9月20日の深夜、日付けが変わる頃になると、悟浄は決まってグラスを取り出しテーブルに並べる。
それはごく普通のグラスだったり、ワイングラスだったりするけれど、数は3つ──毎年最低、3つ。
注がれるものも、ビールだったりワインだったり、そもそも最初からテーブルに何種類かの酒が並んでいたりするけれど、悟浄はそれらを全てのグラスに注ぎ分けて、3つを八戒の前と自分の前と、八戒と自分の丁度真ん中に置く。
それは、暗黙の了解。
今更理由を言うまでもない、この夜の儀式だ。
時計を見る。
秒針が回る。
日付けが変わる。
──21日になる。
「誕生日おめっとさん」
チリン、チリンと、自分のグラスを残る2つに当てて澄んだ音を立てながら言うと、
「ありがとうございます」
答えて八戒はふわりと微笑った。
翳りのないその笑みに、悟浄は安堵の笑みをこぼした。
穏やかな笑顔の内側で、悟浄はそうするきっかけになった夜のことを思い出す。
忘れもしない。
あれは、“猪悟能”だった彼が“猪八戒”という名を与えられ、新たな生へ送り出されて、沙家で迎えた最初の9月21日だった。
その日は朝から晴れていた。
綺麗に澄んだ初秋の空が広がって、夜にはそれがやはり綺麗な星空になった。
こんな夜は気分がいい。
これといって理由はないが、稼げる、と悟浄の勘が告げている。
だから悟浄はいつも通り、宵闇が降りる頃に、「じゃ、行って来るから」とだけ八戒に断って、鼻歌混じりで街に出たのだ。
八戒が悟浄の同居人になってそろそろ半月、ぎこちないながらも互いが互いの存在に慣れ始め、悟浄も賭場で稼ぐ“日常”に戻り始めていた。
まだ“悟能”だった八戒と過ごした1ヶ月と、“八戒”が同居人になってからのこの半月で、彼が雨が苦手なこと、それゆえか雨の日──特に雨の夜にはバランスを崩しやすいことに気付いていたから、雨の気配のある日は微々たるものながら気をつけるようにはしていたけれど、今夜は晴れだ。
何の心配もいらないはずだ…………多分。
そうして気分よく街に降り、気分よく“仕事”を始め、己が勘の正しさを証明するようにごく普通の勤め人が1ヶ月で稼ぐほどの金をほんの数時間で稼いで、上機嫌で家に戻ってみれば。
「……あ?」
どこかで何かを間違えて道に迷ったか別世界に迷い込んだかと、そんな風に悟浄は思った。
まず自分の目を疑った。
瞬きをして目をこすって何度も見直して、事実だと理性が認識しても感情が追い付かずに首を傾げた。
……ここは一体どこだろう?
“今の自分の家”とは思えない。
家中の明かりが消えている。
八戒は自分が先に休む時でも必ず玄関かリビングの明かりは絞るだけで消しはしないから、この状態がそもそもおかしい。
加えて、気のせいだと思いたいが、リビングの窓ガラスが割れている。リビング……いや、キッチンもだ。
「おいおいおい…………って八戒!」
一瞬「こんななんもない家に押し入ってどうする気だ」と、間抜けな強盗の仕業だと思って軽く呆れた悟浄だったが、それどころではないことにすぐに気付いた。
たとえ何が来ようと自分ひとり、しかも盗むものもないような家なら別段心配する必要はないが、今はなにしろ八戒がいるのだ。
強さは十分知っているが、それでも彼はまだ病み上がりと言える状態で。
「八戒! おい八戒無事か! 八戒!?」
慌てた悟浄は、鍵を壊しそうな勢いでドアを開け、家に駆け込んだ。
「八戒!」
名を呼ぶ。
だが、リビング、キッチン、探す人の姿はどこにもない。
いつもは遠慮がちであっても「おかえりなさい」と言葉をくれる八戒だが、今はそれも返らない。
「八戒!?」
八戒の寝室。悟浄の寝室。
明かりをともして捜すのに、濃い茶の髪が見当たらない。
代わりに悟浄の瞳に映るのは、割れた窓ガラスだったりグラスだったり、何故だか知らないが真っ二つに割れたシンクの洗い桶だったり。
寝室からリビングに引き返し、今度はトイレ、洗面所からバスルームへ。
そのほんの数歩の間にすら、目に映る光景が悟浄を更に驚かせた。
洗面所の鏡が割れて落ちている。洗面台そのものにもひびが入っているように見えるのは、絶対に気のせいではないはずだ。
「……何があったってんだよ、おい…………」
八戒は、無事だろうか。
蒼ざめながら姿の見えない同居人を思った悟浄の耳に、その時かすかな水音が響いた。
「? ……風呂?」
コポコポ、ゴポ、ズズズ。
それは、バスタブから最後の水が抜けて行く時の音に似ていた。
明かりはそこも消えているが、かすかに人の気配がある。
カチャリ。
悟浄はバスルームのドアを開けた。
「……はっかい?」
何故か大きな音を立ててはいけない気がして、なるだけ音を消してドアを押し開け、声をひそめて呼び掛ける。
と、洗面所の明かりにぼんやりと照らし出されて、バスタブの水栓を右手に持ち、うつろに佇む八戒の姿が、悟浄の目に飛び込んで来た。
「いたのかよ……」
そこにその人の姿があった、それだけで悟浄は安堵しそうになった。
だが、それは間違いだったのだ。
ドン。
少しばかり重そうな音を立てて、八戒の手から水栓が落ちた。
ポタリ。
白い指先から滴り落ちるものがある。
水かと思ったその雫は、だが、おぼろな光の中ですらそうと判るほどに紅かった。
「……っお前!」
呼び掛けてもやはり返事はない。どころか顔もこちらに向けない。
「八戒!」
駆け寄って両肩を掴んでも反応がない。
「おい、八戒!!」
揺さぶって、覗き込むように視線を合わせれば、ガラス玉のような碧の瞳に悟浄の真紅が映り込む。
途端。
「……っ! おい!」
マリオネットの糸が切れたように八戒の体が崩れ落ちた。
細すぎるその同居人の体を、慌てて悟浄は抱きとめた。
悟浄によって自分のベッドに運び込まれた八戒は、結局翌朝随分と日が高くなるまで目覚めなかった。
何がなんだか判らないまま、とにかく傷付いた八戒の手当てをして、破壊された家のあちこちを片付けた。
そうしながら、悟浄はふと思ったものだ。
──以前自分が八戒に告げた『野郎をベッドに運ぶのは最初で最後』という台詞、あれは……ひょっとして、あの1回が最初で最後なのではなくて、『八戒が』最初で最後と、そういう意味だったのか、と。
そんな自分に呆れる思いが半分、同居人なのだからとの諦め半分で、割れ落ちたリビングのガラスを拾い上げながら、悟浄は「仕方ねぇな」と苦笑を零した。
八戒が目覚めたのは、そうやって悟浄があらかたを片付け終えた頃だった。
様子を見に部屋に入った悟浄が、ドアを閉め、枕元に歩み寄った途端、悟浄の動きに合わせるように、蒼ざめた瞼が持ち上がった。
ベッドでぼんやりと目を開けて天井を見つめる八戒は、
「……八戒?」
悟浄が名を呼ぶと、声の軌跡を辿るようにゆっくりと視線を動かして、やけに長く思える時間の後、
「…………悟浄」
と、ポツリ、囁いた。
「八戒……昨日、俺が出掛けてから何があった?」
一体この家を何が襲ったのか。
問いかけると、八戒はきょとりと目を見開いて、どこかまだ寝ぼけたような声で
「なにも……」
と、言った。
何も、襲っては来なかった、と。
「だってよ……じゃあ」
では一体あの惨状は何だ。
「あの割れたガラスとか鏡とかは一体全体なんだってんだよ」
困惑して問いかけた悟浄に、八戒は静かな声でこう言った。
「ああ……。すみません、多分それ、全部……僕です」
「…………あ? 何だって?」
「すみません」
「イヤすみませんってお前ソレ……マジで?」
「ええ…………多分、ですが」
「いったい……」
何が理由なのか。何が……きっかけなのか。
八戒がバランスを崩すのは雨の日だけかと思っていたが、どうやらそれは間違いらしい。
困惑したままの悟浄は言葉を探しあぐねている。
そんな悟浄を目にして、八戒は、恥じ入るような声で、言った。
「……すみません。誕生日だったんです、昨日」
それを聞いた瞬間、悟浄は納得したのだ。
全て、ではもちろんなかったが、八戒が昨夜壊れた原因を理解した。
おそらく昨日は、八戒──いや、“悟能”か花喃、どちらかの誕生日だったのだろう。そうして、花喃の誕生日だったなら、彼女の誕生日を祝えないのに自分だけが在ることに、自分の誕生日ならば自分ひとりが年を重ねることに、八戒は違和感と、これは推測だが憎悪すら、覚えたのではないだろうか。
だから昨夜八戒が壊したものは全て“姿の映るもの”で。
壊したかったのはそうした“もの”ではなく、“そこに映る自分”だったのではないか、と。
今の八戒にとって誕生日とはそういうものではないだろうか。
誕生日が必ずしも嬉しく楽しい日ではないと、悟浄は身をもって知っている。
だから悟浄は独り言のようにこう返した。
「……ああ。ナルホド」
その音を拾い上げた八戒は、最初、驚いて、それからほっとしたような、それでいて泣き出す寸前の子供のようにも見える、とても無防備な顔をした。
あの時──あの八戒の表情を見た時、悟浄は思ったのだ。
自分と同じように、八戒も、「誕生日おめでとう」を素直には受け取れないのだと。
後に花喃がただの“姉”ではなく“双児の姉”だと知ってからは、ますますそう思うようになった。
八戒にとって誕生日は、己と花喃の年齢の隔たりがまたひとつ広がる日だ。
「おめでとう」と言われても単純に喜ぶことなどきっと出来ない。
誕生日というものに対して、種類は違うが似たような痛みを覚える悟浄には、それはとても納得出来ることだった。
それでも、だ。
それでも悟浄は思ってしまった。
いつか、八戒が、自分の誕生日を嬉しいと思える日が来ればいいと。
花喃との別離は癒えない傷でも、生まれなければ花喃との日々はなかったのだから。
この日花喃と悟能が生まれたから、その日々があり、今があるから。
だから悟浄は決めたのだ。
毎年9月21日には、八戒と、花喃と悟能3人に、『誕生日を迎えたこと』ではなく『生まれたこと』に、おめでとうとありがとうを伝えようと。
今年も、その日が来る。
ついさっき日付けが変わったから、もう9月21日になっている。
3つ並べたグラスをチリンと鳴らして
「誕生日おめっとさん」
囁くと、
「ありがとうございます」
答えて八戒がふわりと微笑う。
けれどこれは多分まだ、“3人を代表して”の笑みだから。
「……八戒?」
語尾を上げて呼び掛けると、八戒は言葉は返さないまま問いかけるような視線だけを悟浄に向けた。
──無愛想にも見える八戒のこのしぐさは、本当に気を許した相手の前でしか見せない類いのものだ。
「……なんです?」
その表情のまま少し間を置いて返事をするのも同様。
嵐の夜に血まみれで拾った碧の瞳の綺麗なイキモノは、こんなにも近しい“家族”になった。
悟浄の笑みが深くなる。
今ならもう大丈夫だ。
「……誕生日オメデト。八戒」
チリン。
グラスを鳴らして囁くと、
「……ありがとうございます。悟浄」
応えた八戒が、少しだけ俯いて、柔らかなやわらかな笑みを浮かべた。
9月21日には、八戒と花喃と悟能の3人に『誕生日おめでとう』を。
これは、毎年繰り返される彼等の儀式。
|