じゃあジープ寄越せばいいだろう」
「でも、立てるんだから待ってるより自分で行く方がいいかなあって。それに寝てるのにも飽きたんで」
 言うと悟浄は
「……減らず口」
 呟いて、ウンザリした風に天井を見上げた。
 その様子がおかしくて、ついでにもうひとつ頼んでみる。
「それと悟浄。体温計、ください。」
「……計ンの?」
「はい。もう随分下がったと思いますけど」
「…………ホラ」
「ありがとうございます」
 イヤそうーに渡す悟浄に、今度は本当に笑ってしまった。
 これでやっと体温が計れる。
 昨夜あれだけ自分を叱って説き伏せた悟浄だが、何故か体温を計らせようとだけはしなかった。
 計れば納得するのに、と言ったら、なんと返った答えはこうだった。
『だってよ、今触っただけでも熱あるって判ンのに、計ってもし40度とかぶっちぎってたら怖ぇじゃねーかっ!』
 今思い返してもどこの子供かと笑えてくるが、熱があるのがバレバレなのに熱などないと言い張った自分も、それと大差ないのだと気付く。
 ソファに座ると、ジープはちら、と悟浄に目をやって、後は任せたとばかりに、リビングの隅のジープ専用バスケットにちょこんとおさまり眠ってしまった。
 体温計を脇下に挟み、検温終了のブザーを待つ。
 ブザーが鳴ってからもう1分待って、取り出すと背後から悟浄が覗き込んできた。
「36度8分。まだちょっと高ぇな。ほらハウス!」
「ハウスって悟浄……犬じゃないんですから」
「うるせー。減らず口叩かないだけこーゆー時は犬のがマシ! ほらほら部屋へ戻る!」
 またぞろソファから追い立てられ、リビングから追い出されそうになる。
 けれど、今、八戒は──
「悟浄……ここにいちゃ、いけませんか? 部屋より──ここに、いたいんです」
 部屋にいればどうしても雨音が耳につく。
 囁くと悟浄の手が止まった。
 天井を見上げる気配がある。
 そうして悟浄は盛大な溜め息をもらして。
「……悟浄?」
 振り向こうとしたら、後頭部を、ペンッと軽くはたかれた。
「悟浄?」
「座ってろ」
 言いながら悟浄はリビングを出てゆく。
 大人しく言われたままにソファに座って待っていると、右腕にブランケット、左腕には氷水を張った洗面器とタオルを、抱えて悟浄が戻ってきた。
 つんっと額を強く押されて、不意打ちなのと熱のせいとで八戒はソファに倒れ込む。
 枕代わりのクッションをあてがわれ、ブランケットで包み込まれて、額に濡れたタオルを乗せれば、にわか病人用ベッドの出来上がりだった。
「大人しくしてろよ病人は」
 言って再びリビングを出た悟浄は、今度はグラスを3つ持って戻ってきた。
 ひとつを八戒の前、ひとつを自分の前、もうひとつをその真ん中に置く。
 そうしてその中のひとつを持って、歌うように、悟浄が言った。
「花喃さん、花喃さん。乾杯が酒じゃなくてレモン絞ったただの水で、スミマセンケド許してクダサイ。ちゃんとした乾杯は明日悟空と三蔵が来たらやるからさ」
 チリン、チリンとグラスが鳴るのを、どこか呆然と八戒は見ている。
「悟浄……?」
「んー?」
「…………悟浄」
「うん。……誕生日おめでとー」
 間違いなく自分──『悟能』も含めて、だ──と、そうして花喃のために、言葉にされた、それ。
 忘れる必要もなければその理由もないと、言外に告げてくれる目の前の男が優しい。
 だから八戒は、悟能と花喃の分もあわせて
「ありがとう……ございます」
 と、掠れた声で囁いた。
「雨降ってるし、悟空と三蔵は三蔵の用事でどーしても明日じゃなきゃ来られねぇし、ちょっとさんざんな誕生日かも、だけどな。ま、お前さんがこんな調子なんだから、丁度良かったっちゃあ丁度良かったよな」
 軽い口調で悟浄が言う。
 その、笑みを浮かべた同居人に
「……そうですね。」
 と微笑み返すことが出来るのは、彼らと出会って共に過ごしてそうして『現在』があるからだと、八戒は、思った。

 

 

 パタ、パタ、パタン。

             ゴトン。

  タン、タン、タン。

               ガタン。

   パタタ、タタッ

           バタバタ、パタン。

    …………ササァーーッ

            コトカタ、コン。

 

 相変わらず降り続ける雨の音に混じって、家の中を行き来する悟浄の立てる音が響く。
 耳を刺し心を凍らせるだけだった雨音は、そうして、やさしい音になる。
 雨音よりもリズミカルな悟浄の足音に誘われて、いつしかふたたび八戒は、眠りの海にその身をゆだねていた。

 

 

 

 

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あとがき(もしくは言い訳・^^;)

やってしまいました、ふたたびの八戒さんのお誕生日おめでとう小説。
あんまりめでたくない雰囲気の話になってしまいましたが、ウチの八戒さんの21才のお誕生日はこんなカンジで。
ちなみに「40度越えてたら怖い」と熱を計らなかった悟浄の行動は、その昔うちの母が真顔でやってのけてくれた実話だったりします(笑)。
掲示板メールでご感想などいただけると、茶寮主、泣いて喜びますのでよろしくお願いいたします。