── Dear ──

 

 

 

 心地よい風の吹く午後だった。
 早めの投宿を決めた街の、早々に部屋を取った宿の中庭で、日影のベンチに腰を下ろして文庫本のページをめくっていた八戒に、ふいにこんな声が降って来た。
「ヒマそうですね。」
「……は?」
 驚いた。
 何にといって、まずかけられたその言葉にだ。
 別段、嫌々本を読んでいたつもりはないのに、そんなに自分は暇そうな顔をしていたのだろうか?
 いや、そもそも本を読んでいる相手に対していきなりかける言葉だろうか。
「え…と、あの?」
 不審に思って顔を上げた八戒は、次いで相手の風体に驚いた。
 良く言えば肩までのセミロング──素直な感想を言えば、短いスパンで切るのが面倒で伸ばしているといった感じの、濃茶の髪。黒のスラックスとオフホワイトのシャツ、臙脂のネクタイまではまあ普通としても、その上に羽織っているのはどう見ても白衣だ。挙げ句の果てに足下を見れば、履物はいわゆる便所ゲタ以外のなにものでもない。
 見上げた顔はとても綺麗な造作なのに、浮かぶのは一見穏やかな食えない笑みで……
 一瞬、アブナイ人かと思った。
 だが。
(……便所ゲタ? でも……)
 けれど八戒は、先ほど声をかけられるまで、足音など耳にしなかったのだ。
 あり得ない。
 いくら本を読んでいたといっても、熱中していたわけではない。地面はありふれた土だから、普通に歩けば足音がする。まして相手の便所ゲタで、音の聞こえないはずがない。
 なのに、声をかけられるその瞬間まで、八戒は相手の存在に全く気付かなかったのだ。
 相手からは敵意も害意も感じられないけれど、気配に聡い八戒にとって、これは相当な異常事態だった。
「あなたは……?」
 ──何者ですか、と問えば良いのか、誰ですかと問うべきか、そもそもそういう問いの成り立つ相手か。
 迷ってそこで言葉を止めた八戒に、けれど相手はただただ微笑って
「単なる通りすがりですよ」
 と言うだけで。
「それより……ヒマそうですね」
 先ほどと同じ言葉を繰り返す相手に、八戒は苦笑混じりにひととき付き合うことにしたのだ。
「……そう見えますか?」
 自分としては、読書を楽しんでいるつもりだったが……
 切り返すと、相手は笑ってあっさり
「ええ」
 さらに続けて
「本の内容は楽しんでいるんでしょうが、そもそもここで読書をしていること自体、時間潰しに見えましたよ」
 ──違いましたか、と。
 あながち間違いとも言えない台詞に、八戒はやはり苦笑しながら、肯定も否定もせずにこう返した。
「どうしてそう思うんです?」
 相手は笑って答えたものだ。
「なんとなく」
「……なんとなく、ですか」
「ええ。というか、似ていたもので」
「……誰にです?」
「僕に。時々僕もそうやって、本渡されて追い出されるんで」
 追い出されるとは
「…………誰にです?」
「ウチの上司に。掃除の邪魔なんだそうで」
 ──待て。
「上司に掃除させるんですか!?」
 それは許されることなのだろうか。
 驚くと、相手はまた気にせず笑って
「ええ。位は僕の方が上なんで、決済に僕のハンコもいるんですけどね。時々行方不明になるんで、必然的に捜索がそのまま掃除に」
 などと恐ろしいことを言い、さらに
「手伝うって言うんですけど、片付けるつもりの本をいきなり読み出すヤツなんか邪魔だって、追い出されちゃうんですよねぇ」
 へらりと笑うのだ。
 邪険に扱われるようでいて、ずいぶんと甘やかされ、ずいぶんと大事にされて、そうしてそれらを全部判っている笑みだと思った。
 ──この男の上司はさぞかし大変だろう。
 呆気に取られながらしみじみと思う八戒に、男はまた
「で、そうやって追い出される時の僕に、さっきのあなたが似てるなあ、と思ったんですが……どうなんです?」
 ──違いましたか。
 と、同じ問いを重ねるのだ。
 困った。
 確かに現状だけ見れば似ているかもしれないが、中身は多分相当違っている。
 だから
「似てるかもしれませんが、でも……違うと思いますよ、ずいぶん」
 告げると、
「違いますか?」
 相手は少し驚いた顔になった。
「ええ。僕は宴会の支度するのに邪魔だからって部屋を追い出されたんです。でも、そういうのって、こんな時だけですから」
 そう。こんな時だけだ。
 でなければ主に雑事は自分の仕事で、他の3人はせいぜい手を貸すぐらい。
 現状を解説するなら、よからぬ事を企む子供が、バレないように母親を閉め出すのに近い。
「ね? 違うでしょう?」
 けれどそれでも男は笑って
「大差ないと思いますけど?」
 と、言った。
「そうですか?」
「そうですよ」
 ──そうだろうか。
 不審が顔に出たのだろうが、男はさらに言ったものだ。
「だって、大事にされてるじゃないですか」
「え……」
 今度こそ心底驚いた。
 一体今の会話のどこを取ったら、そういう答えに行き着くのだ?
 目を見開いた八戒の耳に、クスクスと軽やかな男の笑い声が響く。
「気付いてなかったんですか? さっきのあなたの顔。まるでお母さんが口では文句を言いながら、楽しそうに家族の食事を作ってるみたいに見えましたよ?」
 クスクス。
「大事にされてるじゃないですか」
 クスクス。
「甘えられて、甘やかされてるじゃないですか?」
 クスクス。
「甘えて欲しいって、あなた、そう甘えてるんじゃないですか」
 違いますか、と。
 やわらかな眼差しで問われて思った。
 ──いいや、違わない。
「大事にしてもらってるんですね」
 穏やかな声に、今度は素直に頷いた。
「ええ……そうですね」
「紅毛のお兄さんと、金髪のお兄さんと、金目の坊やに」
「……ええ」
「よかった……」
 ──え?
 ふぅわりと紡がれた言葉に、いもしない兄の響きを感じ取った八戒が、あらためて相手の顔をよく見ようと思った時だ。
「八戒」
 視界を遮る建物の向こうから、自分を呼ぶ悟浄の声が届いた。
「あ、はい!」
 条件反射のように立ち上がって返事をする。
 視線を逸らしたのはほんの一瞬。
 だが
「すみません……あれ?」
 振り返ると、そのほんの一瞬で男の姿は消えていた。
 ──嘘だ。
 いくらなんでもこんなに素早く。
 しかもあの便所ゲタで。
 一体彼は誰だったのか、そして……何、だったのか。
 会ったことはないはずなのに、どこか懐かしい感じもする、あの男は一体何者か。
 呆然と立ち尽くす八戒を訝しんでだろう、
「八戒?」
 歩調を速めて並び立った悟浄が、わずかに不審の色を滲ませた瞳で八戒の顔を覗き込む。
「あ、いえ……すみません、なんでも……」
「何でもない?」
「ええ」
「本当だな?」
「はい」
 そう、何でもない。
「信じるぞ」
「はい」
 頷いた八戒の心のどこかで、それで良いのだという声がする。
 少なくともあの男に害意はなかった。
 だから、何でもない、でいいのだ。
 心か記憶の片隅で……あるいはもしかしたら魂の片隅で、自分はきっと彼を知っている──そんな気が、する。
 けれど、彼はそれ以上の詮索を許してはくれないだろうし、その必要もないのだと思った。
 きっと、それで良いのだと。
 八戒の顔に自然な笑みが浮かぶ。
 誤魔化す笑みと自然な笑みの差を知っている悟浄が、それを見て八戒に手を差し伸べる。
「よし。んじゃ行こう、準備出来たぜ」
「はい」
 これから4人で、ささやかな宴会。
 そのために八戒は部屋を追い出されていたのだ。
 宴会の名目は八戒の誕生日だ。
 ふんわりと微笑んで歩き出した八戒の耳に、その時、風が囁くように、つい先ほどまで眼前にいたはずの男の声が届いた。
『誕生日おめでとう、八戒。あなたが幸せそうで、とても……嬉しいですよ』
 立ち止まって見上げた青空に、男の笑顔が見えた気がした。

 

 

 

 
と、いうわけで。今年も
「Happy Birthday、八戒さん!」

今年こそダメだろうと思っていたのに何で書いてるんでしょうか自分?
果たしてこれで『誕生祝い』SSになっているのか果てしなく謎ではありますが。
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