「おーい八戒、そろそろ行こうぜ」
玄関先から悟浄に呼ばれた八戒は、
「ああ、はいはい」
と軽く返事をしてから、再度家中の施錠を確認し、最後に薄手の上着を持って、やっと玄関のドアを開けた。
途端、悟浄がいささか呆れた顔になる。
「……なんです?」
玄関ドアに施錠しながら問いかけると、
「なにって……」
悟浄の呆れ顔がより一層深くなった。
「先に行ってていいですよジープ」
「ピィ」
うずうずしているらしいジープを先に行かせて、
「で?」
あらためて振り向くと、悟浄はまだ少し呆れた顔をしている。
「だから、なんです?」
更に八戒が問いかけると、悟浄は八戒が腕にかけた上着を指差して
「それ、必要?」
と、苦笑混じりの問いを寄越した。
今度は八戒が呆れる番だった。必要か、とは失礼な。
悟浄は不思議そうな顔をするが、八戒の今の服装は、生成のジーンズにペイルグリーンの半袖のコットンシャツ1枚だ。腕にかけた上着にしても、ごく薄手のジャケットである。
だいたい9月も下旬の今頃は、晴れていれば昼間は気温が上がるが、日が落ちれば肌寒くなることもままある、着るものの選択のなかなか難しい時期だ。まして人より寒がりの気のある八戒なのだから
「必要だと思うから持ってるんですけど?」
返すと、
「あーなるほど」
悟浄はまた笑ったものである。
いささかムッとした八戒だった。
悟浄がそう来るなら、八戒にだって言いたいことはあるのだ。
「あなた、人のことをそんな風に言いますけどね、あなただって、僕とは方向が逆だけど、ホントにそれでいいのかって服装してますよ?」
言うと悟浄は
「は? どこがよ」
と来たものだ。
よくも言えたものだと思った。
悟浄が今着ているのは、ブラックジーンズに同じく黒のタンクトップ。それだけだ。
街でこんな格好を見かけたら、真夏じゃあるまいし、と苦笑する人は少なくないに違いない。
たとえ昼間は良いとしても、夜には寒くなるのでは、と、八戒などは思うのだけれど、そう指摘すると、悟浄は、
「俺はこれでじゅーぶんだっつの」
と、鼻で笑って聞きもしないで、そのまま街へと歩き始めてしまった。
「ちょっと悟浄……」
せめて何か羽織るものを1枚持っていても良いのでは。
言い募っても返る言葉は
「平気だって」
とそればかりで。
とうとう八戒は、少しばかり大きな声を出してしまった。
「風邪引いたって知りませんよ!?」
その剣幕に驚いたのだろう。振り向いた悟浄は、きょとんと目を見開いている。
当然だろうと思った。
なにしろ、声を荒げた八戒自身がいささかならず驚いているのだ。
けれど、勢いは止まらなかった。
「あなたが勝手に薄着で外へ出たんですからね。もし風邪引いても、看病なんてしてあげませんよ」
次いで飛び出した言葉も、そんなキツいものになってしまった。
何故、こんなに、と、八戒自身が戸惑うほどに。
それなのに、だ。
「八戒……」
立ち止まり、名を呼んだ悟浄の顔には、なぜだか笑みが浮かんでいた。
それも、苦笑混じりではない、本物の笑みが。
「なんで笑ってるんですか」
思わずムッとして、八戒は問いかけた。
すると、返った言葉は。
「いやだってなんか新鮮で」
「は?」
「だから。薄着だからってそんな風に言われたこと、あんまねーからさ、俺」
だから、それが新鮮だと。
言われて、八戒は、あらためて気付いた。
それが、自分にとっても、実はあまりない経験だということに。
そもそも子供の頃から花喃に出会うまでは、他人はおろか自分に対する興味すら薄かった。
花喃に出会って、彼女を愛し、共に暮らして初めて、誰かを気遣う気持ちを知った。
花喃を奪われた時には、自分の中のあたたかな感情は全て凍り付いたのだと思った。
そうして、幾多の命を奪い、人間から妖怪へと変化した後、悟浄に拾われ、三蔵と悟空に出会って、名を変え生きることを許されても、凍てついて壊れた心は、二度と元に戻ることはないのだとも、思っていた。
それが、どうだ。
悟浄の家に転がり込んで、共に暮らし日々を過ごしているうちに、いつの間にか自分はまた、かつて花喃と暮らしていた頃のように、小言を言うようになっている。
何故──などと、考えるまでもなかった。
言葉に詰まって、八戒はただ悟浄を見る。
「八戒?」
突然黙り込んだ八戒に、悟浄が不思議そうな顔で呼び掛けてくる。
「おーい、八戒さん?」
ひらひら。
歩み寄って来た悟浄が、八戒の眼前で手を振る。
この手だと思った。
この手が、この目が、この声が。
この人がいつもそばにいて、闇に沈みかけていた自分を、ゆっくりと時間をかけて、ここまで引き上げてくれたのだと。
「悟浄……」
「うん?」
「悟浄」
「だから何よ」
苦笑混じりの悟浄の声に、返事として今八戒の脳裏に浮かぶ言葉は『ありがとう』だ。
けれど、いきなりそんな事を言っても、悟浄は胡乱気な顔をするに決まっている。下手をしたら、熱でもあるのかと、体調不良を真剣に疑われてしまうかもしれない。
大概失礼な話だとは思うが、決してないとは言い切れない。
だから八戒は、その代わりに。
「そんな台詞で誤魔化すつもりでもそうはいきませんからね。これで風邪を引いたら自業自得ですから、自力で治してくださいね」
「えー、八戒さんてば冷たーい」
「当然です。移されたら仕事にも差し仕えますんで、そうなったら僕は慶雲院に避難しますから、そのつもりでいて下さい」
「うっわ、お前マジ酷ぇ!」
憎まれ口を叩きあいながら、互いの口元が笑っているのを、八戒も悟浄も気付いている。
「誉め言葉と受け取っておきます。三蔵や悟空たちにもそう言っておきますのであしからず。というわけで、せいぜい気を付けながら、僕の誕生パーティ楽しんでください」
「へいへい」
くすくす。
笑いながら、歩き出す。
向かう先は、街。ハミングバードという名の八戒の仕事先の喫茶店兼バーだ。マスター一家や気心の知れた常連たちはもとより、三蔵も悟空もきっともう集まっているはずだった。
いつの間にか、ここで誕生パーティをするのが、習慣のようになってしまった。
今日は八戒の誕生日だ。
八戒──悟能と、花喃が生まれた日だ。
段々と隔たって行く花喃との時間に、何も感じないと言えば嘘になる。
けれど、それでも、八戒は、今日という日を迎えられることを……そして、自分のそばに悟浄がいて、三蔵がいて悟空がいて、街の友人たちがいてくれることを、嬉しいと、思った。
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